悲劇の騎士 原作ロスタン・エドモン 橋爪健著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)花《はな》のブルゴン座《ざ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三百|年《ねん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)モンフルーリイ※[#感嘆符二つ、1-8-75] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]花《はな》のブルゴン座《ざ》[#「花のブルゴン座」は中見出し] 「さあ、たいへんだ。今日《きょう》はこのブルゴン座《ざ》が、血《ち》の海《うみ》になるかもしれんぞ! どうぞ、大事《だいじ》にならないうちに、シラノさまを見《み》つけたいもんだ……」  芝居見物《しばいけんぶつ》にやってきた大《おお》ぜいの人《ひと》たちにまじって、一人《ひとり》の、背《せ》のひくい、ふとっちょの男《おとこ》が、なにか心配《しんぱい》そうにそんなことを口《くち》ばしりながら、ブルゴン座《ざ》の木戸《きど》の方《ほう》へかけこんでいきました。  それは、いまから三百|年《ねん》ほど前《まえ》、騎士道《きしどう》のはなやかだったころのこと、フランスの首府《しゅふ》パリでも第《だい》一|番《ばん》の劇場《げきじょう》、ブルゴン座《ざ》におこった出来事《できごと》です。  今日《きょう》のだしものは、そのころ大《おお》あたりをとった『クロイーズ』という芝居《しばい》で、主役《しゅやく》のモンフルーリイはじめ、ベルローズ、ジョドレなど、千|両《りょう》役者《やくしゃ》がそろって出《で》ることになっていました。  幕《まく》あきは二|時《じ》で、まだ小《こ》一|時間《じかん》もあるというのに、土間《どま》にはもう、芝居《しばい》の好《す》きなパリの市民《しみん》たちが、ぞくぞくとつめかけて、ガヤガヤさわいでいます。  土間《どま》の中《なか》ほどには、カルタをならべて、かけごとをやっている人《ひと》たちがいるかと思《おも》うと、何《なに》かいい獲物《えもの》はないかと、そっと目《め》を光《ひか》らせているスリもいます。  その間《あいだ》をぬって、かごをもった物売《ものう》り娘《むすめ》が、 「えー、みかんに牛乳《ぎゅうにゅう》……イチゴ酒《しゅ》にソーダ水《すい》……」  と、呼《よ》びあるいていきます。  そのうちに、土間《どま》の一《ひと》すみから、 「お面《めん》!」 「お小手《こて》!」  などという、勇《いさ》ましいかけ声《ごえ》が聞《きこ》えてきました。見《み》ると、二人《ふたり》の兵隊《へいたい》がたいくつまぎれに木刀《ぼくとう》をふるって、剣術《けんじゅつ》をやりだしたのです。  そのころのフランスは、ブルボン王家《おうけ》に忠誠《ちゅうせい》をちかう騎士《きし》たちの武術《ぶじゅつ》がさかんでしたから、土間《どま》の人《ひと》たちは、手《て》をうってよろこんでいます。  そのさわがしい土間《どま》の人波《ひとなみ》をかきわけながら、 「おや、どうしたんだろう……まだ来《き》なさらんのかな? 兵隊《へいたい》さんはたくさんいるが……」  と、キョロキョロ見《み》まわしているのは、さっきのふとっちょの男《おとこ》。人《ひと》のよさそうな赤《あか》ら顔《がお》が、心配《しんぱい》のあまり、いまにも泣《な》きだしそうです。  そのとき、灯《あかり》をつける若者《わかもの》が二、三|人《にん》はいってきて、場内《じょうない》の燭台《しょくだい》に、つぎつぎに火《ひ》をともしはじめました。  うす暗《ぐら》かったブルゴン座《ざ》の中《なか》は、一|時《じ》にパッと明《あか》るく、はなやいできました。  ワーッと、見物人《けんぶつにん》たちは一せいにはやしたてます。  そこへ、若《わか》い曲舎貴族《いなかきぞく》のクリスチャン男爵《だんしゃく》が、友人《ゆうじん》のリニエールと腕《うで》をくんで、やってきました。  兵隊《へいたい》で詩人《しじん》のリニエールは、どこかで酒《さけ》をのんできたらしく、まっ赤《か》な顔をニヤニヤさせていますが、クリスチャンは、キリリとした美《うつく》しい顔《かお》を青白《あおじろ》くしかめながら、左右《さゆう》にならんでいるボックス席《せき》の方《ほう》を、しきりに見《み》まわして、誰《だれ》かをさがしているようす。  このクリスチャンは、二十日《はつか》ほど前《まえ》、トーレーヌという地方《ちほう》からパリへ出《で》てきたばかりで、あした近衛《このえ》の青年隊《せいねんたい》に入隊《にゅうたい》することになっていました。  青年隊《せいねんたい》というのは、いくつかの戦争《せんそう》でてがらをたてた、国王《こくおう》の信任《しんにん》あついガスコン青年隊《せいねんたい》のことです。  一だん高《たか》い左右《さゆう》のボックス席《せき》には、美《うつく》しく着《き》かざった貴婦人《きふじん》たちが、つぎつぎに入《はい》ってきます。  土間《どま》にいる貴族《きぞく》たちは、それをながめて、遠《とお》くから手《て》をあげてあいさつしながら、 「うーむ、満場《まんじょう》、花《はな》のごとしだなあ!」  と、感嘆《かんたん》の声《こえ》をあげています。 「ねえ、リニエール……あのひとは、まだ来《こ》ないのかなあ?」  じっとボックス席《せき》を見《み》つめていたクリスチャンが、しびれを切《き》らしたように、いいました。 「やれやれ、とんでもない役目《やくめ》をひきうけちまったなあ」  と、リニエールも待《ま》ちきれないように、 「おれ、のどがかわいてたまらないや。もう飲《も》みに帰《かえ》るよ」 「いけない、いけない! 君《きみ》だけだよ、おれの大好《だいす》きなひとの名《な》まえをおしえてくれるのは……もう少《すこ》し待《ま》ってくれ!」  クリスチャンはあわてて、帰《かえ》ろうとするリニエールをひきとめました。  そのとき、にわかに、場内《じょうない》がアーッという感嘆《かんたん》のざわめきにみたされました。 「よう、パリの名花《めいか》、うるわしの姫君《ひめぎみ》のご到着《とうちゃく》だ!」  そんなささやきも聞《きこ》えます。  見《み》ると、右《みぎ》がわのボックス席《せき》に、目《め》のさめるように美《うつく》しい一人《ひとり》の貴婦人《きふじん》が、腰元《こしもと》をしたがえて、しずかに、あらわれたのです。 「おお、あのひとだ!」  突然《とつぜん》、クリスチャンが、リニエールの腕《うで》をはげしくひっぱりました。 「ほらッ、あのひとだよ。君《きみ》、早《はや》く、名《な》まえをおしえてくれ!」 「ああ、あれか!」  リニエールは、とくいげに答《こた》えました。 「あの姫君《ひめぎみ》を知《し》らないなんて、パリッ子《こ》の恥《はじ》だな。もっとも、君《きみ》はパリに来《き》てまもないから、むりもないが……あの姫《ひめ》はね、パリ一ばんの美人《びじん》といわれるマグドレーヌ・ロバン……人呼《ひとよ》んでロクサーヌ姫《ひめ》という」 「ああ、ロクサーヌ姫《ひめ》……ロクサーヌ姫《ひめ》か!……」  クリスチャンは、思《おも》わず口《くち》ばしりながら、美《うつく》しい白《しろ》の羽扇《はねおうぎ》をしずかに動《うご》かしているロクサーヌ姫《ひめ》のすがたを、うっとりと見守《みまも》るのでした。  かがやくばかりの金《きん》いろの髪《かみ》……青々《あおあお》と澄《す》んだひとみ……すきとおるような白《しろ》い肌《はだ》……しなやかなやさしいすがた……見《み》れば見《み》るほど、美《うつく》しいロクサーヌです。 「やあ、クリスチャン……君《きみ》もパリへ来《き》たばかりで、たいへんな女《ひと》を見《み》つけたもんだなあ!」  リニエールが、あきれたようにいうと、 「いや、さっきも話《はな》したように、せんだってこのブルゴン座《ざ》で、たった一ぺん会《あ》っただけなんだよ」  クリスチャンは、なおもじいっとロクサーヌを見《み》つめながら、 「だが、ねえ、リニエール……もしあのひとが、詩《し》や文章《ぶんしょう》のすきな、風流《ふうりゅう》なひとだと困《こま》るなあ。ぼくは気《き》のきかない武骨《ぶこつ》ものだから、話《はなし》をすることもできやしない。まして、きれいな文章《ぶんしょう》の手紙《てがみ》やあのひとをほめたたえる詩《し》なんぞ、とても書《か》けないし……」  と、心配《しんぱい》そうにためいきをつくのです。 「なに、詩《し》が書《か》けないって? そりゃいかんな。ロクサーヌ姫《ひめ》は、人《ひと》一ばい詩《し》のすきな女性《じょせい》だからな。へたな文句《もんく》でも書《か》こうもんなら、一ぺんであいそ[#「あいそ」に傍点]をつかされるよ」  リニエールがそういったとき、ふと、人《ひと》ごみの間《あいだ》からとびだしてきたのは、さっきのふとっちょの男《おとこ》です。  それを見《み》ると、リニエールはニッコリ笑《わら》って、 「やあ、ラグノオ、いいところへ来《き》た」  と、握手《あくしゅ》の手《て》をのばしながら、 「なあ、クリスチャン。この男《おとこ》はパリでも名代《なだい》のりっぱな料理屋《りょうりや》の主人《しゅじん》なんだがね、無職《むしょうk》以上《いじょう》に詩《し》がうまいときてるんだ。だから、こいつの店《みせ》は、詩人《しじん》や芸術家《げいじゅつか》たちのおなじみばかりでいつもいっぱいなんだよ」 と、クリスチャンに紹介《しょうかい》しました。 「いや、どうも……」  ラグノオと呼《よ》ばれたふとっちょの小男《こおとこ》は、わざとおどけた顔《かお》で頭《あたま》をかきながら、おじぎをしました。 「ところでラグノオ。これはおれの親友《しんゆう》クリスチャンだが、この男《おとこ》にひとつ手紙《てがみ》を書《か》いてやってくれないか。うんとすばらしい詩《し》の文句《もんく》でね」  リニエールに肩《かた》をたたかれて、ラグノオは困《こま》ったように、 「ごじょうだんでしょう。わしなんか、ほんのヘタの横《よこ》ずきってやつで……。詩《し》や文章《ぶんしょう》のことならどうぞ、あの天才《てんさい》のシラノさまにおたのみくださいまし。シラノさまなら、ズバリと一|言《ごん》、すばらしい詩《し》を、たちどころにお作《つく》りになりますからねえ。……ところで、わしは今《いま》、そのシラノさまをさがしているんですが、どこかで見《み》かけませんでしたかね?」 「なに、シラノだって? シラノがどうかしたのかい?」 「へえ、ごぞんじないんですか? シラノさまはね、役者《やくしゃ》のモンフルーリイがへんなことをしたんで、一カ|月間《げつかん》舞台《ぶたい》にでちゃいかんてしかりつけたんです。それなのに、モンフルーリイは芝居《しばい》をやろうとしているんで、事《こと》によると、今日《きょう》はたいへんなことがもち上《あが》るかもしれないんですよ」 「そうかい……そりゃ、おもしろいな」 「おもしろいどこじゃありませんぜ!」  ラグノオは、なおもハラハラしたようすで、あちこち見《み》わたしていましたが、そこへ、シラノの親友《しんゆう》の青年隊員《せいねんたいいん》ル・ブレが、やはりキョロキョロ見《み》まわしながら歩《ある》いてくるのを見《み》かけて、 「あ、ル・ブレさま! あなたもシラノさまをおさがしなんで?」 「うん、心配《しんぱい》しているんだ」  いいながら、ル・ブレは、ラグノオのところへ近《ちか》よってきました。 「ほんとに、あのシラノさまがお怒《いか》りになったら、モンフルーリイは、どんな目《め》にあうかわかりませんからね」 「そうなんだ。ひと騒動《そうどう》もち上《あが》るよ」  そのとき、そばにいた貴族《きぞく》の一人《ひとり》が、 「シラノとは、何者《なにもの》だい?」  と、ル・ブレにききました。 「剣《けん》にかけては達人《たつじん》で、しかも天才的《てんさいてき》な即興詩人《そっきょうしじん》……」  そばから、ラグノオとリニエールが、 「そのうえ、理学者《りがくしゃ》で、音楽家《おんがくか》……」 「おまけに、あの鼻《はな》ときたら、ちょっと類《るい》がないね」 「まったくですよ」  と、ラグノオは、あいづちをうって、 「どんな絵《え》かきだって、あのお鼻《はな》はかけますまい。象《ぞう》みたいにでっかくて、妙《みょう》ちきりんなお鼻《はな》……しかしね、みなさん。そのシラノさまの偉大《いだい》な鼻《はな》を、すこしでも睨《にら》めたり笑《わら》ったりしてごらんなさい。たちまち腰《こし》の剣《けん》がうなりをあげて、一|刀両断《とうりょうだん》と来《き》ますぜ」 「まったく、ぶっそうな鼻《はな》だ。君《きみ》もおぼえておけよ」  リニエールは、クリスチャンの肩《かた》をたたいて笑《わら》いました。  けれど、クリスチャンはシラノの話《はなし》になど耳《みみ》もかさず、ロクサーヌのすがたに見《み》とれています。 「おい、おい、クリスチャン。いいかげんにしたらどうだい。君《きみ》の見《み》とれているロクサーヌと、鼻《はな》の怪物《かいぶつ》シラノ・ド・ベルジュラックとは、いとこどうしなんだよ。気《き》をつけにゃいかんぞ」  そのとき、ボックスの中《なか》のロクサーヌのそばに、ひどくおしゃれな一人《ひとり》の貴族《きぞく》が近《ちか》づいて、なにか話《はな》しはじめたのを見《み》ると、クリスチャンは、サッと顔《かお》いろをかえました。 「誰《だれ》だ、あれは?……あの気《き》ざっぽい男《おとこ》は……」 「うむ、あれか。あれは有名《ゆうめい》なド・ギッシュ伯爵《はくしゃく》さ。あいつ、ロクサーヌのことをとても好《す》いていてね。こんな話《はなし》があるんだ」  リニエールはそういって、ド・ギッシュがじぶんの高《たか》い家柄《いえがら》を利用《りよう》して、手下《てした》のバルベール子爵《ししゃく》とロクサーヌをむりやり結婚《けっこん》させようとたくらんでいる話《はなし》をしてから、 「おれはそのド・ギッシュの腹黒《はらぐろ》いたくらみを見《み》やぶってね、それを小唄《こうた》に作《つく》って、ばらしてやったんだ。その小唄《こうた》ってのはね、ひとつ歌《うた》ってみようか」  と、よろよろと立《た》ちあがって、歌《うた》おうとしました。 「うーむ、そうか……こうしちゃいられない。さようならだ」  クリスチャンがいきなり立《た》ちあがって、土間《どま》を出《で》ようとするので、 「おい、おい、どこへ行《ゆ》く?」 「そのバルベールってやつのところへ行《い》って、決闘《けっとう》を申《もう》しこむんだ」 「ハハハ、早《はや》まるな。あいつはなかなかの剣術使《けんじゅつつか》いだ。君《きみ》のほうがやられるぞ。それより、クリスチャン」  と、リニエールはボックスの方《ほう》を指《ゆび》さしながら、 「見《み》ろ、ロクサーヌがこっちを見《み》ているぞ!」 「ウウ、ほんとだ!……」  クリスチャンは、ポカンと口《くち》をあけて、うっとりと見《み》とれています。  そのすきに、ひとりのスリが、そっとクリスチャンのそばに近《ちか》よってきました。 [#7字下げ]スリの告口《つげぐち》[#「スリの告口」は中見出し]  酒《さけ》ずきのリニエールは、いつのまにか町《まち》の酒場《さかば》へ飲《の》みに出《で》かけ、ル・ブレとラグノオもシラノをさがしに、どこかへ行《い》ってしまいました。  おりから、ボックス席《せき》のロクサーヌのところには、バルベール子爵《ししゃく》らしい、のっぺりした若《わか》い貴族《きぞく》が出《で》てきて、ド・ギッシュとならんでニヤニヤおせじ笑《わら》いしながら、ロクサーヌに何《なに》か話《はな》しかけています。  じっとそのようすを見《み》ているうちに、クリスチャンは、もうがまんができなくなりました。 「よし、あのバルベールめの面《つら》に、手袋《てぶくろ》をたたきつけてやるぞ! 決闘《けっとう》だ!」  口《くち》ばしりながら、ポケットに手《て》をつっこんで、手袋《てぶくろ》をとりだそうとしたとたん、ふと、誰《だれ》かの手《て》にぶつかりました。 「や!」  おどろいて、その手《て》をつかみながら、ふりかえると、 「あ、しまった!」  という低《ひく》い叫《さけ》び声《ごえ》……。  スリだったのです。スリそこねた目《め》つきのよくない男《おとこ》が、あわれっぽく笑《わら》いながら、 「かんべんしてくだせえ、おねがいです」 と、クリスチャンに片手《かたて》をつかまれたまま、一|生《しょう》けんめいあやまっているのでした。 「だんな、たいへんな秘密《ひみつ》をおしえてあげますで……ねえ、だんな、はなしてくだせえよ」 「なに、秘密《ひみつ》だって? なんのことだ?」  クリスチャンは、ゆだんなく手《て》をつかんだままで、そうききました。 「あなたのお友《とも》だちの、リニエールさんのことで……」 「え? リニエールがどうしたんだ?」 「あの方《かた》はいま酒場《さかば》へ行《い》ったでしょう? その帰《かえ》りを狙《ねら》われてるんですよ。あるおえらい方《かた》を小唄《こうた》でやっつけたもんだから、そのお方《かた》が怒《おこ》りなすってね。百|人《にん》ぐらいの荒《あら》くれ男《おとこ》をかり集《あつ》めて、今夜《こんや》待《ま》ちぶせしているんでさあ。わっしもその一人《ひとり》ですがね。」 「えッ、百|人《にん》だって? ふむ、ド・ギッシュのやつの陰謀《いんぼう》だな。よし、どこで待《ま》ちぶせしているんだ?」 「ネール門《もん》のとこですよ。リニエールさんが酒場《さかば》から出《で》て、家《いえ》へ帰《かえ》りなさる途中《とちゅう》を、バッサリやろうってわけで……」 「なんの、バッサリとは言《い》わせぬぞ。しかし、困《こま》ったな。パリ中《じゅう》に酒場《さかば》は多《おお》い。はて、リニエールはどの酒場《さかば》にいることやら……」  容易《ようい》ならぬスリの密告《みつこく》に、クリスチャンはあきれるやら怒《おこ》るやら……それでも、すぐにスリの手《て》をはなしてやりました。 「どうも、ありがとうさんで……だんな、いまからでもおそくはありませんぜ。酒場《さかば》という酒場《さかば》をまわって、その一|軒《けん》一|軒《けん》に、知《し》らせを書《か》いた紙《かみ》をあずけておくんですよ。そうすれば、きっとリニエールのだんなに連絡《れんらく》がつきまさあ」  スリはそういうと、すぐネズミのようにコソコソと消《き》えてしまいました。 「ああ、なんて卑怯《ひきょう》なやつだろう。たった一人《ひとり》のリニエールに、百|人《にん》もの手下《てした》をかからせるなんて!……」  クリスチャンは歯《は》がみをしながら、ロクサーヌのそばで何食《なにく》わぬ顔《かお》で話《はなし》をしているド・ギッシュとバルベールをにらみつけました。 「とにかく、リニエールを見殺《みごろ》しにはできない。ざんねんだが、ロクサーヌ姫《ひめ》ともおわかれだ」  そういいすてると、クリスチャンは大《おお》いそぎでブルゴン座《ざ》をとびだしていきました。  一|方《ぽう》、ル・ブレとラグノオはシラノをさがして小屋中《こやじゅう》かけまわっていましたが、いよいよ開幕《かいまく》らしく、舞台《ぶたい》から拍子木《ひょうしぎ》をたたく音《おと》が三つ聞《きこ》えてきたので、ホッとしたように顔《かお》を見《み》あわせました。 「とうとう来《こ》ないようだな、やっこさん……」 「ようございましたね、ル・ブレさま。しかし、シラノさまがお見《み》えにならないとなると、わたしはやっぱり物《もの》たりませんや」 「どうして?」 「いや、実《じつ》を申《もう》しますとね、このブルゴン座《ざ》の舞台《ぶたい》で、あのシラノさまの胸《むね》のすくような名《めい》セリフと剣《つるぎ》の舞《ま》いを見《み》たかったんでございますよ。あのシラノさまは、いのちをかけた決闘《けっとう》でも、けっしてむずかしい顔《かお》をなさらない。おれにとっては決闘《けっとう》なんぞ、ちょっとした剣《つるぎ》の舞《ま》いだよ。っておっしゃるんですからね。またそのお言葉《ことば》どおり、とてもお強《つよ》くて、ただの一ども、まけたことのないお方《かた》ですからねえ……」 「しかし、シラノもがんこなやつだからな、慾《よく》のふかい貴族《きぞく》連中《れんちゅう》には、ひどくきらわれているんだよ。たとえば、ほら、あの出世《しゅっせ》ばかりねらっているド・ギッシュのようなおえらがたにね」  そのとき、今《いま》までザワザワとやかましかった場内《じょうない》が急《きゅう》にしずかになると、重《おも》くたれた幕《まく》がスルスルとあげられました。  いよいよ、『クロイーズ』がはじまるのです。 [#7字下げ]シラノ現《あら》わる[#「シラノ現わる」は中見出し] 『クロイーズ』というのは、羊飼《ひつじか》いの人で、背景《はいけい》はうす青色《あおいろ》にぬられ、四つのガラスの燭台《しょくだい》がぽんやり舞台《ぶたい》をてらしています。  ゆるやかな笛《ふえ》の音《ね》といっしょに、主役《しゅやく》のモンフルーリイが、羊飼《ひつじか》いの衣裳《いしょう》をつけ、バラでかざった大《おお》きな帽子《ぼうし》を耳《みみ》までたらして出てきました。  ビールだるみたいにふとった体《からだ》を、ゆっくり動《うご》かしながら、角笛《つのぶえ》をふいています。 「いよう、モンフルーリイ! モンフルーリイ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」  土間《どま》からも、ボックス席《せき》からも、われるような拍手《はくしゅ》です。  モンフルーリイは、角笛《つのぶえ》をふくのをやめると、一|礼《れい》してから、さて、ゆうゆうと得意《とくい》の詩《し》を吟《ぎん》じはじめました。 [#ここから3字下げ] たのしきかなや ひそやかに 都《みやこ》はなれし ひとり居《い》の そよ風《かぜ》 木々《きぎ》を わたるとき…… [#ここで字下げ終わり]  そこまでつづけてきたときでした。  とつぜん、平土間《ひらどま》の中《なか》ほどから、 「このやろうッ。ひと月《つき》の謹慎《きんしん》をわすれたかッ!」  と、ものすごいドラ声《ごえ》がひびきわたったのです。  満場《まんじょう》、びっくり仰天《ぎょうてん》、その声《こえ》のほうをふりかえりました。 「なんだ、なんだ、どうしたんだ?」  土間席《どませき》の人《ひと》びとはもちろん、ボックス席《せき》の貴族《きぞく》や貴婦人《きふじん》たちさえ、目《め》をまるくしてのび上《あが》っています。  舞台《ぶたい》のモンフルーリイは、ふいをうたれて一しゅん、棒立《ぼうだ》ちになりましたが、すぐ気《き》をとりなおしたふうに、さきをつづけようとしました。  するとまた、大《おお》きな声《こえ》が、 「やい、大根《だいこん》やろうッ。とっとと舞台《ぶたい》からひっこめッ!」  と、どなりつけます。 「あッ、シラノだ!」 「おお、シラノさま!」  土間《どま》のすみにいたル・ブレとラグノオが、びっくりして叫びました。  けれど、ほかの観客《かんきゃく》たちの大部分《だいぶぶん》は、シラノのこわいことなど知《し》りませんから、口々《くちぐち》に、 「シーッ、うるさいぞ!……モンフルーリイ、こわがるな! やれ、やれ!」  と、わめきたてます。  モンフルーリイも、それにはげまされるように、おどおどした声《こえ》で、 [#ここから3字下げ] たのしきかなや ひそやかに 都《みやこ》はなれし…… [#ここで字下げ終わり]  と、やりなおしたとたん、 「やるか、ろくでなしめ! そのどてっ腹《ぱら》に、こいつをたたきこむぞ!」  声《こえ》といっしょに、一本《ぽん》のふとい杖《つえ》が、ニューッと平土間《ひらどま》の客《きゃく》たちの頭上《ずじょう》につきだされました。  モンフルーリイは、だんだん弱々《よわよわ》しい声《こえ》になりながらも、なおうたいつづけようとします。 「こらッ、出ていけ!」  モンフルーリイは、今《いま》やのど[#「のど」に傍点]をしめつけられたような声《こえ》をしぼりだしました。  その瞬間《しゅんかん》、ドシンと音《おと》がして、 「ええっ、もうかんべんならんぞッ」  とうとう、大音声《だいおんじょう》の主《ぬし》シラノ・ド・ベルジュラックが、平土間《ひらどま》からおどり上《あが》って、スックと椅子《いす》の上《うえ》にたちあがりました。  羽根《はね》かざりつきの帽子《ぼうし》をかぶった派手《はで》な青年隊《せいねんたい》の軍装《ぐんそう》で、腕《うで》をくみ、大砲《たいほう》のようなでっかい鼻《はな》の下《した》に口《くち》ひげをさかだてたかっこう[#「かっこう」に傍点]は、まったく、すさまじいばかりです。  場内《じょうない》は、たちまち総立《そうだ》ち、ワーッとさわぎ立《た》ちました。  ド・ギッシュ伯爵《はくしゃく》や、バルベール子爵《ししゃく》、そのほかのとりまき連中《れんちゅう》の貴族《きぞく》たちが、スワとばかりにドヤドヤと舞台《ぶたい》の横《よこ》へかけおりてきます。 「ど、どうぞ、ご加勢《かせい》をねがいますっ。どうぞ、み、みなさま!」  モンフルーリイは、ガタガタふるえながら、貴族《きぞく》たちに哀願《あいがん》しました。 「うむ、いいから、やれ!やれ!」  ド・ギッシュ伯爵《はくしゃく》が、おうようにあごをしゃくりますと、観客《かんきゃく》たちは、思《おも》わずシーンと静《しず》まりました。  が、椅子《いす》の上《うえ》のシラノは、 「ようし、やってみろ! ただじゃおかんぞ!」  と、一|歩《ぽ》もひきません。 「やかましい」  貴族《きぞく》の一人《ひとり》がどなりつけると、 「貴族《きぞく》どもは、だまっとるがよかろうぜ。それがいやなら、この杖《つえ》で、きさまらのリボンをひっぱがしてやろうかい」  シラノは、ハッタと貴族《きぞく》たちをにらみつけました。  貴族《きぞく》たちは、もうがまんができないというように、いきりたって、 「無礼者《ぶれいもの》、いいかげんにしろ! モンフルーリイ、しっかりやれ!」  いざとなれば、俺《おれ》たちがついているとばかり、モンフルーリイを応援《おうえん》するのでした。  シラノは、それを横目《よこめ》でチラリとにらみながら、ものともせずに、 「出《で》ていけッ、モンフルーリイ! いかなきゃ、耳《みみ》をたたっ切《き》って、はらわたをつかみだすぞ!」  それでも、モンフルーリイがまだ舞台《ぶたい》でまごまごしているのを見《み》ると、シラノはゆうゆうと腕《うで》まくりしながら、 「ようし、どうあっても消《き》えねえなら、舞台《ぶたい》をまな板《いた》にして、そのデブデブの腸《ちょう》づめを、ズタズタにしてくれるぞ!」  と、ほえつづけます。  さすがの観客《かんきゃく》たちも、シラノがあんまりいばるので、口《くち》ぐちに何《なに》かののしっていましたが、中《なか》の一人《ひとり》が大声《おおごえ》で鼻歌《はなうた》をうたいだしました。 [#ここから3字下げ] シラノのだんなが 大《おお》いばり それでも芝居《しばい》は やめられぬ… [#ここで字下げ終わり]  それをまねて、観客《かんきゃく》たちが大合唱《だいがっしょう》をはじめると、シラノは四|方《ほう》八|方《ぽう》にらみまわしながら、 「えい、こいつら! もう一ぺん歌《うた》ってみろ、すみからすみまで、なぐり殺《ころ》すぞ!」  と、われ鉦《がね》のような声《こえ》……。  そのけんまく[#「けんまく」に傍点]におそれをなした観客《かんきゃく》は、みんなだまりこんで、ジリジリとあとずさりしてしまいました。 「なんだ、弱虫《よわむし》めら!」  シラノは、ゆうゆうと椅子《いす》からおりると、まわりの人《ひと》びとのまん中《なか》に腰《こし》をおろしながら、またモンフルーリイの方《ほう》へむきなおりました。 「やい、モンフルーリイ! おれはな、きさまがこの芝居《しばい》からきっぱりと引《ひ》っこむところを見《み》たいんだ。さあ、今《いま》からおれが三ど手《て》をたたくからな、三どめの正直《しょうじき》で、すっぱりと消《き》えてなくなるんだぞ!」 「いよう、いいぞ、いいぞ!」  平土間《ひらどま》の人《ひと》びとが、おもしろがってはやしたてるうちに、シラノは、 「ひとーつ!」  と、大《おお》きく手《て》をうちました。 「おお、私《わたし》は、どうしよう……」  モンフルーリイは、ブルブルふるえながら、流《なが》れる汗《あせ》をふいています。 「逃《に》げるな、モンフルーリイ!」  そうどなったのは、ド・ギッシュです。 「は、はい……私《わたし》は、信《しん》じます、みなさま……」 「ふたーつ!」」  シラノの声《こえ》が、ひびきわたりました。 「わ、私《わたし》は、信《しん》じます……君子《くんし》あやうきに近《ちか》よらず……」 「みいーつ!」  シラノが三つめを数《かぞ》えあげるかあげないうちに、モンフルーリイは、落《おと》し穴《あな》へおちこむように、サッと舞台《ぶたい》から逃《に》げだしてしまいました。  ドッと起《おこ》る大笑《おおわら》い……。でも、中には、 「なんだ、いくじなし、出《で》てこい!」  と、どなりつける者《もの》もいます。  シラノは、大《おお》まんぞくげに椅子《いす》にそっくりかえって、足《あし》をくみながら、 「ふむ、出《で》られるもんなら、出《で》てみろ!」  と、あたりをにらみつけています。  さあ、こうなると、モンフルーリイの一|座《ざ》でも、このままほうっておくわけにはいきません。  すったもんだのあげく、年《とし》よりの役者《やくしゃ》ベルローズが舞台《ぶたい》へ出《で》てきました。 「さて、やんごとなき皆々《みなみな》さま……」  ベルローズは、もみ手《て》をしながら、気《き》どってしゃべりだしました。が、そんな口調《くちょう》は、気《き》さくな平土間《ひらどま》の客《きゃく》たちには受《う》けません。 「よせ、よせ、ひっこめ! ジョドレを出《だ》せッ、生《い》きのいいショドレを!」  その声《こえ》に、すぐジョドレという若《わか》い役者《やくしゃ》が出《で》てきて、 「イヨー、これは、これは、でくのぼうのおそろい!」  と、わざと下品《げひん》な言葉《ことば》で、いせいよく呼《よ》びかけました。「わーい、いいぞ、ジョドレ、ブラボー!」  平土間《ひらどま》のお客《きゃく》たちは大《おお》よろこび。 「いや、ブラボーどころか、みなさまごひいきの大鼓《たいこ》ばら、あわれなふとっちょモンフルーリイは少々《しょうしょう》腹痛《はらいた》をおこしまして……」 「片腹《かたはら》いたいや。おくびょう神《がみ》にとっつかれたんだい」 「お客《きゃく》の一人《ひとり》がいうと、ドッと大笑《おおわら》い。 「まあまあ、みなさま……それで、やむをえず、退場《たいじょう》いたさせました。まことに相《あい》すみませんが、木戸銭《きどせん》は出口《でぐち》でお返《かえ》し申《もう》しまアす!」  ジョドレの言葉《ことば》に、 「ひっぱりだせ!」 「よせよせ!」  などという声《こえ》が、あちこちから起《おこ》ります。 「まあまあ」  ジョドレはお客《きゃく》たちを制《せい》しながら、おずおずとシラノの方《ほう》にむきなおって、 「ですが、シラノさま。一たいぜんたい、あなたはどうしてモンフルーリイがおきらいなんですか?」 「ふむ……」  シラノは、よく言《い》ったというように、椅子《いす》に腰《こし》かたまま話《はな》しだしました。 「一《ひと》つずつにしても大《たい》へんな理由《りゆう》が、しかも二つもあるんだ。まず第《だい》一に、モンフルーリイは、ヘたくそ無類《むるい》の大根役者《だいこんやくしゃ》だ。あの水《みず》くみのかけ声《ごえ》みたいな音《ね》をはりあげたんじゃア、すばらしい名句《めいく》もだいなしだ。……第《だい》二には……これは、ちょっといえないおれの秘密《ひみつ》さ……」  と、シラノはなぜか、ちょっと恥《はず》かしそうに口《くち》ごもるのでした。 「モンフルーリイがへたくそだということはわかりましたが、それにしても、あなたが大事《だいじ》な芝居《しばい》の『クロイーズ』を、めちゃめちゃになさったことは、まことに残念《ざんねん》しごくで……」 「そんなに残念《ざんねん》か……」  と、シラノはせせら笑《わら》って、 「いやさ、そんなに残念《ざんねん》がらせて、そのままほうっておくシラノと思《おも》うのか。おれだって、まさか悲劇《ひげき》の神《かみ》さまテスピスのマントに穴《あな》をあけて、金《かね》をふんだくるつもりはないぞ。木戸銭《きどせん》は、おれから返《かえ》してやる」  そういうと、やにわに立《た》ち上《あが》って、重《おも》い金包《かねづつ》みを舞台《ぶたい》に投《な》げつけながら、 「さあ、福《ふく》の神《かみ》を宙《ちゅう》でうけとれエ。あとはだまっているがよかろうぜ!」 「いよう、いよう」  満場《まんじょう》おどろいてはやしたてます。  ジョドレは、手早《てばや》く金包《かねづつ》みをひろって、重《おも》さをはかりながら、 「これだけありゃア、木戸銭《きどせん》をみんな返《かえ》したって、大《おお》もうけだ。ねえだんな、あっしはあなたに毎日《まいにち》来《き》て、『クロイーズ』を邪魔《じゃま》していただきたいもんで……」  と、ほくほく顔《がお》。 「さあ、うち出《だ》しにしようぜ」  ベルローズにいわれて、 「うち出《だ》しでござーい!」  ジョドレの声《こえ》に、観客《かんきゃく》はやれやれといった顔《かお》つきで、舞台《ぶたい》の方《ほう》をみれんがましくふりかえりながら、ぞろぞろ帰《かえ》りはじめました。 [#7字下げ]一|大事《だいじ》![#「一大事!」は中見出し] 「おい、シラノ。どえらいことをやったなあ!」  ゆうゆうと帰《かえ》りじたくをしているシラノの肩《かた》を、そのときポンとたたいたのは、向《むこ》うの土間《どま》からかけつけてきたル・ブレでした。うしろには、ラグノオもついています。二人《ふたり》は、今《いま》までじっと事《こと》のなりゆきを眺《なが》めていたのですが、大《だい》したさわぎにもならずにすんだので、ホッとしてシラノを迎《むか》えにきたのです。 「やあ、ル・ブレ……」  シラノが何《なに》かいいかけようとしたとたん、一人《ひとり》の見《み》しらぬ男《おとこ》が、とつぜん横《よこ》から口《くち》をだしました。 「あんたは、ひどいことをなさる。モンフルーリイは名《な》だかい役者《やくしゃ》ですよ」  それは、世《よ》にいううるさがた[#「うるさがた」に傍点]の男《おとこ》で、この際《さい》なんとか一言《ひとこと》苦情《くじょう》をいわないではいられなくなったらしいのです。 「あの人《ひと》は、カンダール大公《たいこう》のおかかえですぜ。あんたには、後援者《パトロン》がありますかい?」 「あるもんか!」  シラノが、吐《は》きすてるようにいうと、 「ないんですかい、袖《そで》の下《した》にかくまってくださる殿《との》さまが……?」 「無《ね》えったら無《ね》えやい。そのかわりにや、この剣《つるぎ》がお守《まも》りだあ!」  シラノは、腰《こし》の剣《けん》をたたいてみせます。 「しかし、けっきょくかないませんね?」 「うるせえなあ、あっちへ行《い》け!」 「ですがね……」 「行《い》け! 行《い》かなきゃア、おれの鼻《はな》をジロジロ眺《なが》めるわけをいえ!」  シラノの目《め》の色《いろ》が急《きゅう》にかわったので、その男《おとこ》は、あわてて後《あと》ずさりしはじめました。シラノはジリジリとつめよりながら、 「鼻《はな》にふしぎでもあるのか?」 「いえ、そんな……」 「象《ぞう》の鼻《はな》みたいにブランブランか?」 「そんな……わっしは」 「それとも先《さき》っぽにイボでもみつけたのか?」 「いいえ、どう、たしまして」 「じゃあ、何《なに》かほかに珍妙《ちんみょう》キテレツなことでもあるのか?」 「いえ、いえ、わっしだってそこんとこを拝見《はいけん》しちゃいけないくらいは、心《こころ》えておりますんで……」  シラノは、ピクンと鼻《はな》をうごめかして、 「そうか、どうして見《み》ちゃいけないんだ!」 「じつは、そのう……」 「色《いろ》が毒々《どくどく》しいってのか?」 「そんな、あなた……」 「かたちがへんてこなのか?」 「と、とんでもない……」 「じゃあ、なぜ、へんなつらをするんだ……貴様《きさま》はきっとこの鼻《はな》が少々《しょうしょう》でかすぎると思《おも》ってるんだな?」 「いえ、そのお鼻《はな》は、小《ちい》さいですよ。まったく、ちっぽけで……」 「なんだと? この鼻《はな》が小《ちい》さいって? ふざけるねえ!」  その男《おとこ》が、へどもどしてふるえていると、シラノは、いちだんと声《こえ》はりあげて、 「でっけえやい、この鼻《はな》あ! ゲスなシシッ鼻《はな》、トンマなあぐら野郎《やろう》! それでも、おれはな、こいつがとてもじまんなんだあ。わけがききたきゃ教《おし》えてやるが、でっけえ鼻《はな》はな、やさしくって、気《き》がよくって、いせいがよくって……はやい話《はなし》が、このおれさまのような人間《にんげん》のウソイツワリのない一|枚《まい》看板《かんばん》だあ!」  いいながら、ピシャリと、その男《おとこ》の横《よこ》っつらをはりとばしました。 「アイタタタ、たすけてくれえっ」  男《おとこ》は顔色《かおいろ》をかえて、あとをもみずに逃《に》げて行《い》きます。  そのようすを舞台《ぶたい》からながめていたド・ギッシュ伯爵《はくしゃく》は、そのとき、貴族《きぞく》たちをひきつれて平土間《ひらどま》へおりてきました。 「えい、いつまでも、うるさいやつじゃ」 「ほんとに、にくらしい奴《やつ》ですねえ」  そばからそういったのは、バルベール子爵《ししゃく》です。二人《ふたり》は、美《うつく》しいロクサーヌ姫《ひめ》を、自分《じぶん》たちのものにしようとしているのですが、なにしろ、がんこなシラノが、ロクサーヌの従兄《いとこ》なので、じゃまになってしょうがない。だから、なおさらシラノが、にくらしくてならないのです。 「誰《だれ》もあいつを、やっつけるものはないのか?」  ド・ギッシュがプリプリしながらいいますと、 「私《わたし》が、やっつけてやりましょう」  バルベールは大胆《だいたん》にも、つかつかとシラノの方《ほう》へ歩《あゆ》みよりました。 「おや、こいつはおもしれえ。弱虫《よわむし》のおしゃれ貴族《きぞく》が怒《おこ》ったぞ!」  観客《かんきゃく》たちは、芝居《しばい》よりもおもしろいことが起《おこ》りそうなので、またぞろぞろもどってきます。  バルベールは、シラノの視線《しせん》にぶつかると、一しゅん、ハッとしましたが、わざと大《おお》げさなせきばらいをしながら、もったいぶってシラノの前《まえ》にたちはだかりました。  シラノは、おや? というように、ニッコリ笑《わら》っています。  さて、バルベールは何《なに》からきりだしたものかと、まごまごしながら、 「貴公《きこう》は……貴公《きこう》の鼻《はな》は……ウウ……べらぼうに、で、でっかいなあ」  そのしゅんかん、シラノの笑《わら》いがフッと消《き》えて、目《め》がキラリと光《ひか》りました。近《ちか》くで見《み》ていたル・ブレとラグノオは、思《おも》わずドキリとして、顔《かお》を見《み》あわせています。 「でっかいとも!」  まじめくさったシラノの答《こた》えに、バルベールは二の句《く》がつげず、 「ワッハッハッ」  と、ただ笑《わら》うばかり。 「なんだ、それだけか?」 「待《ま》て、待《ま》て……まだある」  バルベールは、悪口《あっこう》のさきを考《かんが》えようと頭《あたま》をひねっているのですが、なかなか言葉《ことば》が見《み》つかりません。 「ええッ、ぼんくらめ! 早《はや》くいわんか。待《ま》ちどおしいやい。おれならいえるぞ。いや、あるわあるわ、山《やま》ほどあるわ。それも、いちいち調子《ちょうし》をかえてよ……これから手本《てほん》を見《み》せてやるから、よっく聞《き》け!」  シラノは、ポンと一《ひと》つ胸《むね》をたたいて、しゃべりだしました。 「まず、けんか腰《ごし》でいやア――『やい、この野郎《やろう》、そんな鼻《はな》がおれのものなら、ぬく手《て》も見《み》せず切《き》ってすてるわ!』  いなかっぺいなら、こういうだろう――『ヘッ、これでも鼻《はな》けえ? ちがうだんべえ。ちっくいカボチャか、でっけえカブラだ』ってな」  シラノは、油《あぶら》に火《ひ》がついたように、少《すこ》しのよどみもなく、ペラペラと自分《じぶん》の鼻《はな》のわる口《くち》をまくしたてます。 「お上品《じょうひん》でゆけば、こうなんだ――『君《きみ》がやさしの親《おや》ごころ、かわいい小鳥《ことり》のとまり木《ぎ》に、もすこし鼻《はな》をのべたもれ』……  下品《げひん》なやつならいうだろう――『パクリパクリと貴様《きさま》のタバコ、鼻《はな》がけむりか、けむりが鼻《はな》か、となり近所《きんじょ》がむせかえる』ってな……」  こんなお手本《てほん》を、なおも三つ四つあげてから、シラノは、えへんと一《ひと》つせきばらいをして、 「みろ、ざっとこれくらいのことは、いくらか教育《きょういく》と才気《さいき》のあるものなら、いつでもいってのけられようが、いやはや凡夫《ぼんぷ》のあさましさ。才気《さいき》なんか、これっぽっちもありゃすまい。はばかりながら、おれなんざあ、言葉《ことば》のあやは縦横無尽《じゅうおうむじん》。どんなことでも思《おも》うまんまに使《つか》いこなしてお目《め》にかけらあ。  マヌケを絵《え》にかいたみたいな貴公《きこう》なんか、このおれさまに、いっぱしたんか[#「たんか」に傍点]を切《き》ろうたって、ちと無理《むり》な話《はなし》でござんすわい」  まるでレコードに吹《ふ》きこんであったかのように、シラノは調子《ちょうし》よくたてつづけにしゃべりまくりバルベールに一言《ひとこと》も口《くち》だしするすきを与《あた》えません。  これには、はじめ息《いき》ごんでいたバルベールも、すっかりたまげてしまいました。  けれど、こうなっては、どうにもひっこみがつかないのです。 「おい、子爵《ししゃく》。こんなやつは、うっちゃっておくがいい」  味方《みかた》あやうしと見《み》た貴族《きぞく》連中《れんちゅう》が、そばから助《たす》け舟《ぶね》をだしましたが、バルベールは、なおも肩《かた》をいからせ、息《いき》せきながら、 「ち、ちきしょう、大《おお》きな面《つら》をしくさって……なまいきな! 手袋《てぶくろ》もせんで、こ、このいなか武士《ざむらい》め! リボンもつけずに出歩《である》くたあ、なんという恥知《はじし》らずだッ」  と、ほえたてました。  シラノは、平然《へいぜん》とそれをながめながら、 「ハッハッハ、おれの飾《かざ》りは胸《むね》の中《なか》にあるんだあ。くだらぬおしゃれなんざあ、そっちのけ。心《こころ》の手入《てい》れをしているんだ。よごれてくさった名誉心《めいよしん》、生血《いきち》のかよわぬ腰《こし》ぬけだましいなんか、これっぽっちも持《も》っちゃおらんわい。身《み》のまわりをはなやかに飾《かざ》るのは、リボンじゃないぞ、戦功《いさおし》だあ! ていさい気《き》どりのヘナチョコ貴族《きぞく》たあ、わけがちがうぞ!」  と、ひと息《いき》にまくしたてました。 「だ、だが、きさまは……」  バルベールが、しどろもどろにいうと、 「ふん、手袋《てぶくろ》がないっていうんだろう? それがどうしたんだ。おれみたいな決闘《けっとう》ずきの男《おとこ》はな、手袋《てぶくろ》なんかいくつあってもたりやしねえ。みんな、たたきつけてしまったんだ」 「なにをッ、こっぱ天狗《てんぐ》! でくの棒《ぼう》! 笑《わら》われるのの乞食《こじき》やろうめ!」  それを聞《き》くと、シラノは、 「おお、さようでござるか」  と、帽子《ぼうし》をとって、わざとていねいに敬礼《けいれい》しながら、 「貴公《きこう》がそう名乗《なの》るんなら、おれも名乗《なの》って聞《き》かせよう。シラノ・サビニャン・エルキュール・ド・ベルジュラックたあ、おれのことだ!」  この巧《たく》みな冗談《じょうだん》に、まわりの人《ひと》はドッと笑《わら》いだしました。  バルベールは、顔《かお》をまっ赤《か》にして、 「こ、この、恥知《はじし》らずめッ、来《こ》いッ!」  もうがまんがならないというように、いきなり腰《こし》の剣《けん》を抜《ぬ》きはなちました。 [#7字下げ]劇場《げきじょう》の決闘《けっとう》[#「劇場の決闘」は中見出し] 「ふむ、いい度胸《どきょう》だ!」  ニヤリとほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑《え》んだシラノは、うれしそうに腰《こし》の剣《けん》をさすりながら、 「この剣《けん》も、しばらく夜泣《よな》きしとったわい。久《ひさ》しぶりで血《ち》の目《め》を見《み》せてやれるぞ」 「フン、切《き》れものを持《も》てば、すぐ使《つか》いたがる貧乏詩人《びんぼうしじん》め!」  バルベールが吐《は》きだすようにいうと、 「そうとも、そうとも」  と、シラノはニッコリ笑《わら》って、 「おっしゃるとおり、シラノは詩人《しじん》でござります。詩人《しじん》も詩人《しじん》、チャンチャンバラバラやりながら即興《そっきょう》でバラッドを作《つく》ってごらんにいれるわ!」  シラノのいうバラッドとは、そのころ流行《りゅうこう》した詩《し》の一|種《しゅ》で、八|行《ぎょう》の詩《し》を三つ連《つら》ね、そのあとに四|行詩《ぎょうし》を一つつけ加《くわ》えたものです。  バルベールは、シラノのいうことがよくのみこめないらしく、剣《けん》をかまえたまま、目《め》をパチクリしています。 「ははは、わからんのか。こうなんだ。ちゃんと韻《いん》をふんだバラッドをその場《ば》でうたいながらナ、それにあわせて剣《つるぎ》の舞《ま》いをやろうってんだ。そうしてナ、最後《さいご》の行《ぎょう》をうたい終《おわ》るといっしょにグッサリいこうって寸法《すんぽう》なんだ。どうだ、かくごはいいか!」  シラノの説明《せつめい》に、バルベールは、 「なんの、いくものか!」  と、赤《あか》い胸《むね》あてをそらして、力《りき》みかえりました。 「いくとも! みごとにグッサリやってみせるぞ!」  そういうと、シラノは突然《とつぜん》、朗読《ろうどく》するように声《こえ》をはりあげました。 「ただいまより、当《とう》ブルゴン座《ざ》において、シラノ・ド・ベルジュラック、腰《こし》ぬけ貴族《きぞく》と決闘《けっとう》のバラッド!」  それを聞《き》くと、バルベールはまた、ピンと来《こ》ないような顔《かお》つき。 「それは一|体《たい》、なんのことだ?」 「芝居《しばい》の題目《だいもく》さ!」  シラノは、ケロリとして答《こた》えました。  さあ大《たい》へん、芝居《しばい》ならぬ本《ほん》ものの決闘《けっとう》が、このブルゴン座《ざ》で始《はじ》まろうというのです。 「やあ、おもしろいぞ!」 