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罪体《コーパス・デリクタイ》

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II

セント・クレアとウォルコットが交わした先の会話からおよそ一週間がたつ頃、ランドルフ・メイスンはクラブが用意した書斎で、後ろ手をして立っていた。

外見は40代半ば、背は高く、相応に肩幅も広く、太くも細くもない筋肉質な体である。茶色の髪はやや薄く、白髪交じりである。額は高く秀でてかすかに赤みを帯びている。さほど大きくない目をキョロキョロと動かしている。鼻は鷲鼻《わしばな》でとても大きい。小鼻の両側から口角のあたりまで、深い皺《しわ》が走っている。口はきりりと締まり、あごは四角く張っている。

ランドルフ・メイスンの顔を上から見下ろすと、普段の顔つきからして冷たい皮肉屋といった感じである。下から見上げると、野蛮さとか執念深さを秘めて猛々しい。そして、正面からまともに対峙すると、誰しもがメイスンの見せる活力に息を呑み、そこに不敵な冷笑を読みとるに違いない。まさに、南部生まれの底知れぬ力を持つに違いなかった。

暖炉に薪がくすぶっていた。寒さに身が縮こまるような秋の夕方、来るべき冬の訪れを告げるどんよりとした空気が、この町中にまで漂っている。メイスンの顔は疲労でゆがんでいた。長く白い手を後ろできつく組んでいる。その表情には疲れ切ったような表情を浮かべていたが、目だけは違った。充血した目をキョロキョロと動かしていた。

同じ建物の奥にある食堂では、パーティが絶頂を迎えていた。サミュエル・ウォルコットは幸せだった。テーブルを挟んだ向こうにいるヴァージニア・セント・クレアは輝くばかりの美しさを称え、しかもほんのり頬を染めていた。それを見つめるミリアム・ステュヴィサント夫人とマーシャル・セント・クレアも、見るからに上機嫌だった。ウォルコットはヴァージニアを見つめていた。感動で胸がいっぱいだった。幾千もの堂々巡りを繰り返していた。いったいなぜ、僕みたいな人間を彼女は愛してくれるんだろうか。どんな奇跡があって、彼女は僕を受け入れてくれたんだろうか。いったい僕はどんな理由があって、自分の家の、自分のテーブルで、毎日彼女と向き合っていられるんだろう。

人々が席を立つ中、ウェイターが一人やってきて、ウォルコットに一通の封筒を手渡した。彼は素早くポケットに封筒をつっこんだ。帰宅するお客たちは気にもとめていなかったが、ウォルコットの顔は土気色になっていた。ミス・セント・クレアの魅惑的な肩にコートを着せかける手は激しくふるえていた。

「マーシャル……」ウォルコットは平静を装ったが、その声はうつろに響いた。「ご婦人方をお見送りしてくれないか…僕はどうしてもはずせない用事があるんだ…」

「いいとも、ウォルコット。」若者は気さくに答えた。「気遣いは無用だ、さぁ行った行った。」

「かわいそうに。」ウォルコットが友人に助けられて乗り物から降り、クラブに続く階段を駆け上がったのを見て、ステュヴィサント夫人はつぶやいた。「本当に上の空ね。殿方がああして恋に憑《つ》かれているさまは、なんともいえないものがあるわぁ。」

サミュエル・ウォルコットは運命に導かれて、あの書斎にまっすぐ向かい、ドアを開けた。部屋は暗く、暖炉の脇にひっそりと立つメイスンの姿は、ウォルコットの目には映らなかった。ウォルコットはつかつかと部屋を横切り、書き物机の明かりをつけると、ポケットから封筒を取り出し、封を切った。そして明かりに体を寄せて、手紙を読み出した。一通り読み終えたところで、あんぐり口を開けた。頬肉が頬からはがれ落ち、落ちてしまうかにすら思えた。ひざががくりと折れた。そのまま床に崩れ落ちた。床に落ちる寸前に、メイスンが長い腕を広げて抱きかかえた。ところで、人間の心理とは不思議なものである。新たな危険が身に迫ると、普段は無意識の領域で眠っている動物としての本能が、むくむくと頭をもたげてくるのである。ウォルコットは手紙を片手に握りしめ、メイスンの腕の中で振り返った。そしてちょっとの間、ワイヤーロープみたいに自分を締め付けるいかつい男を見つめていた。

