宴會亡國論 ――うぬぼれ族の紳士諸君を斬る―― 秦豐吉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)(例)ふざけ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る ------------------------------------------------------- [#3字下げ]女性を侮辱するエチケット[#「女性を侮辱するエチケット」は中見出し]   問題になつた近江絹絲の夏川社長には、おもしろい趣味があつた。新橋の料亭で「たまご會」という催しをする。まだ藝者のタマゴといえるような若い綺麗どこを集め、唄い踊らせて、これを名士各位に御披露し、技藝の勉強をさせるという、奇特な大盤振舞である。藝者や料亭にとつて、こんな有難いお客はあるまい。  私も一度お招きを蒙つたが、勝手ながら初めは何の意味だか判らなかつた。いわゆる宴會というに過ぎなかつた。變つたところは、最後にまり千代姐さん以下同社製品らしい浴衣がけで、ずらりと並んで現れた位である。まり千代さん以下はタマゴではない。鷄の方だろう。  しかしこの宴會は、見たところ理想型で、至つて無邪氣である。これに反して理想型でない宴會は、今日全國の花柳界で、御大葬でもない限り、一夜として絶えることはあるまい。ところでこの酒と女の宴會なるものは、一體何の意味があるんだろうか。どうして日本人は、こんなに酒と女の宴會が好きなんだろうか。日本郵船の淺尾社長が提唱した實業界の「新生活運動」のメンバーは、提唱して以後「藝者の出る宴會なら出席致しません」と斷然お斷り續けているとか。毎年發表される個人所得最高點の番附には、いつも料亭主人の名が入つているのを、國民は何と見ているだろう。すばらしい所得とすれば、その商賣繁昌の原因は、大量の、料理と酒と女の宴會に極つている。その宴會費はどこから出る。個人の懷中からか、役所會社の交際費からか。一體どうして日本の社會では、酒と女を必要とする宴會が、生活に缺くべからざるものなんだろうかと、どうもいくらでも疑問が起つてきて仕樣がないのは、他人の懷勘定を氣に病む貧乏性のせいだろう。  ドイツに GASTFREUNDLICH という長い文字がある。好んで客を歡待するの意だ。日本人は正にその通りである。客を厚遇する代表的國民は、歐州ではロシア人ということになつている。しかしそう言われた昔のロシアだつて、又ドイツだつて、世界のどこに、客を歡迎する宴會に、歌妓を侍らせ、酒を注がせ、その妓の手を握り、ふざけ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る國があるか。そんな公然と女性を侮辱するエチケットは世界にない。あるのは戰敗貧乏國日本ばかりである。昔の支那の宴會には、歌妓を招くことが出來たから、日本と支那といえるかも知れない。しかし今日の中共はどうだろう。蠅がいなくなつたとばかり聞くが、中共には藝者がいなくなつたかどうか、誰の視察談にも話題になつていないところを見ると、澤山の日本人が中共に招待されても、藝者の出る宴會には招待されなかつたんだろう。或は中共でも藝者は蠅と共に消えたのかもしれない。 [#3字下げ]酒と女と色と慾[#「酒と女と色と慾」は中見出し]  それなら歐米では、宴會はどうするか。まず第一にいくら大事な客がこようが、すぐさま「粗餐差上度」とか「御高話拜聽仕度」とはきやしない。遠來の珍客ともあれば、つまり飯を食う事によつて懇親のチャンスを掴む必要があらば、大會社ならオフイスの一室である重役用食堂で、晝飯に招待する。その食事には、會社の重役數名が出てくれる。別に山海の珍味を山盛りする譯でもない。