茶色の上着 坪田宏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)廢墟《はいきょ》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)しただけで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らない ------------------------------------------------------- [#4字下げ](一)[#「(一)」は中見出し]  あたりは未だ戰災のまゝの燒野原で、そろそろ其の廢墟《はいきょ》に霜も降りようと云ふ、其の朝村田工學博士邸の女中お島《しま》は、起きぬけに朝食の用意にとりかゝつた。  博士夫妻は、一昨日の夕方沼田の新邸へ出かけて留守のまゝに、のんびりと朝食を喰べ終つた。もう一人分の食事には布巾を掛け、味噌汁は冷えぬやうに、鍋を火鉢にかける。その分は、雇ひ運轉手、本間の分だが、別に今日は忙しく乘用車を使ひまはす用事も無ささうだし、それに昨夜は遲くまで車庫で修理をやつて居たやうだつたので、八時過ぎでなければ起きてこないだらうとお島は考へて、その間にいつもの通り、二階の居間から掃除を始め樣と、タオルを姉さん冠りに、箒とはたきを、兩の手に一本づゝ持つて、二階への階段を上る。  廊下の突き當りの、奧の部屋から始めようと扉を開けた。その時最初にお島の目についたものは、ソフアの上のハンドバックであつた。その品は、一昨日沼田の邸へ出掛ける時慥に夫人が持つて來たものである。そればかりで無く、夫人が穿いて出た靴まで、きちんと揃へて、ソフアの前の床に置いてあり、替りに夫人の上穿きまでも無い。  今朝は未だ誰れも來た氣配はないが、若しかすると、昨夜自分が使ひに出て居た留守に來られたのかも知れないと思つた。それなれば朝食の仕度もせねばならぬと思ひ、もう一つの部屋の扉を開けて、覗いてみたが、姿は見えなかつた。  そこで階段を降りて、書齋のドアーのノッブを握つたが、錠が卸され、がちやりと音がしただけで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らない。御不淨かも知れないと考へ、廊下を引き返し、通路の扉を半分開けて、 「奧樣……奧樣」と、間をおいて二度呼び、氣配をうかゞつたが、何の反響も無い。そこで露臺かも知れないと、妙にこだはつてくる夫人の所在を求めて、又階段を上る。だが上りきつた廊下に面した露臺への出入り扉には眞鍮の落し錠が懸つてゐて、一見そこでない事が判る。お庭かも知れない――と心の中で呟いたが、考へてみれば今朝は未だ玄關の扉は開けてない事に氣がついた。何とは知れずずうんと、冷たいものが背筋を走つて、全身が鳥肌だつ。急に恐怖が襲つて膝頭が二三度がく/\ふるへた。お島は、すつと自分の顏から血の氣がひいたのを感じ、自らの幽鬼に追はれて階段を駈け降り、玄關の扉を手荒く突き開け、コンクリートの階段を飛び降りた。  それはあながち、お島の臆病とは云へぬかも知れない。何故なれば、その建物の或る部屋から、痛ましい死骸が發見されたからだ。  お島は車庫を目がけて急いだ。 「本間さん!」車庫の一割を仕切つて造られた、運轉手の居間の障子に向つて聲をかける。 「うん」と低く返事がし、起きて居たのか直ぐ障子が開かれた。 「本間さん。昨夜奧さんがこちらへ來られたんですね?」 「奧さん! 奧さんは沼田だろ」 「私もさう思つてゐたんですが、でも奧さんのハンドバックやお靴がお部屋にありますよ」 「そんな筈は無い! 先生のでは無いのか!」 「先生が來られたんですか、昨夜?」 「……」 「とに角來て下さい。あちらこちら尋ねましたが、誰れのお姿も見えません。書齋だけが開かないんです」 「よし行かう」と、本間は氣色ばんで、靴を穿き、玄關から眞直ぐに書齋の扉の前へ行きノップに手を懸けたが※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らない。兩手をかけて力まかせに右左へぐい/\捻るやうに動かしたが※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らない。 「窓へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らう」本間は廊下を右へとつて、突き當りの東出口の扉の閂を外した。そこを勢ひよく飛び出すと、本間は先づ南寄りの窓に手をかけたが、摺硝子戸は開かない。次に北寄りのを引つ張つたがこれも開かなかつた。お島もそれについて※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、交互に努力したが駄目だつた。 「本間さん。裏の窓へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りませう」  二人は北側へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、その窓を二人して手をかけ引いてみたが、どれも中側から施錠してあるのだろう、びくともしない。  本間は少し苛立つて東側へ戻ると、こはすより外は無いと思つた。手頃な石を拾ふと、南寄りの硝子板を叩き割つた。がちやんとすざまじい音を立てゝ、ひと間の硝子が割れ、ぽつかりと孔が出來た。  本間はそこから中を覗き、 「呀つ」  と一聲あげ、見る間に蒼くなつた。お島もその氣配に、本間を押し除ける樣に中を覗き 「ああツ」  と叫んで、塑像のやうに暫くは動かなかつた。直ぐ目の先の大テーブルの前に、人※[#判読不可、162-下-2]※[#判読不可、162-下-2]れてゐる。着てゐる洋服の色柄で直ぐ夫人である事が判つた。 「奧樣だツ奧樣だツ」  お島が火のついたやうに本間の肩を掴んで喚く。 「奧樣あ――奧樣あ――」  夢中になつて連呼する。だがその人は返事もしなければ身動きもしない。本間はそれと判る程がた/\ふるへて「死んでゐる――」と熱病人の譫語の樣に呟く。お島は聞こえたのか聞こえないのか。 「本間さん早く助けて! 早く――早く」  と本間を矢鱈に搖り動かす。本間はそのまま腰が拔けた人のやうに、へた/\と窓の下に蹲んでしまつた。お島はもどかしがり、勵ますやうに、 「本間さん。あんた男よ! さ、早く中へ入つて」  本間は顏も上げないで、力無く、 「めまひがして駄目だ。お島さん、入りなさい」  懇願するやうに云ひ、顏色も紙のやうに蒼白い。お島は、これでは駄目だと思つて、ガラスの破れから手を差し入れ、捻子込錠を拔かうとしたが、地面からでは手が屆かない。本間はそれを見兼ねたのか、手傳つてやらうと、ふら/\と立ち上つたが、本當に目まひがして、よろ/\とよろけた。兩手で壁に支へ、暫く立つてゐたが、お島の臀を肩先で押し上げてやる。お島はやつと捻子込錠を拔く事が出來たので、 「中へ入ります。もう少し押し上げて下さい」と、二三度重々しく體を搖り動かして、危なかしい身振りで入つた。 「本間さん。廊下の扉口へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて下さい」とョんで、お島は夫人の倒れてゐる傍を迂※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、扉の處へ行き、中から差し込まれたまゝになつて居た鍵を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して扉を開く。 「本間さん――本間さん」と呼びたてられて本間は足許も危な氣に、泳ぐやうに部屋へ招じ入れられた。  お島はそれに力づいたやうに、夫人の肩に手を掛け、輕く搖りながら、 「奧樣! 奧樣! 奧樣!」  と又繰り返すが、何の反應も無い。よく見れば、美しい顏は、やゝ苦悶をたゝへて蝋のやうに白い。色があるのは、やゝ落ち込んだ眼のくぼに畫き出された薄黒さだけで、一見して死の相貌である事が判る。お島はあわてゝ手を引つ込めると、呆然と立ちつくした。本間は肩で呼吸し、焦點を失つた瞳がうるんでゐた。お島は氣を取り直し 「私は沼田の旦那樣に電話します。あんたはくるまでお醫者さんを連れて來て下さい」 「くるまは修理中で駄目だ。兩方ともお島さんが電話をして呉れたらいゝ」その聲は、未だふるへを帶びてゐた。  間もなくお島のしどろにかん高く亂れた口調で、電話をかける聲が女中部屋からもれて來た。 (こゝで作者は、本間運轉手のみが知る行動を付け加へ度い)  本間は夫人の死に顏に瞳を凝し、何故か、耐へ兼ねたやうに、はら/\と泪を落した。そして、其の骸の背面へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、何かを求めるやうに蹲みこんでゐたが、つと手を伸べると、あるものを取つて作業着のポケットに入れた。立ち上ると、夫人の倒れてゐるあたりを目で追つてゐたが、ふとテーブルの上にあるセロハン紙を卷いたやうなものを手に取りポケットに入れた。そして北側の窓の下に造り付けになつてゐる、流し場の傍へふら/\と歩み寄つて、何かをしたやうだが、直ぐ引き返して、扉口の處に呆然と立ちつくした。  お島は電話をかけ終り戻つて來たが、部屋へ入る元氣も無いやうに、大きく溜息を一つして、廊下の壁にもたれてゐた。  やがて玄關に、こつ/\と靴音がして、近所の伊東醫師がやつてきた。お島は救はれたやうに駈け寄つて、書齋へ迎へた。伊東醫師はひと目見て、 「奧さんですね?」と云つて、夫人の傍へ寄り、頬を指で突いてみただけで、暫くあたりの樣子を眺め※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して居たが、 「駄目ですね。息をひきとられてから時間が經つてゐます。奧さんの死骸に手を觸れてはいけませんよ。警察から係の人が來る迄ね――警察へ電話せられましたか?」 「はい。さつきかけました」 「さうですか」  伊東醫師はそれつきりで廊下へ出て、お島に、 「はつきりとは云へませんが、大變な事になりましたね。村田先生はお留守ですか?」 「はい、沼田のお邸においでになります。もう直ぐ來られる筈で御座います」 「さうですか。もう直ぐ來られるんですね。では一寸待つてみませう」  と、ポケットからはつかパイプを出してくはへた。  その時本間は、何も云はないで、多少さつきとは慥りした足どりで玄關へ出ようとした。お島は、 「本間さん。何處へ行くの?」 「氣分が惡いから部屋へ歸る」  と、ぶつきら棒に答へて出て行つた。  暫くして沼田から、村田博士が額の汗を拭き拭きやつて來た。博士の顏を見ると、お島がわつと泣き出した。  伊東醫師は博士に近寄つて、 「死なれてから大分時間が經過してゐます。死因に疑はしいところが有りますが、女中さんが警察へ電話せられたさうですから、その方で好く死亡の原因を訊かれた方がいゝでせう……全くとんだ事になりましたね」  と挨拶を殘して、伊東醫師は歸つた。  村田博士は部屋へ入り、投げ出されて居る夫人の手に一寸觸れてみたが、金物のやうに冷たかつた。椅子が倒れ、それと同じ方向へ體を投げ出し、やゝ右側を下にして顏は左へ向けられてゐた。左手は顏の前方へ投げ出され、少し肘を曲げ、右手は頭部の後方へ大きく肘を曲げて投げ出してゐた。兩足はほゞ揃へて膝頭を左方へ出し、かるく曲げられてゐた。  痛ましい妻の死に樣を見て、博士は、せめて寢臺の上になりとも收容してやり度いと思つたが、伊東醫師の言葉もあるので、思ひ止まつたと、その後の聽取の時もらしたくらゐであつたから、博士としては見るに忍び難いとの思ひ入れでゞもあらう、廊下に出て、暫らくは暗然としてゐた。ましてお島のすゝり泣きを聞いては、この場合誰れだつて悲しさをそゝられる。 「お島。今朝誰れが一番先に見つけたんだね?」 「はい。をかしいと思ひましたのは私で御座いますが、發見されましたのは本間さんで御座います」 「あの部屋の窓ガラスが打ち割られてゐるやうだが、誰れがやつたのか?」 「本間さんで御座います。どうしてもお部屋へ入れなかつたもんで御座いますから」 「本間は何處に居るね?」 「氣分が惡いと云つて、さつき自分の部屋へ歸られました」 「見てきなさい…序に來るやうに云ふんだ」  お島が、車庫の部屋の障子を 「本間さん」と聲をかけながら開けると、本間は仰向きに寢轉んでゐた。 「先生がお呼びですよ」 「……」 「來て下さい」  本間にはそれが不承知のやうな面持ちだつたが、大儀さうに半身を起すと、急に眞劍な顏色になつて、瞳を据ゑてゐたが、 「行かう」と呟いた。お島は先へ出た。  間もなく本間はパイプの切れ端を握つて、紅潮した顏面を脇目もふらずに、眞直ぐに村田博士へ向けて入つて來た。  無言で、少し足を構へるやうに開いて、本間は立ち止つた。  博士も沈默裡に本間を目で迎へる。その殺氣だつた有樣と、急にぶる/\とふるへだした本間を、お島は不思議さうに眺めた。 「水を一杯呉れ」博士はお島に言ひつけた。お島が炊事場へ入つて、盆を出し、コップに水を注いでそこを出ると、博士と本間は何か話してゐたやうだつたが、お島の姿を見ると、二人共口をつぐんだ。  博士はお島の差し出したコップを手に取ると、一息にぐつと飮み干して、 「もう一杯」と突き出した、お島が二度目のコップに水を入れて、炊事場を出ると、二人は又、何の話かやめた。博士はそれを飮むと半分殘してお島に返した。  お島は、それを片づけに炊事場へ入つた。本間があら/\しく炊事場の前の廊下を通り過ぎた。お島が廊下へ出ると、本間が、かつと明るい陽差しの中に、庭を横ぎつて車庫の居間へ戻るらしかつた。博士は書齋の前の廊下を、何か考へながら行きつ戻りつしてゐた。  警察と地檢の自動車が、騷音をたてながら村田邸の門前に停つたのは、その直後くらゐである。 [#4字下げ](二)[#「(二)」は中見出し] 「大體これが女中お島の申立てによる、發見状況なんだ」  と林署長の話が終る。古田三吉は、ズボンの膝にタバコの灰をこぼしながら、 「うん」と、大きく頷く。 「それから、この略圖を見ながら後の説明をしよう」署長は卓上に村田邸附近の見取圖と現場の部屋の平面圖を※[#「にんべん+廣」、U+5123、ページ数-行数]げた。三吉も上體を突き出すやうに覗きこむ。 「この建物は博士が戰爭の中頃新築したもので、洋風の研究室と、純日本式の住宅とに分けて造作されたものだが、研究室と車庫だけ殘つて、あとは戰災で烏有に歸したんだ。それで、この兇行現場が研究室にあたる譯だが床は板張りで、新築當時は盛んに研究室として使はれ、一時は學生も隨分來たとの事だが現在は書齋として使用されてゐる。博士の言によれば研究は專ら學校のを使用してゐるとの事だ。この部屋の出入口は二つあるが通路として使用してゐるのはこれ一つだ。入つた右側に、壁に押しつけて、大型の立派な事務テーブルが置かれ、竝んでこの圖の通り結晶硝子の嵌つた戸付きの書類棚がある。左側壁際に、來客に使用する天鵞絨張り肘付回轉椅子が二脚あり、これと同一のものがテーブルの前に一脚置いてあつた。夫人はこの椅子に腰を卸してゐる處をやられたと思はれる。死亡の原因だが……外傷は丹念に調べたが判らない。其の他の事はこゝに出來たばかりの現場寫眞が有るから見て呉れ」  と、書類袋の中から、未だ多少濕り氣の殘つてゐる數葉の寫眞を出す。三吉は受け取り一枚一枚につき目を凝らす。 「死體檢案の結果は?」 「うん。それが毒殺なんだ。夫人を解剖前、全裸にして入念に調べて判つたんだが、背中の向つて右側に針で突いた疵が有つた。それが唯一つの外傷さ。解剖の結果、猛毒○○を針のやうなものに塗つて、突き刺した事に因るもので、解剖醫の判斷では、恐らく絶命する迄に一分を要しなかつただらうとの事だ。死後推定は十五時間位。解剖したのが正午近くだつたから兇行は前夜の八時頃になるんだ」 「兇器は出たか?」 「ずつと捜索してゐるんだが判らない。何しろ短刀だとかナイフと云つたものなら話は早いが、針のやうなものぢやね」 「すると、毒針で突き殺して、直ちに拔き取つたんだな!」 「さうでは無い。檢案では、刺疵から判斷するとかなり長い時間刺さつてゐたものを、後で拔き取つたものだと斷定されてゐる」 「なる程。その判定はつくね」 「何しろ檢案は有名な法醫學の※[#判読不可、166-上-22]崎博士だからね。信ョ絶對さ」 「全くね……ところで、兇行當夜の各關係者の聽取りをきかせて呉れませんか」 「話さう。だが君も既に感づいてゐると思ふが、發見状況から推定すると密室ではないかと思はれる節が濃厚だ。その邊のところをよく考慮に入れて、後で是非君の意見もきかせてほしい」  お島(三八歳)上里邸の女中  生れはF縣。