「まんまと罠にはまりましたな。」メイスンは言った。「私の敵は悪辣この上ないやつでね。」

「あなたの敵?」ウォルコットはうめいた。「いつから関わり合いになったんですか? いったいどうして…あなたはこのことを知っているんです…あなたの敵とはどういうことですか?」

メイスンは驚きで丸まった目を見下ろした。

「私以上にそいつを知っているやつなんかいないでしょう。」メイスンは言った。「彼女が思いついた罠やもくろみを、すべて裏をかいてきたんですからな。」

「彼女、あなたに罠を仕掛けたんですか!?」ウォルコットの声はもはや恐怖の固まりだった。

「古いやりくちですよ。」メイスンはウォルコットにささやいた。「古典的だがとても卑怯だ。やつは背後からあなたを襲おうとしているんですよ。だが我々はその裏をかけますよ。なにせ、私が手助けすることを勘定に入れてなかったんですからね。私は彼女のことを知り尽くしていると言ってもいいでしょう。」

メイスンの顔は紅潮していた。その目は爛々《らんらん》と輝いていた。話をしながらメイスンはウォルコットの手を離し、暖炉の前に移っていた。サミュエル・ウォルコットは起きあがった。息を弾ませ、テーブルに手をついて寄りかかっていながらも、その目はメイスンに釘付けだった。もともとサミュエル・ウォルコットは強靱な精神を持っていたし、実社会に乗り出してからも厳しく鍛えられてきた男だった。そのため、やや落ち着きを取り戻し、素早く頭を巡らした。この怪しい男はいったいなにを知っているんだろう? 単にカマを掛けてるんだろうか? それとも、このことでもう何か知ってしまっているんだろうか? ウォルコットには知る由もなかったが、メイスンが『彼女』と呼んでいるのは運命のことであり、運命の女神に対して以上な敵対心を燃やしているだけなのであった。ウォルコットはこれまで、非常事態に直面しても自分は切り抜けられるであろうと信じ切っていた。だが事態は全く寝耳に水だった。虚をつかれてうろたえていた。とにかくこの人は自分を助けてくれると宣言した。きっとそれを実行してくれるだろう。ウォルコットはゆっくりと封筒(とその中身)をポケットに入れ、衣服の乱れを直し、進んでメイスンの肩に手を置いた。

「行きましょう。」ウォルコットは言った。「助けてくださるということならば、うちに来ていただかなければ。」

メイスンは無言でウォルコットの後を追った。ホールでオーバーコートと帽子をはおり、二人並んで外に出た。ウォルコットはタクシーを呼び止め、二人で乗り込んでウォルコットの屋敷に向かった。屋敷につくとカギを取り出し、ドアを開け、図書室までメイスンを案内した。そして明かりをともし、メイスンにテーブルにつくよう促した。そうしておいて彼は奥の部屋に行き、書類の束とブランデーのビンを持って来た。ウォルコットはブランデーをグラスに入れ、メイスンに勧めた。しかしメイスンは断った。するとウォルコットは、そのグラスの中身を飲み干し、ビンを棚に戻すと、メイスンと向かい合う席に腰を下ろした。

「メイスンさん…」ウォルコットの声は平静を取り戻していたものの、墓場からよみがえったみたいにうつろだった。「私は破滅です。神様はついに私を捕らえました。もはや逃れられませんよ。」

「私はあなたを助けるために来たんですよ。」メイスンは声を荒《あら》げた。「私なら運命をひっくり返しますよ。なにが起こったか話してくださらんか。」

ウォルコットは身を乗り出し、両肘をテーブルにつけた。白髪まじりの髪はくしゃくしゃに逆立ち、顔は歪んでいた。しばらくの間、彼は無言だった。やがて暗がりに移動し、戻ってくるとメイスンの前に古びてすっかり黄色くなった書類の束を広げた。

