大王猫の病気 梅崎春生著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)茸《きのこ》庭 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一発|覿面《てきめん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)真※[#小書き平仮名ん、162-8]中 -------------------------------------------------------  つい半年ほど前から、猫森に住む猫の大王の身体の調子が、どうも面白くありませんでした。  どこと言ってとり立てて悪いところはないのですが、なんとなく疲れやすく、食欲も減退し、脚をふんばって見ても昔みたいな元気がどうしても出て来ないのです。これはつまり公平なところ、相当にながく生きてきたので、そろそろ老衰期にかかってきたのでしょう。自分では若いつもりでいても、身体の方で言うことを聞かないというわけです。  猫森の真※[#小書き平仮名ん、162-8]中にある茸《きのこ》庭のあたりを、その朝も猫大王はいらいらと尻尾をふりながら、よたよたと行ったり来たりしていました。眼をらんらんと光らせてと言いたいところですが、もう今は瞳もどんより濁って総体に暗鬱な気配でした。  尻尾をふっているのは、大王が怒っている時の癖なのですが、もうその尻尾もあちこち毛がすり切れて、なめし色の地肌がところどころのぞいているのです。これは大王が若い頃から怒りっぽくて、あんまり尻尾をふり廻したせいでもあるのでした。  そこへ椎の木小路の方から、朝の光をかきわけてオベッカ猫と笑い猫とぼやき猫たちが、何か世間話をしながらチョコチョコやって参りました。そして大王の顔を見ると、いっせいに立ち止まり、口をそろえて調子よくあいさつをしました。 「お早ようございます。大王様」  大王はじろりと三匹を見て、頬をもぐもぐ動かしたのですが、それは別段声にはならないようでした。なんだか口をきくのも辛そうな、面白くなさそうな表情なのです。そこで三匹は顔を見合わせましたが、オベッカ猫はすばやくピョコンと大王の前に飛び出して言いました。 「大王様には今朝もごきげんうるわしく――」  オベッカ猫がそこまで言いかけた時、大王猫はむっとした顔でそれをさえきりました。 「ヤブ猫を呼んできて呉れい。それも大至急にだぞ」  ヤブ猫というのは猫森の三丁目一番地に開業している医者猫のことなのです。そこで再び三匹は顔を見合わせ、お互いに眼をパチパチさせ、今度は三匹いっしょに口を開きました。 「大王様。どこかお身体が――」 「調子わるい!」  と大王猫は言いました。ゼンマイのゆるんだような、筋がもつれたような、それはそれはへんな響きの声でした。 「今朝の朝飯のとき、うっかりと舌をかんだのだ」  そして大王猫は大口をあけて、べろりと舌を出して見せました。三匹が首を伸ばしてのぞいて見ますと、タイシャ色の舌苔におおわれた細長い舌の尖端の部分に、歯型が三つ四つついていて、そこらに血がうっすらと滲み出ていました。ちょっとその形が踏みつぶされた芋虫みたいに見えたものですから、笑い猫は思わずクスリと笑い声を立ててしまったのです。すると大王猫はぺろりと舌を引っこめて、こわい眼付きで笑い猫をにらみつけました。そしていきなり怒鳴りつけようとしたらしいのですが、その前にオベッカ猫が早口でわめきました。 「こら。笑い猫にぼやき猫。大急ぎでヤブ猫のところに行ってこい。歩幅は四尺八寸、特別緊急速度だぞ!」  大王猫は先にわめかれてしまったものですから、とたんに気勢をそがれ、ぐにゃぐにゃとうずくまりながら、力なく言いました。 「早く行って呉れぇ」 「早く行って呉れぇ」  とオベッカ猫が猫なで声で、そう口真似をしました。するとぼやき猫が不服そうに口をとがらせました。 「そりゃ僕は行ってもいいよ。