夫は開戰二年目に大陸で戰死し、以來獨身。昭和××年から村田家の女中となり、三人の使用人中の年長であり又一番長く勤めてゐる。  兇行當夜、日暮れて間もなく、沼田町の博士邸より、村田博士直々の電話で、二階の居間の洋箪笥中に在る鞄を持つて來いとの事につき、本間運轉手に、自分の居間へ來てもらひ、留守居番を依ョして、云ひつかつた品を持ち六時三十分頃上里町の邸を出る。徒歩にて××電鐵上里驛に至り乘車し、沼田驛下車徒歩にて沼田邸に到着、博士に鞄を渡す。その時博士より一册の書籍を手渡され、歸路梅ヶ枝町の松尾博士邸に立寄り返還する事を依ョされる。  松尾博士宅は歸りの道順の途中につき、徒歩にて用件を終る。その序に、附近の、本人の姉の縁付き先、清田方に立ち寄り二十分程にて用件を終る。用件の内容は、メリケン粉をやるから取りに來るやうにとの傳言が、五日程前にあつたからである。徒歩にて上里邸に歸る。到着時刻は九時三十分頃なり。  到着の時、本間は女中部屋にて火鉢にあたり、ラヂオを聽いてゐた。それから二人で、姉の宅より貰つたふかし饅頭を出し、茶を喫む。本間は間も無く自室の車庫に歸る。その折「近く自動車の定期檢査があるから、今夜はこれから分解掃除をする」と云へり。  書齋の電燈は消えてゐた[#「書齋の電燈は消えてゐた」に傍点]。點いてゐれば門を入る時書齋の硝子戸が見えるから判る。  それから間も無く就寢しようと思ひ、玄關の戸締りを爲す。その時車庫内に電燈の點いてゐる事を見、本間運轉手が修理してゐると思つた。  手提電氣を持ち、日課である、戸締り火の元の見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りを爲す。二階には二間あるが、廊下突き當りの部屋へ入つた時、冷たい風が吹き込むのでよく見ると、北側の窓が開いてゐた。確かに締めてあつた筈と思ひ、戸締をする。ソフアの上のハンドバッグ、並に靴などは何分にも提ランプにて足許ばかり注意して居た爲、全く目につかなかつた。階下に降り序に書齋のノッブを調べたが※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らない爲、施錠のしてある事を確認した。夜中物音を聞いた事はない。盜難にかゝつたやうな形跡も無い。書齋の出入りは、博士夫妻以外の者は禁じられてゐる。部屋の掃除も夫人がしてゐた。  本間雅夫(二三歳)  車庫の自室で寢てゐたのを、女中部屋へ呼んで調べた。貧血患者のやうに蒼白く、立つてゐるのも苦しさうで、聲も元氣が無い。服毒でもしたのでは無いかと疑はれたが、さうでなく、今朝からの騷ぎで氣分が惡くなつた模樣である。硝子を割つた事、お島が部屋へ入つた事など二三訊問したが、それにも耐へられぬ樣子につき、横にさせ、訊問の替りお島の聽取書の内、本間に關係のある部分を讀みきかせ、間違つた個處はないかとの問に對し、さうだと頷く。  特に留守番してゐる時、夫人が來た筈との問ひに對しては答へがなく、相當多量の喀血をした爲、訊問を打ちきる。直ちに來場の警察醫に診斷せしめると、確かに肺結核であり昂奮著しく、三四時間は安靜を必要との事に就き、看視をつけて自室に寢さす。  安井(四二歳)  村田博士邸東側道路東方に住む者。H精鋼所の守衞なり。當夜、九時少し前歸宅せり。博士邸書齋の電燈が歸宅時間頃、點けられて居た事を證言す。消燈されたのは、歸宅直後就寢せる爲不明との事なり。其他異状を認めざるも、當人歸宅前、當人の妻自動車のエンヂンの音を聞いたとの事なるも、博士邸のものか、又は貨物自動車か、タクシーなるかは確認出來ずとの事なり。  絹子(二六歳)沼田邸の女中  生れはS市。博士邸が本年三月、沼田町に新築されたる時、前主人の斡旋にて住込み雇となる。夫は有るも未復員の由にて、勤めも夫歸還迄の約束との事なり。  博士は、一ヶ月の内、約半分を沼田邸に起居するとの事なり。土曜、日曜、來客等の時又は學校の休みの時主として來邸するとの事なり。近くは、一昨日夕方夫婦同伴にて來たる。  當夜、殺害されたる夫人、午後七時少し前上里町の邸へ行くと云つて、黒皮ハンドバッグのみ持ち出る。用件も告げず、又上里邸に泊るとも、泊らぬとも告げぬ由。間も無く、上里邸女中お島、博士の用件にて來り、直ぐ歸る。歸路、梅ヶ枝町松尾博士邸に立寄り歸る旨告げたる由。  七時三十分頃、博士は番犬を連れ散歩に行く旨告げて出る。博士の散歩は、平常三四十分位の由にて、時には夫人と共に出る事ありとの事なり。一時間以上を經過した頃、沼田驛近くに住む後藤老人と同伴にて歸宅す。それより碁を始め、十一時頃とおぼしき頃終り後藤老人歸る。後藤老人は月に三四回は來る由にて、時には博士が後藤老人宅へ出掛ける事ある由。  夫人が出てから、博士何れかへ電話したる樣子なるも、當人入浴中(自宅)につき、詳細不明との事なり。  村田順造(五六歳)  生れはS縣。工學博士。現在K大學教授。外にN工業株式會社の重役。殺害された夫人とは、博士四六歳、夫人十九歳にて結婚す。  書齋の鍵は一個しかない。保管は夫人がしてゐた。  當夜、散歩に出る。それはシェパードの運動も兼ねてとの事なり。出かけた方向は、××電鐵沼田驛とは反對に當る、國道筋方面との事なり。その途中、元の教へ子に逢ひたる由なり。その者は戰爭中學徒動員で、滿州方面に出征し、終戰後引揚たる由にして、久々の奇遇につき、三十分以上立話しせりとの事なり。それより、間道を散歩し、×電鐵路線方面に出で、後藤老人宅に立寄り、同伴して歸宅、十一時頃迄に圍碁を三局打ちたり。尚後藤老人は初段の由にて、當人も田舍初段との事なり。  妻の上里邸に赴きたる理由は判然せずとの事なり。但、その夜夫人に注意したる事あり或はそれが爲の感情のゆきちがひから、無斷出かけたる節もあるとの事なり。  その理由は、最近運轉手の本間と妻との間に、不純なる事ありと思料せられる事なり。當人が確認したる事實はなきも、その樣子のあつた事は事實と確信するとの事なり。家庭内に於ては、他に使用人もゐる爲、格別その者等の注意をひくやうな事は無かつたが、或る人の忠告に依り、妻と本間が買物の歸途、R公園にて乘用車を停め、車中にて何事かを語りゐたところを見たとの事なり。故に當人としては、大學教授の社會的地位を考慮し、注意を與へたりとの事なり。萬一妻がその事に關し内心不服を唱へて、當夜勝手なる行動をとつたものとすれば、或る程度妻はその風説の眞實を裏書きするものであり、且當夜、上里邸には本間が單獨で留守番をしてゐた事から思ひ合せ、相談に行つたものかも知れないとの事なり。  本間は平常眞面目に勤務せるも、陰氣な性質なり。よつて多少陰險なる行動を敢行する可能性ありとの事なり。  特に、妻死亡の報を受け、上里邸に駈けつけた時、本間は鐵棒の如きものを持ち來り、當人に對し危害を加へんとの氣勢を示したる事は、女中お島もよく知るところなりとの事である。  本間運轉手を雇入れたのは約六ヶ月前との事にて、妻との間に特種な事情を生じたのは二ヶ月くらゐ前からとの事なり。  こゝで引續き、林署長と村田博士の間に、死體檢案書にもとづく特別の應答を記載する。 「大體事情は判りました。ところで、これは大變失禮な聽取りですが、本事件と重大な關係をもつかも知れませんので、お訊ねしますが……奧さんの死體檢案の結果、殺害前に交接の事實がありますが、この點どうですか?」 「交接ですつて!……僕には覺えがないね」 「たとへば殺害の前夜だとか、特に、殺害當日の晝間ですね」 「ないね」 「さうですか……奧さんは、當日の晝間外出せられた事はありませんか?」 「ない」 「と證言されるあなたは、無論外出せられなかつたんですね?」 「さう」 「とすると、この事實はどうなりますかね……あなたにその事實が無いのに、奧さんにその事實がある。さうなると、奧さんは、重大な祕密を持つてゐられる事になる。さうですね?」 「……ご推察にまかせる」  博士の表情が、やゝ亂れる。 「それでは回答になりませんね……ま、それはそれとして、もう一つ。奧さんの體に、はつきり場所を云ひますと、お臀ですがね。そこに皮下出血の痕がある。たとへば皮帶のやうなもので打つた形にですね。三ヶ所あります。これはどうですか?」 「……」 「どうです……説明出來ませんかね……當日の晝間、本間が來た事はありませんか?」 [#「第一圖 村田博士邸附近見取圖」のキャプション付きの図及び「第二圖 現場見取圖並階下平面圖」のキャプション付きの図(fig56579_01.png、横889×縦1552)入る] 「來ない……と思ふ」 「ふーん。ではこの問題は、別に暴行殺害では無いとの檢案ですから、日を改めて訊ねませう。が、あなたは全く交接の事實は知らぬと斷言しますね?」 「さう」     ×    ×    × 「以上が今迄に出來た聽取の全部だよ。事實博士が夫人と夫婦關係をしてゐないとすればこれは殺された夫人の、立派な殺害動機の鍵になる」 「博士の否定が眞實なれば、本間が唯一の對象になるね」 「さうだよ」 「だが、夫人の臀部の事もある。それが同時になされたものとすれば、本間のやうな青年に、そのやうな大膽な行爲の出來る筈もなければ、餘猶もない。博士がはつきり回答をしなかつた事は、時機として云ひ難い時だつたと思はれる。事件に關係の有無にかゝはらず誰れだつて答へには困る。特に事が閨房に關してはね……はつはつはつ」 「はつはつはつ」  二人は博士の、その時の心情を想ひ浮かべて大笑する。 「古田君の見込みもさうだとすれば、これは副産物かね」 「まあ、そんなところだらう」 「だが……本間は重要な容疑者だ。これの取調べに重點をおくつもりだよ。元氣が恢復すれば直ぐ調べるやうに云つてあるから、或は今頃新事實が出てゐるかも知れない」 「いゝね。その方針は。しかし、密室の事實が動かぬものとなると、この事件は難かしくなる傾向があるね」 「さう脅かさないで呉れ。それを思つて態々君に來て貰つたんだ。はつはつはつ」  ヂリヂリヂリ――と、その時署長の卓上電話が鳴る。署長は手にとつて、 「林だよ……ふん……何ツ。自殺した。よし直ぐ行かう。うん。指紋は未だだつたね。直ぐとつて……身許調査を至急するんだね。前歴と知人關係などね。うん。解剖に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して好い。御苦勞」  電話器を置くと、扉を開け、 「くるまの用意を大至急!」  どなつて席に戻ると、 「古田君。本間が自殺したよ。唯一の手懸りを失つた。大失敗だ!」 「さうか。場所は?」 「車庫の自室で……服毒ださうな」 「毒か!」 「惡くすると、これは困る事になる」  林署長は無念さうに腕をくむ。 「速に追求すればいい。困る程の大事件になれば、それだけ又手懸りも多いと思ふ。餘り心配しない方がよい」 「僕は直ぐでかける。君は?」 「是非現場も見ておき度い。行くよ」  三吉はソフト帽を掴んだ。 [#4字下げ](三)[#「(三)」は中見出し]  村田邸の現場へ車は急ぐ。三吉は、何となく寂しい感慨に浸る。事件が起きて、その悲慘な現場へ臨む時、襲つてくる寂しさだ。  犯罪! 人間の、弱い精神生活が作る眞空圈。 「人間て、弱いもんだね。林さん」 「何故?」  署長が面喰つたやうに訊き返す。 「殺される人間よりも、殺す人間の意志の方が、餘程弱いと思ふからさ」  三吉は窓外に瞳をやつたまゝ、ひとり語の樣に云ふ。  街路樹の落葉が、舖道の溝に吹き寄せられ時々風に舞つて沈む。清澄な秋空は廣く、瓦礫の曠野に赤まんま[#「赤まんま」に傍点]が紅く實り、廢墟の谷にコスモスが咲き亂れてゐる。それは皆戰爭の劫火に、一旦は炎の底に沈んだ筈であるのに、木も茂り、人も棲む。根強いものは生命の神祕だ。三吉はそんな事を考へながら、いつしかとろ/\と眠つた。  クッションに深く腰を卸し、もたせかけた頭で、冠つた中折帽の縁を押しつぶし、心地良ささうに居眠る三吉を、署長は眺めてほゝ笑む。時に雄辯になると思へば居眠り、居眠つてゐるかと思へば、鋭い結論を吐く。署長は、畏友と思ひ、可愛い奴だと親しむ。年齡は署長より八ツ下の三十五。獨身の青年盛りながら、いつもアイロンの伸びた黒サージの服を着、ネクタイも繩を縛つたやうに無雜作である。蓬髮無髯だが、まばらながら、下萠のやうな無性髯が無い時の方が、却つて淋しいくらゐだ。と云つて、決して不潔とか、汚いといつた感じは受けない。丸顏で色白で、くるつとした體つきは、誰れでも親しみを感ずる。殊に笑つた時、片頬に淺く出來る靨《えくぼ》は人なつこい。しかし、一旦固く口唇を結び、思索の淵に入ると、瞳が烱々と輝き、近づき難い視線に射すくめられる。  署長とは遠い親戚關係になり、こちらのH大學へ就學中からの交際《つきあひ》になる。今は、著述と遺産で、田舍へ歸つたり、こちらへ出てゐる時は、アパート暮しの暢氣な生活をしてゐる。犯罪にはとても鋭い頭腦の持主であるままに、署長は何かと三吉を利用する。しかし時には甲論乙駁、又或る時は行動の上で爭ひ實際の面で競ふ。他人が見て危險な對立と迄思はす時もあるが、最后は協同の外何物も無い。今では大小の事件を經て、このコンビは權威ある存在となつた。 「署長。あの家ですね?」  居眠つてゐると思つた古田三吉が、車窓に顏を近づけて指差す。 「さうだ。あれだよ。君知つてゐるのか?」 「いゝや。大體、署を出てからの時間と、見取圖で判りますよ。それに、あのあたりに妖氣が漂つてゐる。はつはつはつ」 「まさか……」  と署長も三吉の冗談に微笑する。  自動車は村田邸の門を入り、制動機を軋ませて停る。署員が二名駈け寄つて、車から降りた署長に何事か話す。三吉も車を出て大きく深呼吸をする。邸の周圍は、四尺くらゐの高さに、煉瓦が市松模樣に隙間を造つてめぐらされてゐる。邸内の空地は荒れてゐるが、問題の建物の前面は、元、花壇であつたらしい盛土のあとに、殘菊の幾株かがあでやかな色模樣を描いてゐる。塀よりの葎はすがれ、一本の梅もどきの實の紅いのが目だつ。 「古田君。運轉手の部屋へ行かう」  三吉は頷いて、從ふ。ガソリンと潤滑油の臭ひが鼻をつく。本間運轉手の部屋は四疊半で、正面に窓が一つあるきりだが、白色の壁塗料で、中は割合ひに明るい。窓下に机があり本たてがある。花瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]された黄菊の色も部屋の主が自殺した今では、痛ましく瞳に泌みる。本間は上り口に足を延ばし、俯伏して死んでゐる。白いシーツを除け、署長が檢視する。 「持物は全部調べたかね?」 「はあ。全部調べましたが、整理でもしたかのやうに片付き、事件に關係あると思ふものは何一つありません」 「兇器は?」 「發見出來ません」 「困つたね……死體は直ぐ解剖に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すね?」 「はあ。そのやうに手配してあります」  署長はそこを出る。 「古田君。二時半頃看視の刑事が、氣配に驚いて障子を開けると、苦悶してゐたさうだ。抱き起すと、何か言ひたげに唇を動かしたが言葉にならず絶命したさうだ」 「……」 「それから身許だが、博士もはつきり判らないとの事だ。前の運轉手が病氣でやめる時、替りとして推薦したのを、そのま々使つてゐたんださうだ。何れにしても、本間の自殺は手痛い。これから兇行現場へ案内しよう」  先づ書齋へ入る前に、三吉はづツと廊下を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す。ドアーの枠の右上に、電燈の點滅スヰッチがある。 「これは、この部屋のものだね?」 「さうです」  同行の刑事が答へる。 「指紋はどうです」 「はつきりしたものが出ません」  三吉は、扉のノッブをさして、それも訊ねる。 「いろんなのが重複して駄目だよ」  署長が回答する。三吉はそれを開けて入る。足許を注意し、部屋の内部を見渡す。 「内側のノッブは?」 「夫人のと、女中お島のとが出たよ」 「聽取と符合するね」  三吉は夫人が倒れてゐたあたりを、丹念に見て、 「このテーブルの端から床に、硝子の細い破片がこぼれてゐるね?」 「未だ殘つてゐるかい。うん……なる程。これは夫人の腕時計の硝子だよ……君に話さなかつたね。おそらく、夫人が毒針に刺された瞬間でもあつたのだらう、腕の内側につけてゐた、七型長方形の腕時計を、卓の角に打ちつけて碎いたらしく、しかもよ程強く打ちつけたとみえて、都合の好い事に時計が停つてゐる。八時三分でね。その時間が果して正確かどうかは判らんが、死體檢案の推定時間と一致する」 「……兇行時間が、大體證明されてゐる事になるね」  と、三吉は話しながら、卓上に目をやる。そして、そこに置かれた、黒皮裝幀の書籍に目をとめて、表紙を開く。