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罪体《コーパス・デリクタイ》

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罪体《コーパス・デリクタイ》[#注一]

「罪体」《コーパス・デリクタイ》についてダウンロード用テキストはこちら。

I

「あれがメイスンという男だ」サミュエル・ウォルコットが言った。「このクラブにおける謎の男だ。いや、それ以上に、このニューヨークにおいて、まさしく謎の男なんだ。」

「彼を見かけた時はほんとにびっくりしたね。」彼の友達のマーシャル・セント・クレアが言葉を返した。セント・クレアは優秀な弁護士で、シュワード・セント・クレア&ドゥムース法律事務所に属している。「何をしてるのか全然知らなかったんだ、運河会社のアメリカ人株主の顧問弁護士としてパリへ行ったって聞いてからはね。いつアメリカに戻ってきたんだろう?」

「四カ月くらい前に、昔の根城にひょっこり姿を現したんだ。」ウォルコットは言った。「尊大で、陰気で、しかもどことなく変な雰囲気なんだ。ナポレオンの全盛期を見ているみたいでね。クラブの若い奴らなんて、メイスンのことを『ザノナの再来』だなんて呼んでるくらいだ。メイスンはたいてい夜遅くに、周囲のものや人に全く気づかないみたいな感じで家中をうろついている。そうやって、目の前の仕事に深く集中して、せっせと考えるんだろう。意識が体から離れて行っちゃうんじゃないかって思ってしまうんだ。そんな風だから、いろんな伝説がメイスンのまわりで言われているんだ。実際、メイスンの立ち居振る舞いは予測がつけづらいし、いったん仕事に取りかかれば、全く驚嘆すべき独特な方法でやってのける。しかも、その道の専門家も度肝を抜く方法でね。どうしたって人の興味を引かずにはおれないんだよ。

メイスンが何かゲームをしているなんてことは全く知られていなかったんだが、ある晩、メイスンがデュブレ老提督とチェスをしていたんだ。君も知っての通り、提督はすばらしいチェスのチャンピオンだ。前の冬のトーナメントで、フランス、イギリス両国の士官たちを総なめにしたことで一躍脚光を浴びたんだ。それに、チェスという競技の始まりの手は、定跡研究によって科学的に、厳密に決まっていることも知っているよね。ところが、メイスンは盤の両端から駒を進めるという前代未聞の手で指しはじめた。これにはデュブレもいらついていたね。老提督はゲームを中断し、初心者に教え諭すように、そんな指し手は下手な手出し理屈にあわんよ、もっとまともな手で指しなおしなさいと忠告した。メイスンは笑みを浮かべ、こうやり返した。人間たるもの、信頼できる頭脳を持っているならばそれを使うべきです。それができんのでしたら、ましな頭を持っていた過去の偉人のやり方に乗っかるという手もあるでしょうがね。当然デュブレは怒った。できる限り速やかに、メイスンをうち負かそうと手を尽くした。途中までゲームはすいすい進んだ。メイスンはどんどん駒を失っていった。メイスンの始めの指し手はうち破られ、粉々にされた。観客の目からは全くばかげた手に見えたんだ。提督は笑っていたし、明らかにワンサイドゲームに見えた。ところが、突然提督を恐怖が襲った。いつのまにか、自分の王《キング》が罠にはまっているじゃないか。馬鹿げた指しはじめは、素晴らしい戦略の一部に過ぎなかったんだ。老提督は必死に立ち向かい、悪態をつき、あらゆる犠牲を払った。でも、すべては無駄だった。提督が負けちゃったんだ。メイスンは提督をわずか二手でチェックメイトに追い込み、退屈そうに立ち上がった。

『君は、いったいどこでこの素晴らしい手を覚えたのかね?』老提督は信じられないといった表情でメイスンに尋ねた。

その時のメイスンの返事がこうだ。『ここでですよ。チェスを指すには、まず相手を知ることです。過去の名人たちが指した定跡なんて、あなたに勝つためのどんな役に立つんですか? 彼らはあなたなど会ったことも見たこともないんですよ。』

そう言うとメイスンは、きびすを返して出ていったんだ。ねえセント・クレア、これだけの変人だったら必ずや、いろいろ奇妙な噂の的になるに違いないよ。そこには真実もあれば、作り話だってある。とにかくメイスンが、偉大な頭脳を持った変わり種だってことは言えるだろうよ。近頃メイスンは僕に対して、なぜだかわからんが好意を示してくれている。それどころか、クラブでメイスンが自分から話しかける相手と言えば僕しかいないんじゃないかな。正直に言って、あの男の存在は僕にとって大いに刺激的だ。惚れ込んでいるんだよ。彼こそはたぐいまれなる傑物だ、セント・クレア。並の才能じゃないよ。」

