原爆の子「序」 長田新 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)上に跨《また》がった |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)当時|黒焦《くろこ》げの [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「世界の始めか世界の終りか」といわれた、あの人類の歴史上における最も悲劇的な瞬間──昭和二十年八月六日午前八時十五分──その時から早くも六年の歳月が流れて、またもや悲しい思い出の日がめぐってきた。中国山脈から流れ出る太田川が六つに分れて瀬戸内海に注ぐ、そのデルタの上に跨《また》がった広島市が、世界最初に投下された原子爆弾によって一瞬の間に焦土と化し、全人口四十三万のうち実にその過半数の二十四万七千人の尊い生命が消し飛ばされてから六年、当時|黒焦《くろこ》げの屍《しかばね》で埋まった川には、今は澄みきった水が静かに流れ、川辺に青々と茂った樹々の影を映しており、街にもようやく商店が立ち並んで復興への息吹きが感じられる。とはいえ表通りを離れて一歩足を裏町に踏み入れてみると、そこにはまだ倒れたままの墓石や、赤錆《あかさ》びた鉄片や、煉瓦《れんが》のかけらなどの散乱した焼跡が残っていて、雑草の生い茂った空地が続いており、昔はあかあかと街燈が並んでいた町々も、夜になると暗闇の中に沈んでしまう。市そのものは外見的にはある程度復興しているか、市民の生活は復興してはいないと言える。それというのも原爆におそわれた広島の街は、他の戦災都市とは比較にならない全く異った困難な状態におかれているのであって、心なき一部のジャーナリストが広島市の復興を盛んに賞《ほ》めたてている一方、町には依然としてトタンや板をうちつけたバラックが多く、市の周辺にあって焼け残った家々も、爆風によって壁は落ち、柱は傾いたままの醜い姿で放置されている中に、堂々たる鉄筋コンクリートの公共建築物が際立《きわだ》って高くそびえている風景は、調和のとれない、何か不自然な印象をさえ与える。町の家々に住んでいる人々も、戦災後新たに広島に移って来たものが全体の三分の二という多数を占め、当時市中で惨禍《さんか》にあいながら、辛《かろ》うじて生き残った人々の多くは、あるいは田舎に帰り、あるいは他郷に移り住んでちりぢりになってしまって、懐かしい元の古巣に帰って来ることのできた者は、現在の広島の人口二十九万余の僅《わず》か三分の一にすぎない。この人たちは再び町に帰っては来たものの、かつては大通りに立派な店舗を構えていたのに、今では人影もまばらな裏町に小さな店を出して、僅かばかりの品物を並べてほそぼそと暮している人が多い。  爆心地から五百メートルばかり離れたところに大阪銀行の支店があって、その正面入口の石段の片隅に簡単な木の柵《さく》が張りめぐらされている。覗《のぞ》いてみると、そこには黒ずんだ人影が見られる。当時は住友銀行といったその建物の入口の石段に、一人の人間が腰をかけて、おそらくは片肱《かたひじ》を膝《ひざ》にのせて頬杖《ほおづえ》をつき、何かもの思いにでも沈んでいたのであろう。そこへ原爆|炸裂《さくれつ》の閃光《せんこう》か襲《おそ》いかかって、その時即死したであろうその人の影が、強烈なウラニュームの放射能の作用によって、石段に刻印されたのである。その黒ずんだ人影は今もそこに腰をかけてもの思いに沈んでいる。年月の経つにつれて、あの日の悲劇もようやく人々の記憶から消え去ろうとしている時、その黒ずんだ人影も次第に薄くなりつつある。けれども親を失い兄弟を亡くした広島の人々の胸には、永久に打ち消しがたい一つの暗い影が残っている。もし他郷の人が広島の人に話しかけたら、彼らはむしろ朗《ほが》らかな笑顔をもって答えるであろう。しかし広島の人々の胸の中には永久に癒《い》やすことのできない苦悩がひそんでいるのだ。そしてその苦悩は年月と共にますます強く燃えさからずにはいない。  原爆の惨禍にあいながら奇蹟的に生命を取りとめた人々の多くは、今なお身体《からだ》に傷痕《きずあと》が残っている。その傷痕が人目につかないところにある人たちはともかく、顔や手に傷痕をもっている人々、殊《こと》に少女や年頃の娘たちは、訴えどころのない悲痛な思いに人知れずもだえている。中学一年生の坂本知栄子さんはその手記の中でこう言っている。「治りょう所でつけてもらった薬は、赤チンだけだった。あの時もっと治りょうができたなら、きずは決してのこらなかったのにと思うと、ついなみだがこぼれてくる。いつも『あの時は、もう死んでしまうんじゃないかと思っていたのに、知栄子ちゃんはよくなおったほうですよ。』と言われて、お母さん自身目になみだを一ぱいためておられる。母のなみだを見ると、私は一そうかなしくなって、こらえてもこらえても、なみだが止らなくなる。」また高等学校二年生の藤岡悦子さんはこう書いている。「私の傷あとは、一生かかっても、とれないものであった。なぜこのように傷あとを気にするのでしょう。それは、みんなから『ピカドン傷』といってからかわれ、またののしられ始めたからです。その時私は、こんなことぐらいと思って、父にも母にも言わないでだまっていた。……また広島に舞いもどってきた。そこでも私は、近所の人や同級生や下級生までに馬鹿にされ、いじめられた。……新制中学に入学してから、またしても悲しみがふえた。……これから先のことを考えると、生きていくことが恐ろしい。」  しかし思えば傷痕は単に外傷だけではなかった。それは肉体の奥深く食いこんでいた。アメリカ原子力委員会・国防省・ロザラモス科学研究所の編纂《へんさん》している『原子爆弾の効果』によれば、「……一時的な生殖不能は、日本の男女に起ったようにもっと少い輻射《ふくしゃ》量で起り得るが、その大部分はその後で正常に回復した。」(第十一章、人員の被害、D「輻射病の原理」中の生殖器官十一の六十二)(『自然』八月号、中央公論社)とのことである。ところがこの「大部分」という言葉のもつ内容を何と解するかは別として、事実回復しないものの数が相当あることは否定できない。当時女学生であり、現在は家事に従事している一人の若い娘の寄せた手記に目を通した時、私はこの世界が暗黒に包まれたような衝撃を受けた。というのはその少女は永久に母となる力を喪失したことを涙ながらに記していた。しかもその少女が絶望のどん底から、なおも新しい理想に向って起ちあがろうとしている姿に接した時、その少女のこと、更にはこの子供を持つ両親の心情に思いをめぐらして、私は暗涙《あんるい》にむせばざるを得なかった。  私は進んで広島の人たちのかかった原子爆弾症について語らなくてはならない。原子爆弾のあの放射能はガンマー線や中性子として、肉体の奥深く滲透《しんとう》し、骨髄《こつずい》まで侵した。少しの外傷もうけず元気に見えた人々が、数日たって、数週間たって、数カ月たって、その影響が表われて来て、頭髪が脱《ぬ》け、歯齦《はぐき》から出血し、下痢をおこし、皮膚に暗紫色の斑点が現われ、血を吐いて、意識は明瞭《めいりょう》なままに斃《たお》れていった。そうした症状を表わした患者も、八月・九月・十月と時間が経つにつれて、次第にその数を減じていったので、やがてその姿を消すのではないかと思われた。ところがそうではなかった。というのは六年を経過した今日、元気で働いている大人に、楽しく遊んでいる子供たちに、不意に爆弾症が襲いかかりつつあるのだ。小学五年生の若狭育子さんはその手記の中でこう書いている。 「半年前(昭和二十六年一月)に、十になる女の子が急に原子病にかかって、頭のかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生かひっ死になって手当てをしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんでからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。」  私がこの原稿の筆を進めている最中、広島県|安芸《あき》郡のある村の青年が話しに来た。聞けばこの青年の父は当時広島にいたが、その後元気に田畑で働いていた。それが今年の七月中旬になって、原因不明で寝こんでしまい、医師の診察を乞うたところ、白血球が極度に減少して、原子爆弾症の症状を呈しているという。しかもその治療法がいまだに不明なので、家族は病床に臥《ふ》した父をかこんだまま、憂愁に閉ざされているというのである。このような話は六年後の今日でさえ広島のあちこちで聞かされる。それだけではない。原子爆弾の恐るべき破壊力は、当時広島におった人々の子々孫々にまで及ぶという説が、現に一人の遺伝学者によって唱えられているではないか。私は遺伝学に対しては全くの一門外漢であって、それが果してどれだけの信をおくに値する学説であるかは判断できないが、ロイター・ニュースによると、イギリスの有名な科学者ジュリアン・ハックスレー博士は、最近原子爆弾の使用が人類に与える生物学的影響について、放射能は人類に遺伝学的影響──遺伝子の突然変異──をひき起すという新説を発表したと言われる。即《すなわ》ち一般的に原子爆弾から生ずる放射能は、遺伝子の突然変異をむしろ促進し、この変異は有害なものとなりやすいという。もちろんこの影響はすぐには現れず、結婚によって遺伝子が二代の変化を経なければ現れない。それも影響をうけた遺伝子や、われわれのうけた精神的欠陥の如何《いかん》などによっても違ってくるというのである。このようにして広島の父や母は、無心にたわむれ遊ぶ子供たちの姿を見るにつけても、原爆以後生れた子供たち、また生れるであろう子供たちや孫たちの将来を思って、暗澹《あんたん》たる思いに閉ざされてしまうのである。  肉体に対するこのような破壊力もさることながら、同時にその結果として、人と人の関係に測《はか》り知ることのできない無数の精神的不幸をもたらした。鈴ガ峯女子高校三年生の藤野昌子さんの手記にはこうある。「あの惨劇を惹《ひ》き起した原爆は二十数万の生命を奪ったばかりではなくて、さらに生き残った幾十万の人間の魂をどんなに傷つけたことだろう。原爆は眼に見える不幸とともに、とうてい測り知ることのできないほど大きい、眼に見えない不幸を生んだのだ。」  その当時まだ学校に上っていなかった幼い子供も、今ではもう小学校の上級に進み、あるいは小学校を終えて、中学に進もうとしている。その頃まだ人間の死ということをおぼろげにしか理解できず、亡くなった父母の顔すらはっきりとは覚えていなかったこれらの子供たちも、成長するにつれて、ようやく自分の失ったものが何であったかを、しかも父母の死が病気によるものではなくて、原爆による不自然な痛ましい死であったということに思い及び、その悲しみはあたかも樹木の年輪のように年とともに増大してゆくのである。小学六年生の佐々木啓子さんはこう書いている。 「その時私は、いなかでおばあさんとすんでいた。……それ(八月六日)から一週間ぐらいたってから、おばあさんがかえってきたので、私が『お母ちゃんは』ときくと、おばあさんは、『せなかにおうてきた』というので、私は喜んで、『お母ちゃん』とさけんだ。けれど、おばあさんのせなかには、リュックサックしかなかったので、がっかりした。すると、お姉ちゃんや、いなかの人がなきだした。私はなぜだろうかと思った。けれど、私にはわからなかった。するとおばあさんは、リュックサックの中から、おこつを出して、みんなにみせた。それは、お母ちゃんの金歯と、ひじの骨だけだった。それでも、私は何のことかわからなかった。そうして、一年たっても、二年たっても、お母ちゃんはかえってこなかった。そして三年たったら、私は小学校の二年生になった。その時はじめて、お母ちゃんが死んだということが、やっとわかってきた。