ひげの伊之助人生ばなし 赤貧から相撲道に生きぬくまで――一人の憑かれた人間の記録 式守伊之助(第19代) ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)緋総《ひぶさ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#3字下げ] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]走馬灯の如く[#「走馬灯の如く」は中見出し]  七十一歳になってしまった。  酔生夢死といい邯鄲の枕というが、今にしてふりかえると、本当に何もかも幻のように思える。過ぎ去ったものはすべて一場の夢まぼろしにしかすぎぬとしても、しかしそれらの一瞬一瞬はやはり私が精魂こめた執念の結晶であったようにも思えてくる。執念は時にはみにくい。過去は悔恨の泉であるかもしれぬ。けれども、もう一度、そうした一瞬一瞬をかみしめてみれば、やはり私にはこの一つの生き方しかあり得なかったのだと、いまさらのように過ぎ去った自分の姿がいとおしく思い出されるのである。  遠い遙かな足音が聞こえてくる。だが、私が何を知り得たろう。だから今ここで私が自分の悔い多い過去について語ったにしても、どうやら反省にはなるまい。ただ反芻するのみであろう。すべては走馬灯の如く、である。また、時に力をこめて語ったとしても、それは老いの繰り言にすぎない。  いまは市制が布かれて「勝田市」となっている、茨城県水戸市外の勝田村に私は生れた。明治十九年であった。傍らに那珂川が流れていた。  生家は生系の坐繰りをやっていた。いまはもう茨城へんには見られまいが、あの頃は農家の副業としてひろく盛んに行われていたものだった。機械は二十余台、父は女工さんもたくさん使っていたと思う。  幼少のころの私、強く丈夫にという親のねがいをこめて名付けられた金太郎の思い出には悲しみがつきまとっている。そして人の悲しみの多くは貧困による。もちろん、頑是ない鼻たれ小僧が何を考えようすべもない。何もかも霞のたちこめたおぼろな記憶の彼方にあるが、その深い霧の中から私は悲しみだけをまとって抜け出て来たような感がある。己れの不幸は拡大して見がちなのであろうか。これもまた一つの執念であるやもしれぬ。  私の不幸は七歳の折にはじまる。日清戦争が起る少し前に、糸の大暴落という痛手を受けたのだ。繭を買い入れる金もないままに、家の事業は破産してしまった。  この破局が私から家庭の愛情を奪ったのである。過重な負担にたえかねた父はいずことも行方しれずになってしまった。残された母は私と妹と弟の幼い三人をひきつれて借家暮しを余儀なくされた。あの貧窮の期間を、いったい母子がどうやって生きのびたのかを私は知らない。しかし、それは本当に洗うがごとき赤貧であった。印象に残っているのは、ひき出しの中にあった母の手鏡をあけて、五厘銭、一厘銭でようやく八厘をかき集め、豆腐を一丁買い、それだけで四人が昼の飢えをしのいだというかすかな思い出だけである。 当時の記憶の糸をたどってみようと試みるのだが、必ずプツリと切れてしまう。いや、悲しいことは思い出さぬ方がよいかもしれないのだが。ただ、私にはこの苦しい四人の生活がひどく長かったように考えられるのである。しかし、事実は半年ほどにすぎなかったかもしれない。あるいは、一年もつづいたのかもしれない。いずれにしてもそれほど長い期間でなかったと認識しているのに、ひどく長かったように感じられるのは、いったいどういうわけであろうか。 [#3字下げ]辛い奉公[#「辛い奉公」は中見出し]  誰を責めようなどという意志は私には毛頭ない。  父が悪いのでもあるまい。また、社会保障をほどこさない社会が悪かったのだというふうな知った口はききたくないと思う。再びくどいようだが、私たちにはこれ以外に生きようがなかったのである。そして、私も幼くはあったが、真剣にただ私の生活を生きただけのことである。また、実際に当時、こういう零落はけっして稀ではなかった。  母も苦しかったに相違ない。ある日、とうとう、私たち三人を祖父の家にあずけたまま、長男の私に一言も告げず、見えなくなってしまった。後妻に行ったのである。