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罪体《コーパス・デリクタイ》

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IV

殺人の嫌疑を受けた無名の被疑者が、裁判の遅延に異議を申し立てる必要はほとんどなかった。ヴィクター・アンコーナが逮捕された朝、各紙こぞって長々と感情を詰め込んだ記事を掲載し、アンコーナを鬼畜とののしり、有罪と決めつけた。ちょうど大陪審が開かれている最中だったため、時を移さず審議に入り、事件は一足飛びに法廷にかけられた。起訴状は長文となった。その内容は、囚人をニーナ・サン・クロワを撲殺、刺殺、扼《やく》殺、毒殺、その他の方法で殺した廉《かど》により有罪とするものであった。法廷は三日間にわたった。その間、審理は検察側の一方的な攻勢が続いた。法廷には大勢傍聴人が詰めかけた。被告に対する憎悪から暴徒化しかねない雰囲気だった。そのため、警官隊もピリピリとしていた。検事の論告は芝居がかったもので、大げさに被告をなじった。実に横柄な態度で、求刑通りの罪を言い渡すよう迫るものだった。被告側弁護人であるメイスンはというと、一貫して審理の状況に関心を示さず、めんどくさそうな態度をとっていた。審理中ほとんど自分の席に座りっぱなしで、やせた体をよりいっそう縮め、長い足を椅子から投げ出し、その厳《いか》つい顔には疲労の色濃く、普段はキョロキョロ動く目を、悲劇の仮面よろしく陪審の頭上にずっと固定していた。傍聴人は――判事さえも――弁護人はこの事件の弁護をあきらめたものと受け取っていた。

証拠がすべて開示され、検察側がすべての立証を終えた。裁判での審理によって、以下のことが明らかになった。ニーナ・サン・クロワは長年、被告が逮捕されたあの家で暮らしていた。年取った黒人家政婦以外と二人だけで暮らす生活だった。ニーナ・サン・クロワの過去はよく知られていない。訪問客としては、逮捕されたメキシコ人水夫が結構な間隔をあけて訪ねてくるだけだった。被告人が何者なのか、どこ出身なのかなどを明らかにする書類は存在しない。被害者が殺される前の火曜日に、大司教はニーナ・サン・クロワから手紙を受け取っている。その中で彼女は、きわめて重大なことを告白したいとうち明け、大司教様にお会いしたいと表明している。これに対し大司教は、もし彼女が金曜日の十一時に大司教を訪ねる以降があるならば喜んで耳を傾けようと返事を出した。警官二人は次のように証言した。木曜日夜八時くらいに、ニーナ・サン・クロワの住居に被告人がやってきて、入り口から家の横手まで侵入し、家に招き入れられたのを見かけた。その外見やそわそわした挙動から、これは怪しいと思った。その時は、被告人が女主人の秘密の愛人なんだろうと思い、好奇心も手伝って、自分たちが屋敷に入り、なんとか部屋の中を見れるよう努力した。しかし中を見ることはできず、大通りに戻ろうとしたところ、女主人が大声で誰かをののしっている声が聞こえてきた。「あの女が好きだって事、私をのけ者にしたいんだって事は分かってるわ。でもね、言うとおりにしてもらいますから! あなたは私の夫を殺した! でも、私は殺されるいわれはないわ! 夫殺しの証拠はすべてそろっているのよ。大司教様には明日お見せします。あなたは縛り首間違いなしよ! いいこと? 夫殺しは縛り首よ!」これを聞いた警官の一人は、家の中に踏み込んでなにが起こっているのか確かめなければならないと同僚に言った。だが、もう一人は単なる痴話喧嘩にすぎんと言い、もし踏み込んだとしても逮捕できるような事はなにも発見できない、署長に笑われるのがオチだと主張した。二人はしばらくその場所にとどまって耳を澄ましていたが、もうなにも聞こえてはこなかった。それで大通りに戻り、屋敷を厳重に見張ることにした。

