自分を発見した男 A Resumed Identity ビアス・アンブローズ Bierce Ambrose 妹尾アキ夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)見※[#判読不可、5-34]のです ------------------------------------------------------- [#8字下げ]一[#「一」は中見出し]  ある夏の夜、一人の男が低い丘に立つて、森や野の拡がりを眺めていた。西の空に低くかかつている満月の位置をみて、彼は当然そうであるべきこと、すなわち、その時刻が暁近いことを知つた。景色の一部には、低迷する薄い霧におおわれて見えないが、その霧の上には、くつきり巨木が頭を突き出して、あざやかな姿を見せていた。霧に包まれた二三の農家が見えるが、むろんそこから明りは漏れていない。生のいとなみを暗示するものは、犬の遠吠えよりほかになにもなかつたが、その機械的に繰返される遠吠も、この景色の淋しさを払いのけるどころか、淋しさをいつそう深いものにするだけだつた。  物珍しげに立つて、ぐるりを見まわす彼の態度には、親しみのある景色を見ながら、それがどこであるかと云うことも、自分の使命がなんであるかと云うことも、知らぬ人のようなところがあつた。死人がよみがえつて、裁きを待つ時には、ちようどこんな態度をとるであろう。  百ヤードほど向うに、まつすぐな道路があつて、それが月に照されて白く見えた。  測量師や航海士の言葉をかりて云えば、彼はそちらに方向を転換するため、静かに目のとどくかぎり、その白い道路に視線を走らせた。すると、霧ではつきりとは見えないが、丘の南、四分の一マイルばかりのところを、灰色のひとむれの馬にのつた人たちが、北へむかつて進むのがみとめられた。そのあとから、列を作つた歩兵が、肩にかついだ小銃をかすかに月光に光らせて、黙々とゆるやかに行進する。そのつぎにまた騎馬のひとむれ、また歩兵の縦隊、また、また――それらがみな休みない行進をつづけ、彼の視野にはいり、また北へ消えて行く。つぎに現われたのは砲兵隊。大砲の前の車や弾薬車に乗つた砲手は、みな両腕を組んで坐つている。南から現れ北へ消えていくこの無限につづく長い行列は、声もださなければ、蹄の音もたてず、車輪の音もたてなかつた。  その意味が彼には分らなかつた。自分はつんぼだと彼は思つた。そして思つた通りのことを、口に出して云つたら、その声が聞えはしたが、自分ながらびつくりするほど親しみのない声で、音色や響きが耳の期待をうらぎり、彼を失望させた。だが彼はつんぼではなかつた。そして今はそれだけ云つとけば足りる。  それから、彼はある人が「聴覚の影」と名づけた自然現象のあることを思いだした。この聴覚の影に立つなら、ある方向から来る物音が聞えないというのである。南北戦争の激しい戦鬪のおこなわれたゲインズミルでは、百門の大砲がとどろいたはずであるのに、僅か一マイル半離れた、チカホミニー河の対岸から、戦鬪を見物していた人たちは、なにも聞かなかつたと云つている。ポートロヤルの砲撃では、南百五十マイルのセントオーガスチンの人々が、それを耳に聞き皮膚に感じたにかかわらず、僅か北二マイルの無風地帯に立つ人は、全然それを知らなかつた。アポマトクス陥落の数日前、シェリダンとピケットの軍は、百雷の轟く音を立てたが、一マイル後方のピケットは、その音をすこしも聞かなかつた。  そんな先例を彼は知らなかつた。しかし、そんな仰山な出来事でなくても、不審に思うだけの感覚を持つている彼は、はげしい不安に襲われた。彼が不安に襲われたのは、月光に照された行列の不思議な静寂、すなわち、音が聞えないということよりも、もつとちがつた事柄だつた。 「おやおや! これがおれの観察通り、わが軍であるとすれば、わが軍は戦いに破れて、ナシュヴィルに後退しているのだ!」そう彼は口に出して呟いたが、それがまた、他人が自分の考えを喋つているように耳に響いた。  それから彼は自分のことを考え、そして心配し、わが身についてのはげしい懸念、恐怖のようなものを感じた。いそいで木蔭に身をかくした。静かな軍隊は、まだ霧のなかをゆるやかに行進している。  