宝石の中の殺人 坪田宏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)歓《よろこ》びを [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#6字下げ](A)[#「(A)」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#6字下げ](A)[#「(A)」は中見出し]  私は酒好きではない。私自身あの液体を体に流し込んで、骨の髄までとろけるような酔いに身も心も任せて伸びてしまう程、屈託が無いせいでもあったし、私の体質そのものが合わなかったせいもある。併し、それでいて時には、ほろっと酔ってみたい誘惑を感ずる事はある。  恰度その夜も、急にその誘惑を感じた。長い雨が続いた秋の夜の事である。時間は既に十一時を少し廻っていたが、私はあのほろ酔い気分で、雨にぬれ沈んだ町の深夜を、あてどもなく足に任せて歩き廻ったら、どんなに愉快だろうと考えたのである。  深夜の町――そこには私の夢の世界があったのである。たとえば、昼間のいかめしい大通りも、ひと度夜に暗転すると又趣の変った情景を醸し出す。豪華な夢はなくとも、私には私なりの冒険があろうと云うものである。  馬鹿気た事と云えばそれ迄だが、久々で訳の判らぬ好奇心の炎を自分自身で掻き立てるように家を出たのである。行きつけの飲屋があるわけではないが、二、三度友達と行った事のある、気の利いた屋台店を目当てに足を向けたのである。  目的の場所に軒を並べている屋台も、続いた雨で歯の抜けたように淋しかった。併し目指す店はいつもの処に構えていて、私は先ず呑助のような歓《よろこ》びを覚えたのである。  暖簾《のれん》を分けると、長い床几《しょうぎ》に客は一人もいなかった。向う鉢巻の親爺が「いらっしゃい」と、歯ぎれの好い関東弁で迎えて呉れた。私は「おさけ」と注文した。  コップの縁に盛り上って満たされた酒は、下戸の私でも判る程甘口で口あたりの好い奴ではあったが、難を云えば少し薄い。酒の薄口と云うのは、有るのか無いのか、私には判らなかったが、早く酔いの廻る私には、むしろこの方が時間的に長く愉しめて好いくらいのものである。黙って飲むのは酒呑らしくないと思って、 「淋しい夜だね」 「全く。この霖雨じゃ、お客さんの足も鈍りますよ」  親爺は器用に包丁を使って、通しものの魚をつくりながら答えた。  やがて、私の身内にほのぼのとした酔いが湧き上って来た。その時ジープが、きゅーん――と水しぶきを撥ね、明るいライトで私の足許を洗い出すように走り去った。私はその時、自分の足許の、舗道の木煉瓦を見た。市松模様に畳まれたそれは、直ぐ暗くなったが、ふと、その上の床几に腰を下している自分の姿を考えたのである。それは、周囲にこの屋台があるから別に不思議ではないが、昼間、何千人と通るこの舗道で、こうして床几を置いて、それに腰を下して酒を飲んでいたとしたら、人は、私を何と見るだろう? すると、僅かなこのテント張りの屋台がそれをおかしくないものにしている……すると、たったそれだけの天地にさえ昼と夜との不思議な差がある訳だ。併しこの屋台も、夜の明け切らぬ前には、もうここから忽然と姿を消して、何千人の人の往来になってしまう。考えて見るとそれは昔噺に聞いた狸御殿のようでもある。(これは面白い現象だ)私は左程酔ってもいないのに、早くもそんなとりとめのない空想を逞しくしたのだった。  我に返ると、目の前のコップには、二杯目のお代りしたのが未だ半分も残っていた。  そろそろこの元気で暗夜の町へ放浪に出ようと考えている時、一人の男がものも云わずに暖簾を押し分けて入って来ると、よろよろと床几に腰を下し、 「酒」と云った。