蛇 アンブローズ・ビアス Ambrose Bierce著 長谷川修二訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)聞道《きくならく》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|※[#「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93]《はばた》く [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)|※[#「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93]《はばた》く -------------------------------------------------------  聞道《きくならく》。蛇の眼《まなこ》には、怪しき霊力《ちから》あり。明証《あかし》の例《ためし》も饒《おお》ければ、智者も学者も皆な、論駁《あげつらい》するものなし。一度びこれに狙わるれば、力を究めて逃れんとするも、鷹に捉《と》られし綵鳥《いろどり》の、|※[#「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93]《はばた》くよりも甲斐なくて、思わず知らず引寄せられ、遂には毒牙に咬まれ、果敢《はか》なく命を落すぞ。 [#19字下げ]一[#「一」は中見出し]  ソファの上に楽に身体《からだ》を伸ばしたまま、ハーカー・ブレートンは、前述した昔のモリスターの「科学の奇異」の一節を読んで、微笑するのであった。「奇異と云うのは只《た》だ」と彼は自分に向って云った。「モリスターの時代の智者や学者が、今日ではどんな愚昧な連中でも反対する様な荒唐無稽な事をば信じて居た、と云う事だ」  一くさりの聯想が此処で湧いた――ブレートンは思索家であったので――で彼は眼の方向を変えずに、手にした書物を下げた。書物が眼の線より下になるや否や、部屋の小暗い隅にある何物かが眼に這入って、彼の注意力はこの部屋の事物に移った。見えたのは、彼の寝台《ねだい》の下の蔭になって居《お》る所とある二つの小さく光る点で、正しく一|吋《インチ》ほど相距って居た。それは彼の頭の上にある瓦斯《ガス》灯口の金具の尖端の反射の様にも思われた。彼は別に注意もしないで、再び眼を書物の上に走らせた。一瞬間の後、何物か――それが何物であるか彼は解析して見ようと云う気にならなかった――が、彼の心を駆って、復《ま》た書物を下に降して、前に眼に映じた物に再び眼を呉《く》れた。光る二点は依然として其処にあった。それは以前より強く輝いて居る様で、最初の時には彼は気がつかなかったが、緑色の光沢を発して光っていた。彼はこのほかに、これが少し動いたのかも知れないと思った。少し近くに寄った様に思った。但し、未《ま》だ蔭の中に没して居たので、最初に見やったのでは一体どんな物なのか素性も光源も判らなかったので、彼は復たもや読書に戻ったのである。突如、書物の中の或る事が一つの暗示を与えたので、彼は愕然として三度び本をソファの上に降した。書物は彼の手から逃れて、床の上に背を天井に向けて落ちて拡がった。ブレートンは半ば立ち上った形で、光る二点の見える寝台の下の小暗い蔭をば、眼を据えて注意ぶかく凝視した。彼には其の光度が一層増した様に思われたのだ。  彼の注意力はいまや完全に喚起され、彼の凝視は一層鋭くまた力が籠って居た。で判ったのであったが、寝台の足掛けの殆ど真下に、巨大な蛇がトグロを巻いて居た。光る二点は其の双眼だったのだ。怖ろしい鎌首はトグロの最も内の輪から平たく突き出て外側の上に倚《よ》りかかり、真直ぐに彼の方に向いて居り、横に広く獰猛な顎と愚鈍な前額部の様子は確実に其の邪悪な凝視の方向を物語って居るのであった。双眼は最早や単に光る二点ではなかった。それは意味を含めて、彼の両眼と睨み合って居た。兇悪な意義が迸《ほとばし》り出て居た。 [#19字下げ]二[#「二」は中見出し]  近代都市の高級な住宅の寝室に蛇が現れると云う事は、幸いにして余り通例な現象では無いから、此処には一つ説明が必要であろう。