評論の道徳性 梅原眞隆 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)十二月八日|※[#判読不可、30-16] [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)十二月八日|※[#判読不可、30-16] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)それ/"\の -------------------------------------------------------  文藝春秋に隨筆をかく約束をして何か書かうとしてゐるところへ、はしなくも十二月號の文藝春秋をみた、「流行僧評論」をよんで、その出鱈目な妄評に一驚を喫した。同時に、新聞雜誌等にいろいろ取沙汰されるものゝ感想を開陳することも、人生の一斷層を考察する手がゝりにもなるでもあらうし、尚ほ雜誌の道徳性といふことについて考へさせられるので、同感の士もあれば、いさゝか相談してみたい氣持になつて、これを書いてみる。 「流行僧評論」において他の同志についても氣の毒なことにおもふが、それは、それ/"\の方々に任せて、試みに私に關する部分を檢討すると全く虚構と邪推でかためてある。  私が龍谷大學を去つたことは本願寺派と分れたことでない、本願寺派の僧侶として本願寺派の教團に働くことは正しい行動と信ずる。且つ本願寺派の重役と親交のあることも正しい道徳的行動である。龍谷大學の師友とも事件後は前と同じ道交をもつてゐるわけである。然るを本願寺派の重役と不純な妥協でもして同志を裏切つてゐるやうに邪推してゐるのはおどろいたことである、私は曾て同志の一人をも裏切つたことはない、また將來もかゝることをしない。  顯眞學苑は同志と共に計畫するところのものである。これは龍大を去ると同時につくつたものである。然るにこれを本山重役と不純な妥協した結果のやうに誣ゐ、外遊後につくつたやうにいふは全く虚構である。  且つ、本山の金で外遊したといふも虚構である。私は昨冬から今春にかけて米布を歴訪した。それは米布の教團から招かれて行つたのである、(尚ほ若し本願寺派の私が本願寺派の金で外遊する場合があつても、それは不當なことでない、しかし、今回はそうでなかつた)  波草阿闍利なる筆者が匿名の下にかゝる虚構によつて他人を非難するのは何と考へても不道徳である。また、かゝる怪しからぬ虚構によつて非難される私は迷惑である。そして、世間にはこれに類したことで迷惑を蒙つてゐる人々も少くないとおもふ。そして、その大多數は不快と迷惑を忍びつゝ默殺してゐるのであらう。私も從來かゝる問題についてはすべて默忍してきたのである。  しかも、文藝春秋の風格と權威を信任し尊敬する故に、こゝにこれを開陳してみる氣持になつたのである。  無邪氣にかんがへても、かゝる惡性な虚構をとばして人をきづゝけることは罪ふかき業である。そこで、すこしづゝでもかゝる罪ふかき業を取除るやうに工夫したいものである。人生を明朗にするために評論に道徳的緊張を加へたいと希ふ、不當な方法で名譽をきづつけられる場合は、法律によつてまもればよいとも云へやう、しかし、冷たい法律的制限を加へるまへに、教養ある人々のことであるから、まづ道徳性を緊張したいとおもふのである。  さて、それではどうすればよいか、苟且にも他人の名譽をきづゝけるおそれある文字は、これを公表するまへに、少くとも入念にその事實の有無をしらべてみて斟酌する必要がなからうか、また、かかる傾向をもつ評論家に對して言論界において然るべき制限を加へる必要がないであらうか。  さらに、言論界にかゝる道徳的明朗をたもつ丈けの批判と統制を保ちうる機構をつくつて行くことができれば頗る頼母しいとおもふ。 底本:「文藝春秋 新年特別號」文藝春秋社    1935(昭和10)年1月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。