月光の道 The Moonlit Road ビアス・アンブローズ Bierce Ambrose 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)雇《やと》われ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#3字下げ]一、ジヨール・ヘトマンの話[#「一、ジヨール・ヘトマンの話」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]一、ジヨール・ヘトマンの話[#「一、ジヨール・ヘトマンの話」は中見出し]  私は世の中でもつとも不幸な人間だろう。私は金にも不自由はしないし、人から尊敬もされているし、教育もうけたし、健康でもあるし、そのた、それを持つている者は満足し、持つていない者は羨むところの、いろんなものを持つている。でも、私は、なまじつかそんなものを持つていなかつたら、自分はこれほど不幸ではあるまいと、よく考えるのである。というのは、そんなものを持つていなかつたら、私の外見と内部生活の矛盾に、絶えず苦しめられることもなかろうし、また、そうなれば自然、窮乏の苦しさや、努力の必要に迫られるので、どう考えても解決できない、いまの私の暗い秘密を、すこしでも忘れることができはしまいかと思うのである。  私はジョール・ヘトマンとジュリアとの間にできた一人子である。私と同じジョールと云う名の父は、裕福な田舎紳士で、母のジュリアは、美しい、立派な女だつた。父は母を愛してはいたが、今から思うと、あまり厳格な、嫉妬ぶかい愛だつたらしい。テネシー州のナシュヴィルから数マイルの地点にある私たちの家は、ちよつと大道をはずれた、木の沢山しげつた広大な庭の中の、一定の建築様式にしたがわぬ大きな不規則な建物だつた。  この話のおこる頃の私は十九歳で、イエール大学の学生だつたが、ある日、父からすぐ帰れという電報を受取つたので、理由は分らないまま、すぐさま家へ帰つたのである。ナシュヴィル駅へ着いてみるとそこに私の遠縁の者が迎いにきていて、母が惨殺されたから、呼びもどしたのだと話してくれた。どうして、誰に殺されたか、それは分らない。当時の模様はこうである。  父は翌日の午後家へ帰ると言い残して、ナシュヴィルへ行つたが、ある事情で用事を果せなくなつたので、翌日を待たずに、家へ帰ることにした。家へ到着したのは、翌朝の夜明前のことだつた。父が検屍官に説明したところによると、玄関の鍵は持つていなかつたし、召使を起こしたくもなかつたので、別にはつきりした目的があつたわけではないが、家の裏手にまわつた。ところが、建物の角をまがると、そつとドアをしめる音がして、暗くてよくは見えなかつたが、なんだか人影のようなものが、裏口を出て芝生を横切り、すぐ木蔭にかくれてしまつた。何者かが秘密に召使に会いに来たのだろうと解釈した父は急いで木蔭やそのあたりを探しまわつたが、それきりその人影は見えなかつた。裏のドアには鍵が掛つていなかつた。そこから家の中に入つた父は階段をあがつて二階へいつた。二階の母の寝室のドアは開いていた。まつ暗いその寝室に入つた父は、床の上の、なにか大きなものに蹉いて、どさんと倒れた。簡単に話せば、床の上のその大きなものが母で、母は人間の手で絞殺されて倒れていたのである。  家の物はなにも盗まれていなかつた。召使たちはなんの物音も聞かなかつた。ただ残つているのは、母の頸のまわりの、人間の指跡ばかり――私は早くそれを忘れたい――犯人の手掛りは、どこにもなかつた。  私はその時から学校をやめ、父と二人で暮すことになつたが、日頃から物静かで沈黙勝ちだつた父が、それ以来いつそう憂欝になり、殆んど他のことには、なんの興味もかんじなくなつたのは、むしろ当然のことだつたであろう。それでいて、父はちよつとしたこと、例えば足音だとか、急にしまるドアの音だとかに、びつくりして聞耳をたてひどくおびえることが、しばしばだつた。なんでもないことに驚いて時には顔色を変え、そのあとでは、前よりもいつそうひどい、打ち沈んだ人となる。