ボウ町の怪事件 THE BIG BOW MYSTERY イスレール・ザングヴィル Israel Zangwill 長谷川修二訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)忘れ難い一朝《ひとあさ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)巧笑|倩《せん》たり [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)頭脳明※[#「日+折」、第4水準2-14-2]な ------------------------------------------------------- [#5字下げ]1[#「1」は中見出し]  十二月はじめの忘れ難い一朝《ひとあさ》、ロンドンは一面の冷たい薄墨色の霧に明けた。日によっては、無敵の濃霧は、炭素の分子を密集部隊にして市内に送りこみ、郊外には分散してちらばらせることがある。こういう日には、朝の汽車で行くと、彼誰時《かわたれどき》から真の闇に突入する。しかしこの日、敵の行動はもっと単調であった。東はボウから西はハマスミスにかけて、冴えない惨めな水蒸気が垂れこめたさまは、金ゆえに自殺した直後に資産のころがりこんだ者の亡霊の妄念にも似ていた。気圧計も寒暖計も亡霊の執着に同情し、その意気(計器に意気があるとすれば)大いにあがらなかった。寒さは匁の沢山ついたナイフのように肌を切った。  ボウ町グラヴァ通り十一のドラブダンプ夫人は濃霧にめげない僅かなロンドン人の一人であった。夫人は平素と少しも違わず、侘しげに立ち働いた。彼女は敵の来襲に最も早く気づいた仲間で、寝室のブラインドを巻きあげて冬の朝の陰気な光景に目をやった途端に、闇の渦の中に濃霧の気を察したのであった。この模様では少なくとも今日一杯は霧は消えそうもないし、この節季のガス代が高跳びの記録を破るに相違ないのも判った。これは今度来た男の下宿人のアーサ・コンスタント氏と話をきめる時に、ガスを一週一シリングの定額で使わせることにしてしまったからである点も、彼女は知っていた。家中の実費の割合を分担して貰う話にすればよかったのに。気象学者連は天気の長期予報に、「雪」を本命あつかいにして、「霧」は問題にしなかったが、この時にドラブダンプ夫人の次のガス代を考慮に入れていたならば、彼等の宗《むね》とする科学の信用を保てたに相違ない。霧つづきであったが、ドラブダンプ夫人は自分の先見の明を誇ろうともしなかった。ドラブダンプ夫人は何がどうなろうと、一こう動じない。根気よく自力で世を渡る質《たち》で、水平線にまで達しようとあがく疲れた泳ぎ手のように、人生の苦労にひるまない。物ごとが常に自分の予見どおりに拙く行っても、少しだって嬉しいわけの物ではなかろう。  ドラブダンプ夫人は後家であった。後家に生れついた者はなく、誰も中途から成るのだが、これを知らないと、或いはドラブダンプ夫人は生来の後家ではなかろうかと想像する人もいよう。お定まりの長身、痩躯、例の蒼ざめた、唇の薄い、細面《ほそおもて》の、鋭い眼つきに、かてて加えて、例のいやに几帳面に結んだ髪といった、下層の後家の百相ことごとく具わっているのだ。亭主をなくしても依然として巧笑|倩《せん》たりなどというのは、上流の上にだけ見られる女の定めなのである。故ドラブダンプ氏は錆び釘で親指の附け根に掻き傷をこしらえた。ドラブダンプ夫人は彼が破傷風で死ぬだろうという予感がしたが、この時も彼女は日夜、死神の影と戦いをつづけた。前にも二度、甲斐のない戦いをしたことがあった。一度はケーティがジフテリヤで死に、もう一度はジョニが猩紅熱に仆れた時である。死神が「影」になってしまったのは、貧乏人たちの間で過労をつづけたからかも知れない。  ドラブダンプ夫人は竈の火をつけていた。彼女はごく科学的にやっていた。石炭と火のついた粗朶は折合いが悪くて、キチンと狙いを外さないようにしておかないと必ず煙になって終いたがるのを知っていたからだ。科学は例によって成功した。で、跪《ひざま》づいたドラブダンプ夫人は、朝の勤行《ごんぎょう》をすませ終ったパルシー派拝火教の巫女のように、満足して立上った。その時、彼女は愕然として、倒れんばかりによろめいた。彼女の眼に、戸棚の上の置時計の針がうつったからだ。針は七時十五分前をさしている。ドラブダンプ夫人の竈の火の前の勤行は、いつも六時十五分すぎに終るのである。時計はどうしたのであろう。  ドラブダンプ夫人は途端に、近所の時計屋のスノペットの姿を思い出した。何週間も手許におきながら、上辺《うわべ》だけ修繕したが、「あとあとの商売のため」に内緒で前より悪くしたのに違いない。邪《よこし》まな幻想は起ったのと同じように早く消えた。聖ダンスタンス教会の鐘の四十五分を報じる音が払い清めたのである。その代りに、もっと大きな恐怖が沸き立った。本能が役に立たなかった。ドラブダンプ夫人は六時に起きる所を六時半に起きてしまったのである。それで今朝は頭が冴えず、気分がすぐれず、こう眠くてたまらなかった理由が判った。寝すごしたのだ。  口惜しいやら忌々しいやらで、彼女は急いで湯沸しを、音を立てて燃えている石炭の上にかけた。そういえば、コンスタント氏から、平生より四十五分早く起こしてくれるように、朝飯を七時にするように、と頼まれた。争議中の電車の従業員の集会で朝早く演説しなければならないからだった。だから寝わすれてしまったのだ。彼女は蝋燭を片手に、すぐ彼の寝室にかけつけた。二階である。「二階」は全部アーサ・コンスタントの領分である。といっても相互に独立した部屋が二間しかない。ドラブダンプ夫人は彼が寝室に使っている方の扉をやけに叩き、「七時でございますよ。遅刻なさいますよ。すぐお起きにならないと」と喚いた。いつもの眠むそうな「判りました」という応答がない。だが、彼女自身は朝の挨拶を変えたが、耳の方はその木魂をそう期待してはいなかった。彼女はそのまま階下におりたのだが、この調子だと下宿人の着換えと湯沸しのたぎるのの競走では、湯沸しの方が二着になるだろうと予感がしただけであった。  なぜなら、アーサ・コンスタントが義務の呼び声――一時的にドラブダンプ夫人に代行されてはいるが――をききながら目覚めずに横になったままでいる気遣いはないのであった。彼は眠りの浅い質《たち》だし、彼を会合に召集する電車の車掌のベルの音が恐らく耳に鳴りひびいていることでもあろう。文学士アーサ・コンスタントともある人が――手は白く、シャツも白く、財力の点でさえ紳士階級に属する癖に――なぜ電車の車掌のことに頭をわずらわせなければならないのか、ドラブダンプ夫人には全く訳が判らなかった。乗物ならせいぜい辻馬車の馭者くらいとしか縁の出来ない運命の下に生まれている癖に。ことによると、このボウ町から議会に出る抱負をもっているのかも知れない。が、それなら亭主持ちの下宿に住めば一票得をするからその方が賢明であろうに。それから、自分で靴を磨こうというのも(いくら磨いても一こう腕は光らない)、すべての点でボウ町の労働者なみに暮らそうというのも、智慧のない話ではないか。ボウの労働者は、あんなに水をたっぷり使わない。飲料にも、朝の洗面にも、それから洗濯屋の店でさえも。それから、労働者たちはドラブダンプ夫人の出す御馳走を彼のように当然のような顔をして食べない。彼が自分の地位に相応しくないものを食べるのが見てはいられなかった。アーサ・コンスタントは口を開けて、彼女の与えるものを食べる。お定まりの通りに、わざと眼をつむってみたりせずに、かえって大きく見開いているのが得意らしい。しかし聖者が自分の光輪の奥を見るのは至難のことであろう。実際には、頭の上の光輪はしばしば霧と区別し難い。  あの意地悪な湯沸しがたぎり始めたら、コンスタント氏の茶瓶に茶の葉を入れるのだが、それは彼女自身やモートレーク氏の愛用する紅茶と緑茶の粗い混合物ではなかった。朝飯ということで、彼女は今このモートレーク氏のことを思い出したのである。気の毒に、モートレーク氏は朝飯も全然たべずに、冬の濃霧に暗い闇の四時かそこらに出発して、デヴォンポートへ行ってしまった。彼女は彼の旅行が十分に甲斐のあるものになる事を祈った。収穫が多く、また反対派の労働運動指導者が他人の面前ではげしく責めた「旅費」を十分に稼いでくれるように。彼がいくら儲けようと彼女は何とも思わなかったし、また他人が主張した事だが、コンスタント氏を彼女の空いている部屋に入れたのが、彼女の利益だけを思ってしたのでなくても、一こう彼女の知った事ではないのだ。こういう風にして紹介された下宿人は変り者だったが、彼は彼女に一方ならぬ利益をもたらした。彼自身も労働運動の指導者であった点も、ドラブダンプ夫人には何の困惑も与えなかった。トム・モートレークは植字工あがりだった。指導者というのは、明らかにもっと収入のある職業であったし、社会的地位も更に高かった。ポスターに、百のストライキの英雄として印刷されたトム・モートレークは、植字ケースの前で活字を拾って他人の名前を並べるトム・モートレークよりも、明らかに優れて見えた。だが、仕事は呑気なものではなかったから、ドラブダンプ夫人はトムの最近の仕事の羨むべからざる事を感じていたのであった。  彼女は台所へ戻る途中、前を通りながらトムの扉をゆすってみたが、何の返事もなかった。裏口は廊下を僅か数フィート行った所にあったので、チラと見ただけで、トムが旅行を中止したかもしれないという最後の希望は消えてしまった。裏口の扉は棧も鎖も外れていて、唯一の防衛は鍵であける掛金だけであった。ドラブダンプ夫人は些かの不安を感じた。尤も、公平な話、彼女は世間の主婦連ほど、来ない犯罪者にビクついてはいなかった。真向うではないが、つい三四軒行った筋向うに、有名な元探偵のグロドマンが住んでいたので、論理的には変な話だが、彼が同じ通りに住んでいる点でドラブダンプ夫人は、教会の影のさす所にいる信者のような、不思議な安全感を抱いているのであった。悪い臭いのする人間が、こうした有名な探偵犬の勘を知りながら一哩以内に故意に立入るなどとは、彼女にとって全然あり得ないに近い事であった。グロドマンは(資産を擁して)引退して、今では眠った犬にすぎないのだが、しかし、いくら犯罪者だからといっても、彼をソッと寝かしておくだけの頭は働く筈である。  だからドラブダンプ夫人は危険があろうなどとは本気で感じていた訳ではなかった。特に、表口を二度目に見やった時に、思慮深くもモートレークが大きい錠の舌を押さえる輪をすべらしておいてくれたのも見えたのである。彼女はデヴォンポート造船所へと憂鬱な旅路を急いでいる労働運動の指導者に、またもや同情の感激を惜しまなかった。尤も、彼はその町へ旅行するという以外に、何も深い事を話したのではなかった。が、トムの恋人のジェシ・ダイモンドが、自分の伯母がその近所に住んでいると一度いっていたので、デヴォンポートに造船所のあるのを夫人は知っていたから、ロンドンの仲間を真似している造船所の職工の応援に行ったに違いないのはすぐ判った。ドラブダンプ夫人は別にいわれなくてもそういう点はすぐ感じで察しをつけた。彼女はどうして近頃は人々がこう不平満満なのだろうかとボンヤリ考えながら、コンスタント氏の上等の茶を用意するため戻って行った。だが、茶とトーストと卵をコンスタント氏の居間(寝室に隣接してはいるが、通り抜けは出来ない)へ運び上げてみると、コンスタント氏はそこに坐ってはいなかった。彼女はガスに火をつけ、食卓にクロースを敷いた。それから階段の踊り場に戻って、寝室の扉を掌で命令的に叩いた。返事をしたのは、ただ沈黙であった。彼女は相手の名前を呼び、時間を告げたが、彼女にきこえたのは自分の声だけで、それは燈のささない階段にひびいて気味悪く木魂した。それから、彼女は呟いた。「お気の毒に、ゆうべはまた歯がお痛みになったんだ。たぶん、今しがた寝ついた所なんだろ。あんなぐずる[#「ぐずる」に傍点]車掌なんかのために起こすのはお気の毒だ。いつもの時間まで寝かしておいてあげよう」彼女は茶瓶を階下に持って降りたのだが、殆んど詩的といってもいい位の悲しい自覚を禁じえなかった。半熟の卵は(愛のように)冷えてしまうに相違ない。  七時半になった――で、彼女はまた扉を叩いた。だがコンスタントは眠り続けた。  彼に宛てた手紙が、それはいつも奇妙な取り合わせであったが、八時に来た。それから程なくして電報が一本来た。ドラブダンプ夫人は、扉をガタガタいわせ、怒鳴り、その揚句、電報を下の隙間から入れた。もう心臓はかなり激しく鼓動していた。その癖、冷たい粘った蛇がその周りにうずくまっているようである。彼女は再び階下に降りて、モートレークの部屋のハンドルを捩って、何故か知らないままに、はいって行った。寝床の覆いの様子から、早朝の汽車に乗り遅れるのを怖れてか、着衣のまま丸寝したのが判った。彼がこの部屋にいようなどとは、片時も期待したのではなかったが、ただ何となく、眠りつづけるコンスタントと二人きりで家の中にいるという自覚が、始めて彼女の頭にひらめいて、粘っこい蛇は彼女の心臓を前より強くしめつけた。  彼女は表口の扉を開いた。彼女の眼は神経質に往来を上手から下手へとさ迷った。八時半であった。小さい往来は薄墨色の霧の中に冷たく静かに横たわり、両端には街燈がくすぶり続け、眠い眼をしばたいているように見えた。この瞬間には人っ子ひとり見えなかった。しかし煙突の多くからは煙が立ち登り、兄弟分の霧に挨拶をしていた。筋向うの探偵の家では、まだブラインドが下りており、鎧戸は上げたままになっていた。しかし、見馴れた往来の散文的な光景は、彼女を落ちつかせた。冷たい空気を吸ったので、咳が出はじめた。彼女は扉を手早く閉め、コンスタントの飲む茶を入れ直そうと台所に帰った。彼はただ熟睡しているだけに違いないから。だが、茶の鑵は手の中で震えた。落したのか投げ出したのか、すぐその後で寝室の扉を再び乱打する手には何も持っていなかった。外側の騒々しさにひきかえ、内側は寂として音もない。目的が単に下宿人を起こすだけなのも忘れたが、彼女は狂乱したかのように乱打をつづけ、下の部分の鏡板を、折れよとばかり足で蹴った。それから、ハンドルを廻し、扉をあけようとしたが、それには鍵がかかっていた。その手ごたえで、彼女はわれにかえった――自分がコンスタントの寝室に踏みこもうとしていたと考えた途端、あられもないと、われながら驚いたのである。次に、恐怖が新たに湧き起こった。家の中に死骸と二人きりでいるのだ、と感じた。震えながら、思わず床《ゆか》に崩れた。金切声を挙げたい気持を辛うじて制した。そこで彼女は勢よく立ち上がり、後を見ずに階段を一散に駆けおり、表口を押し開くと、往来にとび出して、グロドマンの家の表口のノッカーをひいて、物凄い音を立てた。すぐに二階の窓が上にあがって――この小さい家は彼女の家と同じ間取りになっていた――そしてグロドマンの肉づきのいい丸顔が、ナイトキャップを冠ったまま、寝起きの悪い焦《じ》れた姿で、霧をすかして見えはじめた。気むずかしい表情だったが、この元探偵の顔をみて彼女は、幽霊屋敷に住む者が太陽の光をみたかのように感じた。 「一体どうしたんだね」彼は唸った。グロドマンは朝寝坊であった。もう早起きをしても三文の得もないから無理もない話だが。彼は今では諺を軽蔑してもいい身分であった。今の住いは自分の物だし、しかもそこに住んでいるのも、この町内に何軒も家屋敷を持っていたからで、おまけに夜逃げをする店子も少なくない所から、家主としてはボウ町の自分の土地の近くに住むに越したことはないからなのである。若い時代の遊び仲間の間に幅をきかせる愉快さも幾分はあったに違いない。彼はボウに生れボウで育ち、ほんの若者のころ地元の警察から頼まれて以来、ひまを見ては素人探偵として働いては、一週何シリングかの手当を貰うようになったのであった。  グロドマンはまだ独身だった。天国の結婚登録局には、彼の相手がもう定められていたのかも知れないが、しかし彼は彼女を発見できないでいたのだ。それは探偵としての彼の一つの失敗であった。彼は自分の事を自分で出来る男であったので、ガス・ストーヴさえあれば手伝いも欲しくは思わなかった。しかし、町内の意見に従って、午前十時から午後の十時まで家政婦を家に入れ、また町内の意見にしたがって、午後の十時から午前十時までの間は、彼女を帰した。 「すぐ来て頂きたいんです」ドラブダンプ夫人が息せききった。「コンスタントさんがどうかなってしまったんです」 「何だって? 今朝の会合で警官に棍棒で殴られたんではあるまいね?」 「いえ、いえ! いらっしゃらなかったんです。死んでしまったんです」 「死んだ?」グロドマンの顔が忽ちひどく真剣になった。 「ええ、殺されたんです!」 「何?」元探偵は思わず声をあげた。「どういう風に? いつ? どこで? 誰に?」 「判らないんです。はいれないんです。扉を私は叩いたんです。お返事がないんです」  安心して、グロドマンの顔が明るくなった。 「馬鹿な女だなあ! それだけかね? 頭に風邪をひいてしまうじゃないか。ひどい天気だ。昨日の後だ、ヘトヘトに疲れているのだよ――行列、演説が三つ、幼稚園、『月』についての講演、協同作業についての原稿。彼らしい話だ」それはグロドマンらしい話でもあった。彼は無駄な言葉を口にしない。 「違うんです」ドラブダンプ夫人は真面目な声で彼を見上げながらいった。