藏書の朱印がある。暫く見て、表紙を閉ぢる。 「林さん。そこの扉の鍵は?」 「保管してあるよ。お島のがはつきりしてゐる」 「各窓の捻子込み錠は?」 「そこの、割れてゐるもの丈け、お島のと思はれるものがあり、他のものは薄く埃をかぶつてゐる。女中の證言により、一週間餘り掃除してない。したがつて手を觸れゝば判るがその形跡は無いよ」 「あそこの、流し場の上の回轉窓は?」 「あれは落し錠で、つまみ[#「つまみ」に傍点]が構溝に確實に嵌つてゐる」 「なる程……ところで、この部屋の電燈は、この卓上スタンドだけかな?」 「現在使用されてゐるのはそれ丈けださうだ。シヤンデリアも四個あるが、ごらんの通りグローブも電球も無い」 「外部のスヰッチを入れても、このスタンドのスヰッチで消す事は出來るね。一寸スヰッチを入れてみて下さい」  刑事が部屋を出て、ぱちつと音をさせるとやゝ大型の、裝飾されたスタンドの笠が皎々と輝く。 「可成り明るいね。これだつたら窓には充分反射するし、外部から直ちに點滅が判るね」  そして、スタンドの光を遮切るやうに、體を動かすと、北寄りの窓の硝子戸に、三吉の動く陰影が、幽かに映る。直射光線では無いから、その影のりんかくはやゝぼける。 「夜間だつたら、外部からこのスタンドを遮切るものの判別は充分だね」  それから、部屋の隅を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、板張りの床を充分點檢する。合せ目のゆるんだ個所は、靴の踵で踏み叩く。そして最後に流し臺の前に立つ。 「これは、元實驗に使つた時のものだ」  と署長が説明する。造り付けの、コンクリートの流し場の上には、二本のパイプが出てゐる。 「林さん。村田博士はゐますか?」 「ゐるよ」 「呼んで下さい」  間もなく、村田博士が刑事に案内されて來る。 「御苦勞ですな」  村田博士の方から聲をかける。 「いや。色々と御迷惑です。こちらは古田君です」 「僕が村田です」 「まことに、お氣の毒な災難でした」  言葉尠く答へ、一瞬三吉の瞳が光る。 「實は、流しのこれですが」  と、右側のパイプを指し示す。1/2吋くらゐのパイプが、流しの上に二十糎程たち上り曲り手金具で左方へ曲つて、その先に十糎程の長さの鉛管がついてゐる。 「それは以前、實驗の時使用してゐたガス管だが、もう戰爭中から使つてない」 「今でもガスが出ますか」 「いゝや。この管は母屋の方からきてゐるがあちらが燒けたので、途中の配管も目茶目茶になつて現在では全然出ない」 「こちらは水道のやうですね?」 「さう。水道……」 「これは出るやうですね」 「出る。この方は表の道路からで、燒けた母屋に關係がないからね」 「今でも使はれるやうですね?」 「使はないと云つた方がいゝが、これは炊事場から配管してある爲、元バルブを締切るわけにはゆかないので、出るまゝに雜巾がけや掃除くらゐには使つてゐたやうだ」 「この棧《さん》の嵌つてゐる孔は下水ですね」 「さう。その下から樋で流し場の下の下水孔へ落ちるやうになつてゐる」 「有難度う御座いました。ところで、この部屋の掃除は奧さんがなさつていられたやうですが」 「さう」 「使用人にさせなかつた理由は?」 「それはね、この書齋には貴重な僕の研究資料の保管やら、學生の論文、學校關係の書類貴重圖書などを置いてゐるからだよ」 「よく判りました。お引とり下さい」  博士が目禮して歸りかけると、林署長が、 「村田さん。あとで本間の事に關し、もう少し訊ねたい事があるんで、今暫く待つて頂きたいですがね」 「いゝでせう。だが、亡くなつた妻の葬儀の事もあるんでね……早くして貰ひ度いね」  冷徹な瞳色を殘して、博士は部屋を出た。署長は 「古田君。何かこれに不審が有るのか?」 「いや。さうぢやないが、密室といふことになれば、外部に連絡あるものは一應知つておく必要があると思つてね。外にないですかね?」 「先づ對象になるものはないが、參考迄に云へば、東側の窓の中間上部に煙突孔があるがこれには板が木螺子止めになつてゐて永い間手さへ觸れた形跡はない。それから脇玄關に出る通路として扉がある。あれだね。ところがこれは長い間締切つてあり、あの扉の外から階段前の廊下にかけて應接セット類、その他の家具、木箱の樣なものが積み重ねられ、扉には外部から補強の爲に棧板が打ちつけられて、荷崩れで壞れないやうにしてあり、塵一つ亂れた形跡がない。この部屋を占領した北西にある造作物は、實驗用の器具藥品庫で北側の壁面に高く採光窓があるが、これは鐵枠で壁面に造り込みになつてゐるから問題はなからう。それだけだね」  それから廊下へ出て、本間とお島が、死體發見の時出た出入口から外へ出た。そこにはコンクリート疊の道がついてゐる。これは以前母屋と、この研究室の間を繋ぐ通路になつてゐたものだ。  各窓ガラスは、外部からパテで止められ、長い間風雨にさらされて、異状はない。一枚一枚につき調査されたが得るところはなかつた。北裏へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、ガス管、水道管、下水につき調査したが、埋沒状態にも異状はない。  そこで女中お島を呼んで、二部屋ある二階を調査する事になつた。階段を昇り、廊下を右へ曲つたとりつきの部屋は寢室になつてゐた。三吉は一寸覗いて、奧の部屋に移る。  左壁際にソフア。一人掛けの肘付椅子が二脚。テーブル。右方に洋箪笥。書棚といつた調度が、落着いた部屋の感じを出してゐる。 「この窓ですか、開いてゐたのは?」  三吉がお島に訊ねる。 「さやうで御座います」  三吉は窓を開き、外を眺める。見卸すと眞下に、書齋の北側の窓がある。元通り窓を閉め、一行は階下へ降りる。署長は村田博士訊問のため、三吉達と別れて女中部屋へ入つた。  その頃、暮色がせまり、遠近の燈火が濃くなつてきた。夜霧さへほのかな庭を横ぎり、三吉と一人の刑事は再び車庫に行く。  既に、本間運轉手の遺骸は解剖に運びさられた後だつた。 [#4字下げ](四)[#「(四)」は中見出し]  車内の自動車は、ボンネットカバーを外しエンヂン※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りが分解してある。ピストンやら其他の部品が、油泌みたケンパスの上に置かれてある。これだけの作業をするには、お島の聽取りにあるやうに、昨夜遲くまで仕事を續けてゐたものと思はれる。壁際の作業臺にも、ボールト、プラグ、マグネット類が、陳列したやうに竝べられ、壁面には太刀掛けに掛けられた刀のやうに、ヤスリ、スッパナの類が整然とかけられてゐる。抽出しを拔き出すと、そこもよく整理され、本間が仲々几帳面な男であつた事が想像出來る。  ふと、作業臺横の灯かげに、三尺程のガス管がたてかけてあつた。今朝村田博士に本間が呼ばれた時、手にしてゐたものと思はれる。手にとつて見ると、一方はヤスリで面取りがせられ、一端には螺子が切られてあつた。電燈にかざし、パイプの内孔を覗くと黒ずんでゐた。三吉は一寸指を突込んでみる。指先に煤煙のやうなものが着いた。三吉はそれを刑事に渡す。それから自動車の周りを調べ、ウインドから客席を一寸覗いて、ドアーを開ける。中は電燈の光りが屆かない。三吉はポケットから懷中電燈を出して、仔細に點檢する。終ると、今度は運轉臺のドアーを開けた。懷中電燈で、隅から隅迄探る。ドアーポケットにも手を入れてみたが、別に何も無い。運轉臺正面の、計器盤左方にある物入れの扉を開ける。ペンチ、ドライバー、プライヤ、豫備點火栓等が入つてゐた。凝と、懷中電燈をさしつけてゐたが、三吉はそこから、注射針を發見した。早速手袋をはめ、それを出し、續いて、セロハン紙を卷いたものを取り出した。白手袋の掌にそれを乘せ、電燈にかざす。「おゝ……これは注射針だ!」  刑事が、聲をあげて、喜色を表す。 「兇器ですね!」 「いや。未だ判らん」 「こちらのセロハン紙のやうなものは何ですか?」  刑事がせきこんで訊ねる。三吉は默つて觀察する。長い圓錐型で、セロハン紙が三重くらゐに卷いてある。細い方の先端には、細い竹軸が、長さ八粍程卷き込んで固定してある。三吉は注射針の根元金具の大きさと比較して、それをセロハンの竹の部分に嵌てみる。ぴつたりと合ひ、一つのものになる。刑事は唸るやうに。 「……うーん。吹矢だ!」 「君、これを鑑識へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して下さい。毒物の有無が第一だよ。そして、この注射針が人體に長く刺さつてゐたかどうか。その外、セロハン紙の指紋等、出來るだけ委しくね」 「承知しました」  刑事は元氣よく、ポケットから紙挾みを出して、油紙を出し、それを大切に包む。  そこを出た時は、すつかり陽が暮れて、邸内からの洩れ灯が、庭に縞を作つてゐた。星月夜を渡る風が、三吉の頬をこゝち良くなでる。  署の乘用車が、ヘッドライトを輝かせて歸りを急ぐ。 「古田君。大した發見だつたね。運轉臺の物入れの中とは氣がつかなかつた。自分の日頃愛用してゐる乘用車に、あのものが有つた事は、犯罪者の心理としてあり得る。先づ、十中の八九迄兇器に間違ひないね。特に、夫人の死體からある時間後、毒針を拔き取つてゐるとの死體檢案の斷定から判斷すれば、本間は確かに今朝その時間を持つてゐた。唯殘念な事は、その大切な本間を死なせた事だ」 「そりや、林さんの言はれる通りだね。色々な意味で、本間の自決はいたい」 「このパイプで吹矢を飛ばす。本間の犯行に間違ひないやうだ」 「否。その推定は違ひますね。あの吹矢は、このパイプでは防げない。吹矢の羽根の直徑よりも、そのパイプの内徑の方が大きい。それぢや吹矢はへら/\としか飛ばない。とても人の體に突き刺さるところ迄はゆかんでせう。唯、そのパイプが事件解決の助けになれば好いくらゐのものでせう」 「なる程。僕はそこ迄氣がつかなかつたね。ふーむ」  署長はパイプを手にとつて、何かを考へる。 「ところで署長。死體檢案には、針の突き刺さつてゐた深さはどれだけとあつたんですか?」 「約、五糎だ」 「隨分深いんだな……」 「とに角、兇器の出た事はよかつた。今夜の捜査會議をうまく進める材料にはなる。要はあれをいかに使つたかの推定さへつけば好い」 「會議は何時からですか?」 「八時からだ。古田君、差し支へなかつたら僕と一緒に夕食して、是非出席して呉れ給え」  その夜本署で、定刻に捜査會議が開かれた。署長はそれに先だち、本間運轉手の、自殺體解剖の結果を發表した。夫人殺害に使用した、同一毒藥による自殺である事。肺結核が第三期の初期である事だつた。  そこで相原捜査主任が司會して、本題に入つた。誰れが夫人を殺害したかの點では、一致して本間運轉手であると答へた。その斷定條件として、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、死體發見後の、本間の態度が非常に曖昧であつた事。 二、犯行の發見をおそれて、覺悟の自殺を遂げたものと思はれる事。 三、自殺に使用した毒藥が、夫人殺害に使用したものと同一なる事。 四、兇行推定時間の八時頃、本間のみが留守番してゐた事。(但し、その時間に本間が居たと云ふ確證が無い) 五、殺害の原因として、殺された夫人との間に特種な關係があつたと思はれる事。 [#ここで字下げ終わり]  以上五つの理由が擧げられ、更にそれへ、夕方古田三吉が發見した吹矢が唯一の物的證據として登場した事だ。即ち、今朝、お島と二人で兇行現場に入つた時、針を拔き取り、羽根の部分を窃に持ち出し、車庫内の發見場所に隱蔽し、兇器の發見を妨害した事である。  針は鑑定の結果、確かに人體に刺さつたものであり、血痕を認められ、且、毒藥を檢出したとの報告が、さつき鑑識係から屆いたばかりである。その上、セロハンの羽根部から本間の指紋が檢出されu々確實にした。  そこで署長は、 「諸君の見るところはもつともと思ふ。六項目の判定基礎は、本間こそ眞犯人と推定されるに充分なものである。又、本間が夫人を殺害するに至つた原因も、夫人との間に、村田博士が證言するやうに、何等かの關係があれば、痴情の結果とは充分考へられる。借にさうでないとしても、本間が夫人に何かを要求し、拒絶された恨みの兇行とも考へられる。それで、重要になつてくる事は、いかにしてあの犯行が進められたかと云ふ事である。吾々は六項目の推定理由を擧げる事は出來たがこれが理論的に、又科學的に説明されない限り、本間の犯行である事に疑問を殘す結果になる。殊に、兇行のあつた書齋は密室であつた事を覆す材料が無い。こゝに始めて「吹矢」と云ふ特種兇器が重要な對象をなしてくる。その點を充分考慮して諸君の考へを聞かせて貰ひ度い」  署長の話が終つて暫くは、色々と思索をこらし、推理をねつて、即答する者はゐなかつたが、やがて一人が、 「大體密室と云ふ事に間違ひないやうですが兇器が吹矢と云ふ特種なものですから、たとへば、吹矢を吹く竹筒のやうなものが入る隙さへあれば、目的を達するのではないかと思はれます。だから、殺人方法の判明した現在としては、明日にでも再度現場の細密檢索を行へば解決出來るのでは無いかと考へます。何分、吹矢が發見されたのが今日夕方です。それ迄は吹矢と云ふ事を念頭に置かなかつた爲に、さうした隙を案外見落してゐるのではないかと思はれます」 「私は、密室と云ふ點に疑はしいところがあるやうに思はれます。即ち本間が犯人とした場合。第一に兇行の事實を發見したのも本間であり、且女中が電話をかけに行つた後、單獨で現場に居た時間があります。窓の或る個所に施錠がしてなかつたものを、いかにもそれらしく見せかける事も出來る可能性があるやうに思はれます。すると、書齋の窓硝子を南寄りのものを打ち割つた事は偶然でなく、何かの目的があつた行動の一部とも考へられます」 「私は、かう云ふ事を考へます。それは、兇行の發見された部屋で殺人されたものでなく或る場所で殺害したものを、あの部屋へ運んだと云ふ推定です。理由として、夫人が沼田の邸を出た事は確認されるが、實際に上里町の邸へ到着した事を證明するものがない。推定兇行時間の八時、果して夫人が何處にゐたかと云ふ事です。死骸であの部屋へ運ばれた上で、密室の條件が作られたと云ふ推定です」 「私は、かう云ふ場合もあると思ふ。本間が誰れかを共犯として、その者に殺害させてはをらぬかと云ふ事です。共犯が密室内で夫人を殺害し、朝までそこに潜み、本間によつて兇行發見時逃がされるとすると、施錠等に一切手を觸れなくて濟むと云ふ事です。あの部屋には、たとへば、大テーブルの下。流し場の下の戸棚。雜品庫と云つた有力な隱れ場所があります」  署長は、各意見を聞き、暫く默考してゐたが、 「兇行場所の疑も出たが、これは書齋に間違ひないと思はれる。と、云ふ事は、夫人の腕卷時計の硝子が割れて散亂して居る。その量と原型時の量とは大體一致するし、夫人の着衣からは、別に他の場所で殺害された事を證明するやうな、微細物は出なかつた。何より上穿きのスリッパを穿いてゐた事は、先づあの建物外で無い事を證明する。次に密室でなかつたのではないかとの意見も出たやうだがこれは聽取書と、現場に殘された指紋により正確に一致してゐる。手を觸れてない捻子込錠については、埃を採取して檢鏡した結果、どれもが同じで、一週間は誰もが觸れてない事に斷定されてゐる。共犯説も大變鋭い見方ではあるが、外部的にどんな條件で發見されるか判らない危險があるから無理ではないかと思ふ。犯人が兇行現場から早く退散したい事は原則的心理であるが、それを平氣で居るやうな兇惡な者に、たとへば共犯を依ョしたとすれば、もつと殺し方が慘酷な方法をとられたであらうと推定される。共犯説では、密室と云ふカラクリは簡單に打ちこはせるが一方にさうした矛盾が殘る」  すると、一人の刑事が、 「署長、私が扱つた窃盜犯の手口に、捻子込錠專門のがゐましたが、丈夫な糸一本で、差込錠を開ける奴がゐました。それを逆用すれば、閉める事も出來ます。その點本間の前科調べも必要と思ひます」 「成る程。それも好い推定である。とに角、最初に意見も出たやうに、現場の再調査をもう一度明日やつてみよう。このまゝでは資料が不充分で、諸君も推定が組立ち難いと思ふ。ところで古田君。君の考へを聞かせて呉れ給へ」  と、署長が促す。さすがに三吉もこの場合居眠はしてゐなかつたやうである。 「では私の考へを申しませう……兇器として吹矢が發見され、總てが死體檢案にぴつたり符合し、これが兇行に使用された事は疑ふ餘地がありません。では、この吹矢がいかに使用されたかを第一に考へてみませう。これを飛ばすについては、先づ竹の筒つぽのやうなもので吹かれる事が常識として考へられます。しかし、その物は未だ發見されてゐませんが、よく檢討してみますと、決してそのやうなもので吹かれたのでは無い事が推定出來ます。