ハーカー・ブレートンは三十五歳の独身者で、学者で、怠け者で、其の癖運動家で、金満家であり、人から受けがよく又た極《ご》く健康な男であって、色々な遠隔の人知れない国々を廻って、桑港《サンフランシスコ》に戻って来たのであった。彼は昔から少し凝り過ぎた趣味を持って居たが、長い間の艱難の揚句は一層それが激しくなって居た。で、キャッスル・ホテルの善美ですら彼の趣味を満足させなかったので、彼の友人で著名の科学者ドルーリング博士の厚意を幸いと、厄介になって居るのであった。ドルーリング博士の家は巨大な古風な物で昔は華やかであった区域にあり、矜《ほこ》りやかな余裕が充分に観取される。次第に変化して来た四辺の景相と調和するのは平《ひら》にお断りする、と云う気風を見せ、孤独から生ずる例の奇矯性をば可成《かな》り発達させて居た。その一つは「翼」で、建築学の上から見ても不調和極まる物であったし、目的の上から云っても確かに不届《ふとどき》なものに違いなかった。何故と云うに、それは実験室と、動物園と、博物館との混合物であったからだ。博士が自分の趣味を満足させたり、好みを足したりする様な風の動物生活の研究に対する彼の半面的の熱情はこの部屋で満足させられたからである。その動物生活たるや、実を云えば可成り下等な種目にまで及んで居たのである。と云うのは、もっと活発な心地よい類の動物類が彼の美わしい理性に自撰するには、少くとも発生的に「原始的な龍」即ち蟾蜍《ひきがえる》とか蛇とかと関係を持って居なければならなかったのだ。彼の科学的な同感は判然と爬虫類に限られて居るのであった。彼は自然界の俗物をば溺愛し、自ら動物界のゾラと称して居た。彼の妻と娘達は、かように運の悪い星の下に生れた動物達に対する彼の趣味を頒《わか》つ程に出来て居なかったので、彼の所謂《いわゆる》「蛇部屋」とは絶対的に縁切りであり、同じ人間属としか交際し得ない状態ではあったが、博士は彼等の運命をば和《やわら》げる為に、富んで居るのを幸と、彼等の住み場をば斯《こ》ういう爬虫類よりずっと立派なものにし且つ優れたものにしたのであった。  建築学的に云って、また「家具の点」から云って、この「蛇部屋」はその住民の賤しい境涯に相応《ふさ》わしい、極めて質素なものであって、其の多くの者は実際に、贅沢をば充分に享楽出来る様な自由を与えて置く事の出来ない物であった。何故かと云うに、彼等は厄介千万にも生きて居たからである。彼等の割部屋では、但し、お互いに呑んでしまおうとする悪癖を発揮し得ない様に守っている他は、出来るだけ自由が効く様になっていたのだ。だが、予めブレートンに説明された所であったが、そのどれかが時に邸内の思いがけ無い様な所に発見されようなどと云う事は全く起り得べからざる事なのであった。この「蛇部屋」と其の不気味な聯想にも拘《かかわ》らず――実際それには彼は殆ど気を掛けなかった――ブレートンはドルーリング邸に於ける生活をば大変に好ましい物と思った。 [#19字下げ]三[#「三」は中見出し]  一瞬間驚いたのと単なる嫌悪の身震いが出ただけで、ブレートン氏は別に大きな衝動も感じなかった。彼の頭に浮んだ最初の考《かんがえ》は呼鈴を鳴らして召使を呼ぶ事であった。だが、鈴《ベル》の紐は楽に手の届く所にブラ下っていたのに、彼はその方に何等《なんら》身体を動かさなかった。彼はフト考えたのであったが、そうする事に依って恐怖の疑いを招きはしないかと思った。実際彼は少しもそんな物を感じては居なかったのである。彼はその危難を怖れるより寧《むし》ろこの場合の不都合な性質の方を自覚して居た。実際これは厭《い》やな事ではあったが、また馬鹿馬鹿しかった。  その蛇はブレートンの知らない種類の物であった。長さは単に推測する事しか出来なかったが、胴体の見える一番太い所で彼の前膊ほどありそうであった。一体どういう風に危難なのであろう、若《も》し果して危難だったとしたら? 毒蛇なのであろうか? 捲きついて来る類いなのであろうか? 自然の危険信号に対する彼の知識では何とも云えなかった。彼はこの暗号を解いた事が無かったのだ。  