「芝居《しばい》よりずっとおもしろそうだ」 「しかも口ハだぜ、こたえられねえ」 「さあ、席《せき》につけ、席《せき》につけ」  見物《けんぶつ》の人《ひと》びとは、口《くち》ぐちにわめきながら、ドッと引《ひ》き返《かえ》してきました。  こうなると、劇場《げきじょう》の中《なか》はもう貴族席《きぞくせき》も町人席《ちょうにんせき》もありません。泥靴《どろぐつ》のまま貴族席《きぞくせき》の見《み》やすいところへ駈《か》けこんでゆく町人《ちょうにん》もあれば、足《あし》をふまれて、キャーッと悲鳴《ひめい》をあげている女《おんな》の人《ひと》もいます。  いまや、ブルゴン座《ざ》の中《なか》は、まるでハチの巣《す》をつついたようなさわぎ。  一|方《ぽう》、シラノの親友《しんゆう》であるル・ブレやラグノオたちは、いよいよ大《たい》へんなことになったと気《き》が気《き》ではないが、しかし、今《いま》さらひきとめるわけにもいかず、ただハラハラして見守《みまも》るばかり。  ところが、貴族《きぞく》たちの仲間《なかま》は、案外《あんがい》おちつきはらって、白手袋《しろてぶくろ》の腕《うで》をくみ、胸《むね》をそらせて立《た》っています。やはり、剣《けん》ではバルベールの方《ほう》が強《つよ》いと思《おも》っているからでしょう。  バルベールは、もうさっきから、剣《けん》をつきだして、大《おお》げさに身《み》がまえていましたが、シラノの方《ほう》は、ゆうゆうとおちつきはらって、ちょっと目《め》をつむりました。詩《し》の文句《もんく》を考《かんが》えているのです。 「よし、できたぞ。さあ、来《こ》い!」  ニッコリ笑《わら》ったシラノは、大声《おおごえ》で詩《し》を吟《ぎん》じはじめました。 [#ここから3字下げ] まずは 帽子《ぼうし》を サラリと投《な》げだし 足手《あして》まといの でっかいマントを エイコラサッと かなぐりすてて…… [#ここで字下げ終わり]  その詩《し》のとおりに、身《み》ぶりよろしく帽子《ぼうし》とマントをぬぎすてると、すぐ腰《こし》の剣《けん》をぬきはなちながら、 [#ここから3字下げ] ここで 刀《かたな》を スラリとひんぬく 粋《いき》なすがたは 軍神《マルス》も顔《かお》まけ 飛鳥《ひちょう》のようなる すばやい身《み》ごなし 耳《みみ》をほじって 聞《き》けやい チョビひげ 反歌《はんか》のむすびで グッサリいくぞ! [#ここで字下げ終わり]  そのとき、シラノの剣 (けん》と、子爵《ししゃく》の剣《けん》が、サッと、いなずまのように、ふれあいました。  しばらく、どちらも息《いき》をひそめて、相手《あいて》のすきを狙《ねら》っています。  劇場《げきじょう》の中《なか》は、水《みず》をうったように、シーンと静《しず》まりました。  やがてまた、シラノの野《の》ぶとい声《こえ》が、ろうろうと、ひびきわたります。 [#ここから3字下げ] 弱虫《よわむし》いじめは したくもないが なまいき面《づら》の 七面鳥《しちめんちょう》野郎《やろう》は たまにゃ こらして やらねばなるまい どこを刺《さ》そうか のど輪《わ》へいくか それとも 水月《みずおち》 どでっぱら おこのみしだいに おみまい申《もう》すぞ ねらいたがわぬ 電光石火《でんこうせっか》 反歌《はんか》のむすびでグッサリいくぞ! [#ここで字下げ終わり]  調子《ちょうし》よくスラスラと詠《うた》いながら、シラノはじりじりとバルベールにせまっていきます。  バルベールは、それを打《う》ちかえすどころか、シラノの剣《けん》をふせぐだけで精《せい》いっぱい。剣《けん》をもつ手《て》もブルブルとふるえ、紙《かみ》のように青《あお》ざめた顔《かお》には、あぶら汗《あせ》がジットリとにじんでいます。  こうなってくると、いままで自信《じしん》たっぷりだった貴族《きぞく》たちも、急《きゅう》にあわてだして、 「子爵《ししゃく》ッ、いつもの腕前《うでまえ》をみせてやれ!」 「タカが知《し》れた相手《あいて》だ。早《はや》いとこ、やっつけてしまえ!」  などと、夢中《むちゅう》に声援《せいえん》をはじめました。  シラノは、ニッと笑《わら》いながら、なおも詩《し》を吟《ぎん》じつづけます。 [#ここから3字下げ] 調子《ちょうし》をとるのが そろそろめんどう おっと 逃《に》げたな こしぬけ子爵《ししゃく》め 汗《あせ》はタラタラ 血《ち》の気《け》もうせたぞ そんな太刀先《たちさき》ア 鼻《はな》にもとどかぬ 一|刀両断《とうりょうだん》 くそでも食《く》らえだ さそいのスキだな その手《て》は食《く》わねえ なまくら刀《かたな》が ふるえておるわい 反歌《はんか》のむすびで グッサリいくぞ! [#ここで字下げ終わり]  その詩《し》にあわせて、シラノの剣《けん》が舞《ま》うにつれ、バルベールの手《て》つきや足《あし》もとは、だんだんあやしくなってきました。  見物《けんぶつ》の伯爵《はくしゃく》たちも、まっさおな顔《かお》をしています。  シラノは、そこで一《ひと》いき深呼吸《しんこきゅう》すると、おもむろに反歌《はんか》をうたいだしました。 [#ここから3字下げ] いざいざ 神《かみ》に お助《たす》けたのめ きっさき はずして 手《て》もとにとびこみ 目《め》にもとまらず…… えいッそらどうだ! [#ここで字下げ終わり]  いうより早《はや》く、パッととびこんだシラノの一《ひと》つきで、バルベールは胸《むね》をさされ、バッタリ倒《たお》れてしまいました。 [#ここから3字下げ] 反歌《はんか》のむすびで グッサリいったぞ! [#ここで字下げ終わり]  血《ち》にそまった剣《けん》を高《たか》くかざして一|礼《れい》しながら、シラノはゆうゆうと、反歌《はんか》のむすびをとなえて剣《つるぎ》をおさめました。  ワーッと、満場《まんじょう》は拍手《はくしゅ》大《だい》かっさい。花《はな》たばやハンケチが、吹雪《ふぶき》のように乱《みだ》れとび、軍人《ぐんじん》たちは大《おお》よろこびで、シラノをとりまき、 「ブラボー!」 「みごとだぞ!」 「バラッドもすてきだったなあ!」  と、口《くち》ぐちにほめそやします。 「ワーッ、壮絶《そうぜつ》快哉《かいさい》!」  ラグノオも、おどり上《あが》ってよろこんでいます。 「文武両道《ぶんぶりょうどう》ねえ! ほんとにすばらしいわ!」  二|階《かい》のボックス席《せき》から、貴婦人《きふじん》のためいき声《ごえ》も聞《きこ》えてきます。  そのとき、一人《ひとり》のたくましい歩兵士官《ほへいしかん》が、ツカツカとシラノの方《ほう》に歩《あゆ》みよって、手《て》をさしのべ、 「おめでとう! 握手《あくしゅ》してくれたまえ。じつに見事《みごと》だったよ。ぼくも、この道《みち》にかけては、いくらか自信《じしん》があるが、こんな風流《ふうりゅう》な決闘《けっとう》ははじめてだ」  そういって、シラノの手《て》をグッとにぎると、すぐ去《さ》っていきました。 「おい、いまのは誰《だれ》だい?」  シラノがきくと、 「名《な》だたる剣客《けんかく》、ダルタニアンさ」  そばへやってきたル・ブレは、そう答《こた》えて、シラノの肩《かた》に手《て》をかけながら、 「おい、シラノ。とんでもないことをしでかしたなあ!」  と、ささやきました。かれは、親友《しんゆう》の勝利《しょうり》を心《こころ》から喜《よろこ》びながらも、相手《あいて》が相手《あいて》だけに、今後《こんご》のなりゆきが心配《しんぱい》でならないのです。 [#7字下げ]勇士《ゆうし》のなやみ[#「勇士のなやみ」は中見出し]  ブルゴン座《ざ》劇場《げきじょう》の窓《まど》からは、やわらかな光《ひかり》につつまれて、しだいに暮《く》れていくパリの街々《まちまち》が見《み》おろせます。  シラノをとりかこんでいた人《ひと》たちも、やがてだんだんに散《ち》ってゆきました。  ラグノオも、店《みせ》の用事《ようじ》があるからと、かえっていき、シラノのそばには、ル・ブレだけが残《のこ》りました。  ル・ブレは、シラノの腕《うで》をかかえて、 「おい、シラノ、どうしても君《きみ》に話《はな》したいことがあるんだが……みんないなくなってから話《はな》すよ。それまで晩飯《ばんめし》でもたべていることにしようや」  と、いいました。 「俺《おれ》はくわないよ」  そういうシラノの声《こえ》は、ちょっとさびしそうです。 「えっ、くわない? いったい、どうしたんだ?」  シラノはあたりをキョロキョロみまわして、人《ひと》が遠《とお》のいたのを見《み》とどけると、 「すかんぴんだからさ」  ニヤリと笑《わら》うのです。 「あ、そうか! 君《きみ》もバカだなあ。なんだってあの金《かね》づつみを投《な》げちまったんだ?」 「おやじのしおくり、一|日《にち》でフィだ……」 「ほんとに、月末《げつまつ》までのくらしをどうするんだ? 君《きみ》のおやじさんだって、月《つき》に二|度《ど》なんて送《おく》っちゃくれまい…」  ル・ブレは心配《しんぱい》のあまり文句《もんく》をいっぱいならべたてます。 「からっけつの文《もん》なしで行《い》くさ!」 「おしいことをしたなあ。君《きみ》はむちゃだよ」 「ハハハ、しかし、あれでリュウインがおったよ」  二人《ふたり》とも、あたりに誰《だれ》もいないと思《おも》って、こんな話《はなし》をしていました。  ところが、そばに小《ちい》さな物売《ものう》り台《だい》があって、そのかげから赤《あか》いリボンをつけた物売《ものう》り娘《むすめ》が、おずおず顔《かお》を出《だ》して、 「シラノさま……」  と呼《よ》びかけました。 「あなたのような立派《りっぱ》なかたが、なにもお食《た》べにならないなんて……わたくし、聞《き》くだけでも悲《かな》しくなってしまいます。ここにあるものなら、なんでもお好《す》きなだけ、めし上《あが》って下《くだ》さいまし」  とつぜんの女《おんな》の声《こえ》に、シラノもル・ブレも、びっくりして、ふりむきました。  人《ひと》のいいシラノは耳《みみ》まで赤《あか》くなりながら、すっかりおそれいって帽子《ぼうし》をぬぐと、うやうやしくおじぎをしながらいいました。 「これはおやさしい娘《むすめ》さんだ。わしの誇《ほこ》りのガスコン魂《だましい》では、見知《みし》らぬ人《ひと》からごちそういただくわけにいかないのだが、おことわりしてはかえって失礼《しつれい》。ではほんの少《すこ》しいただきましょう」  シラノは物売《ものう》り台《だい》に近《ちか》よると、ブドウの一粒《ひとつぶ》をとろうとしました。 「あら、ひとふさおとり下《くだ》さいまし」 「いや、一粒《ひとつぶ》でたくさん。それからコップに水《みず》を……」 「ブドウ酒《しゅ》がありますわ」 「水《みず》でたくさんです。あなたのご好意《こうい》は、お腹《なか》に入《はい》ればブドウ酒《しゅ》に変《かわ》るというものです。それからマカロニを半分《はんぶん》……」  これでは小人《こびと》の食事《しょくじ》みたいです。 「おい、それっぱかり……」  そばでル・ブレも笑《わら》っています。 「ほんとうですわ。もっとなにかおとり下《くだ》さいませ!」 「よろしい。では、手《て》をとって、せっぷんしてあげましょう」  そういうと、娘《むすめ》がさしのべるかわいい手《て》を、貴婦人《きふじん》の手《て》のように、せっぷんしました。 「どうもありがとうございます」  物売《ものう》り娘《むすめ》はまっ赤《か》になりながらも、うれしそうにそういって、入口《いりぐち》の方《ほう》へいってしまいました。 「さあ、おまえの話《はなし》を聞《き》いてやろう。いったい、どんなことなんだ?」  いいながら、シラノはいま受《う》けとったマカロニやブドウや水《みず》を台《だい》の上《うえ》にならべました。 「食《く》いものに……のみものに……デセールというわけさ!」  シラノはマカロニを食《た》べながら、 「やれやれ、べらぼうに腹《はら》がへったよ。さあ、話《はな》せよ」 「いや、これというほどのことではないんだがね、あんな貴族風《きぞくかぜ》をふかせるいばりん坊《ぼう》をいちいち相手《あいて》どっていた日《ひ》にゃ、君《きみ》のつむじはまがるばかりだよ。それに、やつらは自分《じぶん》の地位《ちい》や力《ちから》にものをいわせて、どんなしかえしをするかわからんじゃないか…もうちっと考《かんが》えてから行動《こうどう》しろよ!」 「うん、どえらいことになるだろうさ」 「じょうだんじゃないぜ。ド・ギッシュの伯父《おじ》さんのリシュリウ閣下《かっか》だって、あのとき見ていたんだ」 「そうかい、あの僧正《そうじょう》もか?」  シラノは、むしろうれしそうです。 「今夜《こんや》だけでも、君《きみ》はたくさんの敬意《けいい》をかかえこんだぜ」 「どれくらいだ?」 「四十八|人《にん》。しかも男《おとこ》だけでだ」  シラノは、ブドウの一粒《ひとつぶ》をうまそうに食《た》べてから、コップの水《みず》をグーッとひといきに飲《の》みほしました。 「まあ、かんじょうしてみろ、ル・ブレ」 「まず、モンフルーリイだろう……それから、あの、なぐりとばしたうるさい男《おとこ》……ド・ギッシュと、バルベール子爵《ししゃく》……そして貴族《きぞく》らの味方《みかた》の学者《がくしゃ》連中《れんちゅう》……それに……」 「やあ、たくさん、たくさん……もう、やめてくれ」  シラノは、目《め》のふちにしわをよせて、片手《かたて》をふりました。 「しかし、君《きみ》のようにいちいちつっかかっていったんじゃあ、このさきが思《おも》いやられるよ。どうするつもりなんだ」  ル・ブレが心配《しんぱい》そうにいうと、シラノは、急《きゅう》にしんみりとした口調《くちょう》で、 「じつは、俺《おれ》も、まよっていたんだ。どうしたらいいかってことが、たくさんあってね。それで、まず、えらんだのは……」 「どういうんだ、それは?」 「なあに、たいしたことじゃないさ。とにかく、これからはだ、何《なに》ごとでも人《ひと》にヤンヤといわせてくれようってね、そうきめたんだ」 「そういうシラノの声《こえ》は、なにかすてばちのように聞《きこ》えました。 「そうか、それもいいが……」  と、ル・ブレは、あらたまったように、 「じゃあ、もう一《ひと》つ聞《き》くがね……どうして君《きみ》は、モンフルーリイが舞台《ぶたい》にたつと気《き》にくわないんだ? ぼくにだけ、ほんとのわけを話《はな》してくれないか」 「かんたん明瞭《めいりょう》さ」  シラノは、グイと立《た》ちあがりながら、 「あの、へその頭《あたま》へ手《て》もまわらないブクブクの大根《だいこん》やろうはだな、あれでもまだ女《おんな》の人《ひと》にすごい人気《にんき》があると、うぬぼれていやがるんだ。それで、舞台《ぶたい》でベチャクチャしゃべりながら、あのカエルみたいな目《め》のくり玉《たま》をひんむいて、女《おんな》の方《ほう》をジロリと見《み》るんだ。それだけなら、まだいいが……」 「どうした?」 「なんとしても、俺《おれ》ががまんできなかったのは……つい、このあいだのことさ……人《ひと》もあろうにあの女《おんな》の顔《かお》を……ゾッとするような、いやらしい目《め》で、ジイッと見《み》つめていたんだ!」 「なに、あの女《おんな》だって? 君《きみ》でも……?」  ル・ブレは、びっくりしました。シラノが、あの女《おんな》なんて言葉《ことば》を口《くち》にするのは、はじめてのことです。  シラノは、ニッと苦笑《にがわら》いしながら、 「おれでも、女《おんな》のことを思《おも》うかっていうのか?」  そういうと、こんどは急《きゅう》にまじめくさった声《こえ》で、 「うむ、じつは、思《おも》っているんだ」  ル・ブレは、思《おも》わず目《め》をみはって、 「ううむ、そうか……こりゃ初耳《はつみみ》だ。ぜひ、話《はな》してくれないか」  と、身《み》をのりだしました。  シラノは、目《め》をパチパチやりながら、 「ああ、ル・ブレ……考《かんが》えてもみろ。おれはな、どんなきたない女《おんな》にだって、好《す》かれるなんて思《おも》いやあしない。どこへ行《い》くにしろ、本人《ほんにん》より十五|分《ふん》も前《まえ》にとどいているようなこの大鼻《おおはな》じゃあ。だがね、こっちから好《す》くとなりゃあ……そりゃあもちろん、とびきりの美人《びじん》にこがれたっていいじゃないか」 「え? とびきりの美人《びじん》だって?」 「うむ、そうだ。この世《よ》に二人《ふたり》といない、あでやかで、上品《じょうひん》な……一口《ひとくち》にいやあ、かがやくばかり難《むずか》しい金髪《ブロンド》の女性《じょせい》だ!」  シラノは、誰《だれ》もいなくなった二|階《かい》のボックスの方《ほう》を見《み》あげながら、せつなそうにいうのです。 「ええッ、おどろいたなあ……その美《うつく》しい女性《じょせい》って、いったい誰《だれ》なんだい?」 「思《おも》うまいと心《こころ》にちかっても、そのすぐあとからおしよせてくる、あの命(いのち》とりの美《うつく》しさ……何《なに》ものもとろかすような、あの愛《あい》らしい微笑《ほほえみ》……やさしくて、みやびやかで、いきいきとしていて……ああ、あの花《はな》やかなかごにゆられて、パリの街《まち》をねりあるく彼女《かのじょ》のすがたを見《み》るだけでも、まったく気《き》が遠《とお》くなる思《おも》いだよ」 「ほう! こりゃ大《たい》へんだ!」  と、ル・ブレは、すわっていた腰《こし》かけからとびおりながら、 「わかったぞ! それは、君《きみ》のいとこのマグドレーヌ・ロバンだろう?」  と、シラノの腕《うで》をつかみました。 「そうだ……ロクサーヌだ!」  シラノは、ガックリと首《くび》をたれました。 「うむ、こいつはすばらしいぞ! 君《きみ》は、ね、シラノ。思《おも》いきってその心《こころ》をあの女《ひと》にうちあけるんだ。今日《きょう》も彼女《かのじょ》は、君《きみ》のみごとな腕《うで》まえを見《み》ていたんだぜ」  ル・ブレは、わがことのように目《め》をかがやかせて、親友《しんゆう》の耳《みみ》に力強《ちからづよ》くささやきましたが、なぜかシラノの目《め》はかなしげにうるんでいます。 「なあ、ル・ブレ……おれを見《み》てくれ……この顔《かお》のまんなかにそびえているやつが、どれだけじゃまになるか……ああ、おれは、この顔《かお》じゃあ、まったく自信《じしん》がもてないんだ。……だがなあ、俺《おれ》だって、月《つき》の美《うつく》しい夜《よる》ともなれば、やるせない気《き》にもなるさ。夜風《よかぜ》があまくかおる庭《にわ》のなかでも、好《す》きなあの女《ひと》とあるいてみたくなってくる。それで、われを忘《わす》れて、夢《ゆめ》みごこちで、庭《にわ》をさまよっているうちにね、ふっと気《き》がついてみりゃあ、庭《にわ》の白《しら》かべにうつっているけったい[#「けったい」に傍点]なすがたは、なんと、この俺《おれ》の横顔《よこがお》じゃないか!」  そういうと、シラノは髪《かみ》の毛《け》をひきむしりながら、くるしげに顔《かお》をかかえこんでうつむいてしまいました。  あの強《つよ》い、ほがらかなシラノに、こんな深《ふか》いなやみがあろうとは!……ル・ブレは、思《おも》わず胸《むね》をうたれました。 「まあ、そういうなよ。それは、思《おも》いすごしというもんだ」 「だけどなあ……俺《おれ》だって、時《とき》にやふさぎこむこともあるんだ。まったく、よくもこんなみにくい面《つら》をしてるのかと思《おも》うと、ひとりぼっちで……」  うつむいたまま、シラノが声《こえ》をつまらせたので、ル・ブレは、あわててその手《て》をとりながら、心配《しんぱい》そうにいいました。 「おい、泣《な》いてるのかい?」 「なあに、泣《な》いたりなんぞするものか」  と、顔《かお》をあげたシラノは、うるんだ目《め》をニッとほころばせながら、 「こんな鼻《はな》の上《うえ》を、ポロポロなみだが流《なが》れたら、それこそみっともなくて見《み》ちゃいられまい。なみだってものは、美《うつく》しい、けだかいものなんだ。それをこんないやしい鼻《はな》でけがさせてなるものか。この俺《おれ》のために、一|滴《てき》のなみだだって、他人《たにん》の笑《わら》いものにされてたまるものか!」 「シラノ、もうそんなにいうなよ。考《かんが》えるほどむずかしいこともなかろうぜ」  やさしくなぐさめるル・ブレに、シラノは強《つよ》く顔《かお》をふりました。 「いいや、そんなあまっちょろいもんじゃない。おれは、クレオパトラのようなロクサーヌを、したっているのだ。その俺《おれ》に、シーザーのようなすがたがあるかね?」 「でも、君《きみ》には、シーザーのような勇気《ゆうき》があるじゃないか」 「しかし、それだけじゃあ、あの女《ひと》はふりむいてくれまい」 「それに、君《きみ》にはすばらしい才気《さいき》がある。文武両道《ぶんぶりょうどう》の天才《てんさい》シラノと、パリ一の名花《めいか》ロクサーヌ……よく似《に》あうじゃないか」 「いうだけのことさ」 「いちいちがっかりするなよ。さっき君《きみ》に食《た》べるのを出《だ》してくれた娘《むすめ》だって、君《きみ》をきらってやしないじゃないか」 「そういえば、そうだなあ」  シラノは、ちょっと元気《げんき》づいたように、目《め》をあげました。 「そうだろう! だからさ、あの決闘《けっとう》のときにも、ロクサーヌはまっ青《さお》になって見《み》ていたよ!」 「まっ青《さお》に?……」 「うん。あのひとの心《こころ》も、君《きみ》の腕《うで》まえにすっかり感激《かんげき》してしまったのだ! このさい、思《おも》いきってうちあけるんだね……」 「いけない、だめだ! それこそ、鼻《はな》であしらわれるよ」  シラノは、吐《は》きだすようにいいました。  かれは、じぶんの弱《よわ》みを、ようく知《し》りぬいているのです。  そのやっかいなシラノの悩《なや》みに、ル・ブレもほとほと手《て》をやいてしまいました。  この時《とき》です。貴族《きぞく》につかえている腰元《こしもと》らしい女《おんな》が、門番《もんばん》に案内《あんない》されて劇場《げきじょう》のなかへはいってきました。  いまさら芝居《しばい》もないのにと思《おも》っていると、門番《もんばん》がシラノのそばにやってきて、 「あの女《おんな》のかたが、あなたにお目《め》にかかりたいそうですが……」  と、いうのです。  おや? と思《おも》って、入口に《いりぐち》たっている女《おんな》のひとをみると、それこそロクサーヌの腰元《こしもと》ではありませんか。 「や、どうしたことだ! あのひとの腰元《こしもと》がきた!」  シラノのほおは、急《きゅう》にいきいきとしてきました。  やがてそばへやってきた腰元《こしもと》は、うやうやしくおじぎをして、 「ごめんください。勇敢《ゆうかん》でごりっぱなお従兄《いとこ》さまに、ロクサーヌさまからお目《め》にかかりたいとのお話《はなし》でございます」  と、もったいぶっていうのです。  シラノは夢《ゆめ》かとばかりおどろいて、 「なに、わたしに会《あ》いたいって?」  と、ききかえしました。 「さようでございます。申《もう》しあげたいことがたくさんおありなのだそうでございます」  腰元《こしもと》は、ばかていねいに、なんべんもおじぎをして話をつづけます。 「えっ、たくさん?」 「さようでございます!」 「ああ、これはどうしたことだ……」  シラノは思《おも》わずよろめいてしまいました。 「あすの朝早《あさはや》く、聖《せい》ロックの御堂《みどう》へミサにまいられます。そのお帰《かえ》りに、どこかでお話《はなし》をいたしたいそうで……」 「ええッ?……どこかで?……ああ!……」  シラノは、ル・ブレの腕《うで》にもたれかかりました。 「どうぞ、おはやく、ごへんじを……」 「いま考《かんが》えているんで!」 「どちらへおうかがいいたしましょうか?」 「うむ、あのう……ラグノオの家《うち》へ……あの料理店《りょうりてん》の……」 「場所《ばしょ》はどちらで?」 「あのう……どこだっけな……ああ、聖《せい》オノレ町《まち》ですよ……」  腰元《こしもと》は、またもていねいに腰《こし》をかがめておじぎをすると、 「では、おうかがいいたしますから、きっとおいでになって下《くだ》さいまし。七|時《じ》ちょうどでございますよ」 「だ、だいじょうぶ……いっています……」  あまりのうれしさに、声《こえ》もろくろくだせないシラノ。  腰元《こしもと》は、気《き》どったふうに、しずしずと外《そと》へでていきました。 [#7字下げ]行《ゆ》け、ネール門《もん》へ[#「行け、ネール門へ」は中見出し] 「ああ、俺《おれ》に!……あの女《ひと》から……話《はなし》がある!……」  シラノは、ル・ブレの腕《うで》にだかれたまま、夢《ゆめ》みるようにいいました。  ル・ブレも、わがことのように喜《よろこ》んで、 「どうだい! もう悲《かな》しかないだろう?」 「ああ、何《なに》はともあれ、あのひとは、俺《おれ》のことを忘《わす》れちゃいなかったのだ!」 「さあ、こうなったら、おちつくがいいよ」 「うむ、こうなっちゃあ……」  うれしさのあまり、われを忘《わす》れたシラノは、大声《おおごえ》をはりあげて、 「おれは熱狂《ねっきょう》してわめきまわるぞ! 勇気《ゆうき》なら十|人前《にんまえ》、腕《うで》づくならば二十|人力《にんりき》だ。よせる大軍《たいぐん》なんのその、巨人《きょじん》のむれよ、ござんなれだあ!」  さけびながら、ル・ブレの肩《かた》をわしづかみにして、劇場《げきじょう》の中《なか》をぐるぐるとんでまわります。  ル・ブレの顔《かお》はもう、もみくちゃにされてまっ赤《か》になっています。  ちょうど、その少《すこ》し前《まえ》から、舞台《ぶたい》では、あすの芝居《しばい》のけいこがはじまっていました。  喜劇役者《きげきやくしゃ》たちがピカピカ光《ひか》る赤《あか》や黄色《きいろ》の服《ふく》をつけて、セリフをくりかえし練習《れんしゅう》しています。  バイオリン弾《ひ》きも、劇《げき》にあわせて音楽《おんがく》をかなでていましたが、そのとき、シラノのとほうもないさけび声《ごえ》に、音楽《おんがく》は急《きゅう》にとまってしまいました。 「あっ、もしもし、そこのお方《かた》! おしずかに! けいこをはじめますから……」  くるったようにおどりまわっている二人《ふたり》に、むちを持《も》った座長《ざちょう》が声《こえ》をかけました。 「よろしい、出《で》ていってやるよ!」  シラノは笑《わら》いながら気《き》がるにいうと、ル・ブレをだいたまま、出口《でぐち》の方《ほう》へいこうとしました。  そのとき、ドヤドヤと靴音《くつおと》もさわがしく、四、五|人《にん》の青年隊員《せいねんたいいん》が、すっかりよいつぶれたリニエールをかかえて入《はい》ってきました。 「シラノ! たいへんだ!」  隊員《たいいん》の一人《ひとり》が声《こえ》をかけました。 「どうしたんだ?」  シラノがふりかえると、 「どえらいことがはじまるんだ!」 「リニエールじゃないか!……どうしたってんだ?」 「君《きみ》をさがしていたんだ。リニエールが家《うち》へ帰《かえ》れないでいるんだ」 「どうして?」  リニエールは、シラノの声《こえ》をきくと、ホッとしたようなもつれ声《ごえ》で、 「お、おれがね……ド・ギッシュをやじった唄《うた》をつくったろう……それでね……しかえしをされるんだ。百|人《にん》でね、ネール門《もん》で……待《ま》ちぶせているんだ……命《いのち》があぶない……家《うち》へ帰《かえ》るにゃあ……あそこを通《とお》らなくちゃならないんだ……今夜《こんや》は君《きみ》のとこで、寝《ね》かせてくれよう!」  と、泣《な》きだしそうにいうのです。 「一|人《にん》に百|人《にん》だって?……よし、今夜《こんや》はきさまの家《うち》へ寝《ね》かせてやらあ!」 「だって、君《きみ》……」  リニエールは恐《おそ》ろしそうに、ブルブルふるえています。このさわぎに芝居《しばい》のけいこは止《とま》ってしまい、門番《もんばん》も役者《やくしゃ》たちも、ぞろぞろ集《あつま》ってきました。  シラノは、ポカンと立《た》っている門番《もんばん》のちょうちんをみると、それを指《ゆび》さして、 「さあ、このちょうちんをもって、歩《ある》け!……今夜《こんや》は俺《おれ》がきっときさまを守《まも》ってやらあ!」  と、どなりました。  リニエールは、すばやく門番《もんばん》からちょうちんをとりあげました。 「ああ、それから君《きみ》らは遠《とお》くからついてきたまえ。しかし、俺《おれ》がたたかっているうちにあぶなくなったって、ご加勢《かせい》はごめんこうむるよ!」  シラノにそういわれた青年隊員《せいねんたいいん》たちは、 「しかし、相手《あいて》は百|人《にん》だからなあ」  と、顔《かお》を見《み》あわせました。 「百|人《にん》がなんだ! 今夜《こんや》のおれは、千|人力《にんりき》だあ!」  大《おお》はりきりのシラノに、ル・ブレはあきれて、 「こんなよっぱらいを、どうして守《まも》ってやるんだ?」  シラノは、リニエールの肩《かた》をたたきながら、 「なぜかって……俺《おれ》はなあ、このよっぱらいが大好《だいす》きなんだ。見栄《みえ》もお世辞《せじ》もなくって正直《しょうじき》で、そのうえ、こいつの持《も》っている詩《し》の才能《さいのう》がすっかり気《き》に入《い》ったんだ」  そばに集《あつま》ってきた喜劇女優《きげきじょゆう》たちは、 「どうして、こんな弱《よわ》そうな詩人《しじん》に百|人《にん》もかかるのでしょうねえ」  と、目《め》をまるくして、シラノの顔《かお》をみあげます。 「それはねえ、こいつが俺《おれ》の友《とも》だちだってことをみんな知《し》っているからさ。それで俺《おれ》をやっつけようってわけさ……」  シラノは、リニエールの手《て》をとって、 「さあ、行《い》こう!」  と、身仕度《みじたく》をはじめました。 「まあ、わたし見《み》にいくわ!」 「いきましょうよ。すてきだわ!」  女優《じょゆう》たちは舞台《ぶたい》の服《ふく》をつけたまま、いっしょに行《い》こうというのです。 「よしっ! ついてこい。芝居《しばい》の医者《いしゃ》さまも、老人《ろうじん》も、みんなこい! 茶目《ちゃめ》ずきなわいわい連中《れんちゅう》はそばで景気《けいき》をつける役《やく》になれ!」  女優《じょゆう》たちはとびあがって、よろこびました。 「まあ、うれしい。早《はや》くいきましょう!」 「マントと頭巾《ずきん》をとってよお!」 「けいこなんか、どうだっていいんだよ」  シラノを先頭《せんとう》に、リニエール、青年隊《せいねんたい》の連中《れんちゅう》、そのあとに大勢《おおぜい》の役者《やくしゃ》や女《おんな》たちが並《なら》んで、みるまににぎやかな行列《ぎょうれつ》ができ上《あが》りました。  シラノは、舞台《ぶたい》にともされているローソクをとると、みんなにくばってやりました。  暗《くら》い劇場《げきじょう》のなかに、灯《あかり》をもった人《ひと》たちの顔《かお》が、あかあかと照《て》らしだされました。 「バィオリン弾《ひ》きの諸君《しょくん》は、ここで行進曲《こうしんきょく》をやってくれ! 立派《りっぱ》な士官《しかん》たちと、衣裳《いしょう》まばゆいご婦人《ふじん》たちだあ! 俺《おれ》の血《ち》しおもわきかえるわ!」  バイオリン弾《ひ》きたちは、調子《ちょうし》のよい勇《いさ》ましい曲《きょく》をいっせいにひきはじめました。 「さて、それでは行列《ぎょうれつ》の出発《しゅっぱつ》としよう。諸君《しょくん》、さっきもいったように、手《て》だすけはあいならんぞ!……一、二の三! 門番《もんばん》、門《もん》をあけろい!」  門番《もんばん》は小《こ》ばしりにはしっていって、入口《いりぐち》の扉《とびら》をあけました。  さーっと絵《え》のような夜《よる》のパリがあらわれました。 「いよう! まるで門出《かどで》を祝《いわ》うお月《つき》さまだなあ。青《あお》い月《つき》の光《ひかり》がパリのまんなかを流《なが》れるセーヌ川《がわ》を光《ひか》らせていらあ。さあ、いよいよこれからが見《み》ものだぞ!」 「ネール門《もん》へ!」 「ネール門《もん》だ!」  人《ひと》びとは、口《くち》ぐちに叫《さけ》びました。  シラノはゆったり剣《けん》をぬくと、しきいの上《うえ》につったって、いっそう大《おお》きな声《こえ》で呼《よ》ばわりました。 「行《い》け! ネール門《もん》へ!」 [#7字下げ]無銭飲食店《むせんいんしょくてん》[#「無銭飲食店」は中見出し]  さて、ここはシラノ・ロクサーヌが、対面《たいめん》することになっている詩人《しじん》のレストラン(料理店)ラグノオの店《みせ》です。  料理店《りょうりてん》と菓子屋《かしや》とをかねた大《おお》きな店《みせ》で、とくに主人《しゅじん》のラグノオは大《だい》の文学好《ぶんがくず》き。  詩人《しじん》ときたら、お金《かね》はなくとも喜《よろこ》んで料理《りょうり》を食《た》べさせるので、いつのまにやら、『詩人《しじん》無銭飲食店《むせんいんしょくてん》』と呼《よ》ばれるようになりました。  聖《せい》オノレ街《がい》とアルブル・セック街《がい》のかどにある、風《ふう》がわりな料理店《りょうりてん》です。  客用《きゃくよう》のテーブルには、あちらこちらに日《ひ》まわりの花《はな》がいけてあり、黒《くろ》い天井《てんじょう》からは、鵞鳥《がちょう》やカモや白《しろ》クジャクが、ギッシリとつるさがって、まるでシャンデリアのようにみえます。  レストランの朝《あさ》は、それはそれはいそがしくて、入《はい》りたての職人《しょくにん》はなにをしたらよいのか、まったくてんてこまい。  窓《まど》から入《はい》ってくる朝《あさ》の光《ひかり》に銅《どう》なべ[#「なべ」に傍点]が、キラキラかがやき、火《ひ》の上《うえ》には焼《やき》ぐしがいいにおいをはなって、くるくるまわっています。  料理台《りょうりだい》の上《うえ》には肉《にく》が山《やま》のようにつまれ、ハムが幾本《いくほん》もぶらさがり、料理番《りょうりばん》や給仕《きゅうじ》たちの羽根飾《はねかざ》りをつけたコック帽《ぼう》が、あちらにいったり、こちらへきたりして、朝食《ちょうしょく》のしたくに大《おお》わらわ。  ラグノオはいつものくせで、小《ちい》さなテーブルによりかかり、さも楽《たの》しそうに詩《し》を書《か》いています。  そこへ職人《しょくにん》たちが、できたての料理《りょうり》や菓子《かし》を、次《つぎ》つぎと運《はこ》んで、主人《しゅじん》にみせにきます。 「ヘーい、果物入《くだものい》りのお菓子《かし》でござあい!」 「フランス焼《や》きのとびきり上等《じょうとう》でござあい!」 「お次《つぎ》は、羽根《はね》つきのクジャクやき!」 「当店名物《とうてんめいぶつ》、ロアンソオルでござあい!」 「牛《うし》のむしやきでござあい!」  職人《しょくにん》たちの声《こえ》に、ラグノオは書《か》く手《て》をとめ、エンピツを耳《みみ》にはさむと、立《た》ちあがりました。  そして自分自身《じぶんじしん》にきかせるように、 「うむ、もう朝《あさ》の光《ひかり》が銅《どう》なべにちらついているな! さて、ラグノオよ、しばし書《か》く手《て》をやめよかし! いまや、かまどの時《とき》なれば……か」  と、いいながら、詩《し》をよむように料理《りょうり》のみまわりをはじめました。  詩人《しじん》かぶれのラグノオは、料理《りょうり》につける注文《ちゅうもん》までも文学的《ぶんがくてき》にいうのです。 「おい、このソースをもうちっとのばしてくれ。すこし、濃《こ》すぎるよ」 「どのくらい、のばしましょうか?」 「詩《し》なら三|行《ぎょう》くらいだな」 「えっ!」  職人《しょくにん》は、わけのわからない注意《ちゅうい》に、二の句《く》がつげず、目《め》を白黒《しろくろ》させています。  その次《つぎ》は、パンを作《つく》っている職人《しょくにん》の前《まえ》にいって、パンをとりあげながら、 「このパンのわれ目《め》のぐあいはいかん。句切《くぎ》りといってな、これはまんなかにあるもんだ。詩《し》の半行《はんぎょう》と半行《はんぎょう》とのあいだになきゃあな」  それから、小僧《こぞう》の見習《みなら》いが、ぶきっちょな手《て》で、くし[#「くし」に傍点]に肉《にく》をさしているのを見《み》ると、 「おい、おまえはな。その長《なが》ったらしいくしにな、こじんまりした若鳥《わかどり》と、がんじょうな七|面鳥《めんちょう》をたがいちがいにさしていくんだ。つまり、詩《し》の言葉《ことば》の強弱《きょうじゃく》をうまいぐあいにつなぎあわせて、そいつを火《ひ》の上《うえ》でぐるぐるまわすってわけよ!」 「そんなことをいいながら、料理場《りょうりば》をまわっていきます。  そこへ一人《ひとり》の小僧《こぞう》が、大皿《おおざら》をとくいげに運《はこ》んできました。  みれば、何《なに》やら皿《さら》の上《うえ》にもってあるものとみえ、別《べつ》の小皿《こざら》でふたがしてあります。 「親方《おやかた》。あっしゃ、親方《おやかた》のお気《き》にいるように、ちょっくらこんなものを作《つく》ってみたんですがね……」  小僧《こぞう》がふたをとると、中《なか》から大《おお》きなお菓子《かし》の琴《こと》がでてきました。 「やあ、琴《こと》か! いいおもいつきだなあ!」  ラグノオは目《め》をかがやかし、とび上《あが》ってよろこびました。 「パン粉《こ》でこしらえたんで……」 「ほう! 果物漬《くだものづけ》も使《つか》ってあるな。こりゃいい。店先《みせさき》にかざることにしようや!」  小僧《こぞう》はしきりにもみ手《て》をしながら、他《ほか》の仲間《なかま》にどうだいといわんばかりの顔《かお》。 「この絃《いと》にゃあ、苦心《くしん》しましたよ! 砂糖《さとう》でこさえたんで……」 「うん、よくやったな、おまえは詩人《しじん》ラグノオのあとつぎになるかもしれん。これで一ぱいやってくれ」  ラグノオは、ふところから銀貨《ぎんか》を一|枚《まい》とり出して、小僧《こぞう》の手《て》ににぎらせるのでした。  そこへ、リーズが入《はい》ってきました。  ラグノオのおかみさんです。ふとった大《おお》きな体《からだ》をゆすぶりながら、額《ひたい》には玉《たま》のような汗《あせ》をかいています。 「シーッ、おかみさんだ! 早《はや》く逃《に》げろ。銭《ぜに》をかくせやい!」  小僧《こぞう》は、あわてて料理場《りょうりば》へはしりこみました。  ラグノオは、雷《かみなり》さまみたいなリーズを見《み》ながら、てれくさそうに大皿《おおざら》の琴《こと》をみせます。 「どうだい、すばらしいだろう?」  リーズは、両手《りょうて》にかかえていた紙《かみ》ぶくろの山《やま》を帳場《ちょうば》にドサリとおくと、チラッと皿《さら》のお菓子《かし》に目《め》をやりながら、 「ふん。ばかばかしいねえ!」  と、ケンもホロロのあいさつ。  がっかりしたラグノオは、リーズのもってきた紙《かみ》ぶくろを整理《せいり》にかかりましたが、よくみると、それは日《ひ》ごろ、ラグノオが大事《だいじ》にしている詩《し》の原稿《げんこう》ではありませんか。 「しまった! おれの友《とも》だちの詩《し》を……やぶいて、ばらばらにして……こともあろうに菓子《かし》ぶくろにしちまいやがった!……おまえは、ラグノオさまが、どんなにこれを大事《だいじ》にしているか、しらないのか!」  リーズはケロリとして、 「何《なに》いってんのさ。くだらないへっぽこ詩人《しじん》らが、飲《の》み食《く》いのかんじょう代《がわ》りにおいてったものなんか、どんなにしたっていいじゃあないか!」 「なにッ! へっぽこだと? 下《くだ》らねえアリのくせに、神聖《しんせい》なセミの悪口《わるぐち》をいやがって! この、キツネつきめ!」  ラグノオはお菓子《かし》の琴《こと》をかかえたまま、大《おお》きなリーズに喰《く》ってかかります。 「ねえ、おまえさん。あんな詩人《しじん》たちとつきあわないころは、わたしのことを、アリだとか、キツネつきだなんて、いわなかったじゃないかね!」 「あんな詩人《しじん》たちとねえ。おい、お前《まえ》はむだ口《ぐち》をたたくけど、その中《なか》にゃパリ一の、いいや世界《せかい》一のシラノさまもおいでなさるんだ! つべこべいって、おれの文学《ぶんがく》才能《さいのう》をけなそうったって、そうはいかんぞ!」 「じゃあ、これがどんな役《やく》にたつというんだね?」 「アリンコに何《なに》がわかるもんか! これは、詩《し》というもんだ。散文《さんぶん》といっしょにされて、たまるかいッ!」  小男《こおとこ》のラグノオと、でっかいリーズの口《くち》げんかは、いつまでたっても終《おわ》りそうもありません。  そこへ、店《みせ》のドアをいきおいよくあけて、男《おとこ》の子《こ》が二人《ふたり》かけこんできました。 [#7字下げ]紙袋《かみぶくろ》の詩《し》[#「紙袋の詩」は中見出し] 「子《こ》どもしゅう、なにがほしいんだ?」  ラグノオがきくと、 「バタパンを三つおくれ!」  子《こ》どもは、どっさりつまれたパンやお菓子《かし》のガラスだなをのぞきながら、 「そこのこんがりやけているのを……」  と、いいます。 「そうよ! まだあったけえぞ……」  ラグノオがパンをとって、子《こ》どもにわたそうとすると、 「たのむよ、ふくろに入れておくれったら!」 「えッ! ふくろに?……なさけねえなあ!」  ラグノオはおしそうに、ふくろをとりあげ、パンを入《い》れながら、そこに書《か》いてある詩《し》をよみはじめました。 [#ここから3字下げ] 青《あお》き湖畔《こはん》に日《ひ》は暮《く》れて オーボエ遠《とお》くききながら マルガレーテが花《はな》をつむ つぶらなひとみに湖《みずうみ》の 青《あお》きニンフがしのびより ささやきかわす森《もり》のかげ…… [#ここで字下げ終わり] 「いや、とんでもねえ! こんなやさしい詩《し》をやれるものか!」  ラグノオはそのふくろを横《よこ》において、次《つぎ》のふくろをとりあげました。 [#ここから3字下げ] おさなごの夢《ゆめ》のごと 広《ひろ》き大地《だいち》をかけめぐり 羊《ひつじ》の群《むれ》とさまよいぬ…… [#ここで字下げ終わり] 「や、これもだめだ……」  いかにもおしそうに、ふくろをしまいにかかります。 「早《はや》くしてくれよ!」  子《こ》どもはせきたてます。  おくで見《み》ていたリーズは、にえきらないラグノオのしぐさに、とうとうしびれをきらせて、店先《みせさき》へやってきました。 「なにをぐずぐずしてるんだね!」  ラグノオは思《おも》わずちぢみあがって、 「へい、へい、へい。今《いま》やりますよォーだ!」  と、あきらめながら、次《つぎ》のふくろをとりあげました。 「こいつもいい詩《し》なんだがなあ……」 「いい気味《きみ》さ! どこまでおめでたいんだ、この人《ひと》は!」  リーズは肩《かた》をそびやかしながら、皿《さら》をならべにかかります。  それをよこ目《め》でながめると、ラグノオは出《で》ていこうとする子《こ》どもたちを小声《こごえ》でよび返《かえ》しました。 「なんだい? おじさん」 「シーッ! そのふくろを返《かえ》してくれ。そのかわり、バタパンを六つにしてやるからな!」 「わあッ、ありがてえ!」  子《こ》どもらが、大《おお》よろこびでいってしまうと、ラグノオは、ニンマリ笑《わら》いながら、ふくろのしわをていねいにのばし、さて、その詩《し》を読《よ》もうとしましたが……、 「あっ、いけねえ! このすばらしい詩《し》に、バターのしみがついちまった!」  思《おも》わず口《くち》ばしったそのとき、足音《あしおと》もあらくとびこんできたのは、ほかならぬシラノ・ド・ベルジュラックです。 「これはこれは、大先生《だいせんせい》……お早《はよ》うさんで!」  ラグノオは、うれしくてたまらないように、頭《あたま》をさげました。  シラノは、よほどあわてて駆《か》けてきたものと見《み》え、息《いき》もあらあらしく、 「いま、何時《なんじ》だ?」 「きっかり六|時《じ》でございます」 「うむ、あと一|時間《じかん》だ!……」  シラノは、店《みせ》の中《なか》を行《い》ったり来《き》たりして、ひどく興奮《こうふん》しているようす。  ラグノオは、そのあとをくっついてまわりながら、 「拝見《はいけん》しましたよッ! 実《じつ》にすばらしい……わたしゃ、この胸《むね》がスーッとしましたわい」 「なんのことだ?」 「あなたの大勝負《だいしょうぶ》ですよ!」 「どっちのだ?」 「ブルゴン座《ざ》の大活劇《だいかつげき》です!」  ネール門《もん》のことかと思《おも》ったら、ブルゴン座《ざ》の話《はなし》でしたので、シラノもちょっと張《は》りあいがぬけました。 「なあんだ! あんな剣舞《けんぶ》か……」 「どうして、どうして……あのバラッドを作《つく》りながらの決闘《けっとう》と来《き》たら……」  リーズもそばによってきて、 「この人《ひと》ったら、ゆうべからあの詩《し》をどなりつづけているのでございますよ」 「そうか、けっこうだな……」 「わたしも男《おとこ》と生《うま》れたからにゃ、先生《せんせい》の十|分《ぶん》の一くらいのバラッド入《い》り剣舞《けんぶ》ってやつをやってみたいもんですよ」  ラグノオは料理場《りょうりば》の肉《にく》ぐしを手《て》にとると、お突《つ》きのしせいをしながら、 「反歌《はんか》のむすびでグッサリいくぞ!……反歌《はんか》のむすびで、グッサリいくぞ!……すばらしいもんだなあ!……反歌《はんか》のむすびで……」  シラノはそれにはとりあわず、 「何時《なんじ》だい? ラグノオ」  ラグノオは、突《つ》いたままのしせいで柱時計《はしらどけい》を見《み》あげながら、 「六|時《じ》五|分《ふん》で……グッサリいったぞ!」  そこで、あらたまったようにシラノに向《む》きなおって、 「ねえ、シラノのだんな。わたしゃ、家《うち》のかかあよりも、この大先生《だいせんせい》の方《ほう》がよっぽど大好《だいす》きでしてね。なにか好意《こうい》をあらわしたいと思《おも》うんですが……わたしのつまらない詩《し》じゃあ、さぞかしご不満《ふまん》でしょう……そこで考《かんが》えたんですがね。ほら、だんなはブルゴン座《ざ》で、きまえよく一カ月分《げつぶん》の金包《かねつつ》みをなげだしたでしょう……それで一|文《もん》なしときている。  ですから、ちょうどいいといっちゃあ……なんですが、このラグノオ料理店《りょうりてん》が、先生《せんせい》のお食事《しょくじ》は責任《せきにん》もってお引《ひ》きうけいたしますわ!」  シラノはうれしそうに、うなずきました。  ところが一|方《ぽう》、料理場《りょうりば》では、リーズがプリプリ不平《ふへい》をならべています。 「チェッ! またあのほどこし病《びょう》がはじまった。