吹矢の針ですが、これは、普通醫者が使用するもので、中型のものであります。針の長さは約五糎であります。これは注射ポンプに嵌られる根元の金具を殘した寸法ですが……夫人の背部に殘つた傷の深さも、肋骨と肋骨の間に刺さり、その先端に肺臟に達する五糎の深さのものであります。するとこれは針全部が刺さつた事になりますが、肺活量の大きい、頑丈な人間が、偉大な壓力を加へて吹矢を飛ばしたとして果して、こんなに深く突たてる事が出來るかと云へば、到底出來る事ではありません。まして、肺病の第三期にあつた本間には尚更出來ぬ事だと思ひます。しかし、これを機械的に發射したとすれば、可能性が無い事ではありません。たとへば、發條で飛ばすとか、空氣銃のやうなもので飛ばす類です。その外に極く簡單な方法があります。それは針のみを手でもつて刺す事です。ところが手でやつたとすれば、羽根は不要になり、又密室と云ふ説明がつきません。すると、どうしても機械的な吹矢の發射方法しかありません。だがそれにも不審があります。あれだけ確實にあの針を撃ち込むとすれば、狙ひ撃ちでなければならない。すると、密室と思はれるあの部屋の何處にそんな大きな間隙があるかと云ふ點であります。私は、その結論を下す事は出來ませんが、それによつて二つの疑問を掌握する事が出來ます。 ●果して、夫人殺害時が密室であつたや否や  とする疑問であります。皆さんは、吹矢と云ふ兇器を對象とすれば、密室である可きだと考へられるかも知れませんが、別に密室でなくても出來る――と云ふ事を忘れてはならんと思ひます。それは「密室」と云ふ現象が「吹矢」と云ふ素因によつて眩惑される危險があるからであります。も一つは、 ●本間が犯人であると推定した場合、あれだけ複雜な殺人を計劃した目的は、即ち犯人である自分の存在が、必ず容易に發見され無いと云ふ事を豫定してゐたと思はれるのに、兇行發見後、僅々、數時間で自殺を遂げた謎である。  そんな事を考へますと、本間は、何かの都合で、自分の犯行が以外に早く發見されさうになつた危險を避ける爲の自殺ではないかと云つた、派生的な疑問も出てきます。これが今迄に私の考へた大要であります。現場の再調査は私も痛感します。吹矢の點では、先刻説明しましたやうに、人の呼吸力で飛ばしたものでない事は斷言出來ます」  署長は、特に熱心に古田三吉の話を聞き入つてゐた。が、 「しかし古田君。少し刺さつてゐたものが倒れた瞬間、深く入る事もある」 「それも考へられます。だがそれにしても半分くらゐは刺さつてないと、曲りますね」 「偶然の一致と云ふ事もあるよ。だが、君の吹矢を機械的に飛ばすと云ふ説は全く同感だ。僕にはそれが一點の光明に思へる。本間の自殺の件は、單に罪を愧てであらうと思ふがね。君の意見にも一理あると思ふが……」  結局、その會議は決定的な結論は得る事が出來なかつたが、現場の再調査に意見が一致して、終つた。 [#4字下げ](五)[#「(五)」は中見出し]  翌朝の新聞は、一齊にこの事件を取り上げて報道した。名士である村田博士の夫人であり、且、婦人雜誌の寫眞にも度々掲載された若く美しい夫人の殺人事件である。「村田博士夫人、謎の毒殺」「影無き殺人、村田工博夫人殺し」「村田夫人、吹矢で毒殺さる」「有力容疑者、運轉手の自殺」「痴情か? 怨恨か」「痴情説有力」「林署長は語る」「村田博士は語る」等々、村田邸の見取圖。兇行の書齋。在りし日の夫人。本間運轉手自殺の部屋。記者と語る村田博士、等々の寫眞掲載。何分世相が險惡で、殺人事件の多い當時の事ではあつたが、一般的な單純犯罪とは區別して、世間の話題の中心となつた。  其の翌日の新聞は「當局必死の活躍」「解けぬ謎、村田博士夫人殺し」「現場捜査續く」「自殺運轉手の身許不明」  更に、其の翌日「運轉手の自殺は當局の失態」「新事實の發見なし」「捜査進展せず」「早くも迷宮入りか」「昨日村田夫人葬儀、秋雨の中に行はる」と、三日を經過した。  しかしその間、當の林署長は、古田三吉の言に、或る暗示を得て、相原捜査主任を督勵し、遂に本間の犯行である事を完全に立證する自信を得た。  あの日以來雨續きで、その日も署長室の窓硝子には、つる/\と水玉が下つてゐた。だが署長の顏は日本晴れで、やがて來る筈になつてゐる三吉を待つた。  三吉が約束通りやつて來た。 「古田君。あれ以來全く顏を見せなかつたね」 「いや。僕は僕でやつてましたよ。いつも林さんとは駈け違ひになつて、現場では逢はなかつたやうです……相當調査が進んだやうですね」 「うん……さうでもないがね」  と、包みきれぬ欣びを抑へ、 「實は、本間の犯行を立證する確信が出來た。明日午前九時より現場で、各關係者立會の許にその實驗を公開したいと思ふよ。君にも是非來て貰ひ度い」 「參りませう。私の方も署長に是非聞いて貰ひ度い新事實があるんでね……」 「ほう。さうかね……しかし僕は、この立證と實驗については、最後迄解決出來る自信があるがね……萬一不備な點があれば、そりや充分補正して貰はう」 「その方は大體僕も、林さんが成功されてる事と信じます。ところが僕のは……林さん。あんたのを一歩先んじてゐるかも知れませんね」 「や……大言壯語だな……まいゝ。君と僕の對立は燃え上つた方が面白い。萬事は、お互ひに明日の戰場で相見えよう……間もなく退け時だよ。今日は英氣を養ふ意味で、玉露にようかんでも御馳走しよう」 「それは有難いですね。ところで、僕の方にも注文があるんですが……明日の集合には、部外者を一切入れない事にして下さい。是非祕密を守る必要がありますからね。警察關係と地檢だけ。特に新聞記者は困ります」 「よろしい。その手配をしておかう。さあ來給へ」  署長は三吉の背なに手をかけ、子供がする仲よしのやうなかつかうで、署長室を出る。  翌日は、秋晴れの好い日和だつた。雨あがりの村田邸の庭には、凋落の秋ながら、青く殘つた草木の色に潤ひが増し、踏みしめる黒土の柔みもなつかしい。  約束の九時には、十五名程の關係者が集つた。その中には、勿論古田三吉も來てゐる。 「では、書齋へ入つて下さい」  署長が一同を誘導して全員が兇行現場へ入り終ると、しんがりの相原捜査主任が扉を閉める。閉めきつた窓の摺硝子戸には、暖い陽差しがあり、部屋の中は明るい。署長は、 「これから私は、本間運轉手がいかにして村田夫人を殺害したかの實驗を行ひ、この事件の結末をつけ度いと思ひます。御承知のやうに、夫人殺害に使用された兇器は一本の吹矢であります。そして、たしかに密室と思はれるこの部屋で行はれたのであります。ところで、吹矢が被害者に突きたつた状況から推定して、これは人が、呼吸力で吹き飛ばしたものでないとの、重要な意見を、こゝに居られる古田君より聞かされまして、三日の間、相原捜査主任と檢證に檢證を重ね、研究に研究を積んで、遂に成功したものですが、無論これには優れた古田君の推論が端緒となつた事を付け加へ度いと思ひます。先づ、吹矢が發射されたのは、あのガス管からであります」  署長の指差した、流し臺の右側のそれへ、一同の視線が集る。 「あのガス管は、御覽の通り右方へ向けられてありますが、あれでは夫人が腰を卸してゐたこの卓の前には、吹矢を發射する事が出來ませんが、兇行發見の朝、本間運轉手の手によつてあの方向に直されたものと推定されます」  と、署長は自らガス管の位置へ寄り、手でぐつと捻ると、接手の個所から回つて、こちらを向けた。 「このやうに、回轉をしますから、手を加へれば任意の方向へ向ける事が出來ます。そこで、このパイプですが、こゝの曲り接手の先は鐵製の短いパイプがつきその先に鉛管が約十糎程ついてゐますが、ガス管は普通使用しなくなれば、鉛管の先は必ずつぶすのが本當です。ところが兇行の數日前に、その潰した所を切り取つた跡があります。流し臺の上に、鋸の挽き屑が少しこぼれてゐますし、尚その切斷に使つたのはこの鋸です」  署長は窓際に置かれた木箱から、金切鋸を出して來た。 「今迄説明した事をよく御檢討下さい」  確に、その鋸の替刄には鉛を挽いた白い筋が、かすれて數條見られる。そして、流し臺の上には、注意して見ると、多少酸化した鉛の挽き屑が點々としてゐる。 「これ等のものは、鑑識係で分析の結果、この鉛管と成分を一にしたものである事が立證されてゐます。それから、この鉛管の切り口を見て下さい。切口には未だ光澤が殘り、最近切斷された事が判斷出來ます」 「この細工をした者……それは本間運轉手であります。金切鋸は車庫内の、本間の道具箱から發見されたものです。尚聽取書によりますと、博士と夫人のみが出入りしてゐたこの部屋へ、どうして本間が入り、これだけの準備をしたかの疑問がありますが、それは兇行の一週間程前、左側の水道のバルブが故障して、漏水をした時、本間が修理に入つてゐます。しかも材料買入れの都合で、三日に亘り三回修理をしてゐますから、充分その餘裕にあつたのです。この事は女中お島が證言し明白であります」  立會ひの人々は、署長の鮮な説明に、しんと聽耳をたてる。三吉は微笑を浮かべて、感心する。 「次に、どうして吹矢が飛ばされたかを實驗します。このガス管は、流しを下り地下に埋沒せられて、外部へ通じてゐる事は申す迄もありません。その状況については後刻説明するとしてこゝに兇器の吹矢と同じものがあります。これは署で似せて作つたものですが、本物と違ふところは、唯毒物が仕込んでないだけです」  と一同にそれを見せる。 「これをガス管に入れる前正確にこの矢が目的の位置へ飛ぶやうに、發射口の方向を決めます」  ポケツトから水糸を出して、パイプに平行させ、それをテーブルの中央部へ刑事に手傳はせて張る。署長は、その糸をとほして、パイプ口が正確にその方向へ向くやうに修正する。 「これでいいでせう。矢の飛ぶ方向は、殺害當時、夫人が腰掛けてゐた、卓の中央部へ狙はれてゐます。又、飛ぶ高さは、大體卓上十糎くらゐのところであります」  と説明しつゝ水糸を手繰つて、ポケツトへ入れる。 「この吹矢を、羽根の方からパイプに入れます」  それを充分※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]入すると、 「この通り先になつてゐる針は、一見して目に止ると云ふ事はありません」  立會ひの一部の人は、近くへ寄つて觀察し成る程と云つたやうに頷く。 「さあ、これで準備が終りました。係官が外で、私の合圖により飛ばす事になつてゐます。皆さんはこの吹矢の飛ぶ状態を見てゐて下さい。このガス管口から、その卓の中央前面の漆喰壁迄は、吹矢の飛ぶ通路ですから、充分下つて下さい」  そこで署長は、東側北寄りの窓を開けて、外へ一寸合圖をする。三分程すると、庭にゐた係官から準備完了の應答をうけて、 「私が手を擧げると同時に、この吹矢が飛び出します」  人々が片づをのんで見守る中を、窓に半身出した署長の手が、さつとあがる。  ぼッ――と凄じい音響を殘して、吹矢がロケツトのやうに飛び、卓上を越えて、一瞬の間に、前面の漆喰壁へ突きたつ。署長は靜に窓を閉めて、吹矢の處へ行く。針の部分が、約三分の二壁に喰入つてゐた。 「これで實驗は終りました」  感嘆する囁きと、うめき聲が、靜かな部屋の中に、波紋のやうに擴がる。檢事が 「林さん。よく調査しましたね。見事な推理です……しかし、一寸不審があります。と云ふのは、吹矢を飛ばすのは一瞬である事が頷けますが、すると、狙はれた夫人が何かのはずみで席を外したり、位置を動くと矢が外れる危險がありますね。一度飛ばしてしまへば成功不成功にかゝはらず二度と繰り返しが出來ませんね。その邊の説明はどうです?」 「もつともな御質問です。しかし犯人は一發必中を確信してやつてゐます。卓上にスタンドがありますね。そのスタンドから、この北寄りの窓を直線で結びますと、夫人の腰掛けてゐる位置がその中に入ります。只今日中でその實驗が出來ぬ事は殘念ですが……」 「判りました。すると、夫人の位置動作が、夜間ですとその北寄りの窓に投影し、外部の犯人には充分その便宜が與へられる譯ですね」 「さうです。多少輪郭はぼけますが、實驗の結果、胸部から上が、丁度あの窓に影を投げますので狙ひ撃ちが可能です」  檢事は委曲をつくした署長の説明に滿足する。 「次に、どうして吹矢を發射したかについての實驗を行ひます。この部屋の東庭へ出て下さい」  一同は、書齋の東側の庭へ出る。そこにはコンクリートで兩側壁を疊んだ、一尺幅程の溝がある。 「この溝の、こゝに見えるのが、あの部屋のガス管の端です」  署長の指し示した個處に、コンクリートで埋められたガス管の先端が、三糎程出てゐた。その反對側は、コンクリートが崩れて、ガス管がそこで中斷されてゐる事が判る。 「この出てゐる部分には螺子が切られてあります。それは配管が元通りの時、こゝがソケツトの接目になつてゐたもので、こちら側の母屋からの配管は終戰後ガス會社が材料不足の爲、發掘して回收された事が調査されてゐます。本間は先づあの口から、アセチレン瓦斯を注入します。それは、このカーバイトランプによつてします」  傍に置かれたランプを取りあげる。それは夜店等で露天商人がよく使ふものとかはらないものである。 「近頃停電が多いので、電燈代用として車庫に常備されてゐたものですが、この火口を取り除き、上部水タンクのバルブをこのやうに開きますと水滴が、下のタンクに詰められたガーバイトに作用して盛んにガスを吹き出します。そこでこの先端を、このやうにパイプに突込んで、ある程度のガスを充たすと、直ちにこの違徑ソケットを、出てゐるガス管の先端に捻込みます。小さい方の孔には、自動車のエンヂンに使用する、この點火栓を捻込みます。これでガス管の先端は完全に密閉されました。それから、これは自動車エンヂンのマグネツトですが、これから出てゐる電纜の一本を點火栓に接續し、マグネツトのボデーと、このガス管を接觸し、マグネツトの回轉軸を指で回します。管内では點火栓が火花を散らし、適當に空氣と混合されたガスは爆發的燃燒をし、その爆壓は、先刻の通り吹矢を發射します。尚こゝで、點火栓を外し、點火状況を實際にやつてみませう」  署長はプラグを外し、點火栓に用意のガソリンを數滴垂らし込み、先刻と同じ状態にして、マグネツトの回轉軸を指で一寸回すと、ぱちツ――と紫色のスパークがとび、滲んだガソリンは炎をあげた。 「このやうに發火は確實であり、且點火は任意の時行ふ事が出來ますので、絶對失敗はありません。このマグネツトもプラグもあの車庫の自動車のものであり、ガス管の端に取付けたソケツトは、あの車庫の道具箱にあつたものですから、本間運轉手にして使ひ得る品であり、また彼によつて思ひつく方法である事は疑ふ餘地がありません。その外、本間はこれ等のマグネツトや點火栓を外した事を、カモフラージユする爲に、當夜、自動車檢査を口實にして修理作業をしたものと推定されます。私はこの方法の端緒を、古田君の押收したガス管の切れ端しで掴む事が出來ました。その押收ガス管の内面には、煤煙が附着してゐる事にヒントを得、これはその管内で瓦斯體のものを燃燒させたのでは無いかと考へました時、古田君の云つた「機械的方法による吹矢の發射」を思ひ出し、それだツ――と確信を得ましてこゝまで推理した譯であります」  署長は、ほつとひと息入れて、實驗の全部を終つた。その顏には、誇る色はなかつたがこゝまで事件の眞相を追ひ込み、解決を與へた欣びはかくせないやうだつた。立會ひの人達も、息もつかせぬ林署長の解答ぶりに、暫くは言葉もなかつた。その時、古田三吉が、はゞかるやうに 「林さん……その後の話を、皆さんに聞いて頂き度いのですが……」  その聲に、署長ははじめて古田三吉の居ることに氣がついたやうに、 「おゝ……さうだつたね。自分の話に氣をとられてうつかりしてゐた」 「では、元の書齋に戻つて頂きませう」  そこで一同は、又書齋に入る。三吉は大テーブルの前に立ち、その外の者は適當に位置を占めると、三吉は徐ろに、 「只今の林さんの御話で、本間こそこの複雜な殺人を計劃し實行し、村田博士夫人を殺害したとの、立派な推理と、科學的説明には、誰れもが疑ひを持つものではありません。が獨りこの私は「本間は眞犯人にあらず」との反證を持つてゐる限り、唯今の林さんの説は承服しかねるものであります」  人々は三吉の、この爆彈宣言に驚きざわめく。とりわけ林署長と署員は緊張して色をなす。三吉はそれを手で制し、 「決して私は今迄の推理に無uな挑戰をするものではありません。唯、眞相の探究に從ひ申上げるものであります。暫く私の言に耳をかして下さい。今の説明から推定しますと、兇行の行はれる時間の或る前から、翌朝の發見迄、密室が保たれてゐた事に皆さんは間違ひ無いと答へられると思ひます。ところが、その間に、何ものかゞ入つてゐたとしたら、どうでせう。それも、兇行後僅に、十分か十五分後にこの部屋へ入り、しかもそのものが今尚この部屋にゐるとしたら、皆さんは不思議に思ひ、且そのものに關心をよせられるものと思ひます。