読書問答 犬養健 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)朋《とも》有り [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)話し合ふデモクラシー[#「話し合ふデモクラシー」に傍点] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)いろ/\の -------------------------------------------------------  ――この一年あまり、政治の方を休んでいらつして大分本を讀まれたといふ事ですが、最近の小説や戲曲は讀まれましたか。  ――それが戰爭前のやうに文藝雜誌がすぐ手に入らないし、たまに讀んだものは面白くなかつたりして、殆ど讀んで居ません。この間、雜誌「思索」の座談會で花田氏や片山氏が、これから新しいよい作品を教へてくれるといふ話でした。  ――去年の暮に亡くなられた横光利一氏とは古い友達だつたさうですね。  ――古いと云へば隨分古い、横光君の處女作が出て間もなく友達になつたのですから。一時はほとんど毎晩、銀座でドイツビールを飮みながら長い時間話をしました。話をする時間の三、四倍は默つてゐる時間なんだが、妙に氣があつてゐた。他の人と長い時間逢ふと疲れても、横光君と逢ふと疲れなかつた。向ふでも僕とさし向ひでぼんやりしてゐるのが好きだつた。僕は横光君の初期のもの、殊に新感覺派といはれるやうになる以前のものが好きでした。あの頃の作品にはスケールが大きくなりさうな謎があつて、素朴で、文章の腰が強かつた。  ――晩年のものはあまりお好きでないのですか。  ――これは横光君の純粹で善良な人柄を思ふと胸が痛んで云ひたくないのですが、横光君の人物は其の作品よりずつと優れてゐました。中國の言葉で徳の人といふのは横光君のやうな人を云ふのだと思ふ。しかし横光君の作品としては「上海」を書いた頃からもう僕はついてゆけなくなつてゐました。ですから、二十年以上も横光君のよい讀者ではないのです。しかしいつも逢へば古い良い友でした。其の後の二十年、二度ばかり忘れられない出來事がありました。一度は、昭和十四年に突然横光君が手紙を寄こして「明後日上海へ行かう」と云つて來たのには驚いたが、横光君の變らない友情がわかつて嬉しかつた。一度は昭和十九年だつたか、空襲のはげしい頃に佐野繁次郎君の畫室で落ちあつて終電車がなくなるまで話をし、と云ふよりは相變らず默つて居る時間の方が多かつたが、しみじみ古い良い友達だと云ぶ感じが胸にこたへた。しかし作家の横光君としては、これは「改造文藝」の追悼號で小林秀雄君があまりにも眞實を書いてゐるので、こゝにも悲しい意味での僕の知己があつたかと思ひ、涙ぐむやうな氣持になつたのですが、つまり横光君の特質は天性の大きい素朴さにあつたので、彼の中期以後のむつかしい心理分析や逆説などはおよそ彼の得手でないにかゝはらず、ジャアナリズムは彼に決定的なレッテルを貼りつけたのです。彼はあの大きな童心の奧底でこの事を苦悶したらうと思ふ。そしてこの苦悶は長い年月のことだつたらうと思ひます。彼が芥川氏のやうな形で生涯を閉ぢなかつた事は、彼が全文學作品にもまさる寶玉を持つてゐたからで、その寶玉は、彼が徳人だと云ふことです。  ――お話の中に出た小林秀雄氏も古い友達ですか。  ――さう、厚かましい云ひ方かも知れないが、當時の文壇人と云はれるなかで最初に小林君を、たゞ者ぢやあないと云つて人に云ひふらしたのは僕ではないかと思ひます。その頃の小林君は、ベートーベンよりもモーツァルトが好きだと云ひ、それが音樂の純粹性の問題から出てゐる議論だとわかつて、僕は小林君のモーツァルトの好き方に好意を持ちました。