あんな大《おお》めしくらいをひと月《つき》もかかえこんだ日《ひ》にゃあ、商売《しょうばい》あがったりだ……」  その時《とき》またドアがあいて、 「おはよう!」  われ鐘《がねのような声《こえ》がしました。  ひげのひどくりっぱな軍人《ぐんじん》が、いかめしげに入《はい》ってきたのです。  すると、いままでブツブツいっていたリーズが、急《きゅう》に顔《かお》をやわらげて、軍人《ぐんじん》のほうへいそいそといってしまいました。 「なんだ、あいつは?」  シラノはふりかえって軍人《ぐんじん》をながめました。 「かかあの友《とも》だちですよ。あいつ自身《じしん》がいうにゃあ、めっぽう強《つよ》い軍人《ぐんじん》なんだそうで……」  いいながらラグノオがシラノの手《て》をみると、右手首《みぎてくび》に血《ち》が出《で》ています。 「あっ! 先生《せんせい》、お手《て》をどうなさいました※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」 「なーに、なんでもない」 「こりゃ……刄《は》もののあとですね!」 「ほんのかすり傷《きず》だ」 「なにかあったんですか?」 「なんにもありゃしないさ」  シラノはゆうべ、ネール門《もん》で大活劇《だいかつげき》をやったのですが、自分《じぶん》から手柄話《てがらばなし》をするなんて大《だい》きらいです。 「きっとうそをついているんでしょう!」  そういうラグノオの鼻先《はなさ》きへ、シラノはニュッと顔《かお》をつき出《だ》しました。 「この鼻《はな》がピクピク合図《あいず》をしてるかい? シラノはうそをついているといって?……」  ラグノオはあわてて首《くび》をふりました。 「アッハッハ、ハッハッハ!」  あまりラグノオがめんくらったので、思《おも》わずシラノはふき出《だ》しました。それから急《きゅう》にまじめになると、 「冗談《じょうだん》はさておき、おれはここで、ある人《ひと》を待《ま》っているのだ。もしほんとうにその人《ひと》が来《き》たら、人《ひと》ばらいをたのむぜ!」  と、いいました。 「そいつは弱《よわ》りましたなあ、いつもの詩人《しじん》たちが、もうやってくる時間《じかん》ですから……」 「しかし、ラグノオ。とにかく、おれが知《し》らせたら、お客《きゃく》をどこかに追《お》っぱらうんだぞ……ところで何時《なんじ》だい?」 「六|時《じ》十|分《ぷん》で……」 「そうか、そろそろしたくにかかるか……」  いらいらしながら小《ちい》さなテーブルの前《まえ》に腰《こし》をおろすと、シラノは胸《むね》のポケットから紙《かみ》をとりだしました。 「ペンでもエンピツでもかしてくれ……」 「へい、白鳥《はくちょう》じるしのエンピツ……」  ラグノオは、耳《みみ》のエンピツをとって渡《わた》しながら、 「先生《せんせい》。いったい、どうしたんで?」 「シーッ!……先生《せんせい》、大事《だいじ》なことがこれからおっぱじまるんだ。おまえは時計《とけい》の番《ばん》でもして、おとなしく坐《すわ》ってろよ!」  話《はな》しかけるラグノオをおしとどめ、シラノは紙《かみ》に書《か》く言葉《ことば》を考《かんが》えます。 「こうして……書《か》いて、たたんで、それから……渡《わた》して逃《に》げると、……いや、そんなのは、から意気地《いくじ》がないや! もしあの女《ひと》がきて……話《はなし》ができたら……俺《おれ》は死《し》んでもいいんだが……ラグノオ、何時《なんじ》だ?」 「六|時《じ》十六|分《ぷん》!」  シラノは胸《むね》をたたき、エンピツをにぎりなおすと、小声《こごえ》でこんなことをつぶやくのでした。 「この胸《むね》ん中《なか》に、いっぱいたまっていることを、たった一言《ひとこと》でも口《くち》でいえたらなあ。……だが、書《か》くとなりゃ……どんなにだって書《か》いてみせるぞ! よし、書《か》こう! おれがあのひとに送《おく》る愛《あい》の手紙《てがみ》は、胸《むね》の中《なか》で百|度《ど》も二百|度《ど》も、書《か》いたり消《け》したりして、できているんだ。紙《かみ》の上《うえ》にゃ、ちょいとそれを写《うつ》しなおせばいいんだ!」  やがて、かれは真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》で手紙《てがみ》を書《か》きだしました。  そのとき、ロハで朝飯《あさめし》にありつこうと、ラグノオのいう詩人《しじん》たちのすがたが、チラホラ店先《みせさき》に見《み》えはじめました。 [#7字下げ]貧乏詩人《びんぼうしじん》[#「貧乏詩人」は中見出し] 「そうれ、おまえさんの好《す》きなドブネズミたちがやってきた!」  とんがったリーズの声《こえ》といっしょに、そまつな黒《くろ》い服《ふく》をきて、靴下《くつした》のずりおちた、泥《どろ》まみれの詩人《しじん》たちが五、六|人《にん》、ドヤドヤと入《はい》ってきました。 「いよオーッ、兄弟分《きょうだいぶん》!」 「菓子屋《かしや》のおやじ!」 「あいかわらず、君《きみ》んとこはいいにおいだな」  詩人《しじん》たちはクンクン鼻《はな》をならし、ラグノオにだきついたり、握手《あくしゅ》をしたりします。 「いらっしゃい。おまちしていたんですぜ。こういう腹《はら》のわかったいい人《ひと》たちといっしょになるとわたしゃ生《い》きかえるおもいだなあ!」  ラグノオはすっかり感激《かんげき》しています。 「ああ、詩神《しじん》フェビユスの料理屋《りょうりや》大明神《だいみょうじん》!」 「パリのオノレ街《がい》にゃあ、もったいない俺《おれ》さまだよ!」 「料理屋《りょうりや》の兄弟分《きょうだいぶん》、けさは一|大《だい》ニュースをめしのかんじょう代《がわ》りにもってきたぜ。とにかく、ものすごいんだ!」  しゃべりながら、詩人《しじん》たちは早《はや》くもテーブルの上《うえ》の料理《りょうり》をたべにかかりました。いかにも腹《はら》がペコペコといったようす。  リーズの友《とも》だちだという立派《りっぱ》ななりをした軍人《ぐんじん》は、詩人《しじん》たちを、いかにもけいべつした目《め》つきでながめています。 「一|大《だい》ニュースって、いったい何《なん》ですい?」  ラグノオがきくと、詩人《しじん》の一人《ひとり》は豚肉《ぶたにく》のかたまりをゴクリとのみこみながら、 「ゆうべね、ネール門《もん》でね、大決闘《だいけっとう》があったんだ。なんでもね、一人《ひとり》の英雄《えいゆう》が百|人《にん》ぐらい斬《き》りまくったというんだ」 「ほう……一|対《たい》百! たいしたもんだね!」  ラグノオは目《め》をまるくしました。 「いま、ここへくる途中《とちゅう》ぶつかったんだ。バッサリ斬《き》られたゴロツキどもが八|人《にん》も、道《みち》のまんなかに倒《たお》れていたよ。あたりを血《ち》でまっ赤《か》にそめてね」 「ものすごい人《ひと》だかりだったなあ」  詩人《しじん》たちは、ごちそうをうまそうにパクパクほおばりながら、おもしろおかしく話《はな》しています。  少《すこ》しはなれたテーブルで手紙《てがみ》を書《か》いていたシラノは、じぶんのことがうわさされているのに気《き》がつくと、ちょっと顔《かお》をあげて、 「八|人《にん》だって?……ふうん、俺《おれ》は七|人《にん》だと思《おも》ったが……」  と、とぼけた声《こえ》でいいました。 「先生《せんせい》、その斬《き》りあいの英雄《えいゆう》ってのをごぞんじなんで?」  ラグノオが、びっくりしたようにききますと、 「いいや……俺《おれ》は、知《し》らんな」  と、シラノはすぐ顔《かお》をふせて、鉛筆《えんぴつ》を走《はし》らせるのです。  すると、リーズが仲《なか》よしの軍人《ぐんじん》によりそいながら、 「あなたは……ごぞんじ?」  と、甘《あま》え声《ごえ》でききました。  軍人《ぐんじん》は、なにも知《し》らないのですが、しかし、いかにも思《おも》わせぶりに、長《なが》いひげをねじりあげながら、 「うん……いや、なに……」  などと、お茶《ちゃ》をにごしています。 「えらいもんだ。たった一人《ひとり》で、百|人《にん》の軍隊《ぐんたい》を追《お》いちらしたというんだ」 「まったく、すごいよ。槍《やり》や刀《かたな》が、はくほどちらかってたんだからな」 「帽子《ぼうし》なんか、オルフェーブルの河岸《かわぎし》まで、すっとんでたね」 「おどろいたもんだ! まさに天下無敵《てんかむてき》の猛者《もさ》にちがいない」 「どんな巨人《きょじん》だろう。見《み》たかったなあ」  詩人《しじん》たちが大声《おおごえ》でそんなことを話《はな》しあっているのを、シラノは聞《きこ》えるのか聞《きこ》えないのか、ときどき何《なに》かつぶやきながら、一|生《しょう》けんめいロクサーヌへの手紙《てがみ》を書《か》きつづけるのでした。 [#ここから2字下げ] [#ここから地から1字上げ] ――つねづね、わたくしがあこがれておりまするのは、ただあなたの美《うつく》しいまなざし、バラ色《いろ》のくちびるでございます。それなのに、まのあたりにお姿《すがた》を見《み》るときは、ただもう、いいしぬれ恥《はず》かしさに、気《き》もたえいるばかり……ああ、一|度《ど》、このせつない胸《むね》のうちを、あなたの愛《あい》らしいお耳《みみ》にささやけたらと、気《き》もくるわんばかりでございます。 [#ここで字上げ終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここから地から5字上げ] 君《きみ》をしたう者《もの》 [#ここで字上げ終わり]  その下《した》に名《な》まえを書《か》こうとしましたが、それはやめて、すぐ手紙《てがみ》を胸《むね》のポケットにしまいこみながら、 「じぶんで手渡《てわた》すんだから、名《な》まえなんかいらないや……」  ひとりごとをいって、ホッとした面持《おもも》ち。  こちらでは、ラグノオが、何《なに》やら紙《かみ》きれを手《て》にもって、ニコニコ笑《わら》いながら、詩人《しじん》たちの前《まえ》に進《すす》みでました。 「みなさん、菓子《かし》の作《つく》り方《かた》という詩《し》を作《つく》ったんですが……」 「ほう、そりゃおもしろい。ひとつ聞《き》かしてくれないか」  詩人《しじん》のひとりがそういうと、 「いや、待《ま》てまて、その前《まえ》にこのシュークリームを食《く》ってしまおう」 「おや、この香料《こうりょう》入《いり》パンは、赤《あか》いアンズの目《め》で、腹《はら》ペコの詩人《しじん》をながめていやがる!」 「こいつは珍《めず》らしい古琴《リラ》の菓子《かし》! おれのみそっ歯《ぱ》で、爪《つま》びきといくか」  などと、みんなあわてて、ガツガツやってから、 「さあ、その詩《し》を聞《き》くとしょう」 「こんどは、耳《みみ》で食《く》うってわけか……」  と、口《くち》ばたをふいています。  ラグノオは、白《しろ》いコック帽《ぼう》をかぶりなおし、背《せ》なかをピンとのばして一|礼《れい》すると、おもむろに口《くち》をひらきました。 「さてさて、お食事中《しょくじちゅう》のご常連《じょうれん》がた……ただいまより、当《とう》料理店《りょうりてん》主人《しゅじん》作詩《さくし》の『アンズ入《い》りタルトレットの作《つく》り方《かた》』をお聞《き》かせいたします。作品《さくひん》の朗読中《ろうどくちゅう》は、テーブルの上《うえ》にあるお菓子《かし》を、いくら召《め》しあがってもかまいません」  おどけた声《こえ》で、そういうと、 「オホン!」  と、気《き》どったせきばらいを一《ひと》つ……。  すると、詩人《しじん》たちは早《はや》くも目《め》の色《いろ》をかえて、またもテーブルの上《うえ》の菓子《かし》をつかみにかかります。  ラグノオは、詩《し》を読《よ》みはじめました。 [#ここから3字下げ] 卵《たまご》三つ四つ ポンとわり さっくりアワが たつまでに かきまぜてから 少《すこ》しずつ アンズの煮《に》じると あまいつゆ かけてゆくのがまず最初《さいしよ》 そこでお菓子《かし》の やきなべに バターをほどよく ぬった上《うえ》 フランのねり粉《こ》を しいたなら すばやくアンズを はめこんで 卵《たまご》のアワをおとします つぎにいよいよ やきなべを まっかに燃《も》える 炉《ろ》にかけて 火《ひ》かげん十|分《ぶん》 気《き》をつけりゃ 名物《めいぶつ》じまんの きつね色《いろ》 タルトレットの できあがりィ…… [#ここで字下げ終わり] 「す、すてきだ!」 「う、うまいぞ!」  口《くち》いっぱい菓子《かし》をつめこんだ詩人《しじん》たちは、のどにつかえて、目《め》を白黒《しろくろ》させています。  シラノは、そっとラグノオに近《ちか》よって、ささやきました。 「おい、お前《まえ》の声《こえ》に、詩人《しじん》どもはすっかり気《き》をよくして、食《く》いすぎるほど食《く》ったぜ」 「ええ、わかってますよ」  と、ラグノオはニンマリ笑《わら》いながら、 「恥《かず》かしがるとわるいから別《べつ》に見《み》やしませんがね……なにしろ、あんなぐあいに詩《し》を読《よ》むのは、たまんなく楽《たの》しいもんですよ。だって、めしにありつけない人《ひと》たちにね、思《おも》うぞんぶん食《た》べさせながら、わしは自分《じぶん》の好《す》きな道楽《どうらく》を、せい一ぱい味《あじ》わっているんですからねえ!」  ラグノオの言葉《ことば》に、シラノはすっかり感心《かんしん》して、 「うむ、かわいいことを言《い》うなあ」  と、肩《かた》をたたいてやるのでした。  ラグノオが、ふたたび詩人《しじん》たちの方《ほう》へいってしまうと、シラノはふと、リーズが例《れい》の軍人《ぐんじん》と何《なに》か親《した》しそうにひそひそ話《はなし》をしているのを見《み》つけて、 「やい、リーズ!」  と、おそろしい目《め》をして、リーズをにらみつけました。  リーズは、ハッとして、ブルブルふるえながら、シラノのテーブルへ近《ちか》づいてきました。 「あの軍人《ぐんじん》め、おまえにへばりついているのか?」  そういわれると、リーズは、ふぐのようにふくれあがって、 「なんですって? わたしにケチをつけたりすりゃ、この目《め》が承知《しょうち》しませんよ」 「そうか……承知《しょうち》しない目《め》にしちゃ、ひどく甘《あま》っちょろいなあ」  リーズは、へどもどしながら、 「そ、そんな、ひどいこと……」 「いいか、おれはラグノオが大好《だいす》きなんだ。よっく聞《き》けよ、山《やま》の神《かみ》。もし、あいつが他人《たにん》に女房《にょうぼう》をとられて笑《わら》いものになるなんて、このおれが許《ゆる》さんぞ!」 「だって……」  リーズは、シラノに見《み》すえられると、タカに狙《ねら》われた小《こ》スズメみたいに、ドギマギしてしまうのです。  ひげの軍人《ぐんじん》にも、二人《ふたり》の言《い》いあいは、手《て》にとるように聞《きこ》えるらしく、ビクビクしながらこっちを見《み》ています。  シラノは、一だんと声《こえ》をはりあげて、 「いのちがおしけりゃ、早《はや》いとこ逃《に》げたらどうだい」  言《い》いながら、その軍人《ぐんじん》に、ばかていねいなおじぎをしました。  軍人《ぐんじん》は、あわててシラノに礼《れい》を返《かえ》したばかり……それを見《み》たリーズは、あきれたように、 「あらまあ、あんなに言《い》われて、何《なに》もいえないの? 返答《へんとう》してやんなさいよ、あの鼻《はな》にさあ……」 「う、うむ……あの、鼻《はな》にか……あの、鼻《はな》にか……」  軍人《ぐんじん》は、ブルブルふるえながら、あたふたと表《おもて》へとびだしてしまいました。  そのあいだ、じっと柱時計《はしらどけい》を見《み》つめていたシラノは、とつぜん手《て》をあげて、 「ラグノオ、早《はや》く!」  と、詩人《しじん》たちを別《べつ》の部屋《へや》へつれていくように合図《あいず》をしました。  ラグノオは、びっくり、うなずいて、 「さあ、皆《みな》さん、詩《し》を読《よ》むには、あっちの奥《おく》の部屋《へや》のほうが、ずっといいですぜ」  と、まだムシャムシャ食《た》べている詩人《しじん》たちをうながしました。 「おしいなあ、この菓子《かし》が……」 「あっちへ持《も》っていっていいかね」  詩人《しじん》たちが、ガヤガヤしているのに、シラノはがまんしきれず、 「シッ! シッ!」  と、にらみつけます。 「さあ、早《はや》く行《い》ってください。お菓子《かし》でもなんでも持《も》って……」  ラグノオにせかされた詩人《しじん》たちは、ガツガツ、皿《さら》から菓子《かし》をつかみとると、ラグノオのあとについて奥《おく》のほうへ入《はい》っていきました。 [#7字下げ]おさなき日《ひ》の思《おも》い出《で》[#「おさなき日の思い出」は中見出し]  誰《だれ》もいなくなって、ガランとした部屋《へや》で、シラノはひとりソワソワと、胸《むね》のポケットをおさえながら、 「ほんのちょっとでも望《のぞ》みがあるようだったら、この手紙《てがみ》をわたすことにしよう……」  と、つぶやいています。  柱時計《はしらどけい》が、ゆっくりと七|時《じ》をうちました。  それとまったく同時《どうじ》に、ひたいにレースをかけ、絹《きぬ》のベールで顔《かお》をかくしたロクサーヌが、きのうの腰元《こしもと》をうしろに従《したが》えて、ガラス戸《ど》の向《む》こうにすがたを見《み》せました。  シラノは、いそいそと戸《と》をあけて、 「さあ、どうぞ……」  と、招《しょう》じ入《い》れましたが、心《こころ》の中《なか》で、 (チッ、腰元《こしもと》がいちゃ、話《はなし》のじゃまになるなあ)  と思《おも》いながら、 「お女中《じょちゅう》さん……ほんのちょっと、話《はなし》があるんですが……」  と、腰元《こしもと》に話《はな》しかけました。 「お菓子《かし》は、好《す》きかね?」 「はい、大好《だいす》きでございます」  腰元《こしもと》は、うやうやしくおじぎをします。 「それじゃあ……ここにバンスラード君《くん》の書《か》いた詩《し》があるが……」  シラノが帳場《ちょうば》から紙《かみ》ぶくろをとると、腰元《こしもと》は、あてがはずれたように、 「おやおや、お勉強《べんきょう》ですか?」 「いや、それにおいしいお菓子《かし》をつつんであげよう」  シラノは、次《つぎ》つぎに菓子《かし》を入《い》れながら、 「これは、クリームのかかったプライ・シューというお菓子《かし》……え、大好《だいす》き? そんなら六つも入《い》れよう……それから、このショート・ケーキに……あめちょこに……タルトレットに……」 「まあ、ずいぶんたくさん……?」 「うん、いくらでもあげるからね、これをみんな外《そと》で食《た》べてもらいたいんだ」 「え、外《そと》で?…それは……」 「いいから外《そと》で食《た》べてくださいよ。そして、すっかり食《た》べてしまうまで、入《はい》ってきてはいけないよ」  あきれて、モジモジしている腰元《こしもと》を、やっとおもてへおしだしてしまうと、シラノは店《みせ》の戸《と》をピタリとしめてから、ロクサーヌの方《ほう》へすすみ出《で》て、帽子《ぼうし》をとりながら、ていねいにおじぎをしました。  ロクサーヌは、つやつやしたビロードのすその長《なが》い服《ふく》を、美《うつく》しく着 (き》こなしています。礼拝《れいはい》に行《い》った帰《かえ》りみちですから、そっとくみあわせた手《て》には、羊《ひつじ》の皮《かわ》でカバーをした聖書 (せいしょ》を持《も》っていました。 「ロクサーヌ!」  シラノは、恥《はず》かしそうに話《はな》しだしました。 「こんなつまらない男《おとこ》のところへ、わざわざおいで下《くだ》さって、ほんとにうれしく存《ぞん》じます。それでわたくしに何《なに》かご用《よう》があるとおっしゃる……そのご用《よう》とは、いったいなんでしょうか?」  ロクサーヌは、顔《かお》をかくしていたベールをとりはずすと、腰《こし》を低《ひく》くして、貴婦人《きふじん》のおじぎをしながら、 「あたくし、何《なに》よりもさきに、お礼《れい》を申《もう》しあげなければなりません。と申《もう》しますのは、きのうブルゴン座《ざ》で、ほんとにごりっぱなお手《て》なみで、あのいやらしい男《おとこ》を、思《おも》うぞんぶんこらしめて下《くだ》さいましたことでございます。あの男八おとこ》を……ある腹黒《はらぐろ》い貴族《きぞく》が……」  いいかけて、かわいい唇《くちびる》をすぼめるのを、シラノは、ほれぼれと見《み》やりながら、いいました。 「ド・ギッシュでしょう?」 「はい……」  と、ロクサーヌは、目《め》を伏《ふ》せて、 「あれを、あたくしにおしつけて……夫《おっと》にしようとして……」 「それも、ニセの夫《おっと》でしょう?」  ズバリと、シラノがいいきったので、ロクサーヌは、モジモジしています。 「いや、これは、とんだ失礼《しつれい》を申《もう》しあげました。ともかく、あの決闘《けっとう》は、わたくしのみにくい鼻《はな》のためにやったのではなく、あなたの美《うつく》しいおすがたをお守《まも》りしたと思《おも》えば、これほどうれしいことはありません」  ロクサーヌは、シラノのすすめる腰《こし》かけにすわると、テーブルの上《うえ》の日《ひ》まわりの花《はな》を指《ゆび》さきでいじりながら、 「それで……あの……今日《きょう》あたくしが、心《こころ》の中《なか》をおうちあけしたいと思《おも》いますのは……あなたを、むかしのままのお兄《にい》さまのように思《おも》っているからでございますの」 「そう……それで、ご用《よう》というのは?」 「それで……あなたとは、よくごいっしょに遊《あそ》びましたわね、湖《みずうみ》のほとりの……」  ロクサーヌは、用件《ようけん》というのを、いいにくいと見《み》えて、なかなかきりだしません。 「ほら、おぼえてらっしゃるでしょう……あの美《うつく》しい花園《はなぞの》を……」 (おやおや、ロクサーヌは一体《いったい》なにをいいだすのだろう……)  シラノは、そんなことを思《おも》いながら、ロクサーヌの言葉《ことば》にあいづちをうつのです。 「そうそう……あなたは夏《なつ》になると、お母《かあ》さんにつれられて、わたくしの故郷《こきょう》ベルジュラックへおいでになった……」 「やんちゃなあなたは、とても戦争《せんそう》ごっこがおすきでしたわ」 「そして、あなたは甘《あま》えんぼうでしたよ」  二人《ふたり》の幼《おさ》な友《とも》だちは、遠《とお》いむかしを思《おも》いだして、それぞれなつかしい気持《きも》ちをかきたてられるのでした。 「庭《にわ》の小枝《こえだ》を折《お》って、あなたは剣《けん》になさいましたっけ……」 「とうもろこしの毛《け》が、あなたのお人形《にんぎょう》の髪《かみ》の毛《け》になって……」 「あのじぶんは、なにも知《し》らない、無邪気《むじゃき》な子供《ころも》でしたねえ」 「ほんとに、そうでした……」 「シラノさま、あのころは、なんでもあたくしのいうことをきいて下《くだ》さいましたわ」 「あなたもあのころは、短《みじ》かいスカートをはいた、かわいいお嬢《じょう》さんでしたよ」  二人《ふたり》が話《はな》しているあいだにも、ラグノオ料理店《りょうりてん》へ朝食《ちょうしょく》をたべにくる人《ひと》たちのすがたが、入口《いりぐち》のガラス戸《ど》にうつります。しかし、その戸《と》がしまっているので、お客《きゃく》たちは首《くび》をかしげながら帰《かえ》っていきます。 「ねえ、シラノさま。あのじぶん、あたくし可愛《かあい》らしゅうございました?」 「そう、にくらしくは、ありませんでしたね」  シラノは、ロクサーヌがなかなか用件《ようけん》を話《はな》しそうにないものですから、心《こころ》の中《なか》でイライラしてきました。 「あなたは、ときどき木《き》のぼりやおいたをして、手《て》に傷《きず》をこしらえましたね。そのたびに、あたくしのところへとんできて、血《ち》をお見 《み》せになりましたわ」 「よくおぼえているんですねえ――」 「すると、わたしはお母《かあ》さまがって、こわい声《こえ》でしかりましたね」  ロクサーヌはシラノの手《て》をとりました。 「この子《こ》はまたこんなにすりむいて、メッ! といって」  ひょいとシラノの手《て》をみると、ほんとうに傷《きず》がついています。思《おも》わず、びっくりして、 「まあ! どうなさったんです? このおけがは!」  シラノは、急《いそ》いで手《て》を引《ひ》っこめようとしました。 「いいえ、いけませんわ。お見《み》せあそばせ……まあ、どうしたのです、こんなお年《とし》になっても、まだ木《き》のぼりをなさるのですか?……どこでおけがをなさったのです?」  シラノはなにくわぬ顔《かお》をして、 「なあに、いつものままごとでしてね。ネール門《もん》のところで」  と、うそぶくのです。  ロクサーヌはテーブルの水《みず》いれにハンケチをひたすと、シラノの手《て》をふきはじめます。 「お手《て》をふいてさしあげますわ……ねえ、お話《はな》し下《くだ》さいましな。あなたに手向《てむか》ったのは大勢《おおぜい》でございますの?」 「じつにやさしい……お母《かあ》さんのようですねえ!」 「さあ、どんなに大勢《おおぜい》でしたの?」 「なあに、たった百|人《にん》ばかりで……」 「まあ! たったですって……」 「ええ、お話《はなし》にはなりませんよ」 「とんでもない、お話《はな》しくださいまし」 「いや、そんなことはよしましょう。それより、さっきあなたがごえんりょだったお話《はなし》をうかがいましょう……」  ロクサーヌは、恥《はず》かしそうにちょっとためらいましたが、おもいきって顔《かお》をあげると、 「シラノさま、もうお話《はなし》をする勇気《ゆうき》が出《で》てきました。昔《むかし》ばなしのなつかしさで気《き》がつよくなりまして……」  シラノは、いよいよロクサーヌが自分《じぶん》に何《なに》かをうちあけるんだなと直感《ちょっかん》しました。 「実《じつ》はあたくし、あるお方《かた》を、おしたい申《もう》しているのでございます」 「なるほど……」 「でも、そのお方《かた》は、あたくしのことなぞ、おわかりにならないのですわ」 「なるほど……」 「でも、もうじきおわかりになるでしょうよ」 「なるほど……」 「貧《まず》しい青年《せいねん》で、いままでなんともおっしゃらないのでございます」 「なるほど!……」 「遠《とお》くからあたくしを愛《あい》していて下《くだ》さったのでございます」 「なアるほど!……」  ロクサーヌは、シラノの手《て》をハンケチでほうたいをしおわりました。 「でも、わたくしはそのお方《かた》の目《め》が、お心《こころ》をうちあけたくて、ふるえているのをみたのでございます」 「なアるほど!」 「で、そのお方《かた》はちょうどいいあんばいに、あなたの戦隊《せんたい》につとめていらっしゃると思《おも》ってくださいまし」 「なアるほど!」 (いよいよこれは、俺《おれ》のことをいっているんだな!)  シラノは、だんだんあいづちに力《ちから》をいれました。 「だって、そのお方《かた》は、あなたの青年隊《せいねんたい》なのですもの!」 「なアるほど!」  ところが、次《つぎ》の言葉《ことば》をロクサーヌの口《くち》からきくと、シラノは思《おも》わずとびあがってしまいました。 「その方《かた》は才気《さいき》と理性《りせい》にかがやいたお顔《かお》をしていますわ。しゃんとして、けだかくて、お若《わか》くて、勇《いさ》ましくて、そのうえ美《うつく》しくて……」 「う、うつくしい※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」 (と、とんでもない、この俺《おれ》が、うつくしいもんか。いや……まてよ……俺《おれ》のこととは話《はなし》がちがうらしいぞ……) 「急《きゅう》にまっ青《さお》になって立《た》ちあがったシラノを見《み》て、ロクサーヌはびっくりしたように美《うつく》しい目《め》をみはりました。 「まあ! どうなさいまして?」  シラノは、頭《あたま》をふりふり、また腰《こし》をおろすと、今《いま》しばってもらった手《て》をだしてロクサーヌに見《み》せながら、 「いや、べつに……なんでもありませんがね……まあその……チクチクうずくんですよ、この傷《きず》が……」  そういって、気《き》のぬけたような、さびしい微笑《びしょう》をうかべるのでした。 [#7字下げ]シラノ大失望《だいしつぼう》[#「シラノ大失望」は中見出し]  いよいよ話《はなし》の本《ほん》すじに入《はい》ったロクサーヌは、シラノのへんな様子《ようす》など気《き》にもとめず、夢中《むちゅう》になって話《はな》しつづけました。 「それでね、シラノさま……つまり、あたくし、そのお方《かた》のことばかり、思《おも》いこがれているのでございます」 「そうですかねえ……」 「はっきり申《もう》しますと、あたくし、そのお方《かた》を劇場《げきじょう》でお見《み》かけしただけなのでございます」 「じゃあ、まだ話《はなし》はなさらないんですね?」 「ええ……ただ、おたがいの目《め》だけでね……」 「へえ……そんなら、どうしてそんなことがわかるのです?」 「それはね、あの、ロアイヤルの広場《ひろば》でね、おしゃべりの女《おんな》のひとたちが話《はな》していたのでございます」 「ほう、そんなに有名《ゆうめい》なんですか?」 「あの……とても美男《びなん》だというので……」 「では、よけいご心配《しんぱい》でしょう」 「ですから、こうしてお願《ねが》いにあがったのでございますわ」 「ロクサーヌ、その男《おとこ》はほんとうに青年隊《せいねんたい》なのですか?」 「はい、近衛《このえ》の青年隊《せいねんたい》で……」 「名《な》まえは?」  シラノは、グッと、つばをのみこみながら聞《き》きました。 「クリスチャン・ド・ヌービレット男爵《だんしゃく》……」  いいながら、ロクサーヌはポッと顔《かお》をそめるのです。 「え?……青年隊《せいねんたい》には、そんな名《な》まえの者《もの》はいませんよ」 「おりますわ! けさから入《はい》ったのでございますよ。なんでも戦《いくさ》で手柄《てがら》をたてた恩典《おんてん》で、トウレーヌから廻《まわ》されてきたんだそうで……」 「ガスコンじゃないんですな」 「ええ、でも、たしかに中隊長《ちゅうたいちょう》はカルボン・ド・カステルジャルウ大尉《たいい》でございますわ」 「ふーむ……だが、いくらなんでも、その恋《こい》は少々《しょうしょう》早《はや》すぎますよ……あなたも、あいかわらず赤坊《ねんね》ですなあ!」  シラノが、なんともいえぬためいきをついたとき、腰元《こしもと》が店《みせ》の戸《と》をあけて、入《はい》ってきました。 「ベルジュラックさま……もうお菓子《かし》は、みんないただいてしまいました」  シラノは、そっちを向《む》いて、ひくい声《こえ》で、 「なんて早《はや》いやつだ……そんなら、ふくろに書《か》いてある詩《し》でも読《よ》んでいろい!」  腰元《こしもと》は、目《め》を白黒《しろくろ》させながら、また出《で》ていきました。 「ねえ、赤《あか》ちゃん……」  と、シラノは少《すこ》しあらたまった口調《くちょう》で、ロクサーヌに話《はな》しかけました。 「あなたはね、美《うつく》しい言葉《ことば》や、風流《ふうりゅう》な心《こころ》を愛《あい》する人《ひと》でしょう。……ところがだ、もしその男《おとこ》が、つまらない、チンピラみたいな俗物《ぞくぶつ》だったら、どうします?」 「いいえ、あのお方《かた》は、ロマンチックな恋物語《こいものがたり》に出《で》てくる騎士《きし》のように、それはそれは美《うつく》しいお髪《ぐし》の方《かた》でございますわ!」  ロクサーヌは、むきになっていいました。 「たとえ髪《かみ》の毛《け》が美《うつく》しくたって、話《はな》すことがくだらなかったら?」 「いいえ、いいえ、あの方《かた》のおっしゃることは、なんでも美《うつく》しいと思《おも》いますわ。そんなこと、わかってます」 「そりゃそうでしょうとも、ヒゲが美《うつく》しけりゃ、言葉《ことば》も美《うつく》しく聞《きこ》えるからね。……しかし、もし、そいつがまぬけ[#「まぬけ」に傍点]野郎《やろう》だったら……?」  ロクサーヌは、じれったそうに足《あし》をふみならしながら、 「まあ、シラノさまったら!……もしそうだったら、あたくし、死《し》んでしまいますわ。ほんとに!」  シラノも、ロクサーヌのかたい心《こころ》に、ほとほと手《て》をやいて、さて、こんどは何《なに》をいったらよいものかと、しばらく考《かんが》えこんでいましたが、 「それじゃあ、ロクサーヌ……結局《けっきょく》、あなたはそれだけのことをおっしゃるために、わたしをここまで呼《よ》びだしたというわけなんですね?」 「まあ、そうでございます……だって、あなたがお兄《にい》さまのように思《おも》われるんですもの……」 「どうも、わたしがお役《やく》にたつとは思《おも》えませんがねえ……」  シラノは、下唇《したくちびる》をグッとかむと、ガッシリ腕《うで》をくんでしまいました。ロクサーヌは、両手《りょうて》をひざの上《うえ》にくんだまま、じっとシラノを見《み》あげています。 「でも……それだけじゃなく、とくべつのお願《ねが》いがありますのよ。なぜって、あたくし、きのうある人《ひと》からね、あなたの中隊《ちゅうたい》にあるしきたりのことを聞《き》いて、胸《むね》がつぶれるほどおどろいてしまったのですもの……」  その、ロクサーヌが聞《き》いたことというのは、シラノの属《ぞく》している近衛青年隊《このえせいねんたい》の風変《ふうがわ》りなしきたりのことでした。  この近衛青年隊《このえせいねんたい》は、ほとんどフランスの南部《なんぶ》、ガスコーニュ地方《ちほう》の若《わか》い人《ひと》たちからできているのです。べつに、そういうきまりがあるわけではないが、この地方《ちほう》出身《しゅっしん》の若者《わかもの》たちは、とくに勇気《ゆうき》があって、いくさに手柄《てがら》をたてるので、しぜん近衛《このえ》の、この中隊《ちゅうたい》に集《あつま》ってくるのでした。  近衛中隊《このえちゅうたい》というのは、国王《こくおう》をまもる軍隊《ぐんたい》ですから、フランス中《じゅう》で一ばん名誉《めいよ》のある中隊《ちゅうたい》です。  ですから、一たん軍人《ぐんじん》を志願《しがん》する人《ひと》は、なんとしても、この中隊《ちゅうたい》にはいりたいとあこがれるのです。  そのため、近衛《このえ》の青年隊《せいねんたい》は、いつのまにかガスコーニュ地方《ちほう》の人《ひと》たちのかたまりになってしまったので、ふるさとを同《おな》じにする兄弟《きょうだい》気分《きぶん》が手伝《てつだ》い、ガスコン魂《だましい》という、この中隊《ちゅうたい》特有《とくゆう》の気風《きふう》が生《うま》れてきたのです。  それだけなら、ロクサーヌはなにも驚《おどろ》くにはおよばないのですが、このガスコンの青年隊《せいねんたい》の連中《れんちゅう》は、もしガスコーニュ生《うま》れでない他国《たこく》のものが、なにかの手柄《てがら》によってこの隊《たい》に入《はい》ってくると、かならず決闘《けっとう》を申《もう》しこむのが、ならわしでした。  もしその決闘《けっとう》に、他国《たこく》ものが勝利《しょうり》を得《え》れば、ガスコンの荒武者《あらむしゃ》たちは喜《よろこ》んで仲間《なかま》入《い》りをみとめるのです。  しかし、一たん負《ま》けたとなると、これほどみじめなことはありません。軍《ぐん》からは青年隊《せいねんたい》入《い》りをみとめられても、隊《たい》の人《ひと》たちからは、いつも白《しろ》い目《め》でつめたくあつかわれるようになってしまうのです。  あのクリスチャンが、もしそんなことになったら、どうしよう……そう思《おも》うと、ロクサーヌは、いても立《た》っていられなかったのです。 「ねえ、シラノさま……青年隊《せいねんたい》では、よそからきた人《ひと》に決闘《けっとう》を申《もう》しこむのがきまりだそうですけれど、あの方《かた》も、そんな目《め》にあうのでしょうか?……あたくし、それが心配《しんぱい》で、心配《しんぱい》で……」 「ああ、そのことですか……そりゃあ心配《しんぱい》だろう」  シラノは、あとのほうを、口《くち》の中《なか》でつぶやきました。 「でも、あたくし、あなたがあのいやな男《おとこ》をこらしめてくださったり、大《おお》ぜいの見物人《けんぶつにん》を一人《ひとり》でお相手《あいて》なされたりしたとき、あなたこそこのパリで、二人八ふたり》とない、力《ちから》のつよい方《かた》だと思《おも》いましたの。それで、あなたさえ、お力《ちから》ぞえくだされば、あの方《かた》も、どんなに気《き》づよいかと思《おも》いまして……」 「よろしい! では、あなたの大事《だいじ》な人《ひと》をまもってあげましょう」  シラノが、キッパリとそういいますと、ロクサーヌは、とびあがらんばかりによろこんで、 「まあ、うれしい! ほんとにあの方《かた》をまもってくださるのね! やっぱり、シラノさまですわ。あたくし、いつでもあなたを、なつかしく思《おも》っておりましたの」 「そうですかねえ……」 「ほんとに、あの方《かた》の親友《しんゆう》になってくださいますねえ?」 「ええ、なりますよ」  シラノは、もうどうにでもなれ、というような、やけくその気持《きも》ちでした。それとも知《し》らぬロクサーヌは、なおもしつこく、 「決《けっ》して、あの方《かた》がみなさんに、つまはじきされないようにね……」 「わかりました」 「ぜったいに決闘《けっとう》なんかなさらないようにね……」 「ええ、ええ、うけあいますよ」 「そう……これでやっと安心《あんしん》いたしました。ほんとに、あたくし、あなたが大好《だいす》きですわ……ではこれでおいとまをいたします」  ロクサーヌは、自分《じぶん》のいいたいことだけいってしまうと、いそいそと顔《かお》にベールをかぶり、ひたいにレースをかけて、帰《かえ》りじたくをしながら、ふと思《おも》いだしたように、 「ああ、そうそう、あなたの夕《ゆう》べのお話《はなし》、まだお聞《き》きしませんでしたわね」  シラノは、何《なに》もいわずにロクサーヌの聖書《せいしょ》をとってやりました。 「どうもありがとう……夕《ゆう》ベはさだめし、ご活躍《かつやく》でしたでしょうね」  いかにも、口《くち》のさきのおせじ[#「せじ」に傍点]らしいので、シラノは、口《くち》をへの字《じ》にむすんだまま、だまっています。 「あの方《かた》に、お手紙《てがみ》をちょうだいと、おっしゃってくださいましね」  ロクサーヌは、入口《いりぐち》の戸《と》に手《て》をかけながら、手《て》まねでシラノにせっぷんをおくりながら、 「ほんとに、あたくし、あなたが大好《だいす》きでございますわ……では、お願《ねが》いいたします」 「ええ、ええ」  シラノは、なんともいえないさびしそうな顔《かお》で、にが笑《わら》いしています。  戸《と》をあけたロクサーヌは、またふりかえって、 「あなたお一人《ひとり》に百|人《にん》とかですって?……では、さようなら」 「さようなら!」 「あたくしたち、ほんとになかよしですわね!」 「ええ、ええ」 「きっとお手紙《てがみ》をくださるようにって、おわすれにならないでね……まあ百|人《にん》ですって?……なんてお強《つよ》いんでしょう。今《いま》はうかがえませんけれど、またそのうちに、そのお話《はなし》を、きかしてくださいませね」 「ええ、ええ。……さようなら!」  シラノは、あまりに期待《きたい》はずれが大《おお》きかったので、目《め》まいがするほど、ぼうぜんとしながら、 「決闘《けっとう》のことなんかどうでもいいんだ。そのあとの話《はなし》の方《ほう》が、どんなに苦《くる》しいたたかいだか……」  と、心《こころ》の中《なか》でつぶやくのでした。  やっと店《みせ》を出《で》たロクサーヌは、腰元《こしもと》をつれて、さっさと帰《かえ》っていきました。  シラノは、誰《だれ》もいない食堂《しょくどう》で、じっとうつむいたまま、しばらくは、身《み》うごきもしませんでした。 [#7字下げ]中隊《ちゅうたい》の華《はな》[#「中隊の華」は中見出し]  シラノは、ニコリともせず、しりごみをするばかり……。 「むかいの飲屋《のみや》で大《おお》いに飲《の》んでいるんだ」 「ぼくは……今日《きょう》……とても……」  カルボンは、どうしてもシラノがついて来《き》そうにないので、店先《みせさ》きからむかいの飲屋《のみや》の方へ、かみなりみたいな声《こえ》でさけびました。 「おーい、われらの英雄《えいゆう》はいやだというとるぞオ!」  街《まち》をゆく人《ひと》はこの大声《おおごえ》に、なにごとがおこったのかと立《た》ちどまります。 「みんな来《こ》ーい! 今日《きょう》はお天気《てんき》が悪《わる》いそうだぞオー」  すると、その声《こえ》がおわるかおわらないうちに、 「チェッ! しけてやがらあ!」 「なにしてるんだ、英雄《えいゆう》!」  青年隊《せいねんたい》の連中《れんちゅう》は、口《くち》ぐちに文句《もんく》をいいながら、通《とお》りを横切《よこぎ》ってきました。  通《とお》りかかるかごも馬車《ばしゃ》も、通行人《つうこうにん》も、時《とき》ならぬ進軍《しんぐん》にびっくりしています。  ガチャガチャという、剣《けん》の音《おと》、靴音《くつおと》、話《はな》し声《ごえ》。カルボンはそれをみると手《て》をうってよろこびました。 「やあ、みてみろ! わが中隊《ちゅうたい》の進軍《しんぐん》だあ――」 「青年隊《せいねんたい》は、ドドッとばかりラグノオ料理店《りょうりてん》へなだれこんで、 「出《で》てこないとは、しゃくだッ!」 「一|体《たい》どうしたんだ?」  わめきながら、シラノのまわりによってきました。 「わーッ、この方《かた》たち、みんなガスコンの方々《かたがた》ですかい?」  ラグノオは、きもをつぶして、おくへ逃《に》げこみながらいいました。 「のこらずだ!」  青年隊《せいねんたい》はシラノをとりまくと、 「ブラボー」 「ばんざい!」  と、いっせいに叫《さけ》ぶのです。 「ああ、男爵《だんしゃく》たち……」  シラノは青《あお》い顔《かお》をへんてこにゆがめながら、にが笑《わら》いをしています。 「抱《だ》きつくぞ!」 「抱《だ》きつけ! シラノに抱《だ》きつけ!」  次《つぎ》つぎに狂《くる》ったようにシラノへとびついてくる青年隊員《せいねんたいいん》たち。  シラノは、誰《だれ》にあいさつしてよいものやらわからなくて、 「ああ、男爵《だんしゃく》……男爵《だんしゃく》……もうかんべんしてくれ……」  と、悲鳴《ひめい》をあげました。 「皆《みな》さん男爵《だんしゃく》なんですかね?」  ラグノオがあきれてきくと、  隊員《たいいん》の一人《ひとり》は、 「そうとも、おれたちの男爵帽《だんしゃくぼう》を積《つ》みかさねりゃあ……高《たか》い塔《とう》ができらあ!」  と、得意《とくい》げにさけびます。  青年隊員《せいねんたいいん》のうしろからル・ブレも顔《かお》をだしました。 「シラノ! みんなが探《さが》していたんだ! ゆうべ君《きみ》のあとからついていった連中《れんちゅう》が先頭《せんとう》にたってね……」 「そいつらの口《くち》から、俺《おれ》がどこにいるか、わかったんだな?……」 「もちろんさ!」 「このさわぎに、外《そと》の通《とお》りは黒山《くろやま》のような人《ひと》だかりです。  ル・ブレは、ふと、シラノの耳《みみ》に口《くち》をよせて、 「シラノ、ロクサーヌのことはどうなった?」 「シーッ!」  シラノははげしく頭《あたま》をふりました。  そのときガチャン、ガチャンと、ものすごい音《おと》がして、店《みせ》のガラスがこわされました。  外《そと》の人《ひと》むれが、店《みせ》の中《なか》へなだれこんできたのです。  ラグノオはテーブルの上《うえ》にとびあがると、 「うわーッ! 店《みせ》の中《なか》へ入《はい》りこんできやがったなッ! かたっぱしからこわしやがる……大《たい》した景気《けいき》だい!」  この商売気《しょうばいっけ》のない男《おとこ》は、手《て》をうって喜《よろこ》んでいます。  人《ひと》びとはシラノのまわりにつめよって、いかにも親《した》しそうに話《はな》しかけるのでした。 「おい君《きみ》……」 「ねえ、シラノ」  シラノはあきれ顔《がお》で、 「俺《おれ》にはきのうまで、こんなに友《とも》だちはいなかったんだがなあ……」  と、つぶやいています。  そのとき、一人《ひとり》の貴族《きぞく》がシラノに手《て》をさしのべながら、 「なあおい、もし、きさまが知《し》ってりゃ……」  と、親友《しんゆう》みたいな口《くち》をききました。  シラノはサッと顔色《かおいろ》をかえて、 「なにッ? きさまだと?……おれは君《きみ》とそんなに親《した》しくつきあったおぼえはないぞ」  そういわれると、その男《おとこ》はすごすごと人《ひと》むれの中《なか》へ消《き》えていきました。  シラノの気《き》げんがひどく悪《わる》いのを見《み》て、ル・ブレが、 「今日《きょう》はいったいどうしたんだい?」  そっと聞《き》くと、 「シッ!」  シラノはただ頭《あたま》をよこにふるばかりです。  そこへまた、大勢《おおぜい》の人《ひと》たちをかきわけて、ペンを持《も》った男《おとこ》がでてきました。 「くわしい事実《じじつ》をうかがいたいのですが……」 「まっぴらだ!」  シラノは、一|言《ごん》のもとにはねつけました。  ル・ブレはびっくりして、 「おい、あれは、テオフラスト新聞《しんぶん》の編集長《へんしゅうちょう》だぜ!」  と、ひじでシラノをつつきながら、 「あの新聞《しんぶん》じゃ、こんなことをとても書《か》きたがるんだよ」 「それが、どうしたっていうんだ!」  新聞《しんぶん》に書《か》きたてられるなんて、シラノは大《だい》きらいです。 「シラノさん……ぼくはあなたの名前《なまえ》を読《よ》みこんだ詩《し》を作《つく》りたいんですが」  こんどは詩人《しじん》らしい男《おとこ》、それにつづいて、 「ねえ君《きみ》、ぼくは……」 「ちょっと君《きみ》……」  あとから、あとから、ひっきりなしに話《はな》しかけられるのに、シラノは、とうとうかんしゃくを起《おこ》して、 「うるさいッ、もうたくさんだ!」  と、どなりつけました。  そのとき、あたりが急《きゅう》にざわめいて、何《なに》やら緊張《きんちょう》した空気《くうき》が流《なが》れたと思《おも》うと、一|隊《たい》の士官《しかん》たちが人《ひと》びとをかきわけてシラノの前《まえ》に出《で》てきました。その中《なか》に、ピンとひげをたてたド・ギッシュ伯爵《はくしゃく》のいばったすがたが見《み》えます。 