私はこの一事により、兇行當時、この部屋が密室でなかつたと斷定します」  一同は三吉の自信に滿ちた言葉に、互に顏を見合せ、聲もない。 「私の言ひ方が、思はせ振りで失禮しましたが、その思ひがけざる闖入者は、この一册の書籍であります」  と、手を伸ばして、テーブルの上に置かれた本を手にとる。一同の視聽がそれへ釘着けにされる。 「これは、表紙の金文字にもあります通り「設計要覽」であります。とだけではお判りにならんと思ひますが、これが、夫人殺害の直後この部屋へ持ち込まれた事實であります。皆さんは、N理化學研究所長の、松尾博士を御存知と思ひます。松尾博士は有名な藏書家で學究的なものは勿論、其他一般に至る迄備へ松尾圖書館の異名があるくらゐです。※[#判読不可、184-上-10]が昨日の朝、或る目的と、外に借用したい書籍がありましたので、出社せられる前にお伺ひしました。ある目的とは、兇行發見當日、私はこの部屋のこゝで、この圖書を見、この本が松尾博士からの借用品である事を、表紙裏の「松尾藏書」の朱印により知つてゐましたので、念の爲に、何時村田博士に貸されたかを訊ねる事であります。すると、その答へは以外にも、兇行當夜の、八時少し前、村田博士からの使ひと云つて、この書籍を借りに來た者があり、その者はこの本を受取つて直ぐ歸つたとの事であります。村田博士が、果してその男に本を借りにやつた事の眞僞は暫くおくとしても、この書籍はその後何分も經過しない間に、この部屋に屆けられた事に間違ひはありません。正確な時間は推定出來ないが九時迄と思ひます。無論これは誰かゞ受取つた事に間違ひはありませんが、誰れがどの樣にしてこゝへ置いたかは不明です。そこで私は、松尾博士邸へ使ひした男を態と伏せておきましたが、それが意外にも運轉手の本間であります。すると本間は、推定の兇行時間の八時頃には、完全な現場不在證明を持つてゐる事になります。これが私の「本間は眞犯人に非ず」の反證であります」  人々は動搖し、三吉の以外な發表に驚く。署長はなかばうはづつて、 「古田君。それは本當か?」 「全くの事實であります。松尾博士にもこの證言についてはお願ひしてあります。後で、直接調査して下さい」  すると、中年の檢事が 「その書籍が、兇行發見の朝、この机にあつた事は間違ひないですね?」 「間違ひありません。現場寫眞の一部にも撮られてゐます」  と署長が替つて返事をし、唸るやうに、 「うーむ。すると……こりや、とんだ見當違ひだ。古田君! 君の推定は?」 「さうですね。私も、色々と推理をたてゝみましたが、結局、かう云ふ事にならんでせうか。  或る男が、八時頃、この部屋の中で毒針を以て夫人を突き殺す。その頃本間は、その男の使ひで松尾博士の所へ行つて留守だ。そして八時十五分頃本間が歸る。先刻説明しませんでしたが、松尾博士の證言によれば、本間は自動車で借りに行つてゐます。ですから距離から算定して、途中故障等の事故がなければその時間頃に歸れる筈であります。そして、その書籍をその男に渡す。おそらく夫人は、その時殺害されてゐたでせう。だからその現場を見られない爲、本の受渡しは部屋の外で行はれてゐると推定されます。それからこの机の上に本を置いたものと思はれます。それでその男は、この部屋を密室として、或は個處から脱出する。それは何の爲でせう! 私はかう考へます。即ち本間に、その男がいかにもこの部屋にゐると云ふ印象を與へる爲と思はれます。そして先刻の實驗でも話のあつたやうに、窓硝子に、その男がゐると云ふ事を見せる爲に、態と影を暴露して、誘導くらゐはしたでせう。そこで本間はその男を殺害する爲、兼て用意してゐた吹矢を、先刻の署長の實驗通りの方法で發射する。その後本間は、その男が斃れたかを確認する爲、このスタンドの灯を、廊下のスヰツチで消す。その時間は、九時過ぎから、女中の歸つた九時三十分の間である。それは、この博士邸の東側道路の向うに住んで居る男が、證言してゐます。翌朝、本間は、この書齋で死んでゐる者が、目的の人物でなく、夫人であつた事に驚き、その衝動と、それに加へての肺患で心身共に轉倒し、自殺を遂げた――と、私は推理します。そこで私はその推理の裏づけとして皆さんに説明する事があります。それは、毒矢が、針と羽根とが別々に使用された事であります。先づ、夫人の躯に殘つた傷の深さですが、注射針の部分が全部刺されてゐます。いかに機械的にあの吹矢が發射されたとしても、瞬間的な衝撃で、彈力ある人間の肉體にあんなにも深く入る事はあり得ない事だと思ひますが、假にこれを手で打ち込んだものとすれば、連續的に加へる力で、充分あれだけ刺す事が出來ます。犯人は、本間の用意したあのガス管の中に仕込まれた吹矢から、針だけを拔きとつて使用した結果、實際に殘つたものは羽根だけです。本間はそれを知る由がありませんから推定八時三十分から九時迄の間に、豫定通り針の無い羽根を飛ばせたのですから、勿論本間は殺人を犯してはゐません。その證據として、卓の前の漆喰壁を見て下さい」  三吉はスタンドの灯を點け、先刻の實驗用の吹矢がたつてゐる個處から、約一米近くも右方へ寄つた、云ひかへればスタンドよりも右方で、扉に近い壁面を指で示す。よく見ると、丁度毛筆の尻で突いたやうな凹みが、幽かな影を作つてゐるのが確認された。 「これは兇器の吹矢の先端、即ち羽根の竹の嵌つた所が、こゝに當つたものであります。後刻兇器の吹矢のそれと、よく比較して頂けば、ぴつたり符合する筈であります。又、こんなに吹矢の當つた位置がずれてゐる事は、即ちその男が、この卓の前に居て、自分の映像をあの窓ガラスに作り、本間に外部から、目的の人間がいかにも狙つた位置にゐる事を思はしめる爲によるもので、その男はたとへ毒針の無い吹矢でもそのものから脱れる爲に豫めガス管口を横へ向けて置いたからと推定されます。これで私の話を終ります」 [#4字下げ](六)[#「(六)」は中見出し]  俄然。古田三吉の推理に依る新事實に對し綿密な檢討が始められた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、本間が村田博士を殺害せんとした理由。 [#ここから1字下げ] 夫人と、痴情關係の發覺を恐れた結果、村田博士を殺害する。もう一歩突込んで考へれば、夫人と共謀して博士を殺害し、博士の遺産を自由にする利uの爲。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 二、博士が夫人を殺害する理由。 [#ここから1字下げ] 本間との不義を怒り、嫉妬の極殺害する。そして、その犯行を本間に轉嫁し、同時に本間を窮地に追ひ込み、自殺せしめる。本間が自殺しなく共、本間を夫人殺しの犯人とする目的の爲。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 三、古田三吉の推理を基礎とし、犯行當夜の村田博士上里邸の状況を觀察すると、兇行時間頃、本間は村田博士の使と云ひ、松尾博士邸に赴き不在。女中お島も不在。居たと考へられるのは村田夫人のみ。そこへ加害者Xが訪れた場合、兇行現場の状況から判斷して、夫人の親しいものか知人と斷定される。夫人殺害の状態には、何等抵抗の跡が無い事はそれを證明する。だから、Xが、村田博士と假定すれば、條件が一致し殺害動機も肯定出來る。 [#ここで字下げ終わり] 村田博士を、これだけの理由で疑ふとすればその反面、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、村田博士の犯行を斷定する物的證據が無い。 二、村田博士が夫人を殺害したりとすれば、密室の状態を殘して、どんな方法で書齋を脱出したか。 三、村田博士には、當夜のアリバイが有る(但そのアリバイを證明するものは無い) 四、村田博士を犯人とした場合、村田博士がどうして本間が博士を殺害しようとしてゐる事を知つたか。 [#ここで字下げ終わり] と云ふ、疑問が殘る。そこで三吉は、 「第二項目の、犯人の脱出方法は序ですから私の調べた事實を話しませう」  と意外な事を云ふ。署長は瞳をかゞやかせ「そこ迄調べてあるのか! 是非きかう。こりや……今日は散々な黒星だ。はつはつ……」  署長は頭を撫でゝ、いかにも恐縮した樣子である。まはりの人達もそれにつられて笑ふ。和やかな雰圍氣に、三吉は片頬に靨を淺く浮かべ、 「先日の捜査會議の時、或る刑事の方が、一本の糸で捻込み錠を開けるとの話から思ひついたのですが……脱出したのは、あの流し場の上の回轉窓からです。あそこだけは、こゝから見えます通り、錠が落し込みです。後で何れ調べて頂きますが、あの回轉窓には極く僅かですが、窓枠と窓ぶちの間に隙があります。こゝからでは外部の明りが透けてみえませんから判りませんが流しの上に上ればよく判ります。一見して誰れもが氣づく程でもありませんし、たとへ氣がついても、そんな重要な役目をすると考へられません。窓枠上部の隙間から丈夫な糸を通して、糸の先の輪つぱを落し錠の鐵棒のつまみ[#「つまみ」に傍点]に引つかけ、引つ張りながら外から閉ぢて糸を緩めれば、落し棒は窓枠の孔に合致した處で嵌る。然しそれでは糸がとれません。強く引けば切れて糸が殘り面白くない。そこで下面の隙から、薄いブリキ板に、勾配のついた切り缺きのあるもので、落し込みの棒に突込めば、或る勾配の處で棒に喰ひつく。そこで、ボールト螺子のナツトを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す要領で少しづゝ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]せば、完全につまみ[#「つまみ」に傍点]が横に割られたガイドに嵌る、しかもガイドに、つまみ[#「つまみ」に傍点]がうまく合ふやうに、落し棒の入る孔には、紙屑が詰めて調節してあるんです。そこで糸を、上部の隙にそつてづらせると、横向きになつたつまみ[#「つまみ」に傍点]から或る角度のところで外れて、何なく糸を拔き取る事が出來ます。そして出る時、割合ひに狭い回轉窓から無理をして出なきやならんので、窓框に着てゐるものが強く摺れるから、偶然その框に出來た木目の割れ目に、僅かではあるが毛屑が殘つてゐる。又その時部分的に窓框の埃がすりとられて目立ち易いから、全體を何か布切れのやうなもので、一面に拭き取るといつた用意周到さです。回轉窓を閉めてゐる時は、窓框が僅かしか出てないので目立たないが、開けてみてそれと判る程度ですから見落しますよ。つまみ[#「つまみ」に傍点]等は、埃が積もつたまゝですから、仲々手際良く脱出した事が頷かれます」 「なる程。可能性は充分だ……だが古田君。さうすると回轉窓の外に出る時、梯子か何か用意して置かねばならんね。手がゝりの無い所へ出る譯にはゆかないから……」 「そこの眞上には二階の窓があります。女中の證言でその窓の扉が開いてゐたと云つてましたね。調べると……その二階の窓枠の内側に、カーテンの束ねに使ふ、飾り紐を掛ける折釘があります。それから細引を回轉窓の外へ垂らして、これに足掛りを作つておき、回轉窓を閉めてから、そのまゝ綱を傳つて地上に降り、一振りすれば細引は容易に二階の部屋の折釘から外す事が出來ます。犯人はその二階の窓を閉める餘裕もなく逃走してゐるんです」 「なる程……充分説明がつく」  三吉は、ポケツトから小型の紙鋏みを出し「これが糸屑と、落し錠の孔に詰めてあつた紙屑です。紙は一般的なちり紙のやうですし糸屑も極く僅かで、背廣か、チヨツキか、ズボンか、色も柄も判りません。唯この二品を科學的に鑑定し、博士のものと比較してみるより外はないでせう。しかし、今それをする事は、新犯人に、お前を疑つてゐるぞ――との警告を發するやうで、時機的に面白くないと思ひます。ですから、もつと、のつぴきならぬ證據が出た時、この方も確かめるより外はないと思ひます」 「うむ……それは君の考へる通りだね。しかし、密室脱出方法の立派な證據にはなるし、又、その方法が明にされた事にはなる。だから新事實の解決が何パーセントか進んだ事にはなるよ」  檢事は、林署長のその言葉に合ひ槌をうち「林さんの云はれる通りだ。先刻の第二項「村田博士が夫人を殺害したとすれば、密室の状態を殘して、どんな方法で書齋を脱出したか」の問題が、これで一應解決された事になる」  三吉はそこで、 「尚、私が今日迄に比較研究してみました、兇行當夜の村田博士の行動につきお話ししませう。御承知の通り、××電鐵上里驛と、沼田驛の中間には梅ヶ枝町の驛が一つあるきりですが、この間の乘車所要時間は十五分を要します。そして、上里驛から村田邸迄は、徒歩で十三分から十五分。沼田驛から村田博士の新邸迄は、約九分から十分を要し、合計四十分は男の足でかゝります。村田博士は當夜七時三十分頃沼田邸を出て散歩してゐます。私は當夜の、××電鐵の運行状態を調査しましたところ、下り線も上り線も定時運行で、電車を利用するとすれば、上り上里町方面行の電車は、沼田發七時五十二分しかありませんから、村田博士が電車を利用しては、絶對に兇行時間の八時五分頃には、上里町にゐる筈のない事を立證します。では下り電車はどうかと云ひますと、上里町驛發八時四十分の下り電車がありますから、これは兇行を終へて沼田へ歸るには大變利用價値のある事實として考へられます。さう云つた次第で、電車利用と云ふ點は、一面には博士のアリバイを立證すると共に、一面ではこれを否定する結果になつて、大變興味ある事のやうに私は考へてをります。しかし、上里町へ行く方法は電車ばかりでなく、距離的には國道筋を利用すれば、大分近くなりますが、今のところ不明であります」 「だが古田さん。兇行時間の八時五分と云ふのは推定であるから、時間のずれを考へればそのへんがうまく合はないかね」  と檢事が訊ねる。それには林署長が代つて「實は、夫人が腕に卷いてゐた時計が、八時三分で停つてゐました。時計屋にそれを見せたところ、時計が曲つて、引つかかる程度でしたので、それを修理させ、時間の精度を計らせたところ、一晝夜に三十秒から一分くらゐ遲れるとの事です。そこで刑事をやり、村田邸の女中に訊かせますと、夫人はいつも出かける時、時計を持つのが習慣であり、當夜は時間を、沼田邸の大時計に合せて出かけたとの事だから、玄關の大時計の時間を刑事が自分の懷中時計に寫し、ラヂオの時報と合せて見たところ、殆ど合つてゐるとの報告でしたから、兇行時間は八時三分から五分頃に間違ひないだらうと、先つき古田君に話したのです」 「なる程。そこ迄調査がとゞいてゐれば充分です」  と頷く。  その日の實驗は、古田三吉が、本間のアリバイを明にした事から、事件は意外な方向に發展し、最後に、 [#ここから1字下げ] 當夜の、村田博士の行動を充分精査する事。特に、博士の兩邸宅附近、並上里、沼田の兩驛員につき、重點的に聞き込みを行ふ。 タクシー業者につき、當夜の自動車の行動を調査する事。 殺害された夫人と、本間との關係の徹底調査。 [#ここで字下げ終わり] が手配せられて、一行が現場を出たのは、午頃であつた。  林署長實驗の切り幕の裏に、新らしい舞臺となつて「村田夫人殺人事件」は登場した。あの日から、署に捜査本部が置かれ、祕密裡に追求の網が張られた。あの日の緊急手配の結集は、何も得るところはなかつた。署長は更に係官を督勵して、足による調査を強化した。  時日が經過し、捜査日誌にその日その日の記事が、逐次載せられていつた。それを要約してみると、本間には前科が無い。身許については、本間を推薦した前運轉手の、病氣歸郷をたどつて調査してみると、既に一ヶ月前病歿してゐて、調査が行き詰つた。そこで、やつと、本間が村田邸へ來る前に働いてゐたN運送店を割り出し、調査したが、期待した友人關係はなく、むしろ友達を持つ事を嫌つた傾向があつて、眞面目だが、陰氣で偏屈者で通つてゐた。更にN運送店へ紹介した、職業安定所を調査したところ、係員が、扱つた事があると云ふ記憶を手繰り、やつと本間のカードを見つけて呉れた。それによると就職は窓口受付けで、本籍はA縣と記載されてあつた。經歴は、現役で滿州にゐて、終戰後シベリヤ抑留、歸還後の就職である事が判明した。直ちに本籍地へ紹介された。  その外、特に重大な事の一つである、村田夫人と本間との關係については、調査した誰れもが、そんな事はあると思へない――と證言してゐるし、夫人はそのやうな性格の人では無いやうだ――と答へてゐる。  署長は、それを不可解に思つた。殺人動機の重大要素と考へられる事が、誰れにも否定される。唯、さうでないのは、博士だけである。  すると、犯罪動機の常識として、怨恨、物盜り、變質者の發作と考へねばならぬ。しかしそれは、村田博士と云ふ容疑者には當て嵌らない。