「チャップリンの独裁者」を見る 高見順 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)身重《みおも》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き](一九五二年) ------------------------------------------------------- 「陽のあたる場所」はシオドア・ドライザーの「アメリカの悲劇」を映画化したものである。かつてスタンバーグもこれを映画化したことがあり、友人の菊岡久利君などはその方がすぐれていたという。それを、私も見たことは見たのだが、今日もう記憶がうすれて、比較ができない。ただ、記憶に残っているのは、女工の役をやっていたシルヴィア・シドニーが大変に可レンだったという印象だけである。今度のジョージ・スティーヴンスの「陽のあたる場所」では、女工の役をシェリー・ウィンタースがやっているが、これは可レン一点張りではない。その、可レン一点張りでない点に私は感心した。はじめは、なるほど可レンな、田舎出のいかにもムクな娘として私たちの前に現われるが、男と関係して身重《みおも》になり男の言葉にしたがって堕胎をはかるけれど、うまく行かず、もうこうなった以上は結婚してくれと男にやみくもに、脅迫的にせまるあたり純情ではあるが、何か無知な感じをさらけ出し、可レンとばかりはいえない、ひとつの女のタイプを実に巧みに演じている。妊娠とともに、服装がだんだんだらしなくなって行く、そういう変り方もうまい。  一筋に男を思いつめる女心は悲痛だが、自分から心の離れている、それどころか自分に、嫌気《いやけ》がさしている男と、無理やり結婚したところで将来幸福かどうか疑問である。しかし女はそういう疑問には眼が向かず、ただ男の不実を怒り、怒ることで男の心をつかもうとする。男はそのため余計、嫌気がさす。  男を援護しているような私の書き方と思われるかもしれないが、女をそういう可レンを通りこした何かたまらない女にしたのは、しょせん、男である。悪いのは男である。工場づとめのわびしさから女工を誘惑し、そして社交界の花形の娘を知るや、男は身重の女工を捨てようとする。憎むべき男の所業ではあるが、そうした男を、この映画では、単なる悪徳の男として描いているのではない。「陽のあたらない場所」に生い立った男が「陽のあたる場所」へ出ようとするその野心には――その野心の現われはおぞましいが、しかし一キクの涙をそそがずにはいられないように描かれている。伯父に大会社の社長を持っている男だが、伝道事業に献身している貧しい母親の手で育てられ、学校も満足に行ってない。やがて伯父に拾われてその工場につとめたが、ロクな仕事は与えられない。華やかなパーティにも呼ばれない。貧乏育ちの無学無知の男が、一族にいることは家の恥だと伯父の家族は考えている。そうした偏見が、すなわち、「陽のあたる場所」へ出ようとする野心を男に抱かせたのである。そしてその野心が、富と地位の約束された、富豪の娘との結婚のために、身重の女を湖で殺そうと男に想い立たせる。  悪の根源は、「陽のあたる場所」と「陽のあたらない場所」というものが存在する社会機構の中にある。原作者ドライザーが、この野心の悲劇を「アメリカの悲劇」と題したのも、アメリカの社会への批判をこめてのことであろう。とはいえ、この悲劇はわれわれ日本人の心にも強く迫るものを持っている。 [#地付き](一九五二年) 底本:「文豪文士が愛した映画たち」ちくま文庫、筑摩書房    2018(平成30)年1月10日第一刷 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。