平凡に、平凡に 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)編者《へんしゃ》と |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)の家庭|行事《ぎょうじ》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] -------------------------------------------------------  はじめに断っておきたいと思う。徳川夢声氏がこれの編者《へんしゃ》となって、題して『親馬鹿読本』というそうだと聞いたとき、それは近頃の親利口《おやりこう》と相照してみるのにいいことだろう、タイトルも面白いし、などと傍観的に書肆《しょし》の企画を大いにほめたりおだてたりしたものである。  ところが後日、それは自分も執筆《しっぴつ》しなければならない破目《はめ》にたち至って、正直、ぼくは後悔した。元々、親という観念《かんねん》などは、無意識界のものであって、あらたまって自分が親であるということなど自省《じせい》してみることは、ぼくにはめったにないからである。いわんや、わが親馬鹿の反省をや、と云いたいくらいなもので、人の親馬鹿ばなしとのみ思っておもしろがっていた事が自分の事にスリ変《か》えられて来たからだった。むろん、自分も世にいう親馬鹿の一人であることは否《いな》みえない。  聞くところによると、夢声氏などは、私をさして親馬鹿のチャンピオンの如く見ているという。そういわれても、決して悪い気がしないのはどうも妙《みょう》である。そこがつまり親馬鹿であるところかもわからない。だが、かつて、あらためて自分では触《ふ》れたことのない盲点のような気もして、この課題には興味と逡巡《しゅんじゅん》が半々というのが正直な本音である。何か、話にも活字にもならないものが本性《ほんしょう》であるにちがいない。しいて云うならば、それが私の親馬鹿というものか。 [#7字下げ]亡き父の思出[#「亡き父の思出」は中見出し]  いまでも、はっきり私の記憶《きおく》している少年時代の家庭|行事《ぎょうじ》のひとつに、赤ン坊が生れたさいの、名づけの儀式《ぎしき》があった。儀式というと、大げさすぎるが、どこの家でもしている、また、どこの親馬鹿もいろいろ苦労する出生児の名を選《えら》ぶあのお七夜の、名づけ祝いに過ぎないのである。  妹やら弟やら私は兄弟が七人もいた。私は長男格だった。だから、後から後から生れて来る赤ン坊の半数ほどは母のお産まで知っている。そして、それらのわが家の新参《しんざん》の名前選びもおおかた自分が手にかけた。といって何も、子供の自分が、選名《せんめい》したわけでない。つまり誰かに代ってクジを引いてやっただけだ。父母の郷土《きょうど》のしきたりだろうか、それとも父か母の発案だったのか、嬰児《えいじ》の名前をつけるお七夜の朝になると、父は早朝から机に倚《よ》って、こうき辞典などを繰《く》りひろげ、頻《しき》りに文字を選んでいる。そして、いくつもの名を書いて、コヨリに縒《よ》る。それをお盆か何かにのせて、高い神棚の上におく。手伝いに来ている親戚《しんせき》の誰かが、花屋から榊《さかき》を買って来て上げたり、台所で赤の御飯を炊《た》いたりしている。まだ産褥《さんじょく》にいる母も、この朝のその明るい顔といったらない。  やがて長男の私は、親父《おやじ》に抱きあげられてクジの一本を引くのであった。父の力にさしあげられている自分、それから何となく何本かのクジの穂《ほ》を見つめる自分、この記憶はとても強く残っている。が、私の取りたいものでよかった。一本取って下ろされる。みんながお膳《ぜん》で待っている。そして母もほかの弟妹《ていまい》たちも一しょになって、コヨリを開けて見るのだった。そこで、赤ン坊の名が女なら、「やあ、何子ちゃんだ」とか、男なら「やあ、何助だぞ」とか決まるのである。小さい仲間の系列《けいれつ》に、新しく一個の名をもったものが加わるという実感は、そんな小儀式でひどく自分らの先輩感を確認《かくにん》させた。それからオカシラ付きといっても、ほんの目刺《めざし》か何かだが、とにかく、人生の仲間入りをした赤ン坊のために、オカシラ付きで赤の御飯に豆腐《とうふ》の味噌汁などをガチガチ愉《たの》しみあい、もの珍らしげな祝福《しゅくふく》をし合うのだった。  父は小田原、母は佐倉《さくら》の出身で私は横浜生れのせいか、今の私の家庭では、そういうこともしていない。だが、親馬鹿のそもそも初歩《しょほ》は、この赤ン坊の選名から始まるらしい。知人《ちじん》の間でも、まだ生れてもいないし、生れるのが男か女かも分りもしない三月も前から、もう掌中《しょうちゅう》辞典などを常にポケットに入れて、電車にのると、子供の名前を考えている父親がある。現に自分が奥多摩《おくたま》にいた頃、よく原稿《げんこう》のことで東京からやって来る朝日出版局のOさんなどがそれだった。何でも活字を見るとすぐ子供の名に頭がいってしまうのだそうで、それも男女の二つの用意が要《い》るといって、女房のお産を待ちくたびれたと云っていた。これで見ると、世には、こういう若い父の親馬鹿の例《れい》も少くないのみならず、親馬鹿とは、すでに子という形態《けいたい》がない以前から始まるものであるようだ。  それから又、親馬鹿|現象《げんしょう》は、伝統のものであるとは立派《りっぱ》にいえるだろう。私の親馬鹿は親の親馬鹿をうけついだものにちがいない。先に云ったお七夜の朝の例にしても、大酒家で、気むずかしやで、箸《はし》よりほか何も持たないといったような不精《ぶしょう》な父が、その朝だけは、自分で硯《すずり》を洗って清書《せいしょ》したり、母に冗談をいったり、日頃の煙ったい風貌《ふうぼう》はどこにもなかった。そして、或る一朝《ひとあさ》の愉しい明るい記憶だけが、何十年の後まで子の自分らに残されている。 