それからというものは、お母ちゃんがこいしくてたまらなくて、毎日のようにお母ちゃんのおはかにまいった。」  愛する父親を原爆で失った中学三年生の森一夫君はこう言っている。「ようやく小学校を卒業した僕は、その頃になってはじめて、お父さんのことを考えだした。友だちには、みんなお父さんがいるのに、なぜ僕のお父さんは亡くなったのかと思うと、だんだん悲しさが増してくる。」原爆によってこうした悲劇の種が無心な子供の胸中に播《ま》かれてあったのである。  私は今ここに、当時広島に住んでいて、原爆の悲劇を身をもって体験し、あるいは父や母を失い、あるいは兄弟に死なれ、あるいは大切な先生や親しかった友達をなくした広島の少年少女たちが、当時どのような酸苦を嘗《な》めたのか、また現在どのような感想を懐《いだ》いているかを綴《つづ》った手記を諸君の前に示そうと思う。  原子爆弾の効果については、内外の物理学者や医学者が動員されて、詳細な調査研究がおこなわれた。原子爆弾がどれだけの物理的な力を発揮したか、また人体や生物に対してどれだけ破壊的に作用したかについての物理学的・医学的ないしは遺伝学的な研究は、もとより重要な意味をもつものであろう。しかしこうした形而下《けいじか》的の研究ではなくて、原子爆弾が人間の精神にどんな影響を与えたか、特に当時まだ学齢以前の幼児であるか、それとも小学生・中学生・女学生として勉学の途上にあった少年・少女たちの純真で、無邪気で、感受性の強い、柔らかな魂が、あの原子爆弾で何を体験し、何を感じ、そして何を考えているかを知ることは、ひとり世界の教育者や宗教家や政治家だけではなくて、あらゆる階層の人々にとって一層関心の強い、そして大きな意味と価値とをもつ問題ではなかろうか。  広島に投下された原子爆弾については、すでに数多くの書物も公にされている。アメリカにはジョン・ハーシーの『ヒロシマ』があり、日本においても、いちはやくいくつかのルポルタージュが書かれ、二、三の職業的作家は当時の広島を舞台にした小説まで書いているのであるが、私は一人の教育学者として、この余りにも悲劇的な体験をもっている少年少女たち、まだ特定のイデオロギーや宗教的世界観や政治思想などによって染められていない。無垢《むく》な少年・少女たちの手記を集めて、今日世界の教育にとって最も重要な課題の一つである「平和のための教育」研究の資料として、これを整理し、かつ人類文化史上における不朽の記念碑《ドキュメント》として、これを永久に遺《のこ》したいと思い立った。ところが原爆の惨禍から辛うじて生き残った人たちも、家を焼かれ、身寄りを失って、蜘蛛《くも》の子のように離散してしまったために、この記録の蒐集《しゅうしゅう》は容易ならない困難に直面した。そうした悪条件の下にありながらも、広島市を中心とする各学校の校長や先生方、特にはこの記録の執筆者である少年・少女諸君は、心から私の趣旨を理解し、私の趣旨に賛同されて、積極的の協力を惜しまれなかった。次から次へと私の手もとに届けられて積んで山なす原稿に目を通して、私はそこに描き出されている余りにも深刻な、悲惨な事実に、今さらながら愕然《がくぜん》とせざるを得なかった。齢《よわい》すでに六十を越えて幾多人生の辛酸苦渋を嘗《な》めて来た私も、無邪気な少年・少女たちによって赤裸々に記されたこの余りにも痛ましい現実を知って、幾度か手記を閉じて、涙を拭《ぬぐ》わずにはおれなかった。百人に一人か、千人に一人か、全く偶然に生き残ったこれらの幼い子供たちは、あるいは崩れ落ちた建物の下敷きになり、あるいは火焔《かえん》に包まれて、生きながらに焼け死んでいった彼らの愛する父母兄弟をはじめとして、慕《した》っていた先生や、親しい友人たちの最後の言葉を、この記録の中に伝えているではないか。勤労作業中この惨事にあって、四十名の同級生中ただ一人生き残った女学生の記録の一節にはこうある。「四十余りの心霊が身を守っていて下さるのだからと自分自身に力をつけて生活しています。体具合が少しでも良い時は、今は亡き師や友に対して私の今までの生活がすまぬような気がします。私はまず第一に私の心を安静厳格に保って、四十人のお友達の代りにも勉めなければならないと思います。」ここでは永久に生きてかえることのない人々が、その最後の訴えを、この生き残った人たちの口を通じて叫んでいるのではないか。生き残った人たちは、今はもう語ることのできない人々に代って、またその人々と共に、訴えているのではないか。記録に眼を通してみた私は、この余りにも貴重な資料を自分一個の研究資料として私するには忍びなくなった。そして少なくもその一部を、できることなら一日も早く、世の教育者はもちろんのこと、いやしくも良心のあるあらゆる階層の日本の人々、否《い》な、世界の人々の前に「生《なま》のままの材料」として提供すべきではないかと考えた。  もとよりここに集められた体験の記録は、単なるルポルタージュでもなければ、またいわゆる綴方《つづりかた》や作文と考えるには、余りにも真実な、余りにも厳粛なものである。鈴ガ峯学園の中学三年生名柄喜久子さんはこう書いている。「まだまだ書けば、生々しい記憶が次から次へと浮んでくる。けれどちょうど癒《い》えかけた生傷《なまきず》をまたうがつような心持がして、これだけ書くのにも幾《いく》たびか筆を捨てては、やっとの思いで書きつらねた。亡くなった父や妹や伯父さん、それからたくさんのお友だちや、何十万の霊への手向《たむ》けともなるような心持で書きました。」いたいけな少年・少女たちが、できる事なら忘れてしまいたいと思いながらも、どうしても忘れることのできない父母の死を思い浮かべながら、悲しみに打ちひしがれて重い筆を動かし、たどたどしい筆つきで書いているこれらの手記は、いずれも彼らの血と涙との結晶であり、彼らの最愛の肉親を奪った戦争に対するはげしい憤怒《ふんぬ》であり、肺肝《はいかん》を吐露した彼らの悲痛な平和への祈りであり、訴えである。もし読者が卑俗な好奇心や意地悪な興味の対象としてこの血涙の文字を読むなら、おそらく何ら得るところはないだろう。しかもそれは神を冒涜《ぼうとく》するものではないだろうか。  もちろん私はそれらの手記の全部を世に問いたいのではあるが、紙数の関係もあって、ここにはそのごく一部しか公けにすることができなかった。私は集まった手記のいわば縮図とでもいうべきものをつくることを企図した。そこで同一の問題を含んでいる手記がいくつかある時は、綴方としては優れたものがいかに多数あろうとも、私はただ一つだけとりあげた。私はまた綴方としては優れていないと思われるものもとりあげた。もとより紙数の関係と私の菲才《ひさい》とは、一個の縮図として満足のいくものになし得なかったことは残念だった。なお集められた手記は「平和教育の研究資料」として私に寄せられたものであって、筆者はもともと公表を予想して筆をとったのではないから、読者には読みづらいと感ぜられる点もあるであろう。しかしこの書がいわゆる綴方集や作文集とはもともと異った性格をもっている以上、少年少女のたどたどしい表現も、私はその客観性を保持するために、敢《あえ》て手を加えずにそのまま載せることにした。これらの筆者たちはまだ社会人ではなくて、現在勉学の途上にある少年・少女であるので、未熟な点、あるいは不穏当と考えられる点がないでもないが、しかし読者は文字の末節などにこだわることなく、筆者の真意を汲《く》んでいただきたい。個人の身体的な、あるいは家庭的な、こみ入った問題にふれていて、とても公表が許されないものは私は割愛した。おそらくこれらは今後平和教育研究の貴重な資料となって、やがて人類文化に寄与することになるであろう。言うまでもなくこれらの手記は、その一つ一つが平和教育の資料として貴重であるだけではなくて、原爆の子らのこうした悲痛な訴えは、世界史の一大転期でなくてはならないこの第二十世紀の後半の初頭における、人類への新しい福音として、人々の胸を打たずにはおかないだろう。いやしくもこの手記を読んだ者は、最早やかつての軍国主義者たちが叫んだ「平和のための軍備」ないしは「平和のための戦争」という、あのまことしやかな伝説には決してごまかされはしないだろう。実際誰が愚かにも、二度と再び戦争による破滅を通して、世界の平和を得ようなどと望むだろうか。誰が全人類の墓穴と化するであろうところの世界の廃墟のなかから平和を築こうなどと考えるだろうか。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  今日わが日本の国是・国策の一切を規定する唯一絶対の基礎たる日本国憲法の前文を読むと、そこにはこうある。 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」  こうした趣旨から出発して憲法第二章は「戦争の放棄」を宣言して言っている。 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇《いかく》又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」  日本国民はポツダム宣言を受諾し、今までの軍国日本が人類に対していかに戦争の惨禍と不幸とをあたえたかを懺悔《ざんげ》し、いまだかつて世界にない全面的な戦争の放棄と徹底的な永久平和とを主張する新憲法を、議会を通じて決定した。このようにして今や日本国憲法は、国民の理想であるとともに、国民の悲願となったのである。あの聖書の中にある「エホバは地の果てまでも戦をやめしめ、弓を折り、戈《ほこ》を断ち、戦車を火にて焼き給う」(詩篇第四十六)というキリスト教の絶対平和の精神が、今や欧米のいずれのキリスト教国でもなくて、人類史上はじめてわが日本国憲法に雄々しくも厳然として現れたのである。  この新憲法はもちろん外国人が作ったものではなくて、われわれ日本国民自らが作ったものである。ただ占領下にある日本が占領放棄のこの憲法を決定するにあたって、ポツダム宣言を実行する責任を連合国にたいして持っている立場から言っても、さらには連合国が希望したというのが言い過ぎであるとするなら、少なくとも連合国が反対しなかったことは事実であろう。というのは敗戦後の日本のあり方を決定する新憲法の制定が、ポツダム宣言に違反し、連合国の希望に反して成し遂《と》げられるということは、無条件降伏の日本に決して許されるはずがないからである。しかしわが国民は他国からの強制の故に戦争を永久に放棄するという新憲法を制定したのでは決してなかった。詳しく言えば日本国民が今まで犯してきたもろもろの罪を全人類の前に懺悔《ざんげ》し、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、戦争放棄の新憲法を決定したのであった。したがって戦争の放棄は全人類にたいする日本国民の義務であるとともに、これに対して連合国民が援助と激励とをあたえることは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」新憲法を制定した日本国民にたいする、少なくとも道徳的の義務と言えるのではあるまいか。しかるにこの新憲法に対する無理解と、それが制定に至るまでの歴史的な条件についての常識の闕如《けつじょ》から、日本人としていとも恥ずべき言動が、今や次から次へと巷間《こうかん》に見られるに至ったことは悲しみにたえない。たとえばあの歴史的悲劇である朝鮮の動乱に対して、大多数の心ある日本人が同情の涙さえ流しているのに、次のような悲しむべき言をなすものさえあるのである。 「……この四つの島に八千五百万人が閉じ籠《こ》められて……これは連合国が最初日本を統治する際、まさか日本がこんなに柔順だとは思わないのでこのライオンをどういう風にしてやろうかと思ったときに、アメリカの哲学者が『ナニ、四つの島に閉じ籠めておきさえすれば、生活難でお互いに肉親|相食《あいは》むようなことになるからいいんだ』と云われたそうですが、確かな狙《ねら》いでしたからね。