まるで、先客の私など眼中にないもののようだった。男はひと息にコップをあけ、かたんと台の上に置くと、 「おかわり」と呟いた。そして、大きく深く肩に溜息の波をうたせた。小兵でがっちりした体である。垢染みた、濃い緑色の背広を着、膝の伸びた縞のズボンをはいていた。ネクタイの無いワイシャツは糊気がなく、襟に貝殻の前ボタンが下っていた。目鼻だちは整っているが、色が赤銅色で、どうしたのか、髪が水を潜《くぐ》って来たように濡れて、櫛目もなく、少しよじれ合って針金の感じがする。  きゅっと結んだ口許に二杯目のコップを持ってゆき、始めてその男は私の方を見た。私はそうした場合、よく人がするように、この飲み仲間に挨拶のつもりで、にっと笑って見せた。果して、男もそれにつられて目許が笑いかけたが、警戒するようにそれを途中で引っ込め、ぐっとコップを傾けた。 「おかわり」と、三杯目を要求した。私は自分の前に置いた「ひかり」の箱をとって、「いかがです……」と、その男にすすめた。男は、私の顔を暫くみつめてから「ありが……とう」と、澱んだ返事をして、それを一本抜き出した。私は、ライターを摺ってやった。男は、うまそうに一息深く吸い込むと、大きな肺活量で永く永く煙を吹いた。私はこれで、もうこの男と自由に話し合える垣根がとれたと思った。  案の定私のきっかけで、その男は矢鱈にとり止めのない事を喋りだした。勿論酔っているのではないし、格別愉快気に話すのでもない。何だか、そうしなければ落着かないように、機械的に喋っているかのようだった。そんな事で、私は御輿《みこし》を上げる時機を失い、必要以上の、三杯目のコップに酒を満たしたまま、自分の前に飾っていたのである。 「お客さん。通しものはありませんか……勝手ですが火を落そうと思うんで……」 「おや。もうそんな時間ですかね」  私は腕時計を見た。なる程、針は午前一時近くを差していた。  二人は間もなくそこを出た。私は、この男をどうしたものか――と考えながら、結果自分だけの、予定した行動をとろうと思った。併しその男は、急に口数少なく私と肩を並べてきた。私は別にそれを迷惑とは思わなかったが、念の為に訊ねてみた。 「お帰りですか?」 「そうですね……別に帰る処もありません」 「と、おっしゃると?」 「いや。これからどこへ行こうかと考えているのです」 「……」 「変な事を云うと、思われるでしょうね」 「……」  私は判断に迷って返事をしなかった。 「私の行くところは、一カ所しかないようです……否、二カ所……ですかな」 「どこですか?」 「牢獄か……でなければ、自殺です」 「ええ?」  私は思わず立ち止った。靴が、舗道の水溜りを跨ぎそこねた程驚いて……そして、何とはなしに来た道を振り返ってみた。屋台の灯は一つも見えなかったし、遠い闇で唯一つのネオンが浮き上って見え、今しがた潜って来た鈴蘭灯のトンネルもかなり後ろだった。そして、それを遮る人影一つ無い事が、一瞬私に云いようのない淋しさを感じさせた。  私は、ふと、今夜の目的を思い浮かべ、もしかするとこの男は私の心の内を読心術で読みとって、怪し気な雰囲気の中に私を引き摺り込もうとするのではないか知ら……と考えた。それならば、たとえこの男が狐狸《こり》妖怪の類いであっても好い、ひとつそのあやかしに引っ込まれてみよう――との好奇心が擡頭した。 「私の云う事が、突拍子もなくて、驚いていますね」  男は、瞳に幾つも映る灯影をまたたきもせず私をみつめ、一寸笑ったようだった。 「いや、冗談でも云って居られるかと思いましてね。ははは」  私は作り笑いで胡麻化して、又歩き出した。そして、 「さっきの話……どう云う意味ですかね?」 「実は、人を殺してきたのです。