「まず最初に言っておきますと」ウォルコットは話し出した。「私の人生は嘘の固まりです。犯罪そのものです。金メッキした偽物の人生、それが私なのです。どこにも正直さのかけらもないんです。すべてが嘘なんです。私は嘘吐《うそつ》きです。人間である前に泥棒猫なんです。私が持っている財産は私のものではありません。死んだ人間からかすめ取ったんです。私の名前にしたって、元々私のじゃなかった。犯罪によって生まれた贋の名前なんです。いいえそれ以上に――法に照らせば私は殺人者なのです。神の面前に出れば、間違いなく殺人者です。そして、神が創りたもうた何者にもまして私が愛している女性の前では、殺人者よりも罪深い人間なのです…」

ウォルコットはここで告白を中止し、顔の汗を拭った。

ここでメイスンが口を挟んだ。「ウォルコットさん、あなたの言ってることはすべて戯言《ざれごと》です、子供の与太話です。あなたが何者であるかはこの際置いときましょう。問題は、この場をいかに切り抜けるか、なんですよ、いいですね。」

サミュエル・ウォルコットはかがみ込み、ブランデーをグラスに作って飲み干した。

そしてまた、ゆっくりと話し出した。「そうですね…私の本当の名前はリチャード・ウォーレンといいます。一八七九年の春にニューヨークに来ました。そこでサミュエル・ウォルコットと――本物のですよ――知り合いました。当時は彼も若く、ちょっとした蓄えと、祖父譲りの財産を少々持っていました。私たちはすぐに友達になりました。そして、二人で西部に行くことにしました。二人で出来るだけのお金をかき集めて、カリフォルニアに金鉱を探しに出かけたんです。二人とも若かったし、なんといっても素人でしたから、どんどんお金が飛んでいきました。時は流れて四月のある朝、私たちはシエラ・ネバダの山奥にある、ヘルズ・エルボウという丸太小屋ばかりのちいさな部落にやってきました。そこで私たちは頑張りました。一年くらい食うや食わずの生活だったです。ここで進退窮まり、ウォルコットが成り行きでメキシコ人ギャンブラーの娘と結婚してしまいました。そのメキシコ人は飲食店を経営していましたが、ポーカー賭博もやっていました。そのあとも何年か食うや食わずの生活でした。メキシコ人一家とウォルコットと以外に知り合いはいませんでした。やがて、娘が私に意味深な色目を使ってくるようになってきました。ウォルコットも色目に気がついて、私に嫉妬するようになっていったんです。

ある日の夜、酔ったはずみでウォルコットとけんかになり、彼を殺してしまいました。夜も更けていましたから、家には女の他に、四人しかいませんでした。メキシコ人ギャンブラー、ケルビム・ピートという性悪の混血児、それにウォルコットと私です。ウォルコットが倒れたとき、混血児が素早く銃を取り、テーブルの向かい側から私を撃ってきました。ところがその瞬間、その女、ニーナ・サン・クロワがピートの腕を叩いたんです。弾はそれ、私のかわりに彼女の父親のメキシコ人が瀕死の重傷を負いました。私はピートの額を打ち抜き、女の方を見ました。私の方に飛びかかってくると思ったんです。ところが驚いたことに、彼女は窓を指さし、自分も後から行くから、村はずれの四つ角で待っていろと言ったんです。

たっぷり三時間は待ったでしょうか、ようやく彼女が四つ角にやってきました。ニーナは砂金袋を一つと、父親が持っていた宝石を少々、それと書類の束を持ってきていました。なんでこんなに時間がかかったんだと聞くと、ニーナは、二人がまだ死んでいなかったから、司祭を呼んできて、死ぬのを待っていたんだ、と言いました。これは本当でした。ですが、すべてではなかったんです。迷信からか、後に使えると思ったのかは知りませんが、ニーナは司祭を説き伏せて、誓書《せいしょ》を書き取らせて、厳重に封をさせたんです。その書類を彼女は持ってきていました。このことは私は後から知ったんです。ニーナと待ち合わせをしたときにはそんな致命的な書類のことなど全く知らなかったんです。

私たちは一緒に西海岸に向かいました。そのあたりは無法地帯でしてね。私たちがなめた辛酸はまさに筆舌に尽くしがたいものでした。時々ニーナは天才的な閃きと悪知恵を見せて、窮地に追い込まれたのを辛くも逃れたこともありました。しかもいつも、私に対しては献身的に尽くしてくれていました。犬が主人に対して示すような感じでした。この世界で私だけのことを愛していました。やがて、私たちがサンフランシスコに着いたときに、ニーナが私の手元に、この書類を寄越《よこ》しました。」そしてウォルコットは黄ばんだ書類を取り出し、テーブルの向こう側にいるメイスンの目の前に置いた。

