一葉女史 半井桃水 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 ※[#ここから1字下げ] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)しづ/\と *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  私が樋口夏子さんと相識つたのは、慥か明治二十三年頃であつたと思ひます、当時私は二人の弟と一人の妹と、外に二人の書生と下女と都合七人の家族を成して、芝南佐久間町の貸家に住んで居りました。妹は築地の高等女学校に通学をしましたが、其の同級のお友達で平素親しく交はりました野々宮さんと言う方が今は庄司菊子と申されます――或日私の宅に参つて、自分のお友達に可愛いさうな方があります、此方では皆さんが学校へお通ひになつて、随分洗濯物なぞも溜まるやうにお見受します、何せ外へお頼みになるなら、其の方にさせて頂く事はなるまいかと言れました、夫は結構早速お願ひしたいと言て洗濯物や縫物をどしどしお頼みしましたのが、即ち樋口夏子さんで、大きな風呂敷包を抱へ、其の頃の住居本郷菊坂町と芝との間を三四度も往つたり来たりされた末、一度是非私に逢ひたいといふ事を妹まで申込まれ、妹はその通り私に執次ぎました。  或日曜の午後社も学校も休なので家内中打揃つて菓子を喰ひ茶を飲み、頗る賑かであつた時、遠慮がちな低声で誰やら音訪ふ者がありました、執次に出た妹に伴はれて玄関から、しづ/\と上つて来たのが、樋口夏子さん、恰ど時候も今頃で袷を着て居られましたが縞がらと言ひ色合と言ひ、非常に年寄めいて帯も夫に適当た好み、頭の銀杏返しも余り濃くない地毛ばかりで、小さく根下りに結つた上、飾といふものが更にないから大層淋しく見ました、孰らかと言へば低い身であるのに少し背をかゞめ、色艶の好くない顔に出来るだけの愛嬌を作つて、静粛に進み入り、三指で畏つてろく/\顔も上ず、肩で二つ三つ呼吸をして低音ながら明晰した言葉使い、慇懃な挨拶も勿論遊ばせ尽し、昔の御殿女中がお使者に来たやうな有様で、万に一つも生意気と思はれますまいか、何うしたら女らしく見るかと、夫のみ心を砕かれるやうでありました、私を始め弟妹も、殆んど口を酢ツぱくして、坐蒲団を勧めたが、とう/\夫も敷ず仕舞、二時間ばかり対話した為不行儀な我々は膝も足も折さうに覚えました、是程苦しい思をして、二時間も対坐しながら、用談らしい用談もなく立帰つた夏子さんは、数日の後野々宮女史を介して私に申込まれた、自分は小説を書て見たい、是非書かしてくれいといつて四五日の後夏子さんは、仕立ものゝ残を持て、私の宅へ参られました、私は親しく面会て、貴嬢のお望は野々宮さんから委細承知致しましたが、私は不賛成、男子ですら小説なぞを書く時は、さも/\道楽者のやうに世間から思はれる、況んや御婦人の身で種々の批難を受けるのは随分苦しい事であらう、且つ貴嬢の体質も余り強い方とは認めぬ、願はくは他の方面に、職業をお求めなさいと、言葉を尽して諫めましたが、何分針仕事位では母と妹を充分に養う事も出来ぬ、如何なる批評も甘受するから、是非といふ事でありました。左程までのお望ならば、先づ試みにお書なさい、其の上で紅葉さん外諸大家にもお紹介しませう、但しお互ひ独身であれば世間の疑惑を避ける為成るべく手紙で済む事は手紙で言てお寄しなさいと申述て置きました。  