「チャップリンの独裁者」を見る 高見順 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)台《たい》頭 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き](一九六〇年) ------------------------------------------------------- 「チャップリンの独裁者」を見た。強い感銘を与えられた。私はいまから二十年前にすでに一度、これを見ている。それだけに感銘は複雑である。感銘を新たにしたということと違う。前に感心しなかったのだ。どうしてか、そのわけをこれから書くのだが、それがこんどの感銘を一層強いものにした。  二十年前にこれを見たとき、これのすぐ前に有名な「風と共に去りぬ」を見た。その映画のなかの場面で今日、私の記憶に残っているものがあるかというと、ないのである。だが「独裁者」のいくつかの場面は、私の記憶に残っていた。ストリップのバルーン・ダンスを真似た、地球儀をかかえて踊るところとか、チャップリンのヒンケル(ヒットラー)がジャック・オーキーのナパロニ(ムッソリーニ)と理髪屋へ行って、お互いにイスを高くして相手を見くだそうとするところなど、二十年たっても忘れなかった。「独裁者」がいよいよ日本に来ると聞いたとき私はそれを二十年前に見た者としていささか自慢顔で、それらの場面を人に語った。強い印象をこの映画が私に与えたことはたしかである。だがそれは感銘とはちがうのだった。  一九四一年(昭和十六年)の一月に私は画家の三雲祥之助氏とインドネシアへ行った。するとジャワのスラバヤの映画館で「独裁者」の封切上映が行われると新聞に出ていた。日本では輸入禁止の映画である。私たちは予定していたバリ島行きの日をのばして、その映画を見た。当時のインドネシアはまだオランダ領東インドと呼ばれていたころで、オランダの統治下にあった。そして本国のオランダは前の年の五月に、ヒットラーのドイツ軍の侵入に対して降伏をしていた。本国はナチ・ドイツに占領されていたが、植民地の蘭領東インドではまだ主権を保っているという奇妙な状態だった。  そんな状態の中で、私はオランダ人の観客と一緒に「独裁者」を見たのだ。オランダ人にとっては、本国をじゅうりんした憎むべきヒットラーがスクリーンで痛烈にやられているのだから、拍手かっさいしていいはずなのに、周囲の空気は異様だった。何か浮かぬ顔といった形容が考えられる異様さだった。ヒットラーの直接的な被害者からすると、ゲラゲラ笑ってはいられないのだ。じかにその身に痛みを受けているオランダ人の、そのヒットラー憎悪と、スクリーンのヒットラー風刺との間に何かずれがあるのだ。ヒットラーから直接に痛めつけられてない、いわば傍観者のアメリカのしあわせというのを、そこに感じているかのようだった。  そうしたふん囲気の中で日本人の私はスクリーンのヒットラーをどう見たか。日本とナチ・ドイツとが防共協定を結んだのは一九三六年のことである。そのとき、銀座通りの商店街に大きなナチの旗が飾られ、冬の風に、はたはたと鳴っていたのを私は覚えている。にがにがしい思いで、それを見たのを覚えている。そのころ「人民文庫」をやっていた私は、ナチを憎んでいた。だが、単純に憎むだけで、事はかたづかないと思われる事態が次々におこってきた。そうなると、そもそもナチを台《たい》頭させたものは何か、その権力の持続と拡大を許しているものは何か、それへ思いがゆかざるをえない。それがこの映画には描かれてない。日本人の私はオランダ人のような直接的な被害者ではないのだが、いや日本はナチ・ドイツの同盟国なのだから、加害者のがわにあるのだが、ナチの恐ろしさは、ヒットラー個人を笑いのめしてすまされることではないという気持ちでは、同じだった。  ヒットラーがムッソリーニをドイツに招いたのは一九三七年のことである。映画にもこれが出てくるが、ヒットラーはドイツの軍事力を誇示するためにメクレンブルクの陸軍大演習をムッソリーニに見せた。エッセンのクルップ工場も見せた。映画と違ってムッソリーニはすっかりヒットラーの術策にかかって、ナチの強力に目がくらんでしまった。アラン・バロックの「アドルフ・ヒットラー」の中の言葉をかりれば「ムッソリーニの致命的な第一歩」がここにあったのだ。このような事実が映画では無視されている。ヒットラーを何もかばうということとは違うのだが、映画における卑小化は、ちょっとどうかと思うなという気がした。チョビひげをはやした、ちょこまかしたヒットラーは、現象の印象としてもいかにも卑小な人物だが、しかしそんな人物に独裁の暴力をふるわせているものは何か、その大事なところがはぐらかしてある。それじゃ助からないと、いやな気がした。  それから二十年たった。ふたたびこの映画を見て、私はこの映画が私たちに訴えようとしている一見単純で重要なものを、昔の私は、ほかのことにまぎれて、混乱した目でしか見てなかったことに気づかせられた。この映画が訴えようとしているのはデモクラシーの援護であり、ヒューマニズムの強調なのだ。ヒットラーがどうのこうの、事実がどうのこうのの問題ではないのだ。事実をうんぬんするならば、この映画に出てくるユダヤ人虐待を見て、昔、私は誇張があると思ったものだ。だが戦後、ユダヤ人の大量虐殺の事実が暴露されてみると、この映画の虐待など物のかずではない。それこそ事実とは違うのである。  自由というものに対して人々が懐疑と絶望を感じはじめたあの時代に、チャップリンはこの映画で希望と勇気を人々に与えようとしたのだ。それが今日、強い感銘として心に迫ってくる。自由への希望をチャップリンは、笑いとペーソスを通して、人々の心に与えた。勇気をもてと人々に訴えた。そうして彼の訴えたとおり、自由は暴力に打ちかったのである。当時は恐ろしく強力なものと感じられたナチが、たあいなくついえた。そのたあいなさをこの映画はついていたのだ。それを私は映画のたあいなさとみたのだ。  浅沼委員長の刺殺事件などから、暴力の横行にふたたびおびえねばならぬような暗い気持ちに陥っているとき、この映画は強い感銘を私たちに与える。暴力はどうして発生し台《たい》頭するのか、その原因を見きわめることも必要である。単に暴力を気分的に憎むだけでは、暴力の横行を防ぐことはできない。だが、そのとき、暴力否定の断固たる確信が何よりも大切なのだ。この映画はそれを教える。 [#地付き](一九六〇年) 底本:「文豪文士が愛した映画たち」ちくま文庫、筑摩書房    2018(平成30)年1月10日第一刷 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。