ハルピン・フレイザーの死 The Death of Halpin Frayser ビアス・アンブローズ Bierce Ambrose 妹尾アキ夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)口《くち》ばしつた [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)見※[#判読不可、5-34]のです ------------------------------------------------------- [#8字下げ]一[#「一」は中見出し] [#ここから2字下げ] [#ここから1段階小さな文字]  それは、死というものが、いつぱんに考えられているよりもつと大きな變化をもたらすからで、普通肉体を去つた靈魂は、時によるとこの世に歸つてくることもあり、またある時は肉体(いぜんその靈魂が宿していた肉体)を持つて現れることもあると云われているが、それのみでなく、時には靈魂を持たぬその肉体が、歩くことさえある。それからまた、親しくそんな経驗にあつたあとで、生きのびた人たちの話すところによると、そんなに立ち上つた死体は、もちまえの愛情や生前の記憶をうしなつてしまつて、ただ憎惡のみを持つているということである。―― ホール。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり]  ある真夏の暗い夜、夢もみないで森の中に眠つていた一人の男が、地面から頭をもたげて、ちよつと闇を見つめたあとで、「キヤザリン・ラルー」といつた。ただそれだけで、そのほかにはなにも云わなかつた。どうしてそう云つたか、本人もわけを知らない。  その男はハルピン・フレイザーという名だつた。彼はセント・ヘリーナに住んでいたが、すでに死んでいるのだから、今どこに住んでいるかは分らない。体の下には乾いた木の葉と湿つた土だけ、頭上にはその木の葉を振り落した梢と土を落した天だけというような、こんな森の中で眠る人は、長生きをのぞむことはできない。そしてフレイザーは、すでに三十二になつているのである。この夜には、三十二を老年と考える人が、方々に数えつくされぬほどあるが、それらはみな子供なのである。人生の航海を、出発の港に立つてみれば、すこしばかり岸を離れた船を、向う岸に近づいた処と見あやまりやすい。だがハルピン・フレイザーが森に眠つたがために死んだかどうかは確実でない。  ひねもす彼はナパ低地の西の山地を歩き、鳩やそのたの季節の鳥を探しまわつていたが、暮がたちかくなると空が曇り、方角が分らなくなり、山で迷つたらいつでも下へ下へとくだれば、間違いないと思つて、くだろうとはしたのだけれど、路を踏みまよつたので足がはかどらず、ついに森の中で夜をむかえるようになつたのである。暗くてマンザニータなどのしたばえを掻き分けることはできず、そのうえ心身ともにへとへとになつていたので、彼は大きなマドローニヨの根もとに横になつて、夢もみないでぐつすり寝こんだのだつた。それから何時間かたつた真夜中に、東の空から神秘な神の使者が、うしろにたくさんの同僚をしたがえ、飛んできて呼び覚したので、彼は起きあがつて自分でも知らぬ人の名を、なぜともなく口《くち》ばしつたのである。  ハルピン・フレイザーには、哲学者らしいところもなければ科学者らしいところもなかつた。だから、真夜中に森のなかで目を覚して、記憶にもなければ、考えてもいなかつた名前を、口に出して喋つた理由を、追求して考えてみようとはしなかつた。ただちよつとおかしいと思つただけで、機械的にすこしばかり夜の寒さを意識し、習慣的にわずかに身震いして、また眠りにおちた。しかし、今度の眠りは、夢のない眠りではなかつた。  しだいに暮れゆく夏の夜の、白々とみえるほこりぽい道を、彼はとぼとぼ歩いているような気がした。その道がどこからどこへ通ずるか、なんのために歩いているか、そんなことは分らず、あらゆる夢がそうであるように、しごく単純に、自然に歩いているだけであつた。眠りの向うの世界には、驚きもなければ、批判もないのだ。まもなく彼は分岐点にきた。大道から別れて、あまり人が通らぬので、打ち捨てられたようになつた一本の道が、そこから出ていた。