「教育とは云わないが、つまりいい教育をしてたんだよ、その頃の親たちはね」  誰かが、私のはなしに、そんな意味《いみ》のことを云ってくれた。いいか悪いか、そして現代にそれが当てはまるか否《いな》かは別として、この中には何かがある。最低《さいてい》に考えても、その朝が愉しかった事だけはまちがいない。クジはいいが、神棚というと現代人のあたまには、へんな方に理解《りかい》され易いが、戦争中にいやというほど概念《がいねん》づけられたあの押しつけな神と、その頃の庶民《しょみん》の家庭にあった神棚とは、たいへん違うように思う。水瓶《みずがめ》やカマドのある台所にも、荒神様《こうじんさま》の棚があった。また火除《ひよけ》の御礼が貼ってあった。つまり家庭のしめくくりとか、清潔《せいけつ》な精神とかいう意味の祭壇《さいだん》として、健康を祈ったり、子供の入学を祝ったり、無病《むびょう》を願ったりしていたものにすぎないと思う。云うならば、神も人間《にんげん》家族《かぞく》の一員として、棚の上にいたのである。だからそこに明りがつくと、家じゅうが清潔になり、何か、みんなの顔もほのぼのとしたものだった。けれど、こういう素朴《そぼく》な暮し方は、今の私はしていないし、又、わが子にさせようとも思ってもいない。ただ古いかつての親たちの中にも、なかなかおもしろい暮《くら》しの仕方があったものだと、折《おり》には思い出してみる。そして、さて今はと自問自答《じもんじとう》してみることもないではない。  貧乏人の長男には極《きま》っていると云っていい宿命《しゅくめい》が懸《かか》っている。長男の責任というものはその頃の常識《じょうしき》でもある。いやも応もなく、自分が一家の支柱《しちゅう》になったという意識をもったのは、それからずっと後だった。父が事業で失敗しぬき、最後には体もすっかりいけなくなってから、あいにく私はそろそろ働ける年頃になっていた。父は十年以上も病床についたきりで、家はどん底生活に落ちていた。私の下の鼻たらしの弟や妹たちも、そろそろ学校へ行き初めたものの、学校の月謝《げっしゃ》もなかなか払えないという状態だった。  ある日、茶の間のひと時だった。小さい弟や妹たちもみんないた。そのとき、父が私に向ってひどく謙虚《けんきょ》に――子供に謙虚などという風な父ではなかったが、あらたまって、少し沁々《しみじみ》と、こういったことがある。「もう俺《おれ》もちょっと回復《かいふく》出来ないだろうよ。これから先、みんなは、兄さんをお父さんだと思って仲よく勉強し合ってゆきなさい。お前もまだ小さいのに気の毒だけれども、親になったつもりでこの下の小さい者たちをどうか見ていってくれ」という意味のことだった。父は特に私へ委嘱《いしょく》するような気もちで云ったらしい。私には自分の小っぽけな体に、それがどんな重荷《おもに》のものやら、その前途がどんな大へんなものかなどは、理解《りかい》する力もなかったし、父のことばも実感《じっかん》にはもてなかったのだが、同時に理屈も何もないのである。ただ「はい」と云って、顔の涙をこすった事だけは覚《おぼ》えている。忘れえない。  そんなわけから、私は早くから一家の生計《せいけい》を負って、小学校を高等二年でやめ、行商《ぎょうしょう》、少年活版工、丁稚《でっち》、日傭《ひやとい》、ドックの船具工などのいろんな職と経験《けいけん》をもった。けれど悲惨《ひさん》とか悲しいとかいう気はなぜか少しもしなかった。無我《むが》夢中だったのかもしれない。だから回顧《かいこ》だけでその頃を考えることになる。生きるため乗りこえてきた波を振返ることは、その波が大きければ大きいほどむしろ愉快《ゆかい》なものだ。そして、人間の記憶は都合《つごう》よくできている。あたたかな思い出とか、逆境《ぎゃっきょう》の中でもうれしかったこととか、いい事の方がより強くいつ迄も、印象《いんしょう》に残っているものだ。  たとえば、その頃の日雇|賃銀《ちんぎん》で三十五銭ぐらいもらって帰る。家にたどりつく頃はもう暗くなっているが、その三十五銭がたちまち、米となり、鮭《さけ》のアラとなり、ランプの石油となり、父の好きな煙草《たばこ》となり、ともかく母や妹の手で、あたたかな晩飯となって、それが幾つもの飯茶碗《めしぢゃわん》と弟妹たちの掻《か》っ込むよろこびとなるとき、こんなうれしい働きがいと生きている感じは、人生の長途にもなかなか持とうと思ってもめったに持てるものじゃない。ドック会社の船具工になったときは、もう私も十八歳になっていたので日給四十二銭はもらい、夜業《やぎょう》するとたしか割増《わりまし》もあって一時間五銭ぐらいになった。だから深夜《しんや》の帰り途に、必ず起きていてくれる母に今川焼ぐらいは買って帰られた。また、給料日には、前よりもいくらか重い給料袋《きゅうりょうぶくろ》を母へ渡してやることもできた。私が初めて、それを貰《もら》って来て両親に渡したとき、病床の父が、その状袋《じょうぶくろ》を拝んだ姿が眼に沁《し》みて自分も眼を熱くしたことがある。――といったように、辛《つら》いことや悲しさよりも、今ではなつかしい事のみ振返られてしまうのである。  よく人が、「苦労《くろう》しましたね、あなたも」なんて、私を苦労人|扱《あつか》いしてくれるが、そんなことも自分では正直、感じていないのである。もっとも、苦労という意味を浅く単純《たんじゅん》に考えれば、世間人の多くはみな、世の中で自分がいちばん苦労している者みたいに考えているらしいものである。底がないのも人間の苦労だし、上の方とばかりに比較《ひかく》して不足を考えることが苦労そのものだと思っている人もあるようだ。云い更《か》えれば、人さまざま、苦労も持ちようというものかもしれない。  父は病床生活十何年もの間、当然、生計《せいけい》のために働くということはほとんどしなかった。多少、健康に近づいた期間もつねに端然《たんぜん》と貧乏長屋の一室に坐《すわ》っていた。