「死んでいなさるんですよ」 「よろしい。家へ帰りなさい。やたらに近所を騒がすではないよ。私を待つのだ。五分で降りる」グロドマンはこの台所のカッサンドラ([#割り注]ギリシャ神話の人物。トロヤ王プリヤモスの娘。アポローンによって予言の力を得るが、後に罰を受け、世人は彼女を信じなくなる――訳者[#割り注終わり])の話をあまり真剣には取らなかった。彼女の平生を知っていたためかも知れない。彼の小さな円く光る眼は、ドラブダンプ夫人の後ろ姿を見送り終って、窓をガタンと閉めると、まるで本当に面白そうに輝いた。気の毒な女は往来を駆けて横切って、家の中に駆けこんだが、扉は閉めようとしない。死人と一緒に閉めこまれるのは真平だ。彼女は廊下で待った。何年も経ってから――どんな正直な時計で計っても七分間だが――グロドマンが現われた。着つけは平素のままだが、髪はけずってなく、頬ひげは侘しいさま[#「さま」に傍点]を呈している。この頬ひげは板によくついていない。つい最近はやし始めたばかりで、まだ蓄えるというまでに行っていない。現役で勤めていた時代、グロドマンは探偵商売の他の連中と同じく、ひげは一本も残さず剃っていた。探偵はどんな役柄にでも変装できる役者でなければならないから。ドラブダンプ夫人は表口を静かにしめ、階段を指差した。恐怖が礼儀正しく先を譲ったように見える。グロドマンは昇って行ったが、眼はなおも面白そうな輝きを呈している。踊り場に着くと、「九時ですよ、コンスタントさん。九時ですよ!」と叫びながら偉そうに扉を叩いた。叩きやめたが、音もしなければ動く気配もきこえない。彼の顔がもっと真剣になった。一寸待ってから、また叩いて、大声に喚いた。彼はハンドルを廻したが、扉は動かない。鍵穴から覗こうとしたが、塞がっている。彼は上側の鏡板をゆすってみたが、扉は鍵がかけてある上に掛金までがかかっているらしい。彼は真面目な堅い顔つきで、じっと立ちすくんでいた。相手を好きで尊敬していたからである。 「もっと強くお叩きなさい」蒼ざめた女が囁いた。「いくら叩いても起きやしませんから」  表口から薄墨色の霧が二人の後をつけてはいって来て、階段のあたりに立ちこめ、あたりの空気は湿っぽい墓場のような匂いで一杯になった。 「鍵をかけて掛金もおろしてある」またもや扉を揺りながら、グロドマンが呟いた。 「破ってはいりましょう」全身を震わせながら、怖ろしい幻影を防ごうとするかのように両手をつき出して、女がいった。一言もいわずに、グロドマンは肩を扉にあて、猛烈に一押しくれた。彼は往年の運動家であり、まだ体力は衰えてはいなかった。扉はメリメリと音をあげ、少しずつ参って来た。錠のさし[#「さし」に傍点]金を納めている木の部分が割れ、鏡板は中に曲がり、上の大きい掛金は鉄の釘壺から外れた。扉は物音を立てて内に開いた。グロドマンは駆けこんだ。 「何と!」彼は叫んだ。女は悲鳴をあげた。あまりにも怖ろしい光景であった。      *     *     *  ものの二三時間もたたないうちに、新聞売子は喚声をあげて「ボウ町の凄惨な自殺事件」と呼ばわっていたし、買えない貧しい人々を満足させるために、「ムーン」新聞はポスターを出した。「博愛主義者、咽喉を切る」 [#5字下げ]2[#「2」は中見出し]  しかし新聞は早まった報道をしたのであった。スコットランド・ヤードはそうした煽情的記事を無視して、この事件を偏見をもって扱おうとしなかった。何人もの容疑者が逮捕されたので、新聞も後の版では余儀なく「自殺」という字を和げて「怪事件」に直した。逮捕された連中は種々雑多な浮浪人たちであった。大部分は警察の狙っていなかった別の罪を犯していた事が判った。一人の当惑したような面持の風体卑しからぬ人物が(謎のように)自首して出たが、警察は彼の言葉には耳をかさず、そのまま友人と保護者の許へかえした。何かというと監獄行を志願する連中の数はまことに驚くべきである。  世にも奇特な若い生命が短かく断たれたこの悲劇の全幅の意義が一般の頭に十分に浸透する間があったか否かに、新しい一大評判が発生してそれを吸収してしまった。トム・モートレークが同じ日にリヴァプールで、同宿人の死に関する容疑で逮捕されたという報道なのである。このニューズはトム・モートレークの名が人口に膾炙している土地に爆弾のように落下した。時と所をえらばず、常に社会に向けて赤い言辞を投げるのを辞さない、手腕ある職工が、実際に血を流したとは、それ自体が驚くべき話なのに、しかもその血が特権階級の青い血ではなくて、愛すべき年若い中産階級の理想主義者の血である。ついに、彼は文字通り自分の生命を「主義」のために投じてしまったのか。だが、この補足的な大事件は土壇場まで行かなかった。検屍の時に出頭する令状を出されただけで、トムが殆んどすぐ釈放されたときいて誰も(二三の労働運動の指導者を除いて)安堵の胸を撫でおろした。その日の午後、リヴァプールの一新聞の記者に会見を許した時、彼はこの逮捕をば、全国の警察が彼に抱いている悪意と遺恨のせい[#「せい」に傍点]にした。彼がリヴァプールに来たのは、ある友人の行方が気がかりになったからで、汽船がアメリカに向けて出帆する時刻を熱心に埠頭で尋ねていた時に、張りこみの探偵が本庁からの指令によって怪しげな人物として逮捕したのであった。「その癖」トムはいった。「彼等は僕の人相をよく知っていたに違いないんですよ。僕の顔のスケッチや漫画は、至る所に出ていますからね。僕が自分の身許を話したら、流石に帰してはくれました。彼等はもう十分に仇をとった積りだったんでしょう。いや、僕があの気の毒な男の死と實際に関係があったかも知れないというのは、たしかに[#「たしかに」に白丸傍点]不思議な偶然の一致です。彼の死は他の人々と同じように、僕も痛心に堪えないのですが。尤も、僕が『犯罪の現場』から直行した事や、また実際にあの家に住んでいた事を彼等が知っていたなら、定めし僕を――ほっておいたでしょうがね」彼は皮肉に笑った。「彼等警官は奇妙な頓間の集まりですよ。彼等のモットーは、『まず捕え、次に証拠を捏ね上げろ』なんです。現場にいた者は、いたから有罪、他の場所にいたなら、逃げたから有罪、なんです。ああ、僕は彼等の手口を知っていますよ! 牢屋に叩きこむ方便がみつかったなら、必ず僕をほおり込んだにきまってまさ。運よく、僕は今朝の五時前にユーストンに乗せて行った辻馬車の番号を知っているんで」 「もし彼等が貴方を牢屋に叩きこんだなら」記者は剽軽な応答をした。「中の連中は一週間たたない内にストライキを起すでしょう」 「そう、でも代りを勤めるスト破りが沢山雇われるでしょう」モートレークが応酬した。「だから折角のストも駄目でしょう。だが、失敬します。僕は友人の事で矢も楯もたまらんのです。どうも彼は英国を離れてしまったらしいので、僕は問合せをしなければならんのです。おまけに、気の毒にコンスタントも死んでしまった――怖ろしい! 怖ろしい! しかも僕はロンドンで行われる検屍に出なければならない。本当に大急ぎで行かなければならないんです。さよなら。新聞には、全部警察の怨恨沙汰だと書いて下さい」 「もう一言願います、モートレークさん。今日の一時と二時の間に聖ジェームズ・ホールで行われるドイツの侵入に抗議する事務員大会に議長をつとめられると出ていますが、あれは本当ですか?」 「ヒュー! そうだったんです。だが、あの乞食共が一時すぐ前に僕が電報を打とうとしている時につかまえたでしょう。そこに気の毒なコンスタントの最期のニューズがはいったりしたので、すっかり忘れてしまっていたんです。何という面倒な話だ! ああ、悪い事は続いて起るものだなあ! じゃ、失敬。新聞を一部送って下さいよ」  検屍の時のトム・モートレークの証言は、この怪異な事件の朝の彼の行動について一般に知れていた今迄の点を殆んど一歩も出なかった。ユーストンまで乗せて行った辻馬車の馭者は憤慨した語調の投書を各新聞に寄せて、かの著名な乗客をボウ停車場で拾ったのは、ほぼ午前四時半であると述べ、この逮捕は民主主義に対する故意の侮辱であると力説し、どの点か明らかにはしなかったが、その点を立証する宣誓書を出してもいいと提議した。しかしスコットランド・ヤードは問題の宣誓書を一こうに欲しがらず、二一三八号は再び元の無名の一馭者の地位に戻されてしまった。モートレークは――秀でた額から後ろに撫でつけた黒い鬣の下を蒼白にさせていた――低い、同情のこもった口調で証言を述べた。彼は故人を知って以来、もう一年をすぎており、共通の政治的及び社会的の仕事の関係上、よく会う機会もあり、彼の口から頼まれてグラヴァ通りの家具つきの部屋も探してやったもので、丁度コンスタントがベスナル・グリーンのオクスフォード・ハウスを出て、民衆と生活を同じくしようと決心した頃、折よく貸間に出たのであった。場所柄が故人に好都合であった。たとえば民衆殿堂に近い。彼は故人を尊敬し、感服していたが、故人の純粋な善意は万人の信頼をかちえていた。故人は倦むことを知らない仕事熱心な人物であり、不平をいった事もなく、常に公平の精神を失わず、自分の生命と富をば人類福祉に使われるための神よりの信託品と考えていた。最後に姿を見たのは、死の前日の午後九時十五分すぎであった。彼(証人)は最後の便で一通の手紙を受取ったが、それによって一友人の身の上が心配でたまらなくなった。彼はそれについて故人に相談を求めようと二階に行ったのであった。故人は確かに歯痛になやんでいて、綿の小塊を歯の洞《うろ》につめようとしていたが、一こう泣きごとも並べなかった。故人は彼のもたらしたニューズを見てかなり驚いた模様であって、二人はこれについて相当興奮しながら論じ合った。  陪審員――そのニューズは彼に関係のあるものでしたか?  モートレーク――個人的でない意味だけでは。彼は友人を知っていたのです。困っている人には彼はひどく同情したものでした。  検屍官――貴方の受取られたその手紙を陪審員にお見せ願えますか?  モートレーク――どこかに置き忘れて、その置場所を全然忘れてしまったのです。もし関連があるとか重要だとかお考えになるのでしたら、困っていた事柄の内容を申上げましょう。  検屍官――歯痛はごくひどい痛み方でしたか?  モートレーク――それは判りません。それほどでもないと思うのですが、彼はそのために前夜よく眠られなかったといっていました。  検屍官――何時ごろ別れたのですか?  モートレーク――十時二十分前ぐらいでした。  検屍官――それからどうなさいましたか?  モートレーク――一時間かそこら色々と問合せに歩きました。それから下宿に帰って、朝の早い汽車で――田舎に行く、とお内儀さんにいいました。  検屍官――それが故人を見た最後だったのですな?  モートレーク――(感慨深げに)最後でした。  検屍官――別れる時の彼の様子はどうでしたか?  モートレーク――主として、私の問題を心配していました。  検屍官――その他の点では何も異状を認めなかったのですな?  モートレーク――そうです。  検屍官――火曜の朝は何時に家を出られたのですか?  モートレーク――大体四時二十五分すぎでした。  検屍官――表口を締めたといわれるが、それは確実ですか?  モートレーク――確実です。宿のお内儀さんのかなり臆病な人物なのを知っていますから、私は大きい錠の舌の、いつもは押さえてあるのを、わざわざ滑らせておいたのでした。誰でも中にはいろうとしても、鍵を使ってもはいれなかった筈です。  ドラブダンプ夫人の証言(それは勿論、彼のの前に行われたのであったが)はもっと重要だった上に、ドラブダンプ式の雑音まではいったから、相当の時間がかかった。で、彼女はコンスタント氏が歯痛に悩んでいたことを証言した許りではなく、それが一度はじまったからには一週間は続くと述べた。これは実施された根本的の治療に対して悲喜劇的な無関心を表明した。彼女の述べた故人の最後の何時間かの行動は、モートレークの述べた所と符合したが、彼女はモートレークが九時の配達で来た手紙に書いてあった何かに関して彼と口論していたのではないかと気遣ったものだった、と述べた。故人はモートレークの去った後間もなく家を出たが、彼より早く帰って来て、まっすぐに寝室に姿を消した。台所にいた事とて、彼のはいって来る姿を実際に見たのではなかったが、軽い足どりが階段の上にとまると彼が鍵をかける音がそれに続くのを耳にした。  陪審員――それが誰か他の人でないのがどうして判ります?(一同が驚いたが、当の陪審員は平静を装った)  証人――手すりの上から私の名をお呼びになって、いつものお優しい声で、『必ず七時十五分前に起こして下さいね、ドラブダンプ夫人《さん》、さもないと電車の集会に行けなくなりますから』とおっしゃったんですもの。(陪審員は意気銷沈する)  検屍官――そして貴女は起こしたのですか?  ドラブダンプ夫人――(泣かん許りに)まあ、判事様、そんなことを!  検屍官――これ、これ、しっかりなさい。私のいう意味は、起そうとなさったのですか、というのです。  ドラブダンプ夫人――私はこの十七年も下宿屋をして、皆様に御満足頂いていたのです、判事様。で、モートレークさんも、御満足下さらないなら御推薦下さらなかった筈でしょう。尤も、あの気の毒なお方が神かけて――  検屍官――そう、そう、無論です。貴女は彼を起そうとなさったのですな?  しかし、相当たってから漸くドラブダンプ夫人は平静になって、自分も寝忘れたには違いなかったが、また結果として全く同じになったに相違ないが、とにかく頼まれた時間には二階に行ったことを説明したのであった。少しずつ、この悲劇的な物語は彼女の唇からきき出された。彼女の語り口をもってしても派手にし難い悲劇である。彼女は詳細な点に無駄な冗言を費しながら――グロドマン氏が扉を押し破った時――彼女の不幸な紳士下宿人が、寝床の中で仰向けにねたまま、完全に死にきって、しかも咽喉に傷が赤く口をあけているのを見た次第を語った。彼女より気丈な仲間がハンケチを歪んだ顔の上に拡げてくれたので、少しは気が鎮まったこと。それから二人がかりで寝台の附近やら下やらを兇器を探し廻ったが何もみつからなかったことや、経験の深い探偵が注意深く部屋にある品品の目録を手早くこしらえたことや、野次馬などが来て荒らさないうちにと、死体の正確な位置や状態を書きとめたこと。彼女が、窓も二つとも、冷たい夜の空気がはいらないように、しっかり掛金がかけてある点を、彼に指摘したこと。それから、これを書きとってから、当惑したように、弱りきったように頭を振りながら、彼が警官を呼ぼうとして窓をあけた所、霧の中にデンジル・キャンタコットなる人物の姿が見えたので、その男を呼びとめて、最寄りの警察署に走って行って、警部と医者を呼んで来るようにいいつけたこと。二人とも警官の到着するまで部屋に残り、その間《かん》グロドマンは時々何やら新しい事柄に思いつくと手帳に書きとめながら、考えに沈んでいて、時々彼女に向って、この気の毒な、薄い[#「薄い」に傍点]青年について質問をしたこと。故人のことを「薄い」といった理由を問いつめられると、彼女は答えた。彼女の隣人の何人かが、彼に無心状を書いたのであった。その癖、彼等は、骨身惜しまず働かなければ一文にもならない彼女などよりは、ずっと工面もよかった、と。アーサ・コンスタントの一家の代理として検屍に立会っていたトールボット氏から更に問いつめられて、ドラブダンプ夫人は認めた。故人の行状は人間として変な点はなかったし、外に現われる点では行為の上で常軌を逸していたり、異様な所も見えなかった。彼は常に陽気で、口のきき方も愉快ではあったが、たしかに担がれ易い性質であった――故人の事を悪くいって申訳けないが。いや。彼は一度も顔は剃らないで、天の与え賜うたひげはそのまま伸ばしていた。  陪審員――彼女は故人が寝台に行く時には必ず扉に鍵をかける習慣であったと思っている。勿論、彼女に確実なことがいえる筈はない。(笑声)掛金まで扉にかける必要はない。掛金は上に滑る式で、扉の天辺についていた。彼女が始めて下宿人を置いた時、その理由を彼女は公表したがっていたが、その頃は掛金一つしかついていなかった。所が、一人の怪しげな下宿人――彼女は彼のことを紳士と呼ぼうとしなかった――が、外出する時に扉をかうことができないといって文句をいった。それで彼女は金をかけて錠前を作らせなければならなかった。文句をいった下宿人は間もなく間代を払わずに逐電してしまったのでした。(笑声)彼がそうするに違いないと、彼女は最初から判っていたのでした。  検屍官――故人は神経質な所でもありましたか?  証人――いいえ、あの方はごく立派な紳士でいらっしゃいました。(笑い声)  検屍官――私の意味は、盗まれることを心配してはいなかったか、というのです。  証人――いいえ、あの方はいつもデモ行進にお出かけになるのです。(笑声)私は御用心なさるように申上げました。私がお祭の日に財布をなくした事も申上げたのでした。三シリング二ペンスはいっている財布ですのよ。  ドラブダンプ夫人は、何ということもなく啜り泣きながら、席に戻った。  検屍官――陪審の諸君、まもなく問題の部屋を見る機会を得るのです。  死体発見の物語は再び物語られた。今度はもっと科学的な説明である。語り手はジョージ・グロドマン氏で、若い頃に手柄を立てた領域に、思いがけない復帰をしたのであったから、これは引退したプリマ・ドンナの「本演奏限り」という再出演にも似た強い好奇心をひきおこした。