そこで署長は、古田三吉の進言により、村田博士には、一應參考人として任意出頭して貰ふ事にした。 [#4字下げ](七)[#「(七)」は中見出し] 「引き續き厄介ですな」  村田博士が、署長室を訪れた。博士も、事件當時に比べてみると、多少やつれてみえるが、永年教授で鍛へた風格には、威嚴と理智的なところを備へて、見るからに、一寸親しめ難い感じを人に與へる。濃鼠色の背廣もぴつたりと身につき、中肉中背型で、色はやゝ黒い方である。青年時代、運動で鍛へたのだらう贅肉も無く頑丈作りのところがある。頭髮は胡麻鹽で、滑らかな皮膚は上品であり、學者らしく枯れてゐる。それだけに、態度にも言葉の端にも、傲岸なところがあるのは職掌柄であらうか。 「態々來て頂きまして濟みません。おかけ下さい」  博士は奬められた椅子を、一寸で手のひらで拂ひ、横の椅子に腰を卸してゐる、古田三吉を、瞳の隅で睨むやうに見て腰を卸す。 「早速ですが……あの事件も大體調がつきましてね。本間の犯行に間違ひない事は、あなたの證言もあり……一應調査を打ち切らうと思つてゐるんです」 「さうですよ。何時迄もこんな事に關つてゐれば、費用だつてかゝりますよ。先日、お島に聞いたんですが、大勢上里町の邸へ來られて、大體調べがついたやうですね?」 「その通りです……ですが、重要な本間が自殺してゐるんでね……少し不明な點もあります」  署長はそこで、ポケットからタバコを出し、 「村田さん。一本いかゞです」 「否。僕はさう云ふ榮養にならんものはやらないよ」 「こりや……恐れ入りますね……お酒は?」 「飮み度いとは思はないね?」 「さうですか。時節柄不自由が尠くて濟みますね。はつはつはつ」  署長は一本を古田に出し、自分も一本とり火を點け、おもむろに吸ふ。 「ところで、前のむしかへしですが……犯行當夜、兇行時間頃あなたは散歩に出てゐられましたね」 「さう」 「散歩中ですね。後藤老人の外、見た人逢つた人はありませんか? たとへば近所の人だとか、知人と云つた人にですね」 「僕としてはないね。誰れにか見られてゐるかは判らんがね……しかし、この前云つたやうに、元の教へ子に遭つてゐる」 「住所は判つてますね?」 「判らん。F市にゐると云ふ事だけ聞いた。近々、こちらで就職するからとの事で、僕の住所だけ知らせて別れたよ」 「その男の姓名は?」  三吉が、間髮を入れず訊ねる。村田博士はぎくりとしたやうだつたが、ゆつくり三吉の瞳を見返して、 「酒井……だよ」 「名前は?」 「……一寸忘れたね」 「思ひ出して下さい」 「無理だね……」  博士は鷹揚に落着き拂つて、 「何かその男に、重大な意義でもあるのかね……」 「ありますね。あなたのアリバイを證明する大切な人物です。あなたにとつても重大な關係がある筈です」  三吉は切り返す。 「ほう……すると、僕にアリバイが無いと、僕の立場に何か疑問があるやうに思へるね!」 「あなたはあの晩、本間に……自動車で松尾博士の宅へ、本を借りにやつてますね?」 「本を……そんな覺えは無いね。何かの間違ひだらう」 「松尾博士は、本間が來た事をはつきり證言してゐられますよ。現にその本が書齋の机の上に兇行當時から置かれてあります。あなたも見られたでせう?」 「知らないね……そんなものがあつたのかね本當に」 「事實です……誰れかがあなたの名を騙り、その本を借りにやつた事につき、思ひあたる事はありませんか……これはあなたにも迷惑のかゝる事です。よく考へて下さい」 「ないね。誰れがそんないたづらをしたのか……僕には見當もつかんよ」 「これは重要なお訊ねです。よく考へて下さい。簡單に返事をされる事は、あなたの答辯に誠意がない事になります」  博士は、冷たい蛇のやうな瞳色で三吉を見返し、 「知らない事は知らないと返事をするより外にはあるまい……遲い話は僕の好まんところだよ。率直な返事に遲い速いはあるまい。考へてもみ給へ、僕は當夜お島に、借りてゐた本を態々松尾博士に返しにやつたくらゐだ。その必要があれば序に借りて來させる」 「なる程。ではお島さんに鞄を持つて來させた必要は?」 「翌日の講義に、必要なメモをとるためその鞄の中にあつた參考書が必要だつたからだよ」 「しかしあなたは、その鞄を受け取ると直ぐ散歩に出られ、その上一時間以上も散歩をし歸りには後藤老人と一緒で十一時迄碁を打つた事は、別にそのメモ作りが急ぐ必要がなかつた事になりますね」 「急に、碁が打ちたくなつたので、その方を先にした迄だよ。メモは後藤老人が歸つてからとつたよ」 「メモの内容は?」 「君達素人には委しく話したつて判らないから簡單に云はう、金屬材料の熱處理に關する内、純金屬の冷却曲線に關するものだよ」 「それを翌日講義されましたね!」 「冗談云つちやいけないよ。その翌日はあの事件で、それから四五日休んでゐるよ、學校を……」 「なる程。其の後出校せられて、その講義は濟まされた譯ですね?」 「さうだよ」 「どうも、有難う御座いました。ところで、夫人と本間との關係ですが、どの程度に進んでゐたか、はつきりした事實で、其の後何か判つた事はありませんか?」 「何も無いね。しかし二人の間が潔白であつたとは證言出來ないよ。死者に鞭を打つのは好まんが、二人があの結果になつた事は、それぞれの間に釀成された不倫行爲に對する當然の結果であると、撲は考へてゐる。殊にあの朝の本間の見幕は、異樣なものであつた。惡くすれば、僕自身が殺されてゐたかも知れない。いや、輕くても怪我くらゐはさせられたかも知れない。賢明な當局には充分その邊の調査はついてゐるものと思ふが、僕だつて本間の犯行である事を立證するのは何でもない事だよ。こりや云ひ過ぎかも知れないが……ははは。では僕も急がしい躯だからこれで失禮しよう。こののち用事があれば、成る可く僕の方へ來て貰ひ度いね。では失禮」  村田博士は、不快なものを殘して歸つてしまつた。三吉は苦笑をして、默然としてゐた。林署長は、 「大分博士も癇ににさはつたやうだね。學者と云ふものはあんなんかなあ……博士の生活調査も別に變つた事はない。一般的には、妙にもの事を理論づけて、行動の上では非常に冷たいところがあるとの事だよ。少し吝嗇なところもあるやうだが、守錢奴と云ふ程でもなささうだ。その外に惡い事は聞かない。例の碁を打つた後藤老人についても調べたが、博士の言に間違ひない。勝負も三局打つて全部博士が勝つて老人の話では、何度も平手合せで三回に一回くらゐしか勝たぬ博士があの夜は馬鹿に出來がよくて散々な敗北だつたと云ふ事だ。これが博士の慘敗だつたら、心理的に結び付けて、或る期待が持てるがね」 「反對に勝つた……と云ふ事も結果に於ては同じでは無いかな……犯行が思ふ通り行つて心が冴える。當然思索が光つて妙手が出ると云つたやうに……」 「それも大いにある。しかし犯罪者の通有心理は、必ず困亂がつきもので、何か手がかりを殘すのが普通だよ」 「だがあれだけの犯行は頭腦的だ。簡單に物的證據は殘さない。傍證を集積して追ひつめて行くより方法はないでせう。それにはもう少し油斷をさして、こゝと思ふところで急追撃をやる。さうすれば、案外もろく犯人自ら心理的に崩壞する事も期待出來ます。酒井と云ふ昔の教へ子の調査と、金屬材料の熱處理に關する講義云々を、何日博士がしたかを調査させて下さい」 「よし直ぐやらう。それに博士は、吾々の調査が進み、博士を有力な容疑者としてゐる事を知らぬやうだね。これは當然祕密として守る必要がある」 「さうですよ。それは最も大切な事です。感づかれると、唯さへ尠い物的證據を湮消滅されるおそれがある。時機を、じつくり待ちませう」  それから數日後、捜査本部に屆いた報告の内、酒井と云ふ學生の事については戰時中の在學者に二人あり、一人は坂井であり、その坂井の方は、確かに學徒出陣で出たが、豫科練にゐる時事故で戰死してをり、もう一人の酒井はR工場へ動員勤務中、五月の大爆撃でこれも死亡してゐる事が判つた。講義も、その種のものが近頃せられた事實の無い事が明にされ、博士の陳述が出鱈目で、その場脱れのものと斷定された。  林署長は、一層博士の身邊調査を強化し、その結果を期待した。殺害された夫人の身許調査についても、A縣へ刑事を出張させてあるが、署長に一つの氣懸りとなつてゐるのは同じA縣へ本間の身許調査にやつてある刑事から、當該地に、本間姓の者が居た事實が無いとの、中間報告の來てゐる事である。しかし、まるきり手懸りが無いとは思はれないから、尚よく調査すると付け加へてあつた。  其の日署長が、地檢へ中間報告に行つて歸ると、相原主任が待つてゐた。 「署長。これは夫人殺害事件と關係はないと思ひますが、沼田町の派出所から聞いたのですが、殺人事件のあつた五日前、沼田の博士邸で盜難事件があつたさうです。盜難屆が派出所を經てS本署へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐるとの事でしたから、序にそちらへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて寫してきました。これです」  署長は差し出された相原主任の手帳を手に取つて、目を通す。 [#ここから1字下げ] 一、白金細臺エメラルド指輪[#地付き]一個 一、十四金眞珠入ネクタイピン[#地付き]一本 一、銀臺金象眼カフスボタン[#地付き]一組 一、絹地ゴム引レンコート(男用)[#地付き]一着 一、茶色セル背廣服上下(男物)[#地付き]一着 一、綿靴下(男用)[#地付き]三足 [#ここから2字下げ] 計六點、時價、約三萬五千圓 [#ここで字下げ終わり] 「日が暮れて間もなく、博士と夫人が散歩に出た直後くらゐださうです。犬が急に吠え出したので、女中が審つて座敷へ入ると、人影が次の間から※[#判読不可、191-下-7]先へ飛び降り逃走したとの事です」  署長は手帳を返すと、別に氣にも止めない樣子で、 「こそ泥だらう。先づ關係は無いだらうが、この際だから一應内偵して呉れ給へ。未だ物は出ないんだらう?」 「出てゐません。S署でも別に捜査はしてないさうです」 「まあ序の時に、Tの闇市でもあたつてみるんだね。彼處にはそんな奴が澤山ゐる」 「さうしませう。それからこれは一件の聞込みですが、當夜の八時頃、村田博士の自家用車が、上里方面へ向ふのを見たと云ふ者がゐるんですが……」 「兇行の夜だね?」 「さうです。見たと云ふのは、國道筋の沼田町寄りなんですが……國道の南側に通行人相手に駄菓子屋をやつてゐる家の老婆です」 「目撃状況は?」 「それが何分老人で、目がうすくてはつきりとしないが、何時も見かける村田邸の車だと云ふんです。誰れか乘つてゐたかと訊ねますと、運轉手の姿は確かに見たが、お客さんは乘つてゐたかゐないのか、はつきりしないと云ふんです。時間も確かではないが、何時も七時半から、八時頃の間に店を閉めるさうですから、八時前だらうと云ふんです」 「もう少しはつきりして呉れるといいんだがね」 「大分ねばりましたが、年齡のせゐでそれ以上判らんのですが」 「事實とすれば、良い聞込みだ。御苦勞」  署長はそれが事實とすれば、重大な時間に博士の自家用車が動いてゐる事に思ひあたつた。兇行時間前後に空白でなければならない筈の、博士の散歩時間に、自動車の謎の行動! そこで署長は、早速古田三吉を呼び寄せ、その仔細を話した。三吉は暫く默考して「なる程……人間と云ふものは感覺に盲點がある。我れながらつまらん事に氣が付かなかつた。署長! 村田博士のアリバイは覆つた」 「説明して……呉れ給へ」 「兇行當夜の、夫人、女中、本間運轉手、村田博士と並べ、その行動をよく觀察すると、丁度將棋の駒を動かすやうに、誰れかゞこれを操つてゐる事に氣がつく」 「うん」 「先づ第一の指し手が、女中お島に電話をかけ、沼田へ鞄を持つて來させる。時間は六時三十分ですね?」 「一寸待つて呉れ給へ」  署長は、書類箱から關係調書を出して調べる。 「その通りだ」 「第二が、夫人に用件を云ひつけて上里邸へやる。これが七時三十分。本間はその時上里邸で獨り留守番をしてゐる。第三の差し手はこれを動かす事だ。これは電話をかけ、自動車と共に沼田邸附近へ呼び出す。このこの時間の確認は出來んが七時頃と推定される。その間に女中お島が沼田邸へ到着する。しかしこれをそのまゝ歸したのでは兇行の邪魔になる。だから松尾博士邸へ用件を云ひつけて出す。お島が出たのは七時三十分に少し前だ」 「その通り」  署長は、盛んに調書を繰りながら、それに合ひ槌をうつ。 「その間に、これも時間の確認は出來ぬが、村田夫人が推定七時四十分頃には、誰れもゐない上里邸につく。次は村田博士だ。博士は七時三十分頃散歩すると云つて沼田邸を出る。しかし博士は行動を欺瞞する爲犬を連れてゐる。その犬をどこか、空地の人目につかぬ所へ繋ぎ、本間の自動車の待つてゐるところへ大急ぎで行く。これに約十分を要したとして、自動車に乘つた時間を七時四十分とすれば、上里町迄は自動車で十分あれば充分だ。速力次第では八分くらゐと思ふ」 「うん……なる程」 「だが博士は、邸内迄乘り着けない。少し手前で降りて、本間には松尾博士邸へ、例の本を借りにやる。本間は八時少し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた頃松尾邸へ着く」 「うん。松尾博士の證言通りだ」 「博士は八時十分前頃、夫人が一人でゐる上里邸へ入り、夫人を二階の部屋から、書齋へ誘ひこみ、問題の八時三分から五分頃兇手をふるつて斃す。そして本間の歸るを待つ。八時十分頃歸つて本間から本を受け取つて、それを書齋の卓の上に置き、本間にはその書齋に居る事を認識させる。本間は好機とばかり直ちに準備をし、この前林さんが實驗の時話されたやうに、窓硝子に映る博士の影で、動作と位置を確認して吹矢を發射する」 「しかし、本間が吹矢の發射を、その時に限る必要はないね。吹矢さへ仕込んであれば、本間にはいつでも好い譯だが……」 「それは考へられる。だが博士はその時既に夫人を殺害してゐる。だからどうしても本間にそれをさせねばならぬ絶對性が必要となつてくる。しかしそれは博士の場合であるが、本間にも博士にも、その夜その時に、互が豫定した事を實行せねばならぬ共通の絶對性があつたからだ。それは毒液を仕込んだ吹矢がその時は仕込まれてから既に三、四日も經過してゐると思はれる事だ。だからそれが乾燥して効力を減少するかも知れないとの危惧が互にあつたと思はれます。尚本間には、準備後の始めての機會であつたかも知れない事です」 「なる程」 「博士は、本間が吹矢を發射すると、その後片付けをするのを待ち、書齋に密室の状態を殘して脱出し、八時四十分の上里發下り電車に乘り、沼田で下車し、犬と後藤老人を連れて沼田の邸へ歸つてゐる。これで全部の指し駒が策戰通りに動いた譯です」 「いや全く君の推理通りだ。胸のすくやうな推理だ。これで捜査方針第三項の「村田博士には、當夜のアリバイが有る」は解決だ。餘すは第四項だけだ」  署長は喜色滿面で、第三項に赤丸をつけた。 [#4字下げ](八)[#「(八)」は中見出し]  古田三吉の優れた推理力は、かくして第三項目を解決したが、それに伴ふ聞込み調査の面では、以前として上里、沼田兩驛共、その夜村田博士らしき者を見たとする證言をなすものがゐなかつた。  又、夫人對本間の痴情關係も、連續調査されたが、有りとする者の存在は皆無であつた。署長は結局それも博士の惡意による虚構と裁斷した。折も折、それを證據だてる、奇異な電報が、A縣へ出張させた部下から屆けられた。 [#ここから1字下げ] ホンマハギメイ』ホンメイ』アキザワマサヲ』コロサレタフジント』キヨウダイノモヨウ』アトシラベチユウ [#ここで字下げ終わり]  署長と古田三吉は、その電報を繰り返して讀み、この犯罪の動機が、何か根深い因果關係にきざされてゐると思つた。博士夫人の※[#判読不可、194-中-25]名は、秋澤千代子である事は既に判つてゐる事實であるが、本間が僞名で、夫人の弟にあたるとは、實に今日迄想像も及ばなかつた。容易ならぬ犯罪!  證據不確實な難事件!  さすがに、署長も三吉も、憂色の皺を深く額にたゝんで考へた。  その時、相原捜査主任が一つの情報を持ち込んだ。 「署長。例の村田博士の盜難事件ですが。急に博士が盜難品の入手に熱心になつてきたんですが……受持ちの派出所へ昨夜博士がやつて來て、盜難品を押へて貰つたら、一萬圓の懸賞金を出すと云つたさうです」 「その目的は?」 「指輪ですが……それを亡くなつた夫人の形見として、是非殘し度いと云ふんださうです。しかし懸賞を出すのは全部の盜難品が歸つた時に出すとの事です」 「ふーん。もう一度この前の被害品控へを見せて呉れ給へ」  署長は手帳を手にして、凝と見入り、考へる。 「それと、これはどちらから連絡したか判りませんが、T闇市のボスに連絡があるらしいとの聞込みがあつたんですが………博士があの社會に特別用件があるとは思はれませんが……」 「うん。