危険で無いとしても、此奴《こやつ》は不愉快な代物ではあった。邪魔物であった――厄介物であった。不躾《ふつつか》な物であった。全く似つかわしく無い存在であった。現在のこの国の趣味が野蛮であるとは云え、壁は絵で埋《うず》め、床は家具で一杯にし、家具は骨董品ずくめであるにせよ、こういう叢林《ジャングル》の野性的な存在とは適合しなかった。その上に――堪らない事だ! ――その吐気は彼自身の吸っている空気と混じっているのだ。  斯ういう考がそれ相当の明瞭度でブレートンの頭の中に起って、活動し始めた。その過程は我々の所謂《いわゆる》熟慮と決定である。我々が賢いのも愚かなのも、この径路できまる。秋の風に吹き飛ばされた枯葉も、悧口か馬鹿かに依って、地面に落ちたり湖水に落ちたりする。人間の運動の秘密は知れ渡って居る。何物かが我々の筋肉をば収縮させるのだ。この予備的な分子変化に対して意志という名を与えて関《かま》わないであろうか?  ブレートンは立上って、静かに蛇から遠ざかろうと身構えした。出来れば相手を怒らせない内に巧く扉《ドア》から出ようというのである。人間は偉大なものの居る前から退く時にはそういう風にする。偉大なものは権力であり、権力は脅威であるからだ。何も間違を起さずに後ずさりに歩き得るのは彼に判っていた。怪物がついて来る様だったら、壁を絵で張りつめた趣味のお蔭《か》げで此処には殺人的な東洋の武器の架場が要領よくあったから、彼はその場合に即したものを拉《らつ》し取ればよかった。  そうして居るうちに、蛇の双眼は前より一層無慈悲な邪念に燃え輝いて来た。  ブレートンは一歩後に退ろうとして右足を床から持ち上げた。その瞬間、彼はそうするのが非常に厭な感じがした。 「俺は勇敢だと云う評判を持っている」と彼は考えた。「では、勇敢という事はもう矜りでは無いのか? この恥辱を目撃する者が誰もいないからというので、俺は退却するというのか?」  彼は右手を椅子の背に置き、足を宙に浮かせたまま身体の調子を取っていた。 「馬鹿馬鹿しい!」と彼は声を挙げて云った。「怖がって居ると自分に見えるのを怖れる程の卑怯者では俺は無い筈なんだ」  彼は膝を少し曲げて足を僅か上に持ち上げ、鋭く床に下した――もう一つの足より一|吋《インチ》前に! どうしてそんな事が起ったのか彼には考えられなかった。左の足で試みて見たが同じ結果であった。それは復たもや右足の前に出た。置いた手は椅子の背を緊《し》かと握りしめて居た。腕は真直ぐに、後《うしろ》に伸びて居た。彼は決して離すまいとして掴んで居る様に見えて居たに違いない。蛇の邪悪な頭は依然として内側の輪から突き出て居り、首は水平になって居た。動きはしなかったが、その双眼は今や電気の火花の様で、無限の光の針を放射して居た。男は蒼白になって居た。再び彼は一歩前に踏み出した。復た一歩、半ば椅子を引擦っていたが、いよいよ手が離れるとそれは物音を立てて床の上に倒れた。男は呻《うな》った。蛇は音も立てなければ身動きもしなかったが、眼は二つに煌《きら》めく太陽の様であった。蛇自身はすっかりその輝きに隠されていた。その太陽は濃い判然とした色彩の次第に広がる輪を発散し、それが張り切ると次ぎ次ぎにシャボン玉の様に消えて行った。彼の顔へ襲いかかるかと見ると、俄然、計り知る可《べ》からざる遠距離へ去ってしまう。彼は何処かで大きな太鼓が絶え間なく鳴るのと遠い散漫な楽音が奇妙に快い風奏琴の様な音《ね》で響いて来るのを耳にした。それがメムノーン像の発する日の出の旋律であるのを知って、彼はネイロス河の蘆《よし》の中に立って、高遠な気分でこの十数世紀の沈黙を透す不朽の讃歌を聴いているのだと思った。  音楽は歇《や》んだ。と云うよりは、雷雨が去って行く時の遠雷の様に、感じられない度合で消えたのである。太陽と雨に輝く風景が彼の前に展開し、巨大な虹が眼醒める許《ばか》りの色に映えて百の都市に跨《またが》って居るのが見えた。  中間の場所に、巨大な蛇が王冠をつけて居り、大きなトグロの真中から頭《かしら》を擡《もた》げて彼を見つめた。その眼は、彼の死んだ母親の眼であった。  突然この魔法の風景が劇場の書割《かきわり》の様に迅速に上へ昇る様に見えて、後は何も無くなった。