寝そべったり、あぐらをくんだりしないで、どんなボロの単衣《ひとえ》でも垢《あか》のつかない、そして、ぴんと糊《のり》のきいたのを着て、膝《ひざ》を真四角に坐っていた。不潔《ふけつ》がきらいであり、礼儀を崩すことがひどくやかましいのである。どうかして、銭湯《せんとう》へ出かけるにも、母が石齢やお湯銭をちゃんと置いて、また穿《は》き物《もの》までを揃えて、礼儀正しく送り出さなければ、気に入らない父であった。それでいて、朝には晩《ばん》の、晩にはあしたの朝のお米がなかった。何もかも、母のやりくりや母の丹精《たんせい》で私たちは育てられたわけだが、父は亡くなるまで、父の威厳《いげん》みたいなものをちっとも崩さなかった。死ぬまで父の咳ばらいは家中の子供をわけもなく肅然《しゅくぜん》とさせていた。  その父は、私が二十七のとき、日本橋浜町の家で亡《な》くなった。私は出京して生計の道を得、子供たらも多少《たしょう》大きくなっていたから父には割合に安心させて、最後迄見ることができた。でも、そういう父につれそっていた母だけに、父が逝《ゆ》くとほんとにがっかりしたのであろう。それからわずか三年後に、母も亡くなった。家は、向島の植木畑という所で、幸田露伴《こうだろはん》さんのお家のそばだった。  この母を亡くしたとき、私はほんとに慟哭《どうこく》した。父には、ある時には、叛逆《はんぎゃく》を感じるものだが、母の一粒《ひとつぶ》の涙には、どんな事も忍《しの》ばれたものである。何度か家を飛出そうとしたこともあるが、その都度《つど》、母にひとこと云われると、思いとまった。それと母ほど、何かをよろこんでくれるものはない。些細《ささい》な子の心持でも、無上《むじょう》によろこんでくれるということが、子の私には堪《たま》らなかった。――だから母が死んだ後、私は東京毎夕新聞社に入って、向島《むこうじま》から通っていたが、夜勤《やきん》などして夜おそくあの長い向島|堤《ずつみ》を帰ってくるうちに、途中でつい母の好《す》きな食物《たべもの》などウカと買ってしまうのであった。母はもう世にいない人であることを、いつのまにか長い夜道《よみち》に忘れているのである。そして、わが家の門口《かどぐち》を這入《はい》るとたんに「ああもう居なかったのだ」と、気のつくことが何度もあった。  私は、あらぬ事を語《かた》っているようだ。私に与えられている課題は、私の親馬鹿だった。両親の親馬鹿を回顧《かいこ》せよ、というのではなかったのに、どうも少々そっちへ親馬鹿の名を転嫁《てんか》していたようである。以下、自分の親馬鹿の方へ移ることにする。  これをみてもわかる事は、人間は親の立場《たちば》であるよりは、幾つになっても子の立場で親をあげつらったり甘《あま》えたりしていた方がいいものらしい。事実その方がたいへん気楽であり愉《たの》しいのだろう。  だが、考えてみると、自分ももうそんな事をいっていられる年ではない。普通なら孫《まご》を抱いている筈だが、私は晩婚《ばんこん》でみな四十以後の子供である。二男二女四人の子があり、長男が高校三年、末女がまだ五つ、女房もまだ若い。従って今や自分は父親|修養《しゅうよう》の最中というところである。  この父親は、自分の前代《ぜんだい》の父母からは、何らかの型《かた》を受け嗣《つ》いでいない。いまの子供らと、祖父母の間には、私というもので完全に遮断《しゃだん》されている。それほど、いつかしら変った「家」となっているが、然《しか》しこれは、わが家ばかりの事ではあるまい。日本中の家々がそうなのであろう。なぜなら、こう変って来た原動力《げんどうりょく》は、個人の意思によるというよりも、時の推移《すいい》に必然されたものだからである。国の変革《へんかく》、社会や生活、思考《しこう》の変りかたは、当然、今の親たちをも大きく変らせないではおかない。  然しこの家庭という個人《こじん》意思《いし》の創造《そうぞう》がほしいままにできる自由の国では、たとえば亭主関白の横暴《おうぼう》ぶりでも、女権《じょけん》尊重《そんちょう》なんていう事でも、おいそれとは実行されているとは思われない。ところが、女房に対するよりも、子供らに対しては、どこの父親も、時代の推移とてらし合せて、大いに慎重《しんちょう》な自省と考慮《こうりょ》を払っているようである。そもそもその反省考慮からして、まず第一歩の新しき親馬鹿の時代をぼくらは作りかけているのかもしれない。 [#7字下げ]我家のしつけ[#「しつけ」に傍点][#「我家のしつけ」は中見出し]  子供に面とむかって、私は小うるさいことは一|切《さい》いわない主義である。放縦《ほうじゅう》主義ではないが、私自身、こまかい指図《さしず》や小言じみたことをいうのが嫌《きら》いなのだ。よく現代の父親が「子供とは、良き友人のようにやっている」という人もあるが、どうも友人とも思われない。やっぱりわが子はわが子である。だから三年に一度か、四年に一度ぐらいの割合《わりあい》で、ぼくは彼らに青天《せいてん》ヘキレキ的な大喝《だいかつ》をくらわせることもある。そしてやるからには、三十分間ぐらい、屋鳴|震動《しんどう》するほど徹底的に怒りつける。子供だけでなく責任者として女房も一しょに叱りつける。もちろん、誰の眼にも断然《だんぜん》悪いとわかり切った行為をやった場合に限っている。本人にとっても、「こいつは、よくない」とはっきり分っているときにやるのが肝腎《かんじん》なのだ。そう分っているなら何も大落雷《だいらくらい》を示す必要はないようなものだが、そうじゃない。この一回で三年分ぐらいの効果《こうか》をあらしめるためなので、なるべく問題は家族にも当人にも咀嚼《そしゃく》し易《やす》い方がいいのである。善悪の判定とか矯正《きょうせい》などはぼくには二義的でよろしいのだ。  この式でやって来たせいか、この両三年間は、わが家の子供らは、おやじのお小言なるものを、おそらく一ぺんも聞いていない筈である。