だしぬけに頸の後に、ぞつとするほどの微風が吹いてきたので、その風の来たほうをふりむくと、ほのかに東の地平線が、灰色に白みがかつている――夜明けである。この、夜明けということが、彼の不安をいつそう大きくした。 「ここにぐずぐずしてはいられない。見つけられたら捕えられる」そう彼は考えた。  木蔭を出て、足ばやに白みがかつた東へむけて歩きだした。  安全な杉の木立の蔭までくると、後を振りむいてみた。軍隊の行進は止んでもう見えなかつた。月に照された、一直線の白い道には、なにも見えなかつた。  最初兵隊を見た時には慌てたが、今度は云いようのない驚きを感じた。あれほどゆるやかだつた行進が、こんなに早く終ろうとは! そのわけが分らなかつた。一分一分と知らぬまに時間がたつた。彼は時間の観念を失つていた。いつしようけんめい、不思議な出来事の祕密を解こうとしたが解けなかつた。しばらくして瞑想からさめて、東を見ると小山の向うに太陽の端がのぞいていた。昼の光がさしても、彼の心に明りがさしはしなかつた。彼の心はいつまでたつても暗い疑惑にとざされていた。  どちらをむいても、開墾された畑ばかりで、戦争に荒された形跡はなかつた。農家の煙突から立ち昇る細い青い煙は、平和なその日の労働の準備ができていることを知らせ、太古からの伝統をまもつて、月に咆哮していた番犬も、朝がくると、数頭の騾馬に鋤をひかせて、土をたがやす黒人といつしよに歩きまわる。この話の主人公は、生れてからこんな田園風景を、まだ一度も見たことがないような顔で、しばらくぼんやり眺めていたが、そのうちふと片手を頭にもつていつて髪をなで、それからその手の平をじつと見つめる――奇妙な動作ではある。その動作の結果に満足したもののように、彼は自信ある足どりで、道路のほうへ歩いていつた。 [#8字下げ]二[#「二」は中見出し]  マーフリスバローの医者ステイリング・モルスンは、六、七マイル離れた、ナシュヴィル道路沿いの患者を往診して、その夜は一晩中患者の世話をし、夜が明けると、その当時のその地方の風習にしたがつて馬に乗つて帰りかけた。戦争のあつたストーン河の近くにさしかかると、路傍から一人の男が出てきて、右手を帽子のひさしに触れるという、軍隊式の敬礼をした。それでいて、その男の帽子や服は、軍隊のものでなく、態度だつて軍人らしいところはなかつた。医者は、なるほど、この人はここが古戦場なので、その由来を尊重して、こんな挨拶のしかたをするのだなと思いながら、軍隊式でない会釈をかえした。そして、その見知らぬ男の態度に、話をしたがつている様子が見えたので、手綱をひつぱつて待つた。 「あなたは軍人じやないようですが、しかしやはり敵がたなんでしよう?」見知らぬ男はきいた。 「私は医者です」当りさわりのない返事をした。 「ありがとう。私はヘーズン将軍の幕僚の中尉です」その男はしばらく馬上の人を見ていたが、「北軍です」とつけくわえた。  医者は黙つてうなずいただけだつた。 「ここでどんなことがあつたか、話していただけますか? 兵隊はどつちへ行つたのです? 勝つたのはどちらです?」  医者は目を細くして、いぶかしげに質問者をみた。そして、失礼にならぬ程度に返事をおくらせ、医学上の立場から、相手を観察したあとで、「失礼ですが、人にものをたずねる人は、人からたずねられても、よく答えなくちやならんと思うんです。あなた負傷したんですか?」にこにこ笑いながらきいた。 「たいしたことはないらしいんです」  彼はかぶつていた地方人の帽子をとり、手で髪の毛をなでたあとで、じつとその手の平を見つめた。 「弾丸にうたれて、意識を失つたのです。でも、ごく軽いかすり傷だつたのでしよう。痛くもないし、血も出ない。ですから、あなたの手当ては受けなくていいのです。ただ、お願いですから、味方のところへつれて行つてください。――北軍だつたら、どこでもいいんですよ――知つていらつしやるところで結構です」  また医者はすぐには答えなかつた。医学書に記録されている数々の例を、彼は頭のなかで模索した――意識を失つて自分が誰だか分らなくなり、親しみのある場所へつれて行かれて[#「つれて行かれて」は底本では「つれ行かれて」]、初めて意識を取り戻した例。