それはなにか悪いところに通じる道らしく彼には思われた。彼はある抵抗しがたい必要にせまられて、たじろぎもしないでその道に折れた。  歩いて行くうちに、その道に、目に見えぬなにかが潜んでいることに気がついたが、それがどんなものであるかは、はつきりしない。そして、それが、道の両がわの木立から、奇妙な言葉で、つじつまの合わぬことを、切れぎれにささやく。すこしはその意味が分つた。それは、彼の体と心に、途方もない陰謀をたくらんでいる、断片的なささやきらしく思われた。  日が暮れて長い間たつたのに、彼の旅をしてきた無限につづく森は、蒼白い光に照されていた。でも、その神秘な光には影がないから、灯がついているのではなかつた。古いわだちに、雨水が溜つてできた浅い水溜りをよく見たら、ぎらぎら赤く光つていた。しやがんで指をふれてみたら、指が赤く染つた。血である! その時はじめて気がついたが、いたるところが血でよごれていた。路傍に茂る草の、大きな葉にも血がほとばしつている。わだちとわだちの間の乾いた土地にも、雨がふつたように、点々と赤いものが散つている。木の幹はべつとりと血で汚れ、その木の葉からは、露の滴のように、赤い血がしたたりおちる。  すべてこれらの恐しい光景を、彼は期待を裏切らぬ、当然なことのように受けとつた。自分では罪を意識しながら、それがどんな罪かはつきり思い出せない、ある自分の過去の犯罪、その犯罪のつぐないのように思われた。その罪の意識が、あたりの威嚇的な不思議な光景を、いつそう恐ろしいものに思わせた。自分がどんな犯罪をおかしただろうと、記憶をたどりながら、今までしてきたことを考えたが、どうしても思い出せなかつた。無数の場面や無数の出来事が、脳裏にひしめきあい、一つの光景が他の一つの光景を押しのけ、いくつもの光景が重なりあつて、もうろうとしたものになつたりしたが、求めている影像はどこにもなかつた。その、どこにもないということが、恐怖をいつそう激しいものにした。それは誰とも分らぬ人間を、なんの理由もなしに、暗闇のなかで殺したかもしれないからである。威嚇的に黙々と燃える光、見ただけで心の平和をかきみだす毒々しい植物、どれもこれも陰気な敵意をもつ木々、頭上から、あるいは周囲から、響いてくる地上のものとも思われぬ、なにものかの奇怪な囁きや溜息――これらのものが、あまり恐ろしく、辛抱しきれなくなつたので、彼は自分の性能を金縛りにし、自分を押し黙らせ、無能力にする悪魔の呪いをとこうと、死にものぐるいになつて叫んだ。だが、彼の声は破れ、聞き覚えのない無数の音響となり、片言を喋るような弱々しい反響となつて、森のおくに吸いこまれてしまい、またあたりはもとの静寂にかえつた。けれど、はじめて抵抗したと思うと、それに勇気をえて、こんなことをいつた―― 「このまま黙つてひきさがるわけにはいかぬ。悪い人間でない者も、この呪われた道を通るかもしれない。だから、その人たちに訴えるため、記録を残しておこう。自分のうけた不当な待遇と迫害を、ここに書いておこう、私――かよわい人間、悔い人、無害な詩人は」ハルピン・フレイザーは、彼の夢の中で、悔い人であると同じ程度に詩人だつたのである。  半分ぐらいのペイジが、書きこみのできるようになつた、小型の赤革のポケットブックを取り出したが、鉛筆は探しても出てこなかつた。それで、小枝を折り、その先を血の溜りに浸して、急速度で書こうとすると、その小枝がペイジに触れると同時に、はるか遠いところから、はげしい笑声がきこえ、それがしだいに高く、しだいに接近してきた。それは真夜中に湖水のそばで鳴く孤独なあびの叫声に似て嬉しさもなければ魂もない、無慈悲なだけの笑声で、すぐそばに近づいて、無気味な叫声になつたと思うと、またもとの世界へ帰りでもするように、しだいに低くなり、やがて消えてしまつた。だが、彼はそのものが去つたとは思わなかつた。身動きもしないで、すぐそばにいるように思つた。  いつとなく、彼は身も心も、妙な感じに包まれはじめた。それはどの感覚――感覚があるものとして――が影響されているのか、自分でも分らなかつた。それよりむしろ、その妙な感じというのは、一種の意識――すなわちなにか強力なもの、いま周囲を取りまいている目に見えぬものとは違つた、それより、もつともつと強力なものを認める神秘な心から来るもののように思われた。