幸いなことに、朝鮮事変のおかげで……これは神風でしょうよ。……われわれはこれと云う資源を持っておりませんから、朝鮮・満州の資源に厄介《やっかい》にならなければどうにもなりません。このままで進めば先へ行って大変なことになります。朝鮮動乱は全く神風だと思いますよ。」(修養団機関誌『和親』昭和二六年六月号、一一ページ)  学習院院長安倍能成氏は、その著『平和への念願』(昭和二六年、岩波書店発行)の中で次のように言っている。「我が国民の一部には、戦争があれほどの惨害と不幸とをもたらしたことを考えず、また広島や長崎で十数万の同胞が世界最初の原子爆弾試験動物に供せられた人類的国民的悲劇をさえ忘却して、敗戦後の困窮と不景気との除去を、またもや戦争の勃発《ぼっぱつ》によって僥倖《ぎょうこう》しようと願う者のあることは、実にあきれはてた次第である。殊《こと》に世界の二大強国なるアメリカ、ソヴィエットの不和に乗じ、小策を弄《ろう》してその間に漁夫《ぎょふ》の利《り》を占めようとするが如きは、敗戦の我が国をとことんの滅亡にまで沈倫《ちんりん》させる外の何ものでもないということを、深く深く認識しなければならない。  軍隊と武力とを有しない我が国の取るべきは、軍隊と武力以外にも、どの国の戦争にも関与せず、どの国の戦争にも協力せぬことである。それは即ち中立である。現実における日本の国際的事情から、この事の困難もしくは不可能を説く人もあるが、もしそれができなければ、果して何のための戦争の放棄であろう。自分の国の戦争は放棄して、外の国の戦争の手伝いは続けるという不合理が許されるであろうか。それが単なる不合理に止まるならばまだよい。その結果は日本を戦争にまきこまずにはおかず、再び戦争の惨禍を国民に負わせ、憲法の破壊に終らせて、日本国民の立つべき道義的基礎も物質的地盤もなくしてしまうではないか。日本国民はまさに死を賭《と》しても、いかなる意味でも戦争に参加したり協力したりしてはならない。」(同書一八―一九ページ)  われわれはこの哲学者の教えを胸に刻みつけるとともに、今や先にかかげた憲法の前文と戦争放棄の第二章とを読み直して、新たな決意を固めなくてはならない。  大戦終了後六年、依然として世界は不安につつまれ、またしても新たな戦争への脅威が身近に感じられる。そこで決して二度と戦争を起させてはいけない、どうかして平和をまもり通そうという意気が、今や全世界の隅々から湧《わ》き起ってきたのも当然である。こんどもし戦争が起り、原子爆弾第三号が炸裂するならば、クラウゼヴィッツのいわゆる暴力の無限界行使で、それは測り知れない連鎖反応を誘発して、何万発という原爆・水爆が戦争に加わる国の津々浦々までも炸裂して、地球を人類滅亡の墓場と化するであろう。原爆はその性質上奇襲によって多数の市民を殺戮《さつりく》するには適していても、勝敗を決するいわゆる決定的兵器ではなく、いわんや原爆・水爆を以て平和をもたらすなどということの決して望めぬことは、今日の原子力学者の常識となっている。  こうした世界の情勢が、世界中の一人一人をして「われわれは戦争を欲しない」「われわれは平和を求める」という力強い意思表示をさせることを要求している。これが急迫した今日の世界の状態ではなかろうか。なるほど人々が今日戦争への脅威におびやかされていることは事実であるが、しかしそれと同時に、いやそれ故にまた一方において、人類が平和を求めて、力強く立ち上りつつあることも人類史上|未曾有《みぞう》の出来事ではないか。  人間とは何か。人間は単なる環境の産物ではない。人間は歴史によって作られつつも、なお歴史を作っていく存在である。かつて愚かにも次から次へと戦争を繰返してきた人間にとって、今や戦争を防止することが可能でなくてはならない。人間は戦争を防ぎ得るという事実を、人類の新たな歴史の中に作っていかなくてはならない。今日の世界を大局的に見るならば、百万人に一人くらいのわずかな野心家が、戦争は不可避であると、やっきになって宣伝してまわっているにもかかわらず、事実は人類が戦争を防ぎ得ること、そして現に防ぎつつあることを示しているではあるまいか。人類は今やその理性と意志とをもって、戦争を絶滅し得る段階に到達しつつある。かつて人類が夢想して、しかも実現し得なかった恒久平和・絶対平和も、最早やそれが夢ではなくして、あくまでも現実的な理想であり目標であり得ることを、現に日本国憲法は示しているではないか。  ユネスコ憲章はその前文において、「戦争は人間の心の中に始まるものであるから、人間の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない」と言っているが、戦争の原因はそれがいかなるものであるにしても、結局われわれの心の中に媒介され、われわれの心の中に一定の心理状態をつくり出すことによって、初めて戦争への契機となるのであるとすれば、人間の精神に働きかけることを自己の本来の使命とする教育こそは平和の第一|義諦《ぎてい》でなくてはならない。ユネスコが文字通り「教育・学術・文化」と並べて、教育を平和運動の主役としているのも決して偶然ではない。われわれはかつて第二次世界大戦以前において、かの軍国主義者たちが、学校教育・新聞・雑誌・ラジオ等を通じて、公然とあるいは隠然と、戦争を是認し、戦争に飛びこむように、国民の心を準備してきた歴史的事実を顧みるとき、「心の中に平和のとりでを築け」というユネスコの意図がいかに妥当なものであることを知ることができよう。教育という作用はもともと人道の敵である戦争と対立するものだから、過去の歴史が冒《おか》して来た「平和のための軍備」「平和のための戦争」という欺瞞《ぎまん》や過誤を繰りかえさず、したがって平和的の仕方で解決できないような問題は、国際社会にはあり得ないという平和運動は、畢竟《ひっきょう》するに言葉の広い意味における教育以外のものではあり得ない。この意味においてわが国の教育基本法がその前文において、世界の平和と人類の福祉という理想の実現を教育に期待して、次の如く言っているのは十分正しい。 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」 「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」  このようにして、「われわれは戦争の惨禍をつぶさに体験してきた。われわれはもう二度と戦争を来《きた》させたくない。どんなことがあっても子供たちを戦争の残虐と悲惨の中に捲《ま》きこむことはさせない」という意向こそ、今日全教育者の切なる念願でなくてはならない。原爆当時建物の下敷になった数百の生徒たちを、おそいかかる猛火の中から救い出そうとして自らも重傷を負いながら、力尽きるまで奮闘して、ついに火に呑まれて灰になった多くの教師たちが、その最後の瞬間に何を叫び何を訴えようとしたか。それは少年・少女のこの手記の到るところに報告されている。私たちは尊い彼らの犠牲を無駄に終らせるようなことがあってはならない。犬死にをさせるには余りにも崇高な彼らの死であったではないか。実際原爆に斃《たお》れたこれらの教師たちの最後の訴えこそ、やがて今日の日本の数十万の教師たちの訴えでなくてはならない。今日の日本の数十万の教師たちの訴えとは何か。「子供たちが皆んな揃って、平和な世の中をつくり出すような人間になってもらいたい。平和を築くことを、人間としての最高の道徳と考えるような人間になってもらいたい。」これが今日の日本の教育者たちの切なる願いであるとするなら、あるいは疎開児童として、あるいは勤労動員によって、戦争の惨禍を身にしみて感じている児童たちの前に、彼らが経験した戦争の惨禍を取り上げることを避けて、かえってこれを忘れさせようとするが如き消極的の態度ではなくて、むしろこうした貴い体験を積極的に取り上げることによって生徒自身をしてあくまでも戦争の非人道的な残虐性を真剣に憎ませ、呪《のろ》わせ、戦争の心理的原因をつくるようなあらゆる偏見を、生徒自身の心の中から抜き去って、戦争を否定する正しい知識や美しい感情や逞《たく》ましい意志を芽生えさせ、進んでこれを育成強化させなくてはならない。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  昭和二十五年十月文部省大臣官房渉外ユネスコ課長西村厳氏の発表している平和運動としての国際理解の教育研究協議会報告書によれば、「国民的理解を発展させる実際計画」が次のように述べてある。(以下引用文) 「もし『国際的理解の教育』という教科が独立してあるならば、われわれは次のような単元を用意して、その教育を遂行《すいこう》するであろう。しかし現在のところわれわれは社会科を始めすべての教科において次に示す単元の内含する所の要綱を積み重ねてゆかねばならぬ。考え方によれば国際的理解の教育は独立の教科とすることが理想でなしに、全教科を覆う精神でこれを徹底するのがほんとうかもしれない。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 1 戦争は人間の心の中で始まるものであるから、平和のとりでは人間の心の中に築かれなければならない。 2 争いが平和的に解決できない場合は文明に大きな損害を与える。 3 われわれの日常生活は、物質的にも精神的にも世界とつながっている。 4 科学技術の発達は世界の国々の関係をますます深いものにした。 5 科学的研究の成果は国際親善を深めることに利用されるよう努力しなければならない。 6 世界の諸住民集団の間にはいろいろの差異がある。しかしこれらの差異は各集団民族の生れつきの優秀性や劣等性を示すものであるとの科学的根拠はない。 7 人種・性別・言語あるいは宗教の差別にかかわりなく、他の住民に対して心からの理解をもつことは平和を促進する上に基本的なことである。 8 国際平和の確立に対して種々の努力が行われて来た。 9 われわれも生徒としていろいろな点で、国際親善に貢献することができる。」 [#ここで字下げ終わり] 「問題解決のための計画」として2を取り上げているところを見れば次のように記してある。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 2 争いが平和的に解決できない場合は文明に大きな損害を与える。(新制中学の場合) [#ここで字下げ終わり]  右の西村課長の所説に明らかなように、総《すべ》ての児童を平和の世界を実現するような人間に作りあげることが、教育本来の使命であるとすれば、現在国の中央に地方に到るところ声高く叫ばれている道徳教育こそ、こうした教育本来の命題に無関心であってはならない。のみならず正《まさ》にこのような「平和のための人間」を育成することこそ道徳教育の使命でなくてはならない。最近公布された児童憲章第四条には「すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果すように、みちびかれる」と規定されている。しかも道徳が社会の一員としての責任を問題とする以上、あらゆる人間にとって、特に第二次大戦において重大なあやまちを犯して、今や戦争責任を痛感しているわが日本国民にとっては、「平和に対する責任」こそ、社会に対するもっとも本質的な責任でなくてはならない。この「平和に対する責任」をはっきり自覚して、平和を実現していく人間を陶冶《とうや》すること、それが新道徳教育の基本的な課題でなくてはならず、したがってもろもろの具体的な徳目もここを出発点として、初めて日本社会の現実的な要求に応え得る。なぜなら凡《およ》そ道徳とは、具体的な特定な時代とそのおのおのの社会とにあたえられた歴史的社会的な課題を実現していく課程において創《つく》られていくものであるから。