成長《せいちょう》するに従って、その極く稀《ま》れな噴火《ふんか》活動も自然、その休火期間が長くなってくるものらしい。  もっとも、彼らが幼少の腕白《わんぱく》時代には、時により年二回年一回なんていう頻発《ひんぱつ》時期もあったのである。たとえば、二つちがいの腕白坊主が、喧嘩《けんか》ざかりの六つ七つ時代には、そうならざるをえなかった時期《じき》がある。とても訓戒《くんかい》ぐらいでは収まらない竜虎《りゅうこ》の兄弟が棒切れを持ち合って、のべつ母親をハラハラさせたときなどは、仕方がないから父の私は、ある時、その兄と弟に、真剣《しんけん》代りの棒切れを相互に与えて「よろしい、そんなに喧嘩が好きなら、今日は一つ気がすむ迄ここでやってみろ」と、両人の決闘《けっとう》を公認したものである。  疎開先《そかいさき》の吉野村の家の庭さきだった。二人の坊主《ぼうず》に父の私から獲物《えもの》を渡して、私が審判格《しんぱんかく》となり、芝生に立たせて「さあ、始めろ」と、ケシかけた。ところが兄弟とも、棒切れをブラ下げたまま、一とう決闘を開始《かいし》しない。頭を掻《か》いたり顔を見合せて笑ってばかりいる。「なぜやらんか」と私は兄と弟がハチ合せするように、突きとばしてやるのだが、どうしても撲《なぐ》り合わない。しまいには、どっちもベソを掻《か》いてしまい、結局《けっきょく》、「これからしません」となってしまった。 「しません」といっても、あの年頃の兄弟喧嘩はやむものではない。殊に山村の子等は、都会《とかい》の子以上、野性《やせい》奔放《ほんぽう》であり、その中の餓鬼《がき》大将を以て任じているわが家の兄弟なので、一月もたつとまた忘れる。それも竹切れ棒切れの場合はまだいいが、チビの次男坊などは、力及ばずとなると、農具《のうぐ》小屋から金物などを持ち出して来て、兄貴の後から不意打《ふいう》ちをくわせたりする。兄貴も承知していない。そんなときは猛烈《もうれつ》な取っ組合いが始まる。一度などは、どこからか血を出してしまった。一つ手というものは二度きかないものであるから、そのときは、二人のチビを一しょにまとめて、田舎家に特有《とくゆう》なあの太い黒光《くろびか》りのする大黒柱《だいこくばしら》へ、母親のタスキをかりて、二人の両手をそれへしばりつけてしまった。  このオシオキは、実《じつ》のところ、ぼくにもあまり味のいいものではなかったが、わざと放ったらかしで、自分は書斎《しょさい》の机に向ってしまった。母親が書斎へあやまりに来て、子供らに代《かわ》って、さんざんあやまる。「うるさいッ」と、ここで屋鳴震動を期《き》して大喝するのである。「第一、お前がそんなに甘いからいかんのだ。お前までがメソメソして何を世迷《よま》い言《ごと》をほざくか。今日はもう誰が何といってもゆるさん」と、家じゅうに響《ひび》くように、母親をやっつける。これを聞いて、子供らがシクシク鼻水をすすり初める。「もういたしません、もう、これから喧嘩《けんか》しません」と大黒柱がさけんでいる。そろそろいいかナと思い出すが、そこを、もうしばらく我慢《がまん》して、書物に眼など落している。この間の父親の辛抱《しんぼう》はちと辛《つら》い。  これは、こっちも辛かったが、子供らにも少し身に沁《し》みたらしい。それ以後は余り喧嘩はしなくなった。といって、こういう方式《ほうしき》を自分でもいい事と自信しているわけではない。そのときの条件《じょうけん》やら子供の心理《しんり》、健康状態など、よほど考慮の必要がある。真似《まね》をする家庭もないだろうが、早呑み込みしていただきたくない。ぼくは唯、自分の親馬鹿の一例として、自ら恥《は》じながら話してみたまでのことである。  然し、次の事は、自分でも成功《せいこう》したと思っている。それは、やがて長男坊が成蹊《せいけい》中学へ入学する事になって、吉野村から吉祥寺までは時間的に通学《つうがく》はムリだとなった。そのさい私は思い切って、阿佐ヶ谷の知人の家に兄の方を下宿《げしゅく》させたのである。それもそこの主人は結婚したばかりで、家も小さく、家事も不馴《ふな》れな家庭であった。おまけに当時はまだ物資《ぶっし》も不足、交通も不便、戦後|世相《せそう》から見れば、甚だ不安な点もあったが、とにかく、中学一年から自活の初歩をやらせてみた。  学校の先生方の間でも「さあ、どうでしょうか?」と多分にそれには、御懸念《ごけねん》をかけたようであった。けれど、とにかく朝夕《あさゆう》の身じまい、何でもやるクセがついて、よく通学していた。そして、土曜日の夕方には、吉野村のわが家へ帰って来て、一晩|泊《とま》り、日曜一日を弟や妹たちと遊んで、月曜の早暁《そうぎょう》、まだ暗いうちに、奥多摩の一番電車で、吉祥寺の成蹊中学へ登校する。そして又、次の日曜の来るのを愉《たの》しむ。  それをくり返しているうちに、実に下の弟妹《ていまい》に思いやりが深くなり、わけて、母の愛情を新《あら》たに噛《か》みしめて来たように思われた。唯、月曜の早暁《そうぎょう》に、家を出る時、いつも母を振返《ふりかえ》ってポロリと泣いてゆくので、母はそれを辛《つら》がっていたが、それもいい事だと思って自分もその朝は一しょに早く起きて彼が奥多摩橋の方へ馳《か》け出してゆく小さい姿へ、後ろからいつも手を振ってやった。  まもなく、次男坊がつづいて、成蹊中学へ入ることになった。次男坊は、早生れで、一年ちがいであるばかりでなく、赤ン坊のとき、消化《しょうか》不良をやった関係《かんけい》で人なみ以上、体も小さい。だから母親は手離《てばな》すのを惧《おそ》れてやまなかったが、これも思い切って、阿佐ヶ谷へ預《あず》け、そこから兄弟して通うことにさせた。 「もし、喧嘩《けんか》し出したら、こんどは止めてがないから‥‥」と、母親はそれのみを、心配《しんぱい》していたが、大人たちのこの考え方は、まったく取越《とりこ》し苦労《くろう》にすぎなかった。