つまり、父は一種の神経症になつたのである。私について言うなら、当時の私は、今よりもつと若かつた。そして、この、若かつたということに意味があるのだ。若い者は、どんな傷をも直すギレアドの香油をもつている。ああ、人間が若さを取戻すことができるなら、どんなに幸福であろう! 深い悲しみを知らぬ私は、不幸がどんなにつらいものかと言うことも知らなかつた。打撃の力強さを、評価することさえできなかつたのだ。  さて、この恐ろしい出来事から、数カ月たつたある晩のこと、私は父と二人で、町から歩いて帰つていつたのである。東の空に、満月が三時間も前から照つて、夏の夜の田舎道は、おごそかなほどの静けさに包まれていた。耳に聞こえるのは、私たちの足音と、それから遠くの方からこやみなく響いてくる、虫の鳴声ばかりだつた。離れ離れに立つ並木が、月光に幽霊のように白く光つて、それが道に黒い影を落していた。やがて私たちの家の門に近づくと、その家は暗いところに立つて、灯がついていなかつたのであるが、父はだしぬけに私の腕をつかんで立ちどまり、聞こえるか聞こえないかの声で、 「あ! あれ、なに?」といつた。 「ぼく、なにも聞こえませんよ」 「あれ――あれをみろ!」  父はすぐ前の道を指さした。 「なにも見えませんよ。さあ、家へはいりましよう。お父さんは病気なんですよ」  父は私の腕を放すと、月に照らされた道のまんなかに立つて、知覚を失つた人のように身動きもしないで、前を見つめていた。月光を浴びた父の蒼白の顔は、石のように固くなつて、言いようのない不安を現していた。私はゆるやかに父の袖を引つぱつた。だが、父は私の存在を忘れていた。たちまち、父は後退りをはじめた。そして一歩々々と後退りしたが、自分が見た物、と言うより、自分が見たと思つた物からは、かたときも目を離さなかつた。私は半ば父の方へ体をむけたが、決しかねて佇んでいた。どんな恐怖を、その時私が感じたか覚えていないが、急に肉体的の寒さを感じたことは覚えている。それは氷のような風が顔に触れて、頭から足の先まで包んでしまうような寒さだつた。その風が髪の間を吹き抜けるのさえ分つた。  その時、私は二階の窓から、だしぬけに灯が漏れるのをみた。召使の一人が、神秘な虫の知らせで、不吉な出来事に目を覚し、自分でも説明のできぬ衝動にかられて、わけもなくランプの灯をつけたのであろうか。私が再び、父の方に顔をむけた時には、父の姿は見えなかつた。そして、その後父がどうなつたのか、何年たつても未知の世界からは、なんのたよりもないのである。 [#3字下げ]二、キャスパー・グラタンの話[#「二、キャスパー・グラタンの話」は中見出し]  どうやら私も今日は生きている。しかし、長いあいだ私であつたこの体も、あすは一つの無感覚な死体となつて、この部屋に横たわるはずである。その気味わるい死体の顔の上のきれを、誰かが持ちあげて覗きこむとしても、それは恐わいものみたさの、好奇心を満足させるためにすぎないのだ。ある者はさらに一歩進んで、「これは誰?」ときくかもしれない。それにたいして、私はここに、キャスパー・グラタンと言う者だと、書いておくよりほかはない。それだけで充分だ。これは滅多に使つたことのない名だが、とにかく、何年も続いた私の長い生涯のうちの、殆ど二十年以上も、名としての役目を果してくれた名なのである。自分で勝手に作つた名であることは事実だが、ほかに適当なのがないのだから仕方がない。人間はこの世で名前というものを持つていなければならぬ。それは本人の証明でないにしても、とにかく混乱を防いでくれる。もつとも、ある者は、数字の名をもつているが、これは適当な識別法ではないように思われる。  その例として、ある日、私はここから遠く離れたある都会の、ある街を歩いていたのである。すると、すれちがつた二人の制服のうちの一人が、なかば立ちどまつて、しげしげ私の顔を見ていたと思うと、「あいつ 767 によく似てるじやないか」と、つれの男に囁くのが聞こえた。どこか親しみのある響きをもつたこの数字は、私に恐怖感を起こさせた。