小林君はまた、セザール・フランクの音樂が實に好きだつたが、その意味も分るやうな氣がしてこれもまた、好意を持つ原因になつた。考へるともう二十年以上になるが、當時の僕は今よりももつとフランスの文學には暗くて、いろいろの事を話して貰ひました。僕は小林君がどうしてアルチウル・ランボオのやうな象徴派の人達を好くと同時に「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を書いたヴァレリイや「背徳者」を書いたアンドレ・ジッドを好いて、これらの兩方をフランス文學の關聯のある一つの時代相と見てゐるのか、よく分らなかつた。が、それが双方ともロマン派運動への反撥であつた事や、冷嚴な知性の尊重といふ新しい動きに於て双方が共通だつたとか、その一番奧にマラルメといふ高峯が聳えてゐることだとか、いろ/\の事を小林君から教はりました。その頃の小林君はいかにも孤獨らしく、自分で自分の貧乏をわらつてゐました。話といへばドストエフスキーとヴァレリイとボオドレエルとランボオ、それからセザール・フランクと志賀直哉のことが多かつたが、みな根本問題にふれてゐて、矢が的を射つてゐた。何年か經つて、小林君はさつきの話の冷嚴な知性の尊重といふやつを横光君の小説への批評に應用してゐたやうだつた。これが横光君のためには相當罪つくりになつたのではないか? ――ともかく小林君と河上徹太郎君は當時の日本の甘いジッド愛好者にジッドの本體を教へた點で功勞者だと思ひます。  ――と云ふとどんなことですか。  ――つまリアンドレ・ジッドの作品が日本に紹介されたのは「狹き門」と「田園交響樂」、それから少したつて「背徳者」の順でした。このうち「背徳者」はジッド[#「ジッド」は底本では「ジツド」]の一生涯の課題が萠芽してゐる作品だが、前の二つは甘い美しい物語で當時の日本の若い年代の文學愛好者はすつかりこれに涙をそゝいだのです。これに對して小林君や河上君は、はじめて「バリウド」や「法王廳の拔け穴」や「贋金づくり」をあげて、これらの作品のうちに流れてゐる無償の行爲の思想や、時間よりの解放の思想――旅立ちの思想やを紹介して、それがジッドの思想の根本をなしてをり、そしてそれがドストエフスキー、ことに「惡靈」を書いたドストエフスキーやニイチェからの影響だといふ事を知らせた事は大きい出來事でした。なぜならば、小林流に云へば、ニイチェに對して何らかの決定的な態度をとらないで濟ますことの出來る近代人がないやうに、ジッドのこれらの思想の前を知らぬ顏して素通りする近代思想家はない筈だからです。  ――ではジッドの作品の中、今いはれた三つのものや、その他の類似の作品が傑作だといふことになるのですか。  ――ところが僕はさう思つてゐません。僕の好きなのはやはり「未完の告白」の類です。かりに僕がジッド評傳を書くとしたなら、僕はやはりジッドを知るべき重要な要素として「法王廳の拔け穴」や「贋金づくり」を最先にあげるでせう。しかし、これらのジッドが眞正面からとり組んだ課題小説は、ことごとく藝術品として失敗してゐると云つてよいでせう。讀んで後味がわるいのです。僕の好きなのはジッドの、マラルメから影響せられた、そしてポール・ヴァレリイと互ひに影響し合つた、大理石のやうに冷い、しかし感情に滿ちふるへた、言葉の魔術師としての小説家ジッドの半面です。さういふ意味でジッドが偶々彼の根本課題を忘れた、もしくは根本課題をすくなくとも第二義的なものとして扱つて、樂しく、ちやうどモーツァルトがピアノ曲を樂しく書いたやうに樂しく書いた「未完の告白」などが一番好きです。