東寶の小林一三社長を迎えたニューヨークのパラマウント映畫本社のズツコー會長以下のもてなし振は、正にこれである。卓上に菊花を盛つたのが、せめてもの日本への敬意である。もし米國の大映畫會社の社長が日本に來たとなつたら、その歡迎會は、東京第一の料亭で、選り抜きの綺麗どころが現れないことには、恰好がつかんと思うだろう。  私はスウェーデンの一流貿易業に招かれたことがある。これは家族總出で、ストックホルムの外海へヨットを浮べ、その歸りはこの景色のよい港灣に散在している小島に舟を着けて、そこにある別莊で、いわゆるスウェーデン式前菜料理の御馳走になつた。これが宴會の代りである。この主人は小島全部を所有して、島の王樣みたいだから、ヨット遊びは得意のものだろうが、日本の會社で外人の歡迎宴會の代りに社長が箱根の湖のあたりに舟を浮べる人があるだろうか。或は由緒あるクラブで晝食等もある。いかなる場合でも晝である。夜は家庭のものである。  尤も夜の宴會だつてある。公式ともならば男は堂々たるタキシードで何百人と集る。しかしこれには女つ氣はない。女つ氣があるとすれば夫人同伴の晩餐會、ソサイエテイである。蔭はともあれ、素姓の怪しい女は現れない。この邊の消息は、オスカア・ワイルドの「ウインダミヤ夫人の扇」を讀むと參考になる。  まあ外國の事はどうでもいいとする。日本の宴倉風俗も、そろそろ衰微してもよさそうな時代だと思うんだが、中々そうでない。いつまでたつても、人を接待するとなると、藝者を呼んで、目に見えない金をかけ、贅澤をしないことには、御馳走にならんような考えが、今日は若い人達にまで反省なしに遺傳してゆくのが、私には不思議にも、恐ろしくも思えるのである。誰もつまらんものだと承知しながら、いつか若い人達にも氣に入られてしまう原因は何か。今日の若い人達の考え方は近代的であり、ビジネスはビジネスでありそうに見えても、やつぱり好きなものは女と酒、色と慾というところに落ちてゆく爲であろう。そこで宴會が、女にふざけ、うまい料理を食うのに、少しも自分の懷を痛めないですみ、全部他人の金や國民の税金ですむとなつたら、宴會は若い人にもこたえられないだろう。だから今日の宴會が、自腹でやるとなつたら、必ず藝者はこないで、宴會思想はとうに衰えているに違いない。 [#3字下げ]タダ酒を飮む習慣[#「タダ酒を飮む習慣」は中見出し]  そこで京都大學の瀧川幸辰學長は、昭和廿九年の卒業生を誡めて「他人からタダ酒を御馳走になるな。今政官界の汚職は、すべてタダ酒を飮む習慣から起つている。酒を飮みたかつたら、自分の錢で飮め」と言つた。このタダ酒の宴會から生れた昭和の造船疑獄は、高利貸森脇將光をすら「税は盜まれている」と長嘆せしめている。今日出海は小説「汚職」の中で「花柳界が異常に繁昌している時は、不正な金が動いていると看做しても間違いはなさそうだ。正直に働いていれば、かかる巷に行ける餘裕はない仕組になつている」と結論している。  他人の金でも何でも、とにかく理窟をつけて、男が宴會に近附きたがる心理の一つは、男にうぬぼれ心が缺かぬ爲である。何といつても料亭の女將や藝者や女中さんというものは、あたりがよくて、お世辭がうまく、殺し文句を利かして、發音が柔く甘いから、いくらそれが何でもない職業手段であろうとも、紳士諸君はころりと參つて、みんないい子になりたがる。これが宴會族である。大體こんな連中は女に自信のない方だから、こんなことでせめて自己滿足しようというのである。  好い氣持で他人の金で御馳走になるといつても、抑々宴會そのものは、面白いもんだろうか。座に列なる諸君は、本氣になつてお座敷の餘興に感服しているのか。徳利には正しい分量の酒が入つているか。膳の上の日本料理は、西洋料理ほどのカロリーを持つているか。その料理は餘すことなく腹の中に入つてゆくか。  すべてが體裁だけで固めた嘘ではないか。