秘色青磁 幸田露伴 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)色※[#二の字点、1-2-22]な /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)よく/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  青磁のはじまりは確と指すことは出來かねます。が、傳説的に後周の柴世宗の時からといふことになつてゐて、そしてそれは世宗の趣味深い注文から作り出されたといふことになつてゐますが、その前に既に同じやうなものがあつて、世宗は其上に一段進歩した、心持の良い、色の良いものを注文したのだらうと解釋することも出來ます。何でも物のはじまりを的確に斷言することは甚だ危いことです。  それでも兎に角に青磁は柴窯からといふことになつてゐて、昔から異論も無く、其の初頭の青磁を「秘色」と稱へて非常に結構なものとしてゐるのですが、誰もまだ確實明白に、これが眞の秘色だといふ極めのついたものを、歴史的の證據を具備して觀定めたものゝあることを聞きませぬ。  そこで今こゝに世宗の時代の顯徳の年號のある美はしい青磁の器があるとしても、誰も「ツケ石」になるものを所有してもゐず、確とした鑑賞眼的記憶をもつてもゐないのて、驚嘆狂喜して、たゞそれをよく/\觀るといふに止まり、これは確に秘色だとも何とも云ふことは出來ず、よく/\丁寧な周密な力強い觀方と博大な知識による間接的の審定材料を豐富に有理的に安排し得た後でなければ、其人の一家言としても何等の斷言をすることはむづかしいことであります。  秘色という名義についてすら、後世からは支那でさへ推察的な解釋を下してゐるほどなのですから、秘色青磁の性質が何樣いふものであるかといふ云傳はあるにしても、それも何の程度まで信用されて然るべきかも不明である。秘は禁秘の秘である、民間のものではなく、禁裏の器であつたところから、秘色といつたといふのが誰も知つてゐる説であり、高齋漫録に、臣庶用ゐるを得ず、故に秘色といふとあるのが古い解であるが、秘色といふ熟字があることは確にあるけれど、詩文等には甚だ稀に用ゐられたのであらうか、自分はまだそれを用ゐた詩等を見うけない。唐の陸龜蒙の詩の句を引用してゐるのは知つてゐるが、あれは「翠色」であつて「秘色」とは無い。孫引で物を合點してゐると、どうも危い。今こゝに陸の集が無いので、はつきりとは示しがたいが、たしか千峰翠色とつゞいた語であつたと記憶する。千峰秘色では、なつてゐない語である。よし實に秘色とあつたとしても、それでは秘色青磁は柴世宗より以前に出來てゐたことになつて、傳説の秘色青磁の由來とは釣合はぬことになる。陸龜蒙は皮日休と共に世宗時代より前の晩唐の大詩人であるからである。陸龜蒙は自分の小舟の中にさへ茶道具を置いた雅人であるから、其人の詩の句に秘色といふ字が使つてあつてくれると、まことに宜しいけれど、さうは行かぬやうである。  ところがおもしろいことには、日本の文學には「秘色」の語が明らかに見えてゐることである。一は源氏物語の中、又一はうつぼ物語である。勿論其物と共に舶來の語であることは疑ひない。時代は丁度宜く適合してゐる。源氏の方は、非常に高い階級の家の零落してゐる状を寫してあるところで、其家の使用人等が、貴いものとも露知らずして秘色の器で食事をしてゐるのである。秘色の器が甚だ貴いものだといふことを知つてゐてそこを讀むと、如何にも巧みに紫式部か秘色の器を點出してゐるのに感心する。實際にまた當時の貴い家には秘色の器が存在したやうな事實かあり、又當時の讀者には秘色の器が何樣いふものだといふことが理解されてゐたから、かういふ場面の描寫も生じたのであらう。うつぼの方では、地方の豪くもあり財もある所謂腹ふくれの、少し野暮だけれども非常に自由のきく紳士、金づく威勢づくて美人を掌中にしようといふやうな者が、秘色の器で傲然と酒を飮んでゐるところを描いてある。これも亦實に秘色を用ゐ得て、妙である。しかも其人が筑紫の何とかいふのであるから、西方から舶來する高貴なものを使用してゐるには打つて付けの段取なのである。  で、多くもない平安朝時代の文學の中に於て是の如くに「秘色」が顏を出してゐるところを見ると、兎に角に秘色青磁が當時の人に知られて居り、何樣なものか理解されてゐたといふ證であり、少くも高級社會人には普遍性を有つてゐたものだといふことを語つてゐるものである。  それであるのに其出産本國の支那では却つて餘り文獻がなく、又何處の誰が何樣いふ器を有つてゐるといふ記事も殆ど無く、たゞ傳説的に、其色が極めて美しく、其の薄いことが紙の如くで、其の響が清亮だといふことが云はれてゐるばかりであり、たま/\其缺片があつて、それに金銀などで覆輪をつけて裝飾物として愛重するといふことは有つても、しかもそれが果して眞の秘色であるや否やを清の梁某の疑つてゐる記事などが見えてゐる程だから、先づは麒麟鳳凰の如くに、紙上若くは想像上のものになつてゐると云つて宜い位である。