行ってもいいが、一体君はどうするんだね」 「僕か。僕はここに居残って」とオベッカ猫は前脚でくるりと顔を拭きました。「大王様の看護にあたるんだよ」 「ずるいよ。いくらなんでもそりゃずるいよ。他人ばかりに働かせて、自分は楽しようなんて」 「そんなんじゃないよ。そんなんであるものか。じゃ君が看護にあたれ。看護課の第九章を知ってるか」  するとぼやき猫はすっかり黙りこんでしまいました。第九章どころか第一章も知らなかったからです。オベッカはすっかり得意になり、胸をそらして大声で命令しました。 「行って来い。出発」  大王猫はしごく憂鬱そうな表情で、このやりとりをぼんやり眺めていましたが、つりこまれたように自分も口をもごもご動かしました。 「出―発」  笑い猫とぼやき猫は大王の前に整列し、ピタンと挙手の礼をして右を向き、それっ、というようなかけ声と同時に、すばらしい速さで椎の木小路の方にかけ出して行きました。木の間を縫う朝の光が、そのためにゆらゆらゆらっと揺れたほどです。  大王猫はぐふんとせきをして、身体を平たく伸ばしながら言いました。 「こら。オベッカ猫。しばらくわしの腰を揉んで呉れえ」 「かしこまりました。大王様」  オベッカ猫が腰を揉んでいる間、笑い猫とぼやき猫は猛烈なスピードで、 「大王様のご病気だよう」 「大王様のご病気だよう」  呼吸のあい間にそうわめきながら、三丁目の方角に疾走していました。なにしろ歩幅が四尺八寸というのですから、人間にだってむつかしいのに、まして猫のことですから、後脚のキックに相当の力をこめねばならないのです。そこで一等地のヤブ猫の家の前まで来た時には、二匹ともすっかりへとへととなり、呼吸もふいごのようにはげしく、しばらくは声もろくに出ない有様でした。二匹とも一挙に目方が三百匁ぐらいは減ってしまったらしいのです。 「何か用か」  途方もなく大きな一本の孟宗竹の、下から三節目のくりぬき窓から、鼻眼鏡をかけたヤブ猫が首を出して、威厳ありげに声をかけました。  笑い猫とぼやき猫は並んで立ち、両の前脚を上に上げて横に廻わす深呼吸運動を、前後五回ばかり繰り返しました。そしてこもごも口をひらきました。 「大王様がご病気です」 「大へん御重体です」 「うっかりして舌を噛まれたのです」 「そこでおむかえに参りました」 「どうぞ早く来て下さい」 「お願いでございます」  ヤブ猫は二匹の猫の顔を鼻眼鏡ごしにかわるがわる眺めていましたが、やがてフンと言った表情で首をひっこめ、そして根元の扉のところから、ちょこちょこと出て参りました。もう小脇には竹の皮でつくった大きな診察鞄をかかえこんでいたのです。それを見るとぼやき猫は急に不安になってきて、少しおろおろ声になって訊ねました。 「大王様はどうでしょうか。おなおりになりますでしょうか」 「まさかおなくなりになるようなことはありませんでしょうね」  と笑い猫が負けずに口をそえました。 「それは判らん」とヤブ猫は鼻眼鏡をずり上げて横柄に答えました。「諺《ことわざ》にも Xerxes did die, so must we. というのがあるな」  ヤブ猫がとたんに学のあることを示したものですから、あまり学のない笑い猫とぼやき猫は、まったくシュンとなって顔を見合わせました。ヤブ猫はすました顔で、 「じゃあ出かけるかな」  と竹皮鞄をつき出しました。これは二匹の猫に持って行けということなのです。二匹はあわててそれを受け取り、そして口をそろえて言いました。 「そいじゃ歩幅は三尺六寸ということにお願いいたします」  それはそうでしょう。重い鞄をかかえてそれで四尺八寸とは、これはもう猫業《ねこわざ》ではありません。  さて大王猫の方では、オベッカ猫に腰を揉ませ、四本の脚を揉ませ、次には裏返しになって背骨を指圧させ、つづいて、首筋をぐりぐりやらせていましたが、まだヤブ猫はやって参りません。オベッカ猫は揉みに揉ませられて、すこしはじりじりして来たらしく、もうやけくそな勢いで大王猫の首筋をつかんだりたたいたりしていました。