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「クリトン」注釈

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「クリトン」注釈

[#注一]当時ソクラテスは七十歳だった。
[#注二]デロス島は、アテネから南東七十キロにあるスニオン岬から、さらに南東百二十キロ沖にある、エーゲ海の小島。テセウスが勝利を得て無事にクレタ島から帰ってきたことに感謝の意を表するため、アテネ人は毎年デロス島へ船を送って、アポロンに供物《くぶつ》を献じていた。この祭礼の期間は、船の艫《とも》に月桂冠の飾り付けが終わってから、船が帰港するまでの間とされ、その期間中は死刑執行を法律により禁止していた。たまたまソクラテスの裁判の前日に飾り付けが終わったので、死刑執行が延期されていた。このとき船は風などの影響で三十日ほど往復にかけたようである。
[#注三]ホメロスの「イリアス」に、英雄アキレウスが、自分はもう戦いをやめて自分の故郷フティアへ帰るつもりだと言いだすところがあり、そこで彼は「三日目に私は幸おおきフティアに着くであろう。(第九巻三百六十三行)」と言っている。ソクラテスの夢に現れた女神はこれと同じ言葉をソクラテスに告げたわけで、それをソクラテスは、自分の「魂」が三日目にその「故郷」であるあの世に行き着くことになることを女神が予言したものと解釈したのである。
[#注四]アテネには検察制度がなく、公法上の犯罪を市民が誰でも告発することができた。それを悪用し、告発をちらつかせて金持ちを脅し、示談の金を強請る者も多かったようだ。このすぐ後でクリトンは、この連中を丸め込むのにたいした金はかからないと言っている。
[#注五]ギリシャ北部地方。東はエーゲ海に面する。
[#注六]ソクラテスには三人の息子がいた。長男はこの頃すでに青年であり、下の二人はまだ小さな子供だった。[#注七]アテネでは子供の教育は親の義務ではなかったが、子供の親に対する扶養の義務は、法律的には、親が子供に普通教育を与えたか否かにかかっていた。音楽と体操はこの普通教育の全教程を意味する。音楽(ムーシケー)は、広義において読み書き、計算の他に、詩句の暗唱、音楽、図画の初歩を含んでいた。
[#注八]アテネでは子供が満十八歳に達したとき、一人前の国民になる資格検査がおこなわれ、それにパスすれば区民簿に登録された。
[#注九]ギリシャ本土とペロポンネソス半島をつなぐ地峡。そこには海神ポセイドンの神社があって、その祝祭のために盛大な競技がおこなわれた。
[#注十]スパルタのこと。
[#注十一]テバイはアテネの北西五十五キロにある、ボイオティア地方の都市国家。メガラはアテネの西三十キロにある都市国家。
[#注十二]ソクラテスに対する告発文は、「ソクラテスは若者を堕落させるがゆえに、また国家の崇める神々を崇めずに別の新奇な神格を崇めるがゆえに不正を犯している。」というものであった。
[#注十三]英文にはないが、バーネット全集などを底本として訳した既訳によると、コリュパスらの騒ぎに酔っている人たちのことを指すものと思われる。「コリュパスら」とは、豊饒《ほうじょう》と野生の女神キュベレーの祭りで踊り狂う信者たちのこと。彼らは耳を聾《ろう》する笛と太鼓の音に駆り立てられて踊り狂い、しまいには失神して死んだように眠り込んだという。