然も、私の最愛の女房を……」 「えッ」  又しても私の足はそこへ釘着けになった。 「ほんとう……ですか?」 「全くです……真実です」  とすれば、それは容易ならん事である。その男も、私の二、三歩前で立ち止って星空を見上げると、 「久し振りで、好い天気になりましたね……私は幾日ぶりでこのうまい空気を吸った事でしょう……清々しいものが、私の体の末端迄行き亘るように心持が好いです。この話を、あなたに是非聞いて貰う……その決心が、こんなに私の気分を軽々としたものにしたのかも知れません」  と、本当に愉しそうだった。事実男には屋台店を出てからの暗さと云うものは、微塵も見られなかったのである。 「あなたは、聞いて呉れますか?」 「ええ。聞かせて下さい。是非聞きます」  私はその返事と一緒に歩き出した。男も亦私と肩を並べて歩き出した。 「私には一定の住所と云うものがありません。職業は小さな鞄を前に、革バンドから下げ、鈴を……教会の鐘に、柄を付けたようなやつですね。あれを打ち振り打ち振り、妻の為に客を呼び込むことなんです。そして、その鞄に溜ったお金が、妻と私の生活を支えるのです。ははは……あなたは不思議そうな顔をしていますね。まあ、その後を聞いて下さい」 [#6字下げ](B)[#「(B)」は中見出し]  その時、直ぐ頭上のガードの上を、夜行列車の長い列が、窓明りを連ねて走り去った。その轟音に、暫く話はと絶えた。そして、道をいつしか柳並木のある堀割の水沿いの道にとっていたのである。 「あなたは、二間四方もある緑石を見た事がありますか?」 「……」 「二間四方もある水晶は?」 「……」 「二間四方もある、紅玉は?」 「……」 「無論、見られた事はないでしょうね……こんなふうに話を切り出すと、あなたは私を気狂いと疑われるかも知れません。だが、私は正真、狂った男ではありません。こう、話をきり出さないと、私の宝石の中に於ける殺人が判って貰えないかも知れないからです。いやこんな前置きはあなたに対して失礼かも知れません」  こうして、私は世にも不思議な、その男が語るところの『宝石の中の殺人』を聞いたのである。 「私と妻はとても愛し合って、五年前に結婚しました。妻が十九で、私が二十五でした。どちらも俗に云う厄年だった訳ですね……。それが、どうした事か、妻は私の熱烈な愛情に飽いたとでも云うのですか、近頃自分勝手な事ばかり考えていたようです。勿論、他に愛人が出来たと云う事は絶対ありません。それは、私の強調したいところです。唯、何となく自分独りの沈黙の世界に逃げたがるだけなのです……妻は、私にそれを、つまり、心境の変化と云いますか……動物的な得体の知れない悩みとでも云いますか、それを一言も洩らしては呉れません。私にとってそれは残念な事です。それでも私は別に腹だたしく思った事もなければ、妻に辛くあたった事もありません。むしろより深い愛情こそ妻をその悩みから救うものだと私は信じました。そして愛撫を日夜惜しみなく与えましたが、妻はそれさえきらう様子が見えました。今から考えますと、その動物的な愛情の表現は却って妻の気持をこじらせたのかも知れません。  併し、私の妻を愛する表現は、そのような努力以外は通じないのです。どんなに美しい、且つ甘い囁きを私が用意しても、それも妻には通じないのです。結果から見て悲しむべき事ですが、私としては他の方法が考えられませんでした。そりゃ何と云っても、妻以外の女を知らぬ五年間の愛情生活の経験しかもたぬ私に、急に他の技巧など考えられなかったのです。妻はその五年の間に、唯の一度も私に不足らしい顔を見せた事は無かったのですからねえ……」  男は、次第次第に熱を帯びて、私の存在さえ意識しないかのような話し振りだった。 