銀座繁昌記 内田魯庵 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)蠣殻《かきがら》町に |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大|割烹《かっぽう》店で [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「言+黨」、第4水準2-88-84]論 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]銀座の過去の憶出 ―― 松田の手水場[#「銀座の過去の憶出 ―― 松田の手水場」は中見出し]  銀座は江戸の初め駿府から移した銀座の故地で、町名は金座の本両替町に対する新両換町である。こういう考証は江戸ロギストの領分内で、今さら反覆する必要はないが、通称の銀座が本当の町名となったは維新後である。銀座の記事が江戸の旧誌にいっこう見えないのは、寛政年中銀座が蠣殻《かきがら》町に移されるまでは、京橋以南に銀座役人の役宅ばかりで町家が少なかったのではなかろうか。銀座が移転した享和以後ポツポツ盛りはじめても尾張町以北は銀座役人の役宅跡で、あまり賑かな町ではなかったらしい。江戸の買物案内を見ても古い時代のにはあまり見えない。文化文政以後の買物帳にはだいぶ殖えているが、名物らしい買物はない。かつ儒者や国学者や書家や画家や長袖《ながそで》がだいぶ住んでいたのを見ると、(中には町人の風流もあったろうが)町屋の軒並びでなかったのは容易に推想される。『江戸名所図絵』に載ってる金六町の信楽《しがらき》の店《みせ》がまえを見ても何となく宿場らしい面影がある。同じ『江戸名所図絵』の尾張町は江戸の繁華を想わせるものがあるが、この殷賑《いんしん》は江戸末期であって、江戸時代を通ずる新橋京橋間は、少くも尾張町以北はこれと日本橋との間宿《あいのじゅく》であったらしい。銀座の繁盛は明治となってからで、明治五年の二月、和田倉門の火事が銀座一帯を焦土にしたのが銀座の幸いとなったのである。が改革の気運に乗じ、新政府の威光をもって焦土の町に臨んだにせよ、この道路改正、家屋改築を断行できたのは地価低落のドン底の維新早々にしろ、江戸時代からの土一升金一升の日本橋と違って町続きの銀座の土地が買収しやすかったからであろう。これをもっても当時の銀座の経済価格を知るべきである。  この英断があったればこそ銀座は一足飛びに文明開化の新市街を現出して、それから以後メキメキと成長して日本橋を圧するの商業区となったのである。ところで、煉瓦石造りの建築令が布《し》かれたのは和田倉大火早々の明治五年二月であるが、この建築令による銀座の新市街の竣功《でき》上ったのはイツであるか。これについての諸説はまちまちであって、銀座の古老達の記憶もアヤフヤで、なかには思切った与太を飛ばす銀座通もある。が、確たる記録がなくとも、銀座礼讃の声を第一に掲げた『東京新繁昌記』の初篇が出版されたのは明治七年四月であって、銀座を礼讃しつつも書中に新市街を迎える記事なり口気《こうき》なりが見えないので推すと、その時分はすでに立派に出来上っていたので、六年頃に竣功したのではなかろうか。資生堂編纂の『銀座』に載った二、三の遺老のはなしに、銀座はその初め空家《あきや》が多くてふさがらなかった。煉瓦を積んだ職人が煉瓦をつなぐ白堊《しっくい》のあつかいに馴れなかったので、そのため湿気で居住者《すみて》がなかったから見せ物小屋がたくさん出来たのだろうだ。私が初めて銀座を知ったのは明治八年で、その頃銀座は見世物の軒並みで賑わっていた。それから推しても一年やそこらで湿気を恐れて逃出すものがあるはずがないから、それから二年前の明治六年頃に煉瓦通りが出来上ったと見るのが当らずとも遠からざる憶測であろう。  その頃私は銀座に近い芝の桜田の壕端に住んでいた。その頃は市内の交通がマダ不便だったから山の手や浅草下谷の場末(その頃は浅草下谷は下町でも場末だった)から泊りがけでワザワザ煉瓦の新市街を見物に来る泊り客が絶えなかった。さもないものでも煉瓦(その頃は煉瓦の通称で通っていた)へ案内するのが泊り客への第一の御馳走だった。そのたびに私はお供をしたが、新橋へ行くとにわかに夜が明けたように明るくなって気が浮き浮きした。ハッキリは覚えないが、尾張町近所が見世物町で、貝細工や麦稈《むぎがら》細工やその頃はやった覗眼鏡《のぞきめがね》がならんでいた。タシカ今のライオンの角だったと思うが、児雷也《じらいや》と大蛇丸《おろちまる》と綱手姫の妙高山の術くらべの人形が貝細工で出来ていて、胴まわり醤油樽ほどある大蛇の貝細工がすばらしい評判だった。この銀座の見世物町で私は初めて油絵というものを見た。誰の絵だかその時は知らなかったが、のちに高橋由一の社中であると誰からだか聞いた。もっともあまりアテにならない説で虚聞であるかもしれないが、ビチューム一点張りの真暗な絵で、鮭の片身が壁へブラ下ってる図や行燈の火影で婆アさんが雑巾を刺してる図で、子供心にホンモノのようだと感心して二、三度つれてって貰った。画家は誰であったか忘れてしまったが、誰であったにしろ洋画の展覧会が貝細工や麦稈細工と隣り合わした見世物から出発したというのはたしかに明治の美術史の興味ある一節に違いない。  銀座の名物の松田はとっくの昔になくなってしまってるのだが、狭い小路を隔てる玉鮨と隣合って錦絵にすら載せられ、今なお若い人たちにも知られてる。松田へ初めてつれてって貰った時は絵に描いた竜宮へ行ったような気がしてぼッとしてしまった。その頃の私の家はかなりなブルジョア生活をしていたし、父はハデ者ではなかったが相当遊蕩家だったから、名ある旗亭《きてい》(料理屋)へつれてって貰ったこともそれまでに何度かあったが、幼時の記憶に一番残ってるのは松田である。今考えると、ダダッ広い座敷でこそあれ、一つ室に幾組ものお客を衝立《ついたて》一つで仕切って入れた、お茶漬茶屋であった。立派といったところで、地震に焼けた前の浅草の常磐ぐらいなもんだったろう。入口は色ガラスの市松格子で、正面は幅の広い段階子《だんばしご》、お客が来ると下足番が大きな声で何番とどなる。あんまり上等じゃなかった。が、階子をトントンと昇ると廊下には絵ガラスの燈籠が一間おきぐらいにつるされ、その頃マダ珍らしかったガスが大広間に点火されていたから、その下に座らせられた田舎の爺さま婆アさまは眼をまるくしてブッたまげてしまった。  大向うの人気はとかく下品な趣味が感服されるもんで、二十五、六年前、大阪のある牛肉屋の四方鏡張りの雪隠《せっちん》が大評判となったので、一時大阪の各旗亭が便所の設計を競争した事があった。松田はこの雪隠政策の先駆者で、松田の手水場《ちょうずば》といったら大した評判だった。別段変った設計をしたわけではなかった。その頃の中以下の飲食店の厠《かわや》といったら鼻もちならない不潔であるのが普通であった。松田は特に便所の設備に手を尽して造作に念を入れ、便所の中を鏡のように拭きこみ、香気の高い防臭剤をプンプン臭わし、手洗鉢《ちょうずばち》に噴水を装置し、水番が控えて一々水をかけてくれた。松田の手水場は臭くなくてイイ匂いがする、お茶席よりも清潔だと評判された。松田が繁昌したには種々の理由があろうが、便所の清潔は確かにその理由のおもなる一つで、松田へ行くものは便意のあるなしにかかわらず必ず便所へ入ったもので、手水場拝見が松田遊興のプログラムの項目の一つであった。関槎盆子の『銀街小誌』が松田の繁昌を記する一章に『松田楼雪隠』なる命題を選んで、特に雪隠の設備に若干行をさいたのをもって推しても、松田の便所が当時の話題の一つであったを証すべきである。  松田の防腐剤が何であったかは子供の時で気にも留めなかったが、プンプン鼻をついたのはやはり樟脳の類らしかった。それからあと、防臭剤の類がたくさん出来て、飲食店に限らず公衆の集まる便所はアンモニヤの代わりに樟脳の匂いがするようになった。時代は次第に移って一の臭気を防ぐため他の臭気を迎えるこの種の防臭設備を厭うようになった。帝劇の出来た時分、口の悪い故人の岩村芋洗が芝居はやはりアルボースの臭いがしないと芝居の気分が出ないと皮肉をいった事があるが、松田の手水場も当時の文明開化党には嬉しがられたが、アレではお茶屋の気分が出ないと江戸の通人の遺老の間にはあまり評判がよろしくなかったのかもしれない。が便所の設備が人気を呼んだというのだから、当時の文明開化の空気はほぼ想像される。 [#3字下げ]清新軒と函館屋[#「清新軒と函館屋」は中見出し]  が、その頃はマダ銀座も草創時代で、表通りにさえ空家《あきや》があって裏煉瓦はマダ半なりで、河岸通りになると日暮には人足がとだえた。見世物が景気を添えて人を呼んだが、盛り場としたらその頃久保町の原と称した土橋《どばし》のそばの空地の方が葭簾張《よしずつばり》の鮨や汁粉やおでん、豆蔵《まめぞう》(大道芸人)や居合抜や講釈で賑わっていた。銀座からは少し離れていたが、芝の桜田の売茶庭というがその頃の一流の大|割烹《かっぽう》店で、社交の中心となっていた。表は久保町に面して裏は壕端へ抜け、イツデモ馬車の二、三台は待っていた。私はマダ子供でそういう方面の消息はいっこう知らなかったが、その頃は待合政治というものもなかったし、寝猫《ねこ》遊び(芸者遊び)は市井の遊冶郎《ゆうやろう》のする事で、朝廷の大臣参議は堂々と馬車を乗入れて酔歌乱舞の豪興をやったもんだ。私の家はあたかもこの売茶の隣屋だったから、夜に入ると絃歌の声が手にとるように聞えた。売茶の閉鎖はイツ頃であったか知らぬが、明治十八年の『東京流行細見』には芝京橋では第一位にあげられ、洋食としても精養軒についでるからなお相当の声価を維持していたのだろうが、その頃はモウ下り坂でさびれていたらしい。花月は明治早々マダ煉瓦が出来ない以前からあったそうだが、その頃の子供の私はまるで没交渉で名前すら聞かなかった。松田の鰆《さわら》の照焼ときんとん蒲鉾の口取りが天下第一の御馳走であった。  そのあくる年は下谷の家へ戻って銀座とは遠くなってしまったが、私の家の菩提所の白金の寺へ墓参したかえりは必ず銀座へ廻った。その頃下谷から白銀へ行くのは今日箱根や熱海へ行くよりも時間がかかったので、腕車《くるま》で行っても一日がけの大旅行であった。墓参はつけたりでかえりに松田で鰆《さわら》の照焼ときんとん蒲鉾でご飯を喰べるのが楽しみで、墓参というと三日も前から有頂天だった。それからしばらくすると私の家はソロソロ左り前で、下谷の大きな邸から鳥越の小さな家へひっこし、鳥越の小さな家も売払って三筋町へ店借りした。何千坪の大きな地主様から三間《みま》か四間《よま》の借家人と一年たたぬ間に急転直下に成下がったのだから、もはや松田の照焼どころではなかった。おりおりの墓参も父が単身で一直線に菩提所へ詣でたので、私は遠方だからとつれて行かれなかった。  明治十四、五年頃芝へ下宿し、それから三、四年間芝と築地の間をアチコチ転々した。銀座は遊歩区域だからチョクチョク散歩したが、その頃はもう見世物町でなく、今ほど銀座を享楽するものはなかった。その頃から銀座へ行けば贅沢物を売ってるという評判だったが、下宿住いの貧乏書生の興味を惹く何物も銀座にはなかった。松田と並び称された今の博品館の角の千歳はその頃すでに繁昌していた。松田は十八年の『流行細見』には依然中食のお職になっているがその頃は浅草の隅屋《すみや》のあとへ出した支店の方が栄え、銀座の本店はややさびれて、新らしい千歳におされ気味だった。ドッチも同じ中食茶屋で、今なら何とか食堂といいそうな惣菜料理だったが、千歳の方がやや高等で、松田が衝立一つで幾組も入れたに反して、千歳はそういう広い座敷の代りに一と組だけの別室も幾間かあった。が、赤ゲット向きの色ガラスの障子などがあって万事の設備がやはりあまり上等ではなかった。  だが、その頃はもう照焼、きんとんでもなかった。下宿屋書生共通の牛肉党で、土橋の黄川田へよく出かけた。(黄川田は烏森が本店だったそうだが、土橋のほうが家が奇麗で繁昌した)『流行細見』には銀座の吉川の名が見えるが、その頃私はマダ吉川を知らなかった。具足町の河合はその頃から知っていたが、芝からは遠方だったから、自然黄川田へばかり足が向いた。