(長田新「新道徳教育論」『社会科教育』昭和二十六年四月号所載)したがって徒《いたず》らに「行儀作法」や「しつけ」等の断片的徳目の末節にひきずられて、道徳教育の本来の基本的目標を見失うなら、それはかつての形式主義教育への復活であって、道徳教育の根本課題を忘れたものと言わなくてはならない。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  太平洋戦争も一九四四年のなかばを過ぎた頃にはもう決定的な段階に突入し、七月七日、サイパン島の日本軍は玉砕し、グワム島・テニヤン島でも引き続いて玉砕し、マリアナ諸島は米軍の占領するところとなった。米空軍はここを基地として九月二十四日第一回目の戦略爆撃を開始する端緒《たんちょ》を作った。七月十八日には、絶対に更迭《こうてつ》しないものと信じられていた東条内閣が突如として総辞職をし、何も知らない国民に初めて言い知れぬ不安と衝撃とを与えた。一九四五年二月二十三日、米軍はフィリッピン群島の首都マニラ市に突入し、早くも三月十七日硫黄島の日本軍は玉砕した。  沖縄で決戦するか、それとも本土で決戦するかという段階に突入した時、沖縄を湊川の一戦と考える海軍に対して、軍務局を中心とする陸軍当局の間では、本土決戦論が主張された。辰巳亥子夫《たつみいねお》氏は当時の事情を次のように述べている。 「陸軍の中堅層にはまだ冷静な理性的な意見が残っていた。『天号作戦(沖縄作戦)のために生産増強に死力を尽すべきこの際、国内情勢はどうか、市民は疎開だ避難だと狂奔し、交通機関は疎開荷物で満腹し、道路は罹災者・避難者の行列で閉塞され、全国民はひたすら己の生活擁護で一杯である。しかるに政府大本営の首脳は一体何をしているのか。万一本土上陸をされたら、現装備現訓練の兵力では絶対に見込みはない。全勢力を傾倒して、是が非でも沖縄で戦果をあげなくてはならぬ』と熱烈に叫んでいた課長級数名を記憶している。」(『世界』昭和二十一年四月号)  参謀本部ロシア課長・参謀本部編成動員課長・阿南陸相秘書官などを歴任した林三郎氏はまた次のように言っている。「日本政府は国内に厭戦気分の高まりつつあるを深く憂え、米軍の沖縄来攻の場合には、こんどこそこれに大打撃をあたえ、できれば戦争を終結に導く糸口を見出したいと、秘かに期待するところがあった。しかしながら宮崎第一部長は、国民士気の動向などにはあまり深い関心を払うことなく、純作戦的な見地からむしろ内地決戦に期待をかけたのである。ここに政府と大本営との考えの食い違いがみられる。」(『太平洋戦争陸戦概史』昭和二十六年、岩波書店)  このように国内政治は麻痺《まひ》し、四月一日には米軍は沖縄に上陸し、僅か三日間で北飛行場・中飛行場が占領された。四月五日小磯内閣は退陣したが、同日モロトフ外相は期限の満了を理由として、日ソ不可侵条約の不延長を通告してきた。この間の事情について『太平洋戦争陸戦概史』はこう言っている。「(昭和)二十年二月、ヤルタ会談が終ると間もなく、ソ連は極東ソ領への兵力輸送を開始した。続いて四月五日には日ソ中立条約不延長を通告してきた。兵力の東送は、その後においても間断なく続けられ、七月ごろには綏芬河《すいふんが》正面のソ領内に有力な砲兵が既に陣地についているとの報告が大本営にきていた。」(同書二七二ページ)エリオット・ルーズベルト氏はヤルタ協定についてこう言っている。「しかし会議が散会する直前に、スターリンは、一九四三年テヘランで彼が最初に申出た確約をもう一度繰りかえした。すなわちドイツが降伏してから六カ月以内には、ソヴィエットは日本に宣戦を布告し得るだろうというのである。それから暫《しばら》く考えて、スターリンは六カ月という見こみを三カ月に訂正した。」(Eliot Roosevelt, As He Saw It,[#「As He Saw It,」は斜体] New York, 1945)  五月八日、ドイツは無条件降伏をした。  このころ米国潜水艦の海上封鎖によるわが国船舶の損害の増大と、空襲による生産の低下とは、双曲線のように上下に開いていった。船舶の保有量は一九四四年七月の三百十万トンが、一九四五年四月には百二十万トンに、飛行機の月産は一九四四年度の平均二千二百三十機が、一九四五年四月には一千八十六機へと激減していった。頼みとする原料供給は米軍の沖縄上陸以降|杜絶《とぜつ》し、軍事生産はさらに激減し、燃料のつきた残存少数艦艇は対空砲台と化し、事実上海軍は消滅していたのである。心ある人々の間では敗戦はもはや必至のことと考えられ、和平への動きが表れはじめた。戦略爆撃調査団はこの間の事情を次のように報告している。「一九四五年五月初旬日本の最高戦争指導会議は、戦争終結の方法と手段とについて活溌な討議を開始し、ソヴィエット・ロシアを仲裁者として和平を求めるということになった。モスコウ駐在日本大使による会談も、東京駐在ソヴィエット大使との会談も進捗《しんちょく》しなかった。……近衛公爵をモスコウに派遣する計画は、たまたまポツダム会議開催の時期に遭遇したため阻止されてしまった。」(『アメリカ戦略爆撃調査団報告』)  六月二十一日、沖縄における日本軍の組織的な抵抗は終った。世界最初の原子爆発が七月十六日、ニュー・メキシコ州で行われた。その翌日の十七日、ポツダム会議が開かれ、同二十六日、ポツダム宣言が発表された。  八月六日、「広島の爆撃にいったイノラ・ゲエイ号が基地テニヤン島を飛び立つ時、従軍牧師ウィリアム・ドウニー氏はその壮途に対して神の祝福を祈った。」これに対して『クリスチャン・センチュリー』誌は、ドウニー牧師の祈祷文の全文を掲げ、それに対するウォルサー牧師の一文を載せた。その末文は「かかる牧師と同じアメリカ人たることを恥ず」と結んでいる。(谷本清著『ヒロシマの十字架を抱いて』昭和二十五年、講談社発行、五一ページ)八月六日午前八時十五分、原爆を搭載したイノラ・ゲエイ号は二機の観測機を従えてヒロシマの上空に姿を現わし、ウラニューム二三五爆弾を炸裂させた。八月八日、ソヴィエットは宣戦布告を発し、九日午前零時、総攻撃を開始した。同九日朝、長崎の上空でプルトニューム爆弾が炸裂した。スティムソン氏に言わせると、「われわれが投下した二つの爆弾は、当時われわれが持っていた原子爆弾のすべてであった。しかも当時の生産率は極めて小さかった。」(一九四七年二月『ハーバーズ・マガジーン』誌掲載のスティムソン氏の論文)十二日大本営は関東軍に停戦を命令した。十四日、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦の詔勅《しょうちょく》が発せられた。トルーマン大統領は、十月三日議会への教書で次のように述べている。「日本へ原子爆弾が投下されてから約二カ月を経過した。あの爆弾が勝利をもたらしたとはいえないが、戦争の終結を早めたことは確かである。もし原爆を使用しなかったとすれば喪《うしな》われたであろう数千人のアメリカ及び連合国軍兵士の生命が、これによって救われたことをわれわれは知っている。」  一九四五年八月十五日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、一空軍司令官と同紙ローマ特派員との次の会見談を載せている。「ロシアの対日戦争参加が、戦争終結を促進した決定的要素であり、たとえ原子爆弾が投下されなかったとしても、事態は同様であったろうというのが、ドイツ経由で帰米の途次当地に立寄ったクレーア・シェンノート少将(Major-General Claire Chennault)の意見である。」  この解釈を支持する二人のアメリカの評論家ノルマン・カズンズ(Norman Cousins. 在ニューヨーク、ヒロシマピースセンター協会理事長)と、トーマス・K・フィンレター(Thomas K. Finletter. 一九四八年ロンドン駐在マーシャル計画使節団主席、大統領航空政策委員会の委員長を歴任す)とは、一九四六年六月十五日号の『土曜文学評論(Saturday Review of Literature)[#「Saturday Review of Literature」は斜体]』に一論文を発表してこう言っている。 「しからば何故にわれわれは原爆を投下したか。ないしは原爆の使用が正当であったとしても、何故にわれわれは連合国主催の実験でその威力を示し、その基礎の上に立って日本に最後通牒を発して、責任の負担を日本人自身に委ねなかったか。……  この質問に対する回答がどうあろうとも、次の一事だけはあり得べきことだと思われる。すなわちニュー・メキシコの実験で原爆を爆発させ得ることを知った七月十六日と、ロシアの対日参戦期限の八月八日との間には、原子爆弾実験用の極めて複雑な機械を組み立てたり、時間的に手間のかかる実験地域の準備などのために割くだけの十分な時間的余裕がなかったということである。……  否な、もし原爆投下の目的がロシアの参戦前に日本を叩きつぶすことにあったとすれば、ないしは少なくとも、その目的が日本の崩壊に先立つロシアの参戦をして、名ばかりの参戦に留まらしめることにあったとすれば、いかなる実験も不可能であったろう。」  これらの意見と異る立場をとる原子物理学者K・T・コムプトン博士(Dr. K. T. Compton)は、親しく前線のマッカーサー司令部にあって、日本本土上陸作戦計画の全貌を知ることができた人であるが、一九四六年十二月号の『アトランティック・マンスリ』誌において次のように述べている。「情報に精通した将校たちが、凄惨でかつ犠牲の多い戦闘が前途に横たわっていることを確信していることを知った。……私は原子爆弾の使用が、アメリカ人・日本人の数十万――おそらくは数百万の生命を救ったという確乎《かっこ》たる信念をいだくに至った。」  歴史学や軍事学に対して全くの門外漢に過ぎない私は、これらの諸説に判断を下す能力はもちろんもっていない。だが、「たとえ原子爆弾が投下されなかったとしても、たとえソヴィエットが参戦しなかったとしても、さらにまた上陸作戦が計画もされず企図もされなかったとしても、日本は一九四五年十二月三十一日以前に必ずや降伏したであろう」というアメリカ戦略爆撃調査団報告を私は否定することはできない。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  このようにして八月六日午前八時十五分、B29イノラ・ゲエイ号は広島市の上空にすべりこんだ。広島市の郊外にあってその瞬間を目撃した一人の少年、現在広島文理科大学化学科学生宮田哲男君はその時の印象をこう書いている。 「突然|遙《はる》か上空でB29の爆音がする。おそらく一機か二機だ。警報も出ていない。心配は要らぬ。昨夜の空襲の効果を確めに来たのだろうと、B29の偵察には慣れっこになっている私たちは、最初は別に気にもとめなかった。ところが急に甲高《かんだか》い唸《うな》るような爆音に変ったので、思わず上空を見上げた。B29が一機、真夏の太陽の直射光を浴びてキラッとその巨大な横っ腹を光らせ、青空に真白な飛行機雲を吐きながら、今しも急旋回して凄《すさ》まじい速度で上昇して行く。」この瞬間既に一切は終って、広島はその余りにも悲劇的な地獄絵を展開したのである。その朝七時三十分には空襲警報が解除され、間もなく警戒警報も解除された。八時十五分原子爆弾は市の中心部である商店街の真上で炸裂した。全く無警告であったこと、当時少数の偵察機の飛来は毎日のことで、市民は無関心であったことの故に、原子爆弾攻撃は完全な奇襲となった。労働者・徴用工・女子挺身隊・中等学校二年生以上の動員学徒たちの大部分は、爆心地から四キロメートル以上も離れた軍需工場で既に作業に従事していて幸い原子爆弾の攻撃を免れたが、これらを除く全市民は市内に残っていた。