検察側はさらに、木曜日の夕方になって、ニーナ・サン・クロワがそれまで雇っていた老家政婦にそれまでの給金を払い、追って指示を出すまで暇をとらせていることを調べ上げた。老家政婦はこう証言した。自分は息子の家に身を寄せたが、その後で当面必要な衣服を何着か屋敷に忘れてきたことに気づき、屋敷に戻って今まで自分がいた部屋に入った。大体八時頃だった。その時、ニーナ・サン・クロワのけたたましい怒鳴り声が聞こえてきた。警官が述べたような言葉を使っていたことを覚えている。突然そんな罵声が聞こえてきたからとても驚き、出ていくのが怖くなったから、ドアにカギをかけて部屋に閉じこもった。少ししたら、誰かが階段を上る音が聞こえてきた。一歩一歩がゆっくりで、何か重いものを持っているみたいな感じだった。それを聞くとますます怖くなり、部屋の明かりを消してベッドの下に身を隠した。二階から長い間足音が聞こえていたのを覚えているが、どれくらいの時間だったかは分からない。朝四時半頃になって、ベッドから這い出し、ドアを開けて、階段を駆け下りて外に逃げ出した。外で警官に会ったので、屋敷を調べてくれと頼んだ。

警官たちは老家政婦と一緒に屋敷に行った。家政婦がドアを開けたちょうどその時、被告人が警官の目の前にやってきた。逮捕されたとき、ヴィクター・アンコーナは悲鳴を上げ、「あぁ、無駄だった! なんて無駄なことを!」と叫んだ。

警察署長はみずから屋敷に足を運び、徹底的な捜査を行うよう命じた。怒鳴り声が聞こえてきた階下の部屋で、一着のドレスが発見された。老家政婦は、このドレスはニーナ・サン・クロワのものだ、自分があの夜六時頃に最後に別れた時に着ていたものだと断言した。ドレスは血まみれだった。胸の左側に二インチくらいの長さの穴があった。穴の形状は、被告人が持っていたメキシカンナイフの形状と完全に一致した。一連の証拠品が法廷に提出された。もしこのドレスを誰かが着ていた場合、穴の位置は正確に心臓を貫いており、そのような傷は間違いなく死に至るものと認められた。部屋にあった椅子や部屋の床には大量の血が付着していた。被告人の上着やズボンの裾、メキシカンナイフにも大量の血が付着していた。それらの血は、専門家の手によって人間の血であると鑑定された。

女主人の死体は発見されなかった。厳密かつ長期にわたる捜査が行われたにもかかわらず、死体そのものの痕跡も、いかなる方法で死体を消滅せしめたかも、突き止めることができなかった。ニーナ・サン・クロワの死体は、空中に消えるがごとく完全に消え去ってしまったのだ。

検事がすべての論告を終わったところで、裁判長が物々しい態度でメイスンの方に向き直った。「弁護人は、被告側の証拠を提出してください。」

ランドルフ・メイスンはゆっくりと立ち上がり、裁判長を見つめた。

「裁判長…」メイスンは一語一語丁寧に宣言した。「被告側から提出する証拠は何もありません。」そして、みずからの陳述によって法廷にわき起こったざわめきが引くのを待って、こう続けた。「しかしながら裁判長、私は陪審に対して、被告人に無罪の評決を下されるように提議いたします。」傍聴席がさらにざわめいた。検事が失笑した。裁判長は眼鏡越しに鋭い目つきでメイスンを見つめた。

「その根拠は何ですか?」裁判長が言った。

「その根拠は、罪体《コーパス・デリクタイ》が立証されなかったことであります。」

「はぁ!?」裁判長は思わず我を忘れて叫んだ。

メイスンはひょいと腰を下ろした。ここで主席検事が素早く立ち上がった。

「異議あり! 弁護人は、罪体《コーパス・デリクタイ》が立証されていないということを理由に、そのような申立を行うというのですか? 冗談を言っちゃいけません! それとも、証拠のことを頭に入れておられないのですか? 罪体《コーパス・デリクタイ》とは法律用語でして、犯罪構成事実、あるいは犯罪が実行されたことを示す重要な証拠品のことを指すんです。この事件において、いかなる疑問があるというのですか? 確かに、被告人が被害者を殺害するところを目撃した者は誰もおりません。そして、被告人がきわめて巧妙な方法で隠匿した死体も今のところ発見されておりません。しかしながら、一連の状況はきわめて明白であります。個々の事実は相互に密接な関連を有し、犯罪の動機、犯罪行為、そして犯行の事実は疑う余地なく立証されているのであります。