さもしいはなしだが、生《なま》一人つきの鍋に御飯で十二銭五厘だった。だが、その頃は十二銭五厘がなかなか大金で、学費を受けとった時でもなければ散財できなかった。ずいぶん蟇口の底を叩いて一厘一毛の余裕もない切りつめた算当で出かけた事もあった。大きな声じゃいわれないが、牛肉の誘惑に負けて教科書をポーンした事もあった。あんまり善良じゃアなかったネ。銀座のその頃の飲食店(黄川田は裏煉瓦だが)の憶い出としてはこのほかにない。  そうそう私が初めて洋食を味わったのはやはり銀座であった。その頃より二、三年前の明治十五年、新らしい橋内の丸木(丸木が橋の外の今入町の堂々たる家へ越したのはそれから十年もあとで、初めは橋の内だった)へ写真を撮りにいった帰りに、従兄につれられて槍屋町の清新軒で生まれて初めての西洋料理を喰った。ドンナものが出たか忘れてしまったが、ナイフが巧く使えないので、チキンの皿をガチャンといわして皿から肉を跳飛《はねと》ばした事や、フィンガー・グラスの水をガブッと呑んで笑われた事を覚えてる。が、皿数が七ツばかりで、今の三円の晩食よりも上等で、一人前が五十銭てのは安いもんだった。それでもその頃は洋食は贅沢視されて子供や書生は分に過ぎると省かれて仲間入りが出来なかったもんだ。物価も安かったが、生活の程度も低かった。  その頃銀座に箱舘屋という氷屋があった。天賞堂前の西側、銀座食堂の所で、富士の山の形をした屋根看板が人目をひいて銀座の評判となった。主人の伸大蔵というは(尾州藩士だそうだが)榎本に従って脱走した五稜郭の残党で、腰部に弾創を受けてしばらく民家にのがれていた。その後東上して銀座に氷屋をはじめたのが明治九年、屋号を箱舘屋といったのは、その頃は天然氷だけで箱舘が唯一の産地であったからだが、一つは五稜郭が一生の忘れられない憶い出であったからでもあろう。麦酒樽《ビールだる》のようなはちきれそうな恰幅《かっぷく》で、その頃町屋には(銀座でも)珍らしかった洋服に下駄穿きという珍妙ななりで、客を客とも思わず蛮声を浴びせかける五稜郭当時の元気が売物となって、富士の看板とともにたちまち銀座の名物となった。  箱舘屋は氷屋という条、その頃珍らしい洋酒をおいて一杯売りをした。鳥渡《ちょっと》バーという形があった。五稜郭の残党というので幕人がよく出入りしたが、明治の初め一番ハイカラだったのは幕人で、箱舘屋をひいきにした後援者の幕人中には、日本の最初の洋行者もたくさんあったのは争われない。のちの伯爵林薫先生などもその一人だったそうだ。この箱舘屋でその頃すでにアイスクリームを作っていた。もっとも横浜の居留地内には明治二、三年頃からアイスクリームを喰べさせる家があって、一杯一分であったそうだ。両に米何斗という時代の一分は滅法界もない高いもんだったが、この一分のアイスクリームの味が忘れられないで、私の父などは東京にはアンナ旨いものはないと始終いいいいした。箱舘屋がアイスクリームを作りだしたのはイツ頃からだかハッキリしないが、その頃(明治十四、五年)はすでに小耳に挟んでいた。が、清新軒の料理は御馳走して貰ったが、箱舘屋のアイスクリームは少年の私の口に入るものではなかった。(無論マダその頃は精養軒は知らないが普通の市中の洋食店などではアイスクリームは作らなかった)金玉均が初めて来朝して宗十郎町の山城屋に滞在中、珍らしい頬ペタの落ちそうなものはないかと注文されて、宿の主人の機転で箱舘屋のアイスクリームを出すと、金君ホントウに頬ペタを落してしまった。それから後箱舘屋のお馴染となって閑さえあればよく遊びに来たそうだ。  箱舘屋は牛乳と氷ではイツモ率先していた。十数年前、一時カルピスの前身ともいうべきヨーグルトというが流行した。アイスクリームの甘味がなくて酸味の強いようなものだったが、箱舘屋のはことに美味だというので評判された。もっともヨーグルトとしての医学的特効の方は疑問とされたが、箱舘屋のヨーグルトはかなり評判であって、私のごときもわざわざ使いに買わせて賞味した事があった。が、このヨーグルトで売ったのが箱舘屋のラスト・スパークで、間もなく五稜郭の落武者のこの名物男は大往生をして、名代の富士の山の看板は下された。箱舘屋の名も今は過去の語り草となったが、銀座の憶い出に欠くべからざる一人である。 [#3字下げ]円太郎馬車と鉄道馬車[#「円太郎馬車と鉄道馬車」は中見出し]  清新軒へいった帰り、ちょうど鉄道馬車が開通そこそこで、わざわざ鉄道馬車を見物に来るものさえあったのだから、私も銀座へ出て尾張町から京橋まで乗ってみた。馬がレイルの上を車をひいて走るという何でもない事が珍らしがられたというは、今きくと馬鹿らしくて信じられないが、その頃は真実珍らしがられたのだ。昔は近江の竹生島《ちくぶじま》の住民が一生の憶い出に大津の町へいって馬を見て来ベエといったという一つばなしがあるが、マダ京浜の鉄道を見ないものもあった時代、馬車が汽車と同じにレイルを走るというは大珍事でないまでも看物《みもの》であったに違いないので、私のごときも多少の好奇心をもって試乗した。乗ってみれば格別の奇もないがマダ出来たてのホヤホヤであるから、今までのガタ馬車と違ってきれいで、クッションも新らしくフカフカして乗心地が快かった。  鉄道馬車が敷かれるまでの市内の交通機関は明治そこそこに文明開化の先駆をした千里軒系統の乗合馬車であった。千里軒系統の乗合といって今の若い人には貞秀の錦絵でも見なければ解るまいが、木郭《もっかく》の屋根のすこぶる粗造な原始的の馬車である。今では僻遠の山里でもめったに見られまいが、このガタクリ馬車が背骨の露れてところどころ皮膚の摩剥《すりむ》けた老馬をピシピシと引っぱたきつつラッパをブウブウ吹いて帝都の中央を走っていた。この痩せさらばえた老馬があえぎあえぎ鼻から息を吹き吹き、脂汗を垂らしてガタクリ走っていたのが「お婆アさん危ないよ」と今の自動車よりもこわがられていた。落語家の円太郎が高座でこのガタ馬車の真似をしたのが人気になって、乗合のボロ馬車を円太郎と呼び、今日の自動車のバスまでが円太郎と称される。  これについて先頃もある新聞が、乗合を円太郎と称する語源を説明して、落語家の円太郎が高座でガタ馬車の真似をしてラッパを吹いてからだというと、イヤ乗合馬車の方が円太郎の真似をしたのだと大いに通振った明治研究家があった。ツイこないだの事がコウも解らなくなるものかと本末顛倒を笑止に思った。話は少し横道に入るが、銀座のまんなかを走った電車以前の交通史のエピソードとして円太郎の事を少し加えよう。  円太郎というは名人円朝の前座を勤めた男で、円朝歿後の三遊派を事実上に統率した円喬の実兄だった。弟の円喬が円朝の衣鉢を伝えた素咄《すばなし》の名人であったにひきかえて兄貴の円太郎は破鐘声《われがねごえ》で鼻にかかった都都逸を唄うほかには能のない、陽気というよりは騒々しい男だったが、デップリ肥った丸まッちい無邪気な起上り小坊師のような身体つきと、高座へ上るとすぐ都都逸を唄いはじめて、ノベツ幕なしに一つ音曲噺をシャレまで同じに臆面もなく毎晩繰返す毒のない芸が愛嬌になって相応に人気があった。ドウいうシャレだか、持前の芸づくし大一座の中に乗合馬車のかけ声の真似をして「お婆アさん危ないよ」といったのが馬鹿に人気を呼んでドッという大喝采だった。だんだん図に乗ってしまいには真物の朱総《しゅふさ》の真鍮ラッパ(角笛《ホーン》型の)を高座へ持込んで、はなしをはじめる前にまずお客に向かってブブブウと吹いた。これがまた愛嬌となって高座で円太郎がラッパを吹くと割れるような騒ぎだった。馬鹿馬鹿しいくだらぬ芸であるが、円朝一座のなくてならぬ愛嬌者となっていた。これも御多分にもれぬ無芸の芸人立川談志の郭巨の釜堀踊りの唄に「円遊ステテコ、円太郎ラッパで、テケレッツのパア」何の事だか解らぬが、この円遊のステテコ、円太郎のラッパ、談志のテケレッツのパア、当時寄席芸人の三人気男であった。(万橘のヘラヘラというはそれより少し以前)そのうち、円遊はかなり音曲手踊の相当の素地があったが、円太郎、談志はまったく無芸の芸人ともいうべきもので、江戸の音曲の廃頽した寄席芸術の表現派であった。それからして乗合のガタ馬車の異名が円太郎となったので、乗合がラッパを吹いたのは円太郎以前からだ。もとはやはりヨーロッパの田舎の飛脚馬車の真似をしたので銀座の大道をラッパを吹いてガタ馬車を走らした図はドウしても十八世紀あたりの風俗画を憶い出させる。明治の文明開化は円太郎馬車で象徴される。  円太郎馬車の全盛時代は貞秀が名所絵に気をはいた明治四、五年から八、九年時代であった。が、十四、五年頃はあかれ気味で、職人階級、労働階級でなければ乗るものはなかった。もっとも官吏階級は旅にでも出なければ乗合などには乗ろうともしなかった。(その頃はまだ京浜間しか汽車は通じなかった。奥羽線が熊谷まで開通したのはその翌年だった)東京市中、しかも銀座の大道を円太郎がブウブウ、ラッパを吹いて見苦しい車体をガタクリして通るは帝都の不面目だとひそかに顰蹙《ひんしゅく》していた。奏任車(蝋色《ろういろ》塗の一人乗、その頃は抱えに限られていた)にフンぞり返って行人を見下して、走らせる資格のない腰弁階級や中等商人は円太郎へ乗る気にもなれないで、人生行路難を東京市中で嘆息していたんだから、円太郎と比べて同一の談でない馬車の開通を、一斉に歓迎した。これでこそ文明都市に恥かしからぬ交通機関だと、中等階級者にはことごとく感服された。私のごときも感服した一人だった。  これからしばらくは馬車鉄時代だった。錦絵を見ても赤い円太郎の右往左往する煉瓦通りの光景は義理にも文明の市街とは言いにくかったが、鉄道馬車となるとドウヤラ文明の首都らしくなった。かつ開業当初は車台が新らしく、円太郎とくらべて車体が大きく立派だったから感服されたが、しばらくするとだんだん汚なくなってやや飽かれ出した。第一、円太郎でも馬車鉄でも馬がひく以上は排泄物をいかんともし難かった。人夫が絶えず拾っても拾いきれないで、自然レイルの間は馬糞を堆積して、銀座のまんなかを通じて一条の馬糞溝が出来た。ことに停留所では定ってイイ気持そうに放尿した。銀座ではないが、なかんずく日本橋の大倉書店前は有名な鉄馬の放尿所であった。その頃は道幅が狭かったから、ややもすると通りがかりのものは飛沫を浴びせられた。ロンドンのタワー=ブリッジも写真で見ると壮麗だが、自動車のない馬車時代、大船を通ずるために橋板を開くと馬糞がコロコロと転がり落ちるにはロンドナーもお国自慢の鼻が折れたそうだ。日本一の日本橋の袂に馬尿の洪水が溢れているのは『江戸名所図会』には見られない図だ。ラッパ円太郎氏高座で唄って曰く、「ほれたほれたよお前にほれた、馬が小便して地が掘れた」と。ラッパ氏、有繋《さすが》に馬車馬の通人だった。 [#3字下げ]寄席とシネマ[#「寄席とシネマ」は中見出し]  その頃銀座には今の東明座の前身の金沢亭と、南鍋町の鶴仙と、もう一件銀座二丁目(?)に講釈場があった。寄席《よせ》のフアンであった私には寄席についての憶い出もあるが、寄席はたいていドコでも同じだから銀座の寄席にはあまり行かなかった。そのうち金沢亭は都下有数の席で、大看板が常にかかったが、まだ下谷の吹抜、浅草の並木亭、神田の白梅には及ばなかった。(本郷の若竹、九段の富士本、牛込の藁店等の全盛はこれよりまだ以後である)  銀座には今、シネマ銀座があって金春あたりの美人がだいぶ来るという評判であるが、十年ほど前、西側の裏煉瓦に金春館というのがあった。建物は小さかったが、出し物は封切の西洋物ばかりで、これも帝劇の女優が来るというので評判だった。トウダンスで売出した高木徳子が全盛だった頃、数寄屋橋内のスケート場の帰りにきっと来たそうで、マネージャーのSが今、高木徳子が来ていますと電話をかけて来たことが三、四度あったが、徳子の素顔を見てもはじまらないから一度も行かなかった。金春館はイツごろ閉鎖したか知らないが、シネマ銀座がその株を取ったと見える。ここらの活動は、ちょうど銀座の散策がカフエよりも夜肆《よみせ》の冷かしよりもモガのぞめきを見物するを主とするものがあると同様に、スクリーンの面白味よりは観覧席の眼の保養を楽しむものがあるらしい。少なくも銀座のムーヴィーは観覧席が興行主の懐ろの痛まぬ大入りの美景となってるらしい。  シネマのない頃の唯一の民衆娯楽は寄席であるが、銀座には前記の三席があった。