今迄に、何か食料品關係のやうな事で連絡があつた事はないかね?」 「ないやうです」 「そのボスは判らんかね?」 「判つてゐません」 「それを充分調査して呉れ給へ。贓品の行方も一緒にね。君の見込みはどうだい?」 「充分網は張つてあります。指輪も、あの闇市附近にゐる特種女が或る復員崩れから貰つてゐるとの情報も入つてゐますから、その男を森川刑事が探してゐます。目星は間違ひなく付くと思ひます」 「何れにしても、これはいい手懸りになるやうな氣がする。確かりやつて呉れ給へ」 「署長。それは何の話です?」  古田三吉が訊ねた。 「うん。この前一寸報告があつたんだが、無關係だらうと思つて君には未だ話してなかつたんだが、今の報告で少し面白くなつて來たやうだ。それはね」  と署長は博士の盜難事件を話す。三吉は一寸考へ、 「盜難品入手の目的が指輪にあるのは嘘だ。自分が殺した夫人の形見はをかしい。一寸、その表を見せて下さい」  三吉は、それを繰り返し目を通し、「茶色の背廣上下一着」を凝視する。 「ふむ。盜難當日、博士が何を着てゐたかを至急調査させて下さい。そして、その日の状體、博士と夫人、本間がどんな行動をしたかを、出來る丈け克明に調査する事です。沼田邸の絹子と云ふ女中を調べるのが好いでせう。しかし、博士邸へ出かけて調べたんではまづい。出來ればうまく連れ出して、外部で、特に博士に判つてはいけないと思ふ……」  三吉は瞳を輝やかせ、署長と相原主任へ口早に云ふ。 「絹子と云ふ女中は、五日程前やめてゐません」  相原主任が答へる。 「やめた! 行き先は?」 「夫が復員したんでやめたさうですが……行き先は判つてゐます。夫の郷里、Kの田舍です」 「そうかツ。そりや願つてもない好都合だ。そちらへ誰れかやつて、大至急調べて下さい」 「よし。直ぐやらう。だが、Kの田舍ぢや二日がかりになるね……では相原君。手配して下さい」  相原捜査主任が署長室を出ると、 「古田君。何か目當てがあるのかね?」 「調査の結果を待たねば判りません。愈々眞犯人が、心理的に崩壞する時期が來たかも知れませんよ」 「なる程。盜難品の内の、何を博士が求めてゐるかゞ問題になる話だね。犯人が自らの暗い影に追はれ出した! うん判る……愈々最後の追ひ込みになるかも知れんね。古田君!」  署長の双頬に紅がさした。  待たれた女中絹子の調査報告が、中一日おいてもたらされた。その内容は――盜難當日午後一時頃、博士と夫人が自家用車で、沼田邸へやつて來た。夫人がその時、上里邸へスーツケースを忘れてきた事に氣付き、直ぐ車で本間にそれをとりにやつた。本間が間もなく、それを屆けて來たが、本間はそれを直接夫人に渡さうとしたが、座敷の縁側にゐた博士が、そこへ置けと命じた。暫くして絹子が座敷へ行くと、博士は縁側に置かれたスーツケースを、絹子に片着けるやうに云ひつけた。内容品が亂雜に投げ出されてゐるのを、絹子が整理して元通り納めた。博士はその時手紙のやうなものを熱心に讀んでは、何か考へてゐる樣子であつた。そこへ夫人が近く迄用達しに出てゐて戻つた。博士は、その時その手紙のやうなものを、着てゐた茶色の服の上着の、内ポケットへ慌てゝ入れたやうだとの事である。それから二人は居間へ入り、絹子は自分の部屋へ下り用事をしてゐたので二人の其後は判らないが、その夕方その上着が外のものと一緒に盜難に遭つた――との事である。  茶色の上着!……それだツ。――と署長は肚の中で叫んだ。博士の求めるものが第六感に仄いた。  そこへ別動隊の森川刑事が歸つて來た。 「署長。指輪を貰つた特種女と、それをやつた復員崩れは逃亡しました。村田博士と、あるボスの關係は、却つて博士がそのボスから脅迫的な取引を強要され、博士がそれに應ずるらしい情報をつかみました」  それによると、盜難品をめぐり、相手のボスは惡人特有のカンを働かせて、盜難品全部を相當多額な金で賣買する交渉をしてゐるらしいとの事だ。しかしそのボスは、闇社會獨特の攪亂宣傳を張つて、Aだと云ひ、Bと云ひ、或はCボスと云つて、少しもその正體がつかめぬと、森川刑事はこぼす。 「森川君。そこ迄判れば大丈夫。その方はこれ以上手をつけぬ事にしよう。それは必ず近い内に博士とその男と現物取引きをやると、僕は睨んでゐる。その時機は判らぬが、場所としては、喫茶店、キヤバレー、料亭、待合と云つた場所だらうと思ふ。だから特に博士の行動からは絶對に目を離してはいかん。學校であらうと自宅で寢て居ようと、嚴重に看視と尾行をやつて呉れ給へ。そして盜難品の取引には充分注意し、たとへそれが紙きれ一枚でも取引の事實があれば、その現場で兩者と、特に取引物件を直ちに押へる事だ。逮捕令状は直ちに用意する。それから逮捕と同時に、沼田邸の捜査押收をやる事。これも令状は用意する」  かうして愈々、村田博士逮捕は嚴しく手配された。  その日は案外早くやつてきた。二日後の、午後三時過ぎ、村田博士の動靜につき、森川刑事から電話連絡があつた。  博士が銀行から、數萬の現金を引き出した事だ。署長は、もう逮捕も時間の問題だと思つた。  果してその日暮れ間もなく、Y町のS料亭で、村田博士と、相手ボスの情婦と思はれる若い女が逮捕せられた。  村田博士逮捕の報に、直ちに三吉は署長室へ迎へられた。  逮捕の時女が持つてゐた風呂敷の中に「茶色の上着」が入つてゐたのを、林署長の指圖で直ぐ本署へ屆けてきた。  署長と三吉の期待は外れなかつた。  果してポケットから引き裂いた紙片が出た。  署長は躍る胸を抑へて、それを丹念に竝べる。 「やつぱりさうだ。これで古田君。第四項の「村田博士が犯人とした場合、村田博士が、どうして本間が博士を殺害しようとしてゐる事を知つたか」の問題が解決された。これで全部終つた。A縣へ出張した刑事も、今日午後歸つた」  林署長の顏に安堵の色が泛かぶ。 「古田君……君には隨分世話になつたねえ」  深い感謝をこめ、三吉の手を握る署長の瞳に、きらりと、光るものがあつた。 [#4字下げ](九)[#「(九)」は中見出し] 「村田夫人殺し犯人、村田博士の逮捕」 「果して眞犯人か? 村田博士、有力な證據有る模樣」  意外な人の捕縛に、新聞も一般の人も、事件發生當時以上に騷いだ。  あの頃の報道は、自殺した本間運轉手が眞犯人のやうに扱はれ、新聞も民衆も漸く過去の出來事として忘れようとする時、この報道には驚いたに違ひない。K大學の教授であり工學博士であるその人の夫が、何故に若くして美しい妻を、毒矢と云ふ無慘な兇器で殺害したのだらうか? 誰れしもそれを審り、その動機を知らうとした。  逮捕當時の博士は、發狂したかの如く狂ひ猛り昂奮した。三日目の朝やつと平常の博士に戻つた。否、その時にはあの蛇のやうに冷たい瞳が潤ひ、温い感情をにじませてゐた。そして容易に自供しまいとの豫想に反し、穩かな語調で、 「私は自供に先だち、最愛の妻千代子と、その弟である、自殺した當時の運轉手雅雄君、そして、その父である秋澤信太郎君、その妻の田鶴子さん。これ丈けの人の靈に深くお詫びの祈りを捧げ度い……わけても千代子には……濟まぬ事をしたと……」  そこで博士は、せきあげる激情に身悶えし泣き崩れ、聲をあげて慟哭した。  そして又、 「私はこの罪を犯した自分の心の中に、自分でも制し切れぬ、忌はしい惡魔に魅入られ、遂に今日に至つた事を、深く悔悟します」  と前おきして自供した。  その遠因とも云ふ可き因果關係は、二十數年前にさかのぼる。  その頃の村田博士は、三十を幾つも出てゐなかつた。B大學を卒業し、I縣廳を振り出しに、A縣廳に轉勤になつた當時の事である。  そこで彼は、同じB大學卒業の秋澤信太郎を知り、刎頸の交りを結んだ。下宿住居をしてゐた彼は、何かと不便もあるので、自然秋澤の家庭に繁々と出入りするやうになつた。秋澤には田鶴子[#「田鶴子」は底本では「田鶴」]と云ふ美しい妻があり、五歳になる千代子と云ふ女の子があつて、非常に圓滿であつた。  その内に、彼と田鶴子がをかしいと、近所の人が噂しはじめた。その噂は、やがて、廳内の同じ課員の同僚迄擴つた。秋澤信太郎の夫人田鶴子が、美人で聞こえてゐた事は、尚更噂の波紋にスピードを加へた。  彼はその噂の包圍の中にあつて、今に秋澤信太郎が、手袋を投げつけてくるに違ひないと覺悟してゐた。その時は潔く友の怒を受け彼の氣持の濟む制裁に甘じようと心に決めてゐた。  しかし、事實はそんな樣子等、秋澤信太郎は一切見せなかつた。その噂を知つてゐると思はれるのに、彼に對する態度は今迄と少しも變らなかつた。  何か起きると期待した周圍の人々も、秋澤の大きな雅量に呆れると、それだけ彼に對して冷たい瞳を報いてきた。大きな聲さへ出す事を知らぬ内氣な田鶴子夫人を、なかば暴力をふるつて、彼が冐したのだらうとさへ、人々は非難をこめて噂した。  彼はその噂に、毎日むかむかした。その苛立たしさは、總て秋澤の卑屈な性格により、人の口を借りて、故意に自分を責めるものだと、却て友の誠意を疑ひ、憎惡する結果となつた。  そんな事から自然秋澤の家庭へ出入する足も遠くなつた。だが秋澤は、一旦信じた合つた友の離反をおそれるやうに、今度は彼の下宿を、埋め合せるやうに訪れて、彼の氣を引き立てる事に努力した。  彼はその時孤獨感から、すべてを忘れるのによい時機だと考へ、宿願の論文を書いた。そして年が變つて「博士」の名譽をかち得た。秋澤は友の欣びを祝福して、彼を無理矢理に自宅へ招き、小宴を張つた。その友情の深さを、彼は決して素直に受取つてはゐなかつた。「横ツ面を撲つてやり度い」やうな、いぢけた感情を抱いただけだと、博士は告白してゐる。  そして、その頃多少は飮めた酒が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、醉が發すると、その頃身籠つてゐた夫人の子は村田の子だらうと世間では噂してゐた事につき、 「今度、田鶴子さんから産れる子は、僕の子かも知れない! 産れたら僕が引きとつて育てる」  と暴言を吐いてしまつた。席にゐた夫人はわつと泣き出し、さすが秋澤も蒼白い顏をして默つてゐた。 「この僕を撲れ! 殺せ! ……何故撲らない!」  彼も醉に蒼ざめて秋澤に躯をすり寄せた。あ※[#判読不可、198-中-1]の※[#判読不可、198-中-1]※[#判読不可、198-中-1]秋澤に思ふさま撲られたら、自分の胸に凄喰ふ惡魔は退散して、どんなに氣が樂になつたかも知れぬ……その方が僕には幸福だつたと思ひますと、博士は述懷してゐる。  間もなく田鶴子夫人は、運命の子、雅雄を産んだ。そして二ヶ月も經たぬ内にAの田舍へ、秋澤の手で里子に出してしまつた。  彼は、その秋澤の不可解な行動を深く考へる餘裕もなく、輕蔑した。が、秋澤の彼に對する友情は何の變るところもなかつた。それが日と共にu々彼の秋澤に對する惡魔的な憎惡に變つていつた。それは秋澤が彼に對し、やがて一氣に復讐する欺瞞手段だと怖れ警戒した。  それから半年もすると、秋澤は胸の病が再發して床についた。その時彼は、不思議にも秋澤に對する激しいものを感じないで、よく面倒を見た。だが病氣は日増しに惡くなつてゆく。秋澤自身も再起の見込みの無い事を悟つたもののやうに、彼が繁々と見舞ふ度に、系累の無い妻や子供の將來を繰り返し繰り返しョむのだつた。  それが重なると、いつしか彼の秋澤に對する氣持がいぢけ始めた。  秋澤が亡くなる一ヶ月程前だつた。彼が見舞ふと、秋澤は數葉の設計圖を出して、 「これは自分が永い間かゝつて設計した「精巧柄織機」の要圖である。これの特許權を取得して、何處かへその權利を賣り、その金で家族の生活費、子供の學資に充てゝ欲しい」と依ョされた。彼は友の言ふまゝにその手續きをとつてやつた。  その許可が下附されぬ内に、秋澤は初秋の頃死んでしまつた。  遺骸にすがつて※[#判読不可、198-下-10]※[#判読不可、198-下-10]※[#判読不可、198-下-10]人――しかし彼には滾れる一滴の泪もなかつた。人を信じ疑ふ事を知らなかつたその友の死を前にして、むしろ、暗い影から解放されたやうな氣安さと、運命に負けた友の生涯を、好い氣味だ――と云つた生々しい慘酷に醉つた。  翌年の正月、彼は秋澤の遺言だと云つて、八歳になつた千代子を夫人の手から引き離してA縣廳を辭め、行き先も告げずに引き移つてしまつた。その時許可になつてゐた特許權さへも持つたまゝである。  夫人は、彼を恨んだ。しかし氣の弱い彼女はそれをどうするすべもなく、里子にやつてあつた雅雄を引きとつて、淋しい生活を始めた。  彼はA縣を出てから、M市へ來て××工業へ就職した。その頃は戰爭の始まる前で、織物界は景氣がよかつた。そこで特許權を或る會社に貸與して賦金を得た。  かうして秋澤の家庭は分裂し、十年を經過した。運命の子雅雄は小學校を卒業し、その年の夏事變が起きた。その頃の雅雄の家庭は貧困を極め、加へて田鶴子夫人は數年前から頭が少しづつをかしくなつて、生活も方面委員の手で助けられてゐた。  村田博士は千代子と共に、その頃N市に移り、S工業の技師長旁々M大の講師を兼ねてゐた。千代子は女學校を卒業し、博士の身の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りを切り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、小父樣……小父樣とよく親しんだ。しかしその年の暮には博士夫人となつて、順調な生活を續けた。  雅雄は生活を助ける爲、トラックの助手などしたが、到底支へにはならない。母はu々狂つて、村田さんは惡い人だ、千代子を返せ……千代子を返せと、町中を喚き歩いた。昂奮が靜まれば何處にでも腰を卸し、何かぶつ/\と呟く。雅雄は風の中に母を尋ね、雨の中を、何度となく連れ歸つた。自然近所の人が、雅雄の知らなかつた事を、慰め顏に色々と教へて呉れる。千代子と云ふ姉の有る事は知つてゐたが、村田と云ふ人間が、自分達母子にとつてどんな立場の人間であるかゞ、少し宛判つてきた。村田と云ふ男が、自分達をこの窮境に追ひ込んだ、惡い奴であると云ふ觀念が刻みつけられていつた。  戰爭は段々と激しくなり、雅雄にも徴用がかゝつて、母との家庭生活が出來なくなつたので、母は施療患者としてAの精神病院へ入れられた。暗い影を背負ひ、戰爭の嚴しい鞭に打たれて、雅雄は陰鬱な人間に成長したが病院に母を慰める事だけは缺かさなかつた。併し狂つた母には慰めにはならなかつただらう。唯それは雅雄自身の大きな慰めに過ぎぬ。  愈々戰爭が最後の足掻きをする頃、雅雄は現役入營し、直ぐに滿州へ送られて現地教育を受けたが、そこで一年も經たぬ内に終戰となり、引き續きシベリヤに抑留せられた。  二年後やつと歸還する事が出來た。苦しい捕虜生活から解放され、内治の土地を踏んだ時、雅雄としては生涯を通じての歡びであつた。直ちにA縣へ歸り、母を訪れた。  母は幸ひ生命を全うしてゐた。しかしそれは生きてゐるだけに過ぎぬ。母には他人が來た程の感情しかない。おまけに足腰も立たず保健室の暗く冷たい中で、糸のやうに痩せた躯を藁床の上に横へてゐた。  雅雄は冷たい現實に泣いた。彼の想像してゐた母は、もつと元氣溌剌であつた筈だ。院長は、母が入院當初から雅雄を知つてゐたので、色々同情もし勵ましても呉れた。當分は雅雄の爲に一室さへ提供して呉れたのだが、それから半ヶ月も經たぬ間に、その朝には、母は一個の骸となつてゐた。  暗い運命と、冷たい生活、歸れば母の死に遭ふ。こんな呪はしい事はないと、雅雄は院長にもらしたとの事である。  幸ひ院長の理解と同情で、看護人として病院で働く事になつた。  だが、大きな不幸はそれから急激にふくらんで、遂に雅雄は村田博士を殺害しようと思つた。二ヶ月もゐてそこを無斷で飛び出した。猛毒○○はその折持ち出したものであると、出張した刑事は報告してゐる。  そして、村田博士を求めてT市へ來た。職業安定所からN運送店へトラックの運轉手として就職する。しかし或る目的を持つ雅雄は本間と僞名し、同僚とも全くつきあはなかつた。その内、自動車の修理工場で偶然、村田博士邸の雇ひ運轉手と知り合ひ、遂にその運轉手の推薦で村田邸へ雇はれる事になつたものである。  そこで始めてもの心ついてからの村田夫人を見た。餘りにも亡くなつた母に生き寫しである事に雅雄は驚いたが、それが姉の千代子である事も同時に知る事が出來た。  だが、その事は色にも出さず、眞面目に働いて、博士からも信用を得、胸に祕した目的を達する日を待つた。その内に雅雄は、抑留生活中その徴候をみた胸の病が、自分でもはつきり判つて惡化する事に氣がつき、愈々計劃を實行する事にした。それには、せめて自分の苦しい胸の内を、姉に丈けは打ち明けておかうと思つた。かりそめにも自分が狙ふ人の妻であり、肉身の姉には、さうする事が順序だと考へたからである。  