「その内に、御承知のように雨が十日以上も続きました。秋の雨と云うものは嫌なものです。びしょびしょと陰欝なあの音は、我々夫婦の魂をたたき濡らす程いやなものでした。それに、私達の住んでいた周囲の建物が原色に近いあくどい色彩を帯びていた事もその一つでした。それが濡れて一層毒々しい艶を洗い出し、丸、三角、四角、円錐と、妙な取り合せで、灰色の厚い雲の下に立ち並んでいる有様は、昔、文化の一時代を風靡《ふうび》した、表現派と云うものに通じていました。全くその重苦しさと云ったら、胸が押し潰される程のものでした。唯、私達の棲家で元気に、生々としたものは、青や丹の綿かびだけで、それが至るところの闇で花をつけていました。  そればかりではありません。そのかびは、私達を窒息させるような臭気まで発散させていました。そんな雰囲気の中でどうして心を愉しく持つ事が出来ましょう。まして妻の憂欝は益々深まる一方でした。彫の深い妻の顔は、唇はおろか、眉一つ動きません。その瞳さえも魚のようにまばたきをしなかったのです。……そうです、全く妻は魚の精になっていたのかも知れません。  そう云えば、むき出した肌は、ひらめの白い腹のようなぬめりをたたえていたからです。その妻をみつめて、どうしていいのか、唯うろうろとその傍で空虚な時間の推移を待つ私のみじめさを思ってもみて下さい。  恰度今日、陽が暮れてからの事でした。私達の居る高い座敷から見下す、長い椅子の下で、ちちろ虫がひとしきり鳴き出しました。そして、私達の居間から洩れる灯火の縞の中に、飴を流し込んだように、どろっと沈滞した水をたたえた、ガラス張りの水槽が見えていました。私は淋しさに(ああ虫でさえもあんなに夫婦が仲良く唄い交しているのに)と、思わず感傷にひたったのです。せめてその時妻が流行歌でもいい……いや、鳩ぽっぽだってよい、唄って呉れたら私はきっとそれに和して、その淋しさをまぎらす事が出来たと思うのです。併しそれは、妻に絶対望む事の出来ない私の儚《はかな》い空頼みに過ぎなかったのです。  すると妻はその時、私の傍に居る事がやり切れなかったのか、すっと立ち上りました。私の口から云うのは変ですが、妻は素敵に伸び伸びとした四肢を持っているのです。その時も私は、絵にした人魚のように見えたのです。そして妻は、そこにもプランクトンが踊り狂っているかと思われる水槽の中へ音もなく身を沈めたのです。唯その辺りの水面で小さな縞がくるくるっと二、三回巻いて消えた程の、それは鮮かな動作でした。  私はいつもの妻のこうした動作に(又か)と思って、暫くはそのままでいました。が、ふとその動作に心ひかれるものを感じて、蝶番《ちょうつがい》の結んだ腰骨を鳴らして立ち上ったのです。そして階段を降り、水槽のガラス張りの外に立ったのです。ほの明りの水の中で、妻の白い裸体が、首から下だけ無惨絵のように宙ぶらりになっているのが幽《かす》かに見えました。私は、何時《いつ》もにない感興が湧き上るのを覚えたのです。見ていると、妻の躯《からだ》がすいーと底深く沈んで、くるっと一回転しました。そしてそのままふわふわと水面へ浮き上ったのです。私はそれに引き寄せられて、一歩水槽へ近付きました。併し水槽は昏《くら》くて、私の期待した凝視に妻の影像ははっきりしませんでした。  私はそこで思い付いて、水槽の照明灯のスイッチを入れました。ああ、その水槽の素晴らしい色……私はそこにお伽噺にだけありそうな、緑石の巨大な結晶を見たのです。それにも増して、私の心を歓喜させたものは、その中に閉じ込められて動かない妻の全裸の姿でした。肉体の曲線が、細く、発光魚のように青白く輝いていました。よく見ると、それは微妙な曲線から軽く浮き上ったうぶ毛の瞬く燐光だったのです。  