彼の本の「私の捕えた犯罪者たち」が二十三版から二十四版になったのは単にそのおかげなのである。グロドマン氏は述べた。死体は彼の発見した時にはまだ温かかった。死はごく最近に起ったのだな、と彼は思ったのであった。押し破らなければならなかった扉には、鍵のほかに掛金までかかっていた。彼は窓に関するドラブダンプ夫人の陳述を確認した。煙突はごく細い。切り傷は、剃刀によるもののように見えた。兇器めいた物は部屋には落ちていなかった。彼は故人を約一カ月ほど知っていた。ごく真面目な、単純な頭の青年で、人類の同胞愛について大いに語った。(老練な人狩り人の冷たい声も、彼が死者の熱意について触れた時には、流石に震えを帯びた)彼の考える所では、故人は到底自殺しそうな人間ではない。  次に呼び出されたのはデンジル・キャンタコット氏であった。――彼は詩人であると自分でいった。(笑声)彼は、書痙が起ったから、頼まれた書きものを書くことが出来ない、と告げようと思って、グロドマン氏の家に行く途中、グロドマン氏が十一番地の窓から呼びかけて、警官を呼んで来るように頼んだのであった。いや、彼は駆けなかった。彼は哲学者だもの。(笑声)彼は警官を案内して表口まで来たが、上には登らなかった。粗野な興奮は好むところではない。(笑声)あの薄墨色の濃霧だけで、十分に彼には一朝分の醜悪さとするに足りた。(笑声)  ハウレット警部は語った――十二月四日、火曜日の朝、九時四十五分ごろ、通知を受けたので、彼はラニミード巡査部長とロビンソン医師をつれて、ボウ町グラヴァ通り十一に出むき、そこで咽喉を切られて仰向けに横たわっている青年の死体を発見した。部屋の扉は押し開かれていて、錠と掛金は明らかに無理にこわした状態になっていた。部屋は整然としていた。床《ゆか》には血の痕は全くなかった。金貨の一杯はいっている財布が鏡台の上に、大きな本のすぐ脇においてあった。冷い水のはいった坐浴用湯船が寝台の横にあり、その上にさしかかるようにして本箱があった。扉に隣り合って、壁の前に大型の箪笥が立っていた。煙出しはごく細かった。窓は二つあって、一つには掛金がかかっていた。歩道まで約十七フィートあった。よじ登る手がかりは全くなかった。部屋から外に出て、それから扉や窓に掛金をかける事は、何人にも出来そうになかった。それで誰か内部に隠れていた模様もあろうかと、彼は部屋の各部分を捜査した。隈なく捜索したにも拘らず、部屋には兇器めいた物は何一つ発見されず、また椅子にかけてあった故人の衣服のポケットには鉛筆を削るナイフすらなかった。家や裏庭や、それに続く歩道などもすっかり探したが、何の甲斐もなかった。  ラニミード巡査部長は同様の陳述をしたが、彼が[#「彼が」に白丸傍点]ロビンソン博士とハウレット警部と同行した、と述べた点だけが相違した。  警察医のロビンソンはいった――「死者は咽喉に切傷があり、背を下に横臥していました。身体《からだ》はまだ冷たくなっておらず、腹部はかなり温かでした。死後硬直は顎の下部、頸部、それから上体の末端に始まっていました。筋肉は打てば収縮しました。私は生命が二三時間前に絶えたのだと推定しました。おそらくそれ以上長くはなく、或いはもっと短いかも知れない、と。布団の類いのために、下部は相当の時間、温かいままになっているものです。傷は深く、咽喉の上を右から左へと長さ五インチ半、左の耳の下の一端にまで達していました。気管の上部は切断され、頸静脈も同様な状態でした。頸動脈の外壁の筋肉の部分は裂けていました。傷の続きであるかのように、左手の親指に僅かな切傷がありました。両手は頭の上に組合わされていました。右手には血痕は見当りませんでした。この傷は自分でつけた物とは考えられないのでした。使用したのは鋭い器具で、剃刀のようなものでしょう。この創傷は左利きの人物が与えたものかも知れません。死が殆んど即座に来たのは疑う余地がありません。身体にも部屋にも、争った痕跡は見られませんでした。鏡台の上には財布があって、ブラヴァツキ夫人の接神論に関する大きな本の隣りに置いてありました。ラニミード巡査部長は扉が明らかに内部から鍵をかけ掛金をかけてあった事実に私の注意をひいてくれました」  陪審員の一人――私はそうした創傷が右利きの人物によって与えられ得ないとは思わないのです。その創傷を与えた者がどうして部屋に出入したかについては何も暗示する所を持たないのです。創傷が自分の与えたものと見るのは、ひどく当らない物だと思います。部屋の中にはそとの霧の痕跡が殆んどないのですが。  ウィリヤムズ巡査は、本月四日の早朝、彼は当番であったと、述べた。グラヴァ通りは彼の巡回区域であった。彼は何等不審な物も見なければ音もきかなかった。霧が物すごく濃く、その癖にひどく咽喉を刺した。彼は四時半ごろグラヴァ通りを通った。彼はモートレーク氏も他の誰も家を出る所を見なかった。  検屍審問はここで休廷となり、検屍官と陪審員たちは一団となってグラヴァ通り十一に行って、その家と故人の寝室を見た。そして各新聞のポスターは「ボウ町の怪異ますます深まる」と報じた。 [#5字下げ]3[#「3」は中見出し]  審理が再開される頃には、留置されていた哀れな浮浪人どもは、無罪であるという嫌疑に基いて、すべて釈放された。即決軽罪をくう者すらいなかった。手掛りは、こうした季節には生籬から黒苺を捩ぐようにして警察がいくらでも集めるのに、それすら乏しく熟していなかった。桝ではかるほどの種《たね》を警官どもは集めたが、そのうちには一つとして使えるのはなかった。警察は手掛り一つ捏《でっ》ち上げられなかったのである。  アーサ・コンスタントの死は、すでにあらゆる家庭、汽車の客車、飲み屋などで絶好の話題になっていた。死んだ理想主義者は極めて多くの方面に接触があったのである。イースト・エンドもウェスト・エンドも、等しく動揺し興奮した。民主同盟派も、国教派も、安下宿党も、大学の連中も。何と気の毒な! それから、ても摩訶不思議な[#「それから、ても摩訶不思議な」はママ]怪異よ!  審査の最終段階でなされた証言は必然的に煽情味が薄らいで来た。検屍官のテーブルに血の匂いを持って来る証人はもう現われなかった。まだ喚問しなければならない人々とては、単に故人の親類とか友人にすぎなくなり、ただ生前の故人の人となりを述べるだけであった。彼の両親は既に亡き数に入っていたが、蓋し倖せな事なのであったろう。親類は殆んど彼と会っていないので、彼についてきいている点は、外界一般と大差なかった。予言者は自国にいれられないというが、よしんば移住するにせよ、一族は郷里に残しておく方が賢明の沙汰である。彼の友人は種々雑多な面々であった。同じ友人のそのまた友人達は必ずしも互いに仲良しではない。しかし彼等の相違点は銘々の物語る話の一致をば一層目覚しいものにした。それは一度も敵を作った事のない人間の物語であった。利益を与えてさえ敵を作らず、更に恩恵を拒んですら友人を失わない人物であった。全人類に対する不断の平和と善意にあふれる心の持主の物語である。クリスマスが年に一度なら三百六十五たび来る男の物語。自分に授かった物を同胞のために捧げ、人類の葡萄園に一労働者として働いて、葡萄は酸っぱいと叫ばなかった、頭脳明晰な知識人の物語である。絶望に対する真の解毒剤たる自己忘却に住みながら、常に陽気で正しい勇気に満ちていた男の物語である。しかも、その調和を破って人間的にする苦しみの音に全く欠けていたわけでもないのである。少年時代からの親友で、ミドランドシーヤのサマトンの牧師であるリチャード・エルトンは、死の約十日前に故人から受取った一通の手紙を検屍官の手に渡した。それには、検屍官が声を出して読んだ次の数節があった。――「君はショーペンハワについて何か知っているか? つまり今日行われている誤解以上の何かの意味だ。僕は最近、彼の書に接している。彼は実に好感の持てる愉快な悲観論者だ。彼の論文『人類の悲惨』はまことに鋭い読みものだ。最初、彼の説く基督教と悲観主義(『自殺論』に出て来る)の類似は、その大胆不敵なパラドクスに、僕はすっかり度肝をぬかれた。だが、あれには真理がある。まことに、すべて造られたるものは今に至るまで共に嘆き、ともに苦しみ、人は退化した怪物であり、罪はすべての上にある。憶《ああ》、わが友よ、僕はこの悲惨と非行に騒然たる蜂窩に来てから、多くの妄想から脱皮できた。一人の人間の生命――百万の人間の生命――が、果してよく文明の腐敗、野卑、そして汚穢に敵し得るであろうか? 時には、僕は悪魔の館に燃える一文の燈心の火のように自分を感じる事がある。自己心は余りにも長く、人生は余りにも短かい。しかも一番困るのは、誰も彼も実に動物的に満足している点なのだ。富める者が教養を求めない以上に、貧しい者はもはや、安楽を求めようとしない。子供の学校費用の一ペニーが収入の何十分の一かに当る貧しい女は、国が永遠に富んでいるだろうという頭で満足しているのだ。 「本当の昔風の保守党は貧民院に収容されている細民なのだ。急進派の労働者は自分たちの指導者をそねんでいるし、指導者達は互いに嫉妬しあっている。ショーペンハワは青年時代に労働党を組織したに違いない。しかし、彼が人間として自殺しなかったのは、哲学者としての自殺行為である、と人は感ぜざるを得ない。彼は仏陀との類似点をも自称している。けれど少なくとも密教などは『意志と現識』の哲学と相距るところ甚だ遠いではないか。ブラヴァツキ夫人は何と驚くべき女なのだろう! 僕は彼女を理解するとはいいえない。殆んど終始、彼女は雲の上高くいるし、僕自身の肉体はまだ天空に登り得るようにはなっていない。君に彼女の本を送ろうか。実に素晴らしい魅力がある……僕は仲々の雄弁家になりつつある。こつ[#「こつ」に傍点]を覚えるのは手易い。怖ろしいのは、本論の明白な現実を追うのを忘れ、『喝采』を得そうな事を喋りはじめるのに、自分で気がつく時だ。ルーシはまだイタリヤで美術館めぐりをやっている。僕は胸の薄い女工さんを見ると、僕の愛人の幸福を考えて時に苦痛を感じたものであった。今では、彼女の幸福は女工さんの幸福と同じく大切だと感じる」  ルーシというのは、故人と婚約していたルーシ・ブレントの事である、と証人は説明した。気の毒なこの娘には電報で知らせてあり、彼女はもう英国に向けて出発している。この手紙に現われている失望の激発は殆んど孤立的のものである、と陳述した。彼の手にある他の手紙の大部分は、明るく、楽天的で、希望に満ちている。この手紙ですら、新年に際し筆者の抱いている様々な案や計画についてのユーモラスな記述で結ばれているのである。  検屍官――この一時的な失望の原因とおぼしい個人的な困難が彼の生活の中にあったのですか?  証人――私の気づいた限りでは何もありません。彼の財政的立場は極めて恵まれていました。  検屍官――ブレント嬢といさかい[#「いさかい」に傍点]などしなかったのですか?  証人――二人の間に意見の相違などは一度も起らなかったというだけの確証があるのです。  検屍官――故人は左利きでしたか?  証人――全然違います。右だけでした。  陪審の一人――ショピンハワ[#「ショピンハワ」に傍点]は自由思想出版協会から本を出している邪宗作家の一人ではないんですか?  証人――彼の本を誰が出版しているのか私は知りませんが。  右陪審員(小さな食料品店をやっている背の高い痩せこけたスコットランド系の男で、姓はサンダソン、名はサンディ、教会役員とボウ町保守協会の委員をしているのが得意である)――言葉を濁さないで下さい。その男は科学館で演説をした分離論者ではないのですか?  証人――いいえ、彼は外国の著述家で――(サンダソン氏がこの小さい慈悲を神に感謝する声がきこえた)――人生は生きる値打ちがないという説を立てた人なのです。  右陪審員――そういう不謹慎な文書を貴方の友人が読んだのを知って、教職にある身としてびっくりなさいませんでしたか?  証人――故人は何でも読んだのです。ショーペンハワは哲学の一体系を著した人でして、貴方の想像しておられるような人物ではないのです。その本を御覧に入れましょうか?(笑声)  右陪審員――そんな本は触るのも汚らわしいです。そんな本は焼いてしまわなければいけない。それから、このブラヴァツキ夫人の本は――どんな本なのです。それも矢張りテチ[#「テチ」に傍点]学ですか?  証人――いいえ、接神論です。(笑声)  電車従業員組合の書記アラン・スミス氏は、故人と死ぬ前日に会った、と陳述した。その時、彼(故人)は運動の前途の見通しについて希望的な口調で語り、十ギニイの小切手を書いて彼に手渡し、彼の組合に寄贈した、と陳述した。故人は次の日の午前七時十五分に開かれる集会で演説すると約束した。  スコットランド・ヤードの探偵部のエドワード・ウィンプ氏は、故人の手紙や書類は彼の死の方法には何の光も投げないから、その家族に返されるのであろうと語った。彼の部はまだこの問題に何の仮説も立ててはいなかった。  検屍官は証言の要約にとりかかった。「皆さん、われわれは」彼はいった。「最も不可解な、不可思議な事件を扱わなければならないのです。しかもその事件の内容たるや、驚くほど単純なのです。本月四日、火曜日の朝、ボウ町グラヴァ通りの十一に下宿業を営んでいる、ドラブダンプ夫人という立派な勤勉な寡婦が、二階全部を借りている故人を起そうとしたが、起きて来ないのでした。心配になって、夫人は往来の向う側に行って、ジョージ・グロドマン氏を呼んで来たのでした。氏はわれわれ全部が評判を知っている人物であり、その明快かつ科学的な証言はわれわれが大いに多とする所なのですが、夫人は氏に頼んで、扉を押し破って貰ったのでした。二人が見ると、故人は咽喉に深い傷を受け、寝台の上に仰向けになって死んでいたのでした。生命の消滅したのはつい少し前なのでした。その創傷を生ぜしめられ得たような兇器は全く見当らなかったのでした。その傷を与え得られたような人物の手がかりは全くありませんでした。誰一人、出入りし得た筈がないのです。医学的証言によりますと、故人が自《みず》からその傷をつけ得た筈はないのです。しかしながら、皆さん、彼の死についていい得られる説明は二つ――二つしかなく、そのいずれかに限るのです。その傷は自分の手でつけられたか、或いは他人の手によるものか、どっちかなのです。私は双方の可能性を別々に取りあげましょう。まず、故人は自殺したのであろうか。医学的証言には、故人は両手を後頭《うしろあたま》の所に組んで横たわっていたのです。所で、傷は右から左へと切られ、左の親指の上の傷で終っています。もし故人が自分でつけたのであったら、彼は左手を頭の下にやったまま、右手を使わなければならなかった筈であり――これは極めて異様かつ不自然な姿勢であります。更に、右手で切る場合、人は無論その手を左から右へと動かします。故人が自分の手を、そんな不便かつ不自然な動かしかたをしたとは、極めて有りそうもない事なのです。無論、彼の目的が人をまどわす積りだったのなら別ですが。もう一つの点は、この仮説ですと、故人はその右手をまた頭の下に持って行った事になります。しかしロビンソン博士は、死は即座に来た、といっておられるのです。もしそうなら、故人はそんな姿勢を綺麗にとる暇がなかった筈なのです。この傷を左手でつける事もまた可能であったのですが、所が故人は右利きだったのです。使ったとおぼしい兇器の影も形もないというのは、疑いもなく医学的証言を強めているのです。警察は、剃刀などといったような兇器乃至は道具が或いは隠してありはしないかというような場所は、隈なく捜索したのです。寝具、マットレス、枕、それから捨てたかも知れない往来など。しかし、兇器を故意に隠匿したという説を含むあらゆる仮説は、死が即座であったという事実乃至は蓋然性を、また、床《ゆか》には血痕が全くなかった事を考慮に入れなければならないのです。最後に、使われた道具がまず十中九分九厘まで剃刀であった事と、故人が生前顔を剃らなかった事と、そうした道具を全然持っていなかった筈である事も、同様なのです。しからば、もし、われわれがここに医師と警察の提出された証言だけで判断するならば、思うに、この自殺説を斥けるのに何等の躊躇もいらないのです。しかしながら、本事件の肉体的方面を暫くおいて、われわれはその精神的方面をば、何の偏見も持たずに探求して見ることにしましょう。故人が自分の手で命を断とうと願うべき理由が一つでもあったでしょうか。彼は若く、富み、かつ人気があり、愛し、また愛されていました。人生の前途は洋々たるものでした。彼は何一つ悪癖を持っていませんでした。簡素な生活と、高尚な思索と、それから高潔な行為とが、彼の人生の三つの指標だったのです。もし彼に野心があったなら、輝かしい社会的地位が容易に彼のものとなったでしょう。彼はすぐれた雄弁家であり、頭脳明※[#「日+折」、第4水準2-14-2]な勤勉家でありました。彼の視野は常に将来にありました――彼は自分が同胞に役に立つような方法を常に計画していました。彼の財布と時間は、正当な要求を出すことさえ出来れば、誰であろうと自由にすることが出来たのでした。もしこういう人間が自分の手で命を断つことがありそうだとするなら、人間性の科学は破滅することになります。しかしながら、画のようなこの人の生活にも些か影のあったことが、われわれの前に提出されました。