私は矢も楯もたまらなくなり、とつさに小路へとびこむと息が切れるほど走つて、郊外にのがれてやつと安心した。  私はこの数字を忘れたことがない。そしてこの数字を思い出すごとに、それと連関して、みだらなお喋り、可笑しさのともなわぬヒステリーのような高笑い、鉄のドアの響きなぞを連想するのである。だから私は、たとい自分で作つた名であろうと、そんな数字の名よりは増しだろうと思う。もつとも、共同墓地に葬られた私の記録には、この両方の名が二つとも記されるかもしれない。なんという豪勢!  ここでちよつと、この書きものを発見する人に、申上げておきたいことがある。これは私の生涯の記録ではない。そんなことを書くだけの知識を、私は持つていないのだ。これはただなんのまとまりもない断片的な記録にすぎない。そのあるものは、絲につながれた艶のよい数珠玉のように、はつきりとしてもいれば、連関性も持つているが、あるものは、奇怪で、遠く離れて、とぎれとぎれの深紅の夢のようでもあれば、荒寥とした野原に静かに燃える、魔女の火のようにたよりないものなのである。  いま、私は永遠の岸べに立つて、あとを振りかえり、自分の歩いてきた道に、最後の一瞥をくれている。そこには、血のにじむ足で歩いた、二十年の足跡が、鮮やかに残つている。それは、重荷にたえかねた人の歩いたあとのように、不確実で、曲りくねり、貧困と苦痛のあいだを横切り――  遠く、友なく、心重く、おそく。  ああ、詩人すでに予言している――驚くべき適確さで!  この惨憺たる行路の開始される前のこと、この罪のエピソードを伴つた苦難の叙事詩の前のことは、混沌とした雲に覆われ、なんにも私の視野に入つてこない。ただ、私はこの行路を歩き始めて、二十年にしかならないが、すでに自分が老齢に達しているということを知つているのみである。  人間は自分の誕生を知らない――人から話されて初めて知るぐらいのものだ。だが、私の場合は、少々趣きをことにしていて、生命が押しよせてくると同時に、一時に現在の才能や能力を賦与されたのだ。それ以前の存在について知らないことは、私も他の人と同じで、誰だつて夢か幻か分らぬ、朦朧としたものしか持つていないのだ。私はただ、自分の心と体が、すでに成熟しているということを最初に意識しただけなのだ。――推量の必要もなければ、べつに驚きもしないで、それを意識することができた。私はろくなものも着ないで、疲労と空腹をしのびながら、痛む足を曳きずり、曳きずり深い森をさまよつている自分を発見した。一軒の農家を見つけて、近づいて食を乞うと、その家の人は、食物をくれながら、私の名をきいた。私は自分の名は知らなかつたが、人間が一人々々名を持つていることは知つていた。私は当惑した。逃げるようにその家をでると、日が暮れたので、森の中に横になつて眠つた。  あくる日、ある大きい町へはいつたが、その町の名は言わないでおこう。それからまた、今日で終ろうとするそれ以後の私の生活も一々ここで話さないことにしよう。が、一口に言うと、それはいつだろうが、またどこへ行こうが、罪と罰の呵責と恐怖に、追い立てられる放浪の連続だつたのだ。その罪の呵責というのが、どのくらいここに話せるか、とにかくそれを話してみよう。  いつごろのことか、かつて私は裕福な農園主として、大きな都会の近くに住んでいたような気がする。そして、ある一人の女と結婚し、その女を愛しながらも、信用しないでいた。私たちの間には、将来有望と思われるいい息子が一人あつたように思うが、この息子の記憶はすこぶる曖昧で、私の幻想のなかには、殆んど入つてこないのだ。  さて、ある不幸な夕方のこと、私は実話や小説で誰でも知つているごく平凡な、俗悪な方法で、自分の妻の不貞を試してみることを思いつき、妻には翌日の晩帰ると言い残して、その近くの都会と言うのに出かけたのである。そして、翌日の晩帰ると言つておきながら、まだ夜の明けきらぬ、暗いうちに帰つて、家の裏手へまわつた。裏のドアは、中から鍵をかけても、外から開くように、前々から細工をしておいたので、そこから入ろうと思つたのだ。