事件の被害者は、被告人にとって不利になるであろう事実を告発しようとしていました。そのまさに前日に、被告人は被害者の住居に足を運んだのです。二人は争っていました。被害者の声が聞こえているわけですが、その声は大きな怒りの声でした。その声が、被告人を殺人者であると告発しているのです。さらに被害者は、その証拠を持っており、大司教に見せるはずだったのです。それが行われれば被告は絞首刑に処され、ために被害者は殺されずにすんだに違いありません。これこそがこの犯行の動機なのです。そこには一点の疑いもありません。血まみれのナイフ、血まみれのドレス、被告人が着ていた血まみれの衣服、これこそまさに被告人が犯罪を行ったことを示す証拠ではないのでしょうか? 被告人が犯罪を実行したことは一点の曇りもなく明らかであります。被告人の動機は十分すぎるほどに十分です。被告人の衣服には血液が付着しています。さらに、逮捕されたときに取り乱しております。これらの事実は被告人の有罪を、声を大にして告発しているのです。

人間は嘘をつくかもしれませんが、証拠は嘘をつけません。様々な希望や絶望や怒りなどにより、人は誰かを故意に欺きますし、偏見により間違ったことも証言します。しかしながら、一連の証拠が相互に密接かつ完全に明らかにしている所から推論した結果を、人間が誤認するなどあり得ません。それゆえ、偉大な先達たちも言っているように、そのような推論こそが、錯覚やペテンの入り込む余地を最小限にする、最も安全かつ強力な方法なのです。人間が正義を守ろうとする営みにおいて、事実に根ざすことのない妄想話について警戒することはできません。しかし、事実から推論するという行為は人間のあらゆる行動に付随しております。推論こそ、人間の知恵が真実に達する唯一の手段なのです。もしも陪審に対し推論を禁じるならば、それはまさに陪審員の両手を縛った上で仕事をしろと言っているに等しいのです。当然行われる推論を法が禁じるならば、この地に正義の終わりがやってきます。そして法廷は見捨てられ、クモの巣がかかる廃墟となるに違いありません。」

ここで検事は陳述をうち切り、ことさらメイスンにニヤリと笑いを浮かべ、みずからの席に着席した。裁判長は何も言わず熟考していた。陪審員たちは事の成り行きに身を乗り出していた。

「裁判長。」メイスンが再び立ち上がった。「これは明らかに法律の問題であります。ここニューヨーク州における法律において定められているのです。検察官たる者がそれを知らぬはずはありません。裁判長、問題はまったく簡単明瞭であります。罪体《コーパス・デリクタイ》、すなわち犯罪構成事実が立証された場合には、ニューヨーク州が定める法律により、この種の事件は陪審にゆだねなければなりません。立証されてない場合、法廷は陪審団に対し、被告人に無罪の評決を下すよう命じなければならないのです。これには自由裁量の余地はありません。裁判長におかれましては、殺人罪における罪体《コーパス・デリクタイ》の立証がいかにして行われるべきかについて、定められている原則を今一度考慮に入れ、厳格に適用していただけるよう希望いたします。

被告人はこの法廷で、最高位の犯罪に関する嫌疑を受けております。法律はまず最初に、犯罪が事実行われたことを立証することを求めております。被害者が本当に死んでいるという事実がまず立証されなければ、誰にも彼女に関する殺人罪を適用されるいわれはないのです。被害者の死亡に関して一抹の疑いが残る限りは、犯行が行われたものとは立証され得ません。状況証拠がいかに強力で、明白で、疑問の余地がないものであろうとも、それは同じなのであります。殺人罪においては、罪体《コーパス・デリクタイ》、すなわち犯罪構成事実は二つの要素から成り立っております。

死亡という結果。

原因となった他者による犯罪行為。

このことは、当ニューヨーク州において不変の法律として定められております。また、当法廷が判例として仰ぐべきラロフ対検察事件における判決においても示されていることでありますが、罪体《コーパス・デリクタイ》の構成要素が二つとも状況証拠によって立証されることは許されないとはっきり規定してあります。罪体《コーパス・デリクタイ》の構成要素のうち、少なくとも一方については直接の証拠によって立証されなければなりません。一方が直接証拠によって立証されるならば、他方はそこから推論しても構わないでしょう。しかしながら、両方とも推論によって立証されてはならないのです。行われた推論が、いかに強力で、説得力があり、完全なものであろうとも、それは変わらないのです。言い換えると、当ニューヨーク州においては、犠牲者の死体が見つかって身元が確認されるか、被告人が犠牲者を死に追いやるに足る行為を行い、しかもそれによって死体の消失方法が説明できるような方法でなされたことを直接証明できない限り、何人も殺人罪に問われることはないのであります。」

裁判官の顔から当惑が去ったが、厳しい表情になった。法廷に居並ぶ面々の中には、メイスンが示した法の抜け穴にうすうす気づき、一言も聞き漏らすまいとするものがいた。聴衆は困惑していた。彼らはまだ事の本質を理解できていなかった。メイスンは検察官の方に向き直った。そのいかつい顔には軽蔑の表情が浮かんでいた。