彼のような人にも、意気の銷沈する時間があったのでした――ない人がわれわれの間にいるでしょうか? しかしそうした瞬間は滅多になく、また長つづきするものではなかったのです。とにかく、彼は死の前日には大いに陽気だったのでした。彼が歯痛に悩んでいたのは確かです。しかし、激痛であったらしくもなく、別に彼はこぼしてもいなかったのです。無論、その痛みが夜なかに激烈になったかも知れません。また、彼が過労であったかも知れない事と、そのため神経が病的な状態になっていたかもしれない事も、われわれは見逃してはならないのです。彼は熱心に働きました。起床は七時半を遅れたことがなく、しかも職業的な『労働運動家』よりもずっと勤勉に働いたのでした。彼は教え、書き、また演説し、組織しました。しかし他方、すべての証人が一致して述べたように、彼は本月四日の朝の電車従業員の集会に出席するのを大いに楽しみにしていたのです。彼は衷心よりこの運動に打ちこんでいたのです。こうした夜をば、彼が自分の有用性の場面から退くために選ぶということが、はたして有りそうな話でしょうか? よし彼が選んだにせよ、それなら手紙とか手記とかを残すなり、遺書をしたためるかした筈ではないでしょうか。ウィンプ氏は様々の書類を調べたがこうしたことの行われた痕跡は発見しえなかったのでした。また、彼が兇器を隠したかも知れない、という見方も当っているでしょうか? 何か意図が働いていた形跡といえば、平素かける鍵のほかに、扉に掛金をかけていた点なのですが、これは余り強調できる点ではありません。精神的方面だけを考えれば、形勢は大いに自殺説に反対です。肉体的方面を見れば、自殺は殆んど全く不可能なのです。この二つを加えれば、自殺反対説は数学的にはとにかく、殆んど完全になるのです。しからば、われわれの最初の疑問、故人は自殺したのか、に対する答えは、自殺ではない、となるのであります」  検屍官が話をとめたので、人々は長く息をすい込んだ。この明快な説明をきいて、人々はただ感嘆するばかりであった。ここで検屍官が論告を終りにしたなら、陪審は躊うことなく「殺人」の評決をしたに違いなかった。しかし、検屍官は水を一口のんで続けた―― 「次は第二の説明です――故人は殺人の被害者であったか? この質問に然りと答えるためには、われわれは方法について概念を形成する必要があるのです。ロビンソン博士があの創傷は他の人間の手でなされたものだとおっしゃったのは、あれで結構なのです。が、他の人間の手であの創傷が与え得た可能性があるという仮説が立てられない場合には、医学者にとってどんなに不可能らしく見えようとも、われわれは自分でつけたという説に押し戻されざるを得ないのです。さて、事実は何でありましょうか? ドラブダンプ夫人とグロドマン氏が死体を発見した時、それはまだ温かかったのでしたし、幸いに特殊の経験という強味をお持ちの証人グロドマン氏は、死はごく最近のものであった、と述べておいでなのです。これはロビンソン博士の観察と十分に符合しています。博士はそれから一時間たって死体を検査された時に死期を二三時間前すなわち七時ときめておられる。ドラブダンプ夫人は七時十五分前に故人を起こそうとされました。この点から、行われは時期は[#「行われは時期は」はママ]もう少し前という事になるのでしょう。私がロビンソン博士の証言から推論した所では、死期をごく正確にきめるのは不可能で、死はドラブダンプ夫人が最初に故人を起こそうと試みた時より何時間も前に起こったという事もあり得るのです。勿論最初の時と二度目のとの間に起こったという事もあり得ます。最初試みた時には彼は単に熟睡していたのかも知れないのですから。また、最初の時よりも相当前に起こったと見る事も不可能ではないのです。形而下的の事実はそれを証明しています。しかしながら、全体から見て、われわれが死の時期を六時半と推定しても大した誤まりにはならないと私は思うのであります。皆さん、六時半のグラヴァ通りの十一番地を想像して見ましょう。われわれは、あの家を見ました。間取りや構成はもう判っています。一階の正面の部屋はモートレーク氏の借りているものであって、往来に面した窓が二つあり、両方ともしっかり掛金がかかっています。後ろは家主の部屋と台所です。ドラブダンプ夫人は六時半まで寝室を出ませんでしたから、扉や窓などはまだ掛金をかけたままです。季節からいって、開け放しにしてある所の全くないのは当然の事です。モートレーク氏が四時半以前に出て行った表口は錠前と掛金がついています。二階には二部屋あり――表に面した方は故人が寝室に使っており、裏の方は居間になっています。裏の部屋の扉の錠はおりていないで、鍵は内側にさしたままになっていますが、窓には掛金がおりています。表の部屋の扉には、錠がおりているだけではなく、掛金までかけてあります。ほぞ[#「ほぞ」に傍点]穴が裂け、上の釘壺が木の部分から力ずくで外されたまま突き出ていたのをわれわれは見ています。窓には掛金がかかっており、締め具はしっかりと留め金にとまっています。煙出しは子供が通りぬけるにも狭すぎる位です。この部屋は、事実、包囲されたかのようにしっかりと閉鎖されていたのです。この部屋は家中のどの部分とも通じていないのです。海の中の要塞か、森の中の丸太小屋のように、全く自己中心に、孤立しているのです。万一、よその人間が家の中に、いや、故人の居間の中にはいっていたとしても、彼は寝室にははいれないのです。この家は貧しい人の住むために建てられているので、部屋と部屋との間が通り抜けできないで、いざとなれば別々の家族が一部屋ずつに住めるようになっているのです。所で、しかしながら、誰かが奇蹟的に、表の部屋にはいったとしましょう。二階で、地面から十八フィート離れているのです。六時半かそこらに、彼は眠っている下宿人の咽喉をかききります。それから、もう起きている家主に気づかれないで出るには、どうするでしょうか? しかし、この奇蹟も彼に許すことにしましょう。外に出ながら、彼はどういう風にして、扉や窓の錠や掛金を内側からかけたままにしておくでしょうか? 奇蹟もこう度をこすと、私の軽信をもってしても、一線を劃さなければならないのです。いえ、あの部屋は一晩中しめ切ってあったのです――霧の痕跡すら見られなかったのですから。誰も、はいったり出たり出来なかったのです。最後に、殺人は動機なしに起るものではないのです。物盗りと怨恨が唯一の考ええられる動機です。故人は世の中に敵というものを持っていませんでした。金《かね》も貴重品も手をふれないで残っていました。あらゆる物が整然としていました。争った跡は全然ありませんでした。そうしてみると、われわれの第二の質問――故人は他の人間に殺されたのか?――に対する答えは、そうではない、という事になります。 「皆さん、これが不可能であり矛盾しているのは、私もよく気がついています。しかし矛盾しているのは事実それ自体なのです。故人が自殺をしなかったのは明瞭な模様です。同じく明瞭に、故人は殺害されたのではないのです。ですから、皆さん、評決を下すとするならば、故人が死に遭遇した手段や方法に関しては、何等適当な基礎のある確信は得られなかった、という事を認めるに近いものを下す以外に致し方がないのです。これは私の経験した数々の事件中、最も説明し難い怪異な事件なのです」(一同騒然)  陪審長(サンディ・サンダソン氏と話しあった後で)――われわれは意見の一致をみません。陪審員の一人は『天の配剤による死』という評決を主張していますので。 [#5字下げ]4[#「4」は中見出し]  しかし、犯罪を決定させようとするサンディ・サンダソンの燃えるお節介も、反対の前に揺らぎ始め、最後には彼は諦めて、「存疑評決」に屈した。そこでインキ界の源《みなもと》がみな潰《やぶ》れ、洪水は九日の間、不運な理想主義者が横たわって黴《かび》ている、聴く耳を持たない棺の上に降りそそいだ。新聞界の舌は解き放たれ、論説委員は「ボウ町の怪事件」の状況の再現に腕を凝らしたが、その解決に対しては徒らに形容詞を並べ立てた以外何の寄与もしなかった。各新聞とも投書で充満した――それは新聞の霜枯時の一種の回春期であった。しかし編集者は投書を載せない訳には行かなかったし、載せない量見もなかった。この事件はいたる所で唯一の話題にされた――富める家でも貧しい家でも、台所ででも、応接間ででも、ひとしく語られた。科学的な話しぶりをする者もあれば、愚かな解釈をつける者もあった。下町弁で語る者も、正しい発音で語る者も。それは朝飯のパンと共に始まり、夕飯の食卓からパンの屑の最後の一粒が片づけられるまで続いた。  ボウ町グラヴァ通り十一番地を目ざす巡礼の数は何日間も一こう減らなかった。かつては眠ったようであった小さな往来は朝から晩まで雑鬧でにぎわった。市の各方面から人々がやって来て、寝室の窓を眺めたり、恐怖にうたれた愚かな顔つきで不思議の感にふけった。歩道は何時間も通行ができないほどの混雑であった。菓子や飲料水を行商する連中はここを新しい市場にした。艶歌師は早速かけつけ、あてこみの他愛もない歌をうたった。政府が町の両端に通行税をとりたてる関所を作らなかったのは残念な事であった。しかし歴代の大蔵大臣は国債の償却に便宜のあるような手段には一切手を出さない。  ついには、馴れは軽侮を生み、機智のある人々はこの怪事件をタネに洒落のめし始めた。 「鵝鳥にボウといって脅かしてはいけない」という諺に、こうつけ加えた者がいた。「さもないと、事件の真相を喋るかも知れない」ボウの怪異(貝)は実にあさり[#「あさり」に傍点]尽された、といった人の名は伏せておこう。「小魚神」と名乗る男がいったのであったが、もし彼が気の毒な陪審員の一人であったならば定めし「自殺」に追いやられたろう、という方がまだ増しであった。ある職業的な逆説家は「モルグ街の殺人事件」にある多少類似した状況を得々として指摘し、自然は――猿のように狡いから――再び剽窃し始めたといって、ポーの出版者はすべからく差押えを強行すべきだと揶揄した。もっと真面目な意味で、ポーの解決を「愛読者」という名で、自分の独創として再提議した男がいた。大道の手廻し風琴師の連れた小猿が主人の剃刀を持って煙出しを降りて行って、寝床の主のひげを剃ろうとした揚句、来た道を通って出て行ったのかも知れない、と彼は考えたのである。この思いつきは相当な人気を湧かしたが、名前の後に仰山な字をしこたま並べた一投書家が、そんな狭い煙出しを降りられるような小さい猿にそんな深い傷を負わせるだけの力のある筈がないと指摘した。これが第三の投書家の反駁する所となり、この論争が猿の筋肉の力について余りにも激しく行われたので、遂に殺人は猿にきまってしまいそうになった。この泡沫は「常識」と名乗る人物のペンによって一挙に破られた。彼は簡潔な文で、床や寝衣や布団に煤や血の痕の全然なかった点を指摘したのであった。「ランセット」新聞の「事件」に関する論説は興味をもって期待された。それはこう述べた。「われわれは検屍官の説示に対して浴せられた賞讃に同意できない。あれは医師でない検屍官を持つ事から起る害悪を再び示す結果となった。彼は医学上の証拠の意義を認めるように見せたが、認め方が適当でなかった。彼は陪審が殺人の評決を下すように説示すべきなのであった。傷が外部の者によって与えられたとするきめ[#「きめ」に傍点]手が彼に発見できないのが、彼と何の関係があるのであろうか。犯行がどうなされたかを発見するのは警察の任務である。あの不幸な青年が自《みず》からあの傷を自分に負わせて後に刄物を隠し、その目的のために自分が寝台を離れた痕跡を完全に抹消するだけの体力と意志の力を持つことが不可能である、と述べればそれで沢山なのであった」素人探偵連の提出した説を全部列挙するのが不可能である一方、スコットランド・ヤードの方は大いに良心的に沈黙を守っていた。やがて、この問題に関する興味は最良の投書の来た二三の新聞だけに限られるようになった。興味ある投書の来ない新聞は、投書を載せるのをやめて、来た新聞の「煽情主義」を冷笑した。途方もない説が依然として多かったが、中には耳をかすべき解釈も二三はあったけれど、それらも結局は星ではなく花火にすぎず、徒らに華やかに燃えただけで終ってしまった。その一つを挙げれば、霧の降りた暗さを利用して、殺人者は歩道から梯子をかけて、寝室の窓へと登った。ガラス切りでガラスを一枚きり開き、その間から忍びこんだ。出る時には、ガラスを元通りにはめ(乃至は、持ってきた別のをはめ)た。だから部屋の掛金にも鍵にも手を触れてないのである。ガラスを一枚外しただけでは隙間が狭くてはいれないと指摘されると、第三の投書家は、ただ手を入れて掛金を外すだけだから構わないと説き、そうして窓を全部あけてはいり、殺人者は出る時には反対の操作をしたのである、と述べた。この美しいガラスの家は忽ちガラス屋と名乗る投書家によって粉砕された。ガラス屋氏は曰く、ガラスは片側からやったのでは巧く枠に納まるものではなく、一寸押せばすぐ外れてしまうし、パテが乾いてないのを当局が見落す訳がない。扉の鏡板を切りとって後から填《は》めたという説も提出されたし、秘密の扉や通路があるに違いないと、グラヴァ通り十一番地を中世の城あつかいした説も出た。こうした頭のいい諸説の一つに、殺人者は警官の来ている間もずっと部屋に潜伏していたのだ――箪笥の中に――というのがあった。さもなければ、グロドマンが押しあけた時に、扉の後ろに隠れ、発見のどさくさ紛れで姿を見られずにすみ、グロドマンとドラブダンプ夫人が窓の掛金を調べている間に刄物を持ったまま逃走したのである、と。  暗殺者が外に出た後で戸じまりをした状況を科学的に説明する説も出た。強力な磁石を使って、外から鍵を廻し掛金を動かした、というのである。磁石を手にした殺人者の姿が、新発見の細菌のように一般の想像力の世界に現われ出た。この至極巧妙な説には一つの欠点があった――実行不可能なのである。生理学者が剣を何本も飲む手品師のことを思い出した。これは咽喉の構造が異常に出来ているから出来るのだが、故人は自分の咽喉をかき切った後で、兇器をのみこんだのだろう、というのだ。これは流石の一般社会ものみ込めなかった。自殺がナイフか、その刃か、或いは鋼《はがね》の一片で行われ、傷口に埋められてしまったという見方は、シェリの詩の一行―― 「かかる傷なれば、ナイフは中に埋みぬ」を引用してはあったが、一顧すら与えられなかった。あの創傷は燭台(乃至は似たような無害な寝室用具)でつけたのであって、仕込杖のような構造になっているのだ、という説もあった。こういう風な説が続いたので、一ユーモリストは、故人は剃刀を歯の洞《うろ》に隠したのだ、と説明した! マスキラインとクック一座([#割り注]有名な英国の手品師――訳者[#割り注終わり])に好意を持つ誰かは、あの犯人はこの二人以外の誰でもない筈だ、密閉した箱から出られるような人間は外にはいないから、といった。しかしこうした当て推量のうちでも、一番目立ったのは表面いかにも飄逸を装ってはいるが、おそらくは半ば真面目に書かれたらしい一通の投書で、「ペル・メル・ガゼット」に掲載された。その見出しは [#ここから3字下げ] 「ボウ町の怪事件解決さる [#ここから1字下げ] 「ホワイトチャペル殺人事件が全宇宙を震撼させていた頃、地方検屍官が犯人であると暗示した小生を想起される事と存じます。小生の暗示は一顧をも与えられませんでした。検屍官は依然安泰である。ホワイトチャペル殺人鬼も亦た然り。この暗示的な符号は、今度は当局をして小生の意見に耳を傾けさせる事になると信じるものである。問題はこの点にあるらしい。故人が自分で咽喉を切り得た筈はない。故人は他人に咽喉を切られ得た筈もない。事実は、この二つのどちらかであったのに相違ないのだから、これは明らかに一笑に値する妄論である。妄論であるから、信じない小生に歩《ぶ》がある。この明らかな妄論を最初に流布したのはドラブダンプ夫人とグロドマン氏であるから、この二人[#「この二人」に傍点]を信じない権利が小生にある訳です。要約すれば、この話全体がこの最初に死体を発見した二人の捏《でっ》ちあげた眉つば物でないという保証がどこにあるかという事なのです。犯人がこの二人でない、という証拠がどこにあるのですか? 二人は犯行の後で、わざと扉をこわし、錠や掛金をこわし、警官を呼びこむ前に窓をみんな閉めたのではないでしょうか。名刺を同封いたします。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]『自分の眼鏡で物を見る者』より。 [#ここで字上げ終わり] [#ここから1字下げ] 「投書者の説は氏自身考えているらしいほど大胆な独創的なものではない。氏はホワイトチャペル殺人鬼は死体を発見した警官自身だと終始主張していた人々の眼鏡で見ているのではありませんか? どっち道発見されるのなら、誰か[#「誰か」に白丸傍点]が発見する筈です。ペル・メル・プレス編集局」 [#ここで字下げ終わり]  編集者はこの手紙を掲載したのを悦んでいい理由があった。それは次のような興味ある投書が大探偵自身から来たからだ。 [#ここから3字下げ] 「ボウ町の怪事件解決さる [#ここから1字下げ] 「貴紙に投書された人物が独創力に欠けているという貴説に小生は同意し兼ねます。その反対に、小生はあれが実に立派な独創性に富むものと思うのです。事実、あれは小生に一つの考えを与えたのです。