講釈場を除いて寄席は正月のほかは昼間は席を打たぬものであったが、金沢亭には色物の昼席があって、二、三度聴きにいった事があった。が、昼間は何となく気が落着かないで寄席気分になれなかったのと、夜は、その頃の私の下宿(芝)から余り遠かったので、銀座の寄席には自然足が向かなかった。何といっても銀座の民衆娯楽は明治八、九年の見世物時代が一番盛んであった。が、見世物の種類は前記の貝細工、麦稈《むぎがら》細工、覗眼鏡などは上等の部で、私は記憶はないが、銀座の古老のはなしによると、今なら片山里の鎮守の祭礼にも小屋がけしそうもない轆轤首《ろくろくび》、足芸、首切り、因果物、神仏利生記、地獄変相のゼンマイ仕掛等が昔からやはり人の出盛る西側にならんでいたそうだ。銀座がおいおい商店でふさがってから山城河岸へ見世物は移転したがその頃の山城河岸といったら狐や狸の出そうな今の帝国ホテルのあたりと、真菰《まこも》の茂った濠一つ隔てた淋しい町だったから、明かるいガスの町なればこそ轆轤首も見物はあるが、裏町の淋しい夜はいっこう人が出なかった。だんだんさびれて一つ減り二つ減って、見世物町がイツカ末枯れの、京侍の『絞染五郎剛勢談』に出て来そうなグロテスクなうどん粉の女の巣となってしまった。 [#3字下げ]新聞の発祥地 ―― 毎日の編集室の憶い出[#「新聞の発祥地 ―― 毎日の編集室の憶い出」は中見出し]  新聞町は今は有楽町に移ったが、もとは銀座が優勢な新聞社の淵藪《えんそう》であった。少なくも京橋区内に旗揚げしなければ社運の大をなしがたい感が新聞創業者に共通していたらしい。「日新真事誌」が明治四年(マダ煉瓦にならぬ前)ツイ近頃区整で破壊された尾張町の山崎洋服店の所に新聞社の礎石を置いたのが初めてで、その跡が「曙新聞」となり、これも今は取払われたもとの服部時計店の角が「朝野新聞」、ライオンの所が「毎日新聞」、「曙」の隣りが「絵入朝野新聞」で、おのおの銀座の要害によっていた。「読売」が京橋の一角の第百の支店の在る所、「日日」が銀座の中心のマツダランプの売店やタイガーの在る所に盤踞していたのはツイこないだの事だから誰も知っていよう。大通りではないが「時事」が南鍋町に、「朝日」が滝山町にあったのはマダ記憶があまり新らしい。「国民」だけが旧地(日吉町)と余り遠からぬ加賀町に移転しただけで、その他はみな有楽町、あるいは有楽橋附近に集まってしまった。が、その頃は銀座が新聞の中心地であった。その頃の新聞は事件の報道よりは言論の機関で、実際新聞に関与したものは言論界の雄たるのみならず、政治界の重鎮でもあったから、すべての政治的、社会的、思想的の諸運動が銀座を中心とする新聞社の編集局からしばしば捲き起こされたということは決して過謬ではない。  新聞社の最近の膨張はあたかも魔法使いの播いた種子から生えたかたわれが、たちまちスルスルと伸びて枝を生じ葉を茂らし、蕾をつけてみるみるふくれて爛漫と咲匂うがごとき異常な長足の大発達をした。城郭とも見紛《みまご》う宏大なる大建築を構え、駈出しの新米記者でもどうどう自動車を飛ばして踏んぞり返っている。が、その頃の新聞社ときたらみかけは相当に大きくとも印刷機械で場をとっているので、一編集局内はガラクタの椅子《いす》、テーブルに禿筆欠硯《ちびふでかけすずり》、ごみと紙屑で埋まっていた。しかして記者先生は、古りたれども洋服、破れたりとも羽織袴で佐野源左衛門然と納まってるのは主筆先生ぐらいなもので、たいていが着流しの、精精が米琉ぐらいの一枚看板であった。なかには洗晒しのヨレヨレの久留米の羽織をかんじんよりで結んでるのもあった。が、気位は材木屋の鳶よりも高く、昂々然として天下国家を論ずる処士横議の風があった。新聞社の勃興したのは、維新後薩長の禄を喰むをいさぎよしとしない幕府や佐幕の残党、経綸余りあっても当路にいれられない不遇人、もしくは仕官も帰農も帰商も意のごとくなるあたわざる失意者が驥足《きそく》を伸ぶる地がなくてよったのが勢いをなしたのであった。その頃、明治十四、五年頃はソロソロ営利化してきたが、まだ維新の気魄が残っていて、天下の木鐸《ぼくたく》を任ずる意気込みがあった。少なくも新聞社の存在は銀座の光輝であると高く自ら矜持していた。  その頃はまだ吾曹先生の文名が四海を圧していた。薩長の脅威であったはもちろん、健訟の弊風を論じて口も八丁手も八丁の代言人と戦って屏息せしめ、売薬無効を宣して売薬業者のボイコットに包囲されてもひと睨みに縮みあがらせ、人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る『暫』の金剛丸然と目をむいて、官僚の鯰坊主どもを恐がらせ、柳巷の女鯰《おんななまず》をも威望になびかせていた。が、その後いくばくもなく御用記者となってからは吾曹先生の勢望もたちまち失墜してしまった。「日日新聞」もまた社会的にはだんだん影がうすくなって、吾曹先生隠退後の日報社は篤実なる橘邨先生の精励も、碌堂先生の縦横の大文章ももはや旧時の勢力をもりかえす事が出来なくて、かつては銀座の鎮台であった堂々たる石造の大城郭が荒涼としてあたかも無住寺の大伽藍の如くであった。(「日日新聞」が再び昔の陣容を立直して堂々の勢いを張ってきたのは「大阪毎日」の経営に移ってからである) 「朝野新聞」は、今はやや忘れられたが、成嶋柳北のゆく所として可ならざるなき多方面の才芸学術と、江戸人通有の風流洒落とで鳴らした、「日日」に次いでの有力なる新聞紙であった。末広鉄腸はもと「曙」社の勇敢なる闘将であったが、後に「朝野」に転じて柳北の稗将《はいしょう》となり、その諤々《がくがく》たる|※[#「言+黨」、第4水準2-88-84]論《とうろん》正議は薩長藩閥をして新たに一敵国を加うの感あらしめた。かつ鉄腸はただに侃諤《かんがく》の政論のみならず、狂言綺語の詞才に富むは『二十三年未来記』や「雪中梅」を以てもうかがうべく、柳北傘下に恥じざる文豪であった。「読売」はその頃の大新聞と小新聞の中間をねらった中新聞で、文学新聞というよりは家庭新聞であった。高畠藍泉、中坂まどき、琴通舎康楽等で固めた投書欄は当時の文学青年を喜ばした呼物で、硯友社の才人はこの投書欄から発足した。「時事」は上記の新聞よりはやや遅れて出発をしたが、三田を背景とした堂々たる大新聞で、発刊当初からゴスペル=オブ=ソロバンの使徒を任じた大新聞であった。今は茶事風流に隠れて書画骨董の漫録に遊んでるが、当時の高橋箒庵に非ざる高橋義雄の拝金伝道は、目ざましいものであった。『拝金宗』は実に洛陽の紙価を狂わした名著(?)で、そのお庇《かげ》で大成金になったものもあろうが、そのお庇で産を破ったものもあろう。  一番要衝の地(今のライオンの所)によったのは「毎日新聞」であった。が、沼間守一の嚶鳴社時代から質実硬直の社風を一貫して沼南に伝えたので、有力なる大新聞の一つであったがついに一回も人気を振う事がなかった。幹部はいずれも論壇の粒よりで、個人としては皆社会の儀表《ぎひょう》であったが、なぜだか集団《マッス》としての威力を欠いていた。沼南時代となってから社説はますます光彩を加え、常に一歩を時流に先んじ、絶えず時代の新味を入れるにおろそかでなかったが、ドウいうわけだか推奨者はあっても愛読者は乏しかった。必ず目を通さねばならぬ新聞の一つであるを誰にも認められていたが、実際はあまり誰にも読まれていなかった。  その頃の私はただの新聞ファンで、熱心なる新聞縦覧所の出入者の一人であったが、新聞社内部の事情などはもちろん少しも知らなかった。二、三の新聞界の名士の演説を聴いて顔を見た事はあったが、格別の興味もなかったから何の印象をもとどめなかった。が、銀座を通るたびに眼に残ったのは誰が書いたか知らぬが「読売新聞」の看板と、誰が建てたか知らぬが日報社の建築であった。日報社の建築は建築がイイというのではないが、一律平板に積木を転がしたような赤い煉瓦家屋の中に円柱を建てたローマネスク風の鼠色の建築がいかにも堂々たる感じを与えた。この建築は十年程前まであったから記憶に残ってる人もあろうが、明治の初期の共通の田舎臭い洋風趣味はあっても銀座第一の堂々たる建物であった。        *  私が新聞社と交渉しはじめたのは明治二十三年前からだが、一番たびたび遊びにいって知ってるのは銀座では毎日新聞社の編集局だった。新聞社はドコでも汚ないのが通り相場だが、ことに毎日新聞社は他社へ輪をかけて汚なかった。故人となった「毎日」の社員の横山源之助は今でいうプロ文学の先駆者で、観音の縁の下の夜明かしもしたし、木賃廻りもしたし、汚ないほうでは容易に驚かない男だったが、月給の安いのはがまんするがモ少し社をきれいにして貰いたいナとときどき壁訴訟をしていた。ことに編集者を閉口さしたのは編集局が西向きで、冬はイイが夏になると一杯に西日を受け、扇風器のないその頃は坐りながらにして日射病になってしまう。ちょうど焦熱地獄の苦しみにあえぐ真最中の午後四時から五時が編集に忙がしい時で、原稿紙(その頃は唐紙の巻紙)の上に汗がボタボタ垂れて墨がにじんでしまう。その頃編集局の一人だった戸川残花は前額からポタポタ垂れる汗を拭き拭き、寒時には寒殺し暑熱には熱殺すというが、こう熱殺されどおしじゃ堪らんと、氷のかけらをかみながら苦笑した事があった。その中にひとり泰然自若として衆社員が苦熱に喘いでハアハアいっているのを白眼冷視しつつコツコツとして筆を走らせていたのは編集長のNだった。Nは沼間門下の嚶鳴社のはえぬきであった。閲歴からいったら隅板内閣当時に波多野や肥塚と同列に知事ぐらいには抜擢されているべきはずだったが、名利に恬淡なかれは黙々として儕輩の栄位につくを傍観しつつ、曇如として西日のやきつくごとき「毎日社」の編集室のガラクタ椅子を楽しんでいた。その後Nの消息はサッパリ聞かないが、毎日社の汚ない編集室を憶い出すごとに、黙々として語らざる木像の如きNの朴訥なる無表情の相貌をイツデモ思い浮べる。 [#3字下げ]銀座の本屋 ―― 稲田政吉と兎屋と鳳文館[#「銀座の本屋 ―― 稲田政吉と兎屋と鳳文館」は中見出し]  その頃(明治十四、五年頃)の銀座人物誌として第一にあぐべきは博聞社の長尾景弼であろう。記憶がおぼろげであるが、タシカ南銀座の西側の黒沢タイプライターのあたりだったと思う。間口の広い堂々たる店がまえで、書生ッぽの我々には入りにくかった。その頃の出版界は新旧交代期で、江戸時代からの旧家の芝神明前の泉市《せんいち》は古いのれんの余威をはっていても強弩《きょうど》の末|魯縞《ろこう》をうがつあたわざる頽勢をドウする事もできないで、つかれきっていた。江戸の書林の総元締ともいうべき須原屋の大看板は日本橋の袂に黒光りがしていても祖業を守るだけで無為に過していた。伝統のあるこれらの和本屋では木板和紙の漢文物を旨として、活字の洋本とすべき性質の舶来臭い新らしい著訳物はあまりに喜ばなかった。いきおい翻訳系統の片かな交りの新著を迎うる出版者が起こらねばならなかったので、博聞社はこの先駆者でもあり、また成功者であった。社長の長尾景弼は播州竜野の藩士で、千葉県知事から元老院議官となり最初の貴族院に列した柴原和とともに竜野の二人物と称されていた。おもに官版物を扱ったので、岩倉大使一行の『欧米回覧実記』五冊は博聞社の出版中の最も浩澣なるものであった。近頃明治文学研究の流行とともに記憶をよみがえらした初期の翻訳家の井上勤の『魯敏遜漂流記』も博聞社から出版されたのだ。『魯敏遜』は井上の訳書中一番傑出しているが、装釘もまた当時の出版として今日の新刊と列べてもあまりに恥かしからぬものだった。(博文館の名が『佳人之奇遇』を出版した博文堂の盛名に追随したのだという説がしばしば伝えられ、ツイこの頃も高名な某小説家の談話として某誌に載っていたが、私は大橋新太郎氏からも先代の佐平氏からも聞いたのではないが、そうは思わない。博文堂も『佳人之奇遇』発行当時は相当盛名があったが、博文館が出版界へ乗出した時はもうつまずいて神田の西小川町の屋敷長屋に逼息《ひっそく》してかろうじて出版を継続していたので、印刷局を向うへ廻して競走するような空想に燃えていた先代佐平老人を羨ましがらせるような家ではなかった。博文館の名がかりにもし出版成功者の先蹤に迫ったとすれば、それは博文堂ではなくて博聞社でなければならない。