それ以後、私は母の消息は杳として知らない。いまにして思うのだが、恐らく祖父も母からそのことをまったく知らされずに私たちを預ったのではなかったかと推測するのである。  淋しかった。夜はことに淋しい思いに胸をしめつけられた。貧しい水呑百姓の祖父の家にまどろみながら、ふと、母はまだここに居るのではないかと思い立つことがあった。そっと祖父や弟妹たちの寝息をうかがいながら家の裏へ忍んでみた。竹藪の中に便所があった。きっと、母はそこにいると信じたのである。もちろんいなかった。私は現実が失望でしかあがなえぬことを知った。  いずれにせよ、父の出奔、母の再婚と一年がほどをあわただしく、しかも、何の前ぶれも約束事もなしに私の身の上をおそった変化は、幼い私の意識をひどくけじめ[#「けじめ」に傍点]のないものにしてしまったように思える。少年はけじめのないものは信ずることができなかったのである。私が後年、行司というけじめを弁別する職業に身を投じたのは、その反作用であったのでないかと考えるのだが、これはつまらぬこじつけにすぎないだろうか。  八歳の暮に、私は祖父のすすめで水戸の下市の糸屋へ奉公に出された。しかし、たった八つの私にいったい何ができよう。幼い小僧にできるのは子守奉公がせいぜいのつとめであった。糸屋の名は石田屋といった。背負った赤ん坊は女の子であった。石田屋ではそのころの子守奉公の例で、小づかいはくれなかったので、私は赤ん坊にあたえられる飴玉などをいくつかピンハネして自分で食べてしまうといったいくつかの暗い記憶を持った。  相撲が好きになったそもそもの発端はこの時代である。時は日清戦争たけなわのころである。源氏山、西の海、逆鉾、八幡山などという人気力士の名が子供たちの口づたえに伝わったのである。  それらは、みじめな奉公暮しの私の耳にひどく華やかなもののように響いた。街はずれの不動さんの庭で近所の子供たちと相撲をとりはじめた。赤ん坊はもちろんほっぽり放しである。相撲好きは町の子供たちがみな、そうだったから、はじめのうちはそっとまぎれて遊んでいても、何しろまだ分別のない子供のことだし、文句はいわれなかった。  石田家には五年半もの長い奉公であった。その間、せいぜい盆暮にお仕着せや下駄などを買ってくれるくらいのことで、小遣は一銭も与えられなかった。  成長するに及んでは、子守だけでなく雑巾がけや庭掃除もやらせられた。時には店へ出されることもあった。しかし、私の魂は常に東京回向院の相撲場と不動さんの土俵の上にとんでいた。そのうちに、明けても暮れても相撲ばかりとっている私の姿はいつか評判になってしまった。もちろん、それは石田屋には悪い評判であった。「金太郎は相撲ばかりとっていてしようがない」というお叱りの言葉がとぶようになった。  とうとう「子守もろくろくできんようでは、この子は商売には向かん」といわれてお払い箱になったのはたしか私が十二歳の時であったと記憶している。 [#3字下げ]何でこんな苦労を[#「何でこんな苦労を」は中見出し]  何の見通しもない暗い未来を背負い、これまでどうにか食うだけは食って来られたのに、いったいこれからどうなることか、と私は茫然とした。しかし誰が悪いのでもない。すべて自分が仕事に身を入れないためだ、と幼い罪責感が私をむちうった。  その時、私は七つの時生き別れた父が常陸太田にいるという風の便りをきいた。飛び立つ思いで太田へおもむいた。父はたしかにいた。あれはなんというのだろう、弓弦みたいなもので綿をビンビンとうち返す仕事をして糊口をつないでいる父に会って、しかし私は不思議にほとんど何の感動もわかなかった。長い奉公生活の間に肉親の愛についてはすべて私は無縁であるというあきらめが身についてしまっていたのかもしれない。父は一介の工員にすぎなかった。当時の工員はまったくのドン底生活であった。またしても私の期待は裏切られた。  父は私に石けん売りをすすめた。太田の西に宮川音八という小間物屋があった。ここで仕入れて行商をして歩いた。石けんはいまもあるなつかしい「花王石鹸」であった。卸値が三銭五厘、かなりボロイ商売で口銭は倍くらいになるものだったが、元手がなくしかも身体が小さいのでそれほどたくさん背負うことはできない。  とぼとぼと毎日五里ほどは歩いたものである。