それが何であるか、まだ、ここでは申し上げたくないのですが、もし、『自分の眼鏡で物を見る者』氏が住所姓名をお知らせ下さるなら、小生は彼の胚種が実ったか否かを、世間一般よりも少し前におしらせ致したいと思うのです。彼は小生と同気相通じる所のある人物のような気がするので、この機会に、小生はあの不満足な評決に極めて失望した事を公表したいのです。あれは明白な殺人事件なのです。『存疑評決』はスコットランド・ヤードに努力を緩める傾向を与えます。不遜や自己反省の謗《そし》りは免かれ得ると思いますが、最近の警視庁は幾多の醜態な失敗を喫しています。以前の俤はどこにあるのでしょう。犯罪は次第に不敵になりつつあります。所きらわず発生する、といってもいいほどです。昔は逃げ隠れしたものが、今では公然と挑戦して出る。繰りかえしますが、小生は単に法律と秩序のためにこれをいっているのです。一瞬間といえども、小生はアーサ・コンスタントが自殺したとは信じていないのです。そして若し警視庁があの説明に満足していて、寝がえりをうってまた眠ってしまったのであったら、この世紀の最悪かつ最も怖るべき犯罪は永久に罰されずに終ってしまうでありましょう。あの不運な被害者と小生との交際はつい最近始まったものです。しかし、彼が確かに、自分に対しても他人に対しても、乱暴な行為をなし得ないように生れついていた事を、小生はこの眼で見、この頭で知っていたのです。(烏滸《おこ》がましいが、小生は正しい判断を下し得るだけの大勢の人間を見たり知ったりしている積りです)世にいう、蠅一匹殺さない、というのは彼の事なのです。そして、そういう柔和な人物は、いつも自分に手をくだすだけの活動的精力を欠いているものなのです。彼は尋常の賞め方では足りない立派な人物でした。小生は彼が小生を友人と考えていたといえるのを誇りにしています。小生は今や年もとり、再び公務に服し得るとは思いませんが、この不正な行為を犯したものが発見されるまでは、一日の安心も得ることは不可能なのです。小生は、すでに被害者の家族と文通を始めています。彼等は、悦ばしい事には、小生に全面的の信頼をよせられ、小生が彼等の不幸な一族の者の、自殺という半ば不名誉な濡衣をはらすのを期待しておられるのです。当局に対し小生同様に不信を抱き給う諸賢、及びこの惨劇に対する何等かの手がかり乃至は何等かの暗示を提起し得る各位が、要約すれば世上一般の『自分の眼鏡で物を見る者』諸氏が小生に御文通下されば、幸甚なのです。どういう方向に新しい手がかりを求めれば最も有効かとお尋ねあるのでしたら、小生はこう申しあげたい。まず、被害者のイースト・エンドにおける多方面の活躍の完全な如実な全貌をつなぎ合わせる助けになるものなら何でも値打があるのです。彼は何等かの形で多数の人間の生活に立入っていました。彼がどこでも敵を作らなかったというのは真実でしょうか? 最善の意図をもってしても、人は相手を傷けたり気に障ったりするものです。干渉に腹を立てる人もいるでしょう。嫉妬心を起させる事もあるでしょう。故コンスタント氏のような青年は、善意には富んでいても、往々にして実行上の怜悧さではそれほどでもない場合があるのです。誰の底豆を彼は踏みつけたのでしょうか? 彼の最後の数カ月についてわれわれが深く知れば知るほど、彼の死因がわれわれによく判って来るのです。これが貴紙の貴重な紙面に掲載される事を予想して感謝します。 [#ここで字下げ終わり] [#地から7字上げ]ボウ町グラヴァ通り四十六 [#地から2字上げ]ジョージ・グロドマン [#ここで字上げ終わり] [#ここから1字下げ]  追伸。右を書き終えた後で、ブレント嬢の御好意により、最も貴重な一通の書簡を手に入れる事が出来ました。恐らくかの不幸な紳士が書いた最後の手紙でしょう。日附は殺人の前日の十二月三日で、フロレンス市の同嬢宛になっており、あの不幸な報せを受けてロンドンに帰った嬢のあとを追って漸く只今回送されて来たものなのです。この手紙は全体的に見て、最も希望的意気にみちており、彼の計画を細大洩らさず述べています。勿論、その中には公衆の耳に入れるために書かれたのではない部分もありますが、重要な一節を書き抜くのに不都合はない事と信じます。 「貴女はイースト・エンドがゴルゴサ([#割り注]キリストが十字架につけられた場所――訳者[#割り注終わり])のような場所だと思いこんでおいでのようですね。貴女はそういう考えを何かの書物からお取りになったのでしょうが、そういう書物には注意深く『小説』と表示がしてあったでしょうに。ラムはどこかにいっています。『暗黒時代』というと、とかく文字通り日光も射さないように思いがちである、と。ですから、貴女のような方々《かたがた》は『イースト・エンド』といえば汚辱《マイヤ》と悲惨《ミゼリ》と殺人《マーダ》の混合物《ミクスチュア》だとお感じになるのです。頭韻が踏めたでしょう? 僕の下宿から五分も歩けば、家の前後に庭のある綺麗な家が立ち並んでいるのです。中には立派な人々がいい家具を入れて住んでいるのです。僕の大学の同窓生の多くは、ハイ・ロードの店主の或る者の収入を知れば、思わず涎を流すことでしょう。 「ここの裕福な人々もケンジントンやベイズウォータの連中ほど当世風ではないでしょうが、愚かしい点と物質的な点だけは彼等とそっくりです。僕といえどもルーシ、憂欝になる事のあるのを否定しません。時として僕も、ここから脱け出して、太陽と安逸の土地に逃げたいと願うものです。しかし、全体からいって、僕は夢を見る夢も見るひまのない多忙さなのです。僕の本当に憂欝となる瞬間は、僕が果して本当に何か役に立っているだろうかと疑問を感じる時なのです。しかしそれでも、全体からいって僕の良心乃至は自負心は、僕が役に立っているといいます。大衆に対して余り尽せないにしても、少なくとも個人々々に対しては尽しているという慰めがあるのです。そして、要するに、一人か二人の人間に対して善い影響力になるだけでも十分なのではないでしょうか? こちらには実に立派な人物がいます――なかんずく、婦人の間に。犠牲的行為の出来る性質のみではなく、繊細な感情を発揮できる人々なのです。こういう点を知った事は、こういう人々の二三に対して役に立った事は――十分な報酬ではないでしょうか? 貴女のお友達のなさるヘンシェル演奏会のシンフォニを聴きに聖ジェームズ・ホールに行けませんでした。僕は最近ブラヴァツキ夫人の新刊を読んでいますが、超自然哲学に段々興味を持つようになりました。残念な事に、読書の時間は寝床にはいってからだけに限られていますが、この本は遺憾ながら新刊の大抵の本と同じく余りいい催眠薬にはならないのです。夜の睡眠を妨げる点、接神論は歯痛に劣らず……」 [#ここから3字下げ] 「ボウ町の怪事件解決さる [#ここから1字下げ] 「本日の貴紙に発表されたグロドマン氏の手紙の信じ得られぬほどの悪趣味に驚いたのは小生だけでしょうか。元の庁員ともあろう彼が、警視庁を公然と侮辱し傷つけるとは、最も寛大にみても、彼が年をとって判断力が狂って来たとしか考えられません。この手紙から見るに、故人の御親族が彼に私信を託しておられるのは正しい事でしょうか。彼が自分の友と称そうときざ[#「きざ」に白丸傍点]なあせりを見せている人物の寃を雪ごうとするのは、無論、結構なことです。しかし、万事を考慮に入れた上の話ですが、彼の手紙は『ボウ町の怪事件棚あげとなる』と題した方がよかったのではないでしょうか? 小生は名刺を同封いたします。[#地から2字上げ]『警視庁』 [#ここで字下げ終わり]  ジョージ・グロドマンはこの手紙を忌々しげに読み、新聞をもみくしゃにすると、軽蔑の色をこめて呟いた。「エドワード・ウィンプめ!」 [#5字下げ]5[#「5」は中見出し] 「でも君、『美』はどうなるのだね?」デンジル・キャンタコットがいった。  “Hang the Beautiful!”ピータ・クラウルは、美術院の審査員のような事をいった。([#割り注]「美なんかどうにでもなれ」という意味と、「美しいものを入選させろ!」と両樣にとれる文で、ピータは前者の意味でいい、地の文は後者をほのめかしたのである――訳者[#割り注終わり])「僕には『真理』をくれ」  デンジルはそんな事はしなかった。生憎持ち合わせがなかったのである。  デンジル・キャンタコットは下宿の主人の店さきで立ったまま巻莨をすっていた。欝陶しい革くさい店の空気は、その為に非凡な風格と好もしい香気で一杯になっていた。クラウルは下宿人と話しながらも、顔は挙げずに、靴の修繕にいそがしい。彼は柄の小さい、才槌頭の、血色の悪い、悲しそうな目つきの男で、脂じみた前垂れをしめていた。デンジルは毛皮の襟のついた厚い外套を着ている。彼は冬中、人前に出る時にはいつもそれを離さない。人のいない所では、彼はそれを脱いでしまって、シャツ一枚になる。クラウルは思索家であった。乃至は自分でそう思っていた――所を見ると、一応独創的な物の考えが全然ないでもない筈だ。彼の髪は頂上が急速に薄くなりかけている。まるで彼の頭脳が物事の現実に出来るだけ近づこうともがいているかのようである。彼は気まぐれな流行を追わないのを誇りにしていた。誰しも何か弱点か道楽があるものだ。クラウルは時として、自分の優秀性のために、殆んど淋しく感じかけた。彼は菜食主義者で、非宗教教育論者で、禁酒会員で、共和主義者で、また禁煙主義者であった。肉食は気まぐれな流行《はやり》なのである。飲酒は流行だ。宗教は流行だ。帝政は流行だ。喫煙は流行だ。「僕のような凡人は」クラウルはいつもいった。「流行を追わないでも暮らせるからね」「僕のような凡人」というのがクラウルの口癖だった。日曜の朝など、店の向う側にあるマイル・エンド空地に立って、群集に向って、王や僧侶や羊肉のチョップの害毒について演説する時、この「凡人」がシンフォニの主題であるかのように時々現われるのだ。「僕はただの凡人だから知りたいのだ」この句でもって、論理的上品さの蜘蛛の巣を斬り、尖端に刺して侮蔑的にふり廻して見せるのである。日曜の午後クラウルがヴィクトリヤ公園に気晴らしに出る時には、この句を使って超自然論者を散々にやっつけるのであった。クラウルは大抵の牧師より聖書について詳しく知っている。いつも細かい活字で刷った一本を懐中にし、矛盾のある箇所の頁は、ちゃんと折りまげてある。エレミヤ記の題二章はこう述べている。所がコリント人への書の第一章には違った事が述べてある。この矛盾する二つの記述は両方とも正しいのかも知れない[#「かも知れない」に白丸傍点]。だが、「僕は凡人だから、きかして貰いたいだ」クラウルはひどく時間をかけて「言葉と言葉」をつき合せた。闘※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]といえどもクラウルが二つの章句をかけ合せて悦ぶほどの愉快さを与えない。クラウルは抽象的議論の天才だったので、彼の日曜の朝の弟子たちは賞讃で夢中になり、敵方は色を失って一言もなくなるのであった。一例を挙げれば、彼はこういう事を発見した。神は動く[#「動く」に白丸傍点]ことが出来ない――なぜならすでにあらゆる空間に満ちているから。彼はまた次の重大な一件を発見して、牧師連を当惑させた最初の人間であった。それはロンドンで聖者が死んだのと同時に地球の反対側でもう一人の聖者が死んだとする。両方とも天国めがけて空に登って行ったが、この両者は全く正反対の方角に進んだのである。両者は未来永劫相会う事はないであろう。では、このどちらが天国に着くのであろうか? それとも、そんな所は無いのであろうか?「僕はただの凡人だ。だから知りたいのだ」  われらの空間を保存せよ。空間は未知と誤解されたものに対する人類の癒されぬ興味を試みる為に存在する。ロンドンの若者でさえも、彼女があまり急がなければ、五分間ぐらいは純正神学に耳をかす暇はあるものだ。  ピータ・クラウルはデンジル・キャンタコットのような下宿人を置いたのを後悔しなかった。尤も、相手は有能な男で、面倒の見甲斐はあるが、天下の問題について、ことごとく見込みのないまでに間違っているのである。ただ一つの点だけでピータ・クラウルはデンジル・キャンタコットと同意見であった――彼はデンジル・キャンタコットを秘かに賞讃していた。彼が『真理』を与えよといった時――これは大抵は一日に二度ほどいう事なのだが――彼は実は全く期待していなかったのであった。彼はデンジルが詩人なのを知っていた。「『美』は」彼は続けた。「君のような人間しか興味をひかないものだ。『真理』は全人類のためにある。多数が第一の権利を持っているのだ。それまでは君たち詩人は待っていなければならない。『真理』と『有用』――これがわれわれの欲する所なんだ。『社会に役立つ』か否かで万事は値打がきまるのだ」 「『社会に役立つ!』」デンジルが軽侮の声で、鸚鵡がえしにいった。「社会に[#「「社会に」は底本では「社会に」]役立つ、とは何だね? 『個人』がすべてに先行するよ。大衆は『偉人』の為には犠牲にならなければならない。さもないと『偉人』が大衆のために犠牲になってしまう。偉大な人物がいなければ芸術は存在し得ない。芸術がなくては人生は全くの空《くう》となる」 「だが、われわれはその空《くう》をパンとバタで満たすんだ」ピータ・クラウルがいった。 「そうだ、そのパンとバタが『美』を殺してしまうんだ」デンジル・キャンタコットが苦々しげにいった。「われわれの多くは、まず緑の野に蝶を追うが、ともすれば途中から――」 「食物探しに転向する」ピータは靴を直す手を休めずに笑い出した。 「ピータ、君がそう何でも混ぜっかえすなら、時間が無駄だから君とは話をしないよ」  デンジルの激しい眼が怒ったように閃いた。彼は長髪を揺すった。人生は彼にとってごく真剣なものであった。彼は自分から書こうと思って滑稽詩を書いた事は一度もなかった。  天才的な男が髪を長くしている理由は三つある。第一は、伸びるのを忘れるからだ。第二は、長いのを好むからだ。第三は、その方が安上がりだから。長い髪をしているのは、いつまで一つ帽子を冠っているのと同じ理由なのである。  天才のもつこの特性によって、散髪代にことを欠く人は、えらい名声を博すことになる。この経済的な理由はデンジルには当てはまらなかった。彼は外見の力で理髪師連に信用があったのである。だから町の浮浪児たちが髪を刈れと声を出してからかっても、理髪師たちの役には全く立たないのである。なぜ全世界は理髪師のことばかり考えて、彼等の利益を向上させようとばかり計るのであろうか? デンジルならば、これは理髪師どもに尽すのではなくて、独創性に対する大衆の本能的な敵意を満足させるためである、というであろう。全盛時代、デンジルは編集者であったが、今では糊を甞めようとも思わなければ、鋏で自分の髪を刈ろうとも思わなかった。髪の効能はサムソンの在世時代とは事変ってしまった。さもなければ、デンジルはこんなひょろ長い、痩せた、神経質な、パイプ掃除に使うにも脆すぎ弱すぎる男になる訳がなく、ヘーラクレースのような怪力を持っている筈である。([#割り注]サムソンはイスラエルの士師、髪を切らなかった間は絶大な力を持っていた。ヘーラクレースはギリシャの英雄、十二の試練にたえた怪力の持主――訳者[#割り注終わり])彼の長い楕円形の額は尖った整えてない顎ひげで終っている。シャツは汚れ、磨いてない靴は踵が減っているし、まげて冠った帽子は埃で色が変って見える。こういうのが『美』を愛する結果なのである。  ピータ・クラウルはデンジルが軽薄さを非難したのに心をうたれ、あわてて冗談をやめた。 「僕は真面目でいっているんだぜ」彼はいった。「蝶は何に対しても誰に対しても何の役にも立たない。芋虫なら少なくとも小鳥の飢えをいやす役に立つが」 「いかにも君の考えそうな話だね、ピータ」デンジルがいった。「お早うござい」これはクラウル夫人にいったのである。彼は念入りな丁寧さで帽子を脱いだ。クラウル夫人は何やらブツブツいいながら、問いたげに良人の顔を見た。五六秒間、クラウルはその疑問の意味が判らないふりをしようと、最後の努力をしてみた。彼は窮屈そうに丸椅子の上で居ずまいを直した。内儀さんが気持の悪い咳をした。彼は目をあげ、内儀さんが自分の前に威風堂々と立ちはだかっているのを見て、力なく頭《かぶり》を水平の方向に振った。彼が靴をはいて立ってすら、クラウル夫人の方が彼より背が高く見えるのは不思議な話であった。彼女は半インチ低いのである。相当な眼の錯覚である。 「クラウルさん」クラウル夫人がいった。「では、私がいいます」 「いや、いや、まだ駄目だよ」弱り切ってクラウルがしどろもどろないい方をした。「私にまかしておおき」 「もうこれ以上はまかせられません。貴方と来たら何一つしやしないんだから。薄野呂を相手にして、創生記だか何だかとか、もうとっくの昔に死んでしまって、生きている人間には何の関係もない聖書の中の人の誰と誰とが違った事をいった、なんて証明なら、貴方も少しは口がきけるでしょうよ。でも、自分の子供たちの口からパンを取りあげられる問題になると、ガス燈の柱みたいにからきし口がきけないと来ているんだからね。こうやって、何週間も何週間も人がいてさ――貴方の汗水たらしたお金で飲んだり喰べたりしておいて――一文だって払――」 「およし、およし、母さん。大丈夫だよ」可哀想にクラウルは火のように赤くなっていった。  デンジルはぼんやり彼女を見た。