村田夫人の買物に、自家用車で同行した機會に、雅雄は、自分が夫人の弟である事を話した。  夫人は驚いた。疑つた。そこで雅雄は自分の生ひ立ちを話し、村田博士との繋りを話した。そして母の死を語り、村田博士こそは秋澤の家庭を紙屑のやうに踏みにぢつた惡人であり、殺しても差支へない惡人だと罵つた。  夫人は、今日迄の自分の生活と、幼い頃の思ひ出を辿つて、それは眞實の事であると悟つた。唯自分は、それを永い間知らなかつただけの事であるし、その後の事を考へてもみようと思はなかつただけの事であつたのだ。  だが、夫であり、妻である自分には、雅雄の生々しい程の激しいものは急には起きてこない。そこで自分の立場も解らせ、弟の將來も考へる約束をして、弟の自重を願つた。  夫人はそれを煩悶した。そして切り出す機會を失つたまゝに、あの悲劇を迎へた事は、矢張り夫人も運命の子として、母の田鶴子の内氣で弱氣なところを血に受けてゐたかも知れない。  氣弱い女性が煩悶を持てば、それが表面に出る事は當然である。時にはぼんやり考へ、もの言ひた氣にしてはそれを隱す夫人の態度に、博士はやがて疑ひを持ちはじめた。  第一に年齡が違ひ過ぎる。千代子の母は自分が若い頃、冐した覺えがある――博士は自分の抱くひけ目と宿命に壓迫されて、遂に架空的な妄念を信じ、本間と妻との間に警戒の瞳を向け、その眞否を確め度いと焦り出した。  たまたま博士夫妻が、週末に沼田邸へ行つた時、夫人が上里邸へスーツケースを忘れ、それを本間が折り返し車で取りに戻つた。その時本間は、姉に渡す可き手紙のある事に氣付き、その中の奧深くそれを忍ばせて、直接姉に逢ひ、その旨を告げてスーツケースを手渡さうとした。  博士は疑ふ者の敏感さでそれを知り、夫人の手に屆く迄にそれを探し當てた。  それが、博士逮捕の日、茶色の上着のポケットから出たもので、この事件の動かし難い證據となつたものである。 [#ここから1字下げ] 姉さん私はもう貴方の氣休めのやうな返事を待つてゐる事は出來ない。 鬼のやうな村田さんがそんな事に耳をかす人とは思つてはゐない。 お母さんが生きながら骨のやうに瘠せ細つてAの病院の藁床の上で死なれた有樣が私を責める。 貴方は貴方の道を行つても、私は少しも恨まない。私は私の道を行く。 私は村田久逸を間違ひなく殺す事に決めた。極惡人村田久逸が死ねば私も死ぬ。 どうせ私は永く生きられない躯だ。 こんないやな世の中に生きてゐたいとは思はない。 貴方の夫であるあの男が急死しても、姉さんは驚く事も悲しむ事も無い。それはみんな村田久逸自身が背負ふ可き罪の償ひだから。 これが雅雄から姉さんに送る最後のお願ひと思ふ。 姉さんにゆつくりと「さやうなら」を云ふ暇も無いかも知れない。 讀んだら必ず燒き捨てゝ下さい。 [#地付き]雅雄 [#ここで字下げ終わり]  博士はそれを何度も讀み、目を疑つた。そしてA縣での事が惡夢のやうに蘇つてきて、總ての事情が判つた。  何時かは自分に復讐するだらう――との潜在意識が、秋澤信太郎の怨念となつて、今、自分に擬せられた。勃然――とあれ以來の片意地が火の玉のやうになつて博士の胸を駈※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。――よしツ――博士は何の躊躇もなく鬪心が奮ひ起きて、秋澤信太郎への挑戰に身ぶるひした。  その手紙を引き裂いてゐる所へ、夫人が外出から歸つて來た。博士は慌てゝ上着の内ポケットに入れた。 [#4字下げ](十)[#「(十)」は中見出し]  博士は雅雄の身邊を鋭く看視した。夫人は無論その手紙を見ないし、雅雄の氣持がそこ迄切迫したものとは考へてもゐなかつた。  その翌日、博士は宣戰を布告するやうに、豫定を繰り上げて上里邸へ夫人を連れて歸つた。書齋の水道が故障して、その修理を雅雄がやつた。雅雄にしても、恐らくその時迄博士を斃す具體的な事は考へてゐなかつたに違ひ無いと思はれたが、ふと目についたガス管から、吹矢を飛ばす思ひつきをした。それが雅雄にも人を殺す方法として興味を持つた事は、異状性格と云へない事もあるまい。その思ひつきは魅力を増し、車庫で三尺程のパイプを材料として試驗を繰り返し、遂にその可能である事に自信を持つた。その間絶えず博士の看視が、陰に陽に雅雄に注がれてゐる事を、雅雄は少しも知らなかつた。博士はそれによつて大體の雅雄の意圖を知つた。  修理の三日目に、雅雄は準備を完成した。博士はその後を仔細に調べる迄もなく、切斷されたガス管口に裝填された吹矢を發見し、それが自分の卓の前の椅子に向けられてゐる事を知つた。  そこで博士は、書齋で仕事をする事に危險を感じて、そこへ寄りつかぬ事にし、雅雄にその隙を與へなかつたが、博士自身もその夜一夜を考へ明し、それを有効に逆用する方法を考へ、中一日おいて、夫人と沼田の邸へ行つた。その時、博士は、それがどんな不幸な結果になるかも考へてみなかつた。唯秋澤信太郎の卑屈な幼影に滿々たる鬪爭心と、生々しい冐險を感じ續けてゐた――と告白してゐる。  その昂奮は、不思議な魅力となつて、あの日の晝間、夫人の死體檢案にあつた事實と、臀部に皮下出血の痕を殘してゐる。夫人の面影を通じ、秋澤田鶴子に對する異状な性的昂奮!  それも博士には、始めての經驗だつたと語つた。  以上はA縣へ出張した刑事二人の調査事實と、博士の自供を綜合的に記したものである。  自供は兇行當夜に移る。  博士はその夜を兇行の日と定めて愈々實行に移つた。こゝでは、古田三吉の推理に依り解かれたところは重複を避けて、それ以外の點を述べる事にする。  お島に電話をかけて後、博士は夫人に向ひ「今ふと思ひ出したが、とんだ事を忘れてゐた。助教の服部君が今夜七時半に上里の邸へ約束の金を屆けて來る事になつてゐるんだ。その外、一寸大切な話の返事ももつて來る事になつてゐるから、お前直ぐ行つて欲しい」と夫人をせきたてゝ使に出した。そして上里邸で留守番をしてゐる本間に、急用があるから車で迎へに來るやうに云つた。本間はその時、留守番が誰れもゐなくなるがどうするかと訊ねたのに對し、お島が直ぐ歸る筈だからと嘘を云ひ、車は途中僕が寄り道をして行くから國道筋を沼田邸へ一寸入つた道路上で待つやうに云ひつけた。それから散歩すると云つて連れて出た犬は、晝間見て置いた沼田驛寄りの、燒跡の防空壕に繋ぎ、大急ぎで本間の待たせてある所へ駈けつけ、上里邸へ急がせた。  邸の手前で自動車を停め、本間には松尾博士邸へ使ひにやり、夫人の姿を求めて二階の居間へ入つた。夫人はそこで婦人雜誌を讀んでゐた。 「どうも……やつぱり僕がゐないと都合が惡いのでやつて來たよ。服部君はもう歸つたの」と夫人にさり氣なく訊ねる。夫人は、 「いゝえ。未だお出でになりませんのよ。私が來た時お島もゐないし、本間も車で何處かへ出てゐるやうで御座いますが……隨分不要心ね。この間盜難があつたばかりだと云ふのに……あなた何でおいでになりましたの?」 「僕か……僕は車で來たよ……もう服部君が來る頃と思ふ。したの書齋を開けといて呉れ。お前も一緒にゐるやうにね」  夫人を書齋へやり、博士は北側の窓を開くと、用意の細引を垂らし、電灯を消して書齋へ降りる。博士は書齋へ入ると、ゆつくりガス管の所へ行き、豫定通り吹矢から針だけ拔きとつた。 「水道は大丈夫のやうだね。本間は器用な男で重寶だ」と夫人に油斷をさせて、卓の前に腰を卸し、抽出しの中を整理してゐる夫人の背後に立つた。  博士の顏に、恐ろしい殺氣が漲る。  兇行の寸前!  だが博士の精神状態は、唯それを豫定通りに進める惡魔的な歡びに陶醉しきつてゐる。博士の右拇指に支へられた毒針は、瞬間――夫人の背に深く突きたてられた。 「あつ」  と悲鳴をあげる夫人。その間髮、博士の左手のハンカチを持つた手がその口を塞ぐ。  激しく夫人は手を振り、痙攣が起る。化粧の香料が博士の鼻をかすめ、ふくよかな夫人の躯が重みを加へ博士の[#「博士」は底本では「博の」]腕に倒れ込むのを、さつと身をかはせば、夫人は椅子と共に板床へどたり――と轉落する。  博士の瞳はうつろに光り、額に脂汗が滲む。  現實に戻つた博士は、左手のハンカチでつるツと顏を拭ふと、ノッブにそれを卷きつけ部屋を飛び出し、扉を閉めて、玄關迄出て本間の歸るのを待つた。  さすがに苛々と博士は焦つた。時計を出して見る。八時八分だつた。間もなくヘッドライトが門を入り、本間が歸つた。博士は本を受取ると、 「御苦勞。ところで僕は今から三十分程調物をする。大切な事だからその間絶對誰れも入れないやうに注意して呉れ給へ」と、落着いて書齋へ入る。本間はそれを凝つと見送り、三十分――と心に呟き、好機とばかりに、車庫へ引き返し、大急ぎでマグネットを外す。その外のものは充分何時でも使用出來るやうに準備してあつたに違ひない。博士は本間にそれを早くさせる爲、態と三十分と時間をきつて誘導する。そして博士は、客用の椅子を卓の前に置き、それへ腰をかける。吹矢は自分に當らぬやう、パイプは豫め左の方向へ少し向けてある。自分のシルエットを硝子窓に映し、書物をしてゐるやうに見せ、時々は頭を上げて考へるやうなゼスチュアもする。それは本間が、窓外から見てゐるに違ひないからだ。後は唯吹矢さへ發射されゝば直ぐこゝを脱出し、豫定の時間に電車へ乘れば好い。間も無く吹矢が、スタンドの右方の壁にはね返り卓の上に轉つた。博士は態と倒れて、窓ガラスから影を消す。そこで直ぐに椅子を片付け抽出を閉め、その他を素早く瞳で點檢する。靴はもう脱出の用意に脱いであるから、靴下跣足で物音一つたてない。用意の手袋を嵌め、本間が後片づけを終つた氣配を確かめて、流しの上に上り、靴は回轉窓から投げ落し、二階の窓から下つた細引を手懸りにそこを脱出する。博士は學生時代登山部員をしてゐたので、そのやうな事は譯無い。窓框の埃は一樣にハンカチで拭ひ、用意の絹糸で回轉窓を閉めて、細引傳ひに地上へ降り、一振りして細引を二階の窓から外す。跣足のまゝ庭を横ぎり、塀外へ出てそこで靴を穿く。上里驛へ出る道すがら、博士は色眼鏡をかけ、折り疊んだソフト帽を出して冠り、ネクタイは外し背廣服の襟をたてゝ、顏を知られてゐる上里驛員の目を胡魔化して出札所を通りぬけてゐる。  當時刑事が、古田三吉の推理により兩驛をあらつたが、博士はかうした計劃的な手段によつて驛員を眩惑し、その危險を突破してゐた。特に博士は平常帽子を冠らない習慣を、巧に利用してゐる。  本間にしてみれば、殺人時に、書齋が密室であらうとなからうと、又夜であらうと晝であらうと、目的は博士の謀殺にあり、その機會を狙つてゐた矢先なのだから、博士の誘導作戰の思ふ壺に嵌つた譯である。又本間が、吹矢で毒殺を思ひついた事は、病身である彼が、體力的に比較しても、博士と一騎打ちをして失敗する事を恐れての考へもあつたと思はれる。  朝になつて、それが意外にも姉の夫人であつた事は、本間にとつて大きな驚きであつたか、想像に絶する。博士はそれを、惡魔的な歡喜で觀賞したと云つてゐる。  その朝博士が上里邸に駈けつけ、お島に水を汲みに行かせた後、その場に呼び寄せた本間に、 「本間……君はとんでもない事をやつたね。僕には、君が殺した事はよく判つてゐる。今こゝで君にくど/\しい事を云ふ暇もない。又訊く必要もない。これだけの罪を犯して、お前だつてこのまゝ濟むとは思つてゐないだらう……自決しろ! それが最も男らしくてよい。他の者に僕は何も云はない。お前も何も云ふな。そして自決するんだ!」  お島が二度席を外した間にこれだけの事を云ひ、暗に自殺を奬めてゐる。  博士としては、兇行後本間が自殺を覺悟してゐる事は、姉である夫人に送つた手紙で豫定してゐた事だ。そればかりでない。萬一本間が事の齟齬に逆上し、博士に狂暴な態度をとるかも知れないと考へ、それに對する備へもしてゐた。  現にその朝本間は、例のパイプを握りしめ博士の前へやつて來た。次第によつては、それで博士を一撃する氣構へであつたと思はれる。その時博士はポケットにピストルを忍ばせ、本間にその氣配があれば、正當防衞で射殺する考へであつたと自供してゐる。  しかし本間はその氣力も無く、姉を殺した過誤は總て自分の罪と覺悟して、自殺してしまつた。  其の後の事態は博士にとつて、甚だ有利かのやうにみえた。これでこの事件は誰れが見ても本間の兇行と思へる結果となり、しかも密室と云ふ奇怪な條件まで殘す事が出來た。そして當局が密室の殺人に眩惑され、その解決に困難を極め時日を費す。或はそれが難解のまゝ調査が挫折して、結果は簡單に本間の殺人である事に斷定されるかも知れない。都合の好い事に、夫人の躯に突き立つてゐた吹矢を、あの朝本間が故意に何處かへ持ち去つた事は、博士にu々その感を深くせしめてゐる。又、たとへあの殺人方法が優れた推理に依つて解かれたとしても、事實あの殺人準備が、本間の手によつてなされた事に間違ひないから、自然博士は容疑の埒外に置かれると信じてゐた事は云ふ迄もない。  だが結果は、このやうに完全犯罪と信じ、巧に本間を利用し過ぎた結果となり、複雜な犯行手段は、精巧な機械程毀れ易い――の如く、松尾博士から借りた一册の書籍と、吹矢を使ひ分けしたけれん[#「けれん」に傍点]が犯行全體を正規な軌道に乘せる推理の端緒となつたのである。  その破綻は、密室脱出方法を、古田三吉に喝破せられる結果となり、講義の虚僞と、アリバイに引用した人物の架空は、博士の犯行である事を裏づけする有力な傍證となつた。  博士はしかし、未だそこ迄自分が危機に曝されてゐるとは考へてゐなかつたと云ふ。だが博士は、自分の犯行の完全度の再考をした時、盜難品の背廣の上着に、重大な物的證據となるものを殘してゐる事に氣がついた。  一旦それが氣になりだすと、黒い影は積亂雲のやうに博士の胸の中に擴つた。そこに心理的な綻びが出來、博士のその物の入手に對する執着は、行動の上に於て陽性となり、自ら致命的な證據を提供する結果となつた。  この犯罪の特異性としては、本間の思ひつきで計劃された殺人方法が、村田博士の利用によつて、非常に複雜化された事である。又この犯罪を底流する素因に、各關係者が一環となつて、一つの因果を形成してゐた事である。  かくして博士の自供により、直接證據と一切の傍證を裏づけとして、この事件は期間一ぱいに起訴せられた。  其の日は朝から雲が低く空を掩つて、そこ冷えがした。街は灰色の淵に深く沈んで、午後からは、ちら/\と初の雪が降りはじめた。古田三吉は署長室に林署長を訪れた。 「愈々博士も起訴されましたね」 「行き着く所へ行き着いたよ。この事件では隨分君の世話になつたね……いや、君の力ではじめて解決されたと云つて好い。僕もほつとしたよ」 「しかしね……林さん」  三吉は沁々と話しかけ、 「この事件は僕が解決しなくても、自然に時が解決して呉れたと思ふ。あの犯行は永久に迷宮入りをしても、村田博士はものゝ三ヶ月も經たない内に自殺しますね……村田博士とはそんな人だと思ふ。その方が、博士にとつて幸福な、そして極く自然な斷罪だと思ふね」 「……」 「林さんもいつか云はれたやうに、人間的には博士は好い人だと思ひますね。あの事件だつて、人間的な弱さが丸出しです」 「さうだね。二十年以上も前の因果關係が、あんな恐ろしい結果を生むなんて……博士は確かに精神的に缺けた處もある。自供を前に、博士は、自分でも制しきれぬ惡魔の魅力に勝てなかつたと告白してゐる。博士自身の子であつたかも知れない秋澤雅雄の犯行計劃がきつかけとなり、最愛の夫人を何の躊躇もなく殺し、罪をu々大きくしたこの事件にはたしかに一般事件に見られない因縁がある。法的に云へば精神病者の犯罪と云つても過言でないね。博士のやうな知識人が、あのやうな大罪を犯す事は、常識として誰れも考へない。いづれ公判となれば精神鑑定も要求されると思ふ。唯殘念な事は、何故自首出來なかつたかだ」 「さうだね。そしてこれは林さんの手で調査して貰ふ事項に、博士の系累に、精神病的なものが流れてゐないかの事です」 「早速やらう。惡い面ばかりをあばくのが吾々の任務の總てではないからね。犯人に有利な條件も犯罪檢擧には必要な事だからね」 「博士の、其の後はどうですか?」 「安心し、懺悔そのものゝ毎日だよ」 「……」  三吉は、瀬戸燒の高い火鉢に手をかざし、上半身を俯向けて、何かを想ふ。  窓からは灰色の雲でぬりつぶされ、雪はいつしか霙にかはつてゐた。濡れ綿を打ちつけるやうに降る霙が、窓外の庭木や塀上に寒天のやうに積もる。  しん/\と寒さが身に沁る。 [#地付き](完) 底本:「寶石臨時増刊 文藝探偵小説號」岩谷書店    1949(昭和24)年7月5日発行 初出:「寶石臨時増刊 文藝探偵小説號」岩谷書店    1949(昭和24)年7月5日発行 ※底本は旧字旧仮名づかいです。なお拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。