英國皇帝の場合 清澤洌 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)暗闇《くらやみ》の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)いふやうな|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さふわ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)(例)十二囘※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)いろ/\な ------------------------------------------------------- [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  英國皇帝ヱドワード八世の御意志が、英國上下に暗闇《くらやみ》のやうな謎を投げかけて居る時であつた。この問題について英國首相ボルドウインは中間報告をなすために下院に起つた。  新聞用の形容詞である『滿場の緊張裡』といふ言葉が、この時の空氣に對してほど宛て篏まることはなかつた。  首相の報告は短かかつた。かれは『モルガナチック・マリージ(身分違ひの結婚)については意見を言上したが、その他の問題については一切勸告を申上げてゐない。陛下は目下御考慮中であつて、未だ御決意に到達せられてゐない』といふほどのことを手短かに述べたにすぎなかつた。  この時のことである。保守黨の有力者であり、前の大藏大臣であるウインストン・チャーチルが突如自席に起立した。政府論難の舌鋒を揮はんがためである。各方面から“Shame”といふ聲が起つた。更に何か話し出さうとすると“Sit down”といふ叫び聲が嵐しのやうに沸き立つた。  英文の通信によると『下院はこの時に危ふく大混亂に陷るところであつた』といふ。その大混亂に Pandemonium といふ文字が使つてあることでも、その時の形勢が分るであらう。チャーチルは『眞青になり、困惑した面持ちで』自席に復した。  敗けず嫌ひの鬪士チャーチルが一言も自説を吐けずに坐り直したといふ事實は、場處が英國議會であるだけに津々たる興味をひくが、それよりも平常保守黨とはよからず、殊に皇室の御結婚のやうな問題については、相當意見があらうと思はれる勞働黨までが、ボルドウインのとつた、またとらうとしてゐる態度に全幅の支持を與へてゐるのは意味のあることである。  英國人は個人の Privacy を極めてよく尊重する。ヱドワード八世陛下とシンプソン夫人の關係が、表向きの事件になるまで英國の新聞に殆んど一行も現はれなかつたのは無論一つには皇室關係のことであるからだが、また私生活に立入らない英國人の社會的習性によることは疑へない。  かの飛行家リンドバーグ夫妻が、常に米國の新聞の問題になつて、『有名人の刑罰』を課せらるゝのが嫌さに英國に去つたが、英國の新聞は『我等は有名人をしてそのニユズ化に煩はされず、靜かに生活する權利を認むべきである』とて、その落ちつく先をすらも明記しなかつたのは、英國人の氣持ちを現はす一例である。  個人生活に立ち入ることを欲しない英國において、もしこの事件が普通の人の身邊に起つた問題であれば、恐らくは極めて一部の新聞の法廷記事ぐらゐを埋めたにすぎなかつたであらう。またこれが英國以外の國で起つたのならば當の婦人に因果を含ませる方法もあらうし、その國柄によつては内縁關係もあり、更に婦人自身が『自分一人がなきものになれば』と犧牲的心境劇に出ることにもならう。米國あたりなら正當なる手績きにさへよれば、誰と結婚しようと問題にはなるまい。  しかし御當人が英國の皇帝であられる。シンプソン夫人との關係が『個人問題』であられる限界は自づから限りがある。しかもこの問題を政治化することを許さない。この心境が、英國議會をして殆んど先例なくチャーチルの發言を野次り倒してしまつたのである。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し]  この問題についてはアメリカの新聞は最初から大膽に報道してゐた。ロンドン・タイムスがこれを見兼ねてたしなめたほどである。我等は固より英國新聞の自制に倣ふ必要はないけれども、しかし君主國に住む一員として、友邦の皇室の事件について自由に批判することを適當としまい。私はこゝでは批判であるよりも、寧ろ素材を提供しようと思ふ。  對手の夫人シンプソン夫人については、その傳ふるところは必ずしも一致してゐない。