「もしや貴女は僕の事を仰有っているのでしょうか?」彼がいった。 「でなければ、私は誰の事をいってるんです、キャンタコットさん? もう七週間もたちましたけど、私はただの一文だって――」 「何ですねえ、クラウルの奥さん」デンジルは巻莨を辛そうに口から離しながらいった。「貴女が[#「貴女が」に白丸傍点]うっちゃっておいて、どうして僕を[#「僕を」に白丸傍点]お責めになるのです?」 「私が[#「私が」に白丸傍点]うっちゃっておいた! まあ、きいた風なお話し!」 「しっかりして下さいよ」デンジルは前より鋭くいった。「貴女が請求書を下さっていたら、もうとっくにお払いしている筈ですよ。どうして僕がそんな些細な事に頭を使うでしょう」 「ここら辺では誰もそんなに偉かないんですよ。何でも現金払いですからね。誰も請求書[#「請求書」に白丸傍点]なんて貰やしませんよ」クラウル夫人は無限の侮蔑に言葉に力をこめていった。  ピータは内儀さんの声にかぶせるようにして釘を打った。 「三ポンド十四シリングと八ペンスですよ、そうおききになりたいのなら」クラウル夫人がまたはじめた。「このマイル・エンド・ロードには、それ以上お安くする女は一人だっていやしませんからね。パンは四ポンドで四ペンス四分の三だし、家主さんと来たら、きまって月曜の朝には夜が明けるか明けないかにお家賃を取りに来るし、子供たちは足をひきずったり往来を滑ったりして歩くから靴と来たら花嫁の後から抛るより他の役には立たなくなっているし、クリスマスは来るし、学校にだって一週七ペンス払うんですからね!」  ピータは最後の項目で縮み上った。必ず近い内にやって来るのが判っていたのだ――クリスマスのように。彼の細君と彼とは無料教育の問題で仲たがいをしたのである。ピータは、九人もこしらえたのだから、教育を受けられる年頃になった子供一人について一ペニイぐらい払うのは当然の事だ、と感じた。彼のより善き[#「より善き」に傍点]伴侶は、こんなに子供が沢山いるんだから当然、免除されるべきだ、と論じた。子供の少ない家でなければ、一ペニイなんか払えやしない。だが、このマイル・エンド・ロードの靴直しの懐疑派は、この授業料の問題だけは頑として譲らなかった。それは、良心の問題であった。で、クラウル夫人は免除の申請を一度もしなかった。だから、授業料が癪にさわるといっては、よく子供たちを殴りつけた。子供たちは殴られるのに馴れていたから、誰も殴ってくれない時には、お互いに殴り合った。みんな元気な、行儀の悪い悪戯っ児で、親には苦労をかけ、教師には心配をさせ、自分たちだけは平気の平左だった。 「月謝の事はいいなさんな!」ピータが弱り切って応酬した。「キャンタコットさんにお前の子供の責任は無いんだ」 「有られて堪るもんですか、クラウルさん」クラウル夫人は厳しくいった。「何て馬鹿な事をいうんです」そしてそういってしまうと、彼女は店から飛び出して裏の部屋にかけこんだ。 「大丈夫だよ」ピータが後ろから慰めるようにいった。「お金は大丈夫だよ、母さん」  下層社会では自分の女房のことを『母さん』と呼ぶのが通例である。上等の社会では、女房のことを「細君」という。まるで「取引所」とか「テムズ」とかについていうように、自分の所有物扱いにしないのが流行である。本能的に、男は道徳的だったり家庭的だったりするのを恥と感じるのである。  デンジルは平然として巻莨をふかした。ピータは身体をかがめて、仕事に身を入れ、神経質そうに錐で穴をあけた。長い沈黙があった。一人の街頭風琴師が外でウォルツを一曲やったが、誰もうるさがらないので、通って行った。デンジルは、もう一本の巻莨に火をつけた。文字板の汚なくなった掛時計が十二時をうった。 「どう思いますね」クラウルがいった。「共和国のことを」 「低級だよ」デンジルが答えた。「国王がいなくては、権威というものの象徴が目に見えないじゃないか」 「何? 君はヴィクトリヤ女王が目に見えるというの?」([#割り注]ヴィクトリヤ女王は一九〇一年に沒した。本編は一八九一年、女王の在世中に書かれたものである――訳者[#割り注終わり]) 「ピータ、君は僕を家から追出したいのかい? 気まぐれは女どもに任しておき給え。女どもは心が狭くて、やりくりの算段以上の事は出来ないんだ。共和国は低級だよ。プラトーンは慈悲深い事に彼の『共和国』には詩人を入れてくれなかった。共和国は詩を培うには適しないんだ」 「何という馬鹿げたことを! もし英国が王制という詰らん流行を捨てて、明日にでも共和国になったとしたら、君は矢張りそういうのか?」 「第一に桂冠詩人がなくなってしまうじゃないか」 「誰が今下らない冗談をいっているんだ。君か、僕か、キャンタコット? だが、僕は詩人なんて実に下らんものだと思っとるね。君は全然別の話だが。僕はただの凡人だからききたいが、或る人間に他の人間たちより上の権力を与えて何の意味があるんだね?」 「ああ、それはトム・モートレークが以前いっていた事だ。権力が出来て見給え、ピータ、労働組合の金が支配出来て、労働者どもが君に投げ銭をしたがるほど騒ぎ立てたり、旗みたいに君を担ぎたがってワイワイ喚く」 「ああ、それは彼が彼等よりすでに大いに抽《ぬきん》でているからだ」クラウルが例の悲しそうな灰色の眼を一閃ひからせながらいった。「しかし、それでも僕が今までと違った事をいうという証明にはならんぜ。それから君は彼が近頃横着になっているというが、それは全くの誤解だぜ。トムは立派な男だ――どこからどこまで男らしい。相当なものじゃないか。彼にも弱点のあるのを僕は否定はしないよ。現に一度なんか、彼がこの店に来て、あの気の毒な死んだコンスタントの事を滅茶々々に悪くいった事もあったんだ。『クラウル』と彼はいったね。『あの男は悪影響を及ぼすぞ。僕は、ああいうお上品な博愛主義者連が、判りもしない癖に、実際運動に手を出すのが大嫌いなんだ』とね」  デンジルは無意識に口笛を吹いた。これは耳よりの話である。 「思うに、だね」クラウルは続けた。「彼は自分の勢力に干渉して来る男は誰でも少し嫉けるんだね。だが、この場合、その嫉妬はすぐ消えてしまったんだ。あの気の毒な人と彼は、人も知る通り、大変な仲よしになったじゃないか。トムは偏見にいつまでも噛りついてる男じゃないからね。だがね、そういう事は何も全然共和国が悪いという証拠にはならないよ。ロシャ皇帝とユダヤ人を見給え。僕はただの凡人だが、ロシャに住むのなんて――ロシャ中の革を皆な貰っても厭だね! 英国人は、王制という下らん流行を保つために税金を払わなければならんが、誰がウィンザ宮の主になろうとも、少なくとも自分の城廓の中だけでは国王でいられるからね。一寸失敬、内儀さんが呼んでいる」 「僕こそ失敬する。僕は出かけるんだが、出かける前にいっておきたいんだ――君にだけは直ぐ知らせて置いたがいいと思うのだが――今日の事件の後では、僕はもう以前と同じ気持ではいられないぜ――すぎ去った――楽しい時代、といおうか」 「いや、いや、キャンタコット。それはいわないでおくれよ。頼むから!」小柄な靴直しが嘆願した。 「じゃ、不愉快な時代、といおうかね?」 「よしてくれ、よしてくれ、キャンタコット。僕を誤解しないでくれ。母さんは近頃、やりくりで頭を無理しているんだ。ね、段々と家族が増えて行くだろう。日一日とね。だが、彼女の事は気にしないでくれよ。君は金が出来た時に払えばいいんだから」  デンジルは頭を振った。「そうは行かん。最初ここに来た時、僕は一番上の部屋を借りて自炊していた。そのうちに君と友達になって来た。僕らは語り合った。『美』についてね。それから『有用』について。僕は君が精神という物を全く持っていないのを発見した。だが、君が正直なので、僕は好きになった。僕は君の家族と一緒に食事までするようになった。僕は君の家の裏座敷に住みつくようになった。だが、花瓶はこわれた。(あの煖炉の上にある奴の事じゃないよ)そして、薔薇の香りは依然漂っているかも知れないが、もう割れた花瓶はつぎ合わせる事は出来ない――二度と再び」彼は物悲しげに髪を振ると、店から外へとよろめき出た。クラウルも追いかけて出たかったが、クラウル夫人がまだ呼んでいるし、あらゆる礼儀正しい社会では、女性第一という事にきまっているのである。  キャンタコットは真すぐに――乃至は彼の締まりのない足つきの許す限り真すぐに――グラヴァ通り四十六番地へ行き、扉を叩いた。グロドマンの女中が開けた。彼女は痘瘡のあとがあるが、赤煉瓦の粉のような色の皮膚をしていて、態度のごく仇っぽい女であった。 「あら! また会ったわね!」彼女は快活な調子でいった。 「馬鹿な事をいうでない」キャンタコットは不機嫌だった。「グロドマンさんはいるかね?」 「いや、君が追い出したよ」スリッパをはいた御本尊自身がいつの間にか現われていた。「はいり給え。あの検屍以後ずっと現われなかったが、何をしていたんだね? また飲んでいたのかい?」 「僕は禁酒したです。一滴もやらんです。あの――」 「殺人以来?」 「え?」デンジル・キャンタコットは飛び上らんばかりに驚いていった。「どういう意味です?」 「いった通りさ。十二月四日以来、という意味だ。僕は何でもあの殺人の日から数えていうんだ。緯度をグリニッジから勘定するように、だね」 「なる程」デンジル・キャンタコットがいった。 「えーと。殆んど二週間だね。ずい分長いこと御無沙汰したものだね、酒と――それから僕と」 「どっちが悪いか判らないんですよ」デンジルは苛々しながらいった。「どっちも僕の頭脳の力を盗むんだから」 「本当かね?」グロドマンは面白そうに微笑を洩らした。「だが、どっち道、コソ泥程度だがね。何を感ずって今日はここに来たんだね?」 「僕の本が二十四版になったんで」 「誰の[#「誰の」に白丸傍点]本?」 「いや、貴方の[#「貴方の」に白丸傍点]本ですよ。『私の捕えた犯罪者たち』からシコタマ金が儲かっているんでしょうな」 「『私の[#「私の」に白丸傍点]捕えた犯罪者たち』だぜ」グロドマンが直した。「わが親愛なるデンジル、何度僕は指摘したことだろうね。僕の本の背骨になっている種々な経験は、僕の[#「僕の」に白丸傍点]経験で、君の[#「君の」に白丸傍点]ではないんだぜ。あらゆる場合、犯罪者を料理したのは僕なんだ。衣《ころも》をかけるのはどんな文士だって出来た事なんだ」 「その反対です。腕の生《なま》なデモ文士なら事実を生《なま》のまま書いたに違いないです。その程度なら、貴方自身がやったって出来たでしょう――冷たい、明白な、科学的な陳述では貴方を負かす人は誰もいないんだから。しかし、僕はその生《なま》な事実を理想化して、詩と文学の領域にまで高めたんですぜ。二十四版が出たというのは僕の成功を物語るものですよ」 「何をいうんだ※[#判読不可、201-8] 二十四版目の出たのは皆殺人のおかげじゃないか。あれは君がやったのかい?」 「貴方は直ぐ尻尾をつかまえたがるんだからな、グロドマンさん」デンジルは語調をかえた。 「いや――僕はもう引退したよ」グロドマンが笑った。  デンジルは元探偵の冗談をとがめなかった。彼は薄笑いすら浮かべた。 「じゃ、もう五ポンド下さい。そうすれば僕は『やめた』といいますから。僕は借金があるんです」 「一文も出さないよ。殺人以来君はどうして僕に会いに来なかったんだい? 僕はあの『ペル・メル・プレス』に出した手紙を自分で書かなければならなかった。君が来れば五シリングぐらい稼げたぜ」 「僕は書痙になったんで、この前の仕事も出来なかったじゃないですか。それを伝えようと思って、僕は例の朝――」 「殺人の朝さ、君はあの検屍の時にそういったよ」 「本当なんです」 「勿論そうだろう。君は宣誓をしたっけね? 僕に話す為だとしたら、ひどく熱心なものだったねえ。書痙というのはどっちの手なんだね?」 「勿論、右手ですよ」 「で、君は左手では書けないの?」 「ペンを握る事だって出来ないですよ」 「他の道具だって同じだろうね。[#「同じだろうね。」は底本では「同じだらうね。」]どうしてまた書痙なんかになったんだね?」 「書きすぎたんです。それ以上に原因は無いですよ」 「そうか! 一寸も知らなかった。何を書いたの?」  デンジルは躊躇《ためら》った。「叙事詩です」 「借金が出来るのも無理ないね。一ポンドあったら足が抜ける?」 「駄目です。それんばかりじゃ何の足しにもならんのです」 「じゃ、あげよう」  デンジルは金と帽子を手にした。 「ただ貰って行くとは乞食じゃないか? 坐って何か書いてくれ給え」  デンジルはペンと紙とを持って来て、テーブルについた。 「何を書けというんです?」 「君の叙事詩さ」  デンジルはハッとなって顔を赤くした。グロドマンは肱かけ椅子に深くもたれて、詩人の真面目くさった顔をしげしげと眺めながら、声を立てて笑った。デンジルは三行書いて中止した。 「それ以上は思い出せないのかい? じゃ、始めを読んでくれ給え」  デンジルは読んだ。 [#ここから1字下げ] 「人の最初《いやさき》の不従順《そむき》よ、また禁断の 樹の果《み》よ――その致命の味《あじわい》ゆえに 死ともろもろの禍いとは世に入り」([#割り注]ミルトンの「楽園喪失」の第一節の冒頭――訳者[#割り注終わり]) [#ここで字下げ終わり] 「一寸待った!」グロドマンが叫んだ。「何という不健全な主題を君は選んだものだね、全く」 「不健全! だって、ミルトンもこれと同じ主題を選んだんですぜ!」 「ミルトンが何だ。じゃ、引きとり給え――君も君の叙事詩も」  デンジルは出て行った。痘瘡のあとのある女が表口をあけてくれた。 「いつ約束の新しいドレスを貰える、貴方?」彼女は仇っぽく囁いた。 「金が無いんだよ、ジェーン」彼は短かくいった。 「一ポンドあるじゃないの?」  デンジルは女に今のソヴリン金貨を渡し、荒々しく扉をしめた。グロドマンは二人の内緒話をきいて、黙って笑った。彼の聴覚はおよそ鋭かった。最初にデンジルを彼の所につれて来たのはジェーンであった。それは二年ほど前に、筆生が欲しいといった時で、それ以来、かの詩人はずっとやって来て、不定期の仕事を手伝っているのだった。グロドマンはジェーンが紹介したのには何か訳《わけ》があると察した。それが何かはまだ知らないものの、彼は二人とも押さえてしまった。自分がこうと狙ったら、押さえられない者は一人もない――と彼は感じた。男なら――いや、女も――何か隠したい所を持っているから、それが何であるか知っているぞ、というふりをすればいいのだ。グロドマンというのは、こうした科学的一方の人間なのであった。  デンジル・キャンタコットは考えこみながら重い足をひきずって帰って行き、ぼんやりした顔つきでクラウル家の昼飯の食卓についた。 [#5字下げ]6[#「6」は中見出し]  クラウル夫人のデンジル・キャンタコットを見やる目つきの冷やかさと、肉を切って渡す手つきの荒々しさに、デンジルは食事が終った時に、思わず感謝の祈りをあげた。([#割り注]普通は、御存知の通り、食前にお祈りをする――訳者[#割り注終わり])ピータは抽象的議論の天資をトマト料理で養った。彼は家族のものが好き好きの『流行』を追うのに寛容であったが、どんな美味そうな匂いがしても、野菜に対する愛を忘れるほどの誘惑を感じたことはなかった。その上、肉は彼の商売を余りにも思い出させる恐れがあった。革ほど立派ではなかったが、ボウ町のビーフステーキは往々にしてその塁に迫るものがあった。  食後、デンジルは普段は詩的夢想に耽った。しかし今日は彼は仮睡をとらなかった。彼はすぐさま「工面する」ために、外に出た。しかし、工面は苦面に通じた。マイル・エンド・ミラーの事務所を訪ねて前借りを申しこんで断わられた。これには教区委員をやっつける論説を寄稿しているのである。次に彼は旧市部まで歩いて行って、「ハム・アンド・エッグス・ガゼット」を訪ね、近代的ベーコン製造法について論文を書こうと申し出たが、これも断わられた。デンジルは豚の飼育や屠殺、燻製法や乾燥法について大いに造詣が深かった。彼はこういう重大な件について、|「新豚肉新聞」《ニュー・ポーク・ヘラルド》の政策を何年も支配していたものである。またデンジルはほかにも様々な奥義に通じていた。たとえば、織物機械、キャベツの葉などの製造法、下水管の内部的経済などである。彼は少年時代からこうした業界紙に寄稿していた。しかしこうした新聞には競争がはげしかった。文才のある連中の中に、製造や販売の複雑な技術的方面に関して深い知識を持つ者が増え、彼等は業界の革新に熱心だった。デンジルが「私の捕えた犯罪者たち」のために何カ月も没頭したために、こうした後退を見るようになったとは、或いはグロドマンは殆んど認めようとしないであろう。だが、それは放蕩にも似た損害であった。なぜなら競争相手が遮二無二に前進する時、立ちどまっているのは、後ろに戻る事になるのだ。  気を腐らせながら、デンジルは重い足を引き擦りながらベスナル・グリーンへと歩いて行った。彼は小さな莨屋の店の窓の前で立ちどまった。そこには [#ここから3字下げ] 「筋を売ります」[#「筋を売ります」は1段階大きな文字] [#ここで字下げ終わり]  という看板が出ている。もっと詳しく読んで行くと、当店内では小説の筋を沢山にストックしてあると述べてあるのだった――広範囲にわたる、血湧き肉躍る筋、ユーモラスな筋、恋愛を扱った筋、宗教物、詩的な小説の筋などである。