あどけない学齢以前の幼児たちは、母親や祖父祖母とたわむれながら屋内におるか、それとも半裸体で路上で無邪気に遊んでいた。小学校の一・二年生はお寺や教会などに分散された寺子屋学校で勉強しているか、それとも登校の途上にあった。小学三年生から六年生までの児童は、その年の四月既に田舎に集団疎開をしていたが、病弱や父親の出征による家事の手伝いその他の理由で、集団疎開に加われなかった者は、寺子屋学校か本校かで授業を受けていた。官公庁や会社の勤務員は、既に勤務しているか、それとも出勤の途上にあった。商店の主人たちは朝の掃除をすませて、店を開いたところであった。市の中心部では防火地帯をつくるための、建物取りこわし作業が大仕掛けに行われていた。市内の中等学校一学年の男女の生徒はそれに動員され、更に各町ごとに勤労奉仕隊が編成され、これには主として母親たちが、幼児をあるいは背負い、あるいは留守宅に残して参加していた。病弱か老年の故に軍隊にも工場にも動員されていない父親たちも参加していた。近郊の農村の中等学校の生徒や若い娘や母親たちも多数動員されていた。  私は原爆落下の瞬間にたちまち地獄と化した惨状を、はっきり読者の目の前に浮かび出させる意図で、八時十五分直前の様子を、当時満三・四・五・六歳の子供たちや、当時小学一・二・三年であった子供たちの手記に聞いてみよう。 当時満三、四歳(現在小学校四年生)  あつい時だったので、ぼくははだかでげんきよく、あそびまわっていた(本川校、上村勝義)。お母さんは風呂場でせんたくしていて、弟の昌男はしんだいでねていました。私は東の部屋にいました(本川校、吉山久子)。一番上のおねえさんは、学校から東洋工業に行っていました。お母さんは、お勝手で朝ごはんのあとじまいを、二つになるいもうとは、水がめの上で、おちゃくみに水をいれてあそんでいました。私と二ばんめのおねえさんは、まだねていました(幟町《のぼりちょう》校、中島早知子)。  当時四、五歳(現在小学校五年生)  僕はかがみをもって、家の外に出て、ピカピカ光らせながらあそんでいました。お母さんが、「そんなに光らせていると敵機が来て爆弾をおとしますよ」としかられた。僕はびっくりしました。それからしばらくして(千田校、藤田順生)。お母ちゃんは、赤ちゃんをつれて、きんろうほうしに出ておられましたので(段原校、森下暁夫)。家の中で絵本を見ていると(段原校、大江紀行)。ぼくはお庭で妹と花をつんでいると(段原校、越智貞次)。おばあさんが、今日はお天気がいいからお寺まいりに行きましょうとおっしゃって、二人でまいることにしました。大洲のところからバスにのろうと思って(段原校、西田伸子)。庭には木や植木ばちがたくさんあって、おじいさんは、それをいじっていました。ぼくは、三りん車にのって、はだしであそんでいました(段原校、坂田守正)。おとうさんはかいしゃに、おかあさんは、あかちゃんをおぶって、きんろうほうしにいかれました。兄さんは学校にいったので、私は一人になりましたから、ともだちのれい子ちゃんのところにいきました。……ままごとをしてあそびました(幟町校、武岡久恵)。おばあさんは、だいどころでなすびをあらっていました。いもうとは、おちちをすっていました。ぼくがおかあさんに、ぼうしをかってといっているとき(幟町校、山本正紀)。私がそとで貞美ちゃんといっしょにとんぼをとっていたら(幟町校、西村純子)。父は病気で寝たきりで歩くこともできず、母がつれて防空ごうにはいったりしていました。親るいには遠方にそかいしていた人もありましたが、私の家ではどこへも出られず、父の看護で一しょうけんめいでした。母は私や弟が小さいので、いつもひなんの用意をしていました。けいかいけいほうがかいじょになって、安心していると(幟町校、川島芳子)。お母さんは、すいじばでなにやらしながら、おとなりのおじさんと話していらっしゃる。私はちゃのまで、いり大豆をたベていました(幟町校、中村三重子)。ぼくは木にのぼってあそんでいました。それから、木から屋根の上におりて、屋根のあいだをとおっていた時(幟町校、西村幹治)。おばあさんは、組長さんの家のげんかんの三じょうのたたみの上にすわって、はいきゅうのげたのお金のかんじょうをしておられた。私はその横にすわっていました(本川校、小玉井信子)。私は起きたばかりで、お顔をあらっていました(本川校、追平文平)。私がごはんをたベていると、お母さんはもう二かいのまどぎわで、せんたくものをほしておられた(本川校、友本恵乙子)。あそびに家を出ようとしたら、私のスカートがやぶけているので、ぬってもらいにはいった所でした(本川校、土田日出子)。私はおばさんの家について、べんじょから出て、「飛行機が飛行機が」と言ったか言わないかわからないうちに(本川校、木村※[#「方へん+乍」、44-7]代子)。お母さんは、死ぬときは一しょにと言って、どこへ行くのにも、はなれたことはありませんでした。……けいほうがかいじょになったので、ぼうくうずきんも、もんぺものけて、お母さんのおせんたくがすむのを、康夫ちゃんと二人で、おまどから見ながら待っていました(広島大学附属小学校、植木トキ子)。私はその時便所にいました(附小、木野順子)。まだぼくのはしかは、よくなおっていませんでしたが、みんなといっしょにおいしく朝ごはんをたべました。お父様はけんちょうに出られ、京子姉様はきんろうほうしにいかれた後、ぼくは美津子姉様と弟の栄治ちゃんと三人で二かいにあがり、大そうどうをして遊んでいました。「さあ、こんどは栄治ちゃんの歌うばんよ」というと、栄治ちゃんはすぐ立って「わい、わい」とむちゃくちゃの歌をうたいました。「つぎは、ぼくの番だよ」といって立ちあがり、らんかんの上にあがろうとしたとたん(附小、永岡紘一)。福島町のお母さんの里で、キリギリスのはこを作っていたら(附小、天本貴)。  当時五、六歳(現在小学校六年生)  上の兄さんは、学校から動員で出ていました。今日も僕は水風呂にはいっていたのです。空はコバルト色にはれ、海の方には入道雲がまどごしに見えました。利男兄ちゃんは風呂からあがって遊んでいました(千田校、阿部芳行)。お母さんは、たてものそかいのきんろうほうしにいっておられ、お父さんと僕は家にいました(千田校、古林和夫)。私はお母ちやんと妹と八百屋でトマトをかって、おみせをちようど出たとき(千田校、吉田里美)。おかあさんは、田舎から持って帰ったもち米をえん側にほしておられました。私は家の中で、すべりごっこをしていました(千田校、三上節子)。ぼくはあの時、だいどころにいた。おねえさんはおにわのおそうじをしていた。おかあさんは、ひろ子ちゃんのおむつをとりかえていた(幟町校、佐伯文雄)。おとなりの家でねこを飼っていられるので、私は毎日小さなびんに牛乳を入れてもっていってのませていました。その日も、ねこにのませてあそぶ気で、中庭に出たとたん(幟町校、深井美智子)。八月五日の夕方、そかいしていたいなかから用事があって母兄弟妹たちと僕は、幟町の祖父のいる家に帰ってきた。六日の朝……みんなテーブルをとりまいて、ごはんを食べようとした時(幟町校、田中収)。ぼくはその日、朝早く起きて、八時前ごろに、お寺へいってあそんでいた(幟町校、泉高昭)。お母さまはすいじ場でまきわりをしておられ、私は弟と二人で、あそびばで、あそんでいました(幟町校、積根千恵子)。母はつるみ橋にきんろうほうしに行かれた。父は家にいた。僕と兄は近所の山口君の家で遊んでいた(矢賀校、大久保昌明)。アイスキャンデーを買うお金をお母さんからもらって、家をいさんで出ると(矢賀校、木村圭子)。中庭でおばあさんにサンパツをしてもらっていた(矢賀校、江川国昭)。僕はその時、はぶてて([#割り注]ふくれて[#割り注終わり])朝食をたベていた(矢賀校、林平明)。お母さんは、つるみ橋へきんろうほうしに行かれておるすでした。私はたあちゃんとおるすばんをして、たあちゃんが花をとろうとした時、花から蜂がとびだしたので、私は逃げました。たあちゃんも逃げようとした時に、頭を蜂にさされて泣いていると(矢賀校、国司澄子)。父と二人で、やげんぼり(薬研堀)の父の姉の家にあそびに行きました。庭の鯉《こい》を見ていますと(段原校、小松時子)。私と弟は、えん側で母につめをつんでもらっていると(段原校、楠田長子)。ちょうどあの朝、大正橋の下に魚を取りに行って、橋の下におりると同時にピカッと光り、ものすごい音がしましたが、私はむがむちゅうで水の中につかっていました(段原校、石田富三)。ぼくは、金屋町《かなやちょう》のホテルの前で、そかい荷物のひもがほどけたので、なおしていました(段原校、国広敏幸)。おいなりさんのまえであそんでいると(段原校、若山隆子)。私と弟は、おかあさんに服をきかえさせてもらっていました。弟から先にきかえて、私になりました。私がはだかになったとき(段原校、木原真由美)。ぼくの家のうらであそんでいたら、ひこうきの爆音がきこえてきました。ぽくは、日本のひこうきか、アメリカのひこうきか、どちらだろうかと思って、空を見あげたとたん(本川校、堀部清利)。ぼくがとなりの子供とあそんでいて、たいくつになったので、家に帰って、おもちを半分ほどたベた時(本川校、浅田章二)。ぼくはおかあさんとにわに出て、ひよこにえさをやっていると(本川校、中島信之)。ようちえんで、先生とつみ木をかさねて遊んでいると(本川校、原本弘幸)。母は朝早くから近くの工場へ行って、家の中には祖母と病気の父がいた。私はたいくつなので外に出ようと思った。その時、なにか服でもきて出ればいいのに、どうしたことか、ズロース一枚になって、げんかん口に出て、げたをはこうとすると(本川校、護国住子)。おかあちゃんが「ごはんですよ」といったので、おじいちゃんと、ちず子をおこして、ごはんをたべた。ごはんがすんで、ぼくは、げんかんのつくえのところで、えほんをみていました(中島校、水尻勝章)。生れてまだ四カ月の光康ちゃんと、ふとんの中で遊んでいると、けいかいけいほうかいじょになった。台所におられるお母さんの方を向いて「もうようち園に行ってもよいの」ときこうとした(中島校、谷村升子)。僕は、佐々木のかずよしちゃんがキリギリスを取ってかえってきて、ちょうど朝ごはんをたベていたので、そのキリギリスの番をしていました(中島校、香川清)。けいかいけい報も解除された。私は喜んで、モンペをぬぎ、シュミーズ一枚になって、四つのみのるちゃんと、門の前で土いじりをしていました(附小、柴田成子)。私は毎日ぼうくうごうの中で弟と日記帳へ絵をかいてはあそんでいました。けいかいけいほうがとけたので、おとなりに行ってあそんでいました。ふいに、れいのばく音がきこえてきました。二人はおそろしさのあまり、お人形をへやの中にほっておいて、お台所へかけより、おばさんの前かけのそでをもって、はあはあと、大いきをついていました(附小、大方靖子)。上の姉は動員で朝早く工場へ行った。私は、下の姉(小学三年)と、三つになる妹と、えんがわで遊んでいた。母は台所で朝食のあとかたづけをしていた。祖父は病気で床についていた。父は、はなれの部屋で、祖父にのませる薬をだしていた。飛行機がブルンブルンと、ゆるい音をたてて、頭の上を通った。姉がB29よと言った(附小、今岡久恵)。けいかいけいほうがはつれいされたので、一回は家にもどった。だけど、かいじょになったので、もうだいじょうぶだというので、またようちえんにでかけていった。びんをもってあそんでいると、飛行機の音がしたので、上をむくと(附小、西本憲三)。その日は、おできをなおしてもらうために、おばあさんにちりょうをしてもらっていました(附小、岩永武司)。僕たちは、そかいのため、父母姉の四人で広島駅に出た。七時三十分の汽車にのるのであるが、どうしたことか汽車がこない。父は柱にもたれて新聞を読んでいた。僕はたいくつになるし、家にわすれてきたおもちゃが気にかかり、帰りたくなった。父の時計をみると、八時十三分をさしていた。