たとへば年齡にしても、ある英文雜誌は三十八年以前に米國ボルチモアーに生まれたといつてゐる(The Literary Digest, Oct. 10, 1936)し、また日本の新聞でも、その原泉《ソアース》はむろん外國新聞雜誌だらうが、四十二歳説(東京日日)、四十一歳説(報知新聞)、同じく一八九五年生れの四十一歳説(朝日)といふ風に同じであるものもあり、同じでないものもある。  年齡については異論があつても、異論のないのは、かの女が如何に強くヱドワード八世陛下をとらへたかである。ヱドワード八世は旅行が御好きで、プリンス・オブ・ウヱールス時代より旅行されたこと三十萬マイルに及び、そのマイル數にして世界を十二囘※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたに當るといふ。英國の皇嗣として、どこに行つても人氣の中心であられたことは勿論であつて、『世界一の人氣者は』といふ質問の下には、十數ヶ年の間、必らず『プリンス・オブ・ウヱールス』の名があつた。世界の親と娘が、我こそはとプリンスに近づいたことは申すまでもない。  しかるに今までたゞの一人も意中の人のなかつたプリンスが――噂はあつたけれど、實際になかつた證據には何等申し出でられなかつた――今囘初めてシンプソン夫人にその眞の戀人を發見されたのである。『皇帝は何十年の御獨身の後、意中の人と結婚することが出來ないか』といふ疑問が、英國人中のリベラルな人から放たれるのは當然であつて、それにしても我等は人情の機微が今更に驚かれるのである。  このシンプソン夫人は新聞が傳へたやうにボルチモアー市(首都ワシントン近く)に生れて、三十一二歳の頃(一九一六年)に米國海軍將校アール・スペンサーと結婚し、六ケ年の後離婚(朝日、報知、日々は何れも一ヶ年後離婚したと書いて居りこの方が事實かも知れぬ)、それから一九二八年(昭和三年)にシンプソンと結婚したものである。シンプソンはカナダに生れてハーヴァド大學の出身、紐育とロンドンに事務所を持つ海運業者だ。  英國の皇帝が平民乃至は離婚者と結婚出來ないといふ成文的基礎はない。先例が總べてを決定するほどに重要視さるゝこの國では、ヘンリー八世は四人の平民、一人の未亡人と結婚したし、ジョージ四世も二度夫を失つた婦人と結婚した。ヘンリー八世は離婚婦人を皇后とした。しかし今囘の場合は離婚した夫が、何れも現存してゐる。最初の夫は米國の飛行中佐として航空母艦レインヂャ號に乘り組んで居り、二囘目の夫は現にロンドンに居る。ボルドウインならずとも、この人を皇后と仰ぎたくないかも知れぬ。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  今から二ヶ年ばかり前に、當時のプリンスは初めてシンプソン夫人を知つた。それが忽ちに二人の仲を濃くした。佛國南部にプリンスが旅行された時、シンプソン夫人を伴つた頃から、一部では種々な噂が飛んだ。  飛行家のリンドバーグ夫妻がロンドンを訪問した時に、皇帝陛下はこの二人を宮中に御招待になつた。伴食を仰せつけられた人の中に、首相ボルドウイン夫妻などと交つてシンプソン夫妻の名前が宮廷公報の中にあることがまた問題を新たにした。  その後、ヱドワード八世はアドリアチック海方面を旅行されたが、その時にシンプソン夫人は單身御伴をした。ロンドンの諸新聞が陛下の御寫眞を紙上に掲載しようとしたが、常に御二人であつたので、到頭載せられなかつたといふやうな|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さふわ》もある。土耳古《トルコ》のケマル・パシャが、陛下を御招きした時、御一緒でない寫眞を撮るために、二人の間に娘達を割込ませたといふ米國新聞のゴシップも、形容としてなら間違つてゐなからう。  その後、ヱドワード八世はスコットランドのバルモラル離宮に赴かれた。この時に宮中公報の最初に、シンプソン夫人到着の記事が載つて居り、その次ぎにヨーク公御夫妻(今囘帝位につかれた)の慈善事業の御活動のことが書かれて居つたことも保守的なる宮中關係者を一驚させた。  シンプソン夫人がその夫に對して離婚の訴訟を提起した時に、ヱドワード八世の御手が動いて居つたことは最早隱す必要はないであらう。英國における離婚は、いろ/\な理由によつて成立するが、しかし一方――殊に夫の姦通を名として訴えるのが容易である。サフォーク郡イプスウイッチ町の裁判所に訴へ出た“Simpson, W., vs. Simpson, E.A."の事件がさうであつた。  今年(一九三六年)七月の終りにブレイのホテル・ド・パリに男女の一組が宿をとつた。一つの部屋にダブル・ベッドであつた。その部屋へ朝食を運んだが、その男の方は寫眞によるシンプソン氏であつたが、その婦人の方はこゝに居らるゝシンプソン夫人ではなかつた。さういふ證言がホテルの番頭と、ボーイとその他によつてなされた。  