「ド・ギッシュ閣下《かっか》ご来場《らいじょう》! ガッシオン元師《げんすい》の命令《めいれい》によって、来《こ》られたのです」  士官《しかん》たちの中《なか》から一|歩《ぽ》進《すす》みでて、そういったのは、シラノの友人《ゆうじん》のキュイジイでした。  シラノが、スックと立《た》って敬礼《けいれい》すると、ド・ギッシュは、かるくうなずきながら、 「うむ、君《きみ》がシラノか……元帥《げんすい》は、いま大評判《だいひょうばん》になっている君《きみ》の武勲《ぶくん》にたいして、君《きみ》に心《こころ》からの敬意《けいい》をはらおうとしておられるのだ」  口《くち》のさきでそうはいっても、ド・ギッシュは、きのうのブルゴン座《ざ》の決闘《けっとう》でひどい目《め》にあっていますから、腹《はら》の中《なか》では、なんとかしてシラノをとっちめてやろうと思《おも》っているのです。  町《まち》の人《ひと》びとは、そんなことは知《し》りませんから、 「ばんざーい、シラノばんざーい!」  と、手《て》をうって、はやしたてます。 「武勇《ぶゆう》をそまつになさらないのは、さすが元師《げんすい》閣下《かっか》ですな」  シラノはそういって、ばかていねいに敬礼《けいれい》をしました。 「元帥《げんすい》も、おどろいておられたぞ。しかと見《み》とどけた人間《にんげん》がいなかったら、まったく信《しん》じられんことだといわれてな」  ド・ギッシュがいうと、そばからキュイジイが、 「われわれは、ゆうべ一しょにネール門《もん》へいって、この目《め》で見《み》たんですからな」  と、力《ちから》をこめていいました。  ル・ブレは、シラノのようすがどうもへんなので、またシラノの耳《みみ》もとへ口《くち》をよせて、 「おい、今日《きょう》はなんだか苦《くる》しそうだな」  すると、シラノは、武者《むしゃ》ぶるいのように、ブルブルと身《み》をふるわせて、 「俺《おれ》が、苦《くる》しそうだって?……へん、いまに見《み》ろ」  いったかと思《おも》うと、ひげをピンとさかだて、胸《むね》をグイとつきだし、みるみる人相《にんそう》が変《かわ》ってきました。 「シラノ、君《きみ》はなかなか武勇伝《ぶゆうでん》のもちぬしだが、このガスコンの狂暴隊《きょうぼうたい》に属《ぞく》しているんだな?」  ド・ギッシュに皮肉《ひにく》られて、シラノは、ムッとしたように、 「狂暴隊《きょうぼうたい》にあらず、青年隊《せいねんたい》です!」  胸《むね》をはって、そういうと、そばにいた一人《ひとり》の青年隊員《せいねんたいいん》も、 「わが隊《たい》の精鋭《せいえい》です!」  と、ほえるような声《こえ》でさけびました。 「ふむ!…この、きかん気《き》の面《つら》だましいの諸君《しょくん》が、これがあの有名《ゆうめい》な……」  ド・ギッシュが、おどろいて、あたりの青年隊員《せいねんたいいん》を見《み》まわすのを見《み》ると、中隊長《ちゅうたいちょう》のカルボンは、うれしくてたまらないように、 「シラノ! 君《きみ》、ひとつ、わが隊《たい》を伯爵《はくしゃく》に紹介《しょうかい》してくれんか」  と、命令《めいれい》するのでした。 [#7字下げ]ガスコン魂《だましい》[#「ガスコン魂」は中見出し] 「承知《しょうち》しました!」  わが意《い》をえたりとばかり、ニッコリ笑《わら》ったシラノは、二|歩《ほ》ばかりド・ギッシュの方《ほう》へ進《すす》み出《で》ると身《み》ぶりよろしく青年隊《せいねんたい》を指揮《しき》しながら、おとくいの詩《し》を吟《ぎん》じはじめました。 [#ここから3字下げ] これぞこれ ガスコンの青年隊《せいねんたい》 ひきいるは カルボン勇猛《ゆうもう》大尉《たいい》 隊員《たいいん》こぞって 無双《むそう》の剣客《けんかく》 これぞこれ ガスコンの青年隊《せいねんたい》! 身分《みぶん》家柄《いえがら》 申《もう》しぶんなく 奇才《きさい》あふれる 貴族《きぞく》でござる これぞこれ ガスコンの青年隊《せいねんたい》 ひきいるは カルボン勇猛《ゆうもう》大尉《たいい》 目《め》はワシのよう 足《あし》はツルそっくり ひげはネコのよう 歯《は》はオオカミに似《に》る ぐずぐずぬかしゃあ 切《き》りすてごめん 古《ふる》い帽子《ぼうし》を 羽飾《かざり》でごまかし 大道《だいどう》せましと 濶歩《かっぽ》をすれば 雨のふる日《ひ》も 天気《てんき》でござる こわいものなし やんちゃな連中《れんちゅう》 だてに剣《つるぎ》は さしてはおらぬ 『唐竹《からたけ》わり』だの 『胴刺《どうさ》し名人《めいじん》』 こんなあだ[#「あだ」に傍点]名《な》は まだまだ序《じょ》の口《くち》 功名《こうみょう》手柄《てがら》は はくほどござる 花《はな》の都《みやこ》を のっしのっしと 王侯貴族《おうこうきぞく》も 平気《へいき》の平左《へいざ》 おそれを知《し》らぬ ガスコン魂《だましい》 その名《な》を聞《き》いたら 泣《な》く子《こ》もだまるわ これぞこれ ガスコンの青年隊《せいねんたい》…… [#ここで字下げ終わり]  歌《うた》い終《おわ》ったシラノが、ゆうゆう一|礼《れい》してひきさがると、 「ワーッ、詩人《しじん》剣客《けんかく》。うまいぞ、うまいぞ!」  と、やんやの喝采《かっさい》。 「うむ……うむ……」  ド・ギッシュは、こわいのをかくすように虚勢《きょせい》をはってうなずきながら、ラグノオが持《も》ってきた椅子《いす》に腰《こし》をおろしました。 「ところで……詩人《しじん》というのは、いまや貴族《きぞく》が身 《み》につける飾《かざ》りものだ。シラノ、君《きみ》はわが輩《はい》の詩人《しじん》にならんかい?」 「いや、貴族《きぞく》つきの詩人《しじん》なんか、ごめんこうむりましょう」  ソッポをむいているシラノを、ド・ギッシュは、なんとかして丸《まる》めてやろうと考《かんが》えながら、 「君《きみ》の才気《さいき》あふれる詩《し》は、きのう伯父《おじ》のリシュリュウを、ひどく喜《よろこ》ばせたよ。ひとつ、とりもってやろうか」  リシュリュウというのは、そのころの大政治家《だいせいじか》で、とても権力《けんりょく》のある人《ひと》でしたから、そばにいたル・ブレなどは、こおどりして、 「そうれ、天《てん》がさずけた幸運《こううん》だぞ!」  と、大《おお》よろこびです。 「君《きみ》は、五|幕《まく》の詩劇《しげき》を書《か》きあげたそうだな。それを、伯父《おじ》のところへ持《も》っていきたまえ」  ド・ギッシュの言葉《ことば》に、シラノもちょっと気《き》をひかれたように向《む》きなおって、 「ええ、そうなれば、結構《けっこう》ですが……」  と、顔《かお》をやわらげましたが、 「伯父《おじ》は劇《げき》のほうも、なかなかくわしいよ。もちろん、二、三|行《ぎょう》は手《て》を入《い》れるだろうがね……」  そういわれたとたん、たちまち顔《かお》つきが変《かわ》って、 「とんでもないですよ! たった一《ひと》つの句読点《くとうてん》でも、なおされたと知《し》っちゃあ、腹《はら》の虫《むし》がおさまりませんよ」 「だが、詩《し》が気《き》にいりさえすりゃ、伯父《おじ》はそのほうびとして、何万《なんまん》という金《かね》を出《だ》してくれるんだ」 「なーに、私《わたし》自身《じしん》より高《たか》く買《か》う人《ひと》があるもんですか。私《わたし》はね、気《き》に入《い》りの詩《し》を作《つく》ったときにゃ、自分《じぶん》で声《こえ》たかだかと吟《ぎん》ずるのが、何《なに》よりの満足《まんぞく》なんですからね」 「君《きみ》は、ひどくごうまん[#「ごうまん」に傍点]無礼《ぶれい》な男《おとこ》だな」 「おっしゃるとおり……今《いま》ごろわかったんですか?」  ド・ギッシュは、プンとしてだまってしまいました。  そのとき、青年隊《せいねんたい》の一人《ひとり》が、剣《けん》でだんござしにした帽子《ぼうし》をたくさん持《も》って、入《はい》ってきました。 「おい、シラノ。けさネール門《もん》の河岸《かし》でひろった小《こ》ぎたねええもの[#「えもの」に傍点]だ!」  すると、他《ほか》の青年隊員《せいねんたいいん》もかけよって、 「逃《に》げだしたやつらの軍帽《ぐんぼう》だな」 「虫《むし》がくった羽根《はね》かざりだ」 「底《そこ》もぬけてやがらあ!」  と、ながめまわしたあげく、一|同《どう》、 「ワッハッハッハ」  と、大笑《おおわら》い。 「こんな乞食《こじき》軍人《ぐんじん》を使《つか》いやがったのは、どこのどやつか知《し》らねえが今《いま》ごろはプンプンしとるだろうな」  誰《だれ》かがそういったとき、だしぬけに、 「それは、わしだ!」  と、どなりつけたのは、意外《いがい》にもド・ギッシュです。笑《わら》い声《ごえ》は、ビタリととまりました。 「自分《じぶん》で手《て》を下《くだ》す値打《ねうち》のない、よっぱらいのヘボ詩人《しじん》をこらすためにな、わしが使《つか》ったのだ」  にがにがしげなその声《こえ》に、一|座《ざ》は気《き》まずくだまりこんでしまいました。  やがて、帽子《ぼうし》をひろってきた青年隊員《せいねんたいいん》が、おずおず声《ごえ》で、 「シラノ、こいつはどうしたもんかな? きたならしくて、手《て》もさわれねえや」  すると、シラノはそのくしざしの剣《けん》をうけとり、おじぎをしながら、軍帽《ぐんぼう》をド・ギッシュの足《あし》もとへ投《な》げだして、 「閣下《かっか》、これはあなたのご友人《ゆうじん》の方《かた》たちにお返《かえ》しになったら、いかがです?」  それを聞《き》くと、ド・ギッシュは荒々《あらあら》しく立《た》ちあがって、 「おい、急《いそ》いでカゴの用意《ようい》! すぐ乗《の》るんだぞ」  と命《めい》じてから、シラノに、 「おい、君《きみ》! 君《きみ》はドン・キホーテを読《よ》んだか?」 「読《よ》みましたとも。だからこそ、あの無鉄砲《むてっぽう》な男《おとこ》にかわって、ごあいさつ申《もう》しあげるのです」  シラノは、おちつきはらって答《こた》えました。 「そうか……よく考《かんが》えるがいいな……風車《ふうしゃ》にはむかうような奴《やつ》は、あの大《おお》きな腕《うで》で、ドブドロの中《なか》へたたきこまれるぞ!」 「ハハハハ、そのかわり、一《ひと》つまちがえば、星《ほし》の世界《せかい》へも吹《ふ》きとばしてくれるでしょう」  大口《おおぐち》あいて笑《わら》うシラノをにらみつけながら、ド・ギッシュは荒々《あらあら》しく店《みせ》を出《で》ていきました。  貴族《きぞく》たちも、とりまいていた群集《ぐんしゅう》も、いつかいなくなりました。 「やれやれ、風車《かざぐるま》退散《たいさん》だ。ゆっくり、ごちそうになるか」  青年隊員《せいねんたいいん》たちは、思《おも》い思《おも》いにテーブルをかこんで、飲《の》んだり食《た》べたりやりだしました。 [#7字下げ]歌《うた》って夢《ゆめ》みて[#「歌って夢みて」は中見出し] 「ああ、シラノ……えらいことをやらかしたなあ!」  ル・ブレは、がっかりしたように両手《りょうて》を大《おお》きくひろげて、ためいきをつきました。  シラノは、ケロッとして、 「ええっ、まためそめそいやがる!」  と、この気《き》の弱《よわ》い親友《しんゆう》の肩《かた》を、ポンと一《ひと》つたたくのでした。 「だって、君《きみ》……目《め》の前《まえ》に幸運《こううん》がぶらさがっているときにゃ、それにくっついてゆくべきじゃないか。君《きみ》は少々《しょうしょう》度《ど》がすぎるよ」 「そうかも知《し》れん。だがね、主義《しゅぎ》としても、行動《こうどう》としても、俺《おれ》はこう強《つよ》く出《で》た方《ほう》がいいと思《おも》ってるんだ」 「しかしなあ。もし君《きみ》がその無鉄砲《むてっぽう》さを、少《すこ》しでも、ひかえていりゃあ、幸福《こうふく》でも、名誉《めいよ》でも、望《のぞ》みしだいなんだがなあ……」  ル・ブレは、敬愛《けいあい》する友《とも》の身《み》の上《うえ》を心配《しんぱい》して、一|生《しょう》けんめいでした。  それがわかっているだけに、シラノも、むきになっていいつのるのです。 「そんなら、どうすりゃいいっていうんだ。自分《じぶん》をかばってくれる貴族《きぞく》をさがしたり、勢力《せいりょく》の強《つよ》いものにくっついて、おこぼれでもって生《い》きるってのか? いやなこった!  世間《せけん》の詩人《しじん》どもがするように、自作《じさく》の詩《し》を金持《かねも》ちに売《う》りつけて、たいこもちみたいなまねをするのか? いやなこった!  くだらぬ詩《し》の才能《さいのう》を、けがらわしい幸福《こうふく》にかえて、みさおを売《う》って利益《りえき》を求《もと》め、しょっちゅう権力《けんりょく》におじぎをして、立身出世《りっしんしゅっせ》をはかるってのか? いやなこった!  さっきのような新聞社《しんぶんしゃ》におせじをいって、記事《きじ》を書《か》いてもらい、世《よ》のばか者《もの》どもに名前《なまえ》を知《し》られようってのか? いやなこった!  そんなこたア、まっぴらだ、まっぴらだッ!」  シラノは、興奮《こうふん》のあまり、鼻《はな》をふりたて、ふりたて、大声《おおごえ》にさけぶのでした。 「おれアな、歌《うた》って、夢《ゆめ》みて、笑《わら》って、死《し》んで、独立《どくりつ》独行《どっこう》。他人《たにん》の世話《せわ》になんかビタ一もんならずによ、剣《けん》の道《みち》に精《せい》をだし、ひまがあったら作詩《さくし》にふけり、名誉《めいよ》も栄華《えいが》もくそくらえ。月《つき》の世界《せかい》に旅《たび》することを、夢《ゆめ》にも忘《わす》れぬ健男児《ますらお》だア!  どうせ自力《じりき》でコッコツやってくんだから、高《たか》いところにゃ上《のぼ》れまいがね。天上天下《てんじょうてんが》こわいものなし。やせても枯《か》れても独《ひと》りだちだア!」  両手《りょうて》を大《おお》きくふりあげて、ポンと胸《むね》をたたいたシラノの目《め》には、男《おとこ》の涙《なみだ》がキラキラと光《ひか》っているのでした。  ル・ブレは、シラノの言葉《ことば》を、一《ひと》つ一《ひと》つ大《おお》きくうなずいて聞《き》いていましたが、やはり注意《ちゅうい》せずにはいられなくなるのです。 「独《ひと》りだちか……それもよかろう。だがね、相手《あいて》を見《み》て、ものを言《い》うべきだ。年《ねん》がら年中《ねんじゅう》、どこへ行《い》っても、ガムシャラに敵《てき》ばかり作《つく》るようになったのは、一たいどういうわけなんだい?」 「俺《おれ》はな、きさまたちのように、やたらに友《とも》だちをこしらえてよ、くだらん話《はなし》にあいづちうったりおせじ笑《わら》いしたりするのが、たまらなくいやなんだ。俺《おれ》はな、おれにあいさつするやつらを、片《かた》っぱしからへらしたいんだ。敵《てき》がふえていくなア、何《なに》よりの楽《たの》しみなんだア!」 「まったくムチャだ!」  ル・ブレは、がっかりしていいました。 「そうよ、それが俺《おれ》のくせなんだ。いやがらせるのが、俺《おれ》の楽《たの》しみなんだ。俺《おれ》アな、人《ひと》ににくまれたいんだ。俺《おれ》をにくんでいるやつらの前《まえ》を通《とお》るほうが、どんなにはりあいがあるか、きさまらにゃ分《わか》るまい。ともかく俺《おれ》ア、自分《じぶん》の考《かんが》えを他人《たにん》のためにバカ遠慮《えんりょ》したり、名誉《めいよ》のために舌《した》なめずりしたりするなんて、死《し》んでもいやなんだ!」  ル・ブレは、泣《な》きたいような表情《ひょうじょう》で、じっとシラノの顔《かお》を見《み》つめていましたが、やがて、シラノの腕《うで》をかかえながら、 「しかたがない。君《きみ》は勝手《かって》に、その強情《ごうじょう》と無遠慮《むえんりょ》をふりまわしてゆくさ。だがね、唯一《ただひと》つ、ごく内《ない》しょで聞《き》きたいんだが……」  そういうと、声《こえ》をひくめてささやきました。 「あの……ロクサーヌは、君《きみ》を好《す》いちゃいないんだね?」 「だ、だまれ!」  ものすごい一|喝《かつ》に、ル・ブレはびっくり仰天《ぎょうてん》、おもわず二、三|歩《ぽ》とびのきました。  そのあいだにも、横《よこ》の食堂《しょくどう》では、青年隊《せいねんたい》の連中《れんちゅう》が、さかんに食《た》べたり、さわいだりしていましたが、そこには、いつのまにか、クリスチャンのすがたも見《み》えています。  彼《かれ》は、少《すこ》しおくれて、五、六|分《ぷん》ほど前《まえ》に、ここへやってきたのですが、ほかの青年隊員《せいねんたいいん》たちは、彼《かれ》を見《み》ても知《し》らん顔《かお》で、口《くち》もききません。  彼《かれ》はしばらく、あっちへ行《い》ってあいさつしたり、こっちへ来《き》て笑《わら》いかけたりしていましたが、誰《だれ》も相手《あいて》にするものがないので、しまいには、一人《ひとり》ぼっちになって、すみの方《ほう》の小《ちい》さなテーブルに、しょんぼり腰《こし》をおろしていたのです。  そこへ、一人《ひとり》の隊員《たいいん》が、一|本《ぽん》のフォークにシュークリームを二《ふた》つもさして、パクパクやりながら出《で》てきました。  ふと、クリスチャンのすがたを見《み》つけると、 「おや、見《み》なれないやつがいやがる……うん、こんど入《はい》った新米野郎《しんまいやろう》か……」  そこで、彼《かれ》は大声《おおごえ》をはりあげて、なかまたちに呼《よ》びかけました。 「おーい、諸君《しょくん》》! けさからわが青年隊《せいねんたい》に、毛《け》なみのかわった一|羽《わ》のからすが舞《ま》いこんできたぞ! そこで諸君《しょくん》》。そこなる新米《しんまい》の青《あお》二|才《さい》に、ひとつわれらが英雄《えいゆう》シラノ・ド・ベルジュラックの武勇伝《ぶゆうでん》を聞《き》かせてやろうじゃないか!」  すると、あちこちから、 「さんせい、さんせい!」 「どんなやつだか、ためしてやれい!」  などと、声《こえ》がかかりました。 「なあ、ゆうべの大決闘《だいけっとう》の物語《ものがた》りは、この北国《きたぐに》の青《あお》ビョウタンにゃ、いい教訓《きょうくん》にならあ!」  シュークリームの男《おとこ》の声《こえ》に、クリスチャンは、ムッとしたように立《た》ちあがりました。 「なんだと!」  それを見《み》た隊員《たいいん》たちは、手《て》をうって、 「やーい、おもしろいぞ!」 「やれやれ、元気《げんき》でやれ!」  と、はやしたてるのでした。 [#7字下げ]禁物《きんもつ》の鼻《はな》ずくし[#「禁物の鼻ずくし」は中見出し] 「おい、新米《しんまい》の小僧《こぞう》のくせに、なまいきいうな。けんかなら、おれが相手《あいて》になってやる」  ほかの隊員《たいいん》が、コッペパンをかじりながら出《で》てきました。 「なに、小僧《こぞう》だって?」  クリスチャンは、まだこの中隊《ちゅうたい》について何《なに》も知《し》りませんから、しゃくにさわってたまりません。  シュークリームの男《おとこ》は笑《わら》いながら、 「おい、けんかはあとまわしだ。まずシラノのものすごい話《はなし》を聞《き》かせてやろう。それにつけても、なあ新米先生《しんまいせんせい》、親切心《しんせつしん》から教《おし》えてやるがな。首《くび》くくりの家《うち》で『ナワ』というのは禁物《きんもつ》だが、それにもましての禁物《きんもつ》が、おれたちの隊《たい》には一《ひと》つあるんだ」 「なんだい、禁物《きんもつ》って?」  クリスチャンが、めんどくさそうに聞《き》くと、コッペパンの男《おとこ》がかわって、 「おい、ちょっと俺《おれ》を見《み》ろ」 と、片方《かたほう》の手《て》の人《ひと》さし指《ゆび》で、もったいらしく、三|度《ど》じぶんの鼻《はな》を指《ゆび》さしてみせながら、 「な、わかったか?」  うなずいたクリスチャンが、 「なるほど、つまりその……」  いいかけるのを、 「シッ! その言葉《ことば》が大禁物《だいきんもつ》なんだ!」  と、おしとめて、その男《おとこ》は、向《む》こうの方《ほう》でル・ブレと何《なに》やら話《はな》しこんでいるシラノのうしろすがたを指《ゆび》さしました。 「ほら……あの男《おとこ》がわが隊《たい》の花《はな》、シラノ・ド・ベルジュラックだ。もし、あれに、そんな言葉《ことば》を使《つか》ってみろ。ひでえことになるぞ!」  クリスチャンが、不審《ふしん》げにシラノの方《ほう》をながめているすきに、シュークリームの男《おとこ》はそっとクリスチャンの椅子《いす》にかけながら、 「いいか、おぼえとけよ……鼻声《はなごえ》のやつが鼻《はな》で口《くち》をきいたのが、やつの気《き》にさわって、二人《ふたり》まで叩《たた》っ切《き》られたんだぞ」 「そうとも……」  と、こんどはコッペパンが、 「ちっとでもあのつきだし[#「つきだし」に傍点]のことを口《くち》にしてみろ、一|言《こと》だけで、もうおしまいだ。いや、一|言《こと》どころか、鼻《はな》をかむハンカチでも出《だ》したら、たちまちあいつの剣先《けんさき》がうなりだすぞオ!」  クリスチャンのまわりに集《あつま》った青年隊《せいねんたい》の連中《れんちゅう》は、おもしろそうに腕《うで》をくんで、クリスチャンのようすを眺《なが》めています。  ちょっと考《かんが》えていたクリスチャンは、何《なん》と思《おも》ったか、とつぜんツカツカと歩《ある》きだして、奥《おく》の方《ほう》で他《ほか》の士官《しかん》と話《はな》しあっているカルボン中隊長《ちゅうたいちょう》のところへ近よりました。 「中隊長《ちゅうたいちょう》どの!」  カルボンはふり返《かえ》って、ジロリとクリスチャンを眺《なが》めながら、 「なんだ?」 「ちょっと、うかがいますが……からいばりの好きな南国武士《なんごくぶし》にたいしては、一たい、どうしたらいいのですか?」 「北国武士《ほっこくぶし》でも勇気《ゆうき》のあるところを見《み》せるばかりよ。ビクビクするない!」  カルボンは、うるさそうにいって、すぐ背《せ》をむけてしまいました。 「はい、わかりました」  クリスチャンが、何《なに》かキッと決心《けっしん》したような面《おも》もちで、もとのところへ帰《かえ》ってきたとき、ちょうどシラノも、ル・ブレとつれだって、そこへやってきました。 「おお、シラノ、ちょうどいい。ゆうべの武勇伝《ぶゆうでん》を一|席《せき》話《はな》してくれんか。みんな、くわしく聞《き》きたがっているんだ」 「やってくれ、やってくれ!」  中隊長《ちゅうたいちょう》はじめ隊員《たいいん》たちは、シラノをとりかこんで、めいめい椅子《いす》に腰《こし》をおろし、どんな話《はなし》が出《で》るかと、目《め》をかがやかしています。  ところが、クリスチャンだけは、いかにもばかにしたように、椅子《いす》に馬《うま》のりになって、両手《りょうて》でホオヅエをついているのでした。 「ゆうべのことか?……」  シラノは、ちょっと面倒《めんどう》くさそうな顔《かお》でしたが、だいぶ機嫌《きげん》がなおったのか、 「よし、諸君《しょくん》にだけは話《はな》しておこう」  と、身《み》ぶり手《て》ぶりよろしく、話《はな》しだしました。 「まず、リニエールを待《ま》ちぶせしているという、ネール門《もん》に近《ちか》づいてだな。月《つき》の光《ひかり》にすかしてみると百|人《にん》ぐらいのやつらが、黒々《くろぐろ》とかたまっているんだ。俺《おれ》はな、好敵《こうてき》ござんなれとばかり、たった一人《ひとり》で進《すす》んでいったんだ。  ところが、ちょうどそのとき、幸《こう》か不幸《ふこう》か、まっ黒《くろ》い雲《くも》が出《で》てきてね。月《つき》がかくれてしまったんだ。一|寸《すん》さきは、まっくらみで……」  そのとき、とつぜん、 「鼻《はな》をつままれても分《わか》らんか」  という声《こえ》がしたので、隊員《たいいん》たちは、ドキッとしてふり返《かえ》りました。そこにはクリスチャンが、ホオヅエをついたまま、ニヤニヤ笑《わら》っているのです。みんなは二|度《ど》びっくりして、こわごわシラノの方《ほう》を見《み》ました。  シラノはシラノで、思《おも》わぬところでズバリとやられたので、まるで横《よこ》っぺたをなぐられたように口《くち》をつぐみました。 「いったい、なんだ。その野郎《やろう》は?」  クリスチャンをにらみつけながら、噛《か》みつくようにいうシラノに、一人《ひとり》の隊員《たいいん》がびくびく声《こえ》でいいました。 「けさ入隊《はい》ったばかりの男《おとこ》だがね……」 シラノは、ズカズカとクリスチャンの方《ほう》へ近《ちか》よって、 「けさだって!」  そばにいたカルボン中隊長《ちゅうたいちょう》が、こまったような顔《かお》で、 「名前《なまえ》は、クリスチャン・ド……」  それを聞《き》くと、シラノは、ハッとしたように立《た》ちすくんで、 「うむ……そうか!……ようし!」  しばらく、グッとがまんするように、青《あお》くなったり赤《あか》くなったりしていたシラノは、またもや、 「俺《おれ》アな!……」  と、さけびながら、クリスチャンにとびかかろうとしましたが、すぐまた、自分《じぶん》をおさえつけるように、 「うん、よし、大《おお》いによろしい!……ええくそッ……どこまで話《はな》したんだっけな?……」  急《きゅう》に静《しず》かな声《こえ》にかえって、 「えーッと、くらくて何《なに》も見《み》えなかった。というところまでだ」  と、ふたたび話《はな》しだしました。  アッケにとられた隊員《たいいん》たちは、うす気味《きみ》わるいやら、ホッと胸《むね》をなでおろすやら、静《しず》かにすわりなおすのでした。 「それでな、俺《おれ》は考《かんが》えながら歩《ある》いていったんだ。どうせ下《くだ》らないヘボ詩人《しじん》をかばうんだが、ひとたび剣《けん》を鳴《な》らす以上《いじょう》は、どえらいやつとか、貴族《きぞく》とか、まっこうからこの俺《おれ》の……」  とたんに、また、クリスチャンが、 「鼻柱《はなばしら》を折《お》るような……」  と、まぜっ返《かえ》しました。一|同《どう》ハッとふり返《かえ》ると、クリスチャンは相変《あいかわ》らず椅子《いす》にまたがったままケロリとしてからだをゆすぶっています。  一|度《ど》ならず、二|度《ど》まで!……隊員《たいいん》たちたちは、こんどこそと思《おも》いながら、ハラハラしていましたが、シラノは、ちょっとクリスチャンの方《ほう》を見《み》ただけで目《め》をそらし、しめつけられたような声《こえ》で話《はな》しつづけるのでした。 「この俺《おれ》にだな……まっこうからはむかうようなやつを相手《あいて》にしてくれようと、いつもの無鉄砲《むてっぽう》から、メチャクチャに……」 「鼻《はな》をつっこみ……」 「この俺《おれ》を負《ま》かすほどの……」 「鼻《はな》っぱしの強《つよ》い……」  シラノは、まっ赤《か》になって、ひたいの汗《あせ》をふきながら、 「そういう手《て》ごわいやつを、目《め》がけたんだ。俺《おれ》は、心《こころ》の中《なか》でさけんだ。――ひるむなガスコン! がんばれシラノ! そうして敵中《てきちゅう》へおどりこむと、闇《やみ》からとびだす曲者《くせもの》一人《ひとり》、物《もの》をもいわず切《き》りこむ太刀《たち》さき……」 「鼻《はな》であしらい……」 「はっ、とうけとめ、たがいに見《み》あわす……」 「鼻《はな》と鼻《はな》……」  もう、がまんできなくなったシラノは、 「この命知《いのちし》らずめッ!」  と、わめきながら、クリスチャンめがけておどりかかりました。青年隊員《たいいん》たちは、いよいよやった! とばかり、サッとつめよりました。  ところが、ふしぎ! ふりあげたシラノの両腕《りょううで》は、宙《ちゅう》でピタリととまり、力《ちから》なく姿勢《しせい》をなおしたシラノは、またもとの声《こえ》にもどって、話《はな》しつづけるではありませんか。 「見《み》れば、酒《さけ》をくらって景気《けいき》をつけた、百|人《にん》あまりのその息《いき》は、むかつくばかり……」 「鼻《はな》をつく……」  シラノは、急《きゅう》に青《あお》ざめて、くるしそうに苦笑《にがわら》いしながら、 「むかつくような異様《いよう》なにおい、ゆだんはならじと頭《あたま》をさげて切《き》りこめば……」 「鼻《はな》も一しょにおどりこむ!」 「あたるを幸《さいわ》い、切《き》りまくり、突《つ》きまくり、一人《ひとり》はくしざし、二人《ふたり》は胴切《どうぎ》り! 俺《おれ》をめがけて、またもや一|声《こえ》、丁《ちょう》とひびけば返《かえ》す刀《かたな》に……」 「チンと鼻《はな》!」  一|句《く》一|句《く》、こうたてつづけにやりこめられて、とうとうシラノは、プッツリ話《はなし》を切《き》ってしまいました。 「おい、みんな出《で》ていけッ」  われがねのようなシラノの声《こえ》に、隊員《たいいん》たちは、こわごわとあとずさりはじめました。 「そうれ、虎《とら》がおこりだしたぞ!」 「あんなにいっといたのに、あきれた野郎《やろう》だ!」 「かわいそうに、ズタズタのこまぎれにされるだろうな」 「おい、みんな出《で》るんだ。こいつと俺《おれ》だけ残《のこ》してゆくんだぞ!」  シラノにいわれて、カルボン中隊長《ちゅうたいちょう》も、あきらめたように、 「さあ、みんな退却《たいきゃく》だ!」  と、奥《おく》へ入《はい》っていきました。 「さあ、大《たい》へんなことになったぞ。おれア、おそろしくて見《み》ちゃおれん」 「店《みせ》が血《ち》の海《うみ》になるぞ!」  みんなひそひそささやきながら、奥《おく》へかくれたり、外《そと》へとびだしたり……やがて、シラノとクリスチャンのほかは、誰《だれ》のすがたも見《み》えなくなりました。 [#7字下げ]これはしたり![#「これはしたり!」は中見出し] (もし、決闘《けっとう》をいどまれたら、男《おとこ》らしく、戦《たたか》いぬいてやるぞ!……)  クリスチャンは、広《ひろ》い食堂《しょくどう》にポツネンと残《のこ》されると、心中《しんちゅう》かたく覚悟《かくご》をしました。  そのようすを、じっと見《み》ていたシラノは、 (うむ……なるほどいい男《おとこ》だ。ロクサーヌの目《め》にくるいはないわい……)  そう思《おも》いながら、やにわに手《て》をとって、 「さあ、親友《しんゆう》のあいさつをしよう!」  と、いったのです。  驚《おどろ》いたのはクリスチャン、にぎられた手《て》をいそいで引《ひ》っこめると、 「そりゃ……どういうわけなんだ?……」 (俺《おれ》だって北国武士《ほっこくぶし》のパリパリだい。南国《なんごく》のガスコンなんぞに、むやみに頭《あたま》をさげてたまるかってんだ!)  カルボンにいわれたことを思《おも》いだしながら、クリスチャンは、ツンと横《よこ》をむきました。 「いい度胸《どきょう》だなア! すばらしく気《き》のきいた悪口《わるぐち》だったなア! 大《おお》いに気《き》にいったぞ」  クリスチャンは、なおもそっけなく、 「なにか僕《ぼく》にご用《よう》ですか? べつに、あなたとは知《し》りあいでもないし……大《たい》して用件《ようけん》もないでしょう?……」  それをきくと、シラノは急《きゅう》にニヤニヤ笑《わら》いだしました。 「知《し》りあいでもないって?……大《たい》した用件《ようけん》もないって?……そんなら、俺《おれ》は何《なに》もいわないぞ。たのまれたことが山《やま》ほどあるんだ……それでも君《きみ》はいいというのだな?」  クリスチャンは目《め》を、パチパチやっています。 「俺《おれ》と、あのひととは兄妹《きょうだい》なんだよ!」 「誰《だれ》とです?」 「ロクサーヌとさ!」  こんどは、クリスチャンの顔色《かおいろ》がさっと変《かわ》りました。  そして、足《あし》もとの椅子 《いす》につまずきながらシラノにかけよって、 「なんですって? あなたが、あの女《ひと》の、お兄《にい》さんですって?……」 「うん、まあそんなるのさ。兄妹《きょうだい》といってもいいくらいの従兄妹《いとこ》どうしなんだ」 「あの女があなたにたのんだのですって?」  クリスチャンは、足《あし》をバタバタさせています。  シラノは、いつもの茶目《ちゃめ》ッ気《け》を出《だ》して、 「そうよ。あの女《ひと》がなにもかもうちあけたんだ。だが、君《きみ》にはたいへん迷惑《めいわく》のようだから、だまっていよう……べつに知《し》りあいでもないしね……」  クリスチャンは別人《べつじん》のようになって、シラノの腕《うで》にとびつきました。 「迷惑《めいわく》だなんて……と、とんでもない。あなたがロクサーヌさんのお従兄《いとこ》だとは、夢《ゆめ》にも知《し》らず、とんだ失礼《しつれい》をいたしました」  さらにシラノにだきついて、 「あなたとお知《し》りあいになれるのは実《じつ》にうれしいです!」  シラノは、オホンとせきばらいすると、 「さっきとは、だいぶようすが違《ちが》うなア……しかし、あの鼻《はな》づくしにゃあ……まったく、どぎもをぬかれたよ」 「いや、かんべんしてください。実《じつ》のところ僕《ぼく》はあなたを尊敬《そんけい》しているんですよ。けっして悪気《わるぎ》ではありません。あなたの話《はなし》がおもしろいので、つい横《よこ》やりを入《い》れてしまったというわけで、自然《しぜん》に口《くち》からとび出《だ》したんで……」  シラノとクリスチャンは、すっかりうちとけてしまいました。 「それで、あの女《ひと》は、ぼくを好《す》きなのですか?」  クリスチャンはせきこんでたずねました。 「かも知《し》れんな……」  シラノは、あらためてクリスチャンの顔《かお》をみつめながら。 (なるほど、いい男前《おとこまえ》だ! こいつにくらべたら、俺《おれ》なんぞ足《あし》もとにもおいつかないや!……)  なんとも、やりきれない気持《きも》ちです。が、そんな様子《ようす》は少《すこ》しも見《み》せず、ほがらかに笑《わら》いながら、 「さあ、君《きみ》にはすばらしい幸福《こうふく》が、目《め》の前《まえ》にぶらさがっているんだぞ! パリ中《じゅう》の男《おとこ》という男《おとこ》が、 夢《ゆめ》にまでみるロクサーヌに、運《うん》よくみとめられたのだ。そのうえ、あの女《ひと》の従兄《いとこ》であるこのシラノさまとも親友《しんゆう》になるし……もう、新米《しんまい》のさびしさなんか吹《ふい》っとんじまったろうなア」  そういって、クリスチャンの手《て》をつぶれるほどにぎりしめました。  もはや、決闘《けっとう》どころではありません。  クリスチャンは、うれしさのあまり、シラノの腕《うで》にだきついていきました。  そのときです。  一|騒動《そうどう》もちあがると思《おも》われた食堂《しょくどう》が、あまりひっそりしているので、青年隊《せいねんたい》の一人《ひとり》がそっと半分《はんぶん》ほど戸《と》をあけて、オズオズ中《なか》をのぞきこみました。 「おやっ?……何《なに》ごともないぞ……死《し》んだように静《しず》かだ」  その声《こえ》に、おもてや、おくの部屋《へや》にかくれていた青年隊員《せいねんたいいん》たちが、ぞろぞろと入《はい》ってきました。  そして、そこにシラノとクリスチャンが、親《した》しげにだきあっているのを見《み》ると、 「やあ!」 「これはしたり……」 「夢《ゆめ》ではないか!」  みんな目《め》をみはって、おどろきの声《こえ》をあげました。  カルボン中隊長《ちゅうたいちょう》も、どうも信《しん《じられないというように首《くび》をかしげながら、 「おやおや、われらのあばれんぼうは、聖人《せいじん》のようにおとなしいぞ。あんなにやじられた男《おとこ》と、親友《しんゆう》みたいにだきあっていやがる」  そんなことをいっているところへ、さっき逃《に》げだした弱虫《よわむし》の軍人《ぐんじん》が、のこのこやってきました。 「ヘー。じゃあもう、大《おお》っぴらに、あの鼻《はな》をからかってもいいってわけか……」  そして、おかみさんのリーズを呼《よ》んで、 「おい、リーズ、見《み》ていろよ」  強《つよ》そうにそういうと、ズカズカとシラノの方《ほう》へ近《ちか》よって、わざとクンクン鼻《はな》をならしながら、 「ああ、なんだか、とてもいいにおいだ……たまらねえ……なあ君《きみ》、こりゃなんの花《はな》だろう、このにおいは……まあ、かいでみたまえ」  と、シラノの鼻《はな》をジロジロとながめました。  とたんに、ピシャッと、シラノの片手《かたて》がその軍人《ぐんじん》のほっぺたをなぐりつけました。 「平手《ひらて》の花《はな》だあ!」  急《きゅう》に変《かわ》ったシラノのけんまくに、軍人《ぐんじん》は頭《あたま》をかかえて、ころげるようにおもてへとび出《だ》してしまいました。 「いよう、やっぱりシラノだ!」 「ゆかい、ゆかい……おいらの神《かみ》さまは、ちっとも変《かわ》りやしないぞ!」  青年隊《せいねんたい》の連中《れんちゅう》は大《おお》よろこび、手《て》をとりあって店《みせ》の中《なか》をはねまわっています。 「おい、クリスチャン、ここじゃあ話《はなし》ができん。むこうの飲屋《のみや》へ行《い》こう」  シラノは、クリスチャンをつれて、むかいのやつざき[#「やつざき」に傍点]屋《や》へ出《だ》かけていきました。  それと見《み》た青年隊員《せいねんたいいん》たちは、いっせいにドラ声《こえ》をあげて、こんな唄《うた》をうたいはじめるのでした。 [#ここから3字下げ] フランス軍《ぐん》は なぜ強《つよ》い? ガスコン隊《たい》が あるからさ ガスコン隊《たい》は なぜ強《つよ》い? 剣《けん》の神《かみ》さま いるからさ その名《な》はシラノ・ド・ベルジュラック その名《な》はシラノ シラノ シラノ! …… [#ここで字下げ終わり] [#7字下げ]すばらしい名案《めいあん》[#「すばらしい名案」は中見出し]  こちらは、やつざき屋《や》の酒場《さかば》――。  シラノは、クリスチャンを前《まえ》にして、ブドウ酒《しゅ》をちびりちびり飲《の》みながら、兄《あに》が弟《おとうと》をさとすように、こんこんと話《はな》していました。 「な、わかったろう? ガスコン魂《だましい》ってのは、風流《ふうりゅう》はとうとぶが、おせじや気《き》どりがあってはならん。第《だい》一、おやさしい言葉《ことば》なんか、通用《つうよう》せんよ。  それに、クリスチャン、きさまはただでさえ好男子《こうだんし》だ。あんまりきれいで、のっぺりしとると、みんながやきもちをやくぞ。まあ、わざときたなくなる必要《ひつよう》はないが、あくまで男《おとこ》らしくやるんだな……。  しかし、さっきはおどろいたよ。実《じつ》に、きさまの舌《した》は、たいしたものだ。その顔《かお》で、あれだけやれりゃ、ロクサーヌなんて一ぺんでコロリだよ!」 「いや、とんでもない……」  クリスチャンは頭《あたま》をかいています。 「ところで、クリスチャン。あのひとは今夜《こんや》、きさまの手紙《てがみ》を待《ま》ってるんだぞ!」 「えッ!……そいつア、困《こま》ったなあ!」  クリスチャンは、よろこぶと思《おも》いのほか、急《きゅう》にしょげかえりました。 「どうしてなんだ?」  シラノが、不審《ふしん》そうにたずねると、 「いや、僕《ぼく》は、だまってるうちが花《はな》なんで、口《くち》をきいたり、手紙《てがみ》を書《か》いたりしたら、おじゃんなんです。まったく気《き》がきかないんで……」 「なーに、そんなことはなかろう。さっきのような芸当《げいとう》は、ばかじゃあできないよ」 「いいえね。男《おとこ》の前《まえ》なら、どうにか文句《もんく》をひねれるんですが……女《おんな》の人《ひと》の前《まえ》に出《で》ると、まったく口《くち》がきけないんで……」 「ほんとかね?」 「まあ、目《め》つきだけなら、女《おんな》のひとに物《もの》をいうこともできますが、舌《した》やペンでは、からっきし自身《じしん》がないんで……それがいつも残念《ざんねん》でたまらん。ぼくは、まったく、愛《あい》など語《かた》ることができないデクノボウなんです……」 「ふうん、そうかなあ……」  シラノは、思《おも》わずためいきをつきながら、 「俺《おれ》の顔《かお》が、もうちっと人《ひと》なみだったら、俺《おれ》こそ、愛《あい》を語《かた》ることのできる人間《にんげん》なんだろうがなあ!……」  それを見《み》ると、クリスチャンもためいきをついて、 「ああ……なんでもうまく詩的《してき》に話《はな》すことができたらなあ! このままじゃ、風流《ふうりゅう》好《ず》きのロクサーヌの夢《ゆめ》も、さめてしまうだろう……」  愛《あい》らしくしかめるその顔《かお》を、シラノは、ほれぼれと見《み》つめながら、 「うーん……まごころをうちあけるのに、こんな顔《かお》がちょっとでも借《か》りられたらなあ!……」  両方《りょうほう》で、ためいきのつきっこをしています。 「ぼくこそ、あなたのようなすばらしい弁舌《べんぜつ》がほしいですよ」  そういうクリスチャンを、しばらくじっと見《み》ていたシラノは、ふと思《おも》いついたように、いきいきした声《こえ》でいいました。 「うん、いい考《かんが》えがあるぞ! 俺《おれ》が君《きみ》に舌《した》をかしてやるから、君《きみ》はその美《うつく》しい顔《かお》をかしてくれるんだ。そして、二人《ふたり》が一しょになって、あの女《ひと》をぼーっとさせてしまうのだ」 「えっ、なんだって?」 「俺《おれ》がまい日《にち》いい文句《もんく》を教《おし》えてやるからな、君《きみ》はそれをおぼえこんで、ロクサーヌに話《はな》すんだ。その勇気《ゆうき》があるかい?」 「そして……どうするんです?」 「そして、君《きみ》の欠点《けってん》を俺《おれ》がおぎない、俺《おれ》の欠点《けってん》を君《きみ》がかばうんだ。つまり、俺《おれ》が君《きみ》の影法師《かげぼうし》になって、君《きみ》にいろんなことを教《おし》えてやる。君《きみ》はそれをしゃべるわけだ。そうすりゃ、君《きみ》のやさしいすがたと、俺《おれ》の才気《さいき》が一つになって、ロクサーヌは夢中《むちゅう》になってしまう。どうだ、名案《めいあん》だろう?」 「ああ、そうですか……」  クリスチャンは、やっとわかったようですが、シラノがあまり一|生《しょう》けんめいなので、何《なに》かうす気味《きみ》わるいように、 「なんだか、へんだなあ……あなたの目《め》の色《いろ》が変《かわ》ってきましたよ。そんなに興味《きょうみ》があるんですか?」 「いや……なに……」  シラノは、ドギマギして、残《のこ》りのブドウ酒《しゅ》を一|気《き》にのみほしながら、 「とにかく、俺《おれ》は詩人《しじん》だからな。こういうことが大好《だいす》きなんだ」  と、苦《くる》しまぎれにいうのでした。 「ところで、あのひとに手紙《てがみ》を書《か》かなくちゃならないんだが、困《こま》ったなあ、僕《ぼく》にはとても書《か》けそうもない」  それを聞《き》くと、シラノは上着《うわぎ》のポケットから、さっき書《か》いた手紙《てがみ》をとりだしました。いまとなってはもうむだなこの手紙《てがみ》、いさぎょくクリスチャンにくれてしまおうと決心《けっしん》したのです。 「さあ、ここにあるよ、君《きみ》の手紙《てがみ》が……」 「えっ、ぼくの手紙《てがみ》だって?」  あまりに手《て》まわしがよいのにおどろいたクリスチャン[#「おどろいたクリスチャン」は底本では「おどろいたりクリスチャン」]は、 「でも……どうして、こんなものを……?」  と、手《て》を出《だ》しかねています。 (こいつめ、どんどん受《う》けとりゃいいのに……よけいな説明《せつめい》をしなくちゃならんわい……)  シラノは、ハテなんといったらいいかと思案《しあん》しましたが、さっそくうまいことをいいだしました。 「俺《おれ》たちはな、愛《あい》の女神《めがみ》にささげる手紙《てがみ》を、いつでもポケットに持ってるんだ。本《ほん》ものの美《うつく》しい女性《じょせい》なんか、えんがないからな、頭《あたま》の中《なか》で空想《くうそう》した女性《じょせい》に、でたらめな手紙《てがみ》を書《か》いてるんだ。……さあ、受《う》けとれよ。そして、この空想《くうそう》の愛《あい》の手紙《てがみ》で、君《きみ》は本《ほん》ものの女性《じょせい》をつかまえるんだ。さあ、えんりょするない!」 「へー、そのままで大丈夫《だいじょうぶ》ですか……そんなでたらめに書《か》いたものが、ロクサーヌにうまくあてはまるかしら?」 「だいじょうぶ。手袋《てぶくろ》のようにピッタリはまるさ」 「ほんとですか!」 「そうとも! そしてな、クリスチャン。今夜《こんや》ロクサーヌのところへ行って、何《なに》もいえなけりゃ、この手紙《てがみ》だけおいて帰ってこい。ボロが出《で》るからさっさと帰《かえ》るんだぞ。このつぎに書《か》くときゃア、この俺《おれ》が、きさまの穴《あな》だらけの頭《あたま》に、すばらしい文句《もんく》を吹《ふ》きこんでやらあ!」 「ああ、ありがたい! これで僕《ぼく》は千|人力《にんりき》だ!」  クリスチャンはとび上《あが》って、シラノの腕《うで》をにぎりしめるのでした。 [#7字下げ]月《つき》をとらえる[#「月をとらえる」は中見出し]  その晩《ばん》、シラノは、青年隊《せいねんたい》の兵舎《へいしゃ》からほど近《ちか》いところにあるエドモンド公園《こうえん》のベンチに、ひとり、しょんぼりと、腰《こし》をおろしていました。  ゆうべとちがって、今夜《こんや》は一|片《ぺん》の雲《くも》もなく晴《はれ》れすんだ空《そら》に、レモンのような月《つき》が、なにか謎《なぞ》めいて、ポッカリ浮《う》かんでいます。  すぐ前《まえ》の池《いけ》には、まん中《なか》に大理石《だいりせき》の天使《エンゼル》像《ぞう》が立《た》ち、その手《て》にささげた水《みず》ガメから、二すじの噴水《ふんすい》が吹《ふ》きこぼれています。それが、月《つき》の光《ひかり》にキラキラとかがやいて、たとえようもなく美《うつく》しく、なごやかに見《み》えます。  月《つき》の大好《だいす》きなシラノは、いつまでもじっと空《そら》を仰《あお》いでいました。 (ああ、いまごろはクリスチャンのやつ、ロクサーヌの家《うち》へむかって、ひた走《はし》りに走《はし》っているだろうなあ……あの手紙《てがみ》を見《み》たら、ロクサーヌは、どんな顔《かお》をするだろう……)  そんなことを考《かんが》えているうちに、シラノのまぶたには、ふと、故郷《こきょう》ベルジュラックのすがたや、少年時代《しょうねんじだい》の思《おも》い出《で》が、走馬燈《そうまとう》のように浮《う》かんできました。きっと、ひるま久《ひさ》しぶりにロクサーヌと、昔《むかし》なつかしい話《はなし》をかわしたからにちがいありません。  ドルドーニュという大《おお》きな河《かわ》のほとりにある美《うつく》しい町《まち》ベルジュラック――そこで育《そだ》ったシラノの少年時代《しょうねんじだい》は、しかし、けっして幸福《こうふく》なものではありませんでした。  