十日余経て短篇小説を持参されましたが、誠に見事な筆跡で色紙短冊に出たらばと思ふものが、十行の罫紙の中にさら/\と認められて、文章も結構でしたが少し結構過て、新聞や雑誌には如何かと思はれました、其の上趣向が宜しくないので、私は私たけの考へを述ました、夏子さんは大層喜んで、更に一週間ばかりの後、書直して来られたのが「闇桜」と題し武蔵野の第一号に記載致した小説であります  此の後は大橋、乙羽氏其の外にも頼入れて、絶ず小説を書れる事に致しましたが、趣向に付ては大方一々相談を受ました。私は夏子さんの一葉女史に向つて「私は貴嬢を女と見做して交はりしません、貴嬢も私を男とは思つて下さらんやうに願ひたい、さもなければ何事にせよお互ひに遠慮があつてお話も出来かねる」と畑島桃蹊小田果園の面前で約束しました。然るに遠慮がちの女史は何処までも三指の遊ばせ尽し、趣向に付ての相談も、一度び間に合た事は恐らくなかつたと申して宜しい。  或冬の事でありました、武蔵野の編輯に夜を徹して朝九時頃から眠りますと、忽ち大雪が降出して、午後の二時には凡そ四五寸も積りました、疲れ果して眠て居ながら、不図微かな咳嗽の声に目を覚し、次の間の襖を開けば、火の気もない玄関に、女史が端然と坐つて居られた、何時お出になつたと問へば、十時過に上りましたが、好く御寝なつて居らつしやるので、お待申して居りました、実は少々伺ひたい事があつてと言れて、時計を見れば既に二時過。女史は殆んど三四時間、寒たい玄関に待たれたのである、慌しく坐敷に請じて、扨来意を問ふた処、女史は屡言よどんだ末「何だか可笑くて申出しかねますから今日は此の儘お告別致しませう」と言て雪の小降になつた頃、菊坂に帰られた、一切不得要領だ。  其の翌日手紙を送り、昨日何ひに出た事は外でもない、今度開進新聞に書けとあつて、趣向をお示し下された内心中をする事がある、全体情死をする心持は何なものであらうか、夫を聞たいといふ難問、私とても情死の経験はないから、何ういふ心持であるか、夫をお答へする事は出来ぬ、唯斯んな人間が斯うした義理に迫つたなら、如何さま死ぬ気になるであらうと、読者に思はせれば好いのである、近松でも馬琴でも豈夫情死の経験はなかた筈と答へました。  此の小説は五月闇と題して、女史の著作中最も対話の多いもの、始め十回程書かれるまでは、何分女の言葉が荒ツぽいので、或時私は斯いふ話を致しました「貴嬢一度三崎座へ行て女優の演劇を御覧なさい、男形は存外旨いが、女形は男優の演る程何もやさしく行きません、是は畢竟自分が女仕種でも台語でも多少自分を標準とする為、荒ツぽくなりたがります、女流作家も其の通り、自分の平生用ふる言葉を全然使へば女であると気を許す処から、女の言葉が荒くなる、口では巧みに言廻して、さほど耳立ぬ辞でも、書いて見れば優しくない」と言ひました処夫から後は女の言葉に始終意を用ひられて、是では何か彼では何かと絶えず相談されました。  紅葉山人を始め諸大家に紹介する事は予じめ承諾も得て置きましたが、女史より手紙をもつて、左の通り申遣はされたので、その儘になりました。 [#ここから1字下げ] 梅雨のならひなめれど兎角に晴間のすくなき頃にて御籠居のおんつれ/″\さこそと推はかり参らせ候扨とや此の程より御心切に仰いたゞき候ひし尾崎様其の外御目通のこと実は少し事情御座候て唯今の処御男子との御交際は願ひ難き折からゆゑ折角の御心入れに背き候こと不本意ながら悪からず御酌取り畑島さまへの御詫一重に願上候参上可申上ながら夫も心にまかせず先は右まであら/\かしこ [#ここで字下げ終わり]  畑島さまへとあるは桃蹊子が女史の為尾崎氏其の他へ駆廻つた為であります。此の手紙は女史の死後紅葉山人へ贈りました処大変に喜ばれました。  