「この三日間」メイスンが話し出した。「私は無益にして不経済な茶番劇に対し、大変な苦しみを覚えて参りました。検察側の面々がかかる役者揃いでさえなければ、今回の事件において、ニーナ・サン・クロワの死に顔を目撃した生き証人か、あるいは被告人が被害者の心臓にナイフを突き刺すところを目撃した者がこの法廷に現れぬ限り、そもそもヴィクター・アンコーナを殺人罪に処することはできないことくらい、当然知っていたはずであります。

今回の事件においては、状況証拠がいかに強力で、動かしがたいものであろうと、裁判長であるあなたや、陪審員や、その他私の声が聞こえるであろう皆様方が、それら状況証拠に対して合理的な疑問を投げかけた上でもなお被告人の有罪を確信していたとしても、それは問題にならないのであります。目撃者が現れぬ以上、被告人を有罪とすることはできません。従いまして、当法廷は陪審に対し、無罪の評決を被告人に出すよう命じなければならないのであります。」

法廷にいた傍聴人たちもようやくメイスンのいわんとすることを理解し、呆然とした。こんな論理が法律であるわけがない。彼らは常々、法律とは常識であると教えられてきた。だが、メイスンの言うことは彼らの常識とは全く異なっていた。

メイスンは周りを見回し、意地悪く笑いながらこう付け加えた。「心優しき法律により、無実のものは守られるのであります。偉大なるューヨーク州の法律は、その条文によって、被告人を絞首刑にと願う悪魔的陪審団たちから被告人を救い出してくれるのであります。」

そしてメイスンは着席した。法廷は静まりかえっていた。陪審員たちは驚きを隠さず、お互いを見合っていた。ここで検事が立ち上がった。怒りと驚きが頂点に達したのであろう、その顔は青ざめていた。

「裁判長! 今の答弁は詭弁です! かかる論法に従えば、殺人犯が罪を免れるためにはただ死体を隠すか、バラバラにするか、海の中に沈めてしまえばいいと言うことになりましょう! そして、殺人行為を誰にも目撃されなかった場合、法律は全く無力となり、殺人犯が大手を振って再び世間に舞い戻ることが可能となるのであります! 法律がこのようなものであるならば、最も重い罪に対して法律は無意味となってしまいます! 偉大なる州法そのものが、殺人を奨励し、秘密裏に人を殺し、そのことを世間に隠したならば、人はみな邪魔者を殺すべし、と命ずることとなってしまいます。裁判長、繰り返し申し上げます!」怒りに満ちた激しい声が法廷に響き渡った。「このような論法は、全くの詭弁であります!」

「ベストもストーリーも、その他多くの者たちもそのようなことを言っております。」メイスンが低い声でやり返した。「しかしながら、法律は今もそのように定められているのであります。」

「当法廷はこれ以上の議論を止めるように命じます。」ふいに判事が宣言した。

検事は検事席に戻った。勝利を確信した様が顔に出ていた。法廷は必ずや検察側を支持するであろう。

裁判官は一同を見回し、みずからの威厳を保つべく、一語一語はっきりとさせた口調で話し始めた。

「陪審員諸君。かのヘイル裁判官による判例は、当法廷にもその効力は及びます。私ももちろんその例に漏れません。法律は弁護側が申し立てたとおり定められております。殺人という罪が行われたことの確証を得るためには、被害者が死亡していることに関する直接的な証拠が求められます。つまり少なくとも、被害者の死体が発見され身元が確認されるか、死という行為を起こし、さらに死体を消滅させるという結果が起こるような方法で、犯罪行為が行われたことが確認されるか、いずれかを明らかにする直接証拠を、法律は求めているのです。そして、一方が直接証拠によって立証されたときに限り、他方を状況証拠によって立証することが認められているのです。これが法律です。私の判断で動かすことはできません。ここでその拠って立つ学説を説明することは差し控えます。かつてジョンソン最高裁判事も、当法廷の先例となる判例で、死亡という結果、死を招くような犯罪行為という原因、その両方について直接証拠を欠く場合、他にいかなる証拠を持ってしても、犯罪行為によって被害者が死亡したという事実を、確実性を持って立証するにはいたらず、また、このことを推論することさえできないのであるとこう述べておられます。そしてその状況においては、被害者死亡という事実を確証することはできず、被疑者有罪とするようなあらゆる状況証拠はその推論が拠って立つ根拠を失い、被疑者の罪を論ずるに当たって必要な要点を提示することはできないとも言っておられます。おそらく、このような判例を確立した理由としては、死亡という結果、死を招くような犯罪行為という原因、その両方について直接証拠なしに有罪が立証された場合、一般大衆が抱く先入観や、一時的興奮による思いこみが、法廷に提出される証拠の意味を誤って解釈する原因となるおそれが出てきてしまうので、これを排除しようということもあげられるでしょう。