それもみんな、彼《かれ》のみにくい顔《かお》すがたのためだったのです。それを思《おも》うと、シラノは今《いま》さらに、さびしい思《おも》いに胸《むね》を刺《さ》されるのでした。 (俺《おれ》は、この鼻《はな》のために、どのくらい悩《なや》まされたかわからない。おふくろでさえ、おれの鼻《はな》を見《み》ていやがっていたっけ……)  シラノは、ふと立《た》ちあがると、池《いけ》のふちに近《ちか》よって、下《した》をのぞきこみました。自分《じぶん》の顔《かお》を見《み》ようと思《おも》ったのです。  もちろん、はっきり見《み》えるわけはありませんし、また、この数年来《すうねんらい》ぜったいに鏡《かがみ》らしいものを見《み》たことのないシラノは、もしはっきり見《み》えるものなら、のぞいて見《み》なかったでしょう。  水《みず》の上《うえ》には、しかし、それでも、何《なに》かあやしげな動物《どうぶつ》みたいな顔《かお》が、ぼんやり写《うつ》しだされています。シラノは、じっとそれを見《み》つめていました。 (おやじも、おふくろも、人《ひと》なみの顔《かお》だったのに、よくもこんな面《つら》ができたもんだ……おさない俺《おれ》を見《み》て、誰《だれ》でもすぐ笑《わら》いだしやがった。それがどういうわけかと知《し》りはじめたとき、俺《おれ》は世《よ》の中《なか》をのろってやりたくなった。たのしかるべき少年時代《しょうねんじだい》だって、心《こころ》から快活《かいかつ》になれただろうか?……いつでもくらい影《かげ》のような自信《じしん》のなさが、たのみもしないのに俺《おれ》の心身《しんしん》に入《はい》りこんで、家賃《やちん》もはらわぬ長年《ながねん》の住《す》みこみ者《もの》となったのだ……。  俺《おれ》は、だが、人《ひと》一|倍《ばい》負《ま》けずぎらいの子供《こども》だった。そして、このえたいの知《し》れぬさびしさを忘《わす》れようと、子供《こども》ごころにも一|生《しょう》けんめいだったんだなあ……)  わびしい、くやしい思《おも》い出《で》のかずかずが、とめどなくシラノの胸《むね》によみがえってきます。  ほんとうに人《ひと》なみはずれたみにくい鼻《はな》!……ふつうの人《ひと》だったら、悲《かな》しみのあまり死《し》んでしまうかも知《し》れません。しかし、シラノの心 (こころ》は、子供《こども》ながらも、そんな、めめしいものではありませんでした。  ――よし、顔《かお》がだめなら、腕《うで》と頭《あたま》でいくんだ!  そう決心《けっしん》した彼《かれ》は、少年時代《しょうねんじだい》から剣道《けんどう》と学問《がくもん》に、死《し》にものぐるいの勉強《べんきょう》をつづけました。そのおかげで、一|方《ぽう》にくらいかげがありながらも、反面《はんめん》、陽気《ようき》で、たくましくて、才気《さいき》あふれる、純情 《じゅんじょう》、玉《たま》のような人間《にんげん》ができあがっていったのです。  しかも、この才気《さいき》と陽気《ようき》さのおくにかくされた、消《け》すことのできない悩《なや》みを、シラノは親友《しんゆう》ル・ブレのほかの誰《だれ》にも知《し》られたくなかったのです。  いくら豪勇《ごうゆう》で賢明《けんめい》な彼《かれ》とても、まだ二十二、三の若《わか》さでしたから、それもむりはなかったでしょう……。  そのとき、だしぬけに、 「おい、シラノ!」  と呼《よ》ぶ声《こえ》がしたので、シラノはハッと顔《かお》をあげました。 「おお、ル・ブレ。どうしたんだ?」 「そりゃ、こっちの聞《き》くことだよ」  と、ル・ブレはシラノに近《ちか》よりながら、 「今《いま》まで、あちこち君《きみ》をさがしていたんだ。べつに急用《きゅうよう》じゃないがね……ところで、どうしたんだ池《いけ》の中《なか》をのぞいたりして……池《いけ》の主《ぬし》と話《はなし》でもしようってのかい?」 "シラノは、てれくさそうに苦笑《にがわら》いをして、 「いや、そうじゃない。月《つき》と話《はなし》をしていたんだ。天《てん》の月《つき》はおよびもつかんから、せめて水《みず》にうつる月《つき》をつかまえてやろうと思《おも》ってね」  それを聞《き》くと、ル・ブレは、今《いま》のいま心《こころ》の中《なか》で案《あん》じていたことを、シラノが遠《とお》まわしに言《い》っているような気《き》がして、いたわるようにシラノの肩《かた》をたたきながら、 「ねえ、シラノ……またおせっかいだと思《おも》うかも知《し》れないが………君《きみ》はあんなにロクサーヌを思《おも》いながら、どうしてクリスチャンなんかに、おとりもちするんだい? あんな能《のう》なしの青《あお》二|才《さい》になんてロクサーヌはもったいない。それこそ、天《てん》の月《つき》だよ!」 「はッはッは……」  シラノは、とつぜん笑《わら》いだしました。 「俺《おれ》の言《い》ってるのは、ロクサーヌのことじゃないよ。本《ほん》もののお月《つき》さまさ。俺《おれ》は、近《ちか》いうちに、ぜひ“月世界旅行《げつせかいりょこう》”という本《ほん》を一|冊《さつ》書《か》くつもりなんだ」 「うむ、そりゃ結構《けっこう》だが……さしあたって、ロクサーヌの方《ほう》は?……」 「ロクサーヌか?……俺《おれ》アなあ、きさまも承知《しょうち》のように、気《き》がむかないとなったら、ぜんぜんだめなんだ。俺《おれ》が、いざというときにゃ、腹《はら》の底《そこ》から、うんうんとうなずく声《こえ》が高《たか》らかにこだま[#「こだま」に傍点]しなくちゃ、こっちの胸《むね》も高鳴《たかな》らないんだ。今《いま》のところ、まだその声《こえ》がひびいてこないってわけなのさ」  シラノは、そう言《い》うと、片手《かたて》を高々《たかだか》とあげて月《つき》を指《ゆび》さしながら、 「さあ、あの月《つき》を見《み》ながら、この月《つき》の光《ひかり》にぬれながら、よもすがら歩《ある》きあかそうじゃないか。地上《ちじょう》の一|切《さい》は、夢《ゆめ》のように消《き》えてしまうよ」  そして、ル・ブレの肩《かた》をだきかかえて、あてもなく歩《ある》きだすのでした。 [#7字下げ]名花《めいか》は匂《にお》う[#「名花は匂う」は中見出し]  閑静《かんせい》なマレエのやしき街《がい》には、今日《きょう》も、かぐわしいジャスミンのかおりが、夕暮《ゆうぐ》れのそよ風《かぜ》にのって流《なが》れていました。  このあたりには、フランスの貴族《きぞく》の住宅《じゅうたく》が多《おお》く、ずっと赤《あか》れんが[#「れんが」は中見出し]の塀《へい》がならんでいます。  その塀《へい》が、ちょっと切《き》れたところに、小《ちい》さな四つかどがあり、その片《かた》かどに、れんがと石《いし》で作《つく》られた上品《じょうひん》な二|階家《かいや》があって、戸口《とぐち》の上《うえ》につきでたバルコニーのまわりには、いまをさかりと、ジャスミンの花《はな》が咲《さ》きにおっています。  戸口《とぐち》の表札《ひょうさつ》には『マグドレエヌ・ロバン』――それこそ、ほかならぬロクサーヌの住《すま》いです。  ロクサーヌの家《うち》の前《まえ》にも、やはり同《おな》じような古《ふる》いやしきがあります。文学《ぶんがく》や芝居《しばい》が大《だい》すきな、クロミイルという貴族《きぞく》の家《うち》で、その戸口《とぐち》の引《ひ》き手《て》が、けがをした親指《おやゆび》のように、ま新《あたら》しく白《しろ》いきれでまかれてあり、さっきから、何人《なんにん》もの貴族《きぞく》や貴婦人《きふじん》が、その戸口《とぐち》から入《はい》っていきました。  今日《きょう》は、その家《うち》で詩《し》の朗読会《ろうどくかい》があり、ロクサーヌも呼《よ》ばれているので、いま二|階《かい》の部屋《へや》で支度《したく》のさいちゅうでした。  その戸口《とぐち》の横《よこ》にあるベンチに腰《こし》かけてロクサーヌを待《ま》っているのは、いつかシラノに菓子《かし》を腹《はら》いっぱい食《た》べさせられた若《わか》い腰元《こしもと》ですが、ロクサーヌが、なかなか出《で》てこないので、折《おり》からそこへほうき[#「ほうき」に傍点]を持《も》って出《で》てきた新入《しんい》りの庭男《にわおとこ》のすがたを見《み》ると、たいくつまぎれに話《はなし》をはじめました。 「ねえ、おまえさんは、なんでも、いままで料理屋《りょうり》さんをやってたっていうじゃないの?」 「ええ、そうなんですよ。ねえさん」  そういってたちどまったのは、貴族《きぞく》につかわれる下男《げなん》の服装《ふくそう》こそしていますが、意外《いがい》にも、あの詩人《しじん》無銭《むせん》飲食店《いんしょくてん》のラグノオではありませんか。店《みせ》にいたときとちがって、何《なに》かショボショボした感《かん》じです。 「どこでやってたの?」 「聖《せい》オノレ街《がい》の角《かど》でね……」 「ああ、あそこなら、つい先《せん》だってロクサーヌさまのおともをして行《い》ったことがあるわ。とてもおいしいお菓子《かし》を、たくさん頂 (いただ》いたもの。あんなりっぱなお店《みせ》を、どうしてやめてしまったの?」 「そ、それがね……その、菓子《かし》や料理 (りょうり》が、あんまりうますぎたからなんだ。女房《にょうぼう》のやつは、家《うち》をとびだしちまって、小僧《こぞう》らもバラバラになるし、たった十|日《か》ばかりのうちに、とうとう店《みせ》がつぶれちゃったってわけさ……」  話《はなし》しているうちに、ラグノオはたまらなくなったように、涙《なみだ》をポロポロこぼしはじめました。 「まあ!……そして、どうしてここへ入《はい》ったの?」 「おいらあ、もう生《い》きてる張《は》りあいがなくなっちゃってね、首《くび》くくりでもしようと思《おも》ってるところへ、あのシラノさまがござらっしゃったんだ。それで、おいらを助《たす》けて、このお従妹《いとこ》さんとこへお世話《せわ》してくださったってわけだよ」  人《ひと》のいいラグノオは、すっかりおちぶれはてて、あのころの元気《げんき》はすこしも見《み》られません。 「ふうん……気《き》のどくにねえ……」  そういった腰元《こしもと》は、ふと立《た》ちあがると、ロクサーヌのいる二|階《かい》の窓《まど》へ、 「ロクサーヌさま、お支度《したく》はまだでございますか? もう、みなさまお見《み》えでございますよ!」  と、呼《よ》びたてました。 「いま、マントをきているのよ」  ロクサーヌの声《こえ》に、腰元《こしもと》はじれったそうに、 「ああ、待《ま》ちどうしい……ねえ、あんた、今日《きょう》はあの向《むか》いのクロミイルさまのおやしきでね、大《おお》ぜいお客《きゃく》さんを呼《よ》んで、詩《し》の会《かい》があるのよ」 「え、詩《し》の会《かい》? いいなあ!」  久《ひさ》しぶりに、詩《し》という言葉《ことば》をきいて、ラグノオは目《め》をかがやかしました。 「でも、あんたなんかが出《で》ていくとこじゃないんだよ。ごりっぱな貴族《きぞく》さまばかりおいでになるんだから」 「ちえッ、よけいなおせわだい!」  ラグノオは、プーンとして、にぎりこぶしで涙《なみだ》をこすると、スタスタ庭《にわ》の方《ほう》へ入《はい》ってしまいました。 「ロクサーヌさま! 早《はや》くいらっしゃらないと、まにあいませんよ」 「いま、いくってば!」  ロクサーヌのすきとおる声《こえ》が、窓《まど》の中《なか》からひびいたときです。 「ラ! ラ! ラ! ラ!……」  という歌声《うたごえ》にあわせて、テオルブ(ギターのような楽器《がっき》)の音《おと》がきこえてきました。 「おや、誰《だれ》でしょう?」  腰元《こしもと》がおどろいているところへ、向《むこ》うのかどから、テオルブ弾《ひ》きの少年《しょうねん》を二人《ふたり》つれて出《で》てきたのは、一目《ひとめ》でわかるシラノです。 「へたっくそだなあ、俺《おれ》がひいてやらあ」 「シラノは、一人《ひとり》の少年《しょうねん》からテオルブをひったくると、じぶんで上手《じょうず》にひきながら、 「ラ! ラ! ラ! ラ!」  と、歌《うた》いだしました。  すると、ロクサーヌの窓《まど》がパッとあいて、 「まあ、シラノさま! あなたでしたの?」  そういいながら、ロクサーヌが、短《みじ》かい外出用《がいしゅつよう》マントのえりをあわせながら、バルコニーへ出《で》てきました。  それを見《み》たシラノは、いままでのふし[#「ふし」に傍点]のまま、あいさつがわりの即興詩《そっきょうし》をうたいはじめるのでした。 [#ここから3字下げ] うるわしの花《はな》を たたえんと けだかきすがたを あおがんと われは来《き》ぬ 歌《うた》いつつ…… [#ここで字下げ終わり]  ロクサーヌは、うっとりと聞《き》いていましたが、うれしげに微笑《ほほえ》んで、 「いま、そちらへおりていきますわ」  と、バルコニーからすがたをけしました。  その間《ま》に、シラノは二人《ふたり》の少年《しょうねん》音楽師《おんがくし》にむかって、 「おい、おまえらは、俺《おれ》のかわりにモンフルーリイのところへ行《い》って、なにか一|曲《きょく》聞《き》かせてこい。俺《おれ》にどなりこまれるより、調子《ちょうし》っぱずれの唄《うた》でも聞《き》いてたほうが、あいつにゃ気《き》らくだろう」  そして、二人《ふたり》がペコペコおじぎをして行《い》ってしまうと、こんどは腰元《こしもと》に、 「俺《おれ》はなあ、毎晩《まいばん》こうしてロクサーヌのところへ見《み》まわりにくるんだよ。あのひとの彼氏《かれし》がなにかヘマなことでもやらかしやしないかと思《おも》ってね……」  言《い》っているところへ、美《うつく》しく着《き》かざったロクサーヌが、いそいそと戸口《とぐち》から出《で》てきました。 「シラノさま……ほんとにクリスチャンは、なんておきれいな方《かた》でしょう……そして、なんというすばらしい才気《さいき》のもちぬしでしょう! あたくし、心《こころ》からおしたいしておりますわ」  うきうきしたロクサーヌの言葉《ことば》に、シラノはニンマリ笑《わら》いながら、 「ほう、クリスチャンが、そんなに才気《さいき》がありますかねえ?」  と、からかうように言《い》いました。 「ございますとも! シラノさま。失礼《しつれい》ですけど、あなたよりすぐれておいでになりますわ」 「はあ……そうですか……」 「あの方《かた》ぐらい、ちょっとしたことでも、美《うつく》しくおっしゃる方《かた》はございませんわ。でも、なぜか、ときどき、あの方《かた》のおつむはフッとお留守《るす》になったかと思《おも》うと、また急《きゅう》に、ふるいつきたいほど可愛《かわい》いことをおっしゃるのでございます」  あまりロクサーヌがクリスチャンをほめるので、シラノはちょっと、からかいぎみに、 「そんなことはないでしょう」  と、よこやりを入《い》れました。 「まあ! 男《おとこ》のかたは、なぜそうなんでしょう……※[#始め二重括弧、1-2-54]あいつは美男《びなん》だから馬鹿《ばか》だろう※[#終わり二重括弧、1-2-55]って、すぐお思《おも》いになるのね」  ロクサーヌは、愛《あい》らしい目《め》でシラノをにらみつけました。 「すると、クリスチャンは、女《おんな》のひとにも、なかなか味《あじ》なことをやるというわけですかね?……」 「ええ、ええ、そりゃあもう、うっとりするようなことを……とりわけ、お手紙《てがみ》がお上手《じょうず》でね……まあ、ちょっとお聞《き》きくださいましな」  そういうと、ロクサーヌはうっすらと目《め》をつむって、手紙《てがみ》の文章《ぶんしょう》をほこらしげに暗誦《あんしょう》しはじめるのでした。 「――美《うつく》しき君《きみ》が御瞳《おんひとみ》、わが心《こころ》をうばいたまえば、わが身《み》はせみ[#「せみ」に傍点]のぬけがらのようにうつろになりはて……どう? すばらしいでしょう?」 「なーんだ!」  シラノは、それが自分《じぶん》の書《か》いたものなので、思《おも》わず口《くち》をすべらしました。 「まあ、失礼《しつれい》な! それなら、これは?……――君《きみ》をしたうあまりのこの苦《くる》しさ、けれども、私《わたし》の一《ひと》つしかない心《こころ》をうばわれたまま、お返《かえ》しくださらないのなら、せめて、君《きみ》のお心《こころ》をこのぬけがらにおわけくださるよう……ねえ、いかが? 世界《せかい》一の名文《めいぶん》でございましょう?」  シラノは、自分《じぶん》の文章《ぶんしょう》があまりほめられるうれしさに、 「いや、世界《せかい》一だなんて、とんでもない!」  つい、そういってしまいました。 「いいえ、世界《せかい》一の大家《たいか》でございますわ!」  ロクサーヌは、美《うつく》しい眉《まゆ》をつりあげながら、言《い》いはります。  シラノは、けんそんしたあとで、ハッとしました。 (そうだ、俺《おれ》がほめられてるんじゃない。クリスチャンが、あれを書《か》いたことになってるんだっけ……)  とっさにそう気《き》がついて、 「そうですか、じゃあ、大家《たいか》としておきましょう、大家《たいか》とね……」  と、てれくさそうにおじぎしながら、 「それじゃあ、あなたはあの男《おとこ》の手紙《てがみ》を、みんなそら[#「そら」に傍点]でおぼえているんですか?」 「ええ、一《ひと》つ一《ひと》つ……いただいた日《ひ》づけまでも……」 「ほう、なあるほど……たいしたもんですなあ!」  シラノは、くすぐったそうに、ひげをひねっています。  そのとき、今《いま》まで使《つか》いの家《うち》のほうへ行《い》っていた腰元《こしもと》が、あわててもどってきて、 「ド・ギッシュさまがおいでです! シラノさま、どうぞ家《うち》のなかへお入《はい》りくださいまし。ここではあの方《かた》に見《み》つからないほうが、よろしうございます。なにか、かぎつけられるといけませんから……」  と、シラノを家《うち》のほうへおしやりました。 「ほんとに、あたくしのだいじな秘密《ひみつ》をかぎつけられたらねえ……あの横暴《おうぼう》な伯爵は《はくしゃく》、じぶんの地位《ちい》にものを言《い》わせて、なにをなさるかわかりませんるの……」  ロクサーヌも、シラノに早《はや》くこの場《ば》をはずすように、せきたてます。 「がってん……がってん……」  シラノは、大《おお》きくうなずきながら、家《うち》のなかへ入《はい》っていきました。 [#7字下げ]近衛連隊《このえれんたい》出動《しゅつどう》![#「近衛連隊出動!」は中見出し]  しばらくすると、ド・ギッシュ伯爵《はくしゃく》が、おとももつれず、何《なに》かソワソワしたように歩《ある》いてきました。 「ああ、ロクサーヌ姫《ひめ》! どちらへ?」 「ちょっとそこまで、出《で》かけるところでございます」  ロクサーヌは、スカートをかるくつまむと、腰《こし》をかがめて、うやうやしくおじぎをしました。 「そりゃ、ちょうどよかった……実《じつ》はわたくし、お別《わか》れにまいったのです」 「どちらかへ、おたちなさいますので?」 「戦争《せんそう》にゆくのです、今夜《こんや》すぐ!」 「まあ! どちらへ」 「アラスがイスパニア軍《ぐん》にかこまれているのです。それで、私《わたし》は聯隊長《れんたいちょう》として……」 「まあ……アラスがかこまれましたの?」  ロクサーヌが冷淡《れいたん》にしているので、ド・ギッシュはつまらなそうに、 「あなたは、私《わたし》の出征《しゅっせい》なんか、どうだっていいんでしょう?」 「あら、そんなことありませんわ」 「私《わたし》は、胸《むね》がいっぱいなんです。このつぎお目《め》にかかれるのは、いつのことやら……あなたは、私《わたし》が聯隊長《れんたいちょう》に任命《にんめい》されたのは、ごぞんじでしょうね?」 「おめでとうございます」  うわの空《そら》でそういったロクサーヌも、 「近衛聯隊《このえれんたい》のですよ」  というド・ギッシュの言葉《ことば》に、はじめてハッと顔色《かおいろ》をかえました。 「えッ、近衛《このえ》の?」 「そうです。あの無鉄砲《むてっぽう》な、あなたのお従兄《いとこ》がいる隊《たい》ですよ。戦場《せんじょう》へいったら、日《ひ》ごろのかたきを、うんととってやりますよ、はッはッは……」 「なんですって※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ほんとに、近衛《このえ》が出動《しゅつどう》するのでございますか?」  ロクサーヌは、息《いき》もとまりそうになって、そばのベンチに倒《たお》れるように腰《こし》をおろしながら、 「ああ、クリスチャン!……」  と、ひくい声《こえ》でためいきをつきました。 「急《きゅう》に、どうなさったのです?」 「ええ、その……ご出発《しゅっぱつ》がかなしいのでございます……まして、思《おも》うお方《かた》のご出陣《しゅつじん》と聞《き》けば、なおさら……」  それがクリスチャンのこととは、夢《ゆめ》にも知《し》らないド・ギッシュは、ロクサーヌがこんなに自分《じぶん》を案《あん》じてくれるのかと、おどろいたり、よろこんだり……。 「そんなにやさしくおっしゃって下《くだ》さるのは、初《はじ》めてですね、しかも門出《かどで》の日《ひ》に……」  しかし、ロクサーヌは、それどころではありません。なんとかして、近衛聯隊《このえれんたい》を出動《しゅつどう》させないような方法《ほうほう》はないものかと、とっさに思案《しあん》しながら、 「それで……ド・ギッシュさま、あなたさまは、ほんとに、従兄《いとこ》のシラノに、うらみをお晴《は》らしになるおつもりで?……」 「いつもひどい目《め》にあっていますからね……あなたはあの男《おとこ》の味方《みかた》でしょう?」  ド・ギッシュは、うす笑《わら》いしています。 「いいえ、とても仲《なか》がわるいのでございます。……それでね、あなたさまがシラノに、うらみをお晴《は》らしになるというのは、たぶんあの人《ひと》を、あぶない戦場《せんじょう》へ立《た》たせようというおつもりなのでございましょう? でも、それは、うまいやりかたではございませんわ。あたくしなら、もっとひどいやりかたを存《ぞん》じておりますのに……」 「というのは?」 「だってね、シラノやあのなかまの青年隊《せいねんたい》たちは、あぶない戦争《せんそう》が何《なに》より好《す》きなんですもの……あのような男《おとこ》を狂《くる》い死《じ》にさせるのは、聯隊《れんたい》が出陣中《しゅつじんちゅう》、青年隊《せいねんたい》だけパリにのこしておいて、戦場《せんじょう》に立《た》たせないことでございます。それが一ばん、あの男《おとこ》へのきびしいおしおきだと存《ぞん》じますわ」 「なるほど……さすがは女《おんな》だ! 女《おんな》でなければ、こんなうまい考《かんが》えは、思《おも》いもつきませんよ」 「戦争《せんそう》へいけないことになれば、シラノはがっかりしてしまいますし、青年隊《せいねんたい》のものたちも、こぶしのやり場《ば》にこまるでしょう。それが、あなたさまの一ばんのかたきうちと存《ぞん》じますわ」  唇《くちびる》をふるわせて、一|生《しょう》けんめいにいうロクサーヌの言葉《ことば》に、ド・ギッシュは、すっかりうれしくなって、 「ロクサーヌ! そんなに私《わたし》のことを思《おも》ってくださるあなたは、やっぱり、私《わたし》を愛《あい》していてくださるのですね?」  ロクサーヌは、心《こころ》の中《なか》でゾッとしながらも、うわべは静《しず》かにほほえんでいます。 「私《わたし》はね、いまここに、すぐにも各中隊《かくちゅうたい》に渡《わた》せる命令書《めいれいしょ》を持《も》っているのですが……」  ポケットから数通《すうつう》の封筒《ふうとう》をとりだしたド・ギッシュは、その中《なか》の一|通《つう》をひきぬいて、べつのポケットにしまいながら、 「これだけは、べつにしておきましょう。青年隊《せいねんたい》のですから……。ハッハッハ、シラノのやつ、あのでっかい鼻《はな》を、くやし涙《なみだ》で洗《あら》うだろうな」 「いい気味《きみ》でございますわ」  ロクサーヌが、ホッとしたようにいうと、ド・ギッシュは、もうじっとしていられないように、彼女《かのじょ》のそばへよりそって、 「ねえ、ロクサーヌ! あなたはまったく、私《わたし》をとりこになさった! ああ、でも、今夜《こんや》私《わたし》は立《た》たなければならない。ざんねんだなあ!……」  と、しばらく考《かんが》えてから、 「うむ、そうだ、いいことがある……ねえ、ロクサーヌ……すぐこの近《ちか》くにアタナーズという坊主《ぼうず》のたてた僧院《そういん》があるでしょう。ふつうの人《ひと》は入《はい》れない寺《てら》ですが、私《わたし》のいうことなら、なんでも聞《き》きますから、今夜《こんや》そこへいらしてください。私《わたし》は出発《しゅっぱつ》したようなふりをして、十|時《じ》ごろまでには、そっともどってきますから……ねえ、ロクサーヌ!……どうか、一|日《にち》だけのばさして下《くだ》さい」  ロクサーヌは、ハッと顔色《かおいろ》をかえて、 「そんなことをなさって、もし知《し》れたら、あなたさまのご名誉《めいよ》が……」 「そんなこと、かまいませんよ!」 「でも、敵《てき》にかこまれているアラスは?……」 「いまさら、どうにもしょうがありません。どうぞ、ゆるしてください!」  ロクサーヌは、つと立《た》ち上《あが》ると、キッとしていいました。 「いいえ、いけませんわ! そんなこと、おゆるし申《もう》すわけにはまいりません。おたちあそばせ! そして、続々《ぞくぞく》しくお戦《たたか》いください……アントワンヌさま!」  ド・ギッシュは、がっかりしたような、うれしいような、複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》で、 「アントワンヌと、私《わたし》の名《な》を呼《よ》んでくださって、ほんとにうれしいですよ。それほど、あなたが私《わたし》の出征《しゅっせい》をよろこんで下《くだ》さるなら、しかたがない、たちましょう」  そういうと、ロクサーヌの手《て》をとって別《わか》れの接吻《せっぷん》をし、名残《なごり》おしそうに去《さ》っていくのでした。  少《すこ》しはなれたところで眺《なが》めていた腰元《こしもと》は、すぐロクサーヌのそばへかけよると、ド・ギッシュの背《せ》なかへ、こっけいな身《み》ぶりでおじぎをしながら、 「どうぞ、ごゆっくり……」  といって、ペロリと舌《した》をだしました。ロクサーヌは、笑《わら》いをこらえながら、 「ねえ、いまのこと、誰《だれ》にもいっちゃだめよ。シラノさまが知《し》ったら、きっとお怒《いか》りになるからね」  そういってから、家《うち》の方《ほう》をふりむいて、 「お従兄《にい》さまア!」  と、呼《よ》びました。 「やあ……なにをボソボソ話《はな》していたんです?」  庭《にわ》でラグノオと話《はな》していたシラノが、のっそり出《で》てくると、 「お兄《にい》さま。あたくし、これからお向《むか》いのクロミイルさまのところへまいりますからね。留守《るす》ちゅうクリスチャンが見《み》えましたら、待《ま》たしておいてくださいまし、すぐ帰《かえ》ってまいりますから……」 「承知《しょうち》しました。しかし、あなたはまた、例《れい》によってあの男《おとこ》に何《なに》かときくのでしょうな?」 「ええ……でも、大《たい》したことではないんですの。ただ、あたくしの目《め》の前《まえ》で、愛《あい》の詩《し》を作《つく》ってね、それでお話《はなし》していただくつもりでございます。でも、あの方《かた》にそれを教《おし》えてはいけませんわ。あなたは一言《ひとこと》もおっしゃらないでね。あの方《かた》が前《まえ》もって用意《ようい》なさるといけませんから」  そういうと、ロクサーヌは腰元《こしもと》をしたがえて、クロミイル邸《てい》の戸口《とぐち》をあけて入《はい》っていきました。 「やれやれ、こんどは即興詩《そっきょうし》か……グズグズしちゃおれんぞ」  シラノは、ニヤニヤ笑《わら》いながら、手《て》を口《くち》にやって、 「おーい、クリスチャーン!」  と、大声《おおごえ》で呼《よ》ばわりました。 [#7字下げ]クリスチャン[#「クリスチャン」は底本では「クリスチャス」]大弱《おおよわ》り[#「クリスチャン大弱り」は中見出し]  さっきから、ロクサーヌの家《うち》のそばをウロウロしていたクリスチャンは、シラノの声《こえ》を聞《き》きつけると、なにかブツブツいいながら、出《で》てきました。 「おい、クリスチャン、大《たい》へんなことになったぞ。今頃《いまごろ》あのひとは、きさまに即興詩《そっきょうし》で話《はなし》をさせるっていうんだ。好機到来《こうきとうらい》! これに成功《せいこう》すりゃ、しめたもんだ。さあ、勉強《べんきょう》だ勉強《べんきょう》だ、俺《おれ》がまたすっかり教《おし》えてやらあ」 「シラノが、はりきってそういうと、クリスチャンは、なぜかひどく不満《ふまん》そうに、だまりこんでいます。 「どうしたんだ? なにも、ふくれっ面《つら》をするこたあないじゃないか。さあ、早《はや》くきさまの家《うち》へ帰《かえ》ろう」 「いやだ!」  クリスチャンは、強《つよ》く頭《あたま》をふりながら、 「僕《ぼく》はもう、ひとりでやってみる」 「何《なに》、いやだって? 即興詩《そっきょうし》をじぶんひとりでやるってのか? なにいってるんだ、気《き》でも狂《くる》ったのか?」  シラノは、ちょっとあきれ顔《がお》です。 「いやだったら、いやだ。ぼくだって男《おとこ》だ。人《ひと》に書《か》いてもらって手紙《てがみ》をわたしたり、三つ子《ご》みたいに口《くち》ぶりまでも教《おし》えてもらって、しょっちゅう、ふるえてばかりいるのは、もうこりごりだ!」  クリスチャンは、えらそうに肩《かた》をそびやかして、 「そりゃ、はじめのうちは、それでもよかったんだ。でも、いまじゃあロクサーヌがほんとに僕《ぼく》を好《す》いてくれることがわかったんだ。シラノ、いままでいろいろありがとう。これからは実力《じつりょく》でやってみせるよ!」 「はッはッは……」  シラノは、鼻《はな》をうごめかして笑《わら》いだしました。 「だめ、だめ! せっかくの今《いま》までのおぜんだてが、一ぺんでペチャンコになっちまうぞ!」 「なーに、そんなことがあるもんか、僕《ぼく》だって、それほどウスノロじゃないんだ。見《み》ていてくれ、きっとうまくやって、あのひとを夢中《むちゅう》にさせてみせらあ! 僕《ぼく》はひとりでここで待《ま》っているよ」  そういうと、クリスチャンは胸《むね》のリボンをなおしたり、靴《くつ》をズボンでこすったり、せわしく服装《ふくそう》をととのえはじめましたが、そのとき、ふとクロミイル邸《てい》の方《ほう》をふりかえって、サッと顔色《かおいろ》をかえました。  はやくもロクサーヌが出《で》てきたのです。 「あっ、いけねえッ、あのひとだ!」  今《いま》までの元気《げんき》もどこへやら、クリスチャンはあわてて、帰《かえ》りかけようとするシラノを呼《よ》びとめました。 「シラノ! だめだ。帰 (かえ》っちゃいけないッ!」 「いやなこった! どうかおひとりでおやりなさいましだあ。いよう、即興詩《そっきょうし》の大先生《だいせんせい》!」  シラノは、からかうように、わざとばかていねいなおじぎをすると、さっさと向《むこ》うへ行《い》ってしまいました。 「あッ、しまった!」  クリスチャンがソワソワしているところへ、彼《かれ》のすがたを見《み》たロクサーヌが、いそぎ足《あし》で近《ちか》よってきました。 「まあ、クリスチャン!……お待《ま》ちになりまして? あたくし、あなたのことが気《き》になって、いそいで帰《かえ》ってまいりましたの……」  クリスチャンが、だまったままおじぎをすると、ロクサーヌは、ペンチに腰《こし》をおろしながら、 「だいぶ暗《くら》くなってまいりましたわ。いい風《かぜ》でございますこと……人通《ひとどお》りもございませんから、ここでお話《はなし》しましょう。おかけあそばせ。そして、お話《はなし》を聞《き》かしてくださいませ」  クリスチャンは、彼女《かのじょ》とならんでベンチに腰《こし》をおろしましたが、さて、なんと切《き》りだしたらよいかと、モジモジとだまりこんでいます。 「さあ、あたくし、こうして目《め》をつむっておりますからね、なんとでもやさしい言葉《ことば》をおっしゃってください」 「僕《ぼく》は……その……あなたを……」 「どうしたんですの?」 「あなたが……大好《だいす》きなんです」  思《おも》いきったように、クリスチャンがいいました。が、ロクサーヌは、ケロリとした顔《かお》つきで、 「ええ、わかっていますわ。でも、もっと詩人《しじん》らしく、言葉《ことば》をおかざりあそばせな」  クリスチャンは、ドギマギして、 「そ、それで……もしあなたが、僕《ぼく》を好《す》いてくださるなら、すばらしいんです。ねえ、ロクサーヌ……好《す》いていると、いってください!」  ロクサーヌは、クリスチャンの落《お》ちつきのない、まずい言葉《ことば》をきいて、とてもものたりないように、ツンと横《よこ》をむきながら、 「あたくしが、クリーム入《い》りのおいしいお菓子《かし》をいただこうと思《おも》っているのに、あなたは、ビスケットをくださいますのね! あたくしを好《す》いてくださるのなら、どういうふうに思《おも》っていらっしゃるのか、それを少《すこ》しでもおっしゃいませよ」 「はあ、まったく…とってもです」 「ああ、じれったい! その思《おも》いを、花《はな》やかにおっしゃるのよ!」  クリスチャンは、とつぜん、ロクサーヌのそばににじりよって、美《うつく》しい金髪《きんぱつ》のたれさがるそのうなじを、じっと見《み》つめながら、 「ああ、なんてきれいなえり首《くび》だろう!」  と、大《おお》げさにためいきをつきました。 「まあ、クリスチャン!」 「こんなに、僕《ぼく》は、好《す》きなんです!」 「もう、たくさん!」  ふいに立《た》ちあがって、家《いえ》の中《なか》へ入《はい》ろうとするロクサーヌを、クリスチャンは、あわてておしとめながら、 「そ、それじゃあ、好《す》いてはいません!」 「そう、それは結構《けっこう》ですこと!」 「ほんとは、尊敬《そんけい》しているんです」 「つまらないわ!」 「いや、じっさい……僕《ぼく》はぬけてるんで……」  ロクサーヌは、あきれたようにクリスチャンを見《み》おろしながら、 「ぬけてるなんて……あなたらしくもない。あたくし、いやでございますわ!」 「でも、ちょっと待《ま》って…」 「お頭《つむ》の中《なか》は、外出《がいしゅつ》なさったのですか? 早《はや》く、名文句《めいもんく》をおさがしあそばせよ!」 「だから、僕《ぼく》は……」 「好《す》きだと、おっしゃるのでしょう? わかっておりますわ。もう、いやでございます! お帰《かえ》りあそばせよ。さよなら!」  もうがまんができないというように、家《いえ》の中《なか》へかけこんだロクサーヌは、 「ちょ、ちょっと待って!」 と、追《お》いすがるクリスチャンの鼻《はな》さきで、ピシャリと戸をしめてしまいました。  しばらく前《まえ》から、二人《ふたり》に見《み》つからないようにもどってきて、ものかげからこのようすを眺《なが》めていたシラノは、おかしくてたまらないようにお腹《なか》をかかえながら出《で》てきました。 「うッふッふ……うまくいったなあ!」 [#7字下げ]身《み》がわり代弁《だいべん》[#「身がわり代弁」は中見出し] 「なんだ、そんなとこにいたのか? たのむよ、加勢《かせい》してくれ!」  クリスチャンが、泣《な》きだしそうな顔《かお》でいうのを、シラノは愉快《ゆかい》そうにながめながら、 「まっぴらごめんだなあ」 「どうにかしてくれ、このままじゃあ、僕《ぼく》は死《し》んでしまう」 「なにいってるんだ。自分《じぶん》でしでかしたヘマ[#「ヘマ」に傍点]を、俺《おれ》にしりぬぐいさせようってのか、ばかばかしい!」  口《くち》でそうはいっても、シラノは、なんとなくうれしそうです。  あたりは、いつのまにかトップリと暗《くら》くなって、あちこちの屋敷《やしき》からは、だいだい色《いろ》のランプの灯《ひ》が美《うつく》しくもれはじめました。  そのとき、ロクサーヌの部屋《へや》にも、ポッとあかりがついて、影法師《かげぼうし》が一《ひと》つ、バルコニーのガラス窓《まど》にゆらゆらとゆれるのが見《み》えました。 「あッ、シラノ、あそこを見《み》ろ! あのひとの窓《まど》に!……」  クリスチャンがシラノの腕《うで》をつかむと、シラノも、ハッとしたように 「うむ、ロクサーヌだ!」 「たのむ、なんとかしてくれッ!」 「しッ、静《しず》かにしろ!」  クリスチャンは、おし殺《ころ》したような声《こえ》で、 「僕《ぼく》は、死《し》にそうだ……」 「うるさいな。二言《ふたこと》めにゃ、死《し》ぬ死《し》ぬなんていやがって……だまってろい、俺《おれ》ア考《かんが》えてるんだ……さてと、今夜《こんや》はだいぶ暗《くら》いから……」 「うん、それで?……」 「なんとかなりそうだが……なに、きさまが相手《あいて》じゃないぞ、この早稲《わせ》いも[#「いも」に傍点]の赤《あか》ん坊《ぼう》め! きさまは、あのパルコニー[#「バルコニー」は底本では「バリコニー」]の前《まえ》へいくんだ。とっとと行《い》けい! 俺《おれ》が、うしろにいて、きさまがしゃべるセリフを教《おし》えてやらあ」 「だが……それじゃあ……」 「文句《もんく》いうな!」  二人《ふたり》がソワソワといいあっているとき、さっきモンフルーリイのところへ行《い》った二人《ふたり》のテオルプひきが、もどってきました。 「シラノ先生《せんせい》、一|曲《きょく》やってきましたよ」 「しッ、静《しず》かに!」  シラノは、二人《ふたり》をおしとめて、 「いいか、これから俺《おれ》たちが一芝居《ひとしばい》やるあいだ、きさまたちは張《は》り番《ばん》するんだ。一人《ひとり》は路地《ろじ》のむこう角《かど》、一人《ひとり》はこっちの角《かど》だ。誰《だれ》かやってきたら、すぐ合図《あいず》に一|曲《きょく》やるんだぞ!」 「へえ、どんな節《ふし》で?……」 「そうだな、女《おんな》だったら陽気《ようき》なやつを、男《おとこ》だったら、陰気《いんき》なのをやってくれえ」 「かしこまりました」  二人《ふたり》の少年《しょうねん》は、一人《ひとり》ずつ角《かど》に立《た》ちました。 「さあ、クリスチャン、あのひとを呼《よ》んでみろ」  シラノにいわれて、おずおずバルコニーの前《まえ》に立《た》ったクリスチャンは、 「ロクサーヌさーん!」  気《き》どった声《こえ》で呼《よ》びましたが、中《なか》からなんの返事《へんじ》もありません。 「待《ま》てまて……愛《あい》のつぶてを、ちょっぴりお見舞《みま》いいたそう……」  シラノは、あたりの小《こ》じゃりをひろいあつめると、バラバラッとバルコニーへ投《な》げつけました。  すると、ガラス戸《ど》が半分《はんぶん》あいて、ロクサーヌが顔《かお》だけのぞかせました。 「どなたですの? 今《いま》、お呼《よ》びになったのは……」 「僕《ぼく》……クリスチャンです」  クリスチャンと聞《き》くと、ロクサーヌは、さもおもしろくないというそぶり[#「そぶり」に傍点]で、ドアをしめようとします。 「ね、ロクサーヌ! ちょっとお話《はなし》があるのです」 「いやですわ! あなたはお話《はなし》がおへたですもの……さようなら」 「おねがいです……こんどこそ、うまくやります」  クリスチャンは一|生《しょう》けんめい、背《せ》のびをして話《はな》しかけます。うしろからシラノが、 「そうだ、うまいぞ。あとは俺《おれ》が教《おし》えてやるから、思《おも》いきり小《ちい》さい声《こえ》で話《はな》せよ」  と、けしかけています。 「だめですわ。あなたは、ほんとうにあたくしのことを思《おも》ってくださらないから、お話《はなし》ができないのでございますよ」 「とんでもない……」  シラノが、おし殺《ころ》した低《ひく》い声《こえ》でいうのをそのまま、クリスチャンは話《はな》しつづけます。 「とんでもない……思《おも》っていないなどとは、まことにざんねん……私《わたし》の思《おも》いは、この胸《むね》をはりさくばかり……」 「あら!……」  急《きゅう》に調子《ちょうし》の変《かわ》ったクリスチャンの声《こえ》に、ロクサーヌは、しめかけたドアから、ふたたび半身《はんしん》をのりだして、 「なかなかお上手《じょうず》ですこと!」  と、ロクサーヌも急《きゅう》にやさしい声《こえ》。  クリスチャンは、なおもシラノに教《おし》えられながら、 「あなたを思《おも》う私《わたし》の心《こころ》は……ためらい、おののきながらも……妙《たえ》なる死《し》の香《か》にさそわれてゆく胡蝶《こちょう》のように……ここまで育《そだ》ってきたのです」 「まあ、お上手《じょうず》ねえ!……人《ひと》がお変《かわ》りになったように……」  いいながらロクサーヌは、窓《まど》の戸《と》をあけて、フラフラとバルコニーに出《で》てきました。 「でも、どうして、そんなにとぎれとぎれにお話《はなし》になるんですの? お頭《つむ》でも、おいたいのでございますか?」  シラノは、声《こえ》をおし殺《ころ》して、 「チェッ、へんなとこに気《き》がついたもんだ!……しょうがない、俺《おれ》がかわってやる」  と、暗《くら》やみをさいわい、クリスチャンをバルコニーのかげにおしやり、自分《じぶん》がその場所《ばしょ》ににじり出《で》ると一|生《しょう》けんめいクリスチャンの声《こえ》に似《に》せながら、 「言葉《ことば》がとぎれるのも、むりはありません……あなたのお言葉《ことば》は、高《たか》いところから低《ひく》いところへ降《お》りてくる、それにひきかえ、私《わたし》の声《こえ》は、ぬばたまの夜《よる》のとばりをぬいながら、バルコニーの上《うえ》までのぼってゆくのですから……」  ロクサーヌは、またちょっとびっくりしたように、 「でも、今《いま》はなにも、とぎれませんでした」 「ええ、あなたのお声《こえ》にはげまされて、少《すこ》しは速度《そくど》もましたのです」 「ホホホ……ほんとに、あたくし、高《たか》いところからお話《はなし》しておりますわねえ」 「そう、そうなんです。もし、その高《たか》いところから、つめたいお言葉《ことば》でも落《おと》されたら、私《わたし》のいのちはみじんにくだけてしまうでしょう」  それを聞《き》くと、ロクサーヌはじっとしていられないように、 「あたくし、降《お》りていきますわ」  と、いいだしました。 「と、とんでもない! 降《お》りてはいけません!」  シラノが、あわててそういうと、 「では、そのベンチの上《うえ》にお上《あが》りくださいな。ね、早《はや》く!」 「い、いいえ、ここの方《ほう》がいいのです」  シラノは、思《おも》わず首《くび》をすくめました。 「まあ、どうしてですの?」 「そ、それは……この夜《よる》の暗《くら》さに守《まも》られてこそ、私《わたし》の言葉《ことば》はとどこおることなく、つづいていくのです。こうして、おちついた空気《くうき》の中《なか》で、静《しず》かにお話《はなし》をつづけるのには、やはり顔《かお》と顔《かお》を見《み》あわさない方《ほう》が……お顔《かお》も見《み》ずに、そうその方《ほう》が……」 「お顔《かお》も見《み》ずに?……」 「そう……その方《ほう》が、かえってよろしいのです。私《わたし》は、今晩《こんばん》こそ、あなたに偽《いつわ》りのないまことの心《こころ》を告《つ》げることができるような気《き》がします。今《いま》までの私《わたし》の言葉《ことば》は、けっして心《こころ》のそこから出《で》たのではないのです」  シラノは、だんだん昂奮《こうふん》してきて、ともすれば、クリスチャンの代役《だいやく》ということを忘《わす》れそうになるのでした。 「まあ、なぜでございますの?」 「な、なぜといって……今《いま》までは……私《わたし》自身《じしん》がお話《はなし》したのではない……」 「えッ、なんでございまして?」 (しまった!)  と、シラノはあわてて、 「……そ、そんな気《き》がするほど夢中《むちゅう》になって、あなたの前《まえ》でふるえているのが、他人《たにん》のように思《おも》われたのです。……けれど、今夜《こんや》という今夜《こんや》は、まるで生《うま》れかわったような気《き》もちなんで……」 「そうおっしゃれば、ほんとうにお声《こえ》までちがっていらっしゃいますわ」 「そうです。何《なに》もかも別《べつ》です。それも、夜《よる》の暗《くら》さに助《たす》けられればこそ、誰《だれ》にも遠慮《えんりょ》のないことがいえるのです。誰《だれ》にも……」  もうすっかり夢中《むちゅう》になったシラノは、そこで急《きゅう》に言葉《ことば》が出《で》なくなって、 「ああ、何《なに》をいってたのだ……ぜんぜん、わからなくなっちゃった……」  と、ボーッとしたようにひとりごとをいってから、 「ロクサーヌ……どうぞ、私《わたし》の感激《かんげき》をおゆるしください……ああ、なんという楽《たの》しさ! なんという新《あたら》しさでしょう!」 「え? 新しさですって?」  ロクサーヌの声《こえ》に、思《おも》わずドキッとしたシラノは、とっさに、うまい言葉《ことば》を考《かんが》えながら、 「そうですとる……まことの心《こころ》を告《つ》げるのは、今宵《こよい》がはじめてですから……今《いま》までは、人《ひと》に笑《わら》われるのが辛《つら》さに、ほんとうのこともいえないで、がまんにがまんして……」  しかし、話《はな》しているうちに、どうしても自分《じぶん》自身《じしん》のことになってしまう切《せつ》なさ……。 「どうして笑《わら》われるのでございますの?」 「いや、この、は、はやりにはやりたつ思《おも》いだけでは、星《ほし》のように美《うつく》しいひとの心《こころ》をとらえるのに、かえって笑《わら》われやしないかと、それが恥《はず》かしくて、私《わたし》はいつも機智《きち》の衣《ころも》をまとい、粋《いき》な言葉《ことば》をあやつるのです……」  やっと苦《くる》しくいいのがれると、それとも知《し》らぬロクサーヌは、 「ほんとに、今夜《こんや》のあなたには、詩《し》の女神《めがみ》がのりうつったようですわ。今《いま》まであなたは、一|度《ど》もそのような才気《さいき》あふれるお話《はなし》はなさいませんでしたのね」  と、うれしくてたまらないようす……。 「いや、その才気《さいき》や、粋《いき》な言葉《ことば》こそ、かえってまことの心《こころ》のほとばしりをさまたげ、愛《あい》の思《おも》いを空《うつろ》にしてしまいます。しゃれた言葉《ことば》のあやで、まわりくどく長《なが》びかせたとて、いつかは嬉《うれ》しい絶頂《ぜっちょう》の時《とき》がくるのです。