「今でも思い出すよ、」年下の男が言った。「パリに行ってしまう前には、メイスンはニューヨーク一の辣腕《らつわん》弁護士と目されていたし、法曹界には怨嗟の声が満ち満ちていた。たしか、ヴァージニアの出身だった。最初は重犯に問われた被告の弁護をしていたんだ。その弁護がとても強引で、しかも巧妙な論法を使っていたもんだから、たちまちのうちに有名になっちまったんだ。彼は法律の不備をかいくぐって依頼人の無罪を勝ち取っていった。その抜け穴がねぇ、専門家でさえも思いつかないところにあったりするんだよ。判事でさえも唖然とするくらいのね。その才能に、多くの大企業が引き寄せられていった。いろいろな問題を彼にぶつけたところが、メイスンは実に博識で、しかもあふれんばかりの知恵を持っていることを彼らは悟ったんだ。メイスンはクライアントに足かせとなっている法の網をかいくぐる方法を指南した。法は法として守りながら、その精神を踏みにじるあの手この手を教え、しかも、クライアントが最も望んでいた、法違反を犯さずにどこまで法律を曲げられるか、その限界点までも入れ知恵したんだ。パリに移る頃にはクライアントを大勢抱えていて、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。だけど、ニューヨークを去ってしまうと、たちまち話題に上ることもなくなってしまった。いくら大物だと言っても、この都会ではいないもののことをいつまでも覚えてなぞいないからね。何年かするうちにメイスンの名はすっかり忘れられてしまったんだ。今じゃもう、メイスンのことを覚えているのはベテラン弁護士くらいだろう。彼らにとっては、メイスンに苦汁をなめさせられた恨みは、一生忘れられないだろうからね。そのタフネスぶり、強引さ、まさに妥協のない闘士だった。それでいて世捨て人の風格があってね。」

「何というか……」ウォルコットは続けた。「メイスンを見ていると、世間をいつも斜めに見ている皮肉屋を思い出すよ。古代帝国の神秘をそのまま今に持ってきたようにすら見えるな。僕はメイスンの前に出ると、いつもその知性に気圧《けお》される思いがする。ねぇセント・クレア、ランドルフ・メイスンこそまさに、ニューヨークの神秘といえる男だよね。」

そのとき、メッセンジャーボーイが部屋に入ってきて、ウォルコット氏宛の電報を届けてきた。ウォルコット氏は立ち上がりながらセント・クレアに言った。「エレヴェイテッドの役員たちがお揃いだ、急がなくては。」

二人はコートを羽織ってクラブを出た。

サミュエル・ウォルコットは上流階級の振る舞いとはいささか趣を異にする男であったが、正真正銘クラブ員である。三十代後半にして独身、大通りに面した静かな大邸宅に住んでいる。この界隈《かいわい》では莫大な富を持つ資産家で通っており、小才がきき、進歩的な考えを持っている。巨大シンジケートに属する大会社の株もいくつか持っているが、彼の富の中核はなんといっても不動産である。大通りに面した屋敷を数多く持ち、いずれも第一級の資産価値を持っていた。中でも貿易商たちが集まる一角にある、エレベーター付きのビルは真の意味で金鉱と言える。いずれもはるか以前になくなった祖父の遺産として知られているが、当時はほとんど価値がなかったとされていた。ウォルコットは若いころに金鉱を探しに行き、行方しれずとなっていた。十年度突然ニューヨークに舞い戻り、祖父の遺産を継承し、その価値を何倍にも増やした。投資が面白いように図に当たり、不動産価格の高騰にも助けられて、あっという間に財産を大金持ちとされる水準にまで殖やしていった。ウォルコットの判断はひとかどの権威と見なされた。ウォルコットなら安心と、ビジネスパートナーたちにも絶大な信用を得ていた。富は富を呼び、たちまちのうちに膨れあがった。ウォルコットは独身である。財力の後光が年頃の娘を持つ母親たちのどん欲な目に映らぬはずはない。彼の元には招待状が殺到し、社交界の喧噪と奔流に巻き込まれるようになった。ウォルコットも時としてこれに応じるようになった。彼自身の馬やヨットで遊んでいたし、ステーキ店やクラブで彼が主催したディナーパーティーは文句のつけようがなかった。しかしながら、そういった席でもウォルコットはいつも物静かで、その目には深い憂いが漂っていた。その振る舞いは、彼自身が社交界が好きだからではなく、ただ孤独を忌み嫌い、そこから免れんがために正体に応じている節があった。間に立って口をきこうという話もずいぶんあったが、ごく自然に立ち消えになってしまう状態が長いこと続いていた。とはいえ、運命の女神[#注二]は底意地が悪い。もし彼女が人間の罠から犠牲者を救ったとすれば、それは彼を逃がそうとするからではなくて、彼女自身が仕掛けた罠に絡め取ろうと狙っているということなのだ。そしてまさしく、ヴァージニア・セント・クレアが、ミリアム・ステュヴィサント夫人が冬のさなかに開いたレセプションにおいて介添え役を務めていたのを見て、サミュエル・ウォルコットはこれ以上ないほどに深く、そして一途に首っ丈となってしまった。その場にいた他の招待者はたちまちのうちに敗者となった。ミリアム・ステュヴィサント夫人は内心|快哉《かいさい》を叫び、いわば自分自身に何度もアンコールの拍手を浴びせているようだった。礼儀正しい物静かな男が、社交界の新星の足下にひざまずく姿はまことに好ましいものだった。まさしく祝福を受けていた。年頃の娘を持つ他の母親でさえも、認めざるを得なかった。ミス・セント・クレアは茶色の髪を持ち、目も茶色い。口さがない世間の人たちも、背かっこうはまあまあかな、とまずまずの点をつけた。名門の出にふさわしく、立ち居振る舞いは上品で、礼儀作法もわきまえており、生まれながらにして貴婦人たる素質を備えている、と口々に噂した。

上流階級の一部には、ミス・セント・クレアの天真爛漫さはいささか古風でつまらないものだとか、ピューリタン的なご清潔ぶりがちとひっかかるだとかいう意見もあった。だが、そういう気質こそがサミュエル・ウォルコットの心をとらえたんだという見方が正しいと思われた。ともあれ、ウォルコットは恋に落ちた。深く傷を負った。かくして、昔から幾度となく繰り返されてきた悲喜劇の舞台に新たな役者が登場した。そして一途に、誠実に持ち役を演じ始めた。もし役をし損じたら、彼にとっては致命的なものとなるだろうと思われた。

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