あの最後の短い數頁、殊に、母と娘とが戰時病院の外で立話をしてゐると、秋の風が立つて落葉を舞ひ起すあたり、母が娘の告白を聞いて默つて淋しく笑ふあたり、おしまひに「これがあたしと母との最後の面會でした」と終へてあるあたり、讀んでゐて澄んだ幸福を感じ、これが藝術の恩惠だと思ひました。それにこの數頁は前にも云つたやうに、冷たさと熱情との織りまざつた、マラルメの影響の著しい、そしてよく省略された比類の少い文章であつて、僕にはヴァレリイの書いた「マラルメとの最後の會見」といふ美しい囘想文を連想させます。ヴァレリイのこの短い文章は、マラルメをさながら生けるが如くにあらはしてゐます。それからセーヌ河畔のマラルメの書齋の壁に動く河波の反射や、その夕暮二人で散歩したパリの郊外の深い晩夏の空や晩夏の花なぞを手に取るやうに寫してゐます。そして最後に、やはり短く「秋になつた時、彼はもう居なかつた」と結んでいます。これも比類のない美しい文章です。  ――ニイチェで想ひ出しましたが、何かの新聞にあなたがニイチェの超俗哲學を勉強されたと書いてありましたがあれは本當ですか。  ――それが滑稽なのです。超俗主義などといふ言葉は僕は大きらひです。僕の讀んだのは、ハインリッヒ・デュモリン神父の「ニイチェの宗教性とキリスト教」といふ論文なのです。この論文は勿論、信心深いイエズス會の司祭の立場から書かれたものです。しかし、この若い司祭は嘗て深く惱んだ事のある、そして優しい魂を持つてゐる人らしく、卷頭に「現代の多少とも精神界に知られた人人は、ニイチェに對する自分の態度を何らかの方法で解決しなければならない」といふ獨逸の或るニイチェ學者の文章を引用して、それを肯定してゐるのです。又、この司祭が引用してゐるニイチェ自身の詩が、いかに自覺的に或ひは無自覺的に神を求めて苦惱したか、そしてその苦惱の尋常一樣でなかつたかわれわれが讀んでゐても一種の冷氣を覺えるくらゐです。また、この論文では、ニイチェの作つた或る作曲を、それがニイチェの作品であるとは知らずにきいた友人達から、宗教樂と間違へられたといふエピソードをも紹介してゐます。結局、ニイチェは神を探求しようとして、ニイチェ[#「ニイチェ」は底本では「ニイチエ」]自身の内にある矛盾した別の半面の爲に傷つき倒れ、神の子キリストを全身を以て羨望し、憎惡し、罵つたのだと云ふやうな大體の趣旨でした。また、ニイチェの「ツァラトゥストラ」がすべての宗教開宗者と同じ文體で書かれてある點をも指摘して、キリストへの對抗意識のあらはれだと云つたドイツの學者の説も引用してありました。とにかく、此の論文は非常に興味深く讀みました。ニイチエは菜食主義者的な清純な面はあるが粘りがなく、「ツァラトゥストラ」の終末では傷々しく倒れ、ニイチェの影響をうけたジッドは原始的で肉感的なところがあり、ニイチェほど清純ではないがニイチェより粘りがあり、七十歳を越えた今も泥まみれになつて人生の生活人として苦悶して居り、その解決はまだつかずにゐる。そしてわれわれはその點物足りなくはあるが、しかしその勇氣と粘りとには深い興味を持つてゐる――と云つてよいでせう。たゞ、ジッドの天賦の詩情は時をり彼をして世にも美しい小作品を綴らせたと云つてよいでせう。  ――何か隨筆を澤山、讀まれたと云ふ事ですがどんなものですか。  ――澤山讀んだが、古い友達の瀧井孝作の隨筆からお話しませう。瀧井君は、本當の生活人で、或る意味で悟り切つた、腰の据つた人です。彼の隨筆は年々美しくなるばかりです。「鰯雲」といふ短文を讀んでごらんなさい。鰯雲のことをこれほど美しく書いた文章はないでせう。そのほか飛彈の高山のこと、八王子のこと、みんな素朴で強健です。志賀直哉さんがやはり隨筆のなかで「朋《とも》有り遠方より來る亦樂しからずやといふが、乘物の便利になつた今では、遠方が遠方でなくなつてゐる。