帰りたい気持でいらいらしながら、汽車の来るのを待っていた。あまりのたいくつさに、父のひざにもたれた瞬間(附小、原田浩)。  当時小学校一年生(現在中学校一年生)  その朝僕と兄さんは、早めに朝食をすませて学校に行った。……僕と兄さんとが防空壕の上に腰をおろして話をしているうちに、次第に友だちもやってきた。すると、くっきりと澄みわたった青空から、突然ヴウンヴウンという飛行機の音がきこえてきた。兄さんが「あれはB29の音だよ」と言ったが、だれも気にしなかった。それはもう警戒警報が解除された後だったからです。その時僕の目の前を赤トンボがすいすいとんでいって、前の塀《へい》の上にとまった。僕は立ち上り、ボウシを手にもつと、赤トンボを取ろうとして手をのばしたとたん(山陽中、福原英二)。その日の朝、僕は母に起されましたが、父はもうしごとに行っていました。空しゅう空しゅうで、その夜は眠ることができなかったので、僕は二かいの風とおしのよい八畳の部屋のまん中にねころんで眠っていました。十分ぐらいしてヒコウキの音がする。敵のヒコウキだったらサイレンがなると思って、やはりねころんでいた。すると東の空が(山陽中、泉田紀郎)。学校のげんかんで、ランドセルを背おったまま、まりつきをしていた(広大附属中、宮本百合子)。その時も、こんなにきれいな空だった。遠くからひびいてくる電車の音が、今も耳にのこっている。えんがわでトンボ取りの網をいじりながら、空を眺めていた(附中、栗栖三)。朝飯をすませて庭に出ると、いくらか大きくなったかぼちゃを見ていた。その時、晴れわたった空に、にぶい爆音がひびいてくると(附中、津田光茂)。その数日前、僕は父母弟たちと上海《シャンハイ》から帰ってきたばかりだった。父は上京し、上の兄は西条へ疎開しており、祖父や母や当時二歳になる弟たちは、近所へあいさつまわりに行っていた。家には祖母と兄と僕とがいた。僕は前夜食べすぎて、病気になって寝ていた。その日はとてもよいお天気で、庭にはたくさん雀《すずめ》か遊んでいた。僕はふと起きて何気なく空を見ていた(附中、煙崎宏)。僕はその時市電|江波《えば》駅(終点)の前……今は青年会館になっています。僕たち疎開しない子供が、わかれわかれになって勉強するところでした。その日も七人くらい集まっていました。先生がいらっしゃらないので、お話をしたり、皆でさわいで待っていました(江波中、藤田修)。学校につくと、きゅうに思い出した。わすれ物をしたのだ。ぼくは早速家に帰ろうと思い、学校の裏口まで来た時、一人のおばあさんが、ぼくにたずねた。そのおばあさんは、ぼくらの組の人のおばあさんでした。ぼくはそのおばあさんと色々話をしていると(江波中、中沢啓治)。ちょうど、ねまきを服に着かえようと思ったしゅんかん、ぴかっと光った。その時は、ちょうど私の前に赤おにがたったように見えた(江波中、坂本知栄子)。その時私は近くの叔父さんの家にいた。叔父さんは柱にのぼって、柱時計をおろそうとしていられ、私は二つになる従弟のお守りをしていた(鈴ガ峯学園、亀井美保子)。  当時小学校二年生(現在中学校二年生)  僕は家の前に立っていた。三機のB29が上空を飛んでいる。間もなく三機のうち二機がどこかへ去って行った。残りの一機がぶきみなばく音をたてて急降下してきたかと思うと、またうなり声をあげて急上昇していく。三つばかしのマッチ箱みたいな物を落して間もなく(国泰寺中、山本訓三)。私はその頃田舎に疎開していたけれど、おばあさんの葬式で広島に出てきた。家につくと、母はにこにこ顔で迎えてくれた。私は生れてまだ一年にもならない弟を長いこと見ていないので、座敷に行って抱いてきた。それから父と食事をしていると(国泰寺中、惣野弘子)。私たちは校門を出て、学校のいも畠の草取に出かけていた。朝のすがすがしい空気を胸一ぱいにすいながら、友だちと手をつないで、大きな声で歌をうたいながらあぜ道を行った。農園についた時(安田学園中、小田時子)。警戒警報も解除になったので、防空壕のふたをあけて、中に入れた荷物を取り出した。僕は病気で学校を休んでいた。弟や妹は、おぜんを前にして、早く御飯にしてとねだっていた。母は朝御飯の支度をしていた。父がバルコニーの上から「哲朗、落下傘のような物に四角な物がついて落ちてくるぞ」と言われたので、僕はシャツ一枚のままで、げたをつっかけて外に出ようとすると(幟町中、石田哲朗)。弟がさびしがるので、僕は弟をつれていなかのおばあさんの家へ帰ってきた。そのあくる日の朝早く、父はへさか村へ行かれた。僕たちは食事をすませて、いろいろお話をしていた。弟は戸を開いて、「今夜は僕がおふろをわかすから、お母さんはしなくていいよ」などと言っていた。僕はひざの上に妹をだいていた(幟町中、伊藤康弘)。母はきんろうほうしに行かれた。私は友だちと電車道で遊んでいました。車しょうさんが来て、己斐《こい》まで電車にのせてあげるとおっしゃったので、私は友だちとのせてもらいました。私は運転台の窓に顏を出していました。ちょうど赤十字病院(千田町にある)の前まで来ると(幟町中、埴生富美子)。僕は学校が休みなので家にいた。すると警戒警報のサイレンがなったので、すぐいつものように防空壕に入っていたら、まもなく警戒警報解除になり、僕は防空頭きんをほうり投げて遊びに出かけた。家から三十メートル位行った所(元駅前橋)の小路で、僕の友達に会い、すぐいっしょに遊んだが、口論となり、喧嘩《けんか》して僕だけ一人で土の上に坐って、クギでわるさをしていた。喧嘩した相手は二、三人で向うの方で何かをしていた。始めは僕も喧嘩の相手の悪口とか絵を書いて、そばに「ばかたれ」と書いていたが、それにあきると、今度は飛行機の絵を書いた。本来僕は戦争ごとが好きで、帳面の裏などにはたいてい飛行機などを書いていたので、この時もB29を一機書いて、日本側には、発動機二つの「ゆう軍機」と言っていたがそれを書いて、「だん、だん、だーん」と口で言って遊んでいたが、どうしたことか敵の飛行機B29の尾翼にたまがあたったことにして、煙をはいて燃えるしるしをつけた時だった(幟町中、横山精二)。  当時小学校三年生(現在中学校三年生)  私はえんがわで、お人形の着物をつくっていた。おばあちゃんは入口で近所の人と話をしていた。妹の章子はお寺へ勉強しに行っており、二人の弟ははだかで二、三軒先の家に遊びに行っていた。母は翠《みどり》町のびんづめ工場に働きに行っていた(国泰寺中、政田都志江)。ポストに手紙をおとした帰り道でした(翠町中、川上豊)。僕は学校に行こうと家を一歩出た瞬間でした(翠町中、天野允夫)。朝礼のさいちゅう、頭上を飛行機が通った。それを見ていたら、先生が「こら!」とおしかりになったので、前を向いた。その時後の方でぴかっと光った(山陽中、折見亘孔)。お母さんは茶の間で、お父さんのワイシャツにアイロンをかけていらっしゃいました。私は母のそばに坐っていました。はげしい爆音をたてて、飛行機が私の家の真上を飛んでいきました。「まあ、低いこと。気持が悪い」とお母さんがおっしゃいました。その言葉が終るか終らないうちに(幟町中、楠慧子)。区域ごとに勉強するために、牛田新町の生徒は不動院(お寺)をかりていたのです。勉強する時は、お寺の前の石段の上にござをしいて、一人の先生に何十人かの生徒がならうのでした。もちろん雨ふりや、風のふく日には休みなので、ろくろく勉強は身に入りませんでした。その学校に行くには、お友だちを集めて、三年生がしきして並んでいくことになっていたので、お友だちを日通寺の前で待っていますと、ブルンブルンと飛行機の爆音がかすかに聞えてきました。「あっ」という間もなく(幟町中、田川和子)。  奇襲が完全に成功したこと、多数の建物が崩壊したこと、朝食のために使用された炭火の残り火などのために火災が早く拡がったこと――原爆の輻射熱も勿論爆心地では火災の原因となった――、この三つが主因となって驚異的の死傷率となった。さらに戦後の食糧難から来る栄養失調、医療機関の極めて不完全であったこと、九月初旬連合軍の上陸とともに軍医が帰省して野戦病院(陸軍省直営の軍需工場・民間軍需工場はほとんど無傷であったので、そこが臨時の病院になった)が解散となり、大多数の罹災《りさい》者は全く医師から見放されてしまったことなどが、死亡者を一層激増させる原因となった。アメリカ戦略爆撃調査団は次のような見解を発表している。「市民の死亡率は現在知られている防禦《ぼうぎょ》技術によって、それを採用しなかったと仮定した場合の死傷率よりも、二十分の一またはそれ以下に低減することができる。」広島市役所が昭和二十五年発表したところによれば、原爆による死亡者の推定数は二十四万七千人であるという。もちろん爆心地で一族もろとも灰となってしまった人々や、他府県に移り住んだ後原爆症で亡くなった人々はほとんど調査されていない。だからこれらすベてを考慮に入れ、さらに昭和二十五年以降原爆症で亡くなった人々を数えあげたら、原爆による死亡者は驚くべき数字に達することであろう。前にも言ったように、現在の広島市の全人口二十九万余のうち、その三分の二は終戦後他地方から広島市に移って来た人々で、残りの三分の一、即ち九万数千名が旧広島市民であるが、その九万数千名は市の周辺の被害のほとんどない草津・宇品《うじな》などの地域に住んでいた人口であろうから、爆心地近くに住んでいた人で戻って来た人は極く少数であるだろう。われわれは八月六日現在の四十三万の広島市民の中、ともかく現在市内に戻っている人が僅かに九万数千という事実から考えても、広島市民の蒙《こうむ》った惨害のいかに大きかったかを知ることができる。  先にも述べたように、当時広島市内の大部分の中学校・女学校の低学年の生徒たちは、勤労奉仕で市の中心部の建物疎開の作業に従事していたのであるが、原爆によってほとんど全滅し、終戦後もその学年だけは学級を編成することができず、終戦後広島に移って来たものや近郊の農村の子弟たちで再編成された。このことからも当時の惨害がいかに大きかったかは想像されるのであって、彼らの最期は最も痛ましい悲劇として、今に市民の涙の語り草となっている。中でも引率の教師たちが、原爆の閃光《せんこう》に髮を焼かれて白髮となり、その上|自《みずか》らも重傷を負いながら、倒壊した家屋の下敷になっている教え子たちを、猛火を冒《おか》して救い出した事実が、偶然生き残った一人の生徒坂本節子さんによって報告されている。 「御自身も重傷を負われながら、根尽きるまで私たち生徒のためにお働き下さいました二人の先生は、ついに尊い犠牲となられました。」 「先生は雛鳥《ひなどり》をいたわる母鳥のように両脇に教え子を抱かれ、生徒は恐れわななく雛鳥のように先生の脇下に頭を突込んでいます。」  父と姉とを失った小学校六年生の藤田真知子さんは、次のように書いている。 「たてものそかいのあとかたづけにいった市立第一高女の生徒六百名のうち、五百九十三名が死んで、あとの七名が生き残ったそうである。その七名の人たちも、一週間ほどしてみんな死んでしまい、いんそつしていた先生も、みんな生徒といっしょになくなられたそうだ。……また、せいがん寺の前の大きな水そうには、もえて来る火から四人の生徒をかばいながら、先生が生徒におおいかぶさるようにして、五人いっしょに死んでおられたそうだ。きけばきくほど、かなしいことばかりだった。」地獄のような瞬間にあっても、なおかつ愛する生徒を救おうとして、ついに斃《たお》れたこれらの教師たちの人間愛・教育愛をわれわれは見逃してはならない。生き残った広島の教師たちは、原爆のために無残な最期をとげたこれらの親しかった同僚、愛する教え子たちの笑顔を今なお胸底にやどして、敗戦後の今日あらゆる悪条件の下にありながらも、軍国主義をすてて平和教育のために尽くしている。われわれはこの地味な、しかし尊い活動を続ける教師たちのかくれた努力を忘れてはならない。  当時小学校六年生であった武内健二君は、家屋の下敷になった母の最期を次のように書いている。 