こんなことなら使いに出た方がまだましだった、そう思っているようなしかめ面《つら》でした。ところが大王はそんな乱暴な揉み方が案外気に入っているらしく、眼を細めて咽喉をぐるぐる鳴らしていたのです。これはきっと大王の血圧が高く、それで首筋が石のように凝っているせいなのでしょう。  丁度そのとき椎の木小路の方から、エッサエッサと昼前の空気を押し分けるようにして、ヤブ猫一行がひとつながりになって走って来ました。ヤブ猫は鼻眼鏡が気になるし、笑い猫とぼやき猫は診察鞄を両方からかかえているし、と言うわけで、そのスピードもそれほどのものではありませんでした。オベッカ猫はそれを横目でにらみながら呟きました。 「あれほど四尺八寸だと言ったのに、ヘッ、あれじゃあ三尺六寸どころか、全然二尺四寸どまりじゃないか」 「なにをぐすぐず言っとる」  と大王猫が聞きとがめて、頭をうしろに廻しました。とたんに首の筋がよじれて、ぎくんと鳴ったらしく、大王はイテテテテと顔をしかめました。 「いえ。ヤブ猫一行が参ったらしゅうございます」 「どれどれ」  大王は椎の木小路に眼を向けましたが、視力が弱っていてとらえかねている中に、もうヤブ猫一行は茸庭に勢いよくかけ入ってきて、ぱっと一列に整列をしました。笑い猫が大きな声で復命しました。 「笑い猫、只今ヤブ猫をたずさえて戻って参りました!」 「ぼやき猫、右に同じ!」  ぼやき猫も負けじとばかり大声をはり上げました。  ヤブ猫はすっかり荷物あつかいされてむっとしたらしく、二匹をにらんで何か言おうとしましたが、その前に大王猫が前脚をあげてさしまねいたものですから、二匹から診察鞄をひったくるようにして、大王の前に近づきました。 「大王様。如何なされました」  いくら横柄なヤブ猫でも、大王猫の前ではそうツンケンと威張るわけには行きません。すこし腰をかがめてまったく神妙な態度でした。  大王猫は眼をしばしばさせて、やや哀しそうにヤブ猫の顔を見上げました。 「身体のあちこちが、どういうわけか大層具合がわるいのだ」 「舌をお噛みなされたそうで」 「うん」 「ちょいと拝見」  大王猫は笑い猫を横目でじろりとにらみながら、忌々《いまいま》しげにべろりと舌を出しました。ヤブ猫は診察鞄のなかから竹のヘラを取り出して、それで大王の舌をおさえたり、かるくしごいて見たりしました。そして仔細あり気に訊ねました。 「今朝は何をお食べになりました?」 「コンニャクを食べたのだ」と大王猫は舌をすばやく引っこめてちょっと恥かしそうに鬚をびくびく動かしました。「コンニャクを食べていると、口の中のものがコンニャクか舌か判らなくなっての、それでうっかり間違えて噛んでしまったのだよ」  笑い猫が急に横を向き、あわてて両の前脚で口をしっかと押えて、ブブッと言ったような圧縮音を立てたのです。ヤブ猫はえへんとせきばらいをして、教えさとすように言いました。 「それはもう相当に感覚が鈍麻しておりますな。もう以後コンニャクのようなまぎらわしいものは、一切お摂りになりませんように」 「うん。わしも別に食べたくはなかったが、今朝はなんだかとても身体がだるくて、全身に砂がたまっているような気がしたもんだからの」と大王猫は情なさそうに合点合点をしました。「で、どこぞに故障でもあるのかな」 「三半規管ならびに迷走神経の障害」  とヤブ猫は名医らしく言下にてきぱきと答えました。 「それに舌下腺も少々老衰現象を呈していますな」  大王猫はぷいと横を向いて、グウと言うような惨めな啼き声をたてました。 「グウ。それに対する療法は?」 「まあマタタビなどがよろしゅうございましょう」  そう言いながらヤブ猫は、診察鞄から聴診器をおもむろに取り出しました。鞄は竹皮製ですから、あけたての度にばさばさと音を立てるのでした。 「一応全部ご診察いたしましょう」  それから、ヤブ猫は聴診器のゴムを耳にはめ、大王猫の身体をあおむけにしたり、裏返しにしたり丸く曲げたり平たく伸ばしたり、そして要所要所に聴診器をあて、またもっともらしい手付きで打診などしたりしました。