酒に醉つた上の話が、何で眞實であり得るか。「あれは酒の上の話さ」と一言で蹴られてしまやしないか。すべて文字通り眞實のない、上つ面の、お世辭の遊びではないか。しかもそれには莫大の金がかかり、時間がかかり、早く家へ歸りたくとも、ムズムズするだけで、歡樂極まらずして、哀傷ばかり生ずる、無駄な、不徹底な、空虚な、不健康なものが、「宴會」ではないのか。  私はマッカアサー大將の日本占領に際して、惜しいことをしたと思う事が一つある。占領軍は、人身賣買を禁じ、籠の鳥を解放したというが、本當に日本武會の舊習打破を考えて、女性の尊敬すべきことを教えてくれようとするならば、まず東京という首府の眞中に居据わつた赤線青線區域を全滅すべきであつた。日本はここに千載の好機を逸している。もし、ワシントンでもニューヨークでも、町の眞中に赤線青線區域が※[#「足へん+番」、第4水準2-89-49]踞していたら、米國人は默つてはいないだろう。日本の女性生活を本當によくするには、この盲點を衝かなければならぬ。ところが占領軍も女にかけては、結構日本を樂しむ味を覺えたから、夫を日本にやつた米國の細君連は心配して「藝者というものは、プロスチチュートか、藝術家か」と頻りに留學中の日本女性に質問して困らせている。 [#3字下げ]宴會は不良投資の鉢合せ[#「宴會は不良投資の鉢合せ」は中見出し] 「宴會哲學」を最も縱横に論じたのは、澁澤秀雄の著書である。その中に曰く、 「主人側ばかりが藝者と懇意で、客側は馴染の薄い宴會ほどバカげたものはない。客側は主人側の遊興のダシに使われているとしか考えられないからである。(中略)結局主人側は、皆さまのために、かくの如く金錢と時間を浪費してお目にかけます、それが私たちの赤心を示すメートルです、と言つているようなものだ。敗戰國として、ひとしお勿體ない金と時の使い方である」  澁澤先生は私のような朴念仁どころか、若い頃から宴會はお嫌いじやなかつた。名だたる粹人で、「ヒデさん」の通り名さえある。何もかも御承知のヒデさんの宴會論が、既にこうである。言い得て餘すところがなく、この文章以上に一言も附け加える要はない。 「主人側は客側の喜ばない宴席に金を濫費してお目にかける。客側も一概にそれをボイコットしない。藝者は客の評償しない着物や藝事に憂身をやつす。宴會とは、不良投資の鉢合せみたいなものだ」  こんな不良投資は、同じ敗戰國の西獨にはない。同じ敗戰という一線からスタートした西獨が、どれだけ日本を引き離して躍進しているか。西獨の陸上競技選手は七五對一○○で日本を引き離したが、日本人も宴會で遊んでいたら、國力もこんな工合に引き離されるだろう。この贅澤な無駄が、繰返し繰返される金と時間と勞力は、昔なら軍艦が何隻出來るという計算をされたろう。  今日は肝心の船を造らないで、宴會ばかりやつている。片々たる怪文書「森脇メモ」の内容も嘘ばかりとは笑えまい。日本の宴會は、ソ連流にいうならば、阿片である。日本流なら、他人の金で打つヒロポンというところだろう。  私に言わせれば、宴會に出る紳士諸君が、藝者という女性に對する態度は、根本から間違つている。一歩讓つて宴會を一つの交際場と假定するならば、そこに現れる女性諸君は、賣笑婦だろうが淑女だろうが、一應はレディとして敬意を表すのが當り前である。藝者に對する男の態度は、いわゆる「カ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]リエ」、騎士的態度であるべきで、そこにこそ男の魅力があるんだが、私らの見る宴會に於ける男女は、双方とも、その振舞たるや、よくつて友達附合、まず女にからかい、ふざけ、女の方でも我儘な惡戲つ子の生地を出し合い、宴會がエレガントな交際場にならず、狂宴(ORGIE)になつてしまう。