その時《とき》になっても、まだそんな言葉《ことば》のあやにふけっていたら、それこそかえって悲《かな》しみの種《たね》になるでしょう」 「では、もしそういう時《とき》が二人《ふたり》に来《き》ましたなら、どんなお言葉《ことば》をいただけますの?」 「どんな、どんな、言葉《ことば》でも、心《こころ》に浮《う》かび上《あが》るままに、かわいいあなたの胸《むね》にたたきつけます。あなたのことを思《おも》うと、胸《むね》もはりさけんばかり、気《き》も狂《くる》わんばかり……。  あなたのことを考《かんが》えると、いろいろな思《おも》い出《で》が、せつなく胸《むね》をしめつけます。忘《わす》れもせぬ去年《きょねん》の五|月《がつ》十二|日《にち》、あなたは新《あたら》しい髪《かみ》をいって散歩《さんぽ》しておられた。その光《ひか》りかがやく黄金色《ブロンド》の髪《かみ》を、私《わたし》はじっと見《み》とれていました。太陽《たいよう》を見《み》つめたあとには、何《なに》を見《み》ても赤《あか》い円光《えんこう》がつきまとうように、私《わたし》の目《め》はいつまでもくらんで、何《なに》を見《み》てもブロンドの光《ひかり》のかげが消《き》えませんでした!」  うっとりと聞《き》きほれていたロクサーヌは、胸《むね》がつまったような苦《くる》しげな声《こえ》で、 「ほんとに……それこそ、まことの愛《あい》でございますわ!……」  そういって、ためいきをつきました。 「そうですとも! いま私《わたし》を燃《も》えたたすこのくるおしい情熱《じょうねつ》……これこそ、まことの愛《あい》なのです。けれども、自分《じぶん》が幸福《こうふく》になりたいという情熱《じょうねつ》ではありません。あなたの幸福《こうふく》のためならば、私《わたし》の幸福《こうふく》など、みんなギセイにしてしまいます。  たとい、あなたが、私《わたし》のギセイなど少《すこ》しもご存《ぞん》じにならなくとも、もしそのギセイから、あなたの幸福《こうふく》が生《うま》れたなら、私《わたし》はそれで満足《まんぞく》です。あなたの美《うつく》しいまなざしが私《わたし》にそそがれるたびに、私《わたし》の心《こころ》には力強《ちからつよ》い勇気《ゆうき》がわきあがります。……  ああ、今夜《こんや》はなんという美《うつく》しい、なんという楽《たの》しい夜《よる》でしょう! わたしは、何《なに》もかも、あなたにうちあけた。それをあなたは喜《よろこ》んで聞《き》いてくださる……こんなありがたいことはありません。ほら……あなたは青《あお》い小枝《こえだ》にすがって、喜《よろこ》びにふるえていらっしゃる!……ふるえていますとも! 私《わたし》にはよくわかります。  そのあなたの手《て》の愛《あい》らしいふるえが、ほら、このジャスミンの枝《えだ》をつたわってくるではありませんか!」  シラノは、もうすっかり夢中《むちゅう》になって、バルコニーからたれさがっているジャスミンの枝《えだ》を思《おも》い深《ふか》くなつかしげに撫《な》でるのでした。 「ええ、ええ……あたくし、ふるえております……泣《な》いております……あたくしは、もう、あなたのものでございます! あなたのお心《こころ》に酔《よ》わされてしまいましたの……」  せつなくふるえるロクサーヌの声《こえ》に、シラノはいよいよたまらなくなって、 「ああ、この無上《むじょう》の楽《たの》しさ! ……これこそ、私《わたし》が生涯《しょうがい》かけてのぞんでいたものです。もうこれ以上《いじょう》は……もう、死《し》んでもいい……今《いま》はただ一《ひと》つのお願《ねが》いがあるばかりです……」  そういったとき、今《いま》までバルコニーのかげにいたクリスチャンが、とつぜん身《み》をのりだして、 「結婚《けっこん》を!……」  と、さけびました。 「ええ?」  ロクサーヌは、びっくりしたように、うしろへ身《み》をひきました。  シラノも、びっくりして、声《こえ》をおし殺《ころ》し、 「ばかッ、まだ早《はや》すぎらい!」  と、クリスチャンをしかりつけました。 「なぜだい?」  クリスチャンは、不服《ふふく》そうです。 「だまってろ、クリスチャン! そんなにあわてなくとも、いずれあのひとのバルコニーへ、きさまがあがれるようになるわい」  その話《はな》し声《こえ》が耳《みみ》に入《はい》ったのか、ロクサーヌはまた身《み》をのりだして、 「なにをヒソヒソお話《はな》しになっていらっしゃいますの?」 「いや、つい、あまり失礼《しつれい》なことを申《もう》したので、自分《じぶん》で自分《じぶん》をしかっているのです。――だまれ、クリスチャンとね……」  シラノは、うまくいいのがれました。 「それでは、あなたはそれ以上《いじょう》おのぞみにならないのでございますの?」  ロクサーヌの声《こえ》は、いささかつまらなそうです。シラノは、声《こえ》をはげまして、 「いいえ、望《のぞ》みますとも! どうして、望《のぞ》まないでいられましょう……ただ、あなたの心《こころ》をきずつけてはいけないと思《おも》って……ああ、どうしたらいいでしょう……」  そのとき、ふいに、テオルブの曲《きょく》が聞《きこ》えてきました。 「ちょっと、お待《ま》ちください。誰か来《き》たようですから」  シラノの声《こえ》に、ロクサーヌのすがたは、スーッとドアのかげへかくれてしまいました。 [#7字下げ]バルコニーの上《うえ》と下《した》[#「バルコニーの上と下」は中見出し]  聞《きこ》えてきたテオルブの曲《きょく》は、おかしなことに、一つは陽気《ようき》なふしで、一つは陰気《いんき》なふしでした。  シラノは耳《みみ》をそばだてて、 「おや?陽気《ようき》と陰気《いんき》が、一しょに鳴《な》っているぞ。一|体《たい》、どうしたわけなんだ……男《おとこ》かな?それとも、女《おんな》かな?……」  首《くび》をひねっていると、手《て》に提灯《ちょうちん》をさげて、家々《いえいえ》の門札《もんさつ》をながめながら出《で》てきたのは、一人《ひとり》の坊《ぼう》さんでした。 「ははあ、なーるほど! 男《おとこ》の坊主《ぼうず》だから、陽気《ようき》で陰気《いんき》か……はッはッは」  シラノが小声《こごえ》で笑《わら》っていると、それを見《み》た坊《ぼう》さんは、まっ白《しろ》な長《なが》いひげをふりたてながら、 「ちょっと、おたずねしますが、このあたりに、マグドレエヌ・ロバンと申《もう》すご婦人《ふじん》の家《いえ》はござらぬかな?」  と、たずねました。  ロバンといえば、ロクサーヌの本名《ほんみょう》です。 「ちえ、じゃま者《もの》が来《き》おった!」  シラノは、ひくい声《こえ》でつぶやくと、四つ角《かど》の向《む》こうを指《ゆび》さしながら、 「うむ、それはこの道《みち》をまっすぐに行《い》くんだ。どこまでも、まっすぐにね」  と、でたらめを教《おし》えてやりました。  坊《ぼう》さんは、お礼《れい》をいって、また歩《ある》きだしました。 「おい、シラノ……早《はや》く、結婚《けっこん》できるようにしてくれよ」  闇8やみ》の中《なか》から、さも待《ま》ちかねたようなクリスチャンの声《こえ》……。 「いやだよ」  シラノは、わざと、そっけなくいいました。 「どうして? いずれ、おそかれ早《はや》かれ……」 「うん、そりゃそうだ。いつかは、きさまがあのひとと二人《ふたり》で、楽《たの》しみをすごす時《とき》がくるだろうて……だが、俺《おれ》の身《み》になりゃ、なかなかそうは……」  シラノがそういいかけたとき、バルコニーの上《うえ》で静《しず》かにドアのあく音《おと》がしました。  クリスチャンが、あわててものかげにかくれると、ロクサーヌはそっとバルコニーの前《まえ》の方《ほう》へ進《すす》みでて、 「クリスチャンさま……もう、誰《だれ》もいませんの?」  と、ききました。 「ええ、もう行《い》ってしまいました」  シラノの返事《へんじ》に、ロクサーヌは、ほっとしたように、 「では、どうぞ、邪魔《じゃま》のはいらないうちに……」 「えッ、どうするんです?」 「もう、あたくし、ようく、あなたのお心《こころ》がわかりましたから、どうぞ、このバルコニーまでお上《あが》りになって……」  恥《はず》かしそうにそういうロクサーヌの声《こえ》をきくと、シラノは、一しゅん、ハッとしたように立《た》ちすくみましたが、すぐ、クリスチャンの腕《うで》をつかまえて、バルコニーの方《ほう》へおしやりながら、 「さあ、今《いま》だ、のしあがれッ!」 と、低《ひく》い声《こえ》でさけびました。  が、クリスチャンは、なぜかウロウロしています。 「どうぞ……おあがりあそばせ……」  待《ま》ちきれないようなロクサーヌの声《こえ》。 「それ、あがれったら!」 「そういわれると、なんだか恥《はず》かしいなあ……」  まだモジモジしているクリスチャン。 「ちえッ、あがれい。この唐変木《とうへんぼく》め!」  シラノにつきとばされて、クリスチャンは思《おも》いきったように、ベンチにとびあがり、そこからジャスミンの茂《しげ》みをわけて、柱《はしら》をよじのぼっていきました。  そのうしろ姿《すがた》を、下《した》からじっと見送《みおく》るシラノ……。  やがて、バルコニーの手《て》すりをまたいだクリスチャンは、 「ああ、ロクサーヌ!」  と呼《よ》びながら、ロクサーヌの手《て》をとりました。 「おお、クリスチャン!」  かすかなロクサーヌのさけびと一しょに、二《ふた》つのかげはピッタリとよりそいました。 「あチチチ!……」  シラノは顔《かお》をしかめ、片手《かたて》で胸《むね》をおさえながら、ひとりごと――。 「やれやれ、妙《みょう》に胸《むね》がいたんでくるわい……汗水《あせみず》たらしたお膳《ぜん》だてを、トンビにうまうま食《た》べさせて、俺《おれ》はションボリ貧乏《びんぼう》くじ……だがな、ロクサーヌが夢中《むちゅう》になっているのは、あのクリスチャンのノッペリ面《づら》じゃなくて、この俺《おれ》さまの言葉《ことば》なんだあ!……」 "もちまえの強気《つよき》で、相《あい》かわらずのおどけた口《くち》をきいていますが、腹《はら》の底《そこ》は、いいしれぬ悲《かな》しみでにえくりかえるようです。  そのとき、またテオルブの音《ね》がきこえてきました。こんどもやっぱり、陽気《ようき》なふしと、陰気《いんき》なふ……。 「あッ、またあの坊主《ぼうず》か?」  とっさにシラノは、いかにも遠《とお》くから駈《か》けつけてきたように足《あし》をふみ鳴らし、息《いき》までせわしげにつかいながら、 「やれやれ!」  と、はっきりした自分《じぶん》の声《こえ》でさけびました。 「あら、なんでしょう?」  ロクサーヌは、サッとクリスチャンからはなれて、下《した》をのぞきました。 「こんばんは、ロクサーヌ! 私《わたし》ですよ。いま通《とお》りがかりですがね……クリスチャンはまだそこにおりますか?」 「あっ、お兄《にい》さま!」  ロクサーヌと一しょに、クリスチャンも、 「おやッ、シラノ!」  と、びっくりしています。せっかくの楽《たの》しいところを、とつぜんぶちこわされたので、いかにもざんねんそうです。  が、そのとき向《むこ》うから、提灯《ちょうちん》をもったさっきの坊《ぼう》さんがやってくるのを見《み》て、 「やあ、また来《き》たのか!」  と、すぐ納得《なっとく》ができました。 「あたくし、おりていきますわ」  ロクサーヌにつづいて、クリスチャンも一たん家《いえ》の中《なか》に入《はい》り、やがて戸口《とぐち》から出《で》てきました。そのあとには、ラグノオも提灯《ちょうちん》をさげてついています。  ちょうどそこへ坊《ぼう》さんがやってきて、 「おお、やっぱりここじゃ。この家《いえ》じゃ」  そして、ロクサーヌに、 「あんたが、マグドレエヌ・ロバンさんですな?」  と、ききました。 「さようでございます。何《なん》のご用《よう》で?……」  ロクサーヌが進《すす》み出《で》ると、 「さるお方《かた》から、ご書面《しょめん》をたのまれましたじゃ」  坊《ぼう》さんはそういって、封筒《ふうとう》に入《い》れた一|通《つう》の手紙《てがみ》をロクサーヌにわたしました。 「きっと、ド・ギッシュですわ」  ロクサーヌは、クリスチャンにいってから、手紙《てがみ》をあけて、ラグノオの提灯《ちょうちん》の光《ひかり》にてらしながら、低《ひく》い声《こえ》で読《よ》みだしました。 「――いとしきロクサーヌさま。戦《たたかい》は火《ひ》ぶたを切《き》り、わが聯隊《れんたい》はいよいよ今夜《こんや》出発《しゅっぱつ》することになりました。しかし、私《わたし》はあまりのなごりおしさに、ひそかに出発《しゅっぱつ》をのばし、ただいまこの僧院《そういん》にきております。  つきまして、後《のち》ほどお伺《うかが》いいたしたく思《おも》いますので、前《まえ》もってこの無学《むがく》な羊《ひつじ》のような僧侶《そうりょ》に手紙《てがみ》をことずけました。なにとぞ、私《わたし》の心中《しんちゅう》おさっしくださり、お人《ひと》ばらいのうえ、お逢《あ》いくださいますよう、おりいっておねがい申《もう》しあげます……」  すばやく読《よ》みおわったロクサーヌは、ちょっと困《こま》ったような顔《かお》つきでしたが、すぐニッとほほえみながら、 「神父《しんぷ》さま、このお手紙《てがみ》には、こう書《か》いてございますのよ。お読《よ》みいたしますわ」  そういって、手紙《てがみ》にぜんぜん書《か》いてないような文句《もんく》を、声高《こわだか》く読《よ》みあげました。 「拝啓《はいけい》、出征前《しゅっせいまえ》のあわただしき折《おり》から、とりいそぎ私《わたし》のねがいをお伝《つた》えいたしたく、この、世《よ》にも尊《とうと》く、心《こころ》ゆかしき神父《しんぷ》を、お宅《たく》へ参上《さんじょう》させました。このうえは、すぐにお宅《たく》で結婚式《けっこんしき》をあげられるよう、心《こころ》からのぞんでおります……」  そこで、一|枚《まい》ページをまくって、 「クリスチャンこそ、あなたの夫《おっと》となるよう、私《わたし》がつかわしたものであります。ご不満《ふまん》かも存《ぞん》じませんが、おあきらめのうえ、末長《すえなが》く、おむつまじくお暮《くら》しになるよう祈《いの》っております……」  ロクサーヌの作《つく》り読《よ》みが、あまりに上手《じょうず》なので、シラノとクリスチャンは、思《おも》わず舌《した》をまいて目《め》を見《み》あわせました。  それとも知《し》らぬ坊《ぼう》さんは、自分《じぶん》がほめられているのに大満足《だいまんぞく》で、 「これはこれは、すばらしいことですな。まことに話《はなし》のわかった、えらい殿《との》さまじゃ。ところで、クリスチャンと申《もう》すのは、あんたですかな?」  と、提灯《ちょうちん》の光《ひかり》でシラノの顔《かお》をてらしました。シラノが、にが笑《わら》いするまもなく、 「私《わたし》ですよ!」  と、進《すす》みでたクリスチャンの顔《かお》すがたが、あまりに美《うつく》しいので、 「はてな?……」  坊《ぼう》さんは、何《なに》か疑《うたが》いをおこしたようす。  とっさに、ロクサーヌが勢《いきお》いよく、 「あ、まだ手紙《てがみ》のつづきがありますわ――追《お》って、僧院《そういん》へは金《きん》十万|円《えん》寄進《きしん》のこと……」  それを聞《き》くと、坊《ぼう》さんはパッと目《め》をかがやかして、 「ふうむ、さすがはごりっぱな殿《との》さまじゃ……あんたも、あきらめなさるがよい」  と、なぐさめるようにロクサーヌにいうのでした。 「こうなっては、しかたがございませんわ。……では神父《しんぷ》さま、どうぞお入《はい》りくださいませ」  ロクサーヌは、坊《ぼう》さんやクリスチャンが家《うち》のほうへ行《い》くすきに、ポカンとしているシラノの耳《みみ》もとに口《くち》をよせて、 「お兄《にい》さま、あたくしたちが結婚式《けっこんしき》をあげているあいだに、もしド・ギッシュが来《き》ましたら、あなた、ここで防《ふせ》いでくださいましな! 一|歩《ぽ》も家《うち》の中《なか》へ入《はい》らないようにね。おねがいします」 「がってん、がってん!」  シラノは、泣《な》き笑《わら》いの顔《かお》でうなずいてから、家《いえ》の戸口《とぐち》を入《はい》りかける坊《ぼう》さんに、 「式《しき》には、どのくらい時間《じかん》がかかりますかねえ?」 「まあ、十五|分《ふん》もあれば、よろしかろう」  それを聞《き》くと、シラノはみんなを家《いえ》の中《なか》へおしやりながら、 「さあ、入《はい》った、入《はい》った。あとは俺《おれ》がひきうけたぞ!」  と、両手《りょうて》をあげて大見得《おおみえ》をきるのでした。 [#7字下げ]結婚式《けっこんしき》は十五|分《ふん》[#「結婚式は十五分」は中見出し]  ロクサーヌたちのすがたが家《いえ》の中《なか》にきえてしまうと、シラノはしばらく、ぼうぜんと立《た》ちすくんでいました。 (いよいよ、最後《さいご》のときが来《き》たのだ! ものごころついてから十|年間《ねんかん》、あこがれつづけたロクサーヌが、今《いま》こそはっきりと人《ひと》のものになってしまうのだ!……)  そう思《おも》うと、さすがのシラノも、なんともいいようのないさびしさに、胸《むね》をえぐられる思《おも》いです。  ふつうの人《ひと》だったら、とてもがまんできるものではありません。  しかし、シラノの愛情《あいじょう》は、シラノのたましいは、もっともっと高《たか》い、清《きよ》らかなるのでした。さっきも彼《かれ》がいったように、愛《あい》するロクサーヌの幸福《こうふく》のためには、自分《じぶん》の幸福《こうふく》など喜《よろこ》んでギセイにするくらいの、強《つよ》い、けだかい愛情《あいじょう》なのです。  一しゅん、ぼうぜんと、われを忘《わす》れていたシラノも、すぐ気《き》をとりなおして、ロクサーヌにたのまれた自分《じぶん》の仕事《しごと》を思《おも》いだしました。 「さあ、どうやってド・ギッシュめを、十五|分間《ふんかん》ばかしてやろうかなあ……」  じっと腕《うで》をくんで、あちこち見《み》まわしていた彼《かれ》は、何《なに》を思《おも》いついたか、いきなりベンチにとび上《あが》り、さっきクリスチャンがのぼったように、バルコニーによじのぼりました。  そのとたん、またもテオルブの音《ね》がきこえてきました。こんどは、ひどく陽気《ようき》なふしで、それがだんだんはげしくなっていきます。 「うむ、まさしく男《おとこ》だ! きっと、あの野郎《やろう》にちがいない……」  彼《かれ》はいそいで剣《けん》をはずし、帽子《ぼうし》をまぶかく引《ひ》きさげ、マントにからだをくるんでから、そこらを見《み》わたして、 「よし、この枝《えだ》がおあつらいむきだ。たいして高《たか》くもないからな」  いいながら、手《て》すりにまたがり、バルコニーのそばまでのびている木《き》の長《なが》い枝《えだ》をひきよせて両手《りょうて》ににぎり、いつでも飛《と》びおりられる用意《ようい》をしました。  そこへ、仮面《マスク》で顔《かお》をかくした一人《ひとり》の男《おとこ》が、ステッキで暗《くら》い道《みち》をさぐりながら、やってきました。 「チッ、あのくそ[#「くそ」に傍点]坊主《ぼうず》め、なにをしとるんだ!」  ふと、つぶやいたその声《こえ》は、たしかにド・ギッシュです。 「大将《たいしょう》、おいでなすったぞ! だが、俺《おれ》の声《こえ》じゃあ、ばれちまうかな……いいや、うんとガスコーニュなまりでやってやれ」  じっと、ねらいを定《さだ》めていたシラノは、ド・ギッシュが家《いえ》の戸口《とぐち》に近《ちか》づいたのを見《み》はからって、枝《えだ》につかまったまま、パッとバルコニーからとびおりました。 「や、なんだッ!」  目《め》の前《まえ》にズデーンと落《お》ちた、まっ黒《くろ》なものに、ド・ギッシュはびっくり仰天《ぎょうてん》、二、三|歩《ぽ》とびさがりました。  シラノは、よっぽど高《たか》いところから落《お》ちてきたように、気絶《きぜつ》したふりをして、長々《ながなが》と地面《じめん》にのびています。 「おや? どこから落《お》ちてきたんだ、この男《おとこ》は?……」  ド・ギッシュが、こわごわ近《ちか》よると、 「月世界《げつせかい》からよ!」  シラノは起《お》きあがって、あぐらをかきました。 「な、なに……月世界《げつせかい》?」 「はて、ここはどこじゃろう……いってえ、いま何日《なんにち》の何時《なんじ》ずら?……」  シラノが、とぼけた声《こえ》で、へんなことをいうので、ド・ギッシュはうす気味《きみ》わるそうにのぞきこみながら、 「こいつ、気《き》がへんなんじゃないか……」 「わしはな、月《つき》の世界《せかい》からまっさかさまに落《お》ちてきてな、目《め》をまわしたんじゃわい」 「まあいい、なんでもいいから、そこをどいてくれ。俺《おれ》はこの家《うち》に急《いそ》ぎの用事《ようじ》があるんだ」  ド・ギッシュが、じれったそうにいうと、シラノは、やにわにとび起《と》きて、 「やい、わしは墜落《ついらく》したんだぞ!」  と、どなりつけました。ド・ギッシュは、タジタジとあとずさりして、 「わかった、わかった。だから、そこを通《とお》してくれ」 「わしが落《お》ちたなあ、おとぎ話《ばなし》じゃねえぞ……考《かんが》えてみりゃ百|年前《ねんまえ》……いや、一|分《ぷん》まえだったかな……なんでも、わしは香《かお》りただよう雲《くも》のころもを身《み》にまとい、星《ほし》くずがキラキラ光《ひか》るただ中《なか》を、まっしぐらに落《お》ちてきたんじゃ」 「おい君《きみ》、いいかげんに通《とお》してくれ」  ド・ギッシュがシラノをよけて通《とお》ろうとすれば、そうはさせじと、シラノはその前《まえ》に立《た》ちはだかって、しゃべりたてます。  そのうちに、シラノは、ド・ギッシュがびっくりするほどの大声《おおごえ》で、 「わあー、助《たす》けてくれッ! この国《くに》じゃ、誰《だれ》もがまっ黒《くろ》けな顔《かお》をしてるんじゃな! おめえさん黒《くろ》ん坊《ぼう》じゃな?」  と、わめきたてました。ド・ギッシュは顔《かお》をなでながら、 「この仮面《マスク》のことか?」 「マスクだって? どうしてそんなもんを、顔《かお》にくっつけるだかね?」 「ある婦人《ふじん》にあうためだ。さあ早く、通《とお》してくれ」 「おっと待《ま》ったり……まだ聞《きい》いてもらいてえことが、山《やま》ほどある。実《じつ》はナ、おはずかしい話《はなし》じゃけんど、わしゃ、今《いま》しがたの竜巻《たつまき》にまかれて、落《お》ちてきやした。何《なに》せ、えらい道中《どうちゅう》をしてきたんじゃで、目《め》の中《なか》は星《ほし》くずで一ぱい。胴着《どうぎ》にゃ、まだ彗星《ほうきほし》のしっぽの毛《け》もぶらさがってるしまつさ……」  それから、シラノはいろいろな星《ほし》の名《な》まえを次々《つぎつぎ》にあげて、おもしろおかしく、いつまでもしゃべりたてます。  ド・ギッシュは、しびれをきらして、 「こう、しつこくやられたんじゃ、もう、やむをえん。何《なに》をかくそう、俺《おれ》はな……」 「うむ、おめえさんか……おめえさんのことなら、とっくのむかしに承知《しょうち》の助《すけ》じゃあ」 「えッ、知《し》ってるって?」 「月《つき》の世界《せかい》からは、何《なに》もかもマル見《み》えさあ。ところで、わしがどうやって月世界《げつせかい》へのぼったか、教《おし》えてくれべえか」 「チェッ、気《き》ちがいめ!」  もう、こうやってはいられないとばかり、ド・ギッシュは、すばやくシラノの横《よこ》をすりぬけて、戸口《とぐち》の方《ほう》へかけよりました。 シラノは、そのあとに追《お》いすがりながら、 「おい、わしはな、あの大空《おおぞら》を自由《じゆう》にとぶ術《じゅつ》を、六つも飛明《はつめい》したんだぞ!」 「えッ、空《そら》をとぶ術《じゅつ》を、六つる?」  そのころは、まだ飛行機《ひこうき》も気球《ききゅう》もなかった時代《じだい》ですから、ド・ギッシュは、つい気《き》をひかれて、ふり返《かえ》りました。  すると、シラノは、歌《うた》でもうたうように、 「そうよ、まずその第《だい》一は、草葉《くさは》にねむる朝《あさ》つゆを、とってあつめて小瓶《こびん》に入《い》れ、はだかのからだにふりかけて、うらおもてよーく日《ひ》にさらしゃあ、露《つゆ》をすいこむお日《ひ》さまが、わしまで一しょに、すいあげらあ!」  その名調子《めいちょうし》につりこまれて、ド・ギッシュは思《おも》わずシラノの方《ほう》へ一|歩《ぽ》近《ちか》よりました。 「なるほど……それア、名案《めいあん》だな」  シラノは、なるべく彼《かれ》を戸口《とぐち》からはなれさせようと、だんだんあとずさりしながら、 「おつぎは、でっかい木箱《きばこ》をかかえ、穴《あな》から吹《ふ》きこむ熱《あつ》い息《いき》、それを鏡《かがみ》でてりかえしゃあ、中《なか》の空気《くうき》がかるくなる。しまいにゃ、とうとう、ふうわりふわり、わしのからだは天国《てんごく》へ……」 「うーん、それで二《ふた》つ……」 「これは誰《だれ》でも考《かんが》えつこうが、花火《はなび》にしかけた巧《たく》みなからくり、ゼンマイじかけのイナゴにまたがり、ズドンと一|発《ぱつ》。飛《と》びも飛《と》んだわ、星《ほし》の世界《せかい》の天《あま》の原《はら》……」 「それで三ーッと!」 「つぎは、でっかいだんぶくろ、かるい煙《けむり》でふくらまし、それにからだをくくりつけ、ユラリユラリと天界《てんかい》見物《けんぶつ》……」 「なーるほど、四つ目《め》だ!」  ド・ギッシュは、思《おも》わず知《し》らずシラノの奇抜《きばつ》な弁舌《べんぜつ》にひかれて、指《ゆび》でかぞえながら、シラノの方《ほう》へにじりよっていきます。 「弓張月《ゆみはりづき》から満月《まんげつ》に、大《おお》きくなるには乳《ちち》がいる。そういうころを見《み》はからい、牛《うし》の乳《ちち》をば身《み》にぬりやあ、月《つき》の世界《せかい》にすいあげられらあ……」 「ふーん、五つと!」  シラノは、なおも、あとずさりしながら、 「さて、残《のこ》った一《ひと》つは最新型《さいしんがた》。最新型《さいしんがた》も最新型《さいしんがた》、磁石《じしゃく》の原理《げんり》の応用《おうよう》じゃ。まあず、鉄《てつ》の板《いた》にゆらりと乗《の》っかり、空《そら》へ向《むか》って磁石《じしゃく》を投《な》げる。鉄《てつ》の板《いた》めは追《お》っかける。投《な》げりゃ追《お》いつく、追《お》いつきゃ投《な》げる、投《な》げりゃ追《お》いつく、追《お》いつきゃ投《な》げる。いつまでいっても、はてしがねえ、知《し》らねえうちに雲《くも》の上《うえ》……」 「ほう、あわせて六つ!……どれもこれも奇抜《きばつ》なやりかただが、一たい君《きみ》は、どの方法《ほうほう》でのぼったんだ?」  二人《ふたり》はいつのまにか、道《みち》の向《むこ》うのクロミイル家《け》の前《まえ》まで来《き》ていました。  もう一《ひと》いきと、シラノはほくそ笑《え》みながら、 「七|番目《ばんめ》のやつさ」 「え、まだあるのかい?」 「こいつがまた、とびきり面白《おもしろ》いんじゃ」  シラノは、そこにあった腰《こし》かけに、ド・ギッシュを坐《すわ》らせると、とつぜん大声《おおごえ》で、 「ドドドドド、ザブーン! ドドドドド、ザブーン!」  と、さけびながら、大手《おおて》をひろげて、また、 「ドドドドド、ザブーン! ドドド……」 「なんだい、そりゃ?」 「こりゃな、ひき潮《しお》の波《なみ》の音《おと》さ。潮《しお》のみちひきは月《つき》のため、そこでひき潮《しお》どきを見《み》はからい、ざんぶりとびこみ一《ひと》およぎ、ぬれたからだを砂浜《すなはま》に、やすめていれば、あなふしぎ、月《つき》がまねくか海《うみ》の水《みず》、ぬれた頭《あたま》ものぼりだす、夢見《ゆめみ》ごこちでいるときに……そのときだあ!」 「そのときに?」  ド・ギッシュが聞《き》きかえすと、とつぜんシラノは、いつもの声《こえ》になって、 「まずまず、これで十五|分《ふん》たち申《もう》した。おたいくつさま、ごくろうさん!……結婚式《けっこんしき》もすんだゆえ、もうお引《ひ》きとめはいたさんわい」  ニッコリ笑《わら》いながら、いいました。 「な、なんだと?……その声《こえ》は?」  ド・ギッシュは、バネじかけのようにベンチからとびあがりました。  そして、パッとマントをかなぐりすて、帽子《ぼうし》をぬいだシラノを見《み》ると、 「や、その鼻《はな》は!……シラノじゃないか!」 「お言葉《ことば》どおり、シラノでござる」  シラノは、わざとていねいに礼《れい》をしながら、 「閣下《かっか》、ご心配《しんぱい》のあの両人《りょうにん》、ただいまつつがなく、結婚《けっこん》の指輪《ゆびわ》をかわし申《もう》した」  と、ロクサーヌの家《うち》の方《ほう》を指《ゆび》さしました。 「なに、両人《りょうにん》だって?……」  ド・ギッシュがふりむくと、そこには、あかりを持《も》ったラグノオに案内《あんない》されて、ロクサーヌとクリスチャン、それに坊《ぼう》さんや腰元《こしもと》も、ニコニコ笑《わら》いながら、ズラリとならんでいるではありませんか。 「うッ、しまった! してやられたかッ!……」  ド・ギッシュは、フラフラとそちらの方《ほう》へ近《ちか》よっていきました。 [#7字下げ]その夜《よ》の別《わか》れ[#「その夜の別れ」は中見出し] 「ロクサーヌさん……あなたが!……」  ド・ギッシュはいいかけて、となりにいる花婿《はなむこ》がクリスチャンとわかると、二|度《ど》びっくり……。 「この男《おとこ》と……」  あとは言葉《ことば》もつづかず、大《おお》げさに天《てん》をあおいで両手《りょうて》をひろげ、それからロクサーヌにおじぎをしながら、 「あ、あなたは、まったく、かしこい方《かた》ですなあ!」  と、ためいきのような声《こえ》をだしました。  ロクサーヌが、ニッコリ笑《わら》って、ていねいにおじぎを返《かえ》すと、クリスチャンも、にが笑《わら》いしながら、敬礼《けいれい》します。  ド・ギッシュは、クルリとふりむいて、 「シラノ君《くん》……わしは、飛行術《ひこうじゅつ》の発明者《はつめいしゃ》である君《きみ》にたいして、大《おお》いに敬意《けいい》を表《ひょう》するよ。わしの足《あし》をくぎづけにした君《きみ》の話《はなし》は、くわしく書《か》いて本《ほん》にでもするんだな。きっと、世人《せじん》を煙《けむ》にまくぞ!」 「はい、閣下《かっか》…そのお言葉《ことば》は、かならず実現《じつげん》させましょう」  シラノは、またバカていねいなおじぎをしました。  すると、こんどは坊《ぼう》さんが、新婚《しんこん》夫婦《ふうふ》をさし示《しめ》して、大満足《だいまんぞく》そうに、長《なが》いあごひげをふりたてながら、 「殿《との》さま!……あなたさまのおのぞみどおり、世《よ》にもうるわしい花《はな》よめ花《はな》むこができあがりましたじゃ」  そういうのを、ド・ギッシュはおそろしい目《め》つきでにらみつけ、 「そのとおりだ!」  と、はきだすような声《こえ》。  坊《ぼう》さんの笑顔《えがお》は、『おやッ?』というように、たちまち氷《こおり》ついてしまいました。  そのとき、ド・ギッシュは、なにかキッと決心《けっしん》したように、ロクサーヌに向《むか》って、 「では、花嫁《はなよめ》どの、さっそく花婿《はなむこ》どのにお別《わか》れのあいさつをしてもらいましょう」  と、にくにくしげにいいました。 「えッ、なんでございますって?」  ロクサーヌの問《と》いには答《こた》えず、こんどはクリスチャンに、 「おい、君《きみ》。聯隊《れんたい》はもう進軍《しんぐん》をはじめたのだ。早《はや》く行《い》って、おいつきたまえ!」 「まあ、戦争《せんそう》にゆくのでございますか?」  ロクサーヌが、おどろいて進《すす》み出《で》ると、 「もちろんです!」  と、ド・ギッシュは冷《つめ》たくいいはなちました。 「だって、あなたは、青年隊《せいねんたい》をやらないお約束《やくそく》だったではございませんか!」 「やることにしたんです」  ド・ギッシュは、胸《むね》のポケットにしまっておいた封筒《ふうとう》をとりだして、クリスチャンにつきつけながら、 「さあ、これが青年隊《せいねんたい》への命令書《めいれいしょ》だ。君《きみ》はすぐ、これを持《も》って隊(たい》へかけつけるんだ!」  キョトンと、あっけにとられているクリスチャンの腕《うで》にだきすがって、 「ああ、クリスチャン!」  と、泣《な》きさけぶロクサーヌ。 「まだなかなか結婚《けっこん》当夜《とうや》とはいかんわい」 ド・ギッシュは、せせら笑《わら》っています。 「ああ、ロクサーヌ!……」  クリスチャンがロクサーヌにだきすがりました。シラノは見《み》ていられないように、 「おいおい、もういいかげんにしたらどうだい」 「だって、これっきりで別《わか》れるのは、あんまり残酷《ざんこく》だ。君《きみ》は知《し》らないから……」 「なーに、きさまよりよく知《し》っとるわい」  シラノは、クリスチャンの腕《うで》をひっぱって、つれて行《い》こうとします。  そのとき、遠《とお》くの方《ほう》から、空《そら》をゆるがすような進軍《しんぐん》の太鼓《たいこ》がひびいてきました。夜《よ》もふけたというのに、あちこちの辻《つじ》からは、出征《しゅっせい》兵士《へいし》を送《おく》りだすのでしょう、話《はな》し声《ごえ》や物音《ものおと》がさわがしく聞《きこ》えてきます。  ロクサーヌは、クリスチャンをひっぱって行《い》くシラノに追《お》いすがって、 「ねえ、お従兄《にい》さま。あたくし、どうしたらいいんでしょう……おねがいしますわ、このひとが、けっしてあぶないことをしないように、どうぞお約束《やくそく》してくださいまし!」  と、泣《な》きむせんでいます。 「こまったなあ、約束《やくそく》なんて……」 「このひとが、野営《やえい》で、おかぜなんかひかないように、ね!」 「ええ、できるだけ注意《ちゅうい》はしますよ。しかし……」 「そしてね、どんな激戦《げきせん》のときでも、あたくしのことを忘《わす》れないように、このひとによくいっておいてくださいね!」 「ええ、ええ、よくわかりました。しかし……」 「それからね、このひとが、ときどきお手紙《てがみ》をくださるように、きっと約束《やくそく》してちょうだい!」  シラノは、立《た》ちどまって、ニッコリ笑《わら》いながら、 「ええ、そのことなら、毎日《まいにち》でもあげるように受《う》けあいますよ! さようなら!」  そういうと、クリスチャンの腕《うで》をかかえたまま、どんどん闇《やみ》の中《なか》へきえていきました。 「ロクサーヌ!……ロクサーヌ!……」  しだいに遠《とお》ざかってゆくクリスチャンの呼《よ》び声《ごえ》を追《お》いかけるように、ロクサーヌも、いつまでも呼《よ》びつづけていました。 「クリスチャーン!……クリスチャーン!……」 [#7字下げ]敵中《てきちゅう》の青年隊《せいねんたい》[#「敵中の青年隊」は中見出し]  ここはフランスの北部《ほくぶ》、パリからおよそ百六十キロ北《きた》にあるアラスの戦場《せんじょう》――。  町《まち》の城壁《じょうへき》から一キロほどはなれた、ひろい平野《へいや》のまっただ中《なか》に、塹壕《ざんごう》をほって、フランス軍《ぐん》とスペイン軍《ぐん》が、おりかさなるように、にらみあっていました。  むかしから、フランスとスペインは、陸《りく》つづきの隣《とな》りどうしでしたから、なにかいざこざがおこると、すぐはげしい戦争《せんそう》になってしまうのでした。  このアラスの戦《たたか》いでは、まずスペイン軍《ぐん》がアラスをとりかこんで攻《せ》めたてたので、それを助《たす》けるために近衛《このえ》聯隊《れんたい》が出動《しゅつどう》したのですが、それがまた新《あたら》しいスペイン軍《ぐん》にとりかこまれて、本国《ほんごく》との連絡《れんらく》を切《き》られてしまったのです。  本国《ほんごく》からは、また新《あたら》しい救援隊《きゅうえんたい》がかけつけているのですが、敵《てき》のかこみは、なかなかやぶれそうもありません。  おそろしい兵糧《ひょうろう》ぜめ! もう何《なん》十|日《にち》も本国《ほんごく》から食《た》べものが送《おく》られてこないのですから、さすが豪勇《ごうゆう》のガスコン青年隊《せいねんたい》も、すっかりまいってしまいました。  ここは、その陣地《じんち》――。  ひろい平野《へいや》一めんに、土手《どて》がきずかれ、塹壕《ざんごう》がほられ、あちらにもこちらにも、野営《やえい》のテントがはられています。  まだ日《ひ》の出《で》前《まえ》で、東《ひがし》の空《そら》がほんのりと白《しら》みかかり、土手《どて》の上《うえ》に見張《みは》りに立《た》っている歩哨《ほしょう》のすがたが、クッキリと浮《う》きあがって見《み》えます。  その向《む》こうには、はるかに地平線《ちへいせん》がのぞき、アラスの城壁《じょうへき》の屋根《やね》も、うっすらと、けむっています。  まだ起床《きしょう》前《まえ》で、青年隊員《たいいん》たちは、金《きん》ボタンのついた青《あお》い外套《がいとう》にくるまったまま、黒《くろ》ぐろと眠《ねむ》っていますが、時《とき》おりひらめく砲火《ほうか》の光《ひかり》に、その顔《かお》がパッとかがやきます。もう長《なが》いこと食《た》べるのもない激《はげ》しい戦《たたか》いをつづけているので、どの顔《かお》もどの顔《かお》も、みんな青白《あおじろ》くやせとがっています。 「あああ……こう腹《はら》がへっちゃあ、どうにもやりきれないや!」 「うん……もう食《く》うネズミもなくなっちゃったからなあ!」  塹壕《ざんごう》の入口《いりぐち》に腰《こし》かけて、ボソボソ話《はな》しあっているのは、夜番《よばん》のル・ブレとカルボン隊長《たいちょう》です。  ル・ブレは、手《て》にしている銃《じゅう》さえも重《おも》そうにしながら、悲鳴《ひめい》をあげました。 「ああッ、たまらねえッ!」 「シッ、静《しず》かにしろよ。みんなが起《お》きちまうじゃないか」  カルボンがいったとき、またもドカーンと大砲《たいほう》の音《おと》がひびきわたりました。 「あッ、ちきしょう。またうちだしやがった!……おい、大丈夫《だいじょうぶ》だ、ゆっくり眠《ねむ》っていろよ」  びくッと、頭《あたま》をもちあげた隊員《たいいん》にそういったカルボンは、ふと背《せ》のびをして、 「おやッ、向《むこ》うから誰《だれ》か来《き》たぞ!」 「シラノですよ。今日《きょう》も無事《ぶじ》に帰《かえ》ってきた」 「よくつづくなあ……えらいもんだ」  うわさをしているところへ、シラノが相変《あいかわ》らずのでっかい鼻《はな》をぶらさげて、帰《かえ》ってきました。彼《かれ》はこんな苦《くる》しい戦《たたか》いの中《なか》でも、毎日《まいにち》かならずロクサーヌに手紙《てがみ》をかいては、それをみんな眠《ねむ》っている夜中《よなか》のうちに、敵陣《てきじん》を通《とお》りぬけて、そとにいる救援隊《きゅうえんたい》までとどけに行《ゆ》くのでした。 「シラノ! どうだった?」  ル・ブレが心配《しんぱい》そうにいうと、 「シッ!」  シラノは、みんなを起《おこ》さないように合図《あいず》をしてから、ニヤリと笑《わら》って、 「なーに、いつだって弾《たま》の方《ほう》で俺《おれ》さまをよけて通《とお》らあ」 「でも、手紙《てがみ》ばかりのことで、毎朝々々《まいあさまいあさ》、命《いのち》がけの芸当《げいとう》をやるなんて、どうかと思《おも》うなあ……」  シラノは、すぐ前《まえ》に眠《ねむ》りこけているクリスチャンを、あごでさしながら、 「こいつが毎日《まいにち》手紙《てがみ》を出《だ》すようにって、約束《やくそく》したんだからな……みろ、あんなにやせ細《ほそ》ってやがる。このようすを、あの女《ひと》が見《み》たら、どうだろう……だが、相変《あいかわ》らずいい男《おとこ》っぷりだなあ!」 「君《きみ》の気《き》もちはわかるがな、あんまり無理《むり》しない方《ほう》がいいぜ。早《はや》く寝《ね》ろよ、シラノ」 「大《おお》きなお世話《せわ》だ。おれア、好《す》きなことをやってた方《ほう》が元気《げんき》になるんだ」  いいながら、シラノはまたテントの方《ほう》へ行《い》こうとします。 「おい、何《なに》しに行《い》くんだい?」 「もう一ぺん書《か》きに行《い》くのだ」  ル・ブレとカルボンは、あきれて顔《かお》を見《み》あわせながら、テントの中《なか》に消《き》えてゆくシラノのすがたを見送《みおく》っていました。  やがて、夜《よ》はしだいに明《あ》けて、バラ色《いろ》のうすあかりが、あたり一めんにたちこめてきました。アラスの町《まち》が、はるか地平線《ちへいせん》上《じょう》にキラキラとかがやいています。  どこかでかすかな大砲《たいほう》の音《おと》がしたと思《おも》うと、つづいて、ドドン、ドドンと、太鼓《たいこ》をうつ音《おと》がきこえてきました。すると、すぐ近《ちか》くで別《べつ》の太鼓《たいこ》が鳴《な》りだし、それがまた次《つぎ》の陣地《じんち》へと移《うつ》って、こだまのように消《き》えていくのでした。 「あああ、もう起床《きしょう》の太鼓《たいこ》か!…」  青年隊員《せいねんたいいん》たちは、一せいに目《め》をさまして、のびをしたり、起《お》き上《あが》りかけたりしますが、すぐまたヘナヘナとすわりこんでしまいました。 「ああ、たまらねえ! 腹《はら》がペコペコで立《た》ってもいられねえ」 「ううん……死《し》にそうだ!」 「もう、一足《ひとあし》も動《うご》けねえわ」 「ああ、パンが食《く》いてえなあ!」  中隊《ちゅうたい》の陣地《じんち》は、起床《きしょう》とともにいつも、こんな不平不満《ふへいふまん》の声《こえ》で一ぱいになるのです。 「ラグノオの店《みせ》で食《く》った菓子《かし》が、一かけらでもあったらなあ!」 「いまボルドーのブドー酒《しゅ》を飲《の》ましてくれりゃ、おれの男爵帽《だんしゃくぼう》なんか、売《う》りとばしたってかまわんぞ」 「いや、慾《よく》はいわねえ。なんでもいいから胃袋《いぶくろ》につめこみてえや……」  そこへ、外《そと》から二人《ふたり》の隊員《たいいん》がションボリと入《はい》ってきました。一人《ひとり》は銃《じゅう》を、一人《ひとり》は釣《つり》ざおを持《も》っています。鳥《とり》や魚《さかな》をとりにいった帰《かえ》りです。  隊員《たいいん》たちは、とび上《あが》って二人《ふたり》の方《ほう》へおしよせました。 「おい、何《なに》をとってきた? キジか……コイか……早《はや》く見《み》せてくれ!」 「スズメが、たった一|羽《わ》……」 「おれはハゼが一|匹《ぴき》……」  力《ちから》のない二人《ふたり》の返事《へんじ》に、隊員《たいいん》たちは、がっかりして、 「ああ、ちきしょう! どうするんだ? もう命令《めいれい》なんか、きかねえぞ!」  ふてくさったように、またゴロリと寝《ね》てしまいました。  じっと見《み》ていたカルボン中隊長《ちゅうたいちょう》は、もう気《き》が気《き》ではありません。かといって、自分《じぶん》の力《ちから》では、どうすることもできないのです。  彼《かれ》は、そっと立《た》ち上《あが》ると、さっきシラノの入《はい》っていったテントの入口《いりぐち》の方《ほう》へ歩《ある》いていきました。 [#7字下げ]ふるさとの唄《うた》[#「ふるさとの唄」は中見出し] 「おい、シラノ……助《たす》けてくれ! みんな、ふくれちまったんだ。早《はや》く来《き》て、やつらに元気《げんき》をつけてくれんか! いつでも陽気《ようき》に返答《へんとう》できるのは、君《きみ》だけだからな」  カルボン中隊長《ちゅうたいちょう》の声《こえ》をきいて、シラノは、のっそり出《で》てきました。耳《みみ》にペンをはさみ、手《て》には厚《あつ》い本《ほん》を一|冊《さつ》かかえています。 「どうしたんだ?」  ズカズカと、みんなの方《ほう》へやってきたシラノは、重《おも》そうに足《あし》をひきずっている、一人《ひとり》の隊員《たいいん》を見《み》ると、 「おい、どうした、足《あし》を?」 「何《なに》しろ腹《はら》がペコペコで、この靴《くつ》がもち上《あが》らないんだ」 「靴《くつ》だって、もとは牛《うし》か豚《ぶた》だ。食《く》って食《く》えんことはあるまい」  ほかの一人《ひとり》が、シラノを見《み》あげて、 「あんまり食《く》いたいんで、歯《は》が二|倍《ばい》にものびちゃったぜ」  と、大《おお》きな口《くち》をあいてみせました。 「いや、けっこう! きさまなんかまさに成長期《せいちょうき》なんだからな」  こんどは茶色《ちゃいろ》の髪《かみ》をした一人《ひとり》の隊員《たいいん》が、腹《はら》をたたきながら、 「ほら、腹《はら》ん中《なか》が、ゴロゴロいってるんだ!」 「よかろう、カルボン中隊《ちゅうたい》の太鼓手《たいこしゅ》になれよ」  シラノは、一人《ひとり》ずつ、片《かた》っぱしから片《かた》づけていきます。 「ああ、何《なに》か、いやってほど詰《つ》めこむものはないかなあ!」  そういった一人《ひとり》には、さっそく手《て》に持《も》った本《ほん》をほうり投《な》げて、 「このイリアッド(昔《むかし》のギリシァの物語《ものがたり》)なら、うんと詰《つ》めこみがいがあるぞ」  すると、一人《ひとり》の気《き》のあらい隊員《たいいん》が、 「やい、シラノ。笑《わら》ってすませる場所《ばしょ》じゃねえぞ! 相変《あいかわ》らずのシャレや口《くち》まわしも、今《いま》となっちゃあ、なんのたしにもなりゃあしねえや」  と、つっかかってきました。 「べらぼうめ!」  と、シラノは肩《かた》をそびやかして、 「おれアな、味《あじ》っけのないむだ口《ぐち》をたたくのたア、ちっとばかりわけがちがうぞ。きさまら同然《どうぜん》おれだって腹《はら》ペコだが、口《くち》の中《なか》でうまい料理《りょうり》を作《つく》っているんだ。言葉《ことば》のあやを蒸《む》したり焼《や》いたり、それに句読点《くとうてん》のソースをかけてよ、受《う》ける小皿《こざら》はとくいの四|行詩《ぎょうし》と来《く》らあ。泣《な》きごといいながら床《とこ》の上《うえ》でくたばるなんて、まっぴらごめん。むらがる強敵《きょうてき》切《き》りたおし、切《き》りたおし、いまわの文句《もんく》をはなやかに残《のこ》して死《し》にたいんだあ!」 「だが……腹《はら》がへっちゃあ、いくさはできねえ!」  また誰《だれ》かがわめきました。 「チエッ、食《く》うことばかり考《かんが》えてやがる。だらしのねえやつらだ!」  腕《うで》ぐみをして一|同《どう》を見《み》まわしたシラノは、ふと、ベルトランドウという笛手《ふえふき》が、腰《こし》にさげた皮《かわ》ぶくろを大切《たいせつ》そうになでているのを見《み》つけました。  