ほかに、完成した原稿も沢山あれば、書きおろしの小説、詩、物語など。御用のお方はずっとおはいり下さい。  それは極めて埃だらけな汚い店で、煉瓦は煤け木造の部分は黒ずんでいる。窓には黴びた古本とか、パイプに莨のたぐい一式とか、またボール・カンヴァスに油で描いた、額縁[#「額縁」は底本では「額椽」]にもはいっていない下手な画が山のように積んであった。こういう画がすべて風景画のつもりであるのは題で判る。一番値段の張ったのが「チンフォード教会」の一シリング九ペンス。ほかのは六ペンスから上って行って一シリング三ペンスどまりで、主としてスコットランドの風景をあらわしている――背景に山脈のある湖で、水にくっきりと山の影が映っていて、前景に木が一本ある。あるものは、その木が背景に立っている。そうなると、湖が前景にある。空と水とは濃い紺青の一式である。この蒐集の名は「肉筆油絵原画」となっている。まるで丁寧にふりかけたかのように、すべてに埃が一面に厚くかかっている。それから店主は、夜は飾窓に着衣のまま丸寝するかのような格好をしている。赤鼻の、ひょろ長い男で、喫茶帽の下から薄い黒い前髪をのばしたのを見せ、黒い豊かな口ひげを蓄えている。長い粘土のパイプを吸い、歌劇の悪役が老衰したら成りそうな面魂を見せている。 「ああ、ようこそ、キャンタコットさん」彼は手をこすりながらいった。半ばは寒いからであり、半ばは癖になっているのである。「何を持っておいでになりました?」 「何も持たんのです」デンジルがいった。「だが、一ソヴリン貸して下さい。後で君が目を廻すようなものを書いて渡すから」  歌劇の悪役は前髪を振った。目は狡るそうに光る。 「後でそんな事を本当になさったら、それこそ目を廻しますぜ」  こうした小説の筋をこの歌劇の悪役が何に使うのか、また誰がそんな物を買うのか、キャンタコットは知りもしなければ、また知りたいとも思わなかった。今日では、頭脳の値打ちは低いし、デンジルは買ってくれる者のいるだけで満足していた。 「こんなに長い取引きなんだから信用してもいいだろう」彼は叫んだ。 「信用なんて昔の話でさ」歌劇の悪役は煙をふきながらいった。 「アン女王時代の話かね」詩人は苛らだった。彼の眼は危険な、追われるような色を呈した。ぜひ金がいる。だが歌劇の悪役は頑として折れない。ネタがなければ一文も渡さない、という。  哀れなデンジルはプリプリしながら出て行った。どこへ行く当てもない。仕方がないので、また踵をかえして、絶望的な眼つきで飾窓をみつめた。またも彼は [#ここから3字下げ] 「筋を売ります」[#「筋を売ります」は1段階大きな文字] [#ここで字下げ終わり]  という伝説を読んだ。あまりいつまでも見つめていたので、その意味が別の意味に感じられて来た。言葉の意味が急に再び判って来た時には、それは新しい意義を帯びていた。彼はおとなしく中にはいり、歌劇の悪役から四ペンス借りた。それから彼はスコットランド・ヤードの方角に行く乗合馬車に乗った。乗合に、あまり器量の悪くない女中が乗っていた。乗物のリズムが彼の頭の中で韻律に化した。彼は今の自分の立場や目的をすっかり忘れてしまった。彼は今までに――例の「楽園喪失」は別として――叙事詩を本当に書いた事は一度もなかったが、酒や女について叙情詩はいくつも書き、自分の哀れさを思っては幾たびも泣いたものである。だが、世間は一度も彼の詩を買わず、注文があれば常にベーコンの製造法か教区会員の攻撃にきまっている。彼は不思議な野性的な男であったので、その女は彼にしげしげ眺められて大いに美人になったような気がした。だが、ほとんど催眠術にかかりそうな気がしたので、これをのがれるため、彼女は目を落して新しいフランス型のキッドの靴を眺めた。  スコットランド・ヤードで、彼はエドワード・ウィンプに面会を申しこんだ。エドワード・ウィンプは不在であった。国王とか編集長のように、探偵というものはこちらからは仲々近づき難い。所が、こっちが一度犯人となると、遠慮会釈もなく彼等は姿を現わす。デンジルのエドワード・ウィンプに対する知識はグロドマンが自分の後継者のことを終始軽蔑している所から来ていた。ウィンプは趣味も教養もある男であった。グロドマンの興味は全く論理と証拠の問題に限られていた。こういう物事に関する書籍しか彼は読まなかった。純文学には一顧もくれない。ウィンプは多方面に頭の働く男だったので、グロドマンや、彼の遅い、面倒な、重厚な、殆んど北欧的といっていいような方法を大いに軽蔑していた。それどころではなく、彼は素晴らしい独創的な腕前を見せては、グロドマンの光輝ある伝統の光を奪いそうな傾向を見せていた。ウィンプは状況証拠を集めるのに天与の才があった。二と二を加えて五にするような式である。彼は余り目立たない関連性の薄い資料を色々と集め、電光のような霊感でそれをつなぐ仮説を立てる。まことにダーウィンやファラデイそこのけの天才ぶりを発揮するのである。大自然の秘密工作をあばくに役立つかも知れない知性が、資本主義的文明の保護に当るという堕落をさせられているのである。  親切そうな巡査をつかまえて、詩人は自分の用件が生死の問題であるかのように思いこませ、彼から大探偵の私宅を教わった。それはキングス・クロスの近所であった。奇蹟的に、ウィンプはその午後自宅にいた。デンジルが階段を三つ登って彼の前に案内されて来た時、彼は何か書いていたが、立ち上ると、いつも的《まと》を外さない視線を来訪者に投げた。 「デンジル・キャンタコットさんですな」ウィンプがいった。  デンジルは愕然とした。彼は名を告げず、ただ一紳士がお目にかかりたいと伝えただけなのだった。 「そうなのですが」彼は口ごもった。 「貴方は故アーサ・コンスタントの検屍の時の証人の一人でしたね。貴方の証言はあそこにあります」彼は一つの綴りこみを指差した。「貴方は新しい証拠でも話しに見えたのですか?」  再びデンジルは愕然としたが、今度は頬まで赤くした。「金が欲しいのです」無意識にそういう言葉が口から出てしまった。 「おかけ下さい」デンジルは腰かけた。ウィンプは立ったままである。  ウィンプは年も若く、顔色も活きいきしていた。鼻はローマ型であり、身なりもスマートである。神の定め給うた細君を発見し得た点で、彼はグロドマンを負かしていた。彼には元気のいい息子がある。この子は誰にもみつからずに台所からジャムを盗み出す名人である。ウィンプは家で出来る仕事は、皆な、一番高い所にある奥まった書斎に持ちこんだ。恐怖室から一歩出ると、彼は一般の良人とえらぶ所がない。彼は細君を至極愛していたし、細君は彼の知性を重視してはいなかったが愛情を高く買っていた。家政の話になると、ウィンプは手も足も出なかった。彼は召使たちの持って来た推薦状が偽造か本物か区別できなかった。或いは彼はこういう詰らぬ問題は得意でなかったのかも知れない。二次方程式を忘れてしまった数学の大家が二次の式を微積分で解こうとするのに似ていた。 「いくら欲しいのです」彼が尋ねた。 「私は値段の交渉に参ったのではないのです」もう平静をとり戻したデンジルが答えた。「私はある暗示を貴方にさしあげに来たのです。私の努力に対して五ポンドほど下さりはしないか、という気がしたのです。下さるのでしたら、私は辞退は致しませんが」 「辞退なさる必要はないですよ――それだけの値打のある情報でしたら」 「よろしい。すぐ要点を申しあげましょう。私のいう暗示は――トム・モートレークに関するものなのです」  デンジルはそれが魚雷であるかのようにこの名を投げ出した。ウィンプは平然としていた。 「トム・モートレークは」デンジルは失望した顔つきで続けた。「恋人がいたのです」彼は印象を強くしようと、ここで言葉を切った。  ウィンプはいった。「それで?」 「その恋人は今どこにいるのでしょう?」 「どこにいるのです?」 「彼女の失踪を御存知ですか?」 「貴方から今伺った所です」 「ええ、彼女は失踪したのです――何の手がかりも残さないで。彼女は二週間ほど前、コンスタント氏の殺害の前に出発したのです」 「殺害? あれが殺人とは、どういう点からいわれるのですか?」 「グロドマン氏がそういっています」デンジルはいったが、驚きを隠す事は出来なかった。 「フム! むしろあれは自殺であったという証言になるのではないですか? いや、続けて下さい」 「自殺の二週間ほど前、ジェシ・ダイモンドは姿を消したのです。彼女が下宿をして、仕事をしていた、ステプニ・グリーンでは、そういっているのです」 「何者だったのです?」 「婦人服師でした。ひどく腕のいい仕立屋でした。流行にごく明るい婦人たちの間にも評判がいいのです。彼女の作ったドレスの内の一つは宮廷に献上されたそうです。所が、その代金は相手が払うのを忘れた、とジェシの下宿のお内儀がいっていました」 「一人暮しだったのですか?」 「両親は居ませんでしたが、良家の娘という話です」 「美人だったのでしょうな?」 「詩人の夢の如し、で」 「たとえば、貴方の?」 「私は詩人です。私は夢想します」 「貴方は詩人であると夢想されるのでしょう。さて! 彼女はモートレークと婚約していたのですか?」 「無論です! 二人は隠そうなどとはしませんでした。婚約は久しい以前からでした。植字工として、彼が一週三十六シリングとっていた頃、二人は家を買おうとして貯金をしていたのです。彼は『ニュー・ポーク・ヘラルド』を刷るレールトン・アンド・ホックスに勤めていました。私は当時、原稿をよく植字室に持っていったものでした。ある日、礼拝堂の神父が私に向かって、『モートレークと彼の若い婦人』について皆な話してくれたのです。驚くではないですか! 時代は変るものですな! 二年前、モートレークは私の筆蹟が読めないで弱っていたものなのですが――今では、偉ら方《がた》とすっかりつき合いが出来て、貴族連の『お茶』に出るんですからな」 「急進派の議員のね」微笑しながら、ウィンプが呟いた。 「それに反して、私は今でも、美と智が相会する栄ある応接間に出入する手引きがないのです。単なる職工のくせに! 植字工ですよ!」デンジルの両眼は怒りに燃えた。興奮して、彼は立ちあがった。「彼は植字工時代にもお喋りの大将だったそうですから、口先きを利用して工場生活からぬけ出して、巧い運をつかんだんですな。『レイルトン・アンド・ホックス』の社長の招待会に職工たちが呼ばれた時、社長の乾盃《トースト》の辞に答える指名をされた時、彼は資本家階級の罪悪は余り攻撃しなかったんですからな」 「トーストとバタ、トーストとバタ」ウィンプは穏やかにいった。「この二つに同時に仕えたといって、私は人間を責めませんな。キャンタコットさん」([#割り注]この「トースト」は前の「祝盃」のトーストと、パンの意味の「トースト」を指す――訳者[#割り注終わり])  デンジルは無理に笑った。「ええ。でも終始一貫というのが私の[#「私の」に白丸傍点]モットーなのでしてな。私は男子はすべからく潔白、不変、不動、運命に左右されたくないですな。とにかく、モートレークに運が向いて来ても、その婚約はまだそのままになっていました。彼は彼女をそう頻繁には訪ねませんでした。この秋に到っては、殆んど顔も見せなかったのです」 「よく御存知ですな」 「私は――私はよくステプニ・グリーンに行ったのです。仕事の用で、ある晩、私はその家の前を通りました。時として、彼女の部屋に燈がついていない事がありました。それは彼女が階下で下宿のお内儀さんと雑談していたのをあらわしているのです」 「トムと外出してたのかも知れませんが?」 「違います。私は知っていたのですが、トムはその頃、あちらこちらの演壇で演説をぶっていたのです。彼は八時間労働の運動を組織するため、奔走していたのです」 「そういう理由があれば、恋人を訪ねなくても無理はありませんな」 「そうです。彼は丸一週間、一夜もステプニ・グリーンを訪ねなかった事もあります」 「だが、貴方は毎晩行ったのですな?」 「いえ――毎晩ではありません」 「中にははいらなかったのですか?」 「一度も。彼女は私を寄せつけないのです。彼女はしっかりした性格の娘でした。彼女を見るたびに、私はフロラ・マクドーナルドを思い出したものです」([#割り注]スコットランドの女傑で、ロンドン塔に幽閉されていた――訳者[#割り注終わり]) 「その方も御存知の婦人ですか?」 「私の周囲に集まる影よりもよく知っている女性です。それは部屋代の催促で私を悩ます女どもより、よほど私には現実に近い女性なのです。ジェシ・ダイモンドもまた、女傑の精神を持っているのです。彼女の眼は澄んだ碧色で、おのおの『真理』を底にたたえた二つの井戸なのです。その双眼に見入る時、私の両眼は眩惑されてしまうのです。あの二つの眼だけは、私の力をもってしても夢幻的にならせ得なかったのでした」彼は匙を投げるといった手つきをした。「こっちの方が感化を受けてしまいましてな」 「では、彼女を御存知だったのですな?」 「勿論です。私はトムを昔のニュー・ポーク・ヘラルド時代から知っていたのですが、始めて、ジェシが腕にぶらさがっているのと会った時、彼は彼女を詩人に紹介できるのを大いに得意になっていたものでした。運がついて来ると、彼は私を避けるようになってしまったのです」 「借りた金をお返しになるとよかったんですな」 「あれは――あれは――些細な額なんです」デンジルはどもった。 「そうでしょう。だが、世界は些細な事の上に廻転しているのです」賢明なウィンプがいった。 「世界それ自体が些細なんです」詩人は憂欝な音をあげた。「『美』のみがわれわれが考慮する値打があるのです」 「そして、その『美』が下宿屋のお内儀と噂話をしていない時、貴方が通りかかると彼女は貴方と雑談をしたのですか?」 「遺憾ながら、さにあらず、です! 彼女は部屋で本を読み、影を投げて――」 「貴方の生活にですか?」 「いいえ、窓のブラインドにです」 「いつも影は一つなのですか?」 「いいえ。一度か二度は、二つでした」 「ああ、貴方は酔っておいででしたな」 「名誉にかけて、否です。私は酒盃のような不信実なものと縁を切りました」 「それは結構でした。ビールは詩人には不むきです。脚がふるえますからな。第二の影は誰の影でした?」 「男の影です」 「当然でしょう。モートレークの影でしたかな?」 「不可能です。まだ八時間制で騒いでいました」 「誰の影をみつけたのですか? 貴方は疑惑の影を残さなかったのですか?」 「いいえ。その物体が出て来るまで待ったのです」 「アーサ・コンスタントですな」 「貴方は魔法使だ! 貴方は――貴方は怖い。ええ、彼だったのです」 「ただ一度か二度、とおっしゃったですな?」 「別に見張っていた訳ではないのです」 「ええ、ええ、勿論そうでしょう。貴方は偶然通りかかったのだった。貴方の立場はよく判りますよ」  こう保証されても、デンジルは一こう気が楽にならなかった。 「何のために彼はそんな所に行ったのでしょうか」ウィンプが続けた。 「判りません。私は私の魂をジェシの名誉のためにかけます」 「賭を倍になさっても何の危険もないでしょう」 「ええ、かまいません! 平気です! 貴方は私と同じ観方で彼女を見ておられる」 「目下の所、貴方の観方で見るより他はないですからな。二人が一緒にいるのを最後に御覧になったのはいつでしたか?」 「十一月の半ば頃でした」 「モートレークはこの会合について何も知らなかったのですか?」 「判りません。知っていたかも知れません。コンスタント氏は彼女を自分の社会運動にひき入れるために訪ねていたのでしょう。彼女が十一月の初めにグレート・アセンブリ・ホールで行われた、大きな、子供の茶の会の接待係をしていたのを私は知っています。彼はあの女をいかにも立派な婦人のように待遇していましたっけ。本当に手のかかる仕事をしていた接待係は彼女一人でした」 「ほかの連中は足で茶碗を運んでいたのですか?」 「いいえ、そんな事はないです。私のいう意味は、ほかの接待係は皆な本当の上流の婦人で、ジェシだけが、いわば素人だったのです。子供たちに茶を配るなんて、彼女には目新しい仕事でもなかったのですがな。そんな仕事は、始終、下宿のお内儀さんに手伝わされていたに違いないのです――階下《した》にはごく大勢の悪たれ小僧どもがいましたからな。私の友人クラウルの家と殆んど同様でしたろうから。ジェシは実に立派な女でした。しかし、或いはトムは彼女の價値を知らなかったのでしょうか。或いは彼はコンスタントが訪ねるのを好まず、そういう所から不和になったのでしょうか。とにかく、彼女は河に降った雪のように、消えてしまったのです。足どりは全く判りません。下宿の内儀さんは、時にジェシが彼女の材料をただで仕立ててやっていた程の仲よしでしたが、下宿人の行方が何一つ判らないので非常に弱っていたのでした」 「貴方は御自分のために調査をなさっていたのですな?」 「下宿のお内儀にきいただけなのです。ジェシは一週間の予告すらせず、それだけの分を払って、すぐ引揚げたそうなのです。お内儀のいうには、ただ吃驚仰天して倒れそうになったそうなんです。残念にして私は居合わせなかったのですが、もし居合わせたらば、よく眼をあけていなかった点を責めたでしょう。お内儀は、もしあらかじめあのお侠《きゃん》が(ジェシの事を失敬にもお侠《きゃん》などと呼んだのですよ)出て行きはしないかと疑っていたなら、必ず行先をつきとめてやる所だったのに、といっていました。