あなたは、子供の時誰れもが経験する、ラムネ玉の不思議を知っていますか? 緑《あお》く固い中心に、龍巻のように捲き昇った微明な粒の美しさを……あれをみつめていると、ラムネ玉の宇宙の中に隠された伝説を想い、その中に知らず知らずの間に自分がひき込まれてゆくあの愉しさを……恰度、その時の私がそれでした。  私は疼《うず》くような歓びにふるえました。その時妻は、それに反応したかのように、低い、長い口笛を残して水中に身を沈めました。そして、激しく動き始めたのです。或る時は頭と足が一つになって※[#「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13]《まり》のように、そうかと思えば一直線に伸びて横に流れ、水面で反転し、上へ下へ……又或る時は尾鰭のように割れ、或る時は胸鰭のように両手を開き、それは一種の空中遊行のような軽い動作でもありました。併しそのように激しい身ごなしにもかかわらず水は、凝固したように静かなものでした。  暫くして、妻は二回目の呼吸を調える為に水面へ浮かび上りました。私はそこでほっと溜息をついたのです。息詰まるような緊張から我に返って、張り上げた両肩ががっくり落ちました。今迄うつろだった私のこころの空間に、何か充ち足りた温さを覚えたのです。その時迄、人に見せるものとばかり思っていたそれを、独占して眺める愉しさを私は始めて知ったのです。  矢張り妻は、私との同棲生活の中に、私に新しい刺激を与える為に努力していたのかも知れません。そうすれば私の今迄の考えは杞憂であり、私のひがみであったのかも知れません。私にこの新たな歓びを感じさせる為に、妻は今迄沈黙の工夫をこらしていたのかも知れません。それを私が傍で悪く推量して独りやきもきしていたのかも知れません……そう考えると、私は身も心も急に軽くなりました。そして、尚も水の中のひと時を続けそうな妻の様子に、私はいそいそとして給水弁を開いたのです。こぼこぼと音がして、大きな水泡が注水口から湧き上っては水線で消えました。あとからあとから、おしひらかれた水泡が右に左に身悶えしながら浮き上って、妻の足を上り、脇腹を抜け、背中を這って、まるで緑石の中を美しく潜り抜ける真珠玉のようでした。そして、水藻のように拡がった妻の髪のひと筋ひと筋にも、無彩の細かな真珠の微塵玉が、花かんざしのように飾られていました。それが、一つ二つと抱き合って、やがて大きくなると、蓮の葉にこぼれる水玉のようにこぼれてゆくのでした。  私は、もうすっかり妖しい魅力に引き付けられてしまいました。妻は、私の見ている事も知らぬ気に、すっかり疲れが休まると、又ぐるぐると水の中を潜りました。その内に段々水が替るのでしょう、十日以上の雨で水替えしなかった緑《あお》い水が次第次第に水晶のように変化して、たとえば、強い陽差しを受けた街路のマロニエの樹蔭の金魚売りが並べたガラス鉢のように清新なものを覚えました。妻もその中で一匹の高価な銀色の金魚のように悠々と遊泳していたのです。その動きを目で追っていますと、或る角度ではレンズを透したように大きく見えたり、伸びたり、縮んだりして見え、私の胸を高鳴らせました。全くその美しさ妖しさは私を惑乱させるに充分でした。私はもう夢中でガラスに張り付いたのです。張り付いた手。額。鼻っぱしら。それがさっとガラスの一部に溶け込んだかのように妻からは見えた事でしょうし、見つめる目はカメレオンの奇怪な目のようだったと思います。もっとも、妻くらい水中の生活になれていれば、水の中でも瞳を開く事は容易な事です。  私はふと、その内に、妻は永久に水の中の世界へ生活を求めて去ってしまうのではないかとの、危険の念にかられました。