それが瀧井の場合は、旅費を工夫して來てくれるので、遠方から友が來たと云ふ感じがぴつたり來る」といふ意味を、もつと立派な文章で書いてゐるが、これは瀧井君と友との美しいつながりの性質をよく現はしてゐると思ひます。それから、僕は旅で久保田万太郎氏の隨筆をよく讀みました。これは意外に思ふ人があると思ひますが、昔私の書いた幼稚な作品を一番おだてた人は、年長では久保田氏と水上瀧太郎氏、年少では横光君と川端康成君だつたのです。私の亡くなつた生母が下町の生れで、久保田氏の隨筆を讀むと母の墓のある邊りの古い町の空氣がしのばれて、理屈拔きに懷かしく思ひます。古い東京の手工業者や小店舖の盛衰、季節のうつり變り、祭とか火事とか花火とか、それらの出來事が、どちらかと云ふと、久保田氏がわり合ひに突き離して書いたものゝ方に餘韻があるのではないでせうか。もうひとつ、僕のよく讀む隨筆に、辰野隆博士のがあります。これは前の二人とちがつて氣まゝにゴチヤ/\と書いた文章ですが、辰野さんは、ひと言で云へば夏目漱石の「坊ちやん」に現はれて來るやうな正義感を持つた人で、その點が好意が持てます。江戸ツ子がフランス文學の奧義をきはめたといふ趣があり、その點では大學での教へ子の小林秀雄君も同樣です。もつとも、小林君は逆説の衣を着せてむつかしくタンカを切り、辰野さんは齒に衣を着せずに分りやすくタンカをきつてゐます。徳富蘇峰氏を論じた文章は少し蘇峰氏に氣の毒になつたほど痛烈だが、まさ※[#判読不可、30-16] く的にあたつてゐます。氏の本物と贋物を嗅ぎ分ける本能は鋭いと思ひます。辰野さんは或る短文のなかで、「俺は天子樣の惡口を云ふやうな奴は嫌ひだ」と書いてゐますが、これも終戰後早變りした多くの日本人に對する夏目漱石的タンカであり、天子樣といふやうな、われわれの時代にはもうそろそろ聞けなくなつた言葉のうちにも、辰野さんが明治の教養を身につけた人だと感じ、却てその率直さに好意がもてました。僕は辰野さんの文學に對する鋭い眼力も好きです。アナトール・フランスの事を、「卑しいところがある」とひと言できめつけてゐる事も同感できます。アナトール・フランスの本質の一部を、こんな風にズバリと言つてのけた人は少いでせう。  ――いま氣がつきましたが、今日はあなたの先輩の志賀さん、武者小路さん、長與さんのお話が一向に出ませんでしたね。  ――この三人は人間として達人の域にとゞいてゐますね。最近三宅雪嶺氏幸田露伴氏といふ達人がつぎつぎに亡くなられて、あとに殘つているのは鈴木大拙さんぐらゐでせう。武者小路さん志賀さん長與さんはこのあとにすぐ續くべき人です。代表的日本人といふのはどんな者だと外國人に聞かれて、すぐにその眼の前に出せる人です。昔若くて、負けん氣も強かつたこの三人が、今は蒼古といふ文字が當てはまつて來たのは感慨無量です。安倍能成氏などもその仲間に入れる人でせう。型のちがつたところでは、高倉テル君なぞも、そろそろ天衣無縫の域に入るかも知れません。まだ居るのでせうが今は思ひつきません。ともかくも、今の僕に、人生の大切な事は大切な事、つまらない事はつまらない事といふ根本の區別を持たせてくれたのは、最初に鈴木大掘さん、それからこの三人の先輩です。藝術の恩惠は人の一生を長く支配します。 (追記。この隨筆は、はじめ文藝春秋新社主催で石川達三氏と對談をやる筈であつたのが、石川氏の差支へのため、文藝春秋新社の人々と僕との對談に變り、それを速記したのを更に僕が整理してゐるうちに大分補足したものである。犬養記) 底本:「文藝春秋 昭和二十三年十月號」文藝春秋新社    1948(昭和23)年10月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※「獨逸」と「ドイツ」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。