山や峠は少なかったが、重荷が肩にくいこんでけっして楽なものではなかった。この行商をはじめたのは、たしか水戸の公園の梅が散ってそろそろ桜の便りもきかれようという頃であったように思う。陽気がよく、荷を背にして道を歩いていると少し汗ばんだ。  さて、石けんを売りに行く先だが、久慈郡久米村に石井という造り酒屋がある。後に息子さんが代議士になり、時々家族の方といまも文通しているが、この家の人が私の境涯に非常に同情してくれた。若御主人はよく御馳走してくれたし、とても親切だ。そこで少年の悲しさに、ついそっちばかりへ足が向いてしまう。毎日石けんをそのあたりへ売りに行くのだが、そうそう石けんはへるものではない。「石けん屋さん、まだありますよ」というわけである。  ある真夏の日に田舎道の石ころにすわりこんで、私は考えたものだ。「なぜおれはこんなに難儀ばかりするのだろう」まとまった思慮はつこうはずがないのだが、水戸の石田屋の安易だった奉公生活をなつかしんだ。そして、これはすべて自分が相撲狂だったからだと思った。「そうだ。相撲が好きだからこんなに苦労したんだ。どうせ苦労するなら好きな相撲の世界へ入ってやろう」と小さな心にきめた。広い世界を知らぬ少年の簡潔で不逞な決意であった。  しかし、相撲をやるには身体が小さすぎる、とも思った。なるとすれば呼出しか行司である。そうだ、行司だ、と思い立った。いっぺんに胸がふくらむ思いになった。  太田の町に八幡さまがあった。ここで私は近所の悪童どもの先達となって土俵をつくった。そして、石けんの行商から帰ってきては子供を集めて相撲をやらせた。土俵の上には手ランプをつけ、二、三十人の子供が息をきらして相撲に熱中した。はじめのうちは子供ばかりだったが、そのうちに大きな連中までが遊び半分にまじってくるようになった。そして私は……行司をやった。  やがてまたしても私は仕事がおろそかになってしまった。もう石けん売りどころではない。夕方になると子供に太鼓をかつがせて、自分が叩いてまわる。すると、料理屋などでは「懸賞金」をくれるのだから大したものである。それでけっこう私の生活まで成り立った。  しかし、やがて夏が去って秋が来た。寒風がそぞろ身にしみるようになって、子供たちは一人去り、二人去りして、私がいくら触れ太鼓をまわしても集まらなくなった。しかししょんぼり八幡さまの境内に立っているこの私を見つめていた人があったのだ。 [#3字下げ]初めて知る人の情[#「初めて知る人の情」は中見出し] 「おい、金太郎、元気がないな」  といってポンと肩を叩いてくれたのは大比良善平という質屋の御隠居だった。大比良さんは町内で名うての相撲好き。この草相撲にもかかさずに通いつめてくれた、いわば私たちのパトロンの一人である。 「おれも相撲好きだが、小僧の相撲好きにはあきれたよ」  といいながらにこにこ笑っている。そして、 「どうだ。東京へ行って、お前の好きな行司にならんか」  びっくりした私が、 「だけど、おれは金がない。東京へ行く金だってない」  と答えると、 「まあ、おれにまかしとけ」  と言って去って行った。  大比良さんはその日から自ら発起人になり、奉加帳を廻して町内の有志から寄付金を集めてくれたのである。そして、こういうことになったのも、お前の相撲好きを賞でた八幡さまのおかげだ、だから行く前に記念の提灯をあげていけ、といわれてその言葉通り大きな提灯をあげて神の加護を祈り、着物を一枚こしらえて上京したのは忘れもしない明治三十三年の暮も押しつまった日のこと、私は十三歳であった。  見るもの聞くもの、田舎育ちの小僧には驚異の種であった。そしてまず訪ねたのが本所割下水の常陸山谷右衛門のもとである。というのは、つまりかれが郷土の先輩であるときいたからである。しかし、無謀な挙に出たもので、だれの紹介状もない。そして玄関に立っていきなり「水戸の者だけれど、行司にしてくれ」と頼んだのだ。あいにく常陸山は不在とのことで、留守番の大戸川という幕下だか三段目だかの部屋頭に「行司はうちはいらない」とあっさり断わられて途方にくれた。  ところがちょうどその時峰崎部屋の電気燈という力士が遊びに来ていた。電気燈とは当時文明開化のシンボルの名をとったもので、その由来は頭に毛がなかったことによる。