今迄、妻を信頼し唯の一度もそんな事を考えてもみなかったのに、毎日のようにこうして水の中のひと時を愉しむのは、きっとそうに違いない……私を歓ばせるなど、それは私の勝手な解釈である……そのように、私は何の拠りどころもない事を考えてみたのです。すると、水面に落ちた一滴の油のように、私の猜疑心はぱっと一時に全身へ拡がりました。 [#6字下げ](C)[#「(C)」は中見出し]  私は夢中になってガラスの縁に手をかけ、いもりのように這い上り、水しぶきをあげてその中に飛び込んだのです。妻はそれを知ったようでした。急に、緩慢だった動作が敏捷になり、私が捕えた妻の太股は、私に仄かな温さとぬめりを残してすり抜けました。腕を握れば、亀のように引っ込め、私はいたずらに掌へ冷たい水の感触を覚えるだけでした。果して妻は、私の興奮した官能の戯れを受け入れようとはしません。私は、唯もう夢中になって追いました。或る時は頸すじをかき抱き、或る時はむっちりとした乳房を掴んだような気がしましたが、私の感じたものはその度にはぐらかされて、段々とつのるいらだたしさだけでした。  それが度重なると、私はある感情の境界線を越えて急に怒りを覚えました。いやその時の私は、それを怒りとは感じていませんでした。唯たかぶった感情の果てくらいにしか思っていなかったのです。併し、身心の激しい変化は私の呼吸を一層苦しくし、心臓まで吐き出したくなる程の自覚に私は一寸水面へ浮かび上り、水槽の向う隅に、これも一息つく妻をみつめて暫く躯を休めたのですが、又しても私は猛然と妻を追ったのです。併し、それは無駄な努力でした」  男は、始めてそこでつきつめた、熱しきった今迄の語調を落して、その後を続けた。 「妻は、もう絶対に私の手には戻らなかったのです。長い……いや、長いと思ったのは私だけの事だったかも知れませんが、私は時々水面に浮かんで、水しぶきを上げ又水に潜る内に、その飛沫が照明灯に紅く飛び散るのを見て、心の隅で、不思議に思ったのです。その内に妻も疲れ、私も疲れたのでしょう、二人の格闘は大分緩慢になっていました。私は、すっかり疲れて水槽の横の板敷に這い上りました。そこで始めて気が付いたのですが、水槽の中が鮮かな紅をたたえていたのです。どうしてそんな色になったか?……私は唯その色を瞳に感じはしましたが、それを判断する気力はありませんでした。唯、時々その赤さの中で、妻の白い躯が深く浅く、のた打つのを見ただけです。私は、未だその妻をしつこく捕えようとでも思ったのでしょう。無意識に立ち上ったのです。ところが、激しい水の中の運動で、私の膝骨は筋肉が抜けてでもいたかのように、意志に反して私の躯はあべこべに水槽の前に転げ落ちてしまったのです。その時、かたり――と音がして、私の手から板敷へ投げ出されたものがありました。それが何と、いつ何処《どこ》から、否、それは私達の部屋の夫婦《めおと》膳に乗っていた筈の鋭い果物剥きのナイフだったのですが……。  私は愕然としました。全く、大きな驚きでした。はっ――と気が付いて、水槽を見ると、そこに私は紅玉の宝石の中に鋳込まれたように、頭を下にして斜めに静止している妻を見たのです。  私はそこで事態をはっきりと知りました。『妻を殺した!』何と云う事をしでかしたのでしょう。妻恋し……の私の感情は、いつの間にかどこかで、憎悪……と代っていたのです。愛憎とは、本当に紙一重の隔たりだったのです。しかし今更どうしようもありません。炎のような私の心が、段々に冷えて行きました。すると誰かに見られてはいなかったか? との恐怖が急に大きく拡がってきました。私は堪らなくなって、煌々と輝いていた照明灯のスイッチをいきなりひねりました。一瞬、私の目には何も見えませんでしたが、目が馴れると、仄暗い光の縞が元の静けさで戻って来たのです。