「そして彼女はこう言ってきたんです。あなたがウォルコットの名を詐称しましょう。それから二人でニューヨークに行って、ウォルコットの財産を自分のものにしようと言われました。私が手元の書類を見ると、なんとそこには、ウォルコットが財産を受け継いだことを証明する遺言や手紙、どこからも文句を言われないだけの確かな身分証明書などが、一式そろっていたんです。その時は命知らずのギャンブラーと自負していましたが、ニーナ・サン・クロワが言ってきた大胆な計画にはさすがにひるみました。自分はリチャード・ウォーレンだ。ニューヨークではよく知られている。そんな詐称は成功する前に気づかれるし、きっと詳しく調査される。そうなれば、旧悪が白日のもとに晒されるに違いないと、反論しました。

するとニーナは、自分の計画に有利な点を数え上げました。私はウォルコットにそっくりだ。私たちが暮らしてきた十年あまりの人生を経験すれば、誰だって顔かたちは変わっていく。それに、彼の名を騙ったところで、シエラ・ネバダの人も通わぬヘルズ・エルボウで起こった人殺しにまで過去をたどってくることは誰にも出来ない。そして私を焚き付けました。どのみち私たちは宿無し。誰がどう見ても犯罪者だ。法に照らしても神の前に出ても、罰を受ける身なんだから、失うものなどなにもないさ。二人して底辺に沈んじまってるんだよ。やがて彼女は笑いだし、今まであなたを意気地なしだと思ったことはなかった。だけど、ここに来て怖じ気づいて逃げちまうようなら、もう一緒にやっていけないね。結局、私たちは砂金袋や宝石をサンフランシスコで売り払い、世間に出ても恥ずかしくないだけの身なりを整え、そのころ一番豪華だった蒸気船でニューヨークにやってきました。

いつの間にか私は、ニーナ・サン・クロワが持つギャンブラー魂に依存するようになっていきました。私には彼女が見せる荒削りな強さが必要でした。生まれも育ちもニーナはちょっと他で見ないたぐいの人間でした。ニーナはスペイン人のエンジニアの娘でしたが、メキシコ人ギャンブラーにさらわれて、その娘として育ったんです。リオグランデ沿いにあるさる修道院で最高の教育を受けてきました。やがて一人前の娘になった頃、父親とともにカリフォルニアの山中にまで逃げる羽目になったんです。

ニューヨークに着いたとき、私はニーナを妻として紹介するつもりでした。ところが彼女はそれは駄目だと言いました。『妻』の存在は人目を引く、ウォルコットの親戚の耳にはいると厄介だ、これがニーナの言い分でした。それもあって、私独りでニューヨークに行き、サミュエル・ウォルコットの名前を使って財産の所有権を主張すること、ほとぼりが冷めるまではニーナの存在を秘密のままにしておくことを取り決めました。

ニーナの計画は細かいところまで完璧でした。あっけないほど簡単に私は新しい人格になりすまし、財産を手に入れていきました。財産は放っておかれた間に大きく高騰していましたから、私、すなわちサミュエル・ウォルコットはすぐに大金持ちとなりました。その後で私はニーナ・サン・クロワのところに行き、たっぷりお金を渡しました。ニーナはそのお金で、ニューヨークの北のはずれに世間から身を隠すための家を買いました。それ以来彼女は世間から隠れ、ひっそりと生きています。一方私は都会に残り、大金持ちの独り者として暮らしてきたんです。

ニーナ・サン・クロワを捨ててしまおうと思ったことなどありませんでした。ですから、時々会いに行ってやりました。もちろん変装して、人に気づかれないようにすることには注意を払っていました。私がサミュエル・ウォルコットになりきってからも、ニーナは相変わらず私を愛してくれていました。いつも私のことを第一に考え、私を待ち続けることを生き甲斐にしているように思えます。さて、私の仕事はどんどん広がっていきました。みんなが私を追いかけます。私と手を組もうといろいろ持ちかけてきます。やがてニューヨークの紳士方やご婦人方と派手な生活を送るようになりました。そうすると、次第にニーナのことが疎ましくなってきました。言い訳をつけて会いに行くのを先送りするようになりました。やがて彼女は私を怪しみだし、自分を妻と認めるよう要求してきました。それは難しいとニーナに言いますと、一緒にスペインに行ってくれればいいと言うのです。そうすれば二人は結婚できる、それからまたアメリカに帰ってくれば、そんなに騒ぎにもならずに二人で暮らしていける、こう言ってきます。