出征《しゅっせい》する前《まえ》まで牧場《ぼくじょう》で羊《ひつじ》の番《ばん》をしていたベルトランドウ[#「ベルトランドウ」は底本では「ベルトランドク」]は、ガスコンの中《なか》でも一ばん年老《としお》いた兵隊《へいたい》で、他《ほか》の連中《れんちゅう》が口《くち》ぐちに文句《もんく》をならべて八ツあたりしても、彼《かれ》だけは、いつもじっと考《かんが》えこんでいるのでした。 「おい、ベルトランドウ。きさまおとくいの笛《ふえ》で、この食《く》いしんぼうのガキどもに、かなしい、やるせない故郷《こきょう》の唄《うた》を一|曲《きょく》聞《き》かせてやってくれ。おれたちの生《うま》れ故郷《こきょう》のなつかしい思《おも》い出《で》が、ジーンと胸《むね》にしみでるような節《ふし》でなあ……」  ベルトランドウは、うなずいて座《すわ》りなおすと、笛口《ふえぐち》をしめして、しずかに吹《ふ》きはじめました。  それは、ガスコーニュ地方《ちほう》のラングドックの唄《うた》でした。胸《むね》をかきむしるような、ゆるやかな、あまい、せつないメロディーに、殺気《さっき》だった連中《れんちゅう》も、たちまちシーンと静《しず》まってしまいました。  曲《きょく》が終《おわ》ると、シラノが、 「聞《き》いたかガスコン……この笛《ふえ》の音《ね》は、戦《たたか》いの合図《あいず》とはちがうんだぞ。夕陽《ゆうひ》にはえる故郷《ふるさと》の山羊《やぎ》を追《お》う牧童《ぼくどう》のしらべだ。なつかしいガスコーニュの、あの山《やま》すそ、あの森《もり》かげ……青々《あおあお》とつづく草原《くさはら》には、赤《あか》いベレエの羊《ひつじ》かいまで、まざまざと見《み》えるなあ……あのドルドーニュの川岸《かわぎし》で、魚《さかな》つりをしたのも思《おも》いだす……みんなみんな、忘8わす》れえぬガスコーニュの思《おも》い出《で》だなあ!」  隊員《たいいん》たちも、めいめい故郷《こきょう》の父《ちち》のこと、母《はは》のこと、兄弟《きょうだい》のことなど思《おも》いだしているのでしょう。うなだれた顔《かお》には、うっすらと涙《なみだ》がにじんでいます。  みんながあまりに静《しず》かになってしまったので、カルボンは低《ひく》い声《こえ》で、 「おい、そんなに泣《な》かせちゃあ、困《こま》るな」  と、シラノにささやきました。 「なーに、ふるさとを思《おも》う尊《とうと》い涙《なみだ》だ。腹《はら》ペコの泣《な》きごとより、ずっといいよ。ガスコンの体《からだ》の中《なか》には、祖先《そせん》の英雄《えいゆう》の血《ち》が流8なが》れているんだ。いざとなりゃ、すぐにも湧《わ》きたつさ!」  シラノが、そっと鼓手《こしゅ》を呼《よ》んで、とつぜん太鼓《たいこ》を鳴《な》らさせますと、隊員《たいいん》たちは、たちまち立《た》ち上《あが》って、武器《ぶき》をとりながら、 「なんだッ! 進軍《しんぐん》かッ!」  と、わめきたちました。 「みろ、太鼓《たいこ》ひとたたきでも、この通《とお》り……さあ、夢《ゆめ》も、思《おも》い出《で》も、ふるさとも、なみだも、しばし、おさらばだぞ!」  シラノは、満足《まんぞく》そうに笑《わら》っています。  そのとき、一人《ひとり》の隊員《たいいん》が、 「や、来《き》たぞ、ド・ギッシュの野郎《やろう》が!」  と、さけびました。  見《み》ると、土手《どて》の上《うえ》にすがたをあらわして、歩哨《ほしょう》の敬礼《けいれい》をうけているのは、たしかにド・ギッシュ大佐《たいさ》です。  ひと目《め》で聯隊長《れんたいちょう》ということがわかる銀《ぎん》の鎧《よろい》に、朝《あさ》の太陽《たいよう》が反射《はんしゃ》して、キラキラとかがやいています。  その上《うえ》に、うす絹《ぎぬ》のえりをかけて、みるからに、えらそうな足《あし》どりで、こちらへやってきました。  青年隊《せいねんたい》は、このおしゃれで、いばり屋《や》で、腹《はら》のくろい聯隊長《れんたいちょう》が大《だい》きらいですから、ひと目《め》見《み》るとみんなヒソヒソ悪口《わるぐち》をいいはじめました。  シラノはそれをおさえるように、 「さあ、もう苦《くる》しそうな顔《かお》をするなよ。あいつ腹《はら》ペコで、フラフラしてやがるから、こっちは景気《けいき》よくカルタをやったり、タバコをのんだりしていろよ」  そういうと、自分《じぶん》はポケットから小《ちい》さな哲学書《てつがくしょ》を出《だ》して、ゆっくり歩《ある》き廻《まわ》りながら読《よ》みはじめました。 [#7字下げ]ド・ギッシュの悪企《わるだく》み[#「ド・ギッシュの悪企み」は中見出し] 「やあ、今日《こんにち》わ……」  ド・ギッシュが、気《き》どったようすで、青年隊《せいねんたい》の陣屋《じんや》へ入《はい》ってきました。  しかし、前《まえ》もってシラノからいいわたされていますから、青年隊《せいねんたい》はみんなそっぽをむいたまま、知《し》らん顔《かお》で、カルタを、やったり、タバコをふかしたりしています。  ド・ギッシュは、ムッとしたように胸《むね》をはって、 「やあ、たちの悪《わる》い連中《れんちゅう》がいるな……おい、諸君《きみ》。わがはいは、どこの隊《たい》へ行《い》っても、敬礼《けいれい》されないなんてことはないのだ。ところが、山家《やまが》の貴族《きぞく》だの、田舎武士《いなかざむらい》だのが集《あつま》っているこの青年隊《せいねんたい》は、このド・ギッシュ大佐《たいさ》の悪口《わるぐち》を、ひまさえあれば、たたいておるそうだな。上官《じょうかん》にたいして礼《れい》を忘《わす》れておるような諸君《きみ》は、カルボン大尉《たいい》に命《めい》じて、罰《ばっ》してくれようか」  すると、カルボンは、とんでもないというように手《て》をふって、 「これという理由《りゆう》なく、部下《ぶか》を罰《ばっ》することはできません。私《わたし》の中隊《ちゅうたい》には、私《わたし》が給料《きゅうりょう》をはらっているんです。中隊《ちゅうたい》は私《わたし》のものだ。軍《ぐん》の命令《めいれい》以外《いがい》は、だんじてごめんこうむります」 「ふん、そうかね・・・・それもよかろう」  ド・ギッシュは、こみ上《あ》げる怒《いか》りをおさえながら、こんどは、だまりこんでいる隊員《たいいん》たちに話《はな》しかけました。 「わがはいは、君《きみ》らがいくらガスコン風《かぜ》を吹《ふ》かせたって、なんとも思《おも》わん。わがはいが戦《たたか》いのたびに、いかに勇敢《ゆうかん》であるか、君《きみ》らも知《し》っとるだろう。きのうね、めざましかったぞ。わがはいは、部下《ぶか》をひきいて、ビユッコワ伯《はく》の軍隊《ぐんたい》に三|回《かい》も突撃《とつげき》したんだ」 「だが、あの白色《はくしょく》の大綬《たいじゅ》(胸《むね》にかける組《くみ》ひも)は、どうしたんです?」  とたんにシラノが、本《ほん》から顔《かお》もあげずにいったので、ド・ギッシュは一しゅんドキッとしましたが、すぐ得意《とくい》げに話《はな》しつづけました。 「やあ、君《きみ》はあの事件《じけん》を知《し》っとるのか?……あれは全《まった》く痛快《つうかい》だったよ。三|度目《どめ》の突撃《とつげき》のときだ。部下《ぶか》の先頭《せんとう》に立《た》ってあばれまわってるうちに、逃《に》げてゆく敵兵《てきへい》の中《なか》にまきこまれて、いつのまにか敵《てき》の陣地《じんち》に入《はい》りこんでしまったんだ。  いよいよ捕《つか》まるか、うち殺《ころ》されるかというどたんば[#「どたんば」に傍点]になったとき、ふと気《き》がついて、わがはいは大佐《たいさ》の位《くらい》を示《しめ》す白色《はくしょく》大綬《たいじゅ》を胸《むね》からはずして、すてることにしたんだ。おかげで人目《ひとめ》をひかずに、敵陣《てきじん》から脱出《だっしゅつ》することができた。そこでまた、味方《みかた》をあつめて攻《せ》め返《かえ》し、ついに敵軍《てきぐん》を退却《たいきゃく》させたんだ。……どうだ、この武者《むしゃ》ぶりは!……」 「それがもし、あの勇敢《ゆうかん》なアンリ四|世《せい》だったら、どんな大軍《たいぐん》にかこまれても、名誉《めいよ》ある大綬《たいじゅ》をすてるなんてことは、だんじてしなかったでしょうな」  シラノが、すかさずやりこめたので、今《いま》まで知《し》らんふりをしていた青年隊員《せいねんたいいん》は、愉快 (ゆかい》そうに目《め》をかがやかしました。  ド・ギッシュは、プンとして、 「だが、わしの計略《けいりゃく》はうまくあたったんだ!」 「そうかも知《し》れん」  と、シラノは、はじめて本《ほん》から顔《かお》をあげて、 「しかし、まことの武士《ぶし》は、敵《てき》のまととなるのを恐《おそ》れんですよ。もし私《わたし》なら、大綬《たいじゅ》が落《お》ちたら、ひろって身《み》につけたでしょうな」 「ふん、また例《れい》のほらっぷきか、ガスコン名物《めいぶつ》の……」 「ごじょうだん! そんなら、その大綬《たいじゅ》をかしてください。今夜《こんや》からでも、それをタスキにかけて突撃《とつげき》の先頭《せんとう》に立《た》ってごらんに入《い》れましょう」 「そんなもの、ここにあるわけがないじゃないか。さっきも話《はな》したとおり、激戦場《げきせんじょう》においてきたのだ。誰《だれ》だって取《と》りにいけるもんか!」  ド・ギッシュが、シラノをにらみつけると、シラノはニヤリと笑《わら》って、ポケットからその白《しろ》い大綬《たいじゅ》をとりだし、ド・ギッシュにさしだしながら、 「このとおり、ここにありますぜ」 「や、君《きみ》は、それを、一|体《たい》どうしたんだ?」  ド・ギッシュは、あっけにとられています。 「けさ早《はや》く、ちょっと散歩《さんぽ》しながら、ひろったんですよ」  青年隊員《せいねんたいいん》は、ドッとよろこびの笑《わら》い声《こえ》をあげました。 「いや、ありがとう……」  ド・ギッシュは、にが虫《むし》をかみつぶしたような顔《かお》で、その大綬《たいじゅ》をうけとると、 「ちょうどいい、これで合図《あいず》ができるってわけだ。じつは、今《いま》まで、どうしようかと思《おも》っていたんだが……」  へんなことをいいながら、土手《どて》の方《ほう》へ歩《ある》きだしました。そして、ヨチヨチと土手《どて》の上《うえ》によじのぼったかと思《おも》うと、白《しろ》の大綬《たいじゅ》をなんども高《たか》くうちふるのです。 「へんなことをしやがる!……」  みんなが怪《あや》しんで見《み》ているとき、土手《どて》の上《うえ》から、 「おや、あそこにひとり、あわてて逃《に》げだしたやつがいるぞ!」  そうさけぶ歩哨《ほしょう》の声《こえ》がきこえました。  ド・ギッシュは、土手《どて》からおりてくると、 「あれア、敵軍《てきぐん》の偽《にせ》スパイさ。わが軍《ぐん》のために大《おお》いに働《はたら》いてくれるんだ。こういつまでもにらみあっていたんじゃ、こっちがたまらない。それでスパイを使《つか》って、敵《てき》がしかけてくるように、俺《おれ》が計略《けいりゃく》したんだ」 「ふん、けちなまねをしやがる!」  シラノは、ペッとつばをはいて、そっぽをむきました。  ド・ギッシュは、ふてくさったように、大綬《たいじゅ》を胸《むね》にかけると、 「ふん、大《おお》きな面《つら》をしくさって!……もうすぐ地獄《じごく》行《ゆ》きだ」  と、シラノのうしろすがたをにらみつけながら、 「なあ、カルボン大尉《たいい》……ゆうべ司令官《しれいかん》殿《どの》が相当《そうとう》の部隊《ぶたい》をひきいて、食糧《しょくりょう》の補給《ほきゅう》に出《で》かけられたのは知《し》っとるだろう。このすきに敵《てき》から攻 《せ》められたら、ひとたまりもなく、やっつけられるよ」 「しかし、敵《てき》は元帥《げんすい》の出発《しゅっぱつ》を知《し》らないでしょう」 「いや、知《し》って、攻撃《こうげき》を準備《じゅんび》しているのだ。それをあのにせ[#「にせ」に傍点]スパイが、俺《おれ》のところへ知《し》らせにきたんだ。そして、どこを攻《せ》めさせたらいいか知《し》らせてくれというからな、俺《おれ》は、けさ俺《おれ》が合図《あいず》をする場所《ばしょ》を攻《せ》めるようにしろと、そういってやったんだ」  そういってド・ギッシュは、それみたことかというように肩《かた》をそびやかすのです。 「ちきしょうッ! 諸君《しょくん》、すぐ戦闘《せんとう》準備《じゅんび》!」  カルボンがあわててさけぶと、ド・ギッシュは、せせら笑《わら》って、 「なに、まだ一|時間《じかん》あるよ。俺《おれ》はそろそろ失敬《しっけい》する」  と、土手《どて》の方《ほう》へいきかける後《うしろ》から、 「なあるほど! それでわれわれに恨《うら》みを晴《は》らそうっていうわけですかい?」  そう声《こえ》をかけたのはシラノです。 「ふん、そう思《おも》いたきゃ、思《おも》ってもいいさ。ともかく、君《きみ》らは武勇《ぶゆう》にすぐれておるからな、ここで一ばん、国王《こくおう》のために大《おお》いにやってもらおう……そうだ、カルボン大尉《たいい》、戦闘《せんとう》命令《めいれい》について少《すこ》し話《はなし》がある」  そういうと、ド・ギッシュは、カルボンと一しょに奥《おく》へ入《はい》って、何《なに》やら小声《こごえ》で話《はな》しだしました。 「おい、諸君《しょくん》、わかったか!」  シラノは、青年隊《せいねんたい》を見《み》まわしながら、声《こえ》をはりあげて、 「われらガスコン青年隊《せいねんたい》は、光栄《こうえい》ある金《きん》と青《あお》との六すじの紋章《もんしょう》に、いままた新《あたら》しく真紅《しんく》の血《ち》のすじを加《くわ》えるんだぞ!」 「よし、やるぞッ!」 「くそ、負《ま》けるもんか!」  隊員《たいいん》たちは、武者《むしゃ》ぶるいして立《た》ちあがりました。その中《なか》に、腕《うで》ぐみしたまま、じっと動《うご》かないクリスチャンのすがたを見《み》かけると、シラノは歩《あゆ》みよって肩《かた》をたたきながら、 「どうした、クリスチャン?」  すると、クリスチャンは、かすかに頭《あたま》をふって、 「ああ……いよいよ戦《たたか》いか……ロクサーヌとももう会《あ》えないなあ……」  と、深《ふか》いためいきをつくのです。 「おい、俺《おれ》は、きさまにかわって、ロクサーヌへの最後《さいご》の手紙《てがみ》を書《か》いておいたぞ」  シラノが、チョッキのかくしから一|通《つう》の手紙《てがみ》をとりだすと、クリスチャンは、 「俺《おれ》に見《み》せてくれ!」 と、いきなりひったくって読《よ》みだしました。  読《よ》んでゆくうちに、 「おやッ、この小《ちい》さいしみ[#「しみ」に傍点]はなんだ?……」 「え? しみ[#「しみ」に傍点]だって?」 「こりゃ、涙《なみだ》のあとだぜ」  シラノは、ハッとしたようにのぞきこみながら、 「うん、涙《なみだ》だ……俺《おれ》はこれを書《か》きながら、身《み》につまされてな、泣《な》けて、泣《な》けて……」 「え、君《きみ》が泣《な》いた?」 「そうさ……死《し》ぬのがこわいんじゃない……しかし、もう二|度《ど》と彼女《かのじょ》にあえないと思《おも》うと……俺《おれ》は……いや、俺《おれ》たちは……なに、きさまのだ……」  どもりどりいうシラノの顔《かお》を、じっと見《み》つめて、何《なに》か考《かんが》えていたクリスチャンは、 「シラノ……この手紙《てがみ》だけは、俺《おれ》にくれ」  と、手紙《てがみ》をポケットにしまいこみました。  そのとき、とつぜん、遠《とお》くの方《ほう》から、けたたましいさけび声《こえ》が聞《きこ》えてきました。 「こら、誰《だれ》だ? とまれッ!」  土手《どて》の上《うえ》の歩哨《ほしょう》の声《こえ》です。 「なんだッ?」  カルボンがどなると、 「馬車《ばしゃ》が一|台《だい》……」  という歩哨《ほしょう》の返事《へんじ》。  五、六|名《めい》の隊員《たいいん》が、急《いそ》いで土手《どて》の上《うえ》へかけあがりました。 「おやッ、こっちへやってくるぞ!」 「敵《てき》の馬車《ばしゃ》だ、射《う》っちまえ!」 「いや、待《ま》て! 馭者《ぎょしゃ》がどなっているぞ……なんだって?……国王《こくおう》のご用《よう》だって?」  そんなさけび声《こえ》が聞《きこ》えてきます。 「国王《こくおう》のご用《よう》だって? へんだな!」  カルボンは、ド・ギッシュと一しょに外《そと》へ出《で》ると、 「諸君《しょくん》、ともかく脱帽《だつぼう》! 馬車《ばしゃ》が入《はい》れるように、整列《せいれつ》ッ!」  と、号令《ごうれい》をかけました。  やがて、パカッパカッと、馬《うま》のひずめの音《おと》も高《たか》く、一|台《だい》の馬車《ばしゃ》が入《はい》ってきて、みなの前《まえ》にピタリと止《とま》りました。  泥《どろ》とほこりで、まっ白《しろ》によごれた馬車《ばしゃ》――あついビロードの窓《まど》かけはおりたままで、うしろには二人《ふたり》の従者《じゅうしゃ》がのっています。 「奉迎《ほうげい》の太鼓《たいこ》をうてッ!」  カルボンの命令《めいれい》で、ものものしく太鼓《たいこ》が鳴《な》りだしました。全員《ぜんいん》は帽子《ぼうし》をとって、頭《あたま》をさげています。  すると、中《なか》から扉《とびら》があいて、パッととびおりたのは、一人《ひとり》の花《はな》のような女《おんな》のすがた……。 「みなさま、しばらく!…」  鈴《すず》をふるようなそのやさしい声《こえ》に、うやうやしく頭《あたま》をさげていた人《ひと》びとは、ハッと、一せいに顔《かお》をあげました。 [#7字下げ]美女《びじょ》、戦場《せんじょう》に現《あら》わる[#「美女、戦場に現わる」は中見出し]  馬車《ばしゃ》の主《ぬし》は、意外《いがい》にも、ロクサーヌだったのです。いっしゅん、誰《だれ》もかれも、夢見《ゆめみ》るように、ぼうぜんと立《た》ちすくみました。 「おお、あなたが……国王《こくおう》のご用《よう》で?……」  最初《さいしょ》に口《くち》をきいたのは、ド・ギッシュです。 「はい……愛《あい》という、たった一人《ひとり》の王《おう》さまのご用《よう》で……」  ロクサーヌは、ニッコリ笑《わら》いました。 「やあ、これァ一|大事《だいじ》だ!」  シラノが目《め》をみはれば、クリスチャンも、がまんできないように飛《と》びだしました。 「ロクサーヌ! どうして、こんなとこへ!」 「だって、あんまり長《なが》すぎるんですもの、じっとしていられませんわ」  ロクサーヌは、さもつかれたように、そこにあった太鼓《たいこ》の上《うえ》に腰《こし》をおろしました。 「しかし、よくまあここまで来《こ》られたなあ!……一|体《たい》どうやって敵《てき》の中《なか》を通《とお》ってきたんです?」  シラノが聞《き》きました。みんなも、それが不思議《ふしぎ》でふしぎでならないようす。 「べつに、大《たい》したこともございませんでしたわ……ときどき敵《てき》の歩哨《ほしょう》に銃剣《じゅうけん》をつきつけられましたけれど、あたくしが馬車《ばしゃ》の窓《まど》からニッコリ笑《わら》いますとね、すぐ通《とお》してくれましたの。なにしろ、スペインの武士《さむらい》たちには、さばけた、ロマンチックな人《ひと》が多《おお》いようですもの……」 「なるほど。その笑顔《えがお》は、まさにすばらしい旅行券《りょこうけん》ですなあ!……しかし、やつらだって、たまには、どこへ行《い》くんだぐらい、聞《き》いたでしょう?」  そういったのはカルボンです。 「ええ、そんなときにはね、あたくし、『愛《あい》するお方《かた》にあいに行《ゆ》く』って答《こた》えましたの。そうすると、どんなこわい顔《かお》のスペイン兵《へい》も、おもちゃの兵隊《へいたい》のようにね、レースの飾《かざ》りのついた足《あし》をピンとのばし、帽子《ぼうし》の羽根《はね》かざりをユラユラさせながら、うやうやしく敬礼《けいれい》して通《とお》してくれましたわ」  うれしそうに話《はな》すロクサーヌの美《うつく》しい顔《かお》を見《み》ていると、誰《だれ》もかれも、おとぎ話《ばなし》でも聞《き》いているように、うっとりしていましたが、しかし、心《こころ》の中《なか》は、気《き》が気《き》ではありません。とうとうド・ギッシュがそれをいいだしました。 「ロクサーヌ。あなたは、しかし、大急《おおいそ》ぎでここから立《た》ちのかねばなりません。もう小《こ》一|時間《じかん》もすると、ここはものすごい戦場《せんじょう》になるんです」  それにつづいて、シラノやクリスチャンたちも、口《くち》をそろえてロクサーヌに立《た》ちのくようにすすめました。けれど、ロクサーヌは、ガンとして聞《き》きません。 「いいえ、あたくし、せっかくまいったのですもの、すぐ帰《かえ》るなんて、いやでございます」 「だって、ここは一ばん危険《きけん》な場所《ばしょ》なんだ。帰《かえ》ってください!」  そういうクリスチャンに、 「そんなら、なおさらはなれません。あたくし、あなたと一しょに死《し》にたい!」  と、その腕《うで》にすがりつくのです。  そのかたい決心《けっしん》に、青年隊員《せいねんたいいん》はすっかり感激《かんげき》してしまいました。 「よし、彼女《かのじょ》を守《まも》ってはなばなしく戦《たたか》おうじゃないか!」 「そうだ! 美《うつく》しき花《はな》の下《もと》、われ死《し》なん!」  若《わか》い隊員《たいいん》たちは大《おお》さわぎ、それシャボンだ、それカミソリだ、ブラシだ、鏡《かがみ》だと、夢中《むちゅう》になっておめかしをはじめます。  やがてド・ギッシュは、大砲《たいほう》の検査《けんさ》にいくといって、陣《じん》から出《で》ていきました。  そして、おめかしをすませたカルボンは、ロクサーヌからハンカチをもらって、槍《やり》の先《さき》にむすびつけ、 「これで中隊《ちゅうたい》の旗《はた》ができた!」  と大《おお》よろこび。  すると、一人《ひとり》の青年隊員《たいいん》が、 「こんなかわいいお顔《かお》をおがんだからにや、もう死《し》んでもいいんだが、せめてクルミ一《ひと》つでも食《た》べてからにしてえなあ」  と、ひとりごとをいいました。 「チョッ、なんだ、女神《めがみ》の前《まえ》で食《く》いものの話《はなし》なんか!……」  カルボンが怒《おこ》るのを、ロクサーヌは、 「でも、あたくしも、なんだかおなかがすいてまいりましたわ。みなさま、いかがでしょう……パンに、肉《にく》に、ブドウ酒《しゅ》と果物《くだもの》。これがあたくしのお献立《こんだて》よ。それをみんな持《も》ってきてくださいな!」  ああ、そんなものがどこにあるでしょう!……みんなが困《こま》ったように顔《かお》見《み》あわせていると、 「馬車《ばしゃ》の中《なか》にございますのよ」  その声《こえ》に、隊員《たいいん》たちは、ワーッと、ときの声《こえ》をあげました。 「それから、みなさま。もう少《すこ》し近《ちか》よって、あの馭者《ぎょしゃ》をごらんあそばせよ。どんなお料理《りょうり》でも、お望《のぞ》みしだいにできる、ちょうほうな男《おとこ》でございますから……」  いわれて、かけよってみると、すがたこそ変《かわ》れ、あの詩人《しじん》無銭飲食《むせんいんしょく》軒《けん》の主人《しゅじん》ではありませんか! 「やあ、ラグノオだッ」 「いよう、すばらしいぞ! ブラボー!」  ラグノオも、感激《かんげき》に目《め》をうるませて、馭者《ぎょしゃ》台《だい》の上《うえ》に立《た》ちあがり、 「これはこれは、みなさま、おなつかしうございます。では、これから、すばらしいごちそうをお目《め》にかけまあす」  そういって、いろいろな料理《りょうり》をとりだしながら、 「へい、まず第《だい》一に牛《ぎゅう》ロースのビフテキに、焼豚《やきぶた》……おつぎは見事《みごと》な鹿《しか》の股肉《またにく》……それから、松《まつ》たけ入《い》りの孔雀《くじゃく》もござる……赤《あか》ブドウ酒《しゅ》の色《いろ》はガスコン魂《だましい》…白《しろ》ブドウ酒《しゅ》は白《しら》ユリのような乙女《おとめ》のまごころ……さて、これなるクッションには、とびきりのソーセージがギッシリかくれておりまするウ!」  と、五、六|枚《まい》の大《おお》きなクッションを、パッと投《な》げだしました。 「ワーッ、ブラボー! ブラボー※[#感嘆符二つ、1-8-75]」  隊員《たいいん》はもう夢中《むちゅう》になって、飲《の》んだり食《た》べたり[#「食《た》べたり」は底本では「食《く》べたり」]、大《おお》さわぎ。ロクサーヌは、そのあいだを行《い》ったり来《き》たり、お給仕《きゅうじ》にてんてこまいです。  みんなの顔《かお》は見《み》るまに赤々《あかあか》とほてり、目《め》はいきいきとかがやいてきました。中《なか》には、あまりのうれしさにポロポロ涙《なみだ》を流《なが》しているものもあります。  ところが、クリスチャンだけは、どうしたのか、ちっとも食《た》べようとしません。ロクサーヌは心配《しんぱい》して、一|生《しょう》けんめいすすめます。  そのとき、槍《やり》の先《さき》にパンと肉《にく》をさして、土手《どて》の上《うえ》の歩哨《ほしょう》に渡《わた》していたル・ブレが、 「やっ、ド・ギッシュが来《き》たぞ!」  と、さけびました。すると、誰《だれ》かが、 「あんなやつに食《く》わせるな!みんなかくしちまえ。皿《さら》も、鉢《はち》も、かごも、びんも、大急《おおいそ》ぎでかくしてな、何食《なにく》わぬ顔《かお》をするんだぞ!」  その声《こえ》に、あたり一めんちらかっていた食器《しょっき》や食《た》べものは、たちまちテントの中《なか》や、マントのかげ、さては帽子《ぼうし》の下《した》や服《ふく》の中《なか》などに、かくされてしまいました。 「おや? ばかにいい匂《にお》いがするなあ!……」  もどってきたド・ギッシュは、鼻《はな》をクンクン鳴《な》らして、あちこち見《み》まわしています。 「おい、どうしたんだ。きさまは? まっ赤《か》な顔《かお》をしとるじゃないか」  隊員《たいいん》の一人《ひとり》にいうと、 「いや、こりゃ血《ち》ですよ。これから戦《たたか》うんですもの、まさに熱血 《ねっけつ》もゆるってとこでさあ」  また一人《ひとり》の隊員《たいいん》が、 「タララ、タララ、タラッタッタ……」  と陽気《ようき》に歌《うた》っているのを見《み》て、 「こいつ、酔《よ》っぱらっているな。何《なに》に酔《よ》ったんだ?」 「はッ、硝煙《しょうえん》のにおいに酔《よ》ったのであります」  まじめくさって答《こた》えたので、ドッと笑《わら》い声《ごえ》がまき起りました。  ド・ギッシュは、ブツブツいいながら、こんどはロクサーヌに、 「さあ、もう戦《たたか》いもすぐです。早《はや》くお立《た》ちのきください」  しかし、ロクサーヌがきっぱりと、 「いやでございます。あたくし、皆《みな》さまとごいっしょに戦《たたか》わせていただきます」  そういうのを聞《き》くと、ド・ギッシュも、キッと決心《けっしん》したように、 「そうですか。あなたがそんなにかたいご決心《けっしん》ならば、私《わたし》も、銃《じゅう》をとってふみ止《とど》まろう!」  と、いうではありませんか。 「なんだって?」  シラノをはじめ、隊員《たいいん》たちは目《め》をまるくしました。 「いや、これはこれは、見《み》あげたご勇気《ゆうき》というものですなあ」 「こうなっちゃあ、食《く》いものでもわけてやらざあなるめえ」 「さんせい! 異議《いぎ》なし!」  声《こえ》とともに、たちまち、あちこちから食《た》べものや飲《の》みものが、魔法《まほう》のように出《で》てきました。 「おッ、肉《にく》だあ! ブドウ酒《しゅ》も!……」  ド・ギッシュは目《め》を光《ひか》らせながら、手《て》を出《だ》そうとしましたが、あわててひっこめ、 「俺《おれ》が君《きみ》らのあまりものを食《く》うと思《おも》うか?」  と、肩《かた》をそびやかしました。 「えらくお変《かわ》りになりましたなあ!……まこと、美《うつく》しき婦人《ふじん》の力《ちから》こそ偉大《いだい》なりか……」  カルボンが、あきれたようにいうと、 「なーに、俺《おれ》は腹《はら》ペコだって戦《たたか》えるぞ!」  ド・ギッシュも、ようやくガスコン出身《しゅっしん》の軍人《ぐんじん》らしい意地《いじ》っぱりを見《み》せるのでした。  やがて、ド・ギッシュが、槍兵隊《そうへいたい》の閲兵《えっぺい》をするために、ロクサーヌをつれて土手《どて》の方《ほう》へいくと、青年隊《せいねんたい》たちもそのあとについて出《で》ていきました。そのすきに、シラノは、 「おい、クリスチャン、きさまがあの女《ひと》と話《はなし》をする前《まえ》に、きさまに内緒《ないしょ》で話《はな》しておきたいことがあるんだ」  そういって、クリスチャンの肩《かた》をだくのでした。 [#7字下げ]泣《な》き笑《わら》い[#「泣き笑い」は中見出し] 「なんだい、内緒《ないしょ》の話《はなし》って?」  クリスチャンがきくと、シラノは低《ひく》い声《こえ》で話《はな》しだしました。 「いや……ロクサーヌへやった手紙《てがみ》のことなんだ。あの女《ひと》はそのことで何《なに》かきさまに話《はな》すかもしれんが……実《じつ》は、きさまに頼《たの》まれたよりもよけいに、俺《おれ》は手紙《てがみ》を書《か》いていたんだ」 「えッ? どうしてそんなに書《か》いたんだい?」 「どうしてって……きさまの燃《も》える思《おも》いを察《さっ》してな、いちいち『手紙《てがみ》を書《か》くよ』なんて水《みず》くさいことはいわずに書《か》いたのさ」 「ふーん、一|週間《しゅうかん》にどのくらい書《か》いたんだい?……三|度《ど》か?……四|度《ど》か?……」 「どうして、どうして……」 「まい日《にち》かい?」 「そうさ、まい日《にち》……それも朝《あさ》と夜《よる》の二|回《かい》ずつだ」 「ふーん、それを毎朝《まいあさ》出《だ》しに行 (い》ってたのかい? こんなに包囲《ほうい》されちまってからも……」 「そうさ、夜明《よあ》け前《まえ》なら、わけはないんだ」 「まるで気《き》ちがいじみてるなあ!……もしや君《きみ》は、あの女《ひと》を……」  クリスチャンが何《なに》かいいかけたとき、ロクサーヌが土手《どて》の方《ほう》から小走《こばし》りにもどってくるのが見《み》えました。 「シッ、あの女《ひと》に知《し》られちゃ、いかんぞ!」  そういうと、シラノは、そそくさと自分《じぶん》のテントへ入《はい》ってしまいました。 「さあ、二人《ふたり》だけで、ゆっくりお話《はなし》しましょうよ。クリスチャン!」  ロクサーヌはクリスチャンのそばに、ヒタとよりそって坐《すわ》りました。クリスチャンは、その手《て》をしっかり握《にぎ》りしめながら、 「ロクサーヌ! 一|体《たい》どうして、こんなおそろしい所《ところ》へはるばるやって来《き》たんです? 僕《ぼく》はもう、心配《しんぱい》で心配《しんぱい》で……」 「ごめんなさいね! でも、この一月《ひとつき》のあいだ、あなたが下《くだ》さった美《うつく》しいお手紙《てがみ》に夢中《むちゅう》になって、とうとうがまんできなかったんですもの」 「なんだ、あんなつまらない手紙《てがみ》なんか……」 「そんなこと、おっしゃっては、いや! あたくし、心《こころ》からあなたを尊敬《そんけい》するようになりましたの。ほら、あのお別《わか》れした晩《ばん》、窓《まど》の下《した》から、やさしいお言葉《ことば》を聞《き》かして下《くだ》さったでしょう? あのときからですわ。  そのうえ、毎日《まいにち》、あたくしの身《み》も心《こころ》もとろかしてしまうようなお手紙《てがみ》を拝見《はいけん》して、ほんとに申《もう》しわけないと思《おも》いましたの。だって、あたくし、はじめのうちは、ただあなたの美《うつく》しいおすがたばかりをおしたいしていたのですもの……」 「えッ? そんなら、今《いま》は」 「今《いま》こそ、あなたの強《つよ》い美《うつく》しいお心《こころ》がわかったのです。あたくし、もう、ただ姿《すがた》かたちの美《うつく》しさなどに、心《こころ》をうばわれませんわ」 「ああ、ロクサーヌ!」  クリスチャンは、ギクッとしたように、手《て》をはなして、ロクサーヌからはなれようとしました。彼女《かのじょ》は夢中《むちゅう》でそれを追いながら、 「クリスチャン! あなたは、あたくしの気持《きも》ちがおわかりにならないのですわ。今《いま》こそ、あたくしは、前《まえ》よりも、もっともっと、心《こころ》からあなたを思《おも》っておりますのよ。たとい、おすがたはどんなに変《かわ》ろうとも……」 「もう、たくさんです」  クリスチャンは、燃《も》えるようなロクサーヌの言葉《ことば》をからだじゅうに受《う》けながら、なぜか苦《くる》しげな息 (いき》づかいをしています。 「あたくし、もう決《けっ》して、あなたのおそばをはなれませんわ。もし、あなたのおすがたの美《うつく》しさが一どきに消 (き》えてしまっても……」 「ああ、そんなこと、いわないで……」 「いいえ、あたくし、いいますわ」 「ほんとうに?……たとい、みにくくっても?」 「ええ、もちろん!……お誓《ちか》いします」 「ううーん、そうか……」 「ですから、あなたも喜《よろこ》んでくださいね!」 「え……え……」  クリスチャンは、もう息《いき》がつまって、一|刻《こく》もじっとしていられなくなり、ロクサーヌには、ちょっと用事《ようじ》があるといいおいて、シラノのいるテントの方《ほう》へかけていきました。 「おい、シラノ!」  クリスチャンのただならぬ声《こえ》に、シラノは戦闘《せんとう》のみごしらえで、テントから出《で》てきました。 「どうした、まっ青《さお》な顔《かお》をして……」 「なあ、シラノ。ロクサーヌは、もう俺《おれ》を愛《あい》しちゃいないんだ!」 「なんだと?」 「あのひとが愛《あい》しているのは、君《きみ》なんだ!」  だしぬけにいわれ、シラノはサッと顔色《かおいろ》をかえました。 「ば、ばかなことを、いうな!」 「いや、ほんとだ! 君《きみ》だってロクサーヌを愛《あい》しているんだ!」  じっとだまっているシラノに、クリスチャンはおしかぶせるように、 「知《し》ってるぞ。かくしたってだめだ」 「……うん……そのとおりだ!」  シラノは、やっと大《おお》きくうなずきました。 「気《き》ちがいのようになあ?」 「うん……それ以上《いじょう》かもしれん」 「シラノ、いつまでも影武者《かげむしゃ》でいないで、ひと思《おも》いにうちあけてしまえよ」 「いやだ! この面《つら》を見《み》ろ!」 「顔《かお》なんかどうだって、あのひとは愛《あい》するといったぞ」 「ほう、そうか!……」  シラノは、泣《な》き笑《わら》いのようにニンマリしながら、 「俺《おれ》は、その言葉《ことば》を聞《き》いただけで、まんぞくだ。しかし、俺《おれ》がきさまの手《て》つだいをしたことなんかどこまでも秘密《ひみつ》にしておくんだぞ。今《いま》のままで、そっとしておけよ」 「いや、たのむ! きれいさっぱり、あのひとにうちあけてくれ。そのうえで、あのひとが、どっちかをえらぶんだ」 「だめだ、だめだ、そんなに苦《くる》しめるなよ」 「俺《おれ》がいくら美男《びなん》だって、君《きみ》の幸福《こうふく》をうばっていいものか!」 「俺《おれ》だってそうだ。いくら文《ぶん》や弁舌《べんぜつ》がうまいからって、きさまの幸福《こうふく》を横《よこ》どりできるか!」 「そんなこといわないで、話《はな》してくれ。俺《おれ》たちの結婚《けっこん》なんか、人《ひと》にかくれて、立会人《たちあいにん》もなくやったもんだ。なんにもなりゃしないよ」 「ばかにがんばるなあ!」 「そうとも! 俺《おれ》だって、ありのままの自分《じぶん》を愛《あい》されたいんだ。さもなきゃ、なんにも愛《あい》されない方《ほう》がいい。まあシラノ、俺《おれ》はこれから歩哨《ほしょう》のところへ行《い》ってくる。そのまに君《きみ》はロクサーヌに話《はな》してくれ。そして、二人《ふたり》のうち、どっちがえらばれるか……」 「それァ、きさまの方《ほう》さ」 「俺《おれ》だって、そうなれりゃなあ!」  思《おも》いつめたクリスチャンは、いきなり、 「おーい、ロクサーヌ!」  と、大声《おおごえ》で呼《よ》びました。 「おい、よせ、よせ!」  シラノが、あわててとめましたが、早《はや》くもかけよってきたロクサーヌに、 「あのね、シラノがあなたに、何《なに》か大事《だいじ》な話《はなし》があるそうですよ」  そういうと、クリスチャンはすばやく土手《どて》の方《ほう》へ走《はし》っていくのでした。 [#7字下げ]クリスチャンの最期《さいご》[#「クリスチャンの最期」は中見出し] 「大事《だいじ》なお話《はなし》って、なんですの?」  ロクサーヌは、明《あ》かるくほほえみながら、シラノに話《はな》しかけました。 「いや、べつに……その……なんでもありませんよ」  シラノの返事《へんじ》は、しどろもどろです。 「あのひとは、あたくしのいったことを、ほんとうにしないのでしょう。それで……」 「だが……あなたは、ほんとうに思《おも》っていることを話《はな》したんですか?」 「もちろんですわ。たとい、あのひとが……」  いいかけて、ロクサーヌは、ふと口《くち》ごもりました。シラノの前《まえ》では、いいにくい言葉《ことば》なのに気《き》がついたのです。 「かまいませんよ」  と、シラノはさびしそうにほほえんで、 「たとい、みにくくっても…と、おっしゃるのでしょう?」 「ええ、あの、たといどんなに……みにくくても……」  そのとき、とつぜん、ダダダダーンと、一せい射撃《しゃげき》の音《おと》がひびきわたりました。 「あらッ、うちだしましたわ!」  しかし、シラノはそんな音《おと》など耳《みみ》にも入《はい》らぬように、夢中《むちゅう》になって、 「たとい、おそろしい顔《かお》をしていても?……どんなに妙《みょう》な顔《かお》でも?……そうなっても、まだあの人《ひと》を愛《あい》するというのですか?」  と、たたみかけるように聞《き》きました。そのたびに、やさしくうなずいていたロクサーヌは、 「そうなれば、なおさら、心《こころ》と心《こころ》がむすびあえますわ!」  と、きっぱりいうのでした。 (うむ、こりゃ本当《ほんとう》かも知《し》れんぞ! シラノ、勇気《ゆうき》を出《だ》せ!)  われとわが心《こころ》をはげましたシラノは、今《いま》こそ思《おも》いきってうちあけてしまおうと、 「ロクサーヌ……実《じつ》は……私《わたし》……」  そういいかけたとたん、土手《どて》の方《ほう》からル・ブレが血相《けっそう》かえて走《はし》ってきて、シラノに耳《みみ》うちしました。 「シラノ、クリスチャンが死《し》にそうだ!」 「な、なんだと?」 「シッ! さっきの一|齊射撃《せいしゃげき》でやられたんだ」 「ああ!」  シラノは、深《ふか》いためいきをつくばかり……。 「どうなさいましたの?」  心配《しんぱい》そうに聞《き》いたロクサーヌは、そのときまた起《おこ》った射撃《しゃげき》の音《おと》におどろいて、外《そと》の方《ほう》を見《み》ようと五、六|歩《ぽ》かけだしました。 「ああ、なんたることだ! なにもかも、おしまいだ! もうどうあっても、あのことを、うちあけられるものか!……」  シラノが、泣《な》きだしそうに、ひとりごとをいっているところへ、ロクサーヌがもどってきました。そして、土手《どて》の方《ほう》から、青年隊員《せいねんたいいん》たちが何《なに》かマントにくるんだものをかついでおりてくるのを指《ゆび》さしながら、 「どうしたんでしょう、あの方《かた》たち?」 「なんでもないですよ。かまわないでおきなさい」  シラノが腕《うで》をおさえて、とめたので、ロクサーヌは、そのままだまってしまいましたが、 「それはそうと、さっき、何《なに》をおっしゃろうとなすったの?」  ふと思《おも》いだしたように聞《き》くのでした。 「なあに、大《たい》したことじゃありませんよ……」  シラノはあわててうち消《け》し、すぐ言葉《ことば》をあらためて重々《おもおも》しくいいました。 「私《わたし》ははっきりいいます……クリスチャンの心《こころ》……クリスチャンの魂《たましい》は、じつにりっぱなものでありました」 「えッ、ありましたって?」  ロクサーヌは、ハッと気《き》づき、いきなりシラノの手《て》をふりはらって、こちらへ近《ちか》づいてくる青年隊員《せいねんたいいん》の中《なか》へわけ入《い》りました。そして、マントの中《なか》にねかされているクリスチャンのすがたを見《み》ると、 「ああ、クリスチャン!」  狂気《きょうき》のようにさけんで、身《み》をなげかけました。 「クリスチャン!……クリスチャン!……」  身《み》も世《よ》もなく泣《な》きむせぶその声《こえ》をかき消《け》すように、またも銃声《じゅうせい》や剣《けん》の音《おと》が、はげしくまき起 (おこ》ります。 「突撃《とつげき》だッ、銃《じゅう》をとれーッ!」  カルボン中隊長《ちゅうたいちょう》の号令《ごうれい》で、隊員《たいいん》たちは争《あらそ》って銃《じゅう》をとり、土手《どて》の方《ほう》へかけだしました。そのとき、ラグノオが鉄《てつ》カブトの中《なか》に水《みず》をくんできて、ロクサーヌに渡《わた》しました。 「ああ、ありがとう。この布《ぬの》を水《みず》につけて、ホータイしましょう」  ロクサーヌが、自分《じぶん》の服《ふく》を切《き》りさいているあいだに、シラノはクリスチャンの耳《みみ》もとに口《くち》をよせて、ひくい、しかし力強《ちからづよ》い声《こえ》でささやきました。 「クリスチャン、俺《おれ》はみんな話《はな》したぞ! それでも、あのひとの愛《あい》しているのは、きさまだぞ! わかったか?」  その声《こえ》が通《つう》じたのか、クリスチャンは口《くち》もとにニッとほほえみをうかべて、 「ロク、サーヌ!……」  かすかに呼《よ》びながら、目《め》をつぶりました。  ロクサーヌは、血《ち》の流《なが》れるクリスチャンの腕《うで》を一|生《しょう》けんめいホータイしはじめましたが、クリスチャンのようすが変《へん》なので、あわてて抱《だ》きすがり、頬《ほお》に手《て》をあてました。 「あッ、シラノさま。こんなに頬《ほお》がつめたくなって!……あっ、もうだめかしら?……」 「うむ、心臓《しんぞう》もとまった!」  脈《みゃく》を見《み》ていたシラノもさけびました。  またしばらく泣《な》きむせんでいたロクサーヌは、そのとき、クリスチャンの手《て》にしっかり握《にぎ》られているものを見《み》つけて、 「あ、お手紙《てがみ》! あたくしへの……」 「ああ、俺《おれ》の手紙《てがみ》だ……」  シラノは涙《なみだ》をこらえながら、ひくい声《こえ》でつぶやきました。  ロクサーヌは、いそいでその手紙《てがみ》を読《よ》み終 (おわ》ると、 「ああ、シラノさま……クリスチャンはなんてりっぱな、えらい方《かた》だったでしょう!」 「ほんとに……そうでした」 「世《よ》にもめずらしい詩人《しじん》でございましたわ!」 「ほんとに、そうでした」 「才気《さいき》すぐれた、情《なさけ》のふかい、美《うつく》しい魂《たましい》のもちぬしでしたわね」 「そうですとも、ロクサーヌ!」  涙《なみだ》にむせびむせび、そういうロクサーヌに、シラノはいちいち大《おお》きくうなずいていましたが、ついにがまんしきれなくなったロクサーヌが、またもクリスチャンの死骸《しがい》に身《み》を投《な》げふせるのを見《み》ると、 「ああ、ロクサーヌは、何《なに》も知《し》らずに、俺《おれ》のことを悲《かな》しんで泣《な》いているんだ。俺《おれ》はもう、死《し》ぬよりほかはない。さあ、行《い》け!」  ひとりつぶやきながら、サッと剣《けん》をぬきはなちました。  そのとき、遠《とお》くの方《ほう》からフランス軍《ぐん》のラッパの音《おと》がひびいたと思《おも》うと、顔《かお》を血《ち》だらけにしたド・ギッシュが、帽子《ぼうし》もかぶらず、土手《どて》の上《うえ》にあらわれて、 「みんな聞《き》けッ、合図 (あいず》のラッパだぞ! 本隊《ほんたい》が兵糧《ひょうろう》をもって助《たす》けにきたんだ! もうひと息《いき》だ、がんばれッ!」 と、大声《おおごえ》でさけぶのでした。  シラノは走《はし》りよって、 「閣下《かっか》! 閣下《かっか》は勇敢《ゆうかん》に戦《たたか》われました。こんどは、このひとを救《すく》って、のがれて下《くだ》さい!」  と、ロクサーヌを指《ゆび》さしました。 「よし来《き》た! だが、ここで踏《ふ》みこたえりゃ、こっちの勝《かち》だぞ!」 「心《こころ》えましたッ!」  走《はし》りかけたシラノは、ふと、ふり返《かえ》って、ド・ギッシュがラグノオと二人《ふたり》で、気絶《きぜつ》したロクサーヌをかかえてゆくのを見送《みおく》りながら、 「ロクサーヌ!……おさらばだ!」  そうさけぶと、猛虎《もうこ》のように土手《どて》の方《ほう》へ突進《とっしん》していきました。  敵《てき》はすでに土手《どて》のすぐ向《むこ》うまでおしかけてきたらしく、ワーッという喚声《かんせい》にまじって、 「降服《こうふく》しろ! あけ渡《わた》せ!」 と、いうさけびが聞《きこ》えてきます。  青年隊員《せいねんたいいん》は、勇敢《ゆうかん》に戦《たたか》っていますが、一人《ひとり》たおれ、二人《ふたり》傷《きず》つき、だんだんおいつめられてきました。 「がんばれえッ、ガスコーン! 一|歩《ぽ》も退《ひ》くなッ!」  シラノがさけびながら、土手《どて》の上《うえ》にかけあがろうとすると、血《ち》まみれになったカルボンにひきとめられました。 「むりだ、一|時《じ》退却《たいきゃく》しろ!」 「なにくそッ!」  シラノは、カルボンの手《て》から、ロクサーヌのハンケチのついた槍《やり》をうけとると、大《おお》きくふりまわしながら、味方《みかた》をはげましていましたが、こんどは、それを馬車《ばしゃ》のかげにつき立《た》てて、 「さあ。ロクサーヌの旗《はた》のもとで、一|曲《きょく》やれい!」 と、笛手《てきしゅ》に命《めい》じました。  あの年老《としお》いた笛手《てきしゅ》は、すぐさま笛《ふえ》を吹《ふ》きだしました。こんどは勇《いさ》ましい軍歌《ぐんか》です。それを聞《き》くと傷《きず》ついたものもまた起《お》きあがって、シラノと旗《はた》のまわりに集《あつ》まり、馬車《ばしゃ》をたまよけにして、最後《さいご》の力《ちから》をふりしぼるのでした。  そのとき、一人《ひとり》の隊員《たいいん》が、体《からだ》じゅうまっ赤《か》に血《ち》にそまって、土手《どて》をかけおりながら、 「敵《てき》が土手《どて》をのぼってきたッ!」  さけんだと思《おも》うと、バッタリ倒《たお》れました。 