幸い、霖雨続きの後では見廻りも来なかったようですし、それに私達の棲家は別に無人であった訳ではないのでその心配はありませんでした。しかし警戒のつもりでそっと振り返ってみると、闇の中に二つの光るものを発見して、私の背骨が硬直しました。鈍い蛍光灯のような光……それでいてそのものは鋭い輝きをもっていたのです。ぶるっと私は顫《ふる》えました。するとその顫えはそのまま続き、カチカチと数回私の歯を鳴らしました。その正体は猫でしたが、毛色は暗くて判りませんが妻の可愛がっていた奴に違いありません。私は臆病になりながらも、数メートル離れて油断している猫に嫌悪を感じ、果物ナイフを拾って思いきり投げ付けました。ナイフは闇に吸い込まれたように音もしませんでしたが、『ぎぁをッ』と実にいやな叫びを私に返しました。逃げたのか斃《たお》れたのか、猫の足音はしませんので判りませんが、私はもう堪らなく怖ろしくなり、立ち上りざま水槽の排水弁を開き、有り合せた服に着換えて夢中でそこを飛び出したのです。暫くは、排水溝へ落ちる水の音と、あの鮮かな紅い色が私を追いかけましたが……」  男はそこで言葉を切ると、暫く無言だったが、今度は呟くように、 「今頃妻は、水を離れた金魚のように、水槽の底に横たわっているでしょう……これが私の妻殺しの真相です」  私はどこをどう歩き、どこへ来ていたのか覚えなかったが、男の話はそれで終った。聞き終った後も、私は口が利けなかった。確かに私の神経は麻痺を起こしていたに違いない。それが証拠に、私はその男の話し中、外界の物音はおろか、自分の足音さえも耳にしなかったのだから。  併しその男と肩を並べて尚も沈黙の歩行を続けている内に、私は少しずつ現実をとり戻して来た。そう云えば、男の頭髪が濡れていた理由も符合する。だが、私には未だ不可解なものがもやもやと胸の中で渦を巻いていた。第一その男の話は余りにも夢幻的である。或はその男自身の幻想の果ての架空話かも知れない。いや、よく考えてみると私自身がその夜の怪し気な期待で家をとび出した事に起因しての成れの果ての幻だったかも知れない。そのように私は自分の整理に迷っていたのである。それを、その男は見咎めたのだろう。 「あなたは、私の話を嘘とお考えのようです。そりゃ無理もありません。当の私でさえ今夜の始末はどう判断したらいいのか惑っているのですから……いわば、ラムネ玉の宇宙の神秘に魅せられて、私はその果てにそれを叩き割った……そしてそこに、唯のガラスの欠けらを発見した時のようにもの淋しいものを感じているのですから……」 「……」 「あなたは、未だ疑っていますか……あなたは、今開かれている××博覧会を御存知でしょう。霖雨で、もう十日以上も休場していますが……実を云えば、私の妻はあそこで、ガラス張りの水槽の中で海女《あま》の実演を見せている女なんです。私はその妻の為に人寄せの鈴を振って入場券を売っている夫なのです。夜が明ければ、きっと大騒ぎになるでしょう。血のない斬殺死体の発見で……これで何もかもお判りになった事と思います」 「あッ……」 「では、さようなら」  男は突然身をひるがえして、私が立ち止って見すかす闇の中へ何処《いずこ》ともなく姿を消した。私はそこに立ちつくして、も一度その男の最後の言葉を繰り返してみた。  遠くに、どこかの駅であろう、黒漆の盆に宝石をちりばめたように、赤、橙、緑の信号灯が鮮かだった。 底本:「EQ 86号」光文社    1992(平成4)年3月1日発行 初出:「密室」    1955(昭和30)年1月 ※「密室」は、1955年結成のミステリークラブ「SRの会」が発行していた機関誌です。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。