ぞつとするようないまの笑声は、そこからくるのだ。それが近よりつつある。どの方向から近づくのか、それは分りもせねば、考えてみようともしなかつた。すべての今までの恐怖は、この新たな大きい恐怖に打ち消されてしまつた。その恐怖に包まれながら、彼は一つのことに専念した。それは、まんいち彼が一思いに始末されるという恵みを拒絶された場合、いつかは彼を救助してくれるかもしれない、この憑かれた森を通りかかる親切な人への訴えを書くことだつた。恐しい勢で彼は書いた。手に持つ小枝から無限に血が流れた。だが、書き終らぬうちに、それ以上書くことができなくなり、彼は両手を下におろし、手帳を土の上に落し、身動きすることも、声を立てることもできなくなつた。それは、埋葬された時の白い衣を着て、黙然と立つ彼自身の母の、ひきつつた顔、うつろな死んだ目を見つめている自分に気がついたからだつた。 [#8字下げ]二[#「二」は中見出し]  ハルピン・フレイザーは少年時代、テネシーのナシユヴェルに、両親と住んでいた。南北戦争の荒廃を逃れた社会に、好い位置をしめる、裕福な家だつた。子供たちはその時代とその場所があたえる、社会的な機会をつかむこともできれば、教育をうけることもできた。善良な人たちとの接触や導きに、品の好い、教養ある態度でこたえた。ハルピンは最年少でもあり、体も丈夫なほうでなかつたので、多少甘やかされて育つたらしく、母の世話やき、父の放任は、どちらも度がすぎて好結果はもたらさなかつた。多くの南部の裕福な人がそうであるように、父は政治家だつた。そして彼の国、というより彼の地区や州に、始終時間をさき、注意を向けなければならなかつたので、しぜん家族の者にたいしては、政治指導者や彼自身の大きな叫声で、なかばつんぼになつた耳を、向けるよりほかなかつたのも、止むをえなかつた。  夢みがちで、怠者で、ロマンティクな傾向のある若いハルピンは、父が勉強させようとした法律よりも文学を好んだ。近代の遺伝学説を信ずる近親者らは、彼の母方の曾祖父の血が伝わつたのだと考えた。今は故人になつている曾祖父マイロン・ベインは、ちよつと名を知られた、植民地時代の詩人だつたのだ。ハルピンはその祖先の豪華な詩集(これは私費で出版されたが、とつくの昔に無愛想な本屋から姿を消した)は持つていないが、フレイザー家に生れた変り種の子供にはちがいなく、不合理な話だが、彼がその偉大な祖先の精神的後継者らしい傾向を示すのを、彼らは不安な目で見ていた。いつ詩を作りだすかもしれないと、一家の者は、厄介者を見るような目で彼を見た。テネシーのフレイザー家の者は、みな実際的の人だつた。この実際的というのは、必ずしも俗つぽい仕事にたずさわるという意味ではなく、健康な政治の邪魔になるような一切の性質を軽蔑するという、逞しい精神を意味していた。  公平にいつて、彼の性質や特徴は、家族のあいだに云い伝えられている有名な植民地時代の詩人に、かなり似かよつたところがあつたが、彼の天分や詩的才能をうけついでいたというのは、推測にすぎなかつた。ミユーズの神に接近しようとしなかつたのみでなく、彼は悪魔から逃れられるような詩を一行でも書くことはできなかつた。けれども、いつ眠つている才能が目を覚し、七弦の縦琴をかき鳴らさないものでもなかつた。  それと同時に、この若者に少々だらしないところがあつたのは事実だが、でも、母親とはしつくり意気が合つていた。というのは、この母親は、心ひそかに祖先のマイロン・ベインを崇拝していたからだつた。かの女はこの崇拝の念を、女性の間でいつぱんに美徳とせられている巧みさで、(口の悪いのは、この巧みさを、本質的には狡猾と同じものだというが)ひそかに、人々の目につかぬよう隠していたが、同じ傾向をもつ息子のハルピンにだけは隠さなかつた。この共通の弱点が母と子をいつそう固く結びつけた。だから、子供時代のハルピンが「甘やかされた」というのが本当なら、そうされるだけの理由は、彼のほうでも持つていたということになる。選挙のことなぞどうでもいいと考えていた南部の子供の彼が、やがて成人に達すると、彼が子供の時からケティーと呼んでいた美しい母との間が、より思いやりの深い、強固なものとなつた。