女史は此の時分から種々なる圧迫を受け特に婦人の身に取り最も迷惑な疑ひを招いて狭い胸を苦しめました、其の頃私の世話して居つた親類の書生が脚気に罹りました為鎌倉に転地をさせ、私も看護として一月余り出掛ましたが、或日斎藤緑雨氏から妙な手紙が達しました、まだお目には懸りませんが御同行の一葉女史に宜しくといふ書添、また例の皮肉屋かと打捨て置きましたが、帰京の後真面目な人から、其様噂のある事を注意されましたので、半歳も逢たことのない一葉女史に一応申してやりました、其の返事は左の通り。 [#ここから1字下げ] 此ほどは鎌倉へ御旅行とか伺ひ候もし御病気にてはなきやと御案じ申し候ひぬ御様子伺ひたしと存居り候ひしかど憚る所なきにしもあらで心ならずも日を送り申候処今日しも珍らしきおん玉章久々にておん目もじせし心地うれしきにも又お恨のお詞がうらめしく候私愚鈍の身人様を知るなどゝ申すことかけても及ばねど師の君なり兄君なりと思ふお前様のこと誰人が何と申伝へ候とも夫を誠と聞く道理もなくもとより拵らへごとゝは存じ候ゆゑ別して御耳にも入れざりしに候我さへ知らぬ事を知る世の中聞かぬことを聞くと申す仰さして怪しきことにもある間敷御捨置遊ばし候ても消る時にはきえ候はんかしかく計らぬ事よりおん目通りの叶はぬ様になりしも已むを得ぬことゝ私はあきらめ居今更人の口に戸も立られず唯身一ツを謹み申居候さりながら其源は何方にもあらむ皆私より起りしにて此一事のみならず隙あれかし落しいれんの陥穽設けられし身いかにのがれ候とも何の罪かきせられずにも居る間敷と悲しき決心をきはめ居候唯々お前様の御親切を仇にして御名前を汚し候こと何よりも心苦しくつらきは是のみに候ひき申上度いこと多けれどさのみはとておん返しばかりをあなかしこ [#ここから2字下げ] 折しもあれ初秋風のわたりそめたるに虫の音の時知り顔なるなど月にも闇にも夜こそ物はおもはれ候へ露けき秋とはつね/″\申ふるせし詞ながら袖の上におくけふ此頃は誠にしかとは思ひしられ候何事を申合する人もなき様に覚えて世の中の心細さ限りなく私こそ長かるまじき命と存じられ候先頃より脳病にて自宅に帰り居候を又さる人のあしさまに言なすとかとにもかくにも誠うき世はいやに御座候 [#地から3字上げ]なつ子 [#2字下げ]兄上様 [#ここで字下げ終わり]  女史が苦しめられた事実及び其の原因も多少知らんではありませんが、今更夫を発表するのは女史の本意に戻りますから何事も記しません、唯女史の短生涯が苦痛に始り苦痛に終つたと言ふ事と今に至るまで女史を誤解する人がないに限らんと存じますから右の書翰を発表して女史の為に覚を雪ぐのは無用でないかと考へます。  女史は博く覧洽く聞て、普通の婦人の知らぬ事まで能く注意して居られました、夫ゆゑ女史の作物を見て「此奴[#「見て「此奴」はママ]ただものでないといふ考へを起した人もあつたやうです、併し私の見た女史は普通よりも物優しい憫れツぽい謹慎の深い、恥かしがりやの苦労性で、到底恋愛といふやうな事を思立つ程の余裕もなく、孰らかと言へば偏屈な年に比べは四五十も心の老た婦人でありました。  故斎藤緑雨氏の如きも始め私の話を聞て「夫は貴君の処だけで殊勝げに見せ掛けるのだ僕一番近寄て化の皮をむいてくれる」と大層力んで居りましたが、女史と親しく交はつた後「全く貴君の言た通り僕の観察は誤つた」と話された事があります。  私が一葉女史其の人に付て知た事信じた事は以上述た通りであります。[#地付き]『中央公論』四十年六月号 底本:「《復録》日本大雑誌 明治編」流動出版株式会社    1979(昭和54)年12月10日改装初版 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。