夫のシンプソンがこの離婚訴訟に對抗しないことは豫め明らかであつた。その話し會ひと諒解が何日、誰によつてなされたかは不明だが、この對抗者なき離婚訴訟は十五分にして成立した。昭和十一年十月十七日のことである。  この十二月十日午後、ボルドウイン首相の下院における最後の報告によると、十月廿日に首相は『同僚とも協議せず、個人の資格で』世間の噂について言上したとのことである。私的問題が一轉して公的性質を帶びて來たのである。  しかし當時、この事はなほ一般的には知られなかつた。デイリー・テレグラッフ紙は、イプスウイッチ町の法廷に二名の記者を派遣したけれども、紙上に現はれたのは單に二三行にすぎなかつた。自由黨系のニュズ・クロニクルは皇帝には何等言及しなかつたが、このニュズを短くはあつたが重要ページの中に盛つた。だが一般はシンプソンの名を知るものもなかつたし、同紙が何が故にこんな記事を重要に取扱つたかを知る筈はなかつた。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し]  こゝでヱドワード八世陛下の内心の御苦悶を知るためには、英國皇室をめぐる空氣と、御自身の性格を明らかにせねばならぬ。  先帝のジョージ五世は極めて保守的――いゝ意味の――な嚴格な方であられた。この皇帝をめぐる大官が、必然にまた宮内省式の保守人であるのは當然であつた。ダービー卿といひ、サリスベリー卿といひ、また宮中の事件一切を司るサー・ジョン・ヱアードといひ、いづれも貴族中の貴族であつた。この人々から觀れば新帝が、ジョージ五世の造られたる空氣の中に溶けこまれることを希望したのは無理のないことである。  また實際、英國の宮廷が、國内の傳統と歴史と、從つてまた保守的空氣の上に立つて居る以上は、その事は必然的な要求でもある。社會において最も保守的な場所は家庭である。英國の國家において保守的傳統の表象が宮廷であらうことは、説明を必要としないであらう。  この空氣に對して、およそそぐはない人がありとすればそれはプリンス・オヴ・ウヱールスであつた。前にもいつたやうにプリンスは、恐らく世界何人よりも多く世界を旅行し、世界を知つた。その上にプリンスは米國を好まれて自由と階級的無差別觀を滿喫された。從來、ブリンスが殆んど世界無比に人氣者であられたのは、その『平民的』なる點が與かつて力があつたのである。  昭和十一年の夏、地中海を『ランカスター公』の御名前で微行された時、その御扮裝はと見れば、灰色の服、桃色のシャツ、赤のネクタイ、赤靴といふのであつた。ユーゴ・スラヴィアの海岸では、勞働者の着るシャツを御買ひ求めになつたりした。  ブリンス・オヴ・ウヱールスが、英國の國内において、突然に勞働者の家をお訪ねになつたりして、非常なる平民振りを示されたのはこゝで説明するまでもない事である。帝位に御即きになつてからも、背廣で、中折れ帽子の御姿をよくロンドンの下街――ストランドあたりで御見受けしたものだ。  紐育タイムスのロンドン通信によると(The New York Times Magazine, June 28, 1936)先頃もサンドウイッチのゴルフ・リンクスにお出でになつたが、爐の焚火が燃え切れようとして居るのを、御自分で石炭を拾つてくべられたとある。ボンド街のある花屋で、若い紳士が花束を註文した。送り先きがセント・ジ※[#小書き片仮名ヱ、217-上-2]ームス・パレースだから、不思議だとお客樣を見あげると、それがブリンス御自身だつたといふ。  こんな話しを拾へば無限にあつて、つきるものではない。これ等の事實から結論しうることは、エドワード八世陛下が、新しい時代の『青年』であられることだ。新しい青年は必然に偶像破壞者であるから、その評價は全然二つに分れるのはやむをえない。『困つた人』と思ふ者、『感心な人』と思ふ者、それはその立場による。  ヱドワード八世になられた後も、先帝ジョージ五世の服喪期を進んで短縮された。これは服喪期の長いことが、一般民衆の商業上の不便を來すといふ御懸念からであつた。ビジネス・キングの名が生れたのはこれからだ。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  ブリンス・オヴ・ヴヱールスであられた頃、英國人はブリンスを Empire Salesman といつた。この商業道徳國の英國においては、皇太子を『帝國の行商人』と呼んで、それが不敬に當らないばかりでなく、寧ろ何よりのコンプリメントであつた。  平民的であられる事。英國の商品を各國に紹介してセールスマンの任務をされる事。それはプリンス・オヴ・ウヱールスとしては極めて適當な條件であつた。だが一度び帝位に即かれては、周圍の要求する條件は全く異なるのである。