かれは同じ部屋の虎猫という同じくヤカン頭の力士と名コンビで、ショッキリ相撲をとっていた人気力士だった。  この人が、私のみすぼらしいなり[#「なり」に傍点]や、土くさい風体をあわれんだのだろう、「この寒いのにかわいそうだ」と言ってくれ、峰崎部屋へつれて行ったのである。  初めて期待がみたされた感動に、私は峰崎部屋でまんじりともしない喜びの一夜をすごしたものだった。  峰崎親方が行司の出身だったのも幸いだった。この部屋は当時二十人くらいの相撲取を養っていた。電気燈が「親方どうでしょう」ときくと、庭掃除や玄関の雑巾がけでもさせて、そのうちに親の承諾状が来たら行司にしてやってもいい、という曖い言葉だった。 [#3字下げ]浪曲家と一しょに[#「浪曲家と一しょに」は中見出し]  そのうちに、父から承諾の手紙が来る。そこで行司の見習いということになったが、一年くらい経ったある日、友綱部屋から、うちには行司は上はいるが、下がいなくて困るとのことで、もらわれていった。そしてはじめて行司木村金吾を名乗って土俵にのぼったのは三十四年の横浜でのことである。  当時、友綱部屋には国見山、海山(玉錦の師匠)などがいた。太刀山が幕下つけ出しとして越中から上京してきたばかりのときであった。  その間にも、行司の卵時代の修業は並たいていのものではなかった。午前二時、拍子木と一しょに起きて通いつづけた大川端は寒かった。ひと月にお給金は二十銭。回向院前にたち並ぶ鍋焼うどん、豆大福をむさぼり食った記憶もなつかしい。部屋へ帰るとランプ掃除。そして雨の日は朝から習字、それも例の妙な「相撲字」のけいこである。  七歳で家が没落した私は、小学校には一年しか行っていない。幼な友だちが弁当箱を持って学校へ通うのを見ると、やはりうらやましかった。その中には、出世してのちに日本で最初の飛行機乗りになり、京都深草で墜死した武石浩坡君が石田屋の前を中学へ通った姿も眼底に焼きついていた。私は生来の負けずぎらいであった。いつか、無学のそしりだけは返上したいと念願していた。だからせめて字だけは人に負けずに書きたいと思った。旅へ行っても宿ビラなどは率先して書いたものだ。けれども、今なおこういう方面では人に劣るのではないか、と常々ひけ目にしているものだ。何ぶん、当時の相撲部屋のこととて、義務教育をおえた人もろくすっぽ居なかったので、やはり止むを得なかったのだとは思うのだが。  また、行司にとっては声の鍛錬が生命であった。そのためには「ふっきり」といって声帯を訓練する修業がある。当時友綱部屋はいまの横網町にある安田公会堂の近くにあったが、そこから毎夜百本杭の大川端へ通って鍛錬するわけである。それも春場所前、十二月から一月という寒い夜にやるのだからひどくひえる。隅田川に通っていた一銭蒸汽の横網の乗船場を無断借用する。十時を過ぎれば無人だから好都合だ。  岸からひらりと一段降りてプラットホームに立ち、凍りついたようにしんと寝しずまった対岸に向って、「とうざいとうざーい、寒玉子に加勝山、のこったのこった……」と大声をあげるわけである。川向うには蔵前高等工業と明治病院があって、大音声を発すると自分の声がこだまして帰ってくる。その間にギイギイと伝馬船が上下する音がきこえてくる。悠々とながれる大川の水もいまと違ってやや澄んでキラキラ光る……と、つらい中にもそれはなかなか風情のあるものだった。  そのうちにある日仲間が一人加わった。といって同業ではない。浪花節語りである。「あんたは一体何というんじゃ」ときいたら、東家楽遊という当時の斯道の大家の弟の小雀だという。まだ高座には出ていないが、やはり私と同じ声の鍛錬のために、今後毎夜この時刻にはかかさずにここへ来るからよろしく、とのこと。さっそく仲よしになってしまった。  私が例の「寒玉子には加勝山」とやると、隣りでは「何がなにして何とやら……」とフシ面白くうなっている。お互いに道はちがっても、一芸にはげむ志は同じ、真剣な心が通いあって少しもおかしいなどというものではなかった。 [#3字下げ]恩になった人たち[#「恩になった人たち」は中見出し]  下積みの時代の修業はつらいものではあったが、しかし私にはこの苦しみがむしろ楽しくもあった。