けれどもこれも私の想像で、あるいはそうでないかも解らん。)  銀座には博聞社のほかにモウ一軒新らしい活字本の洋本の出版者があった。報告者大野堯運といって、タシカ京橋寄りの西側の、今の安田銀行支店か、大倉商事会社のある角だった。あまり大きな店ではなかったが、やはり官版を主としてかなり大きくやっていた。ここから連月発刊された『法令全書』(?)というは官報の提要のようなもので、官吏や法曹界の人には調法された。今でも折々見える井上勤の『全世界一大奇書』(アラビヤ夜譚)はこの報告社から分冊連刊されたので、その頃の出版としてはかなりな部数が売れたものだ。  上記は当時の銀座の新らしい文化を代表する出版社だったが、江戸時代からの古い暖簾では山城屋政吉というのがあった。これも西側の銀座二丁目の、タシカ今の三枝小売部の所に『江戸名所図会』にあるような古い行燈看板《あんどんかんばん》を出していた。銀座の新市街を第一に讃美した『東京新繁昌記』の出版人であるし、本屋としても毛色の変った男であったから、やはり銀座人物伝の中に加えねばならない一人である。『東京新繁昌記』はその題名からして静軒の『江戸繁昌記』を踏襲したには違いないが、服部誠一には服部誠一一流の諧謔諷誹があって、ただに先後をもって軽重すべきではない。批評はしばらく預かるとして『東京新繁昌記』は洛陽の紙価を高からしめたも大袈裟だが、当時の人気を沸騰さした当り作だった。この旨い汁をシタタカ満喫した山城屋はやつぎばやに二度の膏味に飽こうとして当時の操觚界の独参湯なる成嶋柳北の『柳橋新誌』を上梓した。果然読者界の人気は『新繁昌記』以上に湧いて山城屋はホクホク者で、土蔵の三つ四つも建増しする懐《ふとこ》ろ勘定をしていたところが、柳北の洒落な麗筆がたたりをして、出版いくばくもなく風俗上の罪に問われて禁止された。当時は政治上の危論が禍を買うは珍らしくなかったが、風俗上で問われるものはめったになかった。『柳橋新誌』がドウシテ禁止されたかは今においてなお疑問であるが、這裡《はんり》の消息は別として山城屋は寝耳に水で、背戸《せど》の家鴨《あひる》が隣家の悪太郎の空気銃で打たれたよりも驚いた。ちょうど本が出来てきたばかりの数百冊を擁して、途方に暮れて策の出ずるところを知らなかった。  が、山城屋稲田政吉はその頃の商人としては四角な難かしい字も読み、のちに府会議員となって府政にあずかった程の口利きで、黙って泣き寝入りする男ではなかった。その頃地獄の門を潜るより恐ろしがられた役所へ大胆に出頭して、お上の厳命とならば禁止はよんどころないが、すりあがって製本までしたものを、(その頃は禁止されても押えられなかったと見え)このまま紙屑としてしまっては商売は立ちゆきませぬ。何とか特別の御穿議《ごせんぎ》をと哀訴した。その頃は今より出版に理解も同情もあったとみえ、評議の末に増刷はまかりならぬが残本はおおめに見ると許された。稲田は百拝千拝、恩を謝して帰るとすぐ、『柳橋新誌』禁止につき残本限り絶版と、筆太に認めた立看板を店頭に立てた。さア売れるとも、売れるとも、なんべん追摺しても製本がまにあわぬほど売れ、その頃としては今日の円本の数万部にも匹敵する何千冊が瞬くまに売切れてしまった。あの頃はずいぶんノンキでしたと、後に稲田が太ッ腹を抱えての憶い出の笑いばなしであった。  稲田が出版した繁昌記物で一番売れなかったのは松本万年の『新橋雑記』であった。松本万年はその頃土手三番町に私塾を開いていたタダの漢学者であった。が、曲りなりにも『新橋雑記』を書こうというんだからまんざらな子曰く一点張りの腐れ学者でもなかったろうと思われる。が、|※[#「にんべん+畏」、第4水準2-1-65]紅倚翠《わいこうきすい》の風流学では酸も甘いも嘗めつくした柳北の敵ではもとよりなかった。『柳橋新誌』を出版した山城屋が『新橋雑記』を上梓《じょうし》すると聞くと、柳北先生|冠《かんむり》を曲げて、芸者に酌をして貰った事のない芋掘り学者に新橋の事が解るもんかとさんざんな不興だった。山城屋も恐縮して頭を掻き掻き、先生の『柳橋新誌』と対にするツモリで出すのではないと弁明はなはだ努めた。真実、『柳橋新誌』で味を占めたので『新橋雑記』でモウひと儲けと目算を立てたのだが『新橋雑記』は、はたして柳北に叱られたとおり少しも売れないで算盤がスッカリはずれた。私の『銀座繁昌記』も、浪花節もウナれず、チャールストンも踊れず、カクテルも飲めないような奴に銀座の事が解るもんかと、松崎天民あたりに舌なめずりをして××を切られそうだ。  山城屋がだんだん商売に身が入らなくなったのはイツ頃だか知らぬが、府会でイイ気持そうに気焔を揚げはじめてからで、隣家の伊勢与のおやじが「稲田も困ったもんだ、商人《あきんど》が政治に手をだしちゃア商売はくらやみだ」と、稲田の家運を心配していたのは二十三年頃だった。その頃の府議や市議には板舟の内職もなく陣中見舞金の役徳もなかったから、稲田は持出すいっぽうでついに店を閉めるの止むを得なくなった。商売をやめてしまってからは長い本屋の生活中に蒐めた蔵儲を擁して愛書家の仲間入りをし、余生を古板の趣味に楽しんでいた。稲田の蒐集は古板どころではない御一新早々からで、薦縄《こもなわ》からげで潰しに出たのを丹精して保存しておいたのが大部分だったから、天平の写経とか宋元の稀覯《きこう》とかいうものこそあまりなかったが、正平の論語とか、師直の楞厳経《りょうごんきょう》とか、博多板とか大内本とか、直江板とか慶長の勅板とかいう類はたいてい揃っていたらしい。稲田は秘仏と称して蔵儲を見せ惜しんだから、おりおりの古書展覧会に出陳したもののほかは、ドンナ珍籍を持っていたかあまり知ってるものはなかったが、死後蔵儲のがトの全部を[#「蔵儲のがトの全部を」はママ]雲邨文庫へ移した時、市井の閑居から運び出したラックに[#「運び出したラックに」はママ]二台あったそうだ。ジャズとカクテルの町の中にかつてこういう蠹魚《しみ》の臭を鑑賞したものがあったというは、それだけでも稲田政吉は銀座人物誌の異彩として伝えらるべきである。        *  表通りではなかったが、裏煉瓦に兎屋というのがあった。兎屋といっても今はあまり知ってるものはあるまいが、兎屋本といったら一時は全国を風靡《ふうび》した大量生産の出版の元祖であった。それではドンナ本が出版されたかというと、記憶に残ってるものが一冊もないというほどそれほど、愚にもつかないろくでもないものばかり出版して、とうとう馬車(円太郎じゃない)を乗廻すまでにこぎつけたというは、やはり銀座でなくては生まれない怪物だった。  ドコラであったか、記憶ははなはだおぼろげであるが、何でも数寄屋橋に近い広い通りだった。間口のかなり広い店で、イツデモ新刊を山のごとくに積んであった。兎屋というのは屋号で、望月誠が本名であった。著者よりは出版人で売る流儀で、表紙にも扉にも兎屋誠と麗々しく署名したのが著者の名よりも目立ったから兎屋誠で通っていた。もっとも多少文筆の才があったか祐筆を抱えていたかして、自ら編述したものの出版が多かった。むろん糊と鋏で細工したものばかりで、兎屋の出版に一冊としてろくなものはなかった。『女房の心得』とか『亭主の心得』とかいうような「是だけは心得べし」式の安価家庭書が多かったが、なかには署名をあぐるだに顔を赤くするような露骨の題名の生理書や衛生書もたくさんあった。署名の出版をまるで縁日の売物でも作るように心得て、剽窃《ひょうせつ》だろうが、焼直しだろうが、いっこうお構いなしにやつぎばやに数でコナして濫発した。著者や内容などはまるで問題にしなかった。  昔も今も書籍の出版を糊と鋏で細工して、印刷屋に製造させる家庭工業の一種として扱う出版社は珍らしからぬが、兎屋ほどに徹底して、その頃としては相当大じかけに組織的に刊行したのは、前にも後にもあまり類例がない。時代が時代だから今日ほどに大量生産したんじゃないが、兎屋は多くシリーズ物を作っては数でコナしていた。たとえば『実事譚』のごとき、五十冊だったか百冊だったか忘れてしまったが、かなりな多冊のシリーズだったからかなりな部数に達したであろう。おそらく何十万という数だったろう。前記の書名を挙ぐるだに赤面する生理書のごときも、また何百万という発售《はっしゅう》部数だったろう。  が、ドンナものが出版されたかと考えると、ほとんど一冊も憶い出されないほど愚書、俗書、悪本、凡本の濫出であったが、衆愚の傾向を洞察する鋭い着眼と、すぐその要求に適合する新著を案出する敏捷な技倆があったとみえ、糊と鋏で粗製濫造したものがたいていあたって、グングンのしていった。本屋で馬車へ乗ったのはおそらく兎屋が初めてであったろう。その頃馬車を駆るというのは今日の自動車どころでなかったので、実業界の大頭株《おおあたまかぶ》でも馬車へ乗るのは誰と誰とと数えるほどしかなかった。本屋は今でこそ貴族院の多額納税議員の有資格者もあるが、マダその頃は微弱だったので、『女房の心得』や『亭主の心得』で馬車に乗ったのは、曇子の御者が旦那の座席を失敬したようなものだ。  が、兎屋も馬車を駆るようになってからはあまり振わなくなった。もはや『女房の心得』や『亭主の心得』でもあるまいと、少しは店の看板になるような名著をと心がけるようになったが、さて兎屋から著書を出版しようという勇気のある奇特人はなかった。馬車を駆って学者や操觚者の門に伺候してもマジメに兎屋の対手になるものはなかった。今ならば高い印税か原稿料をくらわせれば、ドラックの薬のような広告をされても、バナナの叩売りのように売出されても喜んで応ずるものがあるだろうが、その頃はマダ『女房の心得』や『亭主の心得』と同列に扱われても平気であるほど、その頃の著作家は資本家と肝胆相照らしていなかった。それからまもなく兎屋は馬車を駆ったのをラストスパークとして、のれんの影がだんだん薄くなり、誰アれも知らないうちにドコへか消えてしまった。        *  兎屋本が村嬢田夫の巾着銭を叩き出させつつある時、経史百家を大上段に振りかぶって、田舎学者や漢学書生を搾取した鳳文館前田円は南鍋町のもとの風月堂のあたりに堂堂たる大厦《たいか》を構えていた。前田はのちに黙鳳道人として余生を書家に韜晦《とうかい》し、ツイ数年前に故人となったが、黙鳳道人がかつて雄飛した鳳文館であるのを知るものは甚だ少なかった。  前田はもとは泉市の番頭であったそうだ。デップリ肥った不得要領な、一見きもったまの太そうな男だった。誰が金主であったか知らぬが南鍋町の店は、その頃の本屋にしては珍らしい堂々たるもので、率然|崛起《くっき》して天下に号令するが如く『佩文韻府《はいぶんいんぷ》』や『資治通鑑』や『綱鑑易知録《こうかんえきちろく》』や『史記評林』のような浩澣《こうかん》なる大部物をやつぎばやに出版した。いったい予約出版の創始者は誰であったか。南伝馬町の稗史《はいし》出版社の『八犬伝』が初めであるか、鳳文館の『資治通鑑』や『史記』が初めであるか、それとも他に創剏者《そうしょうしゃ》があったか、記憶はなにぶん確かでないが、漢籍では鳳文館が一番槍をつけて、広大なる古典をやつぎばやに続出したのは目ざましい武者ぶりだった。  が、『史記』や『通鑑』はその頃の漢学塾の教科書であったから販路は相応に広かった。大部物でも復刻するに少しも不思議はなかったが、漢学智識の今よりひろかったその頃でも(鳳文館の復刻の前には)署名をだも専門家外にはあまり知らなかった『佩文韻府』のごとき難物をドウシテ復刻する気になったであろう。察するに前田の周囲には漢学者が群がっていたから、唐本の舶載が少なくて高価であったその頃、世間の需要よりはかれらが欲しくて前田をおだて上げたのではあるまいか。あるいは又、その頃の支那公使の黎庶昌は駐日中に支那に亡佚《ぼういつ》して日本に残存する逸書を採訪して『古逸叢書』を編集上梓したほどの熱心な好書家であったから、出版にもまた理解があって『佩文韻府』が「支那、縮緬《ちりめん》宜しい?」の行商人でも七言絶句ぐらいひねくる支那人にとっては、日本の節用のようなものだから、日本で売るよりは支那へ輸出する目的で前田を慫慂《しょうよう》し、公使とのあいだに了解があったのではないかとも臆測される。  とにかく『韻府一隅』や『詩韻含英』でけっこう間に合った日本に『佩文韻府』の必要や欲求があろうとも思われないのを、難物を物ともせずに銅鐫《どうせん》でやってのけた鳳文館の無鉄砲なる大胆さかげんは驚きいったものだ。