何かが彼の顔と胸を強く打った。彼は床に倒れたのである。破れた鼻と傷《きずつ》いた口から血が流れた。暫く彼は眼が眩み麻痺して、顔を床につけたまま眼を閉じて居た。今や視線が逸れているから巧く退却出来ると彼は感じた。だが、蛇が頭から僅か数|呎《フィート》の所にいて、未だ見ないが――多分、彼に躍りかかって頸の廻りに巻きつこうとしている、と考えると、怖しくて堪えられなかった! 彼は、頭を擡げ、かの毒々しい眼と睨み合い、復たもや金縛りに陥ってしまった。  蛇は動いて居なかったし、何となく前より怖しさを失った様に見えた。数瞬間前の素晴らしい幻想はもう現れなかった。平たく頭脳の無い額の下、黒い数珠玉の様な眼は、最初の様に、云うに云われぬ悪性な表情を、湛えて居るだけであった。  此奴は勝利が確実と見て取って、もう誘いの手管《てくだ》は使うまいと決心した様に見えた。  此処で怖ろしい場面が続いて起った。  男は敵を去る一|碼《ヤード》の所に無感覚で床に倒れていたが、肱《ひじ》で支えて上体を起した。  頭を後へ引き、足は一杯に伸ばし切った。顔は血に汚れながらも蒼白であり、眼は張れるだけ一杯に見張って居た。唇は泡を吹いていた。それは塊となって途切れて落ちた。強い痙攣が身体を走って、殆ど蛇の様に波動して蜒《うね》った。彼は胸の所で身体を曲げ、足を次第に置きかえた。そして、動く度びに彼は少しずつ蛇に近づいて行った。彼は突っかい棒にしようとして両手を前に出したのだったが、しかも絶えず肱を前へ前へと出すのであった。 [#19字下げ]四[#「四」は中見出し]  ドルーリング博士と細君は図書館に坐って居た。科学者は珍らしく上機嫌だった。 『他の蒐集家と交換して手に入れたのだがね』彼は云った。『「オフィオファゴス」の素晴らしい標本だ』 『それは一体何ですの?』貴婦人は何がなし怠屈《ものう》い様な口調で尋ねた。 『おや、これはどうだろう、何という念入りの無学だ! ねえお前、結婚して後から妻が希臘《ギリシャ》語を知らんという事を知った男には離婚の資格があるよ。オフィオファゴスとは他の蛇を啖《た》べる蛇さ。』 『貴方のを皆な啖べて呉れると有難いわ』彼女は云った。『でも、どういう風に他の蛇を殺しますの? 屹度《きっと》、毒気で眠らせるんでしょう』 『お前の云いそうな事だぜ』と博士は些《いささ》か遣りきれぬという感情をこめて云った。『蛇が見込む力を持っているなどという俗な迷信を云い出せば儂《わし》がどんなに苛々して来るか知って居る筈ではないか』  大きな叫び声がして会話は途切れた。叫び声は墓の中で怒鳴る悪魔の声の様に、静寂な家の中を響き渡った。二人は思わず立ち上った。博士は困惑し、夫人は真蒼になり驚きで口がきけなかった。最後の叫びの木魂《こだま》が消え去るか否かに、博士は部屋を跳《おど》り出して、階段を二段ずつ走り上っていた。  ブレートンの部屋のまえの廊下で、階上から降りて来た召使達と会った。一緒に皆はノックもせずに、扉《ドア》に身体を押し当てた。  錠がかって居ないので扉《ドア》は直ぐ開いた。ブレートンは胃部を床につけて長く伸びて死んでいた。頭と両腕は半ば寝台の足掛けの下に隠れていた。皆は身体を引き出して、仰向けにした。  顔は血と泡で滅茶苦茶になっていた。眼は大きく見開いたままで、見つめていた――怖ろしい光景! 『発作的な死だ』と科学者は膝をかがめて手を心臓部に当てながら云った。  その姿勢で彼はフト寝台の下を見た。『畜生!』彼は言葉を続けた。 『何だってこれがこんな所へ来ていたんだろう』  彼は寝台の下へ手をのばし、蛇を引擦り出して、未だトグロを巻いているのを部屋の中央に抛《ほう》り出した。床にぶつかって、鋭い妙な音をさせて、蛇は磨きのかかった床の上を滑って壁の所で止り、そのまま動かなかった。それは剥製の蛇で、眼は靴ボタンであった。 底本:「ながすぎる蛇のアンソロジー」新宿書房    1989(平成元年)年1月30日 底本の親本:「新青年」1934(昭和9年)2月号 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。