あらゆる生活の面で、血族をも強固にし、やわらげ、美化する、性の要素というものは普通軽視されがちな現象ではあるが、このロマンティクな傾向のある二人の間には、それがいちじるしかつた。誰も仲をさくことができないこの親子は、知らぬ人が見たら、恋人たちと思うかもしれないぐらいだつた。  ある日ハルピン・フレイザーは、母の部屋にはいつて、その額を接吻し、しばらくピンを逃れてゆるんでいる黒つぽい母の髪の毛をいじつたあとで、云いにくそうに云つた。 「用事で二三週間、カリフォルニアへ行かなくちやならんのですが、お母さん、行つてもいいでしようか?」  さつと母の頬の色が変つたので、この問にたいする答えは口にだして云う必要がないぐらいだつた。云うまでもなく、かの女は行くことを嫌がつているのだ。顔色を変えたばかりでなく、茶色の大きな目に、涙さえかの女はにじませた。そして限りない優しさをたたえて、彼を見あげながら、 「お前がそんなことを云いはしないかと、心配していたんだよ。お母さんは悪い夢をみたので、それからは泣くばかりして、ろくに眠られなかつた。夢にベインのおじいさんが現れて、おじいさんの肖像の前に立つて、ちようどあの肖像みたいに、若くて、立派な顔をして、同じ壁にかけてあるお前の肖像を指さすのだ。それで、わたしがその方に目をむけると、お前の顔がどうしても見えない。それは、死人の顔にかける布のようなものが、お前の顔にかぶさつていたからだよ。この話をお前のお父さんにしたら、お父さんはお笑いになつたけれど、わたしやお前には、この意味が分るはずだ。そして布のいちばん下には、喉を絞めつけたような両手の跡がついていた――ごめんね、お前にはなにも隠さない方がいいと思つて話したんだ。お前はこの夢を、お母さんのように悪く解釈しないかもしれない。カリフォルニアへ行くこととはなんの関係もないように思うかも知れない。それとも、お母さんもいつしよに行こうかね?」  夢とカリフォルニア行きを結びつけた、この巧妙な母親の解釈は、だが、そう易々と論理的な息子を承服させることはできなかつた。この話をきいて、彼がすぐ考えたのは、カリフォルニアへ行つて悲劇にあうのでなく、それより悲劇味はすくないにせよ、もつと早い時期に、災難にあうのではないかということだつた。ことによると、この土地の荒野で、首を絞められるのかもしれない。 「カリフォルニアには湯治場はないの?」と母親は彼が自分の夢の解釈をのべぬうちに言葉をつづけた。「リユーマチや神経痛にきく湯治場はないのかしら? ごらん、わたしの指、こんなに硬くなつたのよ。寝ている時だつて痛むの」  そう云つて両手を出して見せた。この若者のにやにや笑いにごまかした診断が、はたしてどんなものであつたか知るよしもないが、おそらく彼としては、ちよつと指が硬くなつたり、痛んだりする程度なら、相当神経質な患者でも、見知らぬ土地へ転地するため、医者の診断を乞うたりしないのではないかと、云いたかつたのであろう。  それで、結局きまつたことは、この変つた二人が、同じように変つた義務を持つているので、一人は職掌がら依ョ人の要求するようにカリフォルニアへ行き、一人は良人が旅行を喜ばないので、家にとどまるというのだつた。  サンフランシスコへ行つて、ある晩海岸を歩いていたハルピン・フレイザーは、自分でも驚き当惑するほどの素早さで、船乗になつてしまつた。誘拐されたのだ。誘拐されて豪華な船に乗せられ、遠い国へ旅立つたのである。不幸はそれだけですまなかつた。その船は南太平洋のある島に打ちあげられて難破した。そして、貿易でそのあたりを通りあわせた、大胆なスクーナー型帆船が、その島から生存者を救いだし、サンフランシスコへつれかえつたのは、それから六年の歳月がたつてからのことであつた。  今からかえりみて、出発前のことは、何十年も昔のように思えるが、その出発前と同じように、フレイザーは財布は淋しくても、心だけは自負にみちた男だつた。見しらぬ人からの援助を、いさぎよしとしない彼は、郷里からのたよりと、送金を待ちながら、同じ生存者の一人とともに、セントヘリーナの町に滞在中のある日、猟にでて森のなかで踏み迷い、夢を見たのだつた。 [#8字下げ]三[#「三」は中見出し]  夢のなかの憑《つ》かれた森《もり》に現れた幽霊は、母そつくりでもあれば、母とは似てもつかぬものなので、ただもう恐わいいつぽうで、親しみも感じなければ、懐しいとも思わなかつた。それを見たため、楽しかつた少年時代のことを思い出すでもなければ、心がなごむでもなく、あらゆる優しい感情が、恐怖に呑みこまれた形だつた。振り返つて逃げようとしたが、足は鉛のように重くて、地面を離れず、手は両方に垂れたままで動かない。自由になるのは目だけだつたが、その目はすぐ前の、死んだ光のない目から、離すことができなかつた。その光のない目の主は、肉体をもたぬ亡霊でなくて、この憑かれた森の中でもつともおぞましい、霊魂をもたぬ肉体だつた。そのうつろな目には、愛もなければ、憐みも理性もないので、情けを訴えるすべがなかつた。「訴え無効」と、彼はついこんな場合に似つかわしくもない、職業上の言葉を心に呟いたが、それはかすかな葉巻の火の光で、暗い墓穴を覗こうとすると同じで、この時の状態を、いつそう恐ろしいものにするだけだつた。  しばらくの間――そのしばらくの間というのは、世界がその年齢と罪のゆえに白髪まじりとなり、憑かれた森が恐怖を最高潮に達せしめる目的を果して、ついになにも見えず、なにも聞えずなつたかと思われるほどの、長い間に思われたが――幻はすぐ一歩ほどの手前に立つて、野獣のような、悪意をふくんだ非人情な目で彼を見つめていたが、だしぬけに両手を突きだし、驚くべき狂暴さで飛びかかつてきた! この行動は彼の心を自由にしてはくれなかつたが、体力だけは自由にしてくれた。心のみはまだ魔法にかかつたような状態だつたが、彼の力強い体とすばしこい手足は、盲目的な、無感覚な、それじしんの力で、頑強に抵抗した。ひととき彼は、この、死んだ心と、息をしている肉体との、ありうべからざる争いを、傍観者のように見ているような気がした――夢にのみ起りうべき現象である。それから彼は、肉体に飛びこむような速度でわれにかえり、恐ろしい相手に劣らぬ激しさで、機械的に反抗した。  だが、どうして人間が夢に現れるものに勝ちえよう? 敵を造つた想像力そのものが、すでに征服されているのだ。争鬪の結果が争鬪の原因なのだ。力の限り彼は抵抗を続けたが、その力は空中に消えて、凍つた指の感触が、ぎゆうぎゆう喉を絞めつける。仰向けに地上に倒された彼が、掌ぐらいの距離に、死人のひきつつた顔を見たと思うと、まもなく目の先がまつ暗になつてしまつた。はるかに響く太鼓のような音――人のざわめき、あらゆるものに沈黙を命ずる鋭い微かな叫声、そして、ハルピン・フレイザーは、死んで行く自分を夢にみた。 [#8字下げ]四[#「四」は中見出し]  生温い晴れた夜が、湿つぽい霧の朝に明けた。その前の日の午後のなかごろ、ごく小さい薄い水蒸気――見えるか見えないかの微かな雲――が、セントヘリーナ山の、山頂ちかい、木のないところにかかつているのが見えた。それは、「早くごらん! 今見ないと消えてしまうよ」と云いたいほど、薄くて、透明で、気まぐれそのものに形をあたえたような雲だつた。  だが、見る見るうちに、それは次第に大きく、次第に濃くなり、片手を山にひつかけたまま、ぐんぐん片手を空中に伸ばして、裾野の上空にまで拡がつた。同時にそれは南北にも伸びて、山のあたりの同じ高度のところに、合体すべく点々と生れる小さい雲の破片を、一つづつのんでいつた。しばらくすると、谷から頂上を仰げないほど雲がひろがり、やがてその谷の真上も、くすんだ灰色の雲におおわれてしまつた。その谷の上、そして山の麓のカリストーガは星のない夜のあとに、太陽のない朝をむかえた。谷におりた霧は、南へ伸びて次から次と牧場を呑み、九マイル先のセントヘリーナの町に達した。道路は湿つて埃が立たなくなり、木々の梢は露に濡れ、小鳥は歌うのをやめて巣に隠れ、蒼白い朝の光線には道もなければ輝きもなかつた。  夜明けがた、セントヘリーナの町を立つた二人の男は、カリストーガへむけて谷間の道を北へのぼりはじめた。二人とも肩に銃を担いでいたが、事情を知るほどの者は、誰も彼らが、小鳥や野獣を射ちに行くのだと思いはしない。彼らはナパの副治安官ホルカーとサンフランシスコの探偵ジャラスン――彼らの目的は人間の猟である。 「まだ遠いんですか?」