オベッカ猫と笑い猫とぼやき猫は、結果如何にと眼を皿のようにして、大王の躯とヤブ猫の顔色をかたみにうかがっています。それらはまったく真剣そのものの表情でした。  ヤブ猫はやがて手早く診察を終り、聴診器をくるくる丸めて鞄のなかにしまい、腕組みをして首をかたむけ、フウウと大きな溜息をつきました。大王猫はびくっと身体をふるわせ、おそるおそる片眼をあけてヤブ猫を見上げました。 「まだ他にどこぞ故障があったかの」  ヤブ猫は腕を組んだまま視線を宙に浮かせて、じっと沈黙しています。たまりかねたようにオベッカ猫が横あいから口をさし入れました。 「おい、ヤブ猫君。何とか言ったらどうだね。え。大王様はすっかり御丈夫だろう。ええ。まったく御健康だと言い給え」  ヤブ猫はオベッカ猫にじろりとつめたい一瞥をくれて、しずかに首を振りました。その横柄な態度がぐっとオベッカ猫の癇にさわったらしいのです。 「なに。大王様が御壮健でないことがあるものか。御壮健そのものだぞ。僕がよく知っている。僕の方がよっぽど虚弱なくらいだぞ。だから僕は日夜大王様の身辺に侍して大王様のはつらつたる御健康のおこぼれを……」 「なんだと。おいぼれだと!」  大王様が憤然と聞きとがめて、頭をむっくりもたげました。 「いえ、いえ。おいぼれじゃなく、おこぼれでございまする」 「ははあ。耳にも故障がございますな」  ヤブ猫は鞄の中から細い金属棒をせかせかとつまみ出し、大王猫の頭をいきなりぐっと押さえ、その尖端を右耳のなかにそっと差し込みました。途中でところどころ引っかかるようでしたが、とにかくその金属棒はしだいしだいに耳穴にすいこまれ、やがてその尖端が左の耳の穴からチカチカと出て参りました。その間大王猫はすっかり観念したように、身動きさえしませんでした。 「ははあ。思った通りだ」  金属棒を耳からずるずると引き抜きながらヤブ猫がつぶやきました。 「鼓膜も穴だらけだし、内耳も腐蝕しておるし、これじゃ右から左へぜんぜん素通しだ」 「どうしたらよかろう」  と大王猫はうめくように言いました。 「マタタビ軟膏をお詰めになるんですな」とヤフ猫はすました顔で言いました。「それに肝臓も相当に傷んでいて、すでにペースト状を呈しておりますな。早急に手当てをせねばなりません」 「どんな手当てがよろしかろうか」 「マタタビオニンがよろしいでしょう。それから坐骨神経の障害。ほら、ここを押すとしたたかお痛みになりますでしょう」 「うん。あ、いてててて!」 「マタタビの葉をすりつぶしてお貼りになるんですね。朝夕二回ぐらいがよろしゅうございましょう」 「それから近頃どうかすると――」大王は胸を押えました。「すぐに心臓がドキドキするのじゃが」 「心悸亢進でございましょうな。すべてこれらは老衰にともなう典型的な症状でございまして――」。 「なに。老衰だと」  と大王猫はぎろりと眼を剥きました。 「じっさいお前は言いにくいことを、全くはっきりと言う猫だな。それじゃよし。そんなら老衰という現象には――」 「マタタビがよろしゅうございましょう」  これはヤブ猫だけでなく、他の三匹の猫も一緒に合唱するように言ったものですから、大王猫はかっとなって二尺ばかり飛び上がって、総身の毛をぎしぎしと逆立てました。 「何を聞いても、マタタビ、マタタビ、マタタビだ。このヘボ医者奴。薬はそれしきゃ知らないのか。おい、ぼやき猫。ひとっ走りして文化猫を大至急呼んでこい!」 「文化猫はここしばらく、イタチ森へ講演旅行に出かけております」 「なんだと。講演旅行だと。あのロクデナシ奴。おい、ヤブ猫。お前は近頃全然勉強が足りないぞ。マタタビとはなんだ」大王猫は怒りのために尻尾をやけにうち振りふり廻し、呼吸をぜいぜいはずませました。「マタタビなんか古い。全然古い。十九世紀的遺物だ。現今はもはや二十世紀だぞ!」  