はたして何部予約者があったかはたいてい思い半ばにすぎる。それから十年もたって後、故人の野口寧斎をふと訪ねると、座間に鳳文館本の『佩文韻府』が飾ってあった。「エライものがあるナ」というと、「僕らはこれがなくちゃ詩が作れんのだ」という寧斎の挨拶だ。星社の連中がやたらと画《かく》の多い字を捻くる根源はここにあるので、鳳文館がなかったら我々はアンナ難かしい詩を読まされないだけでも助かるのだと、腹の中で苦笑した事があった。だが、鳳文館が『佩文韻府』を復刻したのは無鉄砲でもえらかったと思うが、後に吉川弘文館がこの鳳文館本を縮冊して、虫眼鏡をつけて景品附きで売出したにいたってはビックリしてシャックリが止まった。  いったい前田は算盤を知ってるのか無茶苦茶なのか、成算があったのか出たとこ勝負なのか、資本があったのか借金ではじめたのか、山師かホラ吹きか、大胆かズボラか、遠くから見たのではまるで見当のつかぬヤリ口だった。新館が落成した時は当時の明公鉅卿、翰林の名士、清国公使館の人々を招いて盛宴を張った。日東|售林《しょりん》の豪華は中国にまで響いて海内ならぶ者がない全盛をきわめた。当時鳳文館の楼上はあらゆる翰墨の名士に開放され、黎公使、姚書記官、陶訳官をはじめ数多の清客もしばしば来集して詩酒徴逐日も足らす、皆鳳文館の賓客とならざるを恥ずるふうがあった。かくのごとくしてあらゆる儒宗詩星を網羅して爾汝の歓をつくした鳳文館は、漢籍界の計画なら何事も成らざるはない筈だったが、ドウいう破綻を生じたのか、門外漢には解らなかったがイツのまにか店を閉鎖してしまった。華々しくはあったが短い寿命だった。  鳳文館の新版で、ともかくも斯界に貢献し後世に残るに値いするはやはり『佩文韻府』であろう。だが、これが多分短命の素因を作ったのであろうと思われる。『康熙字典《こうきじてん》』や『円機活法』の銅鐫が一番世間に調法されたろう、その彫板が転々して博文館の手に帰してからもかなりな版数を重ねたようである。一番人気があって広く読まれたのは依田学海翁の『談海』であろう。学海翁の伝奇体叙事文は翁独特の名文で、後の翁の小説や脚本よりも後世に残るべき作である。やはり鳳文館から出版された翁の『断逢奇縁』は鳳文館が漢文物ではとうてい立ちゆかないので時文に手をつけはじめた、たツた一つのかな交り物である。鳳文館にも少し寿命を与えたら方面を転換して、さらに興味ある活動を見せたであろう。  書店を閉じてから一、二年後、ふとある知人の家で同席したのが前田円であった。知音《しるべ》という関係ではなかったが、予約者の一人としてしばしば鳳文館へいったから顔は知っていた。その時は向島へ引込んで家禽《とり》を飼っていたのだそうで、英雄頭を回らせばすなわち神仙といいたげに、昨日《きのう》の事は風が吹いたか雨が降ったか忘れてしまったようなケロリとした顔をしていた。 「君、動物はイイナ」と私の友人に向って、「もっと早く家禽を飼うんだッけ。学者やチャンコロのように理窟もいわないし、怒りもしない。えらがりもしないし、欲張りもしない。家禽を対手にしているとノウノウして寿命が伸びそうだ……」 「だが、儲かるかね?」と私の友人が訊くと、「儲かりはしない」とアグラをかきなおして、「もっともやりようだネ。やりようによって儲からん事もない。だが、儲けようとすると何でも面白くなくなる。儲けようとしないで金が残るんでなくてはホントウじゃアない。先ア一度来てみい。コツコツコツと餌を撒いてやると、遠くから何羽も駈けて来る。可愛いいもんだぜ。算盤なんかは忘れてしまう……」  と、鳳文館時代の事はまるで忘れてしまったようにおくびにも出さなかった。が、前田の養鶏は決して隠居の道楽ではなかった。やはりその頃はやった種禽《たねどり》でひともとで作るツモリであったらしいが、大玄関で“All or nothing”の一六勝負を張るのが前田流だったから、養鶏などはまだるこくて結局面倒を見ていられなかった。まもなく向島の家禽場も人に譲ってドコへか影を消してしまった。前田を知ってる私の友人もその後地方へ引込んだので、それきり前田の消息も聞かなかった。  それから十何年か経って、黙鳳道人としてリップ・ヴワン・ウインクルのように書家の仮面を被って現われたのが前田円だった。大伴黒主が頭をまるめて引き抜きに喜撰法師に早変りしたような化け方であった。が、風雅でもシャレでもなくて“All or nothing”をみぞへウッチャってきたあくぬけのした書家だった。だが、前田は書家の生活を知り過ぎるくらい知りぬいていた。昔の書道一遍では三跡でも三筆でも天下の書聖と崇められて象牙のお厨子《ずし》に納まっていられないのをよく知っていた。大伴黒主のかつらを脱いだ喜撰法師は腰を低くして、看板でもビラでもえりごのみなく引受け、昔とった杵柄《きねづか》の本屋の新版の扉や背文字の注文には喜んで応じた。昔は学者や詩人に取捲かれた剛腹な男だったが、白竜魚服すれば予旦に苦められると、堅苦しい愚痴もこぼさずに、毎朝常得意の本屋や印刷所を弟子に廻らして御用を聞かせ、みそかになると、通《かよい》は作らなかったらしいが、酒屋や炭屋と同じ書出しで揮毫料を集めた。先生振らずにもったいがらないので、気軽に頼めて面倒くさくないと調法した家が相当に多かったらしい。  前田はかくのごとくして一生の幕を終ったが、持前の覇心がまったく銷磨したのであろうか。黙鳳に韜晦《とうかい》したのは二度の雄飛を期していたのではないかとも思われる。が、黙鳳をして再び出版界に進出せしむるには時代が余り隔絶しすぎてしまった。もし壮年の前田円をして今日にあらしめたなら、必ずや、世間をアッと驚かす空中楼閣的計画を実現しないではおかないだろう。『ブリタニカ』の全訳、『四庫全書』の国訳を企てるくらいは何でもない事、著作家協会、評論家協会、劇作家協会の大同団結をもくろんで、洋行資金、邸宅資金を一手に引受けるくらいは朝飯前であろう。  兎屋もまた、もし今日にあらしめたなら、百万部計画の女の雑誌や講談の雑誌の五つや六つでもなかっただろう。商売のゆき方ややり口はおのおの違っていたが、エンタープライジングで大胆な冒険家であったのは二者ともに同じであった。結局は二者ともに失敗して末路は余り振わなかったが、また銀座の溌刺たる生気が産出した快男児であった。当時博文館の先代佐平老人も新太郎氏も長岡の郷里に雌伏《しふく》していた。春陽堂は芝の今入町の雑誌店で、先代鷹城が帳場格子の中で小さな出版をして小遣いとりをしていた。三省堂も有斐閣も小さなタダの古本屋で、冨山房はマダ現われなかった。兎屋、鳳文館以後、銀座には伝うるにたるような本屋は一軒も出なかった。指をおればもう四昔《よむかし》を越して五昔《いつむかし》とならんとしている。 [#3字下げ]銀座の大久保彦左衛門[#「銀座の大久保彦左衛門」は中見出し] [#1字下げ]三枝商店の先代[#「三枝商店の先代」は小見出し]  銀座人物誌の筆頭第一が岸田吟香であるのは知らないものがほとんどないほど、あまりに有名すぎる。吟香は単なる銀座の薬房の主人でなくして新日本建設者番附にのる一人である。幕の内に入らないまでも少なくも二段目位にならぶ顔である。が、吟香を知るものはあまりに多いが、銀座人としては吟香よりもむしろ大きな足跡を残した三枝与三郎は、銀座人以外には知るものがはなはだ少ない。三枝与三郎は銀座三丁目の三枝商店の先代で、銀座を伝うるものの逸すべからざる名である。  正直にお世辞気なしにいって、社会人としての三枝与三郎の足跡は吟香ほどに大きなものではない。人物の大小高下は表面に現われた事跡だけで定まるものでなく、人によっては戦線の第一列につく花々しさを喜ばないで、帷幄《いあく》に隠れて覆面で号令し、もしくはこつこつとして縁の下の力持ちを楽しむものもある。人物の器局の大小は単なる表面の仕事の秤量だけでは決せられない。三枝与三郎翁のごときは正直なはなしコツコツとして後方勤務を楽しむガラではなかったが、得意になって観兵式の大将を嬉しがるおめでたい人間でもなかった。銀座人以外にその名の大いに顕われなかったのは、帳場格子に隠れて社会的に顔を出すのを好まなかったからだが、出シャばりではないが遠慮する質《たち》ではなかったので、区政町政、公私大小何事にも、一と肌脱いでも老功と辣腕《らつわん》と信望と財力とで築き上げた潜勢力は吟香にすぐるものがあった。文明開化の急先鋒を任する新市街の鋭気に加えて、生国の甲州っ児のはなっぱしらの強い不負魂《まけじだましい》をつきまぜた翁の向背は、敵にも味方にも恐ろしいものであって、翁はイツシカ銀座の親分株に立てられ、侠名硬骨は銀座の大久保彦左衛門として鳴り響いた。  三枝は地震後、主力の卸部を横丁に移して小売部だけを銀座の旧地に残してるが、今はラジオ屋になってる隣屋――教文館のコッチ角がもとの三枝の卸部であった。この鉄筋コンクリートの堂々たる店さきに、銀座の大久保彦左衛門たる先代がドッカと御輿《みこし》をすえて、縦横の快弁に仲間《なかま》や顧客《とくい》や市公吏や有志家や運動員や勧誘員を煙に巻いたもんだ。時代が変ったから今の若い人には通じまいが、三枝というよりは毛糸の伊勢屋といった方が、昔の銀ブラ党には早解りがする。それほど伊勢屋の屋号は昔のモガには馴染の深い名で、毛糸の輸入の元祖として、伊勢屋と毛糸とは離れられない関係があった。今日、山村水廓のドコへ行っても毛糸を知らないものや使用しないものは一人もないが、この毛糸の編物の流行は伊勢屋の輸入に濫觴《らんしょう》したのである。その頃は伊勢屋のほかに取寄せるものはなかったので、伊勢屋が一手に輸入して伊勢屋から諸方へ卸していたのだから、伊勢屋に売ってるものも場末の糸屋にあるものも、もとは一つ荷の品であった。が、伊勢屋の店で買った品でないとお客が承知しなかった。その頃芝に下宿していた青年の私は当時のモダーンたる若い伯母さん達から、お前さんの下宿は銀座に近いからと、あまり近くもない伊勢屋の毛糸の御用をたびたび仰せつかったもんだ。  三枝は昔から商売が地味で手堅いいっぽうだから、大袈裟な自己宣伝は決してしなかった。奈良の大仏が富士の山のテッペンからラッパを吹くような、お向うの岩谷天狗式の広告はかつてしなかった。それにもかかわらず、毛糸の伊勢屋の名が東京中、というより全国に響いたのは、銀座の大久保彦左衛門たる三枝の先代が毛糸の輸入に率先したからである。 [#1字下げ]四万の邂逅[#「四万の邂逅」は小見出し]  明治二十三年の夏、上州の四万へ遊びにいった時、私より四、五日遅れて来た東京者の中老夫婦があった。その頃の四万の客は交通がまだ不便だったから、上州や野州が多くて東京人は少なかった。同じ東京者同士の私達は、年輩には大分の距離があったがたちまち心易くなった。衣類持物から富有の商人とはすぐ解るが、ドコの町の何屋何兵衛と名乗りもしなければ訊きもしなかった。そのうちにある朝ふと浴室の脱衣場でおちあって、私がはだかになるのを見ていたが、やがて一緒に風呂へつかると、「君は贅沢なシャツを着ているナ」といった。その頃の若い私は贅沢じゃなかったが洋物はあまりわるくない品を常用していたから、黙って笑ってると、「そのシャツはちょっと誰にも解らない。だが、ワッシには解る、一と目ですぐ解る、ワッシは唐物屋《とうぶつや》だから……」「唐物屋さん?」とききかえすと、「銀座の伊勢与てのはワッシさ」といった。伊勢与なら(その時から四、五年前になるが)若い伯母さん達の使いで買物にいった店だから、顔は知らないでも旧識に会った心地がした。伊勢与も地方人ばかりの湯治客の中に、青二才の書生ッぽでも自分の店を知ってる私を見つけたのは、ロビンソン・クルーソーが黒んぼのフライデイに会ったくらいには思ったらしく、前よりはいっそう打解けて、風呂から上って一緒に帰ると、「まア茶でも煎れるから話して行け」とさっそく風月堂のカステラの箱を開けて、故郷の若い者でも迎えるように夫婦してもてなした。  この老夫婦が三枝の先代だった。ちょうど今の当主を養嗣子に迎えた年の夏で、「ワッシはもう隠居サ。これから気楽に温泉廻りでもして一生を暮そうと思ってる。イツマデ生きるものじゃなし、欲をかいたら際限がない。