と、ホルカーはきいた。二人は湿つた道に、白いほこりを立てて歩いていた。 「ホワイト・チャーチですか? もう半マイルです」他の一人は答えた。「ところがね、ホワイトと云いながら白くなく、チャーチと云いながら教会でないのです。もと学校だつた建物なんですが、長い間捨ててあるので、灰色になつているんですよ。まだそれが白かつた頃、いちど教会として使つたことがあるので、今でもそのそばに詩人が喜びそうな墓地があるのです。どうしてあなたをお呼びしたり、銃を持つて来てくださいと云つたりしたかお分りですか?」 「今までどうしてあなたにそれをきかなかつたかと云えば、これまでの経験で時が来ればあなたが話してくださることが分つていたからですよ。まさか、墓地を掘り起して、死体を逮捕してくれと云うんじやないでしよう」 「あなたブランスコムを覚えているでしよう?」ジャラスンは相手の皮肉を無視してきいた。 「覚えていますとも。自分の妻の喉を切つた男でしよう? あの時私は一週間もあの男を探したが、骨折り損の草臥れもうけでした。五百ドルの賞金がついているんだが、誰もまだ姿を見た者がない。しかし、あの男が――」 「あれですよ。あれがずつとあなたがたの鼻先にいたんです。夜になると、ホワイト・チャーチの古い墓地へ現れるのです」 「くそつ! みんなであいつが殺した妻の死体を埋めたのが、ホワイト・チャーチなんですよ」 「あなたがた、いつかはあの男が妻の死体を埋めた場所に帰つてくるということに、気がつかなかつたのですか?」 「他の場所には姿を現しても、ここに現れようとは思わなかつた」 「あなたがたが方々を探しても、だめだつたので、それで私が墓地で待ち伏せてみたんです」 「あなたが見つけたのですか?」 「ところが、向うが私を見つけたのです。向うが機先を制して、おきまりの銃口をつきつけ、私を歩かしたんです。それだけで勧弁してくれたのは、私の運もよかつたが、あいつ案外好い男なんでしよう。あなた、金にお困りなら、賞金を半分あげましようか?」  ホルカーは上機嫌に笑つて、自分は人から金を借りているが、ちつとも催促しないから、そんなに困つていないと云つた。 「とにかく、墓地をごらんになつてください。それから二人で手筈をきめましよう。昼でも鉄砲を持つているのが安全と思いましてね」探偵はいつた。 「あの男は気違いなんです」と、副治安官はいつた。「賞金は犯人を捕えて、有罪と決つた時に出るんですが、気違いだつたら有罪にならんです」  有罪にならなかつた場合のことを考えて、彼は思わず道のまんなかに立ちどまつたが、また力なく歩きだした。 「なるほど、そうかもしれませんね」と、ジャラスンも同意した。「ずいぶん浮浪者も見てきたが、あんな、剃刀も鋏も、櫛も使わん、だらしない奴は、お目に掛つたことがない。しかし、いくら気違いでも、一旦捕えると決めたものを、逃すわけにはいかん。とにかく捕えたら手柄です。こんな思いがけぬ山の中にいるのを知つた人はいないんだから」 「そうですとも。とにかく行つてみましよう、『やがてそなたも憩うべき場所』へ」と、ホルカーは昔墓石へよく刻まれた文句を口ずさみ、「あなたに追つかけ回されるのに疲れたブランスコムが憩うべき場所という意味ですよ。時に先日ちよつと聞いたのですが、ブランスコムというのは、本名じやないそうですね」 「本名はどういうのです?」 「それを忘れたんですよ。あいつに興味を失いましたので。いま思い出せないんですが――パーディーというような名でした。あいつが喉を切つて殺した女に初めて会つた時には、その女は後家だつたそうです。後家になつたので、身内の者をたずねて、カリフォルニアへ来たんだそうです。よくありますね、世間にはそんなのが」 「よくあります」 「しかし、本名が分らないのに、どうしてあなたは本名の墓を探し当てたんです? 私に本名を知らせてくれた人は、頭板に刻んであつたと云いましたが」 「じつは本当の墓は知らないんです」と、ジャラスンは、彼の計画のうちの、もつとも重要なことについての無知を、しぶしぶ白状した。「私はただ墓地を見て回つていただけなんです。今朝はまずその墓地を探すことにしましよう。ここがホワイト・チャーチ」  彼らは長いあいだ、両がわに草原のある道を通つてきたが、そこまでくると、左がわが、柏、マドローニョ、えぞまつの巨木の茂つた森となつた。