ところがそのドアに近づこうとすると、それが静かに開き、また締つて、一人の男がそこから出て、闇の中に隠れたのである。私はかつとなつてその男のあとを追つたが、二度と姿を見ることはできず、誰であるかということも分らずじまいだつた。今では、それが人間であつたかどうかさえ、疑わしいと思うのだけれど。  私は嫉妬と憤怒に狂気になり、侮辱された良人としての情熱に盲目の野獣のようになつて、妻の寝室のある二階に駈けあがつた。ドアはしまつていた。だが、そのドアも外からの細工でたやすく開けることができた。まつ暗だつたが私は妻のベッドのそばに立つた。手で捜つてみたら、乱れてはいるが誰も寝ていないことが分つた。 「ふん、おれが帰つてきたので、下の廊下へでも隠れたのだな」  私はそう思つた。妻を探すため、部屋を出ようとした。だが、暗いので方向を誤つて――いや、誤たずと言つたほうがいいのか、ベッドのそばを離れた私は、部屋の片隅に、うずくまるかの女に蹉いた。とつさに私は両手でかの女の咽喉を絞めた。悲鳴をあげる暇もないほど素早く絞めた。藻掻く体をすねで抑えつけた。暗闇のなかで、一口の叱責の言葉さえ浴びせないで、じつと死ぬまで絞めつけた!  私の夢はそこで終る。私はこれを過去の文章で書いたけれど、ほんとは現在で書くべきものかもしれない。というのは、この惨憺たる悲劇は、今でも始終私の頭のなかで繰返され、何度計画を立て、確認に苦悶し、罪を悔いているかしれないのだ。そこから[#「しれないのだ。そこから」は底本では「しれないのだそこから」]また空白が続く。そして、わびしい窓ガラスに雨が降りかかつたり、私の破れた服の上に、雪がつもつたり、雇《やと》われびととして私の暮している、穢ない、場末の街に、がたがたと、車の通りすぎる音がしたりする。この世に太陽というものがあつたとしても、私はそれを思い出すことができないし、小鳥がいたにしても、それは私にとつて、鳴かない小鳥なのだ。  私はもひとつの夢、ある夜のもひとつの幻を持つている。私は月の照る道の、なにかの蔭に立つている。私のそばに誰か立つているのだが、誰だかはつきり分らない。大きな家の蔭に、白い衣《ころも》が光つてみえる。それから一人の女が私の前の道に立つ――殺された妻である! 死人の顔、咽喉にのこる手の跡。かの女はじつと私を真顔で見つめるが、その目には、叱責もなければ、憎悪もなく、威嚇もなく、その他のなにもないが、ただ見られるのが恐くてたまらない。妻の亡霊を見た私は、烈しい恐怖を感じて逃げだす。その恐怖は、いまこれを書いている時でも消えない。もう、私は落着いて先きを書くことができない――  ようやく、平静になつた。しかし、実のところ、これ以上書くべきことはなにもないのだ。この話は、始まつたところで終る――すなわち、暗黒と疑惑にはじまり、暗黒と疑惑におわる。  そう。私は落着きを取戻し、自分の心を抑制することができるようになつた。しかし、この平静は、刑の執行猶予ではなくて、つぐないの一局面にすぎないのだ。恒久的な私《わたし》のつぐないは、いろんな形に変化する。その一つの変形が平静なのだ。言葉をかえて言えば終身懲役である。「生涯の地獄」――これは馬鹿げた刑罰ともいえる。なぜというに、囚人が勝手にその期間をきめることができるからだ。私の期間は今日で終る。  すべての人々に、私の知らぬ平安のあらんことを! [#3字下げ]三、霊媒ベイロールズによる故人ジユリア・ヘトマンの話[#「三、霊媒ベイロールズによる故人ジユリア・ヘトマンの話」は中見出し]  私はいつもより早めに寝床にはいるとすぐ安眠した。でも、これは私が前にいた世界でよくあることなのだが理由もない不安を感じて目を覚してしまつた。その不安が根拠のないものであることは、目を覚すとすぐ分つたが、それでも、なんとなく不安でならなかつた。その夜、私の良人ジョール・ヘトマンは畄守で、召使たちは遠く離れた部屋に寝ていた。しかしそれは珍しいことではなく、またそんなことに今まで不安を感じたことはなかつたのだが、その夜に限つて、妙に恐くてたまらなかつた。で、動くのがたいぎだつたが、私は体をおこして、枕元のランプに灯をつけた。