しばらくすると、その男を見ながらにこにこ笑い、 「中尉さん、あなたは中尉の軍服をきていませんね――」  そう云われると、彼は下へむいて、自分の着ている地方人の服をみ、顔を起して、ためらいがちに、 「そうですな。これは――私にも分らん」  鋭い、けれど同情のこもつた目で、科学の人はその男を見ていたが、 「あなたはいくつ?」と、だしぬけにきいた。 「二十三――年のことなんか、どうだつていいんですけれど」 「二十三とは見えんですな。顔を見たところで判断すると、そうは思えん」  その男はじれつたそうに、「そんなことは、どうだつていいんです。部隊のことを知りたいのです。まだ二時間とたたぬうち、長い部隊が、この道路を北へ行つたのを見たのです。あなたも見たでしよう。私のところからは、よく見えなかつたのですが、あの兵隊はどんな色の服を着ていました? それだけ教えてください。それだけでいいんです」 「ほんとに軍隊が通るのを見たのですか?」 「ほんとどころか、一人一人数えられるほどはつきり見※[#判読不可、5-34]のです」 「それは、どうも」医者はアラビアン・ナイトのお喋りの床屋になつたようで、なんともおかしかつた。「それは不思議だ。私はそんなものは見なかつた」  その男は冷淡な目で医者をみた。彼自身が床屋を見ているような目つきだつた。「わかつた。あなたは教えてやるという気がないんだ。どうとでもご勝手に!」  その男は体のむきをかえ、あてどもなく露にぬれた野を、とぼとぼ歩きだした。医者は相手に失望をあたえたのを悔いながら、静かに鞍にまたがつたままの姿勢で、並木の蔭に消えていく、その男の後姿を、見えなくなるまで見送つた。 [#8字下げ]三[#「三」は中見出し]  道路をはなれたその男は、歩度をゆるめ、どこへ行くという目的もない歩きぶりで、ひどく疲労していた。疲労している理由は自分でも分らなかつた。田舎医者の話をきいたのが原因のようにも思われた。  とある大きな石に彼は腰をおろした。そして片手を掌をしたにして膝においた。なにげなくその手に目を落した。痩せてしなびた手だつた。つぎに彼は両手で顔をなでてみた。溝のような深い皺がたくさん指にふれた。不思議だ!――ただ弾丸にうたれて、ちよつと意識を失つただけで、こんなに体が衰えるものだろうか。 「ずいぶん長い間、おれは病院にいたらしい」と、口にだして彼は呟いた。「おれはなんという馬鹿だ! 戦鬪は十二月だつたが、いまは夏じやないか!」笑つて、「いまの奴、このおれを、精神病院から抜けだした男のように思つていたらしいが、無理はないわい。しかし精神病院という観察はまちがつている。おれは普通の病院を抜け出したのだ」  むこうに石の囲いをした、狭い土地があるのが目についた。なにげなく立ちあがつて、彼はそのほうへ歩いていつた。囲いのなかに石造の記念碑が立つているが、その石は変色し、風化のために角がとれて、苔や地衣におおわれていた。大きな石と石との隙間には草がはえ、その草の根が梃の役目をして、いつそう割目を大きくしていた。大がかりな建造物に挑戦するように、容赦なく「時」は破壊の手をさしのべていた。やがてはこの石碑もニネベヤタイアの遺跡と同じものになるであろう。その石の表に、彼は親しみのある文字を見たので、石のかこいから体をのりださせ、興奮に震えながらそれを読んだ。 [#ここから2字下げ] 戦歿した英霊を記念して 千八百六十二年十二月三十一日 ストーン河の激戦 ヘーズン部隊 [#ここで字下げ終わり]  石の囲いにもたれていた彼は、喪心したように後に倒れた。すぐそばの、手のとどきそうなところに、土の窪みがあつた。そこに雨がふつて、水溜りができていた。きれいに澄んだ水溜り。飲んで元気をつけようと、彼はそこににじりより、震える両腕を地について、上体をささえて覗きこんだ。そこに鏡に映つたような、鮮やかな自分の顔を、はつきりと彼は見た。恐ろしい悲鳴が唇をもれた。そして、ぐつたりと両腕の力がぬけて、崩れるようにうつぶせに水溜りに顔をつつこんで、彼は第二の生命をうしなつた。 底本:「宝石四月号」岩谷書店    1956(昭和31)年4月10日 ※底本は新字新かなづかいです。なお拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。