森は傾面をずつと上まで続いているのだが、上は霧に包まれて、ぼやけて見ることができない。ところどころに、森のしたばえが密生しているが、通り抜けられないほどではなかつた。はじめは建物が見えなかつたが、森にはいると、ぼおつと霧の中にどす黒い輪廓が浮びだして、遙かむこうの、大変大きいもののように見えた。だがじつは遠いのでも大きいのでもなくほんの二三歩すすむと、手のとどきそうな近いところの、湿つた灰色の小さい建物であつた。どこにでもよくある、荷箱のような形の、田舎の学校として建てた建物で、土台は石、屋根は苔だらけ、ガラスも窓枠もとつくの昔になくなつた窓が、ぽかんと黒い口をあけ、荒廃してはいるが、廃墟ではない。外国を旅する人は、過去の記念物を見て回るが、古い物のないカリフォルニアでは、さしずめこんなのを代用品にすべきだろう。面白くもないそんな建物には、ジャラスンは目もくれないで、しつとりと霧に濡れた繁みを掻きわけつつ、 「あの男の現れた所を見せましよう。ここが墓地です」  茂みのあちこちに、小さい囲いが散らばり、そのなかにあるいは一つ、あるいはいくつかの墓が見える。それが墓と分るのは、あるものは水平、あるものはあらゆる角度に傾斜して、頭や足の腐つた板が覗いていたり、変色した墓石が見えたり、そんな物を朽ちかかつた杭垣が囲んでいたり、まれには落葉のあいだから、盛りあげた砂利が見えたりするからであつた。あわれな死人を葬つた場所に、その位置を示す何物も残つていないのが沢山あつた。悲んでくれる多くの友を残して死んだ人たちは、その友の手によつて永久に――その悲みが続く期間より、もつともつと長い期間――土に埋められているのだ。いぜんは通路があつたのだろうが、今はそんなものは見当らなかつた。はびこるにまかせられた大木は、その根や枝で墓の囲いを押しのけていた。そして、それらすべての上に、打ち捨てられた廃頽の空気が、おおいかぶさつていたが、その空気は、他のいずれの場所におけるよりも、この死人の村がもつともところをえてふさわしいものに思われた。  若木を掻き分ける二人のうち、先頭に立つて進んだのは、あらゆる点で進取的なジャラスンだつたが、だしぬけに彼は警戒するように低い唸り声をもらし、猟銃を胸の高さにかまえて、身動きもせず前方を見つめた。後につづくホルカーは、茂みにさえぎられて前は見えなかつたが、もしものことがあつてはと思つたので、先頭の男と同じ姿勢をとつた。次の瞬間、先頭の男がこわごわ前に踏みだすと、彼も同じように踏みだした。  えぞまつの大木の下に、一人の男の死体が横たわつていた。黙つてそばに近よつて立つた二人は、まず最初に目にはいるものから、順々に見ていつた――顔、姿勢、服装、彼らの同情的な無言の好奇心に答える数々の特徴――  姿勢は仰向けで、両足をひらいていた。片腕は頭上にむかい、片腕は肘を横にして、手を喉にむけていた。両方とも掌をにぎりしめていた。姿勢は全体が無力な、けれどいちずな抵抗を暗示していた――なにへの抵抗?  そばに猟銃と、獲物をいれる網袋があつて、なかから鳥の羽根がのぞいていた。あたりは格鬪のあと歴然としていて、つたうるしの小枝は曲つて葉が落ち、幹に傷が残り、足のあたりの枯葉は散々掻き乱されていたが、それは死人の足以外の足で踏みにじつたものらしかつた。腰の両がわには、人間の脛のあとが鮮かに残つていた。  その格鬪がどんなものであつたか、死人の喉と顔を見たらすぐ分つた。胸や手は蒼白いが、喉と顔は紫色というより、ほとんど黒に近かつた。ちよつと地面の高くなつたところに肩がのつかつているため、顔が死人でなければこんな恰好はすまいと思われるほどの角度に仰向けになり、大きく見はつた空ろな目が、足と反対の方向をにらんで、泡だらけの口から、脹れあがつたような黒い舌が覗いている。喉は恐ろしく充血し、柔らかい肉に食いこんだ強い両手の跡ばかりか、小さい掻き傷まで残つて、死んだ後も長い間絞めつけていたものにちがいなかつた。胸も、喉も、顔も、服も、露で湿つて、髪の毛や口髭に、露が集つて滴ができていた。  それらいつさいのものを、二人は黙つて見た――ほとんど一瞬のまに。 