偉かつた昔の政治家 高石眞五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き] -------------------------------------------------------  今から五十一年前の昔話。私が大阪毎日新聞の留學生としてロンドンへ行つたのが一九〇二年(明治三十五年)の末だつた。それから二年目の一九〇四年一月のある日、公使館から來てくれという便りがあつた。出かけて行つたら、林公使(後に外務大臣になつた林董伯)が、デーリー・エキスプレッスから編輯に日本人が欲しいといつて人を頼んで來た。君、行かないか、ということだつた。  公使の話はこうだつた。デーリー・エキスプレッスは日露開戰必至と見ている。そのときに日本人を編輯のスタッフに入れておいて、他紙をあつといわせようというわけだろう。で、今から來る人と豫約をしておきたいというんだ、とのこと。  當時日露の間には、極東における勢力範圍の問題で、食うか食われるかの激しい折衝が行われていた。日本が滿洲を讓つて韓國境まで引きさがつたにも拘らず、中立地帶の問題で、ロシアが頑張りつづけ、ついに日本はそのまま屈服するか、力をもつて反撥するかのどたん場に追いつめられたときだつた。  これより先き、日英の間には一九〇二年、日英同盟條約が締結されて、この時はりつぱな同盟國だつた。從つて、日露間の危機に對する英國の關心は非常なもので、どの新聞も大きなスペースを割いて、大へんな張切り方だつた。そして絶對プロ日本で、こうなれば日本は起たざるを得ないだろうという豫想が根強く行われた。エキスプレッス紙が、日本人を入れて、極東の戰爭ニュースに變つた色を出そうと考えたのも、その當時の英國人の心理を讀んでのことだつたろうと思う。  この頃、英國全體で日本人は、軍、官、商社、學生を合せて六十人ぐらいしかいなかつた。私が林さんに頼まれたのは、實はほかに誰も閑人がいなかつたことと、一はとに角新聞記者だつたということに違いない。そこで、林さんは、これから直ぐ主筆のブルーメンフェルト(フリート・ストリートのドワイヤンとして後年有名になつた)に會いに行き給え。そのとききつと給料の話がでる。そういう場合、日本人はよくいくらでもけつこうですというが(この言葉はそのままで、私は今日でもはつきり覺えている)君は一週四ポンド欲しいと言い給え、と林さんはずばりと云つた。(林さんと私はこの頃かなり懇意になつていて、私を子供ぐらいに思つていたらしい)  ブルーメンフェルトに會つた。彼曰く、開戰はたしかだ。鐵砲の打ち合いが始まつたらすぐ電報を打つから時をおかず出社してくれ。勤務時間は夜だけ。給料はいくら欲しいか、と極めて短い、何分間かの會話だつたが、「きたな」と私は思つた。林さんの言葉を口移しに、ためらうところなく一週四ポンドと答えた。オール・ライト。それで會見は終つた。  それから約一カ月後、忘れもしない二月九日「すぐ出社乞う」という電報が私の下宿に屆いた。旅順夜襲の直後だつた。その夜から私はしやべる力も、書く力も不十分だつたが、エキスプレッス紙の編輯陣の一人として働いたのだつた。働くといつても大してむずかしいものではなかつた。エキスプレッスの前線特派員(このとき既に二、三人出していた)からの電報をチェックすること。(日本の固有名詞がたくさんでてくる)日本の新聞に載つた武勇傳や、愛國的佳話、たとえば「一太郎ヤーイ」といつたような記事を飜譯することだつた。日本の新聞は一カ月以上もおくれて屆いていたが、時間的ズレなど問題にならない。戰爭に直面して日本國民全體の爆發させた愛國的熱情が、同盟國英人をひどく感激させ、そうしたニュースが愛讀された。エキスプレッスの企畫はその點で當つた。  今日、日英の間はたいへん水臭くなつているようだが、こんな時もあつたという話をしたら多くの人は驚くだろう。同盟國だつたということが無論主たる理由に違いないが、英國も米國もロシアの飽くなき領土擴張慾を憎みまた恐れてもいた。穿つた説は、英米ともに日本にロシヤを叩かせようとしていたのだともいつた。しかし、英國一般の人たちは、完全に日本側で、緒戰の頃は日本軍の敗報がロシア側から盛に電報され、日本大本營の發表と矛盾することが度度あつた。ところが日本の發表には鹵獲砲何門、捕虜何名とあり、ロシア側のには、それがないからでたらめだと決めて、みんな日本軍の勝利を喜んだものだつた。  この頃、私はいろいろ珍らしい經驗をした。あの感情を表にださないことで知られた英國人が、バスへ私が乘つたとき、乘合客みんなそろつて、日本バンザイと手を擧げて叫んだことも二度や三度ではなかつた。それから、お茶や晩餐に毎日のように招待された。知人はもちろんそんなになかつたが、招かれて行く先き先きで、相客から次ぎ次ぎとよばれたのだ。自分のうちのパーティに日本人の居ることが、主人の鼻を高くさせたのだろうと、私は思わざるを得なかつた。  ロシアと戰爭をする前に、その時代の日本の政治家は友邦をこしらえておくことを忘れなかつた。今から五十三年前の日本が、大英帝國と同盟を結んだときは、あまりにも釣合わない縁組に世界を不思議がらせたものだつたが、そういうときに英國をうんと言わせて、同盟に持ちこんだ政治家はえらかつたと、いまつくづく考えさせられる。[#地付き](元・毎日新聞會長) 底本:「文藝春秋 昭和三十年二月号」文藝春秋新社    1955(昭和30)年2月1日発行 入力:sogo 校正: ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※「ロシア」と「ロシヤ」の混在は、底本通りです。 YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。