甲州の山ン中から七両二分持って江戸へ飛出した事を思やアこのうえ欲をかく事はない」と、七両二分から叩き上げたのが得意でもあったらしく、自分の眼鏡にかなった後継者を貰いあてたので安心もしたらしかった。  伊勢与はデップリ肥った、一見太ッ腹の負けじ魂が眉宇にあふれた堅気の旦那よりは、大親分然たる恰幅だった。誰にあってものっけからザックバランに砕けて少しもわだかまりがなかった。座談が上手で、歯切れのイイ快弁で胸のすくような話振りだった。急所をつくような警句も吐いたし、毒気のない皮肉をもいった。腕一本で誰にも頭を下げずに身代を作った苦労人だからはなしのたねにも富んでいたので、毎夕晩餐後の涼みがてらに帳場の縁端《えんばた》に集まって来る逗留客の漫談の中心となって、帳場議会の議長と称されていた。一番得意なのが京都へ公使の伴をして行った時、浪人者に行列へ切込まれたチャンバラ劇の一とくさりであった。 「何しろ異人の伴をする奴は国賊てんだから、まかり間違えばソッ首が飛んじまう。銀座のまんなかでズバリとやられたものもあるんだから、ぶっそうッたらない。よく御一新の時の手柄ばなしをするものがあるが、ありゃアみんなウソさ。ワッシのは逃げて廻った意気地のねエはなしばかりだからホントウさ」と損して得をしたようなはなしばかりした。  三週間ほどは、殆んど同伴《つれ》であるように朝夕をともにした。年齢《とし》は親子以上も違っていたが、地方人ばかりの中の東京者同士で口が合った。いよいよ明朝《あした》は帰るという前晩、「モウ今晩ンきりだ。東京へ帰ったらぜひ来給え。近所にちょっと旨く喰わせる西洋料理があるから……」と、そのあくる朝最後のサヨナラをした時も、「イイかい、東京へ帰ったら来給え、西洋料理を御馳走するからナ」と繰返した。  まもなく東京へ帰って、二タ月三月してから、銀座へ行ったついでに尋ねると、「よく来た。とうから来そうなもんだと待ってた」と四万で朝夕顔を合わした時と同じあるじぶりだった。細君も奥から飛んで出た。一週間ばかり四万に泊っていた甥の次郎さん(今は鬚髪白い老紳士だろうがその頃は暴れん坊のヤンチャ)もはにかみながら出て来た。私はホンの通り掛りに寄ったのだから、その日は用事を抱えていたし、十分ばかりはなしして暇乞いした。「じゃア君、またユックリ来給え、今度は西洋料理を御馳走するから……」と、また西洋料理を吹聴した。アンマリ気のきいた洋食屋がその頃この辺にはなかったはずだが。  それきり私は伊勢与を尋ねもせず、尋ねようともしなかった。湯治場の交際なんてものはその土地限りのもので、東京へ帰ってまでもつきまとわれては興が醒める。銀座を通るおりおりに、デップリ肥った健康そうな親分然たる伊勢与をときどき見かけたが、わざとよそよそしく気のつかぬ振りをして素通りした。それから、十六、七年もたって私の知ってるある保険会社の社員が社用で伊勢与を尋ねた時、ドウいう話のキッカケからか私の噂が出ると、伊勢与はよく覚えていて、「ドウしてる、この頃は? 宜しくいってくれ」といったそうだ。それからまた五、六年たったある年、八ツ山下の京浜電車の出発駅で見かけたが、まるで忘れてしまったらしく、非常の雑沓の中でよそよそしく別れた。これが最後で、それから二、三年たつと、築地の自宅から銀座の店まで生花造花の花行列が続いたという大葬式となった。四万で邂逅してからもう四十年となるが、満身のエネルギーがはちきれそうに、デップリ肥った先代三枝与三郎の精悍な風※[#判読不可、18-11]《ふうぼう》は今もって眼にちらついておる。 [#1字下げ]甲州脱奔からサトーの従僕[#「甲州脱奔からサトーの従僕」は小見出し]  伊勢与は甲州の山の中から飛出したといっても、根からの土百姓ではなかった。甲陽十八将についでの武田の士大将《さむらいたいしょう》三枝勘解由左衛門のすえで、代々庄屋を勤めた家柄の三男だった。若い時におやじが隣村の某が江戸へ登って出世したはなしをして聞かせると、そのくらいの出世は俺だって出来ると啖呵《たんか》をきって何でも江戸へやってくれとせがんだ。とうとう喧嘩別れをしてそのあくる朝は稼ぎ溜めた七両二分の革財布を懐ろへねじ込んで、向うみずに江戸を指して親の家を追ン出てしまった。  この七両二分は伊勢与の自慢で、何かというと「七両二分だ」と言い言いしたそうだ。四万で一つ宿に暮した三週間かそこらの間にも、七両二分を三、四度聞かされた。が、率直にかざりけなくいうと、十両からは首の飛ぶ時代の七両二分は、山出しの風来者が身を立てる資本《もとで》としては十分過ぎている。塩原多助が銭六百を懐ろにして上州沼田を突走ったのとは比較にならない。多助が山口屋善右衛門に拾われた時に懐ろに残っていたのが二十八文。伊勢与の七両二分は自慢をするほどの冒険なスタートではなかった。が、この懐金《ふところがね》を二、三日お江戸見物してからというような、悠長な見物左衛門でチャチャホウチャにしてしまわないで、大木戸から四谷を一直線に脇目もふらないで、故郷《くに》で名を聞いたばかりの鮫ヶ橋の旗本屋敷へ押しかけて、すぐその日からおいて貰った、テキパキした果断な早業《はやわざ》は誰にも真似られる芸ではない。かつ親と喧嘩して家を飛出した利かん坊の強情ッ張りが、よその竈へ寄食するとたちまち神妙な辛抱人に早変りして、如才なく立廻らないまでも、マジメにぬけ目なく働いて気に入られたのは単なる負嫌いのむこうみずでも、馬鹿正直の朴念仁《ぼくねんじん》でもないのが解る。伊勢与はきわめて豪放なヤリ放しのごとく、見えて実はなかなかの大事とりであった。大胆な冒険家のごとく見えて実は定石で固めて一石たりとも無駄石を打たない理詰な、石橋を叩いて渡る流儀のヤリ口であった。  鮫ヶ橋の旗本の戸田というは同郷人《くにもの》がかつて世話になったというほかには何の縁故もなかったが、あたって砕けろというキビキビした気性が喜ばれて旧知の如く迎えられ、ドコへも頼る家がないなら当分遊んでいるがイイと、すぐ半下男半食客において貰った。二度目に住込んだ異人屋敷というは実兄小野清五郎(小山内氏の『森有礼』劇の台詞《せりふ》に名の出る幕末の洋学者)のきもいりで、当時の英国公使館の書記生のサトーの従僕《ボーイ》であった。赤ッ顔《つら》の敵役《かたきやく》然たるパークスの女房役としてのサトーは幕末外交劇の重要なる登場者の一人であったが、パークスが上洛した時、伊勢与がサトーの伴をして一行中に加わったのは若い伊勢与にもまた一生の晴れの舞台であった。むろん、身分の上から、年齢の上から端役《はやく》だも勤まらない名無しの権兵衛のエキストラであったのはいうまでもないが、とにかく一行中に加わって、護衛の中井弘や後藤象二郎が公使の行列に乱入した浪人者を切って棄てた血潮のシブキを浴びたのは銀座の商人の誰の伝記にも見られない幕末剣劇の一ト幕であろう。(サトーの『日本に於ける一外交官』に挿入する大阪に於ける一行の写真中、「ヤス」とあるのはたぶん「ヨサ」という名の訛《なま》りであったろう)  幕府が瓦解して江戸が東京と改称されたのはサトーが京都の使命を終えて江戸へ戻ってから間もなくだった。青年与三郎もサトーの伴をして帰って、しばらくは英国公使館に勤続していた。が、故郷《くに》を出たのは腕一本で誰の世話にもならず独力出世してみせる意地であったので、他人の檐《ひさし》の下で立身したのでは、人のおもわくはともあれ自分の心の内がすまない。東西南北一人の知るものもない江戸へ飛出した当座の二、三年はよんどころないが、そうそういつまでも碧い眼玉の従僕《ボーイ》の生活を甘んじてはいられないで、とうとうシビレを切らしてサトーに暇をくれと申し出た。それもよかろうがと、サトーは親切に、モウ一年辛抱したら英国へ連れてってやると諭してねんごろに引留めた。サトーが引留めたのは決して口から出まかせの空証文でなかったのは十分よめたし、パアレイの万国史が読めれば一人前の洋学者として出世の出来た時代の洋行は、決して悪くないのをまんざら知らないではなかった。が、一旦いいだしたからにはあとへは引かないのがかねての気性で、火蓋を切ったらモウ矢も楯も堪らないで、サトーの好意を無にする心はなかったが、後事を朋輩に頼んでその日の中に袂を払って公使館を去った。  公使館を去るとすぐ横浜へ行き、偶然邂逅した実弟の案内でかねて商うツモリであった洋品雑貨や食料品を外国商館で仕入れた。まだ落ちつく家も定《きま》っていないのに、すぐ舟積みして東京へ引返し、夕方築地の備前橋ぎわにともかくも舟をつけた。それからかねて公使館へ出入の者から聞いていた南小田原町の亀屋(今の銀座の亀屋の先々代)を藪から棒に訪ねて、亀屋の差配する家を一軒無理に明けて貰って、舟から荷物を運ばせて電光石火に明日《あす》から店開きするツモリの支度をした。すべてが甲州から飛出した時と同じ三枝流の出たとこ勝負で、一夜の中に九尺間口の商店の主人とも番頭とも小僧ともなって、その翌る日は立派に店を開けた。  これからが伊勢与の一本立の驀進《キャリア》がはじまるので、今までのは開幕前奏曲である。が、一本立となってからの伊勢与の前進は時代の潮流に順応して、おりおりに険波風濤に艱《なや》まされた事がまるきりなかったわけではなかったろうが、ちょうど音楽大行進が銀座の大道を練っていくようだった。今日の三枝商店の洋々たる隆運は先代与三郎の前奏曲の力強いバスやオーボエやケットル=ドラムの緩急調に現われてるので、これ以上楽器を殖やして囃したてないでもである。が、伊勢与が日本の開国史に密接の関係があるサトーの従僕に出身し、幕末の洋学者でサトーに日本の歴史や文学を授けた小野清五郎の実弟であったというは、伊勢与が単なる算盤人種でなかったのを語る興味ある経歴の一節である。 [#1字下げ]毛糸の伊勢屋[#「毛糸の伊勢屋」は小見出し]  伊勢与が一本立で店開きをした初めは築地の小田原町であったが、外国人対手の洋品雑貨を売《あきな》う店は東京になかったから、開店早々繁昌してたちまち手狭となったので、いくばくもなく同じ亀屋の店《たな》の入舟町へ移った。銀座へ根城を構えたのはイツ頃であったかはっきり解らないが、多分トントン拍子の商運に乗じて煉瓦の新市街竣功早々であったろう。  ところで甲州出身の男がナゼ甲州屋といわずに伊勢屋と屋号を称したか。ここにも三枝一流の商売哲学が現われておる。全体屋号なぞは何でもイイ、解り易く、覚え易く、大衆向きの月並がイイというので伊勢屋稲荷に犬の糞と、手取り早く伊勢屋の屋号をつけたのである。モウ伊勢屋でもあるまいと屋号を廃して三枝商店と改めたのは今の当主となってからか、それとも先代存生時代からであるかはともかくも、毛糸の伊勢与の名は今でも通っている。  伊勢与が身代を作ったは何であるかは知らぬが、伊勢与が売出したのは毛糸である。いつの頃か不明であるが、多分明治十二、三年頃であろう。横浜の商館の見本を一と山一手に引取った中に毛糸が一|梱《こり》あった。何にするものだか解らないで店の棚に載せて置いたのを、ある日通りがかりの外国婦人がふと見つけて、意外の掘出し物をしたごとく狂喜してさっそく買って帰った。それからあと聞き伝えて代る代るに買いに来た外国婦人が数人あったので、何にするものかと尋ねて初めてその用途を知った。ちょうど英国帰りの知人があったので、試みに英国から取寄せて伊勢屋のレツテルをつけて売出してみた。その時はモウ外国人から伝習を受けて毛糸の編物をはじめたものもポツポツあったのだから、伊勢屋で毛糸を売りはじめたと聞くと、たちまち聞伝えて買いに来るものがだんだんふえて、伊勢屋の毛糸は評判になった。  いったい毛糸のジャケツやシヨールを使用し出したのはイツ頃からだかハッキリ解らぬが、(維新前後既に外遊したものもたくさんあるから、これらの洋行帰朝者がお土産に持って帰ったのもまたたくさんあるべきは想像されるがそれは別として)一般人が使用しだしたのはソンナに古い事ではなかろう。ちょうど洋服がマンテル、ダンブクロの戎服時代からはだいぶ久しくなっていても、普及しだしたのは明治十五、六年頃、官庁勤務服として規定されてからであると同様に、毛糸のショールやジャケツも少数欧酔者流の間には早くから知られていても、一般に行なわれはじめたのは男は洋服を常用し、女は束髪が流行してからである。私はその頃モダーンの若い伯母さん達から毛糸のお使いをたびたび仰せつかったと前にいったのはタシカ明治十四、五年だったろう。  