眞に驚く可き寶器となつてゐるのである。  我邦でも傳來したことは疑い無いが「きぬた」やなぞのやうに見及んだ人は殆ど無いから、色※[#二の字点、1-2-22]な陶器書類、又は寶器鑑賞書類等にも、其記事は甚だ朦朧たるものであつて、的確な解釋をそれによつて得ることは難儀であり、又精鑒家であつても確としたことの云へぬのは、却つてそれが本當の事であらうと思はれる。  たゞ我邦に傳來したものであらうことは、我邦と呉越方面との交通は今日の人が想像するよりも甚だ頻繁であつて、特に呉越王の錢氏とは親密であつたことは、考察の材料が澤山殘つてゐる。錢氏は唐末より宋初にあたつて、富饒な地方の廣域を有し、八十餘年の太平を享有したもので、唐が亡びた時から天寶、寶大、寶正等の年號をさへ立てゝゐた儼然たる一國王であつた。周の世宗の顯徳年間を秘色青磁の出來た時と傳説に廣つて假定すれば、それは西暦九百五十八年頃に當るが、呉越王は唐の昭宗から有名な「金書鐵劵」を得た乾寧四年即ち西暦八百九十七年から地方的に雄據して大勢力を張り、宋の太宗の太平興國三年に納土するまで、他の地方は戰亂に喘いでゐる中を殷賑富有な廣域に人民と共に平和を享有してゐたのである。此の錢氏の管轄した地域内は即ち今に至つてまでも猶存在繁榮する陶磁製造地の所在方面である。是の如き錢氏の據れる地方は又同時に日本との交通の衝にあたつてゐるのである。  で、當時支那と日本との交通は、支那とは云へ、實は殆ど呉越と日本との交通であつたのである。此の呉越の錢氏は始終我邦と親睦するを主としてたので、善隣國寶記や異稱日本傳が列記してゐる位の事では無く、まことに相互に敬愛し合ひ、文明的及び經濟的の交流は隨分盛んに行はれたものと考へられることは、本朝文粹に見えてゐる清愼公の爲に呉越王に報ずる後の江相公の書(天暦元年だから西暦九百四十七年)又右丞相の爲に大唐呉越王に贈る菅三品の書(天暦七年だから西暦九百五十三年)に徴しても分明である。呉越の最初の入貢は承平五年(西暦九百三十五年)とされてゐるが、其翌年にも來り、又天徳元年には金を送つて我が叡山にある天台宗門の書を求め、又其三年にも使をよこしたことは、我邦で人の知つてゐることである。  臺座の記に、乙卯とあるから、周の顯徳二年(西暦九五五)に呉越王錢弘俶の造つた八萬四千舍利塔といふものがある。これは夏承原の造つた顯徳五年即ち秘色青磁の出來たと云はるゝ年と同年に出來た舍利塔と共に清初に現存したものである。呉越王の舍利塔は清初の詩人の之を詠じた詩やなぞが多いので知られてゐるものであるが、其舍利塔五百個を王が日本へ頒つたといふことは、程※[#「王+必」、U+73CC、46-上-9]の勝相寺記といふものに見えて居り、且其使者の舶に附いて天竺の僧で紙衣道者と渾名された轉智といふ畸人が日本から還つたことか記されてゐる。舍利塔は高さ五六寸の小さなものではあるが、塗金で釋迦因位の行の相を示してあるのであり、秘色青磁の方は今「これがそれだ」と或物に示されても鑑定は謙遜せねばならぬと思ふが、此舍利塔の方なら考證し得る色※[#二の字点、1-2-22]の條件は有る。が、かういふやうに微物とは云へ五百體もの塔を日本へよこしたりするなんぞするほどに呉越は我邦に親しんでゐたのである。自國産の越の陶磁器を何で吝むことがあらう、我邦に澤山の陶磁器を公私の便船で送り來つたらうことは想察するに難くないことである。秘色の名義も秘は閉であり、神であり、悶である。色は彩ではあるが、後には一色雜色諸色などとも用ゐられる字で、「歌ひ手」「笛ふきて」等の「て」又は「かた」「もの」といふやうな意味にも用ゐられるのであるから、「秘色」は「御物手」「宮中もの」といふやうな風に解してよいのである。秘色の二字に直接に美しい青い色の意は無いのてある。  そこで平安朝(西暦十世紀頃)の源氏や「うつぼ」に秘色の名が見えることに何の不思議も無いことになる。であるから自分は戰亂が我邦だとて無かつたのでは無いが、支那よりも比較的に古物が遺つて居る我邦の靜かな山寺などに秘色とも知られないで、くすぶつたものになつてゐる茶※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]などが或は存在しはしないかと思ふのである。そして高眼の人が或はそれを見出す日がありはしないかと想つてゐる。しかしそれは夢のやうな談だと云はれゝば、勿論それは夢に夢を掛けたやうな談である。  青磁といへば秘色からはじまつたやうに、何時となく人々はさう思つてゐる傾があるが、それは少し事實とは異なつてゐるだらう。秘色青磁は青磁の世界に大飛躍をしたものではあらうが、元來すでに青磁が出來てゐたればこそ、それの最も優美なものを造れと世宗が注文を發したのであらうことは、高い地盤が有ればこそ秀でた靈峰も有り得る道理に照らして分明である。