ヤブ猫はかくのごとく真正面から痛烈に面罵されて、とたんにすっかり慄え上がり、おろおろと前脚を鞄につっこみ、がしゃがしゃとかき廻した揚句、小さな鼠革表紙の手帳をとり出しました。これはまあ医者のエンマ帳みたいなものでしょうな。ヤブ猫は大急ぎで前脚に唾をつけ、ぺらぺらぺらと頁をめくりました。 「ええと。ええ。大王様。お怒りにならないで。不勉強なわけでは決してごさいません。ええ。それそれ、ここに、カビ、抗生物質と書いてございます。これなんかは老衰に――」 「なに。このわしにカビを食わせる気かっ!」 「いえいえ」ヤブ猫はあわてて次の頁をめくり、鼻眼鏡の位置を正しました。「ええ、次なるは葉緑素。これは最新学説でございますな。これを摂ることによって体内の細胞はまったく更新し」 「葉緑素とは何だ」 「はい。木の葉などにふくまれている天然自然の貴重な原素でございます」  三匹の猫たちは横柄なヤブ猫がちじみ上がっているので、お互いに目まぜをしながら痛快がっていました。大王猫は逆立てた背毛をすこし平らにしました。 「たとえばそれはどんな植物に豊富に含まれているのか」 「はあ」とヤブ猫は眼をぱちぱちさせました。「あのう、たとえば猫ジャラシとか――」 「ああ、あれはいかん」大王猫は前脚をひらひらとふりました。「あれを見ると、わしはイライラしてくるのじゃ」 「では、ツンツン椿の葉っぱなどは如何でございましょう。毎食前に五枚ずつ」  大王猫はちょっと眼をつぶって、顎をがくがく動かし、椿の味を想像している風でしたが、すぐにかっと眼を見開いてはき出すように言いました。 「あんまり感心しないな。お前の勉強はそれだけか」 「いえいえ」ヤブ猫はやけくそな勢いで次の頁をめくりました。「ええ。ええと。脳下垂体。これ、これ、これに限ります。これなら一発|覿面《てきめん》でございます」 「覿面だと?」 「はあ。これは牛の脳下垂体でございまして、これを採取して内服するなり移植するなりいたしますと、たちまち十五年ばかり若返るのでございます」  大王猫は再びちょっと眼を閉じ、肩をぐっとそびやかしました。これはちょっと牛の気分を出して見たのです。すぐに眼をあけ、いくらか満足げににこにこしながら言いました。 「それはよかろう。面白かろう。それじゃ早速それを一発やって貰おう」 「今でございますか」ヤブ猫は手帳を急いでポケットにしまい、ハンカチでせまい額をごしごしと拭いました。「残念ながら只今のところ手持ちがございません。今しばらくの御猶予のほどを」 「なに。今手持ちがない?」大王猫の声はやや荒々しく、背毛もふたたび斜めに持ち上がりました。 「どこに行けば直ちに手に入るのかっ!」 「牛ヶ原に参りますれば、そこらに黒牛が若干おりますので、あるいはそれに頼めば分けて呉れるかも知れません」 「よし。では早速家来どもを派遣する!」  大王猫は顔をじろりと三匹猫の方にむけました。三匹猫は思い合わせたように、一斉に一歩二歩あとじさりをしました。これは牛は黒くて大きいし力はあるし、それとの交渉はあまり好もしい役目ではなかったからです。 「ではお前たち、直ちに牛ヶ原に向かって出発せよ」 「もうし、大王様」  と笑い猫が未練げに足踏みをしながら言いました。 「私どもは未だにはっきりと任務の内容を与えられておりません」 「よし。ヤブ猫。任務の内容を詳細に説明せよ」  ヤブ猫はまたハンカチでしきりに顔をふきながら、三匹の方に向き直りました。冷汗がひっきりなしに滲み出てくる風なのです。 「ええと、それは簡単である」ヤブ猫の声はおのずから苦しげな紋切型の口調になりました。「牛ヶ原におもむいて、先ず黒牛をさがす。さがし当てたら、貴下の脳下垂体を少々分けて呉れと、相手を怒らせないように丁寧に頼みこむ。むこうが承諾したら、脳下垂体をすばやく採取して大至急戻ってくる」 「どういう方法で採取するのですか」とぼやき猫がおそろしそうに聞きました。 「ええ。それも簡単である」とヤブ猫は忙がしくハンカチで顔を逆撫でしました。