はなしは少し混線するが、毛糸の流行した原因は官吏の勤務服が洋服に定まって(それより以前は判任以下はたいてい和服)くつ下が足袋と同じ常用必需品となり、毛糸の手編が保温上耐久上有利と認められてからだ。シヨールやジャケツの手編の流行はその後である。又少し脱線するが、ショールがはやり出したのは明治十二、三年頃からだが、はじめは女よりは男が用いた(女の防寒具は十四、五年まではお高祖頭巾だけだった)ので、おもに縁飾《フリンジ》つきの格子縞の薄羅紗だった。このまがいの綿織《めんおり》を堕落しただるま然と頭からスッポリ被るのが当時のモダーン・ボーイの粋《いき》がった風俗だったのだ。女がショールを用いたのは十四、五年頃からで、お高祖頭巾《こそずきん》のほかにショールをまとった。一時は馬鹿に大きい膝かけほどのを裾長に引かけたもので、トンとカチューシヤの芝居を見るようだった。アレはロシアの田舎女の風俗だというわるくちもあって、あまり大きいのははやらなくなり、同時に毛糸の手編がはやりだして伊勢屋がますます繁昌した。ジャケツも初めは舶来の機械編ばかりだったが、猫も杓子も編物をするようになってからはジャケツもまた手編を競うようになった。このジャケツ用の、俗に「ウドン」と称する太い毛糸が、(前にもいったごとくその頃毛糸は伊勢屋が一手に輸入して、全市の毛糸は皆伊勢屋から卸したのであるが、それにもかかわらず)「ウドン」に限って伊勢屋の外に売ってる店が少なかったので、ジャケツを編むほどの高級手芸家はますます伊勢屋党となって、毛糸は伊勢屋でなければならぬように評判された。これが第一期の毛糸の編物の流行で、この流行で伊勢屋はのれんの信用をも高くし身代をも肥《ふと》らしたであろうが、経済的順調の時代であったから、欧州戦当時の舟成金や染料成金のごとき毛糸成金でなかったのは明らかに想像される。 [#1字下げ]伊勢与の人となり[#「伊勢与の人となり」は小見出し]  そんなら伊勢屋は何で儲けたか。私は伊勢屋の金儲けの一代記を知らないから、かれの一生の損益勘定を揣摩《しま》する材料ももたないが、かれの生涯には紀国屋文左衛門のような乾坤一擲《けんこんいってき》的の痛快な冒険もなかった、銭屋五兵衛のようなアルゴナウチックのロマンスもなかった、塩原多助のような経済的立志談もなかった。三十何年前の三週間の同宿中、かれは絶えずよく弁じよく講釈をしよく気焔を揚げ、時おりはかれの成功談をきくべく水を向けたが、ついに一回も金儲けばなしや金溜めばなしをしなかった。金に関する自慢ばなしとては、借金した事が一度もないというはなしばかりだった。狭い土地だから贅沢の仕様もなかったが相当贅沢もしていたらしかったし、短かい時間だから金の遣いぶりを見る機会もなかったが、金持にかえってしばしば見られるしみったれなあるいは欲張った真似や金を出さない、あるいはとられない予防線を張るような不快な感じを抱かせるような事はなかった。一言すれば金にビクビクしたり眼色を変えたりする金持通有の恐金癡呆症の症候が少しもなく、遊楽地の土地柄お客の懐ろ都合や金の出し振りを感知する鋭い敏感を持ってる旅館の使用人や、浴客の御用を聞きに来る商人達の評判もよかった。  さらに一言すると金を湯水のように振撒いたり、金で面をはるというようなさもしい倨傲《きょごう》もなければ、灰吹と同じく溜まるほど汚ないと喩えられる蓄財家通有のしみったれな根性もなかった。それゆえにもしかれが世間に伝えられるごとき一代富限であったとすれば、それは何とか成金というように一度にドカッと大金儲けをしたのでも、銀行のモグリのような金貸商売の内職をしたのでもなくして、じみちな商売が産みだした利潤があまったのであろう。由来甲州系の巨商には盆蓙《ぼんござ》の上で算盤をはじくに等しい共通の商売人心理があるが、伊勢与には、それがなかった。近路や抜け道を行くのが商売の極意なら、伊勢与のは初めから本街道を石橋を叩きつついったので、御一新の風雲時代に育まれた商人にありがちの、ドサクサ紛れの火事泥的の一六勝負はしなかった。大胆なるがごとくして細心、豪放なるがごとくして熟慮、十日一水を描き五日一石を描くごとき深謀努力を積んで、いささかの危《あぶ》な気がなしに着々として歩一歩と固めつつ進んだ。あくまでも甲州流の戦法の正正堂々として平押しに進んだのだから、一挙に大きな山を掘りあてたようなゴールデン=ラッシュは見られなかったが、次第次第にイツとなく大を成したゆえんは、畢竟商売の定石をはずさなかったからであろう。 [#1字下げ]伊勢与の交友[#「伊勢与の交友」は小見出し]  伊勢与の成功を助けた一つは天成の交際術であったろう。四万で同宿した時、東京人が少なかったからとはいえ、二十歳も年齢の差ある当時青二才の私を相手として、少しも老成ぶらず金持面をせず、三週日の長い間隔意なく対等に談笑して一度も不快な色を見せなかった。私はマダ青二才でもその頃は新聞記者のはしくれで、職業に対する興味もあったろうが、私より以下の朴念仁《ぼくねんじん》の田舎漢《いなかもの》とも、お土産物をあきなう土地の婆アさまともすぐ心易くなって、ドコへ行っても面白い旦那として知られた。格別如才なくお世辞をいうでもなく、ずいぶんブッキラ棒の悪語《わるぐち》をいう事があったが、少しも毒気《どくけ》がなくて悪語《わるぐち》がかえって親しみをまさしめた。勝負事は嫌い酒は飲まず、座談一方だったが皮肉もいえば滑稽もいう、諷喩百出譏刺縦横の円転滑脱な老熟な弁舌が武器となった天成の社交家だった。  その前年だった。林田亀太郎、林権助、武田千代三郎の三人が大学を出たホヤホヤで、翻訳物を持って賃訳を兼ねて箱根へ遊んでいた時、あたかも同宿したそうで、伊勢与はたびたび三人の噂をした。この年は内田康哉や鈴木真左也も出た大学の豊作年で、三人はその中の秀才であった。林は理窟ッぽく、武田はムッツリで、林田が一番八面|玲瓏《れいろう》だったので、伊勢与は林田が一番気に入ってその応酬の才を褒めちぎっていた。まもなく林は外務畑に入って海外へいき、武田は内務畑へ入って地方廻りをしたので、自然林田と一番心易くして四万に逗留中もよく林田の噂をした。林田は才物だが少し険呑だ、店へ遊びに来ては帽子だのステッキだのと勝手に持っていくがツイぞ払った事がない、元気でイイ男だがヅボラ過ぎると、道楽息子をもてあます気味だった。それに反して、武田さんは几帳面でお堅くて、と武田君は老夫人に大変評判がよかった。だが、林田とはドコか馬が合ってるかして、品物を借り倒されてもイヤな顔もせず始終心易くした。 「オイ林田早く大臣になれよ、愚図愚図しているとコッチの命がなくなる」と晩年戯れた事があったそうだが、相前後して二人とも続いて白玉楼中の人となってしまった。伊勢与は書生を愛して青年の恬淡寡欲を喜び、年齢を忘れて爾汝の交を結んだものが多かったが、林田はその中の最も有望なる一人で、その青雲を楽しんでいた。林田は不幸半途にして蹉跌《さてつ》したが、林田がもし台閣に列したら、誰よりも喜んで誰よりも得意になるのは伊勢与であったろう。  だが、これから為すあらんとする青年、または壮齢のものとは好んで交際したが、勲爵高き権門とは旧誼《きゅうぎ》があっても交を求めようとは決してしなかった。維新の際、攘夷の浮浪人ら跋扈《ばっこ》してしばしば開国論者を要撃したので、外人に親昵《しんじつ》した諸藩の進歩派の難を外国公使館に避くるものが多かった。東禅寺以来、公使館もまた危殆に瀕したので、公使館の外使も館内の日本人と共に船に集って品川沖に浮んで浪士の襲撃を避けた事があった。のちの大勲位公爵たる伊藤俊助もその一人にて、サトーの従僕《ボーイ》たる伊勢与と七十余日同じ船内に起臥して、時おりは上陸して旗亭に浅酌した事もあったが、公の栄達後ついに一回も刺を通じなかった。ことに末松子とはそののち深交を結んで末松夫人ともまた親しくしたが、旧誼に|※[#「夕/寅」、第4水準2-5-29]縁《いんえん》して姻戚を介してまでも旧情を温めようとは思わなかった。「むこうが天下の伊藤公爵ならこっちも銀座の三枝である」というが伊勢与の見識で、尾を垂れて権家に伺候するにはかれは余りに潔癖にすぎていた。 [#1字下げ]伊勢与と星亨と岩谷松平[#「伊勢与と星亨と岩谷松平」は小見出し]  前にもいったが、伊勢与は社会的に第一線に立つを好まぬ男だった。商人は帳場の牙城を守るが本分であるというのが伊勢与の信条で、『柳橋新誌』の版元の山城屋稲田政吉が府政に首を突込むのを顰蹙《ひんしゅく》して隣家の好誼上商人の政治運動は道草《みちくさ》であると忠言した。が、ひとたびいって聴かざればまたいわず、稲田の政治道楽を苦々しく思いながらも始終かわらず後援者の一人として尻押ししたそうだ。が、時勢が変わると伊勢与も帳場格子にばかり引込んでいられなくなって、表面にこそ出動しなかったが裡面では策動した。星亨が市会議長として傍若無人の辣腕《らつわん》を揮った時、あたかも議員の半数改選にあたって京橋区から自派のM某を出さんとして、旨を腹心の京橋銀行のN某に授けた。当時星の権力は大川の水を逆流せしめ、空吹く風の方向を変えるほど豪勢であったから、N某は一も二もなく唯々として同じ銀行の監査役たる伊勢与にM某推薦の尽力を依頼した。「アッシは御免を蒙る」と伊勢与は言下にピタリとはねつけた。「星の子分の尻押をしたといわれちァ京橋ッ子の名折れだ。アッシは御免を蒙る。だが君も、自分の銀行の監査役に尻《けつ》を捲くられたんじゃ星に会わす顔がなかろうから、ついでに銀行も御免を蒙むってしまおう」と即時に監査役の辞表を叩きつけてしまった。「まアそう短気をいわないで……」とN某はあっけに取られて眼をまるくしたが、「アッシにはアッシの了見がある」と伊勢与はにべもなくけんもほろろに言い放ったので、N某も取りつく島がなかった。  伊勢与はかねて星の横暴を快からず思って、機会があったらひと泡吹かしてくれようと思っていたので、要こそあれと、一両日過ぎるとフラリと真向うの岩谷松平を訪れた。「オイ坊主」伊勢与はドウいうわけだか岩谷を坊主坊主と呼びすてにしていた。「オイ坊主、てめえを市会議員にしてやろうか、なる気はねエか?」 「市会議員?」と松平は半分自分の耳を疑って変な顔をしながらもニヤニヤした。 「お前が尻押ししてくれるなら……」 「手前がなる気なら俺が尻押ししてやる。星が京橋からMを出そうッて腹なんだが、星の子分に京橋を荒されちア銀座の名折れだ。ドウダイ坊主、一番四股を踏んでみる気はねエか」 と伊勢与は松平をおだてこんだ。  松平はもとより売名の徒。下地は好きなり御意はよしで、伊勢与が力瘤を入れてくれるなら千人力。金鍔《きんつば》を頬張った頬ペタを牡丹餅で叩かれるような気がして、ホクホクもので承知した。  伊勢与が松平を担ぎ上げたのは松平の人物をかいかぶったのではない。一つ町内の向う同士だから、松平の真価は知り過ぎるくらいのみこんでるが、星の子分のM某の競争者としてはちょうど松平がイイ取組だと星を愚弄したのであった。伊勢与が星派の候補者擁立に反対して星の内意を承けたN某に啖呵をきって、N某の銀行の重役の椅子まで返上したという噂はたちまち広がったので、伊勢与が星派の候補者を蹴って誰を出そうというのだろうという評判が区民の興味を沸騰さした。数日過ぎると岩谷松平が突然候補の名乗を揚げ、推薦者の筆頭第一が三枝与三郎と記されたので、区民なかんずく、銀座人はアッとたまげてあいた口が塞がらなかった。人もあろうに岩谷松平とは何事ぞ、伊勢与も余り人をなめていると不快にさえ思う者もあった。が、なかには伊勢与の意中はともかく、星の一味が東京市を我が物顔に振舞う議場に岩谷の赤洋服を送るのは「暫」の顔見勢に鯰坊主をりきませるようなものだと、伊勢与の皮肉を手を拍って痛快がるものもあった。  伊勢与だとて松平が星の好敵手だと思ってやしない。松平一人の力で星の天下をいかんともし難いのを知らんではない。推そうと思えば他に適当な人物がないではなかった。が、猿芝居や牛角力には通化役者が相応というのが伊勢与の腹であった。勝敗はともあれ、悍馬でも老馬でも千里の駿足を揃えたツモリの馬揃いに豚一疋を放つのが痛快で、独りでやにさがってほくそ笑んでいた。伊勢与は自ら出動して遊説し請願し斡旋するを好まなかったから、推薦状に署名した外には、運動らしい運動もあまりしなかったが、推薦者としての筆頭第一の三枝与三郎の名は千人力にも万人力にも勝った威力があった。