「ようし、かたきはとってやるぞ!うてッ、うてッ、うちまくれッ!」  シラノの声《こえ》に、隊員《たいいん》は死《しに》ものぐるいでうちまくりました。  が、敵《てき》の射撃《しゃげき》は、それ以上《いじょう》のはげしさで、さすがガスコンの荒武者《あらむしゃ》たちも、つぎつぎに倒《たお》れていきます。  しかし、その男 (おとこ》らしい戦《たたか》いぶりには、敵《てき》の隊長《たいちょう》も感動《かんどう》したのでしょう。一人《ひとり》の士官《しかん》が土手《どて》の上《うえ》に顔《かお》をつきだすと、帽子 (ぼうし》をとって、 「敵《てき》ながら、あっぱれなる武士《つわもの》、名《な》を名《な》のれ!」  と、さけびました。  シラノは、ニッコリ笑《わら》って、弾《たま》の雨《あめ》のまっただ中《なか》に突《つ》っ立《た》ちながら、いつかの詩《し》を高《たか》らかに吟《ぎん》じはじめました。 [#ここから3字下げ] これぞこれ ガスコンの青年隊《せいねんたい》 ひきいるは カルボン勇猛《ゆうもう》大尉《たいい》 隊員《たいいん》こぞって 無双《むそう》の剣客《けんかく》 こわいものなし やんちゃな連中《れんちゅう》 これぞこれ ガスコンの青年隊《せいねんたい》 ………… [#ここで字下げ終わり]  なおも口《くち》ずさみながら、シラノは剣《けん》をふりかぶって、むらがる敵《てき》のまっただ中《なか》へおどりこんでいきました。 [#7字下げ]美《うつく》しき修道尼《しゅうどうに》[#「美しき修道尼」は中見出し]  さしも烈《はげ》しかったアラスの戦《たたか》いも、シラノたちガスコン青年隊《せいねんたい》の奮戦《ふんせん》によって、ついにフランスの勝利《しょうり》に終《おわ》りました。  近衛《このえ》聯隊長《れんたいちょう》ド・ギッシュは、その功《こう》により、少将《しょうしょう》から中将《ちゅうしょう》、大将《たいしょう》と、トントンびょうしに出世《しゅっせ》していきましたが、足《あし》に弾《たま》きずをうけたシラノは、そのご軍人《ぐんじん》をやめ、詩人《しじん》として貧《まず》しい生活《せいかつ》をおくっていました。  一|方《ぽう》、愛《あい》する夫《おっと》のクリスチャンを失《うしな》ったロクサーヌは、戦《たたか》いが終《おわ》ると同時《どうじ》に、その死《し》を悲《かな》しんでパリにあるラ・クロア派《は》の修道院《しゅうどういん》に入《はい》ってしまいました。  それから早《はや》くも十四|年《ねん》。ロクサーヌは、つつましい修道尼《しゅうどうに》として神《かみ》さまに身《み》をささげ、クリスチャンの霊《れい》をなぐさめつづけてきたのです。  こうしたさびしいロクサーヌを、シラノは毎週《まいしゅう》土曜日《どようび》にかならずたずねて、やさしく、ほがらかに、いたわってやるのでした。  今日《きょう》は、ちょうどその土曜日《どようび》――。  折《おり》から秋《あき》のさなかで、美《うつく》しい芝生 (しばふ》におおわれた修道院《しゅうどういん》の庭《にわ》には、スズカケ、マロニエ、ツゲなどの落葉樹《らくようじゅ》がしげり、色《いろ》とりどりに紅葉《こうよう》して、絵《え》のような美《うつく》しさ!  まっ赤《か》に熟《う》れたブドウにからまれた柱廊下《はしらろうか》の上《うえ》には、礼拝堂《れいはいどう》の白壁《しらかべ》が、おくゆかしく眺《なが》められます。  庭《にわ》のまん中《なか》の大《おお》きなスズカケの木かげには、いつもロクサーヌが腰《こし》かけてする刺繍台《ししゅうだい》と小椅子《こいす》がおかれていますが、まだロクサーヌのすがたは見《み》えません。そのかわり、そばのベンチに、三、四|人《にん》の修道尼《しゅうどうに》が教母《きょうぼ》のマルグリットをかこんで、夕暮《ゆうぐ》れのいこいの一《ひと》ときを楽《たの》しんでいました。 「ねえ、教母《きょうぼ》さま。クレールさんは二|度《ど》も鏡《かがみ》を見《み》て、頭布《ずきん》をなおしていらっしゃいましたよ」  まだ若《わか》い修道尼《しゅうどうに》のマルトが、その告《つ》げ口《ぐち》をすると、クレールも負《ま》けてはいずに、 「マルトさんだって、けさアンズを食《た》べていらっしゃいましたわ。私《わたし》、見《み》たんです」  と、やりこめます。年《とし》よりの教母《きょうぼ》は、笑いをこらえながら、 「どちらも、おぎょうぎが悪《わる》いですね。今日《きょう》はちょうどシラノさんのおいでになる日《ひ》ですから、二人《ふたり》ともいいつけますよ」  それを聞《き》くと、クレールもマルトも、びっくりして、 「まあ! ごめんなさい。これから気《き》をつけます。そんなことをおっしゃられては、シラノさまになんてからかわれるか、わかりませんもの」  と、あやまりました。  シラノがここへたずねてくることは、ロクサーヌにとってはもちろん、ほかの修道尼《しゅうどうに》たちにとっても、何《なに》より待《ま》ちどうしい楽《たの》しみなのでした。 「ほんとに、シラノさまは、おどけた方《かた》ですのね。あの方《かた》がいらっしゃると、とっても面白《おもしろ》うございますわ」 「でも、男《おとこ》らしい、いい方《かた》ね。私《わたし》たち、あの方《かた》が大好き!」  ほかの修道尼《しゅうどうに》たちも、シラノのうわさになると大《おお》さわぎです。 「あの方《かた》、いつも土曜日《どようび》にいらっしゃると、きまって私《わたし》におっしゃるのよ。『わしは昨日《きのう》の禁肉日《きんにくび》に肉《にく》をたべたぜ』なんて……」  マルトがいうと、教母《きょうぼ》はふしんげに、 「おや、そんなことを?……へんですねえ、あの方《かた》はとても貧《まず》しくて、こないだなんか二|日《か》も何《なに》も食《た》べなかったって、ル・ブレさんが話《はな》しておりましたよ」 「まあ! 誰《だれ》も助《たす》けてあげないのですか」 「ええ、あの人《ひと》はとても意地《いじ》っぱりでするの、そんなことをしようものなら、カンカンに怒《おこ》ってしまいますよ」  そんなことを話《はな》しあっているとき、柱廊下《はしらろうか》につづくマロニエの並木道《なみきみち》から、黒《くろ》いやもめ[#「やもめ」に傍点]のかぶりものを頭《あたま》にかけたロクサーヌが、一人《ひとり》の派手《はで》な服装《ふくそう》をした軍人《ぐんじん》とならんで、しずかに歩《ある》いてくるのが見《み》えました。 「ああ、ロクサーヌさんがお客《きゃく》さまを案内《あんない》していらっしゃいました。私《わたし》たちはもう引《ひ》きあげましょう」  立《た》ちあがった教母《きょうぼ》に、マルトが、 「あのお客《きゃく》さまは、二、三カ月前《げつまえ》にいらしたド・ギッシュ元帥《げんすい》でしょう?」 「そう……宮中《きゅうちゅう》、社交界《しゃこうかい》で、いまを時《とき》めく公爵《こうしゃく》さまですよ」 「ロクサーヌさんに、おぼしめしでもあるのかしら?……」 「しッ、そんな失礼《しつれい》なことを!……」  教母《きょうぼ》は、わざとこわい顔《かお》でたしなめながら、修道尼《しゅうどうに》たちをつれて、別《べつ》の道《みち》のほうへ歩《ある》いていきました。  刺繍台《ししゅうだい》のそばまで来《く》ると、ロクサーヌは静《しず》かに立《た》ちどまりました。十四|年《ねん》の月日《つきひ》は、さすがに彼女《かのじょ》の顔《かお》をいくぶん老《ふ》けさせましたが、その大《おお》きな目《め》は、昔《むかし》ながらに美《うつく》しくかがやいています。  それにくらべると、ド・ギッシュはすっかり年老《としお》いた感《かん》じで、ただ、たくさん勲章《くんしょう》をつけた金《きん》ピカの元帥服《げんすいふく》だけが、えらそうに見《み》えます。 「では……あなたはどうしても、美《うつく》しい金髪《きんぱつ》を黒《くろ》いベールにつつんだまま、ずっとここにおられるつもりですか?」  ド・ギッシュの問《と》いに、ロクサーヌは強《つよ》くうなずきました。 「ええ、クリスチャンの魂《たましい》をまもって、いつまでもここに住《す》むつもりでございます」 「死《し》んでしまっても、まだ、あの男《おとこ》を愛《あい》しているのですか?」 「そうですわ。あの方《かた》はほんとうに亡《な》くなられたのではなく、あの方《かた》の心《こころ》がいつもあたくしのまわりに生《い》きているように思《おも》われますの。あたくしは、今《いま》でも、あの方《かた》の最後《さいご》の手紙《てがみ》を、ありがたいお守《まも》りのように、この黒《くろ》の喪服《もふく》の中《なか》にしまっているのでございます」  ド・ギッシュは、つまらなそうな顔《かお》で、しばらくだまっていましたが、 「それで……シラノは、ときどきやってくるのですか?」 「ええ、土曜日《どようび》ごとに、かならず来《き》てくださいます。あたくしがここで刺繍《ししゅう》をしておりますと、六|時《じ》の鐘《かね》が鳴《な》って、その最後《さいご》の音《おと》と一しょに、あの人《ひと》が杖《つえ》をついて、あの石段《いしだん》をおりてくる音《おと》が聞《きこ》えます。あたくしが、ふりむきもしないでおりますと、そこの椅子《いす》に腰《こし》をおろして、冗談《じょうだん》をいいながら一|週間分《しゅうかんぶん》の新《あたら》しい出来事《できごと》をおもしろおかしく話《はな》してくださるのです」  ロクサーヌが楽《たの》しそうに話《はな》しているとこへ、ふいにル・ブレが石段《いしだん》をかけおりてきました。このル・ブレも、シラノと一しょに軍隊《ぐんたい》をやめてから、ずっと弁護士《べんごし》をやっているのですが、今《いま》でもシラノと親《した》しくつきあって、ときどき一しょにロクサーヌのところへ来《く》るのです。 「あら、ル・ブレさん……お従兄《にい》さまは、どうなすって?」  ル・ブレは、むかしの上官《じょうかん》だったド・ギッシュに軍隊式《ぐんたいしき》の敬礼《けいれい》をしてから、 「それがね、ロクサーヌさん。からだの工合《ぐあい》がどうもよくないんですよ」 「まあ、ほんとうですか?」  ロクサーヌは、意外《いがい》な面《おも》もちです。 「何《なに》もかも、私《わたし》が前《まえ》からいってたことが、ほんとうになってしまったのです。すっかり落《お》ちぶれて世《よ》の中《なか》から見《み》すてられているのに、まだ自分《じぶん》の気《き》にくわないインチキ貴族《きぞく》や、強《つよ》がり武士《ぶし》や、ニセモノ作家《さっか》などを、片《かた》っぱしからやっつけるんですからね」 「でも、あの人《ひと》の剣《けん》には、みんな恐《こわ》がっていますからねえ」 「私《わたし》の心配《しんぱい》するのは、その《けん》と《けん》のはたしあいではない、孤独《こどく》や、うえ死《じに》ですよ。貧《まず》しい部屋《へや》へ、こっそり忍《しの》びこんでくるこの冬《ふゆ》の寒《さむ》さ、それが何《なに》より恐《おそ》ろしいんです。毎日《まいにち》のように、帯皮《おびかわ》の一穴《ひとあな》ずつ、腹《はら》がやせていく……あいつはもう黒《くろ》の古着《ふるぎ》一|枚《まい》しか持《も》っていないんですぜ」  ド・ギッシュは、シラノの落《お》ちぶれた話《はなし》を聞《き》いて、あわれむどころか、うすら笑《わら》いさえうかべて、 「そんなことは、なげくには当《あた》らんよ。あいつは自分《じぶん》から出世《しゅっせ》したがらないんだ。自分《じぶん》の思《おも》うとおり、なんの遠慮《えんりょ》もなく、勝手《かって》気《き》ままにふるまってきたんだからなあ。……では、ロクサーヌさん、またお目《め》にかかりましょう」 「そこまで、お送《おく》りいたしますわ」  ロクサーヌに送《おく》られて、正門《せいもん》の方《ほう》へもどりかけたド・ギッシュは、何《なに》を思《おも》ったか、急《きゅう》にひきかえしてきて、ル・ブレにささやきました。 「な、君《きみ》、シラノはみんなからひどく憎《にく》まれているぞ。きのうも女王《じょおう》のご殿《でん》でカルタ会《かい》があったとき、誰《だれ》かがおれに、シラノのやつは思《おも》わぬことで変死《へんし》するだろうっていってたよ。あんまり外《そと》へ出《で》ないように、せいぜい用心《ようじん》してやるんだな」 「えッ、そうですか? あいつは今日《きょう》ここへやってくるんです。じゃあ、さっそく知《し》らせて来《こ》なきゃあ……」  ル・ブレが、あわてて駈《か》けだしていくと、裏門《うらもん》に通《つう》ずる石段《いしだん》を、ころげおちるように駈《か》けおりてきた者《もの》があります。 「ああ、ラグノオじゃないか!」 「おッ、せ、せんせい! 大変《たいへん》です!」  ラグノオは息《いき》せききって、声《こえ》をふるわせています。何《なに》やら重大《じゅうだい》な事件《じけん》が起《おこ》ったようす……。 [#7字下げ]ちりゆく落葉《おちば》[#「ちりゆく落葉」は中見出し]  ロクサーヌの馭者《ぎょしゃ》になって戦場《せんじょう》へいったラグノオは、ロクサーヌが修道院《しゅうどういん》入《い》りをしてから、一|度《ど》は作家《さっか》になろうとしましたが、それもうまくいかず。歌《うた》うたいから風呂屋《ふろや》の三|助《すけ》、役者《やくしゃ》、寺男《てらおとこ》、テオルブの先生《せんせい》と、いろいろな職業《しょくぎょう》を転々《てんてん》として、今《いま》もみじめな暮《くら》しをしながら、シラノのことは少《すこ》しも忘《わす》れず、いまでも時々《ときどき》たずねて、ひとりぼっちの貧乏《びんぼう》なシラノのめんどうを見《み》ているのでした。  そのラグノオが、大変《たいへん》だというのは?…… 「実《じつ》はね、さっきシラノさまをおたずねしたところが、ちょうどあの方《かた》が出《で》ていかれる後《うしろ》すがたを見《み》かけたんです。わしが追《お》いつこうと思《おも》って、かけだしていくとね、どこかの二|階《かい》家《や》の窓《まど》からだしぬけに材木《ざいもく》の切《き》れっぱしが落《お》ちてきたんですよ」 「えッ、それで※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」  ル・ブレは目《め》をみはりました。 「それがね、あんた、あろうことか、シラノさまの頭《あたま》にあたってね、一ぺんでぶっ倒《たお》れなすった!」 「死《し》んだのか?」 「いいえ、死《し》にやしませんがね……わしは急《いそ》いで、あの方《かた》の家《いえ》へかつぎこんだんです。そしてね、いやがる医者《いしゃ》をやっと一人《ひとり》呼《よ》んできて、みてもらったところがね。脳出血《のうしゅっけつ》とかなんとかいってね、頭《あたま》にグルグルほうたいをまいたきりで、行《い》ってしまいました。わしはもう、心配《しんぱい》で心配《しんぱい》で、大急《おおいそ》ぎでロクサーヌさまに知《し》らせに来《き》たんですよ」 「そりゃ大変《たいへん》だ! しかしロクサーヌには、まだ話《はな》さない方《ほう》がいい。ともかく、すぐ行《い》ってみよう。こっちの近道《ちかみち》から……」 「ええ、そう願《ねが》えりゃ……何《なに》しろ枕《まくら》もとには誰《だれ》一人《ひとり》いないんですからねえ、もし起《お》きあがったりしたら、きっと助《たす》かりませんよ」  二人《ふたり》は、手《て》をとりあうようにして、かけだしました。  そのとき、ド・ギッシュを送《おく》って、もどってきたロクサーヌは、二人《ふたり》のうしろすがたを見《み》つけて、 「ル・ブレさーん!」  と、呼《よ》びました。  が、二人《ふたり》が何《なに》も答《こた》えずに、逃《に》げるようにとんで行《い》くのを見《み》ると、ふしんげに、 「おかしな方《かた》……どうして知《し》らん顔《かお》で行《い》ってしまうのかしら……」  つぶやきながら、自分《じぶん》の刺繍台《ししゅうだい》に腰《こし》をおろしました。  まっ赤《か》な秋《あき》の陽《ひ》が、むこうの森《もり》かげに沈《しず》んでゆくにつれ、そのタ《ゆう》ばえをうけて、木々《きぎ》の紅葉《こうよう》の色《いろ》が一そうあざやかに浮《う》きあがってきます。礼拝堂《らいはいどう》のいただきにある銀《ぎん》の十|字架《じか》も、赤《あか》くキラリと光《ひか》っています。  やがて、その礼拝堂《らいはいどう》の大時計《おおどけい》が、カーン、カーンと、ゆるやかな時《とき》をうちはじめました。 「あ、時計《とけい》が鳴《な》りだした……もう、そろそろ見《み》えるころだわ……」  ロクサーヌは、ハリやユビヌキを手《て》にして、仕事《しごと》のしたくをしながら、ひとりごとをいっています。 「あら……もう時計《とけい》が鳴《な》り終《おわ》ったのに……どうしたんでしょう……十四|年《ねん》ぶりに、はじめて遅《おく》れるのかしら……」  そのとき、さっきのマルトという修道尼《しゅうどうに》が石段《いしだん》の上《うえ》にあらわれて、 「ベルジュラックさまが、お見《み》えでございます」  と知《し》らせました。が、ロクサーヌは、いつものように、わざとふりむきもせず、にこやかにうなずきながら、刺繍《ししゅう》をやりだしました。  石段《いしだん》をおりてきたシラノは、ツバのひろい帽子《ぼうし》を、まぶかくかぶっていますが、その顔色《かおいろ》は、気味《きみ》のわるいほど、まっ青《さお》です。そして、歩《ある》くのがいかにも苦《くる》しそうに、ツエにすがりながら、そろりそろりと石段《いしだん》をおりてきました。  ロクサーヌは、シラノがうしろに近《ちか》よってきたことを知《し》りながら、けれど、なおもふりむかず 「シラノさま……もう十四|年《ねん》にもなりますけれど、これがはじめてでございますわ。お遅《おく》れになったりして!……」  と、やさしく叱《しか》るような口調でいいました。  シラノは、フラフラと、ようやくひじかけ椅子《いす》のところまでたどりついて腰《こし》をおろすと、血《ち》の気《け》のない顔色《かおいろ》ににあわず、陽気《ようき》な声《こえ》で、 「そうです。まったく、けしからん! 私《わたし》のかがやかしい記録《きろく》のじゃまをしたりして……」  と、へんなことをいいだしました。 「どうなさいましたの?」 「出《で》さきに、とつぜん訪問《ほうもん》をうけたんです」  ロクサーヌは、気《き》にもとめず、仕事《しごと》をつづけながら、 「おや、うるさい男《おとこ》の方《かた》でも?」 「ところがね、病魔《びょうま》という、うるさい女《おんな》なんですよ」 「あら……それで、おことわりなさいましたの?」 「ええ、こういってね――『失礼《しつれい》だが、今日《きょう》はちょうど土曜日《どようび》で、どうしても行《い》かねばならん所《ところ》がある。一|時間《じかん》もしたら、またおいでを願《ねが》いたい』……」 「ホホホ……でも、今日《きょう》は、晩《ばん》までお帰《かえ》しいたしませんことよ」  ロクサーヌが気《き》がるにいうのに、シラノは親《した》しみをこめて、 「しかし、今日《きょう》は、もう少《すこ》し早《はや》く、おいとまをするかも知《し》れませんよ」  そういうと、苦《くる》しそうに、じっと目《め》をつむりました。  そのとき、さっきのマルトが向《むこ》うを通《とお》りかかるのを見《み》たロクサーヌは、 「また、マルトさんをおからかいになるんでしょう?」 「ええ、もちろん!」  ハッと、元気《げんき》に目《め》をあいたシラノは、大《おお》きなおどけた声《こえ》で、 「やよ、マルト姫《ひめ》、近《ちこ》う、近《ちこ》う!……うるわしの、おとめはいつも伏目《ふしめ》がち、か……」 「また、あんなことを……」  恥《はず》かしそうに目《め》を伏《ふ》せながら近《ちか》よってきたマルトは、ふと、シラノの顔色《かおいろ》を見《み》て、びっくりしたように、 「まッ!」  と、ひくいさけび声《こえ》をあげました。  シラノはあわてて、ロクサーヌの方《ほう》を指《ゆび》さしながら、だまっていてくれと、手《て》であいずをしてから、わざとらしい大声《おお》をだして、 「わしはなあ、きのうの禁肉日《きんにくび》に、たらふく肉《にく》を食《く》ったよ!」  と、いつものじょうだん口《ぐち》をたたくのです。 「わかっておりますわ」  マルトは、ほほえみながら、ふと、シラノが何《なに》も食《た》べないので、あんなに青《あお》い顔《かお》をしているのではないかと考《かんが》えて、 「もうじき夕食《ゆうしょく》になりますから、食堂《しょくどう》へおいであそばせ。大《おお》きなおわんで、スープをさしあげますから」  やさしくそういうと、食堂《しょくどう》の方《ほう》へ去《さ》っていきました。  シラノはしばらく、仕事《しごと》をしているロクサーヌのうしろすがたを、じっと見《み》つめていましたが、そのとき、そよ風《かぜ》が吹《ふ》いて、ハラハラと木《こ》の葉《は》がちるのを見《み》ると、 「やあ、落葉《おちば》か……」  と、ポツンといいました。  ロクサーヌは顔《かお》をあげて、遠《とお》い並木《なみき》の方《ほう》をながめやりながら、 「落《お》ちる木《こ》の葉《は》は金髪《ブロンド》色《いろ》……ほら、あんなにちっていますわ」 「ほんとに美《うつく》しく散《ち》ってゆくなあ!……枝《えだ》から地面《じめん》までの短《みじか》い旅《たび》だが、最期《さいご》の美《うつく》しさをわすれないのが、じつにいい。ちりゆく命《いのち》に光栄《はえ》あれというところだなあ!」  シラノは、はかなくちってゆく落葉《おちば》に、まざまざと自分《じぶん》のすがたを感《かん》じて、つい、しんみりといってしまいました。 「まあ、シラノさまともあろう方《かた》が、悲《かな》しみごとをおっしゃるのですか?」  ロクサーヌは、いつもシラノの強《つよ》い、おおしいところだけを見《み》ていたので、シラノの言葉《ことば》が思《おも》いもよらなかったのです。 「いや、大《おお》ちがいです。私《わたし》は、木《こ》の葉《は》なんぞに何《なに》も心《こころ》をうばわれませんよ」 「そうですわ。スズカケの葉《は》なんか、いくら落《お》ちてもかまいません。それよりシラノさま、いつもの新聞《しんぶん》を聞《き》かしてくださいませよ。何《なに》か新《あたら》しいニュースでもありまして?」  そういって、ロクサーヌは、何《なに》より楽《たの》しみにしているシラノの週間《しゅうかん》ニュースをさいそくするのでした。 [#7字下げ]秘密《ひみつ》はついに![#「秘密はついに!」は中見出し] 「では、シラノ週報《しゅうほう》にとりかかるかな……」  口《くち》では元気《げんき》にいいながら、シラノの顔色《かおいろ》はますます青《あお》く、肩《かた》でせつなげに息《いき》をしています。一《ひと》つ大《おお》きく深呼吸《しんこきゅう》をすると、じっと痛《いた》さをこらえるように目《め》をつむりながら、話《はな》しだしました。 「先週《せんしゅう》の土曜《どよう》、十九|日《にち》……国王《こくおう》は大好物《だいこうぶつ》の糖果《とうか》をめし上《あが》ること八|回《かい》におよび、ついにご発熱《はつねつ》、しかし、二|回《かい》のお針治療《はりちりょう》で、なんなくおなおりになった……」 「まあ、よろしうございましたね」 「日曜《にちよう》……王妃《おうひ》ご主催《しゅさい》の大舞踏会《だいぶとうかい》で、一|夜《や》に大《だい》ローソク七百六十三|本《ほん》を使《つか》いはたす。……ダティス夫人《ふじん》の愛犬《あいけん》は、胃腸《いちょう》を害《がい》し、ついにカンチョーを受《う》けなければならなくなった……」 「シラノさま、少《すこ》しおぎょうぎが悪《わる》うございますよ」  ロクサーヌは笑《わら》いをこらえて、おこったような顔《かお》をしました。  シラノは、ますます苦《くる》しそうな表情《ひょうじょう》で、 「月曜《げつよう》、火曜《かよう》、事件《じけん》なし……水曜《すいよう》、宮中《きゅうちゅう》の人《ひと》びと、すべてフォンテンブローに遊山《ゆさん》……木曜《もくよう》、マンシニ夫人《ふじん》、フランス女王《じょおう》になった――かのように見《み》えた。金曜《きんよう》、禁肉日《きんにくび》に、肉《にく》を食《た》べた男《おとこ》あり。……そして今日《きょう》の土曜《どよう》、二十六|日《にち》……」  いかけて、シラノは、がまんできないように目《め》をつぶり、ガックリ首《くび》をたれました。  急《きゅう》に声《こえ》がしなくなったので、ロクサーヌははじめてうしろをふりむき、シラノのようすを見《み》るとハッと立《た》ちあがって、 「シラノさま! どうなさったんです?」  さけびながら、シラノの椅子《いす》にかけより、帽子《ぼうし》のかげをのぞきこみました。 「な、なんですって?……なにかいいましたか?」  シラノは、自分《じぶん》を見《み》つめているロクサーヌに気《き》がつくと、あわてて帽子《ぼうし》を正《ただ》し、椅子《いす》に坐《すわ》りなおしながら、 「な、なんでもないんです……大丈夫《だいじょうぶ》……ご心配《しんぱい》くださるな!」 「でも……なんだか、とてもお苦《くる》しそうですわ」 「ア、アラスの古傷《ふるきず》が……時々《ときどき》……思《おも》いだしたように、いたむんです。が、大丈夫《だいじょうぶ》。……もう、よくなりました」  シラノは、むりに笑顔《えがお》をつくって見《み》せました。 「あの戦争《せんそう》では、あなたも、あたくしも、おたがいに傷《きず》をうけましたわねえ。あたくしの傷《きず》は、いまでも、ここに生《い》きておりますわ」  ロクサーヌは胸《むね》に手《て》をあてて、首《くび》からさげた小《ちい》さなふくろをおさえながら、 「ここに、肌身《はだみ》はなさず、あのお手紙《てがみ》を持《も》っております。血《ち》と涙《なみだ》のあとが残《のこ》っている、あのお手紙《てがみ》を……」 「ああ、あの手紙《てがみ》ですね。いつか、もしかしたら読《よ》ませてくださるといった……」  いつのまにかトップリと暮《く》れてきた夕闇《ゆうやみ》の中《なか》で、シラノの目《め》が急《きゅう》にかがやきました。 「お読《よ》みになりたいの? あの方《かた》のお手紙《てがみ》を……」 「ええ、読《よ》んでみたい……今日《きょう》こそは!」 「では、どうぞ、お読《よ》みになって……」  ロクサーヌは、首《くび》からふくろをはずして、シラノに手《て》わたすと、また仕事台《しごとだい》のところに来《き》て、針《はり》や糸《いと》をせっせと小箱《こばこ》へしまいにかかりました。 「ロクサーヌよ、さらば、さらば……」  シラノは、声《こえ》をあげて、ゆっくりと読《よ》みはじめます。 「いよいよ花《はな》とちる、最後《さいご》のときが来《き》ました。思《おも》えば、なつかしき君《きみ》よ! まだあなたを慕《した》うこの心《こころ》のすべてを語《かた》りつくさぬうちに、早《はや》くも死《し》にゆく命《いのち》とは!……」  仕事《しごと》の片《かた》づけをしながら、その読《よ》みぶりを聞《き》いていたロクーサヌは、思《おも》わずハッと手《て》をとめました。なんだか、どこかで聞《き》いたことのあるような言葉《ことば》つきなのです。  ロクサーヌは、遠《とお》い日《ひ》のことを思《おも》いだすような目《め》つきをしながら、そっと、シラノのそばへ寄《よ》ってきました。  それとも知《し》らず、シラノは声《こえ》高《たか》らかに読《よ》みつづけて、 「ああ、今《いま》はこの目《め》で、あなたの優《ゆう》にやさしいおすがたを見《み》まもることさえ、かなわぬ願《ねが》いとはなりました。けれど、いつもあなたがなさった、しとやかなお身《み》ごなし……お手《て》をひたいにかるくあてられるおすがたなど、一《ひと》つ一《ひと》つ目《め》の前《まえ》にうかんでまいります。たとえ、ここからは聞《きこ》えなくとも、今《いま》こそ声《こえ》をかぎりにお別《わか》れをさけびたいのです……」 「おお、あのお声《こえ》は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]……」  ロクサーヌは、ふと思《おも》いだして、胸《むね》がドキドキ鳴《な》ってきました。 「さらば、さらば!ゆかしき君《きみ》! なつかしの君《きみ》! たとえこの身《み》は死《し》にはてるとも、あなたを思《おも》う心《こころ》は、とこしえに変《かわ》りません……」 (ああ、このお声《こえ》は、今《いま》はじめて聞《き》くお声《こえ》ではない! あたくしの胸《むね》に、深《ふか》く深《ふか》く、しみこんでいる、あのお声《こえ》!……)  ロクサーヌは、胸《むね》をふるわせながら、シラノのうしろにしのびよって、そっと手紙《てがみ》をのぞきこみました。けれど、あたりはもうすっかり暗《くら》くなって、文字《もじ》など読《よ》めようはずがありません。それなのに、シラノは、ロクサーヌがそらでおぼえているとおり、一|字《じ》一|句《く》もまちがえず、読《よ》んでゆくではありませんか。 「シラノさま!」  ロクサーヌは、思《おも》わずシラノの肩《かた》に手《て》をかけました。 「こんなに暗《くら》いのに、どうしてお読《よ》めになりますの?」  その声《こえ》に、びっくりしてふり返《かえ》ったシラノは、すぐまぢかにロクサーヌの顔《かお》を見《み》、同時《どうじ》にあたりの暗《くら》さに気《き》がついて、ハッと口《くち》をつぐんだまま、うなだれてしまいました。  今《いま》こそロクサーヌは、シラノが自分《じぶん》をこんなにも愛《あい》していたのをはじめて知《じ》ったのです。  もうまったく暮《く》れはてた闇《やみ》の中《なか》で、ロクサーヌは両手《りょうて》をじっとくみあわせたまま、静《しず》かにいうのでした。 「シラノさま……この十四|年《ねん》のあいだ、あなたは、あたくしのために、変《かわ》らないごしんせつをつくして下《くだ》さったのでございますねえ!」 「いいえ、ロクサーヌ……」  シラノは、首《くび》をたれたまま、消《き》えいるような声《こえ》で答《こた》えます。 「あのご出征《しゅっせい》の晩《ばん》、あたくしにお話《はなし》くだすったのは、あなただったのでございますね」 「ちがいます!……私《わたし》ではない」 「いいえ、いま思《おも》い返《かえ》してみると、よくわかりますわ。そして、あのアラスの戦《たたか》いの中《なか》を、毎日《まいにち》いただいたお手紙《てがみ》……あれもやっぱりあなただったのでございますわ」 「ちがいます!……ちがいます!」 「あの、なつかしくも狂《くる》おしいお言葉《ことば》……それもみんなあなたのでございました」 「いいや、ちがいます! ぜったいに……」 「あたくしを、ほんとうに愛《あい》してくださったのは、あなたでございます!」  シラノは、身《み》もだえしながら、 「いや、それは、もう一人《ひとり》の男《おとこ》です」 「いいえ、あなたでございますわ」 「ち、ちがい……ます……」 「そういうお声《こえ》に、もうお力《ちから》がございませんわ」  ロクサーヌは、シラノの声《こえ》が急《きゅう》に弱々《よわよわ》しくなったのは、けが[#「けが」に傍点]のためとは少《すこ》しも知《し》らず、しんみりといいつづけるのでした。 「思《おも》えば、いろいろなことが、あらわれては消《き》えていきましたわ。……十四|年《ねん》という長《なが》いあいだ、あなたは、なぜ、だまっていらしたのでしょう?………あの方《かた》は、このお手紙《てがみ》とは、なんの関係《かんけい》もないではございませんか。この涙《なみだ》のあとこそ、あなたのでございます」 「この、血《ち》のあとは……あの男《おとこ》のです」  やっとそういいながら、シラノは手紙《てがみ》をロクサーヌに返《かえ》しました。 「それなら、このとうとい秘密《ひみつ》を、なぜ今日《きょう》になってお破《やぶ》りになったのでございます?」 「破《やぶ》ったって?……」  シラノが、ハッとしたように顔《かお》をあげたときです。 「あッ、いたぞ! いたぞ!!」  さけびながら、石段《いしだん》をかけおりてきた者《もの》がありました。 [#7字下げ]剣豪《けんごう》の心意気《こころいき》![#「剣豪の心意気!」は中見出し]  かけこんできたのは、いうまでもなくル・ブレとラグノオです。近道《ちかみち》を行《い》った二人《ふたり》は、シラノと行《い》きちがいになって、今《いま》まであちこちさがしていたのでした。 「シラノ! なんて無茶《むちゃ》なことをするんだ!」  ル・ブレは、心配《しんぱい》のあまり、大声《おおごえ》でさけびました。  親友《しんゆう》の二人《ふたり》だとわかると、シラノはまた急《きゅう》に元気《げんき》になって、 「なーに、家《うち》に寝《ね》てたら、そのままおだぶつさ」  と、笑《わら》っています。 「ねえ、ロクサーヌさん。シラノさまは大《おお》けがをなさってね、起《お》きていちゃあ、命《いのち》があぶないんですよ。わしらはいま、お見舞《みま》いにいったんですがね、どこで行《い》きちがったか、寝床《ねどこ》はもぬけのからで……」  ラグノオの言葉《ことば》に、ロクサーヌはおどろいて、 「えッ! では、今《いま》しがた、あの、ガックリお弱《よわ》りになったのは?……」  と、シラノにとりすがりましたが、シラノは、ケロリとしたように、 「うん、そうだ! 私《わたし》の週報《しゅうほう》は、まだ終《おわ》っていなかった。……さて、土曜日《どようび》……千六百五十五|年《ねん》九|月《がつ》二十六|日《にち》、シラノ・ド・ベルジュラック氏《し》は、ついに暗殺《あんさつ》にたおれた!」  そういうと、シラノは静《しず》かに帽子《ぼうし》をぬぎました。その頭《あたま》は、赤黒《あかぐろ》く血《ち》のにじんだホータイで、いたいたしく巻《ま》かれてあります。 「まあッ そのおけがは※[#感嘆符疑問符、1-8-78]……一|体《たい》、どうなさったんです?」  ロクサーヌのおろおろ声《ごえ》に、シラノは平然《へいぜん》としていうのでした。 「相手《あいて》にとって不足《ふそく》のない勇者《ゆうしゃ》の名剣《めいけん》をこの胸《むね》にうけて、花々《はなばな》しい討死《うちじに》をしよう……そう願《ねが》っていた私《わたし》だが……運命《うんめい》は皮肉《ひにく》だ……ごらんのとおり、すがたも分《わか》らぬ卑怯者《ひきょうもの》に、それもうしろから、材木《ざいもく》をなげつけられて殺《ころ》されるなんて!……私《わたし》は、何《なに》もかも失敗《しっぱい》だった。死《し》ぬときまでも!……」 「ああ、先生《せんせい》!……」  ラグノオが、ポロポロ涙《なみだ》をこぼすのを見《み》て、シラノはその手《て》をとりながら、 「ラグノオ、泣《な》くなよ。失敗《しっぱい》だったが、愉快《ゆかい》なときもあったじゃないか……ところで、このごろは、何《なに》をやって暮《く》らしている、え、兄弟分《きょうだいぶん》?」 「は、はい……モリエールの劇団《げきだん》で、ローソクのしん[#「しん」に傍点]……しん[#「しん」に傍点]切《き》りをしております」 「なに、モリエールだって?」 「はい、でも、明日《あす》にでも、あんなとこ出《で》てしまいます。ほんとにわしは、腹《はら》がたって腹《はら》がたって……きのうもブルゴン座《ざ》で『スカパン』をやったとき、あいつが先生《せんせい》のお作《さく》の一|場《ば》をそっくり盗《ぬす》みやがって……」  ラグノオが、にぎりこぶしで涙《なみだ》をふくと、そばのル・ブレも、歯《は》をくいしばって、 「そうなんだ。君《きみ》のあの有名《ゆうめい》な『一|体《たい》ぜんたい、どう魔《ま》がさして……』という、セリフまで盗《ぬす》んだんだ」  と、うったえました。 「ふむ、それで、あの一|場《ば》はどうだった? うけたかい?」 「ええもう、見物《けんぶつ》はおなかをかかえて大笑《おおわら》い……大《だい》かっさいでしたよ」  それを聞《き》くと、シラノはほっとしたように、 「うむ、それでいいんだ……俺《おれ》の一|生《しょう》は、人《ひと》をよくしてやって、自分《じぶん》は忘《わす》れられる運命《うんめい》だったんだ。いわば、縁《えん》の下《した》の力《ちから》もちさ」  そして、ロクサーヌの方《ほう》をむいて、 「ねえ、ロクサーヌ。おぼえているでしょう、クリスチャンがバルコニーの下《した》で、あなたと話《はなし》をしたあの晩《ばん》のことを……。私《わたし》が下《した》の暗《くら》やみにかくれていると、ほかの男《おとこ》が上《うえ》へのぽっていって、またとない幸福《こうふく》をかちえたんです……しかしそれも当然《とうぜん》だった……私《わたし》はこの世《よ》を去《さ》るにのぞんで、はっきり認《みと》めますよ――モリエールは天才《てんさい》で、クリスチャンは美男《びなん》だった、とね」  そのとき、聖堂《せいどう》の方《ほう》から、夜《よる》の礼拝《れいはい》を知《し》らせる鐘《かね》の音《ね》が、おごそかに聞《きこ》えて、向《むこ》うの道《みち》を、大《おお》ぜいの修道尼《しゅうどうに》たちが、つつましく通《とお》っていくのが見《み》えました。 「あ、どなたか、早《はや》く来《き》て!」  ロクサーヌが呼《よ》びながら、かけだそうとするのを、シラノは静《しず》かにひきとめて、 「ロクサーヌ、誰《だれ》も呼《よ》びに……いかないでください。あなたが帰《かえ》ってくるころには……私《わたし》は、もうこの世《よ》には……いないでしょう」  やがて、礼拝《れいはい》がはじまったらしく、清《きよ》らかなオルガンの曲 《しらべ》が聞《きこ》えてくると、 「ああ、最期《さいご》のときに音楽《おんがく》がほしいと思《おも》っていたが、それも折《おり》よく聞《き》かしてもらえる。ありがたいなあ!」  と、じっと耳《みみ》をかたむけるのでした。  ロクサーヌは、がまんできないようにシラノの手《て》にすがって、泣《な》きむせびながら、 「シラノさま、そんなことをおっしゃらないで……どうぞ、生《い》きていらしって!……あたくし、あなたを、心《こころ》のそこから、おしたいしております」 「いや、それはいけません! 私《わたし》はこのとおり……みにくい山《やま》ザルですよ」 「ああ、そんな……あなたのふしあわせは、あたくしのためでございます。あたくしが、おろかで気《き》がつかなかったばかりに……」 「とんでもない! 私《わたし》は小《ちい》さいときから……女《おんな》の人《ひと》のやさしさを知《し》らなかった。母《はは》でさえ、私《わたし》をみにくい子《こ》だと思《おも》っていたんです……それに、妹《いもうと》もいなかった。大《おお》きくなってからも……自分《じぶん》のみにくさのために、女《おんな》の人《ひと》がこわかった。ただ、ただ……あなたがおられたからこそ、少《すくな》くとも、一人《ひとり》の女《おんな》友《とも》だちをもつことができたんです」  そのとき、こんもりしげった庭《にわ》の木《き》の間《あいだ》から、美《うつく》しい月《つき》の光《ひかり》がさしてきました。ル・ブレは、それをシラノにさし示《しめ》して、 「ほら、あそこに、君《きみ》のもう一人《ひと》の女性《じょせい》の友《とも》が会《あ》いにきた!」  シラノは、月《つき》をあおいで、ニッコリ笑《わら》いながら、 「うん、なつかしきお月《つき》さまのお迎《むか》えだ。今《いま》はもう、月《つき》へのぼる秘法《ひほう》なんか考《かんが》えなくてもいい。このまんま、すみきった月《つき》の世界《せかい》へ一《ひと》とびだあ!」 「なんでございますって?」  ロクサーヌが、ふしんげに目《め》をみはると、 「なーに、あのね。私《わたし》は月《つき》が大好《だいす》きなんで、死《し》んだらあそこへ行《い》くつもりなんです……あそこには、私《わたし》の好《す》きな人《ひと》たちがたくさんいる……きっと、哲学者《てつがくしゃ》のソクラテスや、天文学者《てんもんがくしゃ》のガリレオにも会《あ》えるでしょう」  シラノはのんきにいっていますが、少年《しょうねん》時代《じだい》からの親友《しんゆう》ル・ブレはもう、いても立《た》ってもいられぬ思《おも》いで、 「ううむ! ほんとに情《なさけ》ないことだ! こんなにすぐれた、偉大《いだい》な天才《てんさい》が、こんな死《し》にかたをするなんて! ざんねんだ!」  と、男泣《おとこな》きに泣《な》きだしました。 「ル・ブレ! 相変《あいかわ》らず文句《もんく》をいってるな」 「ああ、シラノ! 僕《ぼく》は君《きみ》がたまらなくなつかしいよ! 僕《ぼく》は、君《きみ》のために本《ほん》を書《か》こう。こんな野心《やしん》のない、清《きよ》い心《こころ》の持主《もちぬし》で、すばらしい才能《さいのう》の人間《にんげん》が、この地上 (ちじょう》にいたということを、どうしてだまっていられるものか!」  じっと聞《き》いていたシラノは、急《きゅう》にフラフラと立《た》ちあがって、ぼんやり、目《め》を見《み》ひらきながら、 「これぞこれ、ガスコンの青年隊《せいねんたい》か……さてと、物質《ぶっしつ》の本体《ほんたい》とは?……うん、こいつは大問題《だいもんだい》だぞ……」  と、へんなことをいいだしました。  ル・ブレも、ロクサーヌも、ラグノオも、今《いま》はもう、シラノをそっと見守《みまも》っているよりほかに、手《て》の下《くだ》しようがありません。死《し》ぬことが分《わか》っていても、人《ひと》に助《たす》けてもらったりすることが大《だい》きらいなシラノです。 「なあ……一|体《たい》ぜんだい、どう魔《ま》がさして……一|体《たい》ぜんたい……いや、こいつはもう、俺《おれ》の言葉《ことば》じゃなくなった……」  シラノは、わけのわからないことをいうと、こんどは、はっきりした言葉《ことば》で、墓碑銘《ぼひめい》のような郎興《そっきょう》の詩《し》を吟《ぎん》じはじめました。 [#ここから3字下げ] 哲学者《てつがくしゃ》 また天文学者《てんもんがくしゃ》 詩人《しじん》 剣客《けんかく》 また音楽家《おんがくか》 この世《よ》の奇型児《きけいじ》 皮肉《ひにく》の名人《めいじん》 さらにまた無慾《むよく》な 愛《あい》の殉教者《じゅんきょうしゃ》 シラノ・ド・ベルジュラック ここに眠《ねむ》る…… [#ここで字下げ終わり]  そして、倒《たお》れるように腰《こし》をおとすと、 「だが、もう行こう……月《つき》の光《ひかり》が迎《むか》えにきたから、そう待《ま》たしておけまい……」  そういって、ガックリ首《くび》をたれましたが、ロクサーヌのはげしい泣声《なきごえ》で、ハッと気《き》がついたように、ロクサーヌのかぶっているヴェールを、やさしくなでながら、 「私《わたし》、あなたにお願《ねが》いがある……それは、あの愛《あい》らしくも善良《ぜんりょう》だったクリスチャンのために、いつまでも祈《いの》っていただきたい……そして、もし私《わたし》が死《し》んだら、どうか、この黒《くろ》いヴェールの中《なか》に、二人《ふたり》のたましいを包《つつ》んで……私《わたし》のためにも、ほんのちょっぴり祈《いの》ってください」 「ええ、ええ、神《かみ》かけて、おちかいします!」  涙《なみだ》ながらにロクサーヌが答《こた》えたとき、とつぜん、シラノはブルブルッとはげしく体《からだ》をふるわせながら、スックと立《た》ちあがりました。  三|人《にん》が、あわててシラノのまわりに走《はし》りよると、 「いや、助《たす》けてもらうまい……この木《き》で、たくさんだ!」  と、スズカケの木《き》によりかかって、 「死神《しにがみ》が、やってきたぞ!……つめたい石《いし》の靴《くつ》をはかせたな……重《おも》いナマリの手袋《てぶくろ》も、はめやがった……わかるぞ、わかるぞ……」  そして、はげしい苦痛《くつう》をこらえながら、 「や、待《ま》て……せっかく死神《しにがみ》がやってきたんだから、こっちも立《た》って、迎《むか》えてやるか」  そういうと、スラリと腰《こし》の剣《けん》をぬいて、ふりかぶりました。 「あッ、シラノ!」 「シラノさま!」  そばの三|人《にん》が、おびえたように、あとずさりするのに、シラノは目《め》もくれず、 「おお、死神《しにがみ》めが、おれの鼻《はな》を見《み》ていやがる……見《み》たきゃ見《み》ろ。この鼻《はな》なし亡者《もうじゃ》め!……おや、そこにいる奴《やつ》らは、何《なに》ものだ? 千|人《にん》だって? ふふん、わかった! むかしの仇《かたき》どもだな……こいつめッ!」  いうなり、右《みぎ》に左《ひだり》に剣《けん》をふり廻《まわ》しはじめました。  もう、シラノは、ただの人《ひと》ではありません。いや、肉体《からだ》はもう死《し》んでいるのですが、魂《たましい》の力《ちから》だけで、最後《さいご》の『剣《つるぎ》の舞《まい》』を舞《ま》っているのです。 「えいッ、こいつらッ! 虚偽《うそ》の亡者《もうじゃ》め! 卑怯《ひきょう》、見《み》え坊《ぼう》、慾《よく》ふかの亡者《もうじゃ》めッ!……おれは戦《たたか》うぞ! 最後《さいご》まで、きさまらと戦《たたか》うぞ!」  シラノの剣《けん》は、月《つき》の光《ひかり》にキラキラと光《ひか》って、いなずまのようにひらめきます。  ロクサーヌも、ル・ブレも、ラグノオも、目《め》をみはり、両手《りょうて》をふるわして、じっと見《み》まもるばかり……。  やがてシラノは、苦《くる》しそうに息《いき》をついて、 「おお……きさまらは、俺《おれ》のものを、みんな取《と》るつもりだな……桂《かつら》のかんむり、バラの花《はな》も……取《と》るなら取《と》れ! だがな、たった一《ひと》つ、きさまらにゃ、なんとしても取《と》れない、すばらしいものを俺《おれ》はあの世《よ》へ持《も》っていくんだ!……いよいよ神《かみ》のふところへ入《はい》るとき、何 (なに》はなくともこれだけは、はばかりながら、鼻《はな》たかだかと出《だ》してみせらあ! ほかでもない、それァ……」  いいながら、高《たか》く剣《けん》をかざしておどり上《あが》ったシラノは、つぎの瞬間《しゅんかん》、ポロリと剣《けん》をおとし、ヨロヨロとよろめいて、かけよったル・ブレとラグノオの腕《うで》の中《なか》に、バッタリ倒《たお》れてしまいました。  それを見《み》たロクサーヌは、思《おも》わずその上《うえ》に身《み》をかがめ、そっとそのひたいに、最初《さいしょ》で最後《さいご》の接吻《せっぷん》をしながら、 「それは?……シラノさま!」  と、ききました。  シラノは、またフッと目《め》をあいて、それがロクサーヌとわかると、かすかにほほえみながら、 「それァ……私《わたし》の……心意気!……」  そういったきり、満足《まんぞく》げに死《し》んでいきました。 底本:「悲劇の騎士(少年少女世界の名作・92)」偕成社    1968(昭和43)年10月1日発行 ※「家《いえ》」と「家《うち》」、「故郷《こきょう》」と「故郷《ふるさと》」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。