「可哀そうに! ひどいめにあつている」ホルカーはいつた。  ジャラスンは、打金を起した銃を両手に持ち、引金に指をかけて、森のあちこちに目を配りながら、 「どうせ気違いのしわざですよ。ブランスコム[#「ブランスコム」は底本では「ブランスカム」]だ――パーディー」  ふと、ホルカーの視線が、掻き乱された落葉のあいだから覗いているある物に落ちた。よく見るとそれは赤革のポケットブックであつた。なにげなく拾つて開けてみると、覚え書きのための白いペイジがあつて、その第一ペイジに、「ハルピン・フレイザー」という名が書いてあり、つぎの数ペイジには、読みにくいほど急いだ走り書きの、赤い文字がみえた。ホルカーが声を出してそれを次のように読むあいだ、ジャラスンは霧にとざされた灰色の森のあちこちを透かしてみながら、重い梢からしたたる滴の音といつしよにそれを聞いていた。 [#ここから2字下げ] 不思議な魔法のとりことなり、 ほの白い微光のさす森に佇めば、 サイプレスやマートルは意味ありげに、 枝をまじえてうなずきあえり。 憂欝な柳はいちいに囁き、 ベラドンナとヘンルーダの下では、 いまわしき葬いの形にくねりて、 しぼまぬ花さきいら草茂れり。 小鳥は鳴かず蜜蜂はとばず、 梢をゆるがすそよ風もなく、 木々はひつそりしずまりて、 ただあるものは沈黙ばかり。 たくらみをいだく妖精どもは、 墓場の秘密を闇にかたらい、 頭上の枝より血の滴したたり、 木の葉はぎらぎらと赤く光れり。 声高にわれ叫びぬ―― されど心を縛る魔法はとけず、 ただ一人意志も望みも失いて、 恐ろしき予感に震えおののく。 やがて目に見えぬ―― [#ここで字下げ終わり]  ホルカーは読むのをやめた。それは行の途中で切れて、それから先、なにも書いてないからだつた。 「ベインの詩のようですな」  その方面のことに詳しいジャラスンはそういつた。あたりを警戒するのをやめて、彼は死体を見おろした。 「ベインつてどんな人です?」いぶかしげにホルカーはきいた。 「マイロン・ベインです。植民地時代に生きていた詩人ですよ。一世紀も前です。私は全集を持つているが、みな気味のわるい詩ばかり。しかし今の詩は全集にのつていないから、なにかの間違いでもれたのでしよう」 「寒い!」とホルカーはいつた。「もう帰りましよう。早く帰つてナパの検屍官に知らせなくちや」  返事はしなかつたが、ジャラスンは同意して歩きはじめた。死人の頭と肩ののつている、土地の高くなつたところの端をよけて歩こうとすると、彼の足先が、なにか落葉のなかの堅い物にふれた。なにげなく、彼は足でそれを蹴り出してみた。それは頭のそばの板だつた。それに消えかかつた字で「キャザリン・ラルー」と書いてあつた。(訳註=ケティーはキャザリンの愛称) 「ラルー、ラルー!」と、ホルカーは初めて思いだしたように、「そうだ! これがブランスコム[#「ブランスコム」は底本では「ブランスカム」]の本名でした――パーディーじやない。今いつしよに思い出したんですが、殺された女のもとの名は、フレイザー!」 「どうも、これには込みいつた事情があるらしい。私はなんだか気味が悪くなつた」ジャラスン探偵はいつた。  たちまち、霧の中の遠いところから、夜間砂漠をうろつきまわるハイエナの鳴声のような、嬉しそうなところの少しもない、低い、ゆつくりした、空ろな笑声が聞えた。その笑声はゆるやかな速度で、次第にはつきりと恐ろしく、次第に高くなつて、ついにはま近に迫つて聞え、あまり不自然、あまり非人間的で、悪魔そのものの笑声のようだつたので、さすがにこの人間を狩ることを職業とする強い猟師たちも、云いようのない恐れに打たれた。彼らは銃を構えもしなければ、構える意志もなかつた。姿のないものに、銃を構えてもなににもならぬからである。  けれど、沈黙の中から湧きあがつたと同じように、その笑声は沈黙のなかに消えていつた。すぐ耳元で響くかと思われたその笑声は、だんだん遠く、かすかな機械的な声となり、長い尾を引つぱりながら、いつ消えるともなく消えていつた。 底本:「宝石四月号」岩谷書店    1956(昭和31)年4月10日 ※底本は新字新かなづかいです。なお拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。