二人は、その間の自活の二年間、じつに仲がよかったし、よく助けあって小さい生活を無事《ぶじ》にやり通した。  その頃は、小遣《こづか》いは、二人に月々いくらと、一定の額を渡し、それで自立《じりつ》経済《けいざい》をさせる習慣がついているので、以後、東京へ移って、一つに住むようになってからも、その方式を踏襲《とうしゅう》している。  妙なもので、二年間、一つ下宿暮しをやっていたせいか、兄も弟も、趣味《しゅみ》まで一つになってきた傾向《けいこう》がある。テニス、音楽好きなどである。特に、音楽というと、どっちも夢中《むちゅう》だ。だから東京の家を見つけるさいも、自分の好みとしては、日本風な家屋《かおく》に越すものはないのであるが、今の品川の家は、あらかた洋間である。洋間《ようま》だと彼らが一室にあって、どんなにレコードなどかけていても、ぼくの書斎に音響《おんきょう》のわずらいがない。これが日本間つづきだと、勢い「やかましい」と干渉《かんしょう》せざるをえなくなる。その点現在の家は彼らにとって最適な居心地《いごこち》をえているらしい。  音楽好きは、少々金がかかる。到底《とうてい》、彼らの定月額では、音楽会へも行けないし、いいレコードも揃《そろ》えられない。そのほか高校三年ともなると、そろそろ何かと小遣いの欲《ほ》しい場合《ばあい》も生じるらしい。けれど、この定額以外をねだるのは、彼らにとっても、なかなか細心《さいしん》なゼスチュアをしているらしく見え、直接《ちょくせつ》、父親へは云って来ない。きまって、おふくろの方へ、やんわり当りをつけている。少し額の大きい場合は、長期計画《ちょうきけいかく》をたてて、そのゼスチュアと母親とのあいだに、かなり長い月日が、ふくみを持ちつつ過《すご》されている。そし結局《けっきょく》「お父さんに伺《うかが》ってごらんなさい」と、こっちへバトンを渡《わた》してくる。  ぼくは子供らから金なり物なりをねだられた場合「いけない」といったことは、ほとんどない。なぜなら、それ迄の間には、もう中間|地帯《ちたい》の母の考慮《こうりょ》の中で、充分にネリ上げられて来ているからである。これは、今、女子大の中学にいる妹の方も同様で「‥‥あのう、お父さん」と云ってくる表情《ひょうじょう》は、男たちの方より、よほどうまい。だから女の子の方などへは、特に、父親のぼくの返事《へんじ》も「ああ、いいよ、買っておもらい」と、むしろ一しょによろこんでやる風《ふう》である。するとすぐ、刎《は》ね返って母親の方へ報告《ほうこく》にゆく。「お父さんも、いいと仰《お》っしゃったわよ」というのが聞えてくる。母親は「あら、お父さんたら、甘いのネ」とか何とか云って、そこで、彼らの望《のぞ》みをとげてやるといった風になっている。  これは何も、ぼくと家内とが相談《そうだん》して、そういう仕組《しくみ》にしたわけでも何でもない。自然に、ぼくの家では、そんなしきたりになっている迄の事にすぎない。そして、この父親は、いつも承諾役《しょうだくやく》をするわけで、いやな顔も、いかんと退《しりぞ》けたためしもないのだが、どういうものか、子供らはまだ一ぺんも、母の存在《そんざい》を越えて、直接、父へ何かねだって来たためしはない。たまにこっちから「どうだい、あれ買ってやろうか」などと散歩《さんぽ》の折に水でも向けてやれば、それこそ、得たりとばかり飛びついてくるが、こっちも又、なるべく、母の中間帯《ちゅうかんたい》は踏《ふ》みこえないことにしている。  それよりも、父親としての私の今の心配は、村の疎開《そかい》生活から一足飛びに、東京の中央に出て、その上、何かと客出入やつきあい事も多いわれわれ作家《さっか》生活といわれる中においての子供のあり方である。衣食住《いしょくじゅう》の上で、私は、こういう不自由のない暮しが、子供自体に、倖《しあわ》せだとは考えていない。むしろ後年《こうねん》の不幸を培《つちか》っているのじゃないかとすら、時には勿体《もったい》ない憂《うれ》いをもったりするのだった。  自分は今日になってみて、自分の少年期から青年期へかけての貧窮《ひんきゅう》や逆境に、ひそかな天命への感謝を覚《おぼ》えずにいられない。多少、自分に何か、ねばり強い意志《いし》があるとか、周囲の貧しい人々の気もちも分るといったようなものがあるとすれば、それは、自分もどん底を通って来た体験《たいけん》のお蔭《かげ》である。だから、およそ私は、家内に対して、食べ物などについて、まずいとか、何とか、不足をいったことはない。女中さんや書生《しょせい》に対しても、何か身の廻りなどの世話をしてもらうと、意識的《いしきてき》でなく、有難うという言葉が出る。それは、そんな自分がむかし味わって来た経験《けいけん》からつい習慣的になって来たものだ。  ところが、自分の子等には、そういう感謝《かんしゃ》の思いや、かみしめる飯の味を、しんから味わわせてやることがない。たとえば日常《にちじょう》の甘味のものにせよ、朝夕のお菜《かず》にせよ、世の不幸な人々に対しては申しわけないが、ぼくらの家庭では、不足ということはない。むしろ糖分《とうぶん》や脂肪《しぼう》分など、ともすれば過剰《かじょう》になる。美味も馴れれば美味でなくなる。そして、時により温い焼芋《やきいも》一本によろこび、天丼《てんどん》一ぱいに有りついて、舌ずつみを打ったような、ぼくらの少青年期にあったような物への歓喜《かんき》と、新鮮《しんせん》な欲望とを、自分の子供らにも残しておいてやりたいと思うのだが、どうも今の環境《かんきょう》では、それが難しい。  なお、人生の初歩の艱苦《かんく》というような味も、努《つと》めて、嘗《な》めさせておきたいとは、切に、親心として望むのであるが、これほど親として難しいことはない。男親でも、やはり子供らには、忌《い》み嫌われたくない心理《しんり》がある。つい、子供らにも、口当《くちあた》りのいい事を云い、そして子供らから、よいおやじとして、寄りたかられていたいのである。  