だが私の期待は外れて、明るくなつたことが、安心をあたえてくれはしなかつた。それどころか、明るいと余計に危険が迫るように思われた。というのは、ドアの下の隙間から明りが漏れると部屋の外にいるえたいの知れぬ悪いものに、私が部屋にいることを、覚られるかもしれぬということに、気がついたのである。あなたがたのような、肉《にく》を持つている人間、想像から[#「人間、想像から」は底本では「人間想像から」]くる恐怖を知る人間には、この、えたいの知れぬ悪魔に対するには、むしろ闇の中にいたほうが安全だと思うにいたるこの恐怖が、どんなに烈しく大きい恐怖であるか、よくお分りのことと思う。それは[#「お分りのことと思う。それは」は底本では「お分りのことと思うそれは」]、目に見えぬ敵に、飛びかかつて行くようなもの――絶望的な戦術なのだ。  ランプの灯を消すと、私は大声を立てる勇気もなければ、神に祈ることも忘れ、ただ頭から毛布をかぶつて、ぶるぶると震え、そんなみじめな情態で数時間をすごした。もつとも、この、時間というのは、あなたがたの言うことで、私たちの世界には、時間というものはないのである。  やがて、私の不安が本物となつた。忍びやかな、不規則な足音が、階段から響いてくる! それは、ちよつと、どつちへ行つていいか判断に迷つているような、ためらい勝ちな、のろい、不確実な足音だつたが、私の錯乱情態になつた頭には、それが、憐れみを乞う余地のない、ある盲目な心をもたぬ怪物の証拠のように思われて、いつそうの怖ろしさを増すのだつた。私は廊下のランプに灯をつけとけばよかつたとさえ思つた。そうすれば、手捜りしながら階段をのぼるものが、夜の怪物であるかどうか分る。これは先に恐れて灯を消した私の行動と矛盾する、馬鹿げた考えと思われるかもしれない。どうとでも勝手に思うがいい。恐怖に理屈はない。それは白痴と同じなのだ。恐怖が立証する気味わるい現実と、それが呟く臆病な意見とのあいだには、なんの関係もないのだ。私たちのように、死んで恐怖の領域に入りこみ、おたがいに姿を見ることもできないで、ひとり淋しく前の世界の永遠の闇のなかに、隠れ潜んでいるものにはそれがよく分る。私たちは愛する者と話をしたくても、それができず、両方で恐れあつていなければならない。でも、どうかすると、不滅の愛だとか、憎しみだとかの力で、この溝、この法則が打ち破られて、私たちの姿が、人間の目に見えることがある。私たちが注意や慰めを与えたいと思つている人間や、私たちが罰したいと思つている人間に、私たちの姿が見えることがある。私たちの姿が、そんな人たちに、どんなに見えるか、それは分らないが、ただ、私たちが最も慰めてあげたいと思つている人、私たちがその人から優しい同情を得たいと思つている人、そんな人でさえ、私たちの姿を見ると、恐れおののくことだけは分つている。  ごめんなさい。かつては女であつた私が、話の本筋から脱線したことを、あなたがたに、あやまらなければならない。でもこんな不完全な方法で訊ねられては、私にしても充分に話すことができないのだ。あなたがたは未知のことや、訊ねてならぬことについて、馬鹿げた質問をする。けれども、私たちの知つていることや私たちの言葉で話しうることの多くはあなたがたの耳に無意味なのだ。私たちは、ただ口ごもり勝ちの霊媒によつて、あなたがたの知る、ごく限られた範囲の言葉で話すよりほかはない。あなたがたは、私たちが別の世界に住んでいると思つているかも知れないが、じつのところ、私たちはあなたがたの世界より他は知らないのである。ただ、私たちには、日光や、温さや、音楽がない。笑いや、小鳥の歌もなければ、友だちというものもない。おお、神よ! 変つた世界で亡霊となり、不安と絶望に震えおののくとは、何ということだろう!  いえ、私が死んだのは、恐怖のためではなかつた。その、えたいの知れぬものは、後返りしはじめた。私は急いで階段をおりる音を聞いた。向うで急に恐くなつたのかもしれない。私は助けを求めるために立ちあがつた。だがドアのそばへよつて、震える手でノブを捜り当てたと思つたら、――おお――また階段をのぼる音が聞こえだした。