既に唐の天寶年間あたり(西暦七百四十二年―五十五年)に茶人であり、俳諧家であり、畸人であり、癇癪持であつた陸鴻漸が越州第一、次は鼎州、次は※[#「鶩」の「鳥」に代えて「女」、第4水準2-5-63]州、次は岳州、次は壽州、洪州であると、茶※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]の品評をしてゐるではないか。また當時に於て※[#「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63]州から美しい白瓷が出てゐて、世の賞讚を博した。だから杜子美の詩にさへ※[#「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63]州の白瓷のことは出てゐたと記憶してゐる。この※[#「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63]州の瓷は雪の如くであつたが、越州の瓷は釉色透明度が勝れて氷の如くであつたと云はれてゐる。この越州の碗はしかも其色が青かつたのである。透明度が強くて青いといへば、青磁の中には乳氣のあるどんよりしたのと、冴えたのと、二種あるが、其の冴えた方の青磁で無くて何であらう。では、越州は蓋し唐の時から既に青磁を産し、そしてそれが時代の賞讚を既に得てゐたのである。  いやそれところでは無い、唐よりも前の晋の杜育の※[#「くさかんむり/舛」、U+8348、47-下-1]賦について考へると、越州は晋の時(西暦二百六十五年―四百十九年)から既に茶に用ゐられる器、即ち茶※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]の宜いものを出して世の賞するところとなり、從つて文章にも取入れられたのである。※[#「くさかんむり/舛」、U+8348、47-下-5]は即ち茶である。杜育は如何なる人か、歴史には見えぬやうだか、蓋し晋の中頃の杜軫一族の人か。杜氏は晋には榮えた氏である。※[#「くさかんむり/舛」、U+8348、47-下-7]賦も全文は存せず、今はたゞ八十六文字の逸句を存するのみだが、茶のことを記した古いものの一であり、まだ茶が栽培物とならぬ時代、則ち山野から自然物を採收した頃の文であるから、おのづから興味が惹かれる。餘談にはなるが、其賦の中に「月は惟れ初秋、農功少しく休む、偶を結び旅を同じくし、是れ采り是れ求む」とあるので、此頃は秋初の手すきに採藥者の如く山谷を跋渉して茶を摘んだことが知られる。※[#「くさかんむり/舛」、U+8348、47-下-15]は今日餘り用ゐられぬ字で、茶の晩く採らるゝものゝ義になつてゐるが、成程と※[#「くさかんむり/舛」、U+8348、47-下-16]賦の題目も首肯される。扨其の末の方に「器擇陶簡、出自東隅」とある。簡は簡揀の簡で、えらぶといふことであり、唐人の引用には簡か直ちに揀になつてゐる。此四字は畢竟、茶の器即ち茶※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]が擇び用ゐらるゝといふことで、其の次の句、「東隅より出づ」は前句を受けて、其器は東隅より出づる品が用ゐられるといふことである。此の「隅」は「すみ」といふことではない、「甌」といふ字に通じるので音が同じなのである。だから唐人か引用した此文には「隅」字が用ゐられずに直ちに「甌」字が用ゐられてゐる。「甌」は「粤」又は「越」と同じことである。「出自東隅」は「出自東越」であつて、即ち越州より出づるといふのと同じだ、と云つたら支那文字の古今音韻假借相通のことを合點してゐない邦人には、何か牽強附會なことを云ふと解さるゝおそれが有るが、決して自分が故意にこじつけを云ふのでは無い。この賦を讀んで晋の時から既に越州が茶※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]を出して名のあつたことが知られる。越州岳州の器の色は唐の時に青であつたのだから、おそらくは晋の時でも青いものであつたらうと考へられる、晋から唐末宋初に秘色の出るまでの長い間には次第※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]に進歩があつたらうし、ことに又隋の時には大に精巧なガラス性の窯製品が出來たのであるから、秘色以前に既に青磁が多く出來たらうことは疑ひ無く、然る後に一大飛躍が柴周の頃において遂げられたのであらうと想定する。 [#地から2字上げ](一九三七年「瓶史」) 底本:「世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集」平凡社    1962(昭和37)年11月20日初版発行    1964(昭和39)年5月4日4版発行 入力:sogo 校正: 2013年4月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。