もうハンカチは吸いとった汗でびしょびしょになってるようでした。「黒牛に先ず上をむいて貰うように頼む。そ、それから黒牛の鼻の穴に前脚をそろそろとつっこむ。右の穴でも左の穴でもどちらでもよろしいが、ただしくしゃみをされるおそれがあるから、事前に前脚はよく洗っておくこと。まず前脚の付け根までつっこめば、何かぶよぶよしたものをきっと探り当てるから、そいつに爪をかけ、力いっぱい引っぱり出すこと。あとはそれをかかえて後も見ずに一目散にかけ戻って来ればよろしいのだ」 「うしろをふり返ってはいけないんですか」 「ふり返らない方がよろしかろう」とヤブ猫はぶるんと顔をふって冷汗をはじき飛ばしました。「万一ふり返りでもしたらどういうことになるか、それはもう保証の限りでない!」  その一言を聞いて三匹猫は一斉にぶるぶるっと身慄いしました。聞くだにおそろしそうな話だったからです。ことにぼやき猫なんかはもう目がくらくらしてほとんどぶっ倒れそうな気分でしたが、辛うじて脚をふんばり、最後の質問をはなちました。 「もし黒牛さんがイヤだと申しましたら――」 「他の黒牛にあたるんだ」 「そいじゃ黒牛さんが、脳下垂体は分けてやる代りに――」とぼやき猫はここで大きく息を吸いこみました。「その代りに猫森の一部分を割譲せよとか、猫的資源を供出せよとか、そんなことを言い出したら如何はからいましょうか」 「そりゃ困る!」  と大王猫が渋面をつくって、あわててはき出すように言いました。 「いや、大丈夫でしょう。黒牛なんてえものは至極お人好しの牛種ですから」  とヤブ猫は診察鞄を小脇にかかえ、もう半分逃げ腰になりながら猫撫で声を出しました。 「そんな悪らつなことを、まさかねえ、アメリカじゃあるまいし」 「よろしい。出発!」と大王猫がいらだたしげに前脚をふりました。「大至急、牛ヶ原にむけ前進開始!」 「笑い猫にぼやき猫!」と大王猫の号令に便乗してオベッカ猫が声をはり上げました。「ただちに牛ヶ原にむかって出発前進。糧食一食分携行。遠距離であるからして、歩幅は三尺六寸でよろしい。ただし帰りは四尺八寸に伸ばさざれば、生命の保証なしと知るべし。さらば征く、勇敢なる若猫よ!」 「バカ。このロクデナシ!」  大王猫は激怒のあまり逆上して、二三度ぴょんぴょんと飛び上がり、オベッカ猫をにらみつけました。 「ずるやすみもいい加減にしろ。先刻もこのわしをおいぼれ呼ばわりまでしゃがって!」 「はい。何でございましょうか」 「何もくそもあるものか」と大王猫は王者のたしなみも忘れて、口汚ないののしり方をしました。 「行くんだよ。お前が先頭に立って出発するんだっ!」 「はあ、私がでございますか」とオベッカ猫はきょとんとした顔をしました。 「そうだよ。それがあたり前だ」 「でも私はここに居残って、大王様の御看護を――」 「看護にはヤブ猫が残る!」と大王猫は怒鳴りつけました。「弁当をこしらえてさっさと出て失せろ!」  鞄をかかえて逃げ腰になっていたヤブ猫は、大王猫に肩をつかまれて、当てが外れたようにへたへたと地面に坐りこみました。  三匹猫はうらめしそうにそのヤブ猫をにらみつけ、それからそれぞれ手分けをして、大王朝飯の残りのコンニャクやそこらに生えている茸を、のろのろと弁当袋につめこみ、めいめいそれを頸から脇にかけました。なかんずくオベッカ猫の動作が一番のろかったのは、この牛ヶ原行きにもっとも気が進まなかったせいでしょう。しかしとうとう用意がととのってしまったものですから、三匹はオベッカ猫を最右翼にしてしぶしぶ一列横隊となり、そしてオベッカ猫がまず哀しげに声をはり上げました。 「オベッカ猫、只今より牛ヶ原に向かい、黒牛の頭蓋より脳下垂体を奪取して参ります!」  そしてオベッカ猫はぎょろりとヤブ猫をにらみました。 「笑い猫、右に同じ!」 「ぼやき猫、右に同じ!」  そして二匹は一斉にぎらりとヤブ猫をにらみ、それから視線を大王に戻してこんどは大王の顔をきっとにらみつけました。