岩谷の人物は第二の問題として、実際の擁立者たる「伊勢屋の親爺《おやじ》の顔を潰すな」「伊勢屋の大将の尻押しだ」「伊勢与の男を立ててやれ」と、京橋区民は一斉に起って岩谷のためよりは伊勢与のために奔走し、伊勢与の真意がだんだん解るとアンチ星のアンタゴニズムがますます強くなって、あまり人気のなかった岩谷松平が強敵の星派のM某を見事に一蹴して最高点の月桂冠を得た。岩谷はほとんど労さずして濡手で粟の最高票をつかんだので、伊勢与を深く徳として、それから後は伊勢屋を「爺《とっ》さん」と呼び、「坊主坊主!」と相変らず呼びすてされて、唯々として命を奉じた。剛慢の星亨も伊勢与の潜勢力の意外に強大なるを驚嘆し、「あの親爺にはへこまされた」と冑を脱いで降参した。星歿後市会の大後所といわれた森久保作蔵のごときも、伊勢与に睨まれるのを恐れて常に一目おいたそうだ。 [#1字下げ]伊勢与の剛愎[#「伊勢与の剛愎」は小見出し]  伊勢与に呼びすてにされたものは岩谷松平ばかりではなかった。甲州人もちまえのまけじ魂に加えて商人に似げない狷介《けんかい》剛愎のきかん坊で、親よりほかにはこの頭は下げないと、初対面にすらも※[#「ぼう+臣+頁」、第4水準2-92-28]《あご》をしゃくるばかりで決して叩頭《こうとう》しなかった。「伊勢屋は頭《ず》が高い」と心中不快に思うものもあったが、初対面から城府を設けないで、誰に対しても百年の知己のごとく語る洒脱《しゃだつ》の性格に、たちまち釈然としてブッキラボウがかえって親しまれ、「伊勢屋の大将はお世辞がないが、サッパリして気がおけない」と誰とも直ぐ心易くなった。誰でも呼び棄てにしたが、呼び棄てにされて不快を感ずるものは一人もなかった。枢密顧問官の末松子爵をも、下院翰長の林田をも呼び棄てにし、学問も門閥も無くして兄弟分か(林田のごときに対しては)親分子分のごとく扱っても親爺《おやじ》親爺と親しまれていたのは一種の人徳があったのであろう。  正直にいって岩谷松平は(人格的にはあまりありがたくない人物だが)その足跡は必ずしも伊勢与以下ではない。社会的には伊勢与よりもヨリ以上に知られている。が、銀座人としての生活では伊勢与と「坊主坊主」と呼ばれて伊勢与に対しては「爺《とっ》さん」の敬語を用いていた。亀屋の先代は伊勢与の細君の兄で、正しく伊勢与の義兄にあたってるが常に兄貴兄貴と称して兄事していた。銀座人は皆伊勢与に一目おいて親分株に立て、銀座人の悶着は町政その他一家の私事に到るまで伊勢与が顔を出せばすぐ落着した。銀座の草分けの古老の筆頭であったのみならず、義に勇み情に厚く、公平にしてすこしも私心がなく、寛弘にして財をおしまなかったからである。銀座の大久保彦左衛門と称したのは誰が言いはじめたか知らぬが、そこらじゅうにザラにある大久保彦左衛門のように、やたらと親分ぶるヤカマシヤの爺さんであったばかりじゃなかった。末松青萍子が像背に勒して、富巨万を致して毫も鄙吝《ひりん》の気無く、資性剛直にして侠気あり、といったのは決してお座なりの定り文句ではなかった。  前にもいったが、伊勢与は社会的に第一線に立つを好まなかったから世間的にはあまり知られなかったが、銀座人としては決して逸すべからざる大いなる名である。 [#1字下げ]伊勢与の模範的家庭[#「伊勢与の模範的家庭」は小見出し]  伊勢与を憶い起すにあたって同時に憶い出さずにいられないのは、伊勢与のいくところ影の形に随うごとく必ず同伴する糟糠《そうこう》の妻の杉本氏である。杉本氏は伊勢与が初めて家を持った南小田原町の家主亀屋の本姓である。亀屋が築地から銀座に移ったはイツ頃であったか知らぬが、食料品をあきない始めたのは伊勢与と秦晋《しんしん》の好《よし》みを結んでから伊勢与の入れ知恵であったらしい。亀屋は今が三代目で、伊勢与の妻は初代の女《むすめ》で、今の亀屋の当主には伯母にあたっている。  伊勢与が杉本氏を娶《めと》ったのは南小田原町から入舟町へ転じた頃で、新婚早々丸焼けとなって開店以来二、三年の努力がフイになってしまった。盤根錯節《ばんこんさくせつ》にあわざれば利器とわかたんで、伊勢与は鼻唄を唄って商売初めの総決算を済ましたツモリでいたが、細君は新婚早々の厄落しとノンキ湯宿の徒然《つれづれ》に聞いた事があるが、今は忘れてしまった。が、クリや、薄資本《うすもとで》の[#「が、クリや、薄資本《うすもとで》の」はママ]商売の駈引や魂胆の苦辛経営談は四万《しま》のはひととおりではなかったそうだ。その時代の世帯のヤリな顔を[#「その時代の世帯のヤリな顔を」はママ]してはいられなかった。その間に処する苦労や心配あのガラガラした[#「その間に処する苦労や心配あのガラガラした」はママ]江戸弁の伊勢与がシンミリした調子で、「婆アさんにも苦労をかけたもんだ」と、シミジミ感謝するようにいった。「正直一年に一遍でもこうして気楽に遊んでいられるのは漸くこの四、五年。初めて熱海へ行った時は馬鹿気たはなしサ、七八置いて痛工面《ひどくめん》をして贅沢な絹夜具を新調したもんサ」とからからと笑った。(その頃、明治十六、七年頃はマダ温泉地の風俗が質朴だったので、贅沢な浴客は皆贅沢な寝具を携帯し、旅館は滞留客の夜具を二階の欄干《てすり》へさらして誇りとする風があった)  正直なはなし、伊勢与は話が上手すぎた。あまり上手すぎて調子に乗る事があった。英雄人を欺く、罪のないウソも交った。金のある話や儲けたはなしは決してしなかったが、金の無い話や損をした話はした。ドコまで信じてイイか解らぬが、とにかく七両二分(当時の七両二分はそれほど小額でなかったにせよ)からアレだけに漕ぎ上げるには相応の苦労をなめたに相違ないので、伊勢与は大部分を細君の内助の功に帰した。内助というような言葉を伊勢与は使用しなかったが、「ワッシは湯治場廻りが道楽だが、ワッシよりは女房に保養をさせたいと思って……若い時に散々苦労をさせたから……」とシミジミ糟糠の細君に感謝の意を表していた。  私はその頃文学青年としては偏窟すぎるくらいピューリタニックであった。今の言葉でいえば三角恋愛や第二夫人をあやしまない風俗をつま弾きするより憎んでいた。憎むよりはむしろ呪詛していた。温泉場などに逗留しているとそういう敗徳が公々然と露骨に、都会の社会的倫常から解放されてるかのように行われてるのを目撃するに堪えられないので、現にこの時もそういう紀綱紊乱者が二、三組、紳士淑女然として滞留していた。その中に伊勢与の老夫婦のごとく人欲を超越して伉儷《こうれい》いよいよ濃やかなるは千両箱を杉なりに積んだ上に座るに勝した人生の清福でもあったし、また文明の紳士としての誇りでもあった。  前にもいったが、伊勢屋は卸《おろし》が主であった。小売は家事にとらわれてるのが一家の主婦の能ではないという細君の見識から、いわば細君の内職(?)にはじめたのだ。伊勢与の細君は早くから時代の好尚の推移に着目して、女の洋装や子供の洋服がマダ今日のようにはやらなかった頃から婦人小児の洋装附属品を揃え、東京にマダ指を折るほどしかなかった婦人用品専門の洋物店として知られた。女の子の被り物としては毛糸の手製の月並の型しかドコにも売っていないで、ハイカラ好みの人はワザワザ横浜まで捜しにいった頃(三十年前)から伊勢屋にはロンドンの新型を売っていた。こういう新らしいものは皆伊勢与の細君の眼鏡で仕入れたので、その頃子供婦人物はドコでも仕入れを困難をしたを、伊勢与の細君は江戸生れの婦人であって時代に率先した。十年程コッチ女の子の帽子が都鄙《とひ》を通じてはやり出してからフエルトや麦稈の内地の製帽業者は皆子供帽子を競争したが、伊勢屋は帽体のみを註文してその粧飾はすべて老夫人の意匠によって加工した。シカモその意匠は抜群にてなまなかの舶来品より勝って、三枝のはロンドン、パリの本場仕入れで垢抜けがしていると評判された。ある著名な製帽会社のごとき、常に新味を出す創意に感嘆して、子供帽子は三枝老夫人の批評を聞いて加工したそうである。六十の老婦人がハイカラの走りの流行を考案するがごとき誰でも意外とするところだろう。もってその頭脳のいかにフレッシュで明敏であったかを知るべきである。  伊勢与を知るもののうちには伊勢与よりは、ヨリ以上に細君の切廻しの巧みな才幹に敬服して女丈夫の讃称をおしまないものもあったが、女丈夫といってはあまり強過ぎる。伊勢与の細君は柔婉温籍、口数が少くてよろずにツツマシくて一見タダの世話女房であった。伊勢与は生一本で思う事は何でもズバズバと言いまくったから、時としてはあまり率直すぎて思わぬ敵を作ることがないでもなかった。が、細君は玲瓏《れいろう》玉のごとく誰にでも笑顔で接したから、伊勢与の時としては辛辣骨を刺すがごとき垢罵《こうば》を浴びせられ、あるいは木で鼻をくくったようなブッキラ棒な待遇で多少心持を悪くするものも、細君に会って一ト言二タ言利くと、たちまち春風に包まれるごとく釈然としてしまう。伊勢与におそれられはばかられ、青天霹靂《せいてんへきれき》の肝癪玉をぶつけられ冷水三斗の痛罵を浴びせられて好感ばかりを持ってもいられない場合があっても、老夫人に対しては何人もかつて不快を抱いた事がなく、伊勢与の家に出入したもので老夫人に感謝しないものはなかった。  伊勢与は根が声色に親しむを好まない物堅いたちであったのだろうが、この賢夫人が清浄なる家庭の礎石であったのは争われない。日本は家庭道徳の修まらない国で、論語でかたまった子曰《しのたまわく》先生でも第三第四の夫人の顔を一つ屋根の下にならべて怪まないのが醇風美俗となっている。ことに市井の町人社会ではなおさら、町人が実業家とあらたまっても家庭は依然たる町人である。伊勢屋と向い合ってる岩谷松平が六十何人とか七十何人とかの子を挙げて豚と多産を競争していたと比較して、九尺間口の長屋から鉄筋コンクリートの角見世まで艱難相助けて侶《とも》白髪まで終始一徹かわらなかった伊勢与の家庭は日本では珍らしい美しいものだった。  四万で初めて会った時、私が伊勢与に嘆服したのはその豪放なる人物でも、その縦横なる快弁でも、空拳巨富を作った立志談でもなかった。正直にいって姿貌あまり揚らざる老夫人との伉儷《こうれい》はなはだ濃かなる情愛であった。その頃(約四十年前)は今よりも家庭の概念が低くして、湯治場あにたりは正夫人よりは準夫人を伴うものが多く、なかには一見いかがわしき婦人を引張って来てこれ見よがしに振舞うものもあった。現にこの年もある引退した大官とかいう七十何歳の老人が二十四、五の若い婦人を同伴して滞留していた。この老人は旅館の常得意で毎年必ず来浴するが、帯同の夫人が毎年必ず違うというのだから、第何号であるかは旅館の主人も知らないといった。なにしろ七十を越した老人が孫のような女を引張り廻すんだからたちまち湯治場中の大評判となった。その上に同じ滞留客を下目に見る尊大ぶりが鼻持ちならんので宿屋中の総スカンになった。この総スカンどのがある日鼻の下を伸ばして第何号だかの長唄の自慢をしたというんで、あのおさすりが長唄という面かい? と岡焼半分の人相見や戸口調査がはじまって寄ってたかって、総スカンどのと第何号をさんざんにこきおろした。伊勢与も一緒になって衆議一決第何号の長唄を否決してしまったが、それから数日過ぎたある日、伊勢与は何と思ったか、「家の奴は面はマズイがアレで声はイイ、常磐津は式佐の名取りだからホン物だ。東京へ帰ったら一度諸君を呼んで聴かせよう」と、老細君の常磐津礼讃を初めた。第何号でないレッキとした正夫人の礼讃だから無条件に全員一致して、伊勢与夫人の芸術讃仰に同意した。私は腹の中で思った。その頃はマダ女房にこごとをいうのをお客への御馳走にした時代であった。細君の芸術を無邪気に自慢する伊勢与の家庭円満は祝すべきでもあったし、また嘆称すべきでもあった。伊勢与は温泉廻りが唯一の道楽であったそうだ。この温泉廻りにはイツデモ細君が同道したので、長い間苦労をともにした細君への慰労でもあったし、感謝でもあった。 底本:「現代日本記録全集4 文明開化」筑摩書房    1968(昭和43)年10月25日初版第1刷 底本の親本:「魯庵随筆読書放浪」書物展望社    1933(昭和8)年4月3日発行 初出:「中央公論」    1929(昭和4)年1月号および2月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。