「父がようやくはい出てきたが、母の姿が見えないので呼んでみると、つぶれた家の一番下の方から声がして、『タンスに足をはさまれている』というのだ。父と姉が木片をかきわけていくと、タンスの上に大きな柱がたくさん重なりあっていて、びくともしない。父はすぐ姉を大芝公園に逃がし、近所のおじさんたち四、五人をよびあつめ、丸太をさしこんで柱を動かそうとしたが、微動だもしない。そのうち火勢はどんどんひろがってきて目前にせまり、火の粉が父のところまでふってきて、いつの間にか父一人になってしまった。その時母は、すき間から手を出して、『わたしはもう助かりません。もう、だめ。だからあなたは、どうしても逃げてちょうだい』と悲痛な声でいった。その時父は、『何をお前はいうのか。お前を捨てて逃げられるか。お前が救われないなら、おれもここでお前と一緒に死ぬ』といって、柱を押しあげるベく最後の努力をしていた。すると母は、『あなたまで死んでしまったら、後に残る子供がどうなるんです。おねがい。どうか早く逃げてちょうだい』と父をさとした。……もう火がまわってきて、パチパチと木が焼け落ちる音がする。父は万事休す、死のうと思った。だが、母の言葉を思いかえし、『子供のために、子供のために』と号泣しながら……」  私はここで実に何万人という広島の母たちが、ただ後に残った子たちが、平和な世の中ですくすくと、幸福に成長してゆくことだけを祈りながら、焼け死んでいったということだけを記しておこう。しかも私がここで特に述べたいことは、こうした悲劇の真直中《まっただなか》で発揮された人間愛の精神である。親が子を、子が親を、また兄弟姉妹が、たがいに助けあった肉親愛はもとより、教師と生徒との師弟愛、そして友情、さらには見知らぬ他人を救い出すために献身的な、ほとんど超人的なともいうべき努力がなされた人間愛、そして傷ついて広島市を逃げ出した人々を迎えた農村の人々の暖い同胞愛の実例は、これらの手記の至るところに見出される。ここには「人間はもともと孤独な利己的な存在ではなくて、本来隣人愛にもえた偉大な存在である」という厳然たる証拠があるではないか。しかも人間のその偉大さが、余りにも悲惨なこの地獄において発揮されねばならなかったということは、また何という悲しむべきことだろうか。  原爆で火傷をして数カ月を病床にすごした当時小学一年生の角静雄君は、少し恢復《かいふく》するやいなや、まだ歩くこともできないのに、「母に頼んで車にのせてもらって、学校の方に行きました。僕の通っていた学校もなくなって、残っているのは焼跡ばかりでした。……勉強するといっても教室がないので、焼跡でしたり、山へ行ったりして、不自由な勉強をしました。二年生になって、初めてバラック建の校舎が立ちましたが、僕たちはそれをどんなに喜んだことでしょう。それからは、なお一生けんめいに勉強しました。学校には、雨の日も風の日も、一生けんめい通いました。」  市内の家を焼かれて田舎に疎開していた当時小学四年生英貢君は、「病気も回復したので、僕は村の小学校に通いはじめた。しかし学童疎開で何カ月も無駄にすごし、原爆以来すこしも勉強できなかったため、九九さえ忘れてしまって、泣きながら父に教えてもらった」と書いている。原爆症になやむこの病身の小学生は、住宅問題で何度も転校したが、「市内は復興し、色々な店もひらかれ、やがて本を売りはじめた。沢山の本が手に入ったので、僕はそれをむさぼるように読んだ。勉強もできるようになり、組でも上席につくことができるようになった」と書いている。  家を焼かれ、父母を失い、兄弟に死なれ、自らも傷ついて長い病床の生活を、敗戦後の苦しい経済生活の中にすごしながら、しかも前途の希望を失うことなく、七十五年間草木も生えぬと言われたその焼け跡の中から萌《も》え出た若芽のように、のびてゆこうとする彼らのひたむきな意欲は、いじらしくもあれば、また何となく痛々しい。  両親を失った場合、ある子供は孤児育生所で慈愛深く育《はぐく》まれており、ある子供は優しい叔父・叔母に育まれており、ある子供は淋《さび》しいながら祖父・祖母の手で育まれている。片親を失った場合、父親の再婚によって新しい母を迎えて、その母への感謝に満ちた喜びを綴った子供もいた。私はこれらの子供たちの行末を心から祝福したい。だが両親のいずれかを失った子供たちの手記の中には、家庭という一つの社会が、父親か母親のアナキーな行動によって分裂し破壊されて、悲しみに打ちひしがれ、かよわい胸の中の悩みをたどたどしい筆つきで書いている多くの子供がいた。私は思う。幼い子供たちにとってかけがえのない彼らの父親・母親を殺さないことのみが、この困難な問題のただ一つの解決策ではあるまいか。 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し]  天上の火を掠《かす》め取ったプロメテウスがゼウスの怒りにふれて、休むことを知らず、常に充《み》たされることのない渇望を人間にもたらし、地上に様々の悲しみを生んだというあのギリシャ神話を、私は原爆の悲劇を考える時何故か思い出すのである。 「プロメテウスは人間創造以前からこの地上に住んでいた神の一人だった。プロメテウスは大地の土を取って、それをそこで固めて人間を造った。プロメテウスは天へ昇り、太陽の二輪車から火を盗んで、自分の炬火《きょか》に移しとり、その火を人間に与えた。即ち文明と技術とを与えた。この賜物《たまもの》によって人間は初めて他の動物以上のものになった。火のおかげ――文明と技術――で、人間はすべての動物を征服する武器を作り、土地を開拓する道具を作り、また住家を暖めて寒さを凌《しの》ぐ方法をも知った。最後に技術や、貨幣鋳造や、商売や、取引の方法までも彼らが習得したのは、すべて火の賜物だった。  こうして人間の住むようになった世界の最初の時代は、黄金時代と名づけて、無邪気と幸福との時代であった。いつもとこしえの者が支配して、河は乳と酒とを湛《たた》えて溢《あふ》れ、黄色の蜂蜜《はちみつ》は樫《かし》の木から滴《したた》り落ちた。次には銀の時代が来た。ゼウスは一年を四季にわけたので、初めて家屋が必要になった。次に真鍮《しんちゅう》の時代が来た。強い者勝ちの時代であったが、まだ悪のみではなかった。一番悪い鉄の時代が来た。罪悪は洪水のように溢れた。温順も、真理も、名誉も去った。それに代って詐欺と奸智《かんち》と暴力と、それから間違った愛情から「物を得ようとする心」が現われた。今まで共同で仲よく開拓していた土地も、所有ということが始まって分割された。人間は地上に生ずる物だけでは満足しないで、大地の中まで掘って鉄や黄金を得た。鉄と黄金とで武器を作り、地上に初めて戦争が起こった。親子兄弟はおたがいに信ずることができなくなり、息子は相続を望んで、父親の死を願うようになった。家族の愛は踏みにじられた。地上は殺戮《さつりく》の血で濡らされ、ついに神々は地上を見棄《みす》てたもうた。」  この余韻に富んだギリシャ神話の中に、何か現代の悲劇を暗示するかのような、予言者的の響を感ずるのは、果して私一人だけだろうか。聖書の中にも「心せよ、もしたがいに咬《か》み食らわば、相共に亡ぼされん」(ガラテヤ書、第五章第十五節)と言っている。アメリカの科学者たちは原子爆弾を「人類の自殺爆弾」と称しているが、人類は自分が天上から掠《かす》め取った業火《ごうか》で、自らの住む地球を破滅させてしまわねばならない運命にあるのだろうか。  二十世紀の初めにフランスの物理学者アンリ・ベックレルは一八九六年ウラニューム鉱から一種の放射線を出すことを発見し、ピエルおよびマリー・キューリーは一八九八年ラジュームを発見して、放射性物質研究の先駆をなし、科学的・医学的にすばらしい貢献をし、今日に至るまで偉大なヒューマニストとして、全世界の人類から敬慕されている。ところが今やこの発見が、原子爆弾の、さらには水素爆弾の出現によって、人類絶滅の脅威に導くようになった歴史の皮肉を、われわれは何と考えたらよいのであろうか。  スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルが一八六七年発明したダイナマイトは、その恐るべき爆発力によって運河を切り開き、鉱山を掘り、人類文明に劃期的な寄与をしたが、やがてその威力が戦争に使用され、爆弾として多数の人命を殺傷するという結果をもたらした。そこで愛と良心との持主ノーベルは懺悔して、その罪滅ぼしに特許の利金百六十八万ポンドを寄附して、いわゆるノーベル賞を制定し、世界の科学・文学ないし平和への事業に功労ある人々に提供した。  われわれは年と共に発展してゆく自然力の利用を、平和的な条件において用いるようになることを祈ってやまない。原子エネルギーは、一方では人類を破滅に導くほどの恐るべき破壊力をもってはいるが、一度それを平和産業に応用すれば、運河を穿《うが》ち、山を崩し、たちまちにして荒野を沃土《よくど》に変え、さらに動力源とすれば驚くべき力を発揮し得るということをわれわれは聞いている。かつてはジェイムズ・ワットの蒸気機関の改良によってあの偉大な産業革命が推進されたが、原子力の平和産業への応用は、平和的な意味におけるいわゆる「原子力時代」を実現して、人類文化の一段と飛躍的な発展をもたらすことは疑う余地がない。「これまでどんな新しい考えや発見の生じる場合でも、この突如としてあらわれた知識が人間の心に与えた影響に匹敵するほどのことは起らなかった。」(リリエンソール著『私はかく信ずる』川島芳郎訳、岩波現代叢書、一三六ページ、一九五一年)ジョン・ガンサーをして、「おそらくTVA方式こそ現世紀におけるアメリカの最大の発明、近代社会に対してアメリカが与えた最大の貢献である」と讃辞を述べさせたT・V・A(Tennessee Valley Authority テネシー河域公社)の大偉業を若くして成しとげ、初代原子力委員会委員長の任にあったリリエンソール(David E. Lilienthal)は最初の原子爆弾についてこのように語った。  原子爆弾は人類に一大衝撃を与えた。科学者自身は今更のように、自らが造りだしたこの怪物の偉力に驚き、そして痛く良心を傷つけられ、神のみ前に懺悔した。そしてたとえ象牙の塔にこもる純科学者であるとはいえ、彼自身の仕事がもつ社会的政治的の効果について、決して無関心であってはならないという深い反省が、世界的にまきおこってきたことは周知の事実である。「原子の基礎的な構造と力との性質――そしてこの知識が偉大な善をもたらし、また同時に悪をももたらし得る性質」(『私はかく信ずる』一三六ページ)について、愕然《がくぜん》として気づいた科学者たちや政治家たちの間に、原子爆弾が投下された後はじめて原子力の平和的利用――偉大な善をもたらす道――の問題がとりあげられた。  一九四九年十二月五日リリエンソール博士は『ワールド・リポート』誌の記者に向ってこう語っている。「十年もたてば原子力で動く工場が生産を開始するだろう。原子力の発達が平和の線に沿って進むなら、その成果は人間の健康の改善・延命・食糧の増産などの点で、過去一世紀の進歩にも相当するだろう。だから今でこそ政府が原子力について独占的の地位を占めているが、このような状態はいつまでもつづけるべきではない。」  原子力の平和的利用という考えを一層具体的に発展させて、リリエンソールはさらにこう言っている。 「原子力の平和的利用には二つある。第一の利用法は、物質界や生産界の出来事を一層深く探究するために、原子力の放射能を利用することである。これは既にオークリッジなどにある原子核連鎖反応炉の中で、安価にかつ多量につくることのできるアイソトープを使って、ありとあらゆる実験が行われている。たとえばアイソトープを血液の中に入れることによって、心臓の中での血液の動き具合やその速度を、計数管を用いて測ることができる。