今までは自由人がそのアセットであつた。今は他の作りあげたる傳統に從はねばならぬ。  この矛盾はシンプソン夫人の事件に會して動きがとれなくなつたのである。それまでは相當に自由に自己を主張されて、うるさい蔭口を聞く程度以上には、掣肘されることはなかつた。しかしこの米國生れの離婚夫人と結婚するとなると、そこに新たなる障害が現はれる。英國皇帝はその稱號が、His Majesty Edward ※[#ローマ数字8、1-13-28], by the Grace of God of Great Britain, Ireland, and the British Dominions beyond the Seas, King, Defender of the Faith, Emperor of India といふ長い肩書でも示すやうに、英國本土及び領土の主君であられると同時に、『信仰の守護者』でもある。英國聖公會(國教)の高僧が、御結婚の場合に司會を拒絶するであらうといふ風評は、餘程以前からあつたところである。  殊に自治領との關係は、經濟的及び政治的な理由によつて、益々隔離せんとする傾向にある際、その唯一の紐帶は英國皇室であるといふのが、英帝國を通じての常識である。その紐帶は必然に道徳的であり、精神的である。『道徳』を[#「『道徳』を」は底本では「『道徳を」]必要とする場合に『不道徳』がその役目に立つわけはない。  ヱドワード八世が皇位を捨てて、シンプソン夫人を選ばれたのは、その性格的な弱さよりも、寧ろその強さからであると私は考へる。無論、事こゝに到つてどうにもならないであらうことは事實だ。しかし婦人の地位を尊重するアングロ・サクソン國においてすらも、大國の皇帝の私事が、必要ならば相當に手際よく取り運ばれないであらうと見ることは困難だ。皇帝は最後のモーメントにおいても、個人的關係を打ち切ることが出來られた筈だ。  皇帝は高貴の御境遇に生れ落ちられて、幼い時からアングロ・サクソン人が極めて強く執着する『私生活』を持たれなかつた。從つて普通人の心理とは反對に、皇帝の御椅子そのものよりも――そしてそこから來る重責よりも、それを逃れて一個の平民にお還りになることを望まれたのではなからうか。前にあげたやうな御性格から、その窮屈感にたへられない氣持が分るやうな氣がする。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し]  米國の比較的無責任な雜誌だから、事の眞僞は分らないが、シンプソン夫人の性格を示すやうな記事があるから、それを紹介しよう。リバーテーといふコロネル・ハウスの論文の載つた雜誌だ。  昭和九年の秋、まだプリンス・オヴ・ウヱールスであられた頃、プリンスは佛國カンヌに御出でになつたが、そこには英國軍艦ウイッシャート號が碇泊してゐた。  プリンスはその艦長マウントバテン卿(殿下の從弟)御訪問を思ひたち、シンプソン夫人を伴れて氣輕に帽子も被らずに、軍艦に御出でになつた。英國海軍の規則として乘艦に際しては、艦に敬禮するのが不文律となつて居り、それには必らず帽子の必要があるに拘はらず、ブリンスはそのまゝ乘艦された。そこで傍に居つた某は、氣をきかした積りで白い帽を差出した。すると殿下はこれに一瞥を與へたまゝ出された帽子を突き返してしまつた。英國海軍の軍規の嚴格さを知つてゐた同伴のシンプソン夫人は内心、大いに殿下の御行動に驚き、その場できつく殿下を叱り飛ばしたといふのである。この事件を聞いた記者連が、鬼の首でもとつたやうに殿下とシンプソンとの關係を書き立てた。  この事實がどれだけ眞實かどうかは知らない。しかしアメリカに育つて、皇帝と二三歳しか違はないこの婦人が、かうした壓力感があるであらうことは想像に難くない。いづれにしても、一人の婦人に對して、西歐における最大なる王位が惜しくないといふ實例が、この事件にならつて示されたことは、戀愛至上論者の大きな獲物である。  事件そのものの主題は、世の初めより、世の終りに至るまで無數に存在する古い題目にすぎないけれども、しかし單に『君と寢よか、五千石とろか、なんの五千石、君と寢よ』の範疇に入れるのには、婦人の位置に對する考慮、英帝國皇室の位置(古い昔しであれば議會がこんなことに口を出せるものではなかつた)、新世代の傾向などにおいてこの問題は餘りに多くの示唆に富んでゐる。 [#地から1字上げ](昭一一、一二、一一) 底本:「中央公論 昭和十二年 新年特大号」中央公論社    1937(昭和12)年1月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「ヱドワード八世」と「エドワード八世」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。