少くとも小僧、行商という冷たい幼少期を送った私には、こんなめぐまれた青春を送っていいものかと思うほどであった。そして、これは私が好む道であったのだから、なおさらのことであった。  苦労のかいあって大正二年春場所に行司木村玉治郎となり十両格に昇進、はじめて格足袋を許され、四年六月には待望の幕内格に進み、本足袋となった。十五年六月には緋総《ひぶさ》を許され、木村庄三郎を襲名……とトントン拍子に出世して行った。「勝った、負けた」で歳月は夢のようにすぎ去っていった。  ごひいき筋には橋本関雪画伯を得て何かと相談に乗ってくれたし、六代目菊五郎さんにもずいぶんお世話を受けた。  庄三郎から十七代目[#「十七代目」はママ]式守伊之助を襲名したのは昭和二十六年五月、当時私は肺炎をこじらせ腹膜炎を併発した病床にあったさい中だった。ひどく衰弱していて、せっかく立行司に昇進しても、一日も土俵に立てないので、金太郎、お前もかわいそうなやつだ、と自分をあわれんだものだった。それが、神の御加護か、二十七年には再び土俵に立つ身となったのも幸運といわねばなるまい。この時初めて白いヒゲを生やしたのである。ヒゲをそるとすぐ熱が出てよくない。それに親方連中がそのまま土俵にあがれよとすすめたのでそれにしたがったのだが、のばしてみるとそれこそ切っても切れない愛着がましてしまった。風呂の中で「おじいちゃんヒゲを洗わして……」と孫にせがまれるままに卵の白身で手入れをさせるのも、いまは年寄りの平和な楽しみの一つである。  さて、こうして過ぎ去った日々をかえりみると、人間とはいかに浮き沈みするものであることよ、とつくづく思うのである。そして私自身も沈み、かつ浮いたものであるが、そうした長い七十一年間が一つのまとまった生き生きした思い出として胸に宿っているのは、私が幸せ者だという何よりの証拠であろう。相撲が私の人生に活気を吹きこんだのである。広い世界ではなかった、本当にせまい世界で私は首尾一貫したわけだが、あの暗い幼年時代を除いては外の生活を知らなかったということが、私のような頑固な変り者にはむしろどんなに幸せであったことか。  もしこの老人にただ一つ執着するものが残されるとしたら、恩を受けた多くの人々のことどもであろう。  昨年一月二十七日の午後四時、ちょうど千秋楽の当日に、まったく見知らぬ紳士が訪れて来て大比良正と名乗った。そして「私は孫です。先祖のお世話をして下さいましてありがとうございます。いったいどういういわれがあるのですか」と訊ねる。昔、草相撲に熱中していた悪童の私を東京へ送ってくれた質屋の御隠居喜平さんのお孫さんであったのだ。私はこの恩は忘れまいと四十三年の間墓参をかかさなかった。  一方その間にかんじんの大比良さん御一家は一度没落し、墓参も思うままにできなかったのだ。それが時にそっと墓にたちよってみると、必ず新しい塔婆が立っている。はて、不思議な……と思ったそうだ。それが住職にきいてようやくわかった。そして、このお孫さんはいまはたいそう出世された。「本当に何とお礼の申しようもない」といわれ、「いやいや、お礼はこちらが申したい。喜平さんなくては私の今日もなかった」と手をとり合って喜んだ。  そういえば、いつか、私が旅に出て留守であった時、家の門前を「金太郎、金太郎いるか」と呼ぶ老婆の声がして家内をおどろかせたという。妙な人があるものだと思い、いったいどなたですかと訊ねると、「昔、子守の金太郎に背負われていた石田屋の娘です。ああ、金太郎がいたら泊っていけというだろうに……」とつぶやくようにして去っていったそうだ。帰ってこの話をきき、生きていたのか、と思った。小便を私の背中にかけたあのアマッ子が老婆になって……。  そのお婆さんから先日手紙をいただいた。例の恥かしいできごとに激励の意味も加えてあり、最後にこう書いてあった――。 「今年は柿が一つもなりません。山の手ですから松茸はできますけれど、犬のシロにはわからないし、蛇がおっかなくてとりに行けません。景色はいいところですから、もう少し東京に近いと案内するのですが、あまりに遠くてだめです……」 底本:「文藝春秋昭和33年11月号」文藝春秋新社    1958(昭和33)年11月1日発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。