本事件において、死体は発見されず、被告人が一連の犯罪行為を行ったものとする直接証拠も法廷に提出されておりません。もちろん、提出された状況証拠をつなげて考えれば、それにより推論される結果は明らかですし、そこには疑いを挟むことはできないでしょう。しかしながら、それらはすべて状況証拠であります。従って、ニューヨーク州の法律により、被告人に罪を負わせることはできません。ここに自由裁量が入る余地はありません。私たちすべてが、事実上被告人の有罪を確信するでありましょうが、法律はその確信によって被告人を有罪にすることを許しておりません。以上の理由により、当法廷は被告人の無罪を評決するよう陪審員に命じます。」

「裁判長。」陪審長が陪審席から飛び上がった。「そんな評決は出せません。我々は宣誓しているんです。被告人の有罪は明らかです。」

「陪審長。」裁判官が言った。「これは法律が命じることです。陪審員の心情は一切関係ありません。書記に被告人無罪の評決を用意させますから、あなたは陪審長としてそれに署名してもらいます。」

傍聴人たちの間にどよめきが走り、法廷がざわついてきた。裁判長は槌で机を叩き、廷吏に聴衆を静かにさせるよう命じた。やがて法廷が落ち着いてきたのを見計らい、陪審長に対し、書記が用意した評決文に署名させた。その仕事を済ませると、やおらヴィクター・アンコーナの方を向いた。その顔は険しく、嫌なものを見るような目つきだった。

裁判長は被告人に判決を言い渡した。

「被告人、あなたは悪逆非道な殺人の罪を犯した者として当法廷に起訴されました。あなたに突きつけられた証拠はとても強力で、圧倒的な説得力を持っていました。陪審員たち、否、当法廷で審理を傍聴していた者たちはみな、あなたが有罪であることを確信していることでしょう。

本件が当法廷に出頭している十二人の陪審員にゆだねられたならば、必ずやその評決は有罪で一致し、あなたに対して死刑が宣告されたことでしょう。しかしながら、公平無私な法律が、あなたと陪審員との間に割って入り、あなたを救う結果となったのです。私は法律の無力さを悲観する立場には立ちません。しょせん人間とは完璧な知恵を有するものではなく、人間が創造する法律も完全無比なものとはなりえないものでありましょう。私はむしろ、そういった法律の網を、狡猾なる手管《てくだ》によってくぐり抜けることを可能とする、悪魔的な才能が存在することに対して遺憾の意を覚えます。ヴィクター・アンコーナ、あなたを避難したり説教したりする言葉は差し控えます。ニューヨーク州の法律が命じるところに従い、私はあなたを無罪放免とします。これはただ法の代弁者として宣告するのみであり、私自身の感情を明らかにするのは差し控えます。私はただ、法が命じた言葉を話しているに過ぎないのです。

あなたはたった今、当法廷を解き放たれ、自由の身となりました。しかしながら、このことは法律的な意味で殺人罪に該当しないと言うことであり、あなたの罪がこのことによって取り除かれたという意味ではありません。人はあなたの眉間にカインの傷跡を見るでしょう。しかしながら、法律はそれに対して盲目であるということです。」

裁判長の宣告の意味について理解した傍聴人たちは、ただ呆然とするばかりで何も言えなかった。彼らはみな、ヴィクター・アンコーナが殺人罪を犯していることを知っていた。それなのに、目の前で被告人が無罪を宣告され、大手を振って堂々と法廷を出ていこうとしている。それでは、法律は犯人がへまをしたときにだけ正義を実行してくれるということになってしまったのだろうか? 太古の時代から、法律というものはあまたの賢人たちがその知恵を傾けて完全なものとするべく努力して創り上げられたものだと、治安判事からいつも聞かされてきたのだが、今目の前で奸智に長けた悪人が法の網をくぐり抜ける様を目の前にして、法律というものがいかに弱いものなのかを思い知らされていたのである。

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