これを世間では「酒が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた」という。  そういう女性に對するエチケットを缺いた酒席に、初めての外人を連れ出してみ給え。美しい淑女に對して、そんな無禮を人前でやつてもいいのかと、不審顏をし、苦笑をして戸惑つてしまう。藝者が次第に前口から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてきて、數を増すに從つて、その壯觀に呆れ返る。そしてこの莫大な費用を後から耳にしたものは、一體どこからそんな金が出るのかと合點がゆかない。だから日本人が外人を招く時は藝者を呼ぶが、外人が日本人を客とする時は、絶對にそんな無駄金を使わない。藝者を呼ぶ宴會が、バカバカしいからである。その證據には、外人と藝者の熱愛は、モルガンお雪以來後を絶つている。 [#3字下げ]近代夫人よ奮起せよ[#「近代夫人よ奮起せよ」は中見出し]  澁澤説によると、宴會の妙味は、雜談にあるということだ。それなら今日の宴會で、うまい雜談が聞けるか。うまい雜談が出來る教養は、かくいう澁澤先生位のものだ。宴會の列席者は、お互に心にもない嘘とお世辭で退屈しきつている。この退屈も浮世の義理と諦めて、早く御飯が出てくれればいいと待つている。だから宴會の切上げ時間が、昔に比べてよほど早く、昔の「午前樣」という話も今はない。こんな宴を、いくつも懸持ちして、忙がしがつている紳士がいたが、今日でもまだいるだろうか。  實業家の宴會も、商賣で客を招くなら、よろしくタキシードと葉卷で堂々とやつて、女は抜きにして頂きたい。お役目でない客のもてなしなら、女を入れて頂きたい。女とは勿論主人側の夫人達である。尤もこの夫人連にも問題はある。私は海外在勤から歸つてきたばかりに、帝國ホテルの宴會の席順を決めることを命ぜられたことがあるが、客は夫人同伴なので、その席順を旦那樣と奧樣とを離れ離れにして、話題を樂にしようとしたら、大いに叱られて、夫婦は必ず隣り合つて並ぶように直されたことがある。この習慣は今日ではどうか。宴會に毎日顏を突き合わせている夫婦が、又々並んで座つたんでは、話の種がありやしない。よその旦那や細君と並んでこそ、話の市も榮えようというものだ。  しかしこんな場合に、男の方も男だが、日本の奧樣には、てんで話の種がない。巧みに男の客を綾なす「雜談」の妙味なぞ、まるでないようだ。男にしやれた色氣を起させる、近代夫人の仇つぽい雰圍氣が生れたらと思うが、まず前途遼遠である。もし日本の現代夫人が、話題が豐富で、奧樣らしい色氣が滴り、品が好くてしやれた振舞が、本當に宴會の花となつたら、宴會はすべて夫人同伴、夫妻招待となり、藝者は一掃されるばかりでなく、宴會そのものが、もつとおもしろく、氣品があり、しかも近代的色氣の溢れる宴會になるに違いない。宴會場は、もつと美しく、小説的になるだろう。高松宮妃殿下の出られる會合が、ぱつと花が咲いたように感じられるのは、よい實例だ。  宴會が退屈と浪費で、無駄なものである事は、實は紳士諸君もよく御承知なんである。しかしそんなことを口に出すのは野暮で、言つたところで實行出來ないことになつている。そうこうしている間に、日本の勞力と時間と金は、轉落する石の如く消えてゆく。亡國の徴といわずして何だろう。新橋赤坂が目につくとなれば、自動車は向島に走つてゆく。そんな宴會を追う生活は、最も非モダン生活であり、世界からズレたものであり、我々の趣味じやない、と若い人達が本當に判つて言い出すのは、いつだろう。 [#地付き](帝劇社長) 底本:「文藝春秋 昭和二十九年十二月号」文藝春秋新社    1954(昭和29)年12月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。