そこへゆくと、どうや昔の厳父《げんぷ》なるものは、自分の小愛を犠牲《ぎせい》にして迄、父性の大愛を持とうとしていたようである。古人の父性愛《ふせいあい》についての逸話《いつわ》などは幾つも思い出せるが、しかし、ここでは思い出すまい。云ってみたって、何か封建的な偏狭《へんきょう》なものに聞えるかもしれないし、第一、こう申《もう》す私自身にとって、まねも出来ないことだ。  けれど、私は私の家庭|世代《せだい》で、古風なしきたりは完全に遮断《しゃだん》されたといったが、家庭の中には、私のほかに、おばちゃんと皆で称《しょう》している私の妹がいたり、弟夫婦だの、そのほかの自分の兄弟たちもいるので、それらが持ちよっている何かの雰囲気《ふんいき》みたいなものが、自然、何かを家の中にかもしている。  云ってみれば、そこに意識《いしき》しない“家風”といったようなものが、自然に残っていることは否みがたい。  かりにそれを、わが家の家風というなら、それが又、現在の子供らを、何となく、魚と水のごとく、馴《な》じませたり、しつけづけていることも否まれない。では、“どんな風に”と云われると困《こま》るが、たとえば朝晩《あさばん》の「お早《はよ》うございます」「おやすみなさい」、また、誰かが出かけるさいも、子供ら自身の登校《とうこう》の朝や帰りにも、必ずみんなが送り迎《むか》えに出てやって、一せいに「行っていらっしゃい」あるいは「お帰ンなさい」と、いうような礼儀《れいぎ》は、これは、だれが強制《きょうせい》するのでもなく、自然なわが家での社会生活の一つとなっているのである。  もちろん、その範《はん》を示すのは、私たち夫婦であるから、私たちも又、夫婦のあいだでも、必ずそれらの礼儀はやっている。いや例外《れいがい》もあるといっておこう。家内が外出先から帰った場合、私が飛出して行って、家内に「お帰りなさい」などとは申し上げない。けれど、お早うの程度《ていど》は、こちらも、ていねいに、お早うを返す。誰が見ていなくても、「おやすみなさい」を私へしないで、家内が夜具《やぐ》の中へもぐり込むようなことは、わが家では決《けっ》してない。  それと、これは私自身、心がけているものの一つだが、子供たちが朝、お早うをしに書斎《しょさい》へ来てくれる場合、私は、その子へ対して、かりにも手に新聞を持ったまま、眼もむけずに、生返辞《なまへんじ》などはしないことにしている。どんなに書きかけの物へ向っていても、一|応《おう》、正しく子供の顔へ笑顔《えがお》を見せて、こちらも「お早う」を返すことにしている。子供らばかりでなく、女中さんや書生氏たちに対しても、そのことはおなじである。  特《とく》に子供に対して、それを努めるのは子供自身の人格《じんかく》をこちらも平等にみとめているという意志の表示《ひょうじ》と、そして、とにかく、朝の心地《ここち》を、明るく元気にさせてやるためなのだ。これも長年《ながねん》にわたってのことなので、べつだん、いちいち気をつけているわけでなく、自然にそうなっているというだけに過ぎない。そのほかは、すべて、形式《けいしき》や虚飾《きょしょく》にとらわれることは絶対にやらないし、ぼく自身、嫌《きら》いである。ずいぶん出たらめも多いことは云うまでもない。 [#7字下げ]酒談義《さけだんぎ》[#「酒談義」は中見出し]  こういった風《ふう》に、私は自分の家庭《かてい》を子供中心に考えているといえば、いえないこともないと思うのであるが、私自身はどうかというと、一つ屋根《やね》の下にいながら、その割合《わりあい》に子供たちとの交渉《こうしょう》がうすい。というのは、私は朝起きると、すぐ机に坐《すわ》り、どうかすると幾日も書斎に籠《こも》ったきりになるからである。原稿《げんこう》を書くという仕事の性質《せいしつ》にもよるが、同時に、私が子供のことは、家内を信頼《しんらい》してまかせ切っているともいえる。  いつも家にいるのだから晩飯《ばんめし》ぐらい、一|緒《しょ》に食べられそうなものであるが、実際にはそれすら思うにまかせぬのである。私たちのような仕事の者には、どうしても原稿の区切《くぎ》りのよい時、というものがあって、そんな夜は一緒に食べるが、それは月に何度とかぞえるほどもない。  机に坐っているときは、私はたくさん食べられないので、本当の腹《はら》つなぎになる程度《ていど》のものを少しばかり持ってきて貰《もら》うが、もちろんそこで、家族《かぞく》がくつろぐことはないのである。そういった点では、サラリーマン家庭の日曜日の晩餐《ばんさん》といったような和《なご》やかな光景《こうけい》はなかなか得られないのである。  それを何らかのかたちで補《おぎな》おうという気持が、私のどこかに働いている。外の会合《かいごう》か何かで、私もたまに酒量《しゅりょう》を過して帰る場合もある。そんな夜の帰宅の際などに、ふと、悪戯《いたずら》っぽい父親が出てくるのである。  私は、酒はつよくない。然し、酒は好きな方である。気分酒《きぶんざけ》というのか、酒の景色が好きなのだ。どうかして、たまに、外から酔《よ》って帰ると、まず上機嫌なていである。「お帰ンなさい」に玄関《げんかん》へ出て来る家中の者が、そんなときの私の姿を見ると、まず、靴《くつ》を脱《ぬ》がないうちに笑い抜く。このみんなの笑い顔に釣《つ》りこまれて、私はよけい、いい気持になり、酒のみの道化《どうけ》ごころと、日頃のおやじ扱いから解放《かいほう》されたい衝動《しょうどう》にかられるのだった。大いに、冗談《じょうだん》、でたらめ、出先のおのろけ迄を、口走る。そして、わが女房に甘えてみせたり、女中さんをつかまえて、ダンスの教授《きょうじゅ》などしてみせる。女の子の頬ペタへ接吻《せっぷん》を与える。高校生の坊主どもへは相撲《すもう》を挑《いど》む。どうかして、ほんとに酔っているときは、二階まで、みんなで担《かつ》ぎあげてもらう。半分は知っている。