すると大王は何をかんちがいしたのか、まったく満足げににこにこしながら、荘重な口調で訓示を垂れました。 「よろしい。只今諸子の眼光をうかがうに俄かにけいけいとして、見るからに闘志にあふれておる。わしの満足とするところである。その闘志をもって牛ヶ原に直行し、巧言令色もって至妙の交渉をとげ、首尾よく脳下垂体を獲得して帰投せよ。出発!」 「出発。右向けえ、右!」  とオベッカ猫があまり力のこもらない号令をかけました。 「行く先は牛ヶ原。歩幅は二尺六寸。出――発!」 「三尺六寸だっ!」と大王猫が怒鳴りました。 「もとい。歩幅三尺六寸。出発」  彼方のゆらゆら木洩れ日をかきわけて、三匹編成の特別一小隊は、エッサエッサと懸け声をかけて椎の木小路の方にだんだんと遠ざかって行きました。あとはしんかんとした茸庭の正午の空気です。一隊が見えなくなると、大王猫は急にぐったりしたように、ぐにゃぐにゃと地面にへたりこみました。「すこし疲労したようだ」と大王猫はものうげに小さな欠伸をしました。「脳下垂体か。それまでの間に合わせに、マタタビ丸を三粒ほど呉れえ。しかしあいつ等、うまく持って帰ってくるかなあ」 「あいつらが失敗すれば、また別の家来を派遣なさいませ」と鞄からマタタビ丸をつまみ出しながら、ヤブ猫がそそのかすような声で言いました。「まだ御家来衆は次々控えておりまするでございましょう」 「そうだ。そうだ。あいつらがやりそこなったら、今度はイバリ猫にズル猫にケチンボ猫を派遣しようかな」そして大王猫はマタタビ丸をぺろりとのみこんで、ふううと大きな溜息をついて身体を地面にひらたく伸ばしました。 「ヤフ猫。後脚の附け根あたりをすこし揉んで呉れえ。近頃わしは中脚の方も全然ダメになったようだが、脳下垂体を服めば回復するか。するだろうな。そうでなければわざわざ服む価値はないぞ」  一方オベッカ猫を長とする特別一小隊は、やがて猫森を出はずれ、ハンの木、ヤチダモ、アカダモ並木の大街道をかけ抜け、一面茫々の大湿地地帯を通過し、やっとタンポポ丘にたどりついた時は、もはや陽ざしは午後二時近くになっていました。さすがの若猫たちもこの長距離疾走にはすっかり疲労して、膝の関節もがくがくとなり、歩幅も二尺六寸ぐらいに縮小してしまっていたくらいです。そのタンポポ丘の頂上に立った時、突然笑い猫が彼方を指差してすっとんきょうな声を立てました。 「黒牛が!」  タンポポ丘のふもとから見渡す限り青々の草原がひろがり、五百|米《メートル》ほどの彼方に黒いものがひとつ、じっとうずくまっているのが見えました。ここが名だたる牛ヶ原なのです。そいつは見るからに傲然として、途方もなく巨大な黒牛らしいのでした。ぼやき猫もその叫びにつられたように、哀しげな声を出しました。 「ああ。あそこに黒牛が」  オベッカ猫はその瞬間まっさおになり、しばらくむっと黙っていましたが、やがてへたへたとタンポポを踏みくだいて腰をおろし、情なさそうに口をひらきました。 「さあ。とにかく、それよりも、弁当ということにしようや。そして弁当が済んだら、君たち二人とも小川でよく前脚を洗うんだよ。黒牛がくしゃみをすると僕だって大へん困るからなあ」  笑い猫もぼやき猫も同時に顔をぐしゃっとしかめ、よろめくように丘の斜面に尻もちをつきました。そこで三匹はそのままの姿勢で弁当袋をひらき、めいめいぼそぼそとコンニャクだの茸だのを口に入れては噛みました。おそらくそれらは全然食べ物の味がしなかったに違いありません。三匹ともろくに唾液が分泌してこないようで、時々ちらちらと黒牛の方に横目を使いながら、ごくんごくんとむりやりに燕下している様子なのでした。僕はこういう彼等につよく同情するのです。 底本:「猫は神さまの贈り物〈小説編〉」実業之日本社文庫、実業之日本社    2020(令和2年)年10月15日 初版第1刷発行 底本の親本:「随筆馬のあくび」現代社 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。