肥料の中にアイソトープを混ぜると、植物が土壌の中の肥料をどの程度に吸収するかを、正確に測ることができる。さらにまたヨードに放射能を与えると、甲状腺の治療に利用することができる。このようにして今まで間接的にさえ十分の探究ができなかった分野で、ほとんど無限の新しい科学的研究の可能性が開けてきたわけである。近い将来には中等学校の実験室においてさえ、アイソトープを用いた実験が行われるだろう。  第二の利用法は新しい動力源として利用することで、これはおそらく十年ないし二十五年先きのことではないだろう。それも動力源の乏しいところでまず利用されるだろう。このような平和的な目的のために、原子力を利用する知識が広くひろめられるならひろめられるほど、人類のためになる。」  動力源に極めて乏しいわが日本にとって、原子力の動力化――原子発見の問題は特に興味をひく問題ではなかろうか。われわれはしばらくインドの物理学者サハ教授(Professor Saha)の説くところに耳を傾けよう。 「現在のインドまたは中国、ないし中世紀の西ヨーロッパのような、工業化されない国の国民一人当りの富と、アメリカのように高度に工業化された国のそれとの間にある著しい懸隔《けんかく》は、約二十対一と推測される。……インドにおいて人力以外から得られる国民一人当りの利用可能なエネルギーは、アメリカのそれの約六十分の一である。」(Saha, Nature[#「Nature」は斜体], 155, 221, 1945)ブラッケット教授は世界各国の人々がアメリカの生活水準に追いつくために必要とする動力の供給を論じて、「一九三五年におけるアメリカのエネルギー消費量は、ソ連の約六倍、インドの約六十倍であったという驚くべき事実に着目せざるを得ない。そして国民一人当りの動力生産量と生活水準との間に密接な関連のあることが直ちに諒解される。……世界全体として、アメリカの生活水準に追いつくには、動力供給を六倍増加せねばならぬ」(『恐怖・戦争・爆弾』田中慎次郎訳、一九四八年、法政大学出版局、一四九―一五〇ページ)と論じている。国連濠州代表H・V・エヴァット博士(Dr. H. V. Evatt)は、一九四六年六月二十五日、国連原子力委員会で次のように演説した。「原子力発電によって、普通の電力源にめぐまれていない地域に、近代社会を繁栄させることができるだろう。原子力の平和的使用がより直接的な重要性をもつ国々は、できるだけ早い時期にかかる原料を入手し、かつ平和的目的のために原子力を開発するに必要な科学情報を得たいと要求するだろう。」しからば原子力発電の原価はどうか。ブラッケット教授はS・H・シュール氏(Mr. S. H. Schurr)の調査を参考として、「原子力発電原価の最も楽観的な予想は、石炭発電のどれよりも低く、また最も悲観的な予想すらイギリスの石炭発電原価と等しく、アルゼンチンの石炭発電原価よりは遥《はる》かに低いことが判る」と言っている。(田中訳、一六二―一六三ページ)  ブラッケット教授はまた、ウラニュームの利用率の飛躍的向上を期待してこう言っている。 「現在の方法では、天然ウラニュームの一パーセント以下を占めるにすぎない稀少《きしょう》な同位元素ウラニューム二三五の原子核エネルギーの僅か何分の一かが利用されているにすぎないようである。科学者が一般に信ずる所によれば、天然ウラニュームの残る九九パーセントを占めるウラニューム二三八の大部分をも利用し得るような方法が、いずれは工夫されるだろうとのことである。これに成功すれば一定量の電力を得るに要する天然ウラニュームの量は、百倍以上も節減し得られる。」  以上によって、われわれは原子力発電が具体化された暁には、現在の数百分の一の安価な電力を得ることができるということを知るのである。そこでリリエンソール博士は、一般市民の原子力に対する無智を非難しつつ、次のように言っている。「われわれを押えているものは、原子力に関する知識の性格とは関係がない。原子とさえ言えば、あたかも妖術ででもあるかのように思いこんでしまう態度が邪魔になっている。このことは原子力の平和的利用の価値を正しく評価することの邪魔になっているし、日の出ることが神秘である以上には神秘でも何でもないことまで、神秘扱いする態度を生んでしまったのだと思う。」(『ワールド・リポート』誌、一九四九年十二月九日)  リリエンソール博士はまたこうも言っている。 「世界の指導的な民主主義の市民が、原子の基礎的な構造と力との性質――そしてこの知識が偉大な善をもたらし、また同時に悪をもたらし得る性質――にくらいことは、ごく初歩の知識しかもたずに、全く盲目で、目も見えずに世の中に生きているようなものである。」(『私はかく信ずる』一三六ぺージ)  リリエンソール博士のこうした指摘は、原子力が原子爆弾として地上に現出したことから、多くの人々が原子力を一つの妖術ででもあるかのように考えていることに対して警告を発しているのである。詳しく言えば原子力は一つの妖術――「悪をもたらす性質」としてのみとらえるべきではなくて、それは「偉大な善をもたらす」他の一面をもっているということを彼は指摘しているのである。そして「偉大な善をもたらす」道としての原子力の平和的利用に向って、人類は前進しなくてはならないし、またそれが可能であるということを彼は示唆《しさ》しているのである。  原子爆弾の発明をもって有頂天《うちょうてん》になったり、あるいは世界は終りだと、うろたえさわぐ人々を尻目に見て、リリエンソールはまたこう喝破《かっぱ》した。「われわれの力の源泉とは何であろうか。それはわれわれの倫理的な、道徳的なおきて、言わば民主主義に則《のっと》った人間についての信念である。この信念こそが、われわれの民主制の主な武備である。今まで作りだされた中でもっとも有力な武器である。これに較べると、原子爆弾などはカンシャク玉ほどのものでしかない。」(「信心は原子爆弾より強し」『アメリカ研究』一九四九年八月号)リリエンソールの喝破したように、民主主義の本質とは何よりもまず道徳でなくてはならない。しかも道徳とは今や平和を築きあげていくことでなくてはならない。カントもあの恒久平和論の中で、「戦争はあってはならない」という理性の与える無上命法に従って、義務を遂行すべく最善を尽くすことが道徳であると教えている。私は二十四万七千人の死が、決して「カンシャク玉」の破裂にすぎないとは思わない。だが人間の道徳の力は、原子力の二重の性質の一つである「悪をもたらし得る性質」を排除して、「偉大な善をもたらす」道を進むことに、結局は成功することを私は固く信じて疑わない。最愛の母を原爆で奪われた広島大学の吉岡宏君はこう言っている。「原子爆弾は、すべての生物、無生物を灰燼《かいじん》に帰してしまった。しかし生き残った私たちの魂までも焼き尽くすことはできない。」  道徳力の勝利――「偉大な善をもたらす」道――原子力の平和的利用について、原爆の子供たちはどんな叫びを叫んでいるか。安田学園女子高校の一年生中島宏子さんはこう言っている。 「今、日本は講和を前にひかえて、新しい一歩をふみ出そうとしている。どんなことがあろうとも平和な国になるよう、私たちはこの新日本を背負っていかなければならない。同じ原子力を使用するにしても、破壊には使わず、世界各国の人々が安心して暮していくことのできる良い材料として使いたいのだ。このアトム広島、この広島こそ全世界の人々の注目すべき所でしょう。」  愛する両親を原爆で奪われた中学二年生の田辺俊彦君はこう書いている。 「こんなものすごい力を持ったものがあったであろうか。あった。たしかにあった。それは原子・原子力だ。原子力はおそろしい。悪いことに使えば、人間はほろびてしまう。でも、よいことに使えば使うほど、人類が幸福になり、平和がおとずれてくるだろう。」  多くの教え子とともに建物疎開作業場で父を亡くした基町高校三年生の砂古啓子さんはこう言っている。 「しかし世界はまだ混乱の状態にあり、朝鮮の動乱、ヨーロッパ、アジア諸国の緊迫した二つの世界の対立は、われわれの心に何か不安な暗い影を投げかける。ここにおいて再び原爆がクローズアップされて来たが、それは文明科学のためにのみ使用されることがわれわれの心に喜びと平和をあたえることになると考える。広島のような惨事をひきおこすことは、世界の人類の最大の不幸であるから、それを体験したわれわれは一層強く感じ、平和を望むものである。」  また高校二年生の伊藤久人君は兄と弟を原爆で奪われてしまったのだが、その君はこう書いている。 「二度と原子爆弾を戦争というものに使わないで、……原子爆弾を作らず、それを作る元となるものを産業につかったら、どれだけ産業が進むかということも聞いて知っています。だから、それを産業の方面に使っていただいて、産業を進めていただきたいのです。」  広島の廃墟の死の灰の中から生れ出たこれらの平和のフェニックス(不死鳥)は、そのか細い喉《のど》を振わせて、世界の隅々にまで訴えている。このフェニックスは原子沙漠に萌《も》え出た木々の若芽のように、道徳の力の勝利を確信し、人類の未来に対する明るい期待に若々しい胸をふくらませ、原子力が持つ「偉大な善をもたらす」道――原子力の平和的利用に力強い期待をかけている。広島の街々に原子エネルギーを動力とする燈火が輝き、電車が走り、工場の機械が廻転し、そして世界最初の原子力による船が、広島港から平和な瀬戸内海へと出てゆくことを。実際広島こそ平和的条件における原子力時代の誕生地でなくてはならない。原子爆弾の投下直後B29機上から下界の地獄絵を眺めた一人のジャーナリストは、「これは世界の終りであろうか、それとも世界の始まりであろうか」と叫んだというが、われわれはこの悲劇を「世界の終り」ではなくて、「世界の始まり」としなければならない。世界中の誰も体験しなかった人類史上最大の悲劇と惨禍とを、身をもって体験した広島の少年少女たちこそ、このことを全世界に訴える十分の権利と義務とを持っている。  原爆の子――広島の少年少女たちは今、全世界の父と母、全世界の教師と生徒、いな、世界の兄弟たち、人間なるが故に一人の例外もなく理性をもっている二十三億七千万の兄弟たちに、この血と涙の手記を贈ろうとしている。  今日《きょう》原爆の七回忌を迎えるにあたって、私は一瞬にして悲しくも、また痛ましくも、消えて亡くなった二十四万七千人の霊前に、この手記を献《ささ》げて、その冥福《めいふく》を祈り、世界の平和へ出発したい。 [#ここから2字下げ] 昭和二十六年八月六日 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ] 長田新 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ] (附記) [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ、折り返して4字下げ] 一、多くの手記が資料として集まったが、私の平和のための教育の研究はまだほんの糸口にすぎない。今後調査と研究とを続け、その成果を以て、私は改めて報告を発表するであろう。 二、本書の印税は平和のための教育運動に使用することにした。 [#ここで字下げ終わり] 底本:「原爆の子(上)」岩波文庫、岩波書店    1990(平成2)年6月18日第1刷発行    1996(平成8)年5月10日第6刷 底本の親本:「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」岩波書店    1988(昭和63)年11月第25刷 初出:「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」岩波書店    1951(昭和26)年10月初版発行 入力: 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。