けれど、おみこしみたいに、やっさ、やっさと、頭や脚《あし》を持たれて、女房や子供にかつぎあげられてゆくとき、自分は心のどこかで、父親の幸福《こうふく》をあふれるほど味わい感じているのである。  私の子供は上二人が男の子で、下二人が女の子である。男の子は、十七と十五になるが、どうかして夕飯《ゆうはん》が一緒になったときなど、ごく微量《びりょう》であるが私はホット・ウィスキーを二人の坊主《ぼうず》に飲ませようとする。「これはね、お腹《なか》のためにとてもいいんだよ。ところでお母さん、坊主たちにも、小さいグラスをもって来いよ」家内は、大不平《だいふへい》である。とんでもないという顔つきで「ま、およしなさいよ、子供になんか」  然し、渋々《しぶしぶ》でも、女房がぼくにそれを押切《おしき》ることはない。坊主たちは、きょとんとしている。まず、私の酌《しゃく》で、ごく薄目《うすめ》なホット・ウィスキーを等分《とうぶん》に注いでやる。そして、「どうだ」と酒のみ気分を味わわせる。 「うまくないや」と、云ったのは、初めのうちで、何度目かには、「いい匂《にお》いだなあ」と云い出してくる。  ところで、酒飲《さけの》みばなしという風なくつろぎのうちに、「酒は音楽《おんがく》も同じなんだからな、もっと舌《した》の上で味わって、そっと飲むものなんだ。舌の上でくるんで、唾液《だえき》と酒の甘味と飽和《ほうわ》させて、匂いまで味わわなくちゃね」と、ひとかどの酒飲み学をブツのである。そして、私は、酒はいいものだと、子供らへ、酒の教育《きょういく》を始めるのである「人生は愉《たの》しむものさ。愉しまずして何の人生ぞや、だろう。恋《こい》なんてものはね、やってみても、いやなら途中で、向うでも別れようなんていうし、こっちでも、失敬《しっけい》することもあるさ。しかし、酒の方は、人生の道《みち》づれとなると、生涯《しょうがい》の友達だからなあ、よく交際《つきあ》わなくっちゃいけないよ」  まず、こんな風にである。然し、子供たちの耳には、上手な酒の飲みかたぐらいにしか響《ひび》いてはいないであろう。初歩の初歩、酒のみ幼稚園だから、その程度で、よろしいのである。「長い人生をさ、酒で蹴《け》つまずいたり、二十歳や三十歳でも落第《らくだい》しちゃあ見っともない。往来《おうらい》なかで寝ちまうような下手《げて》な飲み助だの、女房泣かせ子供泣かせの酒のみなんてものは、軽蔑《けいべつ》すべきだよ。七十、八十の人生のゴール・インまで酒を愉《たの》しみ、飲めば人をも愉しませるような酒でなければ‥‥」といったようなことも云う。子供たちは、咽喉《のど》をとおっていった淡《あわ》いウィスキーの感触《かんしょく》を記憶する程度に、そんな私の話を聞いているのではなかろうか。  そんなことを二人の子供に、何となく夕食後のひとときに云うのも、私の父が生涯《しょうがい》のうちに二度と血を吐いたほどの超《ちょう》大酒家《たいしゅか》だったからである。深夜《しんや》でも眼がさめると、枕《まくら》もとにブランデー、ジンなどを置いて、それを自身でカクテルにしては腹這《はらば》いで飲んでいたような大酒で、それには母も苦労し、私もずいぶん幼少《ようしょう》のたましいに、つよく感じた事が多い。特に、私の記憶では、父が酒のために、事業《じぎょう》も失敗し、天命も縮め、そしてそのための不幸から、母や、後々の幼い子供らにまで、どれほど長い宿命《しゅくめい》の尾を引いて来たかしれないのだった。にもかかわらず、私は酒を悪いものとは思わない。むしろ酒と人間との、相互の関係に問題《もんだい》はあると思っている。  ところで、私は大酒でもないし、どっちかといえば、飲めない方の口であるが、どうも私の息子共には、隔世遺伝《かくせいいでん》的《てき》きざしが見える。子供らの食物の嗜好《しこう》を見ていると、「ははあ、こいつ、いまにやるな」と、思われるのである。すでに、その兆候《ちょうこう》歴然たる以上は、その本能を、へんに、おやじの私へ憚《はばか》らせたり、ケチな盗み酒などをしないように、早くから親しく手をとって教育しておいた方がよろしいというのが親馬鹿の考え方なのである。  それと又、この教育は、やっている教官《きょうかん》の方も、大いに愉快で、少々、坊主どもを晩酌《ばんしゃく》のサカナにして愉しんでいる傾きもないではない。けれど、彼らも又、さすが素質《そしつ》のあるらしいだけに、決してそのサカナになることを、否《いな》んではいないし、けっこう、おもしろがって、ぼくへ同調《どうちょう》するのであった。かくてかれ等が、未然《みぜん》に、悪質な酒のみから免疫《めんえき》されて、将来、よき酒のみとなって、生涯の盃《さかずき》を手にすることを得れば、ぼくの育児|訓戒《くんかい》は、大いに成功したことになるのであるが、そこ迄は、こっちは見とどけているわけにはゆかない。案外《あんがい》「おれたちのおやじは、お目出度かったなあ」なんて、後日兄弟して酒を酌《く》みつつ吐《ぬ》かしおる事かもしれない。 [#7字下げ]親どころ[#「親どころ」は中見出し]  酒もだが、私たち夫婦の生活が、子供らにどんなに映《えい》しているかを省《かえり》みる必要も大いにありそうである。私と家内《かない》とは、年齢が約二十めちがっているので、ほかの家庭と条件《じょうけん》がちがうかも知れないが、喧嘩《けんか》をすることはまずないといってよい。  家内をそばにおいて――これはかなり意識的《いしきてき》であるが、私は子供の前で家内の手を握ったり、頬《ほお》をさすったりして見せる。何も、目的をもって、わざとやって見せるわけではなく、正直、私は妻を愛し、妻は私を愛している。私と家内がどういう愛情をもち合っているかを子供たちの眼で見ておいて欲しいと思うわけである。  見るとしもなく、察《さっ》するとしもなく子供自身が、私たちのその行動《こうどう》で父母の仲を諒解《りょうかい》している。