その階段をのぼる音は、重く高く、早調子で、家が搖れるかと思うばかりだつた。私は部屋の隅に逃げて、床の上に伏さつた。神に祈りたかつた。愛する良人の名を呼びたかつた。荒々しくドアの開く音がした。  それからしばらく、私は無意識だつた。気がついた時に、私は、咽喉を絞めつけられていた。上から抑えつけるものを、私は両手で力なくたたいた。歯と歯との間から舌が出るのを感じた。それから私は死んだ。いえ、それがなんであつたか、私は知らない。後で考えてみて知り得ることのすべては、すでに死ぬ時に、知つていたことの範囲を出ない。私たちは沢山のことを知つているようだが、それはそれだけで、後になつてそのペイジの上に、新しい光がさしてくるわけではない。私たちの記憶に残つているのは、そのペイジの読める部分だけなのだ。いま私たちのいるところには、混乱した曖昧な野原の景色を、一目で見おろせるような、真理の高峰があるわけではない。私たちは今でも暗い荒涼とした谷間に潜んで、いばらの繁みのあいだから、気違いじみた、たちの悪い住民を、覗き見しているにすぎないのだ。どうして次第に薄れいく過去の新事実を知ることができよう?  ある夜のことだつた。どうして夜ということが分るかといえば、あなたがたが家に帰つて休む時刻だつたからである。その時刻には、私たちも安心して、潜んでいる場所から出て、あなたがたの家に近づき窓から部屋のなかを覗きこみ、時によると、その部屋に忍びこんで、人々の寝顔を見ることさえできる。愛する人や、憎む人の住んでいる限り、私たちはよくその家を訪ずれる。私も自分が殺されたあの家のまわりを、よくさまよい歩いた。しかし、なにかの方法で、私がそこにいることや、まだ良人やわが子を愛しもし、憐れんでもいることを知らせようとしたが、それは無駄であつた。寝ている時に近づくと、彼らはいつも目を覚すし、それかといつて、思い切つて起きている時に近づくと、彼らは必ず恐ろしい目つきで私を見るので、一度だつて目的を果すことはできなかつた。  その夜、私は一方で彼らに会うのを恐れながらも、長い間探しまわつたのだが、家の中にも外の芝生にも、彼らの姿を発見することはできなかつた。芝生には月が照つていた。太陽は永久に私たちの目からとざされているが、月は満月だろうが三日月だろうが、よく見えるのである。その月はある時は昼見え、ある時は夜見えるが、いつも生きている時と同じように、月が昇る時から沈む時まで、はつきり見えるのだ。  私は物悲しい心を抱きながら、芝生を離れると、静かな白い月光のなかを、あてどもなく家の前へ迷い出た。すると、あわれな良人が驚いたような叫声をあげ、わが子がそれをなだめているような声が聞こえる。二人は木の蔭に立つていた――私のすぐ目の前に! そして二人ともこちらへ向いていた。良人は私をじつと見ていた。良人は私を見た。  とうとう私を見た! そう思うと、今までの重い不安が、悪夢のように消えた。死の呪縛は、破れた。愛が法則を、征服した! 「良人は見た、私を見た、理解してくれるにちがいない!」そう私は心に叫んだ。そして、良人を両手に抱きしめ、愛の表示で彼を慰めるため、私は自分の美しさを意識しながら、微笑をうかべ、心をひきしめて近よろうとした。そして、生きている者と死んでいる者との間の隔てを破つて、わが子の手をとつて、言葉をかけようとした。  けれど、ああ、その瞬間、良人は恐怖でまつ蒼になり、追い立てられる野獣のように、目を光らせた。私が近づくと、彼は後じさりし、いそいで森の中へ逃げこんで、どこへ行つたか分らなくなつてしまつた。  そして、父も母も失つた哀れなわが子には、私の存在を知らせることができずじまいだつた。やがては彼も、この見えない世界の人となるであろう。そして、私からも、永久に消えていくであろう。 底本:「宝石五月号」岩谷書店    1954(昭和29)年5月1日 ※底本は新字新かなづかいです。なお拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。