しかし、ジェシが身体の工合も悪そうで、心配らしい所が見えた、というのは認めているんです。馬鹿な婆ですよ!」 「しっかりした性格の女だな」探偵が呟いた。 「私がそうお話したではありませんか?」デンジルが熱心にいった。「ほかの娘なら出て行く事を洩らしたに相違ありません。しかし、一言も喋らないのです。彼女は出し抜けに金を払って、そのまま出て行ってしまったのです。下宿のお内儀は急いで二階にかけ上ったのでした。ジェシの持ち物は何一つなかったそうです。気づかれないように売り払ったのか、引越し先きに運んでしまったかに相違ないのです。あれほど自分自身の気持を知っていたり、あれほど知る値打のある気持を持った女は、生まれてから会った事がないのです。彼女を見るたびに私は『サラゴーサの乙女』([#割り注]一八〇八年の半島戦争の女丈夫――訳者[#割り注終わり])を思い出すのでした」 「なるほど! そして、彼女の出たのはいつ[#「いつ」に傍点]なのです?」 「十一月の十九日です」 「モートレークは無論彼女がどこにいるか知っているのでしょうな?」 「私にはいえないのです。一番最後に私が尋ねに行った時には――それは十一月末でしたが――彼は六週間も行っていないのでした。彼は、無論、時には彼女に手紙を出していました――お内儀は彼の筆蹟を知っていたので」  ウィンプはデンジルの眼をまともに見つめて、そしていった。「貴方は、勿論、モートレークがコンスタント氏を殺したのだとおっしゃるのでしょうな?」 「いいえ、そ――そ――それは違います」デンジルはどもった。「ただ、貴方はグロドマン氏が『ペル・メル』に書いた事を御存知でしょう。コンスタント氏の生活を深く知れば知るほど、われわれは彼の死の真相について知り得るのです。私の知っている情報が貴方のお役に立つことと私は考え、それでお話をしに来たのです」 「で、なぜグロドマン氏の所へは持っていかなかったのですか?」 「そうしたのでは、私の[#「私の」に白丸傍点]役に立たないだろうと思ったので」 「貴方が『私の捕えた犯罪者たち』を書かれたのですな?」 「一体――一体どうしてそれがお判りになるのですか?」ウィンプは今日は底の知れないほど彼をひっきりなしに驚かす。 「貴方のいい廻し方ですよ、キャンタコットさん。独特の高尚ないい廻し方です」 「ええ、あれで私という事が判ってしまやしないかと気遣っていたのでした」デンジルがいった。「貴方はもう御存知だからいいますが、グロドマンは意地悪でケチンボでしてね。あれだけ金を持っていて、家作を持っていて、あと何にする気なのでしょう――『美』の感覚一つ持ち合せない癖に? 彼なら私の情報をきいておいてから、賞めるどころか逆に文句をいうでしょう、たとえていえば」 「ええ、彼は要するに頭のいい人間ですからな。私は貴方のモートレークに対する証言の中に、何も價値のあるものを認めませんが」 「そうですか?」デンジルは失望した口調でいった。そしてひどく損をした気になった。「モートレークが、競争相手の組織者で、しかも無料の相手に嫉妬を感じていたのに、ですか? 同じ仕事をもっと安く――いや、ただでする裏切者なんですぞ!」 「モートレークは自分が嫉妬している、と貴方にいったのですか?」ウィンプがいった。皮肉な嘲る調子が彼の声に現われていた。 「いいましたとも! 彼は私にこういったのです。『あの男は悪影響を及ぼすぞ。僕は、ああいうお上品な博愛主義者連が、判りもしない癖に実際運動に手を出すのが大嫌いなんだ』と」 「一言一句その通りだったのですか?」 「寸分も違わずに」 「よろしい。貴方の御住所は綴り込みの中に書いてあります。この一ソヴリンをお持ちなさい」 「たった一ソヴリンですか! それでは何の役にも立たないのです」 「結構です。私には大いに役に立ちます。私は女房持ちですからな」 「私には無いのです」デンジルは胸の悪くなるような笑顔を作った。「ですから、或いは何とかそれでやっても行けるでしょう」彼は帽子とソヴリンを手にした。  扉の外で、彼は丁度茶を主人の所へ持って行く途中の、かなり綺麗な女中に会った。彼は出会い頭に危うくその盆をひっくり返してしまう所であった。彼より彼女の方がこの邂逅を喜んだ模様であった。 「今日は、貴方」彼女は仇っぽい声でいった。「そのソヴリンを私に下さってもいいわね。私、よそ行きの帽子がとても欲しいんですもの」  デンジルは彼女にそのソヴリン金貨をやり、階段の一番下に着くと、玄関の扉を乱暴にしめた。彼は今日は到る所で偶然の邂逅に祟《たた》られる。ウィンプはこの会話を耳にしなかった。彼はもう本庁に提出する夕方の報告書を書くのに忙しかった。次の日、デンジルはどこに行くにも護衛つきであった。彼がそれを知ったなら、大いに虚栄心を満足させたかも知れない。しかし今夜はまだ護衛がついていなかったから、彼が早いクラウル家の夕食の後でグラヴァ通り四十六へ行ったのに気づく者はいなかった。彼は行くよりほかに手がなかった。もう一ソヴリンどうしても欲しい。また彼はグロドマンに一文句つけたくて堪らなかったのである。前の対象には成功しなかったが、第二の方は巧く行くような気がした。 「貴方はまだボウ町の殺人犯人を発見したいですか?」彼は老練の探偵犬に尋ねた。 「今にも捕えられる所なんだ」グロドマンが短かくいい切った。  デンジルは思わず椅子を後ろにひいた。探偵と話をするのは爆弾を球代りにクリケットをするほどの危険のある事を彼は発見した。こういう『美』の感覚を全く持ち合わせていない内気な紳士たちが癪に障ってならなかった。 「じゃ、なぜ当局に引渡さないのです?」彼は不平らしくいった。 「それはね――まだ証拠が足りないからさ。だが、それは単なる時間の問題でね」 「そうですか!」デンジルがいった。「では、その話を書いてあげましょうか」 「結構。それほど君は長生きしないよ」  デンジルは青くなった。「馬鹿なことを! 私は貴方よりずっと若いんですぞ」彼は息がとまりそうになった。 「そうさ」グロドマンがいった。「でも、君は酒がすぎるからね」 [#5字下げ]7[#「7」は中見出し]  ウィンプがクリスマスのプラム・プディングを食べに来るようにキングス・クロスに招待して来た時、グロドマンは僅かしか驚かなかった。二人は会っている時には、相互の憎悪を隠すために、昔からいつも物凄く親密にするのであった。グロドマン宛の手紙の中に、クリスマスを一家だけで過すより、客を招いた方が気持がよさそうに思う、と書いた。クリスマスの食卓の人数に対して世間一般は迷信を守った方がいいという偏見を持っているらしいので、グロドマンはそれに負けることにした。その上、ウィンプの家庭の内幕を覗いてみるのも無言劇を見るくらいの面白味はあるだろうと思ったのである。彼は自分を待っている面白さに大いに期待する所もあった。ウィンプが単なる「平和と好意」のために招いたのでないのは判っていた。  祝いの宴には、他所から来た客は、ほかには一人しかなかった。これはウィンプの妻の母の母で、芳紀正に七十歳の女性であった。祖母を持っている細君を貰う人間は世にも稀れであるが、別にウィンプは不当に自惚れてもいなかった。この老婦人は色々と妄想を持っていた。その一つは自分が当年一百歳だと思いこんでいる事であった。で、その年に相応わしい服装をするのであった。女が年を隠すためにどんな苦労をするか、実に目ざましい物である。ウィンプの義理の祖母の妄想の第二は、ウィンプが自分を引きとりたいために結婚した、と信じている点であった。折角の計画を無にしては気の毒だと思って、彼女は祭日や休日にはきまって現われた。ウィルフレッド・ウィンプ――ジャム泥棒の名人――は大いに張りきってクリスマスの食卓に現われた。ただ一つだけ彼の失望したのは、盗まなくても甘い物が沢山貰える事であった。少年の母が料理を配ったが、グロドマンの方が自分の良人よりずっと頭のいい事を痛感した。給仕の美人女中が一寸部屋を外した時、グロドマンは彼女は非常に好奇心が強そうだといった。これが偶然ウィンプ夫人自身の信じる所と合致した。尤もいくらいっても、ウィンプ氏の方はこの娘に不満な点や疑わしい点を感じないのであった。前に勤めていた所の奥さんの書いてくれたという推薦文に綴りの間違いがあっても、まだ信じようとしない。  その娘が、デンジル・キャンタコットの名前の出た時に聴き耳を立てたのは事実であった。グロドマンはそれに気づき、注意して見ていたが、彼はやがて思いきりウィンプを軽蔑して考えた。勿論、詩人の名前を持ち出したのはウィンプで、そのいい出し方が余りにもさり気なかったので、途端に鎌をかけて来たのに気づいたのであった。競争相手の探偵犬が自分自身の道具に使っている者に対する疑惑を確かめにやって来ると考える事自身があまりにもおかしかった。何かの証拠をウィンプの女中が確かに握っているに違いない点と同じくらいおかしく彼には感じられた。あまり明らかなので、ウィンプはこれに気がついていないのか。グロドマンはクリスマスの晩餐をこの上もなく楽しくたべ終った。結局、自分の後を継げる男のまだ現われていないのに確信がついたからである。ウィンプの方は、グロドマンがデンジルをよく知りながら真実を見わけていないのを不思議に思いながら軽蔑した。始終自分のそばにいる癖に! 「デンジルは天才的な男です」グロドマンがいった。「そして、そういう点で『疑わしい人物』の見出しの下に名を列するのですよ。彼は『叙事詩』を書いて、私に読んできかせましたがね。始めから終りまで、不吉ずくめなのです。三行目に、すでに『死』という字が出るのですからな。時に、彼が私の本を添削したのを御存知でしょうな?」グロドマンの無技巧さは完璧であった。 「いいえ。それは驚きますね」ウィンプが答えた。「碌々手を入れる箇所などなかったでしょうに。『ペル・メル』にお出しになった手紙で判りますよ。あれにどういう添削が必要なのです?」 「ああ、あれを読んで下さったとは知りませんでしたよ。光栄の到りです。」 「ええ、拝見いたしましたわ、私共二人とも」ウィンプ夫人が口を出した。「主人に申しましたんですのよ。狙いも確かだし、よく納得のいくお話ですと。あのお気の毒な人の婚約者に出した手紙を引用なさった後には、もうあれが自殺であった事を疑う余地は全くございませんものね。私の主人も、あの御意見にはすっかり心服いたしましたわ。ねえ、エドワード?」  エドワードは窮屈そうに咳をした。それは真実の陳述であったから、それだけ一層軽率であった。グロドマンはひどく得意になるだろう。この瞬間、ウィンプはグロドマンのように自分も独身だった方がよかったと感じた。グロドマンはこの場のおかしさを察して、変てこな半ば嘲るような微笑をした。 「私の生まれた日に、ですね」ウィンプの義理の祖母がいった。「もう百年も上の昔のお話なのですけれど、赤ん坊が殺されましてね」――ウィンプは殺されたのが彼女なら嬉しいのにと思っている自分を発見した。彼はキャンタコットの話に戻りたかったのである。 「クリスマスだから商売の話はよしましょう」彼はグロドマンに微笑みかけながらいった。「おまけに、人殺しの話と来ては一層適切でないですからな」 「いや、全く」グロドマンがいった。「どういう所からそんな話になりましたかな? ああ、そう――デンジル・キャンタコットでしたな。ハ、ハ、ハ! まことに不思議なのですよ。なぜというに、デンジルは『私の捕えた犯罪者たち』を添削して以来、殺人のことばかり考えているのですよ。詩人の頭などは感化をうけ易いのですな」  ウィンプの眼は興奮とグロドマンの盲目さに対する侮蔑に輝いた。グロドマンの眼にはウィンプを嘲る面白がった色が踊った。ほかの連中は、彼が面白がっているのは詩人のことであると思っていた。  相手をギリギリの所まで緊張させた揚句、グロドマンは急にはぐらかした。 「デンジルも運のいい男ですよ」彼はなおも同じ罪のない、飄軽なクリスマス口調でいった。「このコンスタント事件では自分のアリバイが証明できるのですから」 「アリバイが!」ウィンプは喘いだ。「本当ですか?」 「本当ですとも。彼は細君と一緒にいたのですからね。細君というのは、私の所の雑用をしているジェーンなのです。彼女が偶然いうのをきいていますと、彼は彼女と一緒だったそうなのです」  ジェーンがそんな事をいったというのは嘘である。偶然あの対話を耳にした後で、グロドマンは自分の雇っている二人の間の関係を知ろうと鎌をかけてみた。何の気もないような調子で、彼がデンジルのことを、「お前の亭主」といって見た所、女は余り不意を打たれたので、二人の関係を否定しようとしなかったのである。一度そういっただけだったが、彼は満足した。アリバイに関しては、彼はまだ彼女に尋ねるだけの事もしていない。だが、本当にアリバイがあるような顔をすれば、ウィンプは狼狽するだろうし、気も揉めるだろう。今の所、ウィンプの客はそれだけ勝利を占めれば十分である。 「お父ちゃん」ウィルフレッド・ウィンプがいった。「アリバイってなあに? 石けり?」 「そうじゃないの」グロドマンがいった。「どこかにいる筈と思われている人間が、よその場所にいる事なの」 「ああ、ずる休みか」ウィルフレッドは良心に咎めたような声でいった。彼の学校の先生は今までに何度も彼に不利のアリバイを証明していたのである。「じゃ、デンジルは死刑だ」  それは予言であったであろうか? ウィンプはそうだと取った。天の神々の神託が彼にグロドマンを信じるなと告げ給うたのだ。子供の口からは知識の塊が出る。時として、教科書を朗読していない時にすら、出る。 「私の赤ん坊時代、百年も前の事ですがね」ウィンプの義理の祖母がいった。「馬を盗んだ者は死刑になりましたよ」  皆はスナップドラゴン([#割り注]燃えるブランデーの盃から干葡萄を取ってたべる遊び――訳者[#割り注終わり])を始めて、彼女を黙らせた。  ウィンプはどういう風にしてグロドマンの女中に近づこうかと策を練るのにいそがしかった。  グロドマンはどういう風にしてウィンプの召使に近づこうかと策を練るのにいそがしかった。  二人とも今年はクリスマスの鐘の音を上《うわ》の空できいた。      *     *     *  次の日は、湿っぽくて空模様は定まらなかった。小雨が一日中、力なく降った。夏の休日ならこうした事も我慢できる。よくある事である。だが、十二月の休日に天気が悪いとは、悪いにも程がある。気象台の係員の年表を混乱させる手をうたなければならない。休日が来るのを彼に知らせようものなら、すぐに彼は、水の輸送を注文してしまう。今日はストックが少ないと見えて、彼は小出しに使っていた。時々、冬の太陽が弱々しい薄い光を投げると、休日を楽しもうという連中は、どうせ浴びるのなら水を割らない太陽の光の方が嬉しい筈なのだが、一縷の光明でもさすと、途端に大挙して出かける。だが、雨を避けるだけの話になってしまう。忽ち、また雨傘は頭の上にかざされ、往来は移動する茸の放牧地と化してしまう。  デンジル・キャンタコットは例の毛皮の外套を着て、開いた窓に坐り、水で彩られた光景を眺めていた。彼は午後の巻莨を吸いながら、『美』を語っていた。クラウルが彼と一緒である。二人は二階の正面にあるクラウルの寝室にいた。ここからはマイル・エンド・ロードもよく見えるし、裏庭だけしか見えない居間よりも明るい感じがした。クラウル夫人は一番上等の寝室に関しては禁煙主義者であった。だが、ピータは詩人も莨も咎めたくなかった。彼は何となく煙と詩には共通点のあるような気がしていた。双方とも下らない流行である点よりも何か優れた意味でである。おまけに、クラウル夫人は台所で御機嫌が悪い。彼女はピータや子供たちを連れてヴィクトリヤ公園に遊山に行く手配をしていたものである。(本当は水晶宮に行きたかったのだが、サンタ・クロースは靴直しの靴には何の贈物も入れてくれなかった)所が、こんな天気では帽子の羽根が台なしになってしまう懼れがある。九人の悪たれ小僧どもは不満のやり場に困って、階段の上で殴り合いをした。ピータはこの雨を内儀さんが何となく彼のせい[#「せい」に傍点]にしているのを感じ、嬉しくなかった。彼は、迷信深い大衆に向って、レビ記と雅歌の相互的矛盾について指摘してやる悦びを奪われているのだから、これ以上不愉快にしないで貰いたい。クラウルがこんな聴衆を期待できる日は、そう滅多に来るものではないのだ。 「これでもまだ君は自然を美しいというのかね?」彼は暗澹たる空や雨滴の落ちる軒を差しながら、デンジルにいった。「醜悪で、みすぼらしいではないか!」 「今日は醜く見えますな」デンジルは認めた。「だが、『醜』というのは『美』のより高級な形式ではあるまいか。もっとも深くその奥を眺めなければならんですぞ。そうした視覚は限られた人だけが授かった貴重な天賦なのです。私には、この物悲しい雨の日の侘しい光景は、海に洗われる都市の廃墟と同じくらいに美しく見えるんだ」 「ああ、でもこの天気に外に出るのは厭だろうが」ピータ・クラウルがいった。彼がいっている間に、糠雨は俄然猛烈な本降りになった。 「われわれは必ずしも愛する女にだけ接吻するのではないです」 「君はどうなんだ、デンジル。私は凡人だから、知りたいんだ。自然は要するに下らん流行なのではないか。おや、モートレークが歩いている! 何と、一分も歩いていたらズブ濡れになるだろう」  労働運動家は頭を垂れて歩いていた。彼はドシャ降りを気にしない様子だった。雨宿りして行かないかというクラウルの招待が彼の耳にはいるのにも、何秒かかかった。