両親の仲のよいのは、子供たちにとって、大きな安心感《あんしんかん》を抱けるのではないかと、私は自身の体験《たいけん》からそう思う。というのは、私の少年時代、いわゆる逆境《ぎゃっきょう》の時代のことであるが、両親の激烈《げきれつ》な喧嘩をみるほど情《なさけ》ないものはなかった。それが、自分の考え方をどんなに悪くしたか、私自身がそれをもっともよく知っている。こういった点を、私たちはかなり注意《ちゅうい》しながらやっているように思う。  しかし、そうはいっても、私自身が家庭《かてい》でやっていることは、だいたいそんなところで尽《つ》きる。大部分の家庭内における用件《ようけん》は、ほとんど家内がやってくれるからである。それは私自身に、なるべくなら家内中心に家族が暮《くら》して貰いたいと思う気持があるからなのだ。私は、ただ家庭ではロボットでよい、仕事だけに没頭《ぼっとう》できればよいのである。  ここまできて、どうしても私は編集部のS君がダメを押して行った「父と子」の質問《しつもん》に答えなければならなくなった。S君は、 「社会的に父親が有名《ゆうめい》だったり、あるいは何だかんだと云われていると、その人のお子さんにはそれが鬱《うっ》とおしいことになるのではありませんか」  とたずねられた事だった。私は、まちがっても自分の父親はえらいとか、世間的《せけんてき》に有名であるとかという気持を、子供に持ってもらいたくはない。それをもっとも警戒《けいかい》している。もし、それを私が子供の気持の上に残したとしたら、これは子供の生涯《しょうがい》に、物質的な負債《ふさい》を残しておくよりも、もっと大きな負担ではないかと思うのである。自分らの父親の書くものが活字《かつじ》になったり、写真が出たりしている。子供らは知っている、又、よく見ている。しかし、とくに言葉では云わないが、子供らにはぼくの愚の半面や、そんな事が人間の真価でない事は分っている筈《はず》である。  学校の成績なども、よくキヤキヤするのは女親の方である。そういう時、私はとくにかまわない方針《ほうしん》をとっている。 「一年ぐらい浪人《ろうにん》するならするがいいさ。その間の扶持《ふち》だけは持ってやるよ」  なんて云って、あまり拍車《はくしゃ》はかけない。ただ話のきっかけで、将来《しょうらい》の話がでたときなど、私は、長男に、 「人間は平凡人《へいぼんじん》でもいいんだよ、ねえ英明《ひであき》。名声をもつような、あるいはいまお父さんがやっているような仕事は、人間としてむしろ苦しいものだ。それよりか、平凡でいいから、健康《けんこう》で、お父さんとお母さんみたいに、仲よくいい家庭をつくって楽しんでいけばいいんだよ」  と、きまって云うのである。私のこの考えをさらにすすめると、つまりS君の云う、私の少年時代と、私の子供の現在とでは物質的《ぶっしつてき》に比較にならない幸福《こうふく》の差があるという意見には、私はたぶんに苦情《くじょう》があった。しかも、私自身いまこれには、いささか当惑《とうわく》している問題なのである。いうところの親心の当惑かも知れない。  というのは、私の少年時代を比較するからである。現在の私のところが、少くとも一家|揃《そろ》って元気で暮していることだけを見ても、昔に比すべくもないことは分りきっている。その両親の翼《つばさ》の下《もと》にいると、私が吹かれたような冷たい風に子供たちが当る心配《しんぱい》はない。その上、私の家に来てくれる人は、私の子供たちへみな坊《ぼっ》ちゃんとか、嬢《じょう》ちゃんとか云って下さる。  こういう、感情《かんじょう》の上でも始終《しじゅう》チヤホヤされているということ、これが果して子供たちのために幸福《こうふく》かどうか、分らない。あるいはよくないことだとも思われる。それから食物にしてもそれが云える。生れながらにして不自由《ふじゆう》がないという、それが子供たちにとっては不幸なことではなかろうか。私自身の親《おや》の気持からいうと、まことに困《こま》ったものなのである。  それは植物の育成《いくせい》から考えても、当然考えられることではなかろうか。もっと寒風 《かんぷう》に当て、もっと霜《しも》に当てたい、そして強靱《きょうじん》な根を張らせたい、というのが、私はなべて世の親たちの心情《しんじょう》ではなかろうかと思うのである。  眼の前で、すぐ子供らのよろこぶ、小さな愛情《あいじょう》みたいなものを、ふんだんに与えるよりも、じつは、永遠《えいえん》な愛としては、子供らに、よい意味の克己《こっき》と、健康と、社会生活の良識《りょうしき》だけを与えてやればいいのだが、さて、いちばん平凡なことが親には難かしい。田舎で聞いた事だが、お百姓の俗諺《ぞくげん》に「草は短かいうちに抜け」とよく云っていた。なかなかうまいことばである。けれど子供らの成長の間に生えるその草さえなかなか親の手では抜ききれない。いわんや、大愛の男親には、どうも、われわれ世代《せだい》の父には、なれないというよりも、なる資格《しかく》がないようだといった方がましのようだ。  いやはや何とも、面目ないおやじではあると、この原稿に向いながらも、幾度か嘆声《たんせい》の出たことだった。そしてこの原稿も、自分に寸暇《すんか》もないため、談話《だんわ》を速記してもらったのである。けれどそれも気に入らず、あとからゲラ刷《ず》りの行間へ書き入れしたり補筆《ほひつ》したり、真っ黒にしてしまったわけだ。その為に前後の首尾《しゅび》や用辞《ようじ》なども、乱脈だし、云いたりない思いもするが、書肆の締切《しめき》り催促《さいそく》が今日も頻々《ひんぴん》で何ともかんとも落着かない。敬愛する世の親たちや家庭の方々には、以上、私の親馬鹿|述懐《じゅっかい》はどうか御笑読の程度にとどめていただきたいと思う。 底本:「親馬鹿読本」株式会社 鱒書房    1955(昭和30)年4月25日初版発行 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。