私は、もう二人の関係はこれっきりにしようと決心しました。ニーナには、財産の半分をお金にしておまえに渡す、そのかわり、結婚はあきらめてくれ、と言いました。怒りで半狂乱になるかと思ったのですが、そうするかわりに、普段の態度で奥に引っ込み、二通の書類を持ってきて、読み上げたのです。一つはウォルコットとニーナを夫婦とする正式な結婚証明書でした。もう一つは、彼女の父だったメキシコ人とサミュエル・ウォルコットが、いまわの際に残した宣誓書でした。紛れもなく、私が犯した殺人の証拠でした。書類は法的に整っていましたし、イエズス会の宣教師が署名しているんですからね。

書類を読み終わった後で、ニーナはいかにも親切な口調でこう付け加えました。ねぇ、あなた、あたしを喜んで妻に迎えるのと、サミュエル・ウォルコットの未亡人に財産をすべて譲って殺人罪で絞首刑にされるのと、どっちがいいのかしらね。

頭が真っ白になりました。そしてあの女が心底怖くなりました。私は完全にあの女の罠にはまりました。なんでも言うとおりにするから、お願いだから、その書類は破り捨ててくれ、と懇願しました。あの女は嫌よと言い、私は何度も何度も破り捨ててくれるよう頼み込みました。そんなやりとりの末に、ようやくあの女は、いかにも私を信じてくれたような感じで私に書類を渡してくれました。その場で私はびりびりに破いて火にくべてやりました。

それから三月《みつき》が経ちました。あの女の計画通りに、スペインに行く手はずを整えました。あの女が今朝船に乗り、私がその後で追いかける計画でした。もちろん、行くつもりは全くありません。私を陥れる書類はすべて破り捨てた、もうあの女のくびきからは自由だという気持ちで心が弾みました。私はあの女を説得して、あの女が先に船に乗って、私が後から追いかけることにさせました。あの女が行ってしまってから、セント・クレア嬢と結婚するつもりでした。もしニーナ・サン・クロワが帰ってきたら、私はあの女を精神病患者として病院に入れてしまえばいいと考えていました。ですが、それはあまりにも考えが甘すぎました。こんなことで、ニーナ・サン・クロワのような女を追っ払えると、本のしばらくでも思ってしまうとは、我ながら大馬鹿だと思っています。」

「先ほど、これを受け取りました。」そう言いながら、ウォルコットはポケットから封筒を取り出し、メイスンに渡した。「それを読んでどうなったか、あなたは一部始終を見ています。読んでいただければ、どうしてそんなことになってしまったのかお分かりになるでしょう。裏にあの女の名前が書いてあるのを見て、死に神に首根っこを捕まれたと感じたんです。」

メイスンは手紙を取り出した。手紙はスペイン語で書かれていた。彼はさっと字面を追った。

リチャード・ウォーレン様

親愛なるあなた。あなたは哀れなニーナをだまして一人でスペインに行かせようとしました。私が行ってしまえば、あのアメリカ美人と結婚するおつもりなのでしょう。私はそこまでお人好しではございません。どのみち私は大金持ちよ! そしてあなたは私のもの。大司教様も情けある教会も、人殺しはお嫌いでいらっしゃいますから。

ニーナ・サン・クロワ

まったくお馬鹿さんだこと。あなたが破り捨てたのは書類の写しですのよ。

N. San C.

便箋にカードが一枚留められていた。そこには流麗な筆跡で『大司教様は心からサン・クロワ夫人の訴えに耳を傾けます。ついては、金曜日の朝十一時に大司教様の元に来られたし』と綴られていた。

「もう終わりだ。どうしようもない。」ウォルコットの声はもう投げやりだった。「私はあの女をよく知っている。一度決めたことは必ずやり遂げるんです。あの女は本気で私の旧悪を暴くつもりです。」

メイスンは椅子に深く腰掛け、足を投げ出し、手をポケットに深く入れた。ウォルコットは俯きながらもメイスンに絶望的な視線を向けていた。心の中ではほとんどあきらめていた。顔は青白く、その表情は沈んでいた。暖炉の上に置いてあるブロンズ時計が、ことさらコチコチと耳障りな音を立てていた。ここでやおらメイスンが足を直し、二本の骨張った手をテーブルに置き、ウォルコットを見た。そして話し出した。

「ウォルコットさん、この種の問題を解決する方法はひとつしかありません。原因の種をバッサリと、しかも素早く切らなければなりません。まずはここを押さえておかねばなりません、といっても、これくらいは馬鹿でも分かります。もう一つ押さえておきたいのは、必ずあなた自身が実行しなければいけないということです。殺し屋を雇うことはあなたにとって死を意味します。やつらは馬蛭《ウマヒル》みたいなものです。いつまででもあなたを強請《ゆす》ってきます。ですから、一時しのぎにしかなりません。誰かを雇っても、問題がそいつに移るだけです。せいぜい刑の執行を遅らせるに過ぎません。普通犯罪を犯そうとする者なら、ここまでは考えてきます。さて、世間でいう悪党たちは、通常ここからさらに問題を二つに絞り込みます。

犯罪の実行方法。

犯行事実の隠蔽。

ところで、悪党たちはこれ以外の要点を無視し、目を向けようとはしません。殺害方法を考え、証拠をなにも残さず現場から立ち去る方法を考えついたら、これで問題は片づいたと信じ、思考停止してしまうのです。悪党の中の悪党と言われる犯罪者たちも、しばしばここで立ち止まり、致命的なミスをしてしまうのです。

どんな犯罪でも――重犯罪ならなおさらです――考慮すべき第三の問題があります。そして、これこそが犯罪計画の要と言えるのです。今までにしくじったやつらは、大悪党と言われていても、この第三の問題について考えるのを怠っていたか、あるいはそもそも考える分別に欠けていたのです。彼らは実に見事な方法で被害者を陥れます。天才のそれに匹敵する悪知恵でもって、追っ手を煙に巻いてゆきます。しかしながら、彼らの計画には、犯罪を取り締まる官憲の目から逃れる方法が抜けています。まさにその一点のために、計画に致命的な穴があって、そのために彼らは惨めな結末を迎えるのです。まさにそれ故にこそ、第三の問題の重要性があるのです。

それは、法律的に正当な抜け道です。」

メイスンは立ち上がり、テーブルのまわりをぐるっと歩いたあと、自分の手を力強くサミュエル・ウォルコットの肩に置き、話を続けた。「明日の夜にはけりをつけておかないといけません。明日中に仕事を整理して、医者の診断に従ってしばらくの間ヨットで外遊すると世間に言いふらしてください。外遊するためのヨットはもちろん用意してもらいます。乗務員には、スターテン島のどこかにヨットをつけて、あさって朝六時までそこで待つように指示してください。もしあなたがその時間までにヨットに乗り込まない場合、南アメリカのどこかの港までヨットで航海して、そこで次の指示を待つように言っておくんです。これだけやっておけば、しばらくあなたがここにいなかったことについての説明がつきます。それであなた自身は、ニーナ・サン・クロワのところに、いつもの変装で行って、する事を済ませた上でヨットに乗り込んでください。こうすれば、あなたはいったん別人に成り代わり、また本来のあなたに戻れるでしょう。証拠も残りません。私は明日の夕方またお宅に来ます。あなたが必要になる道具を持ってきます。あらゆる面を考慮した、完璧な、かつ、厳密な指示をさせていただきます。私がいうことをすべて、細心の注意を持って実行すること、これこそが、私の計画が成功するための必須条件なのです。」

メイスンの話を、ウォルコットは何も言わずに、身動《みじろ》ぎもせずに聞いていた。話が終わるとおもむろに立ち上がった。きっとその表情に抗議の色を見て取ったのだろう、メイスンは後ずさりし、手をかざした。そして冷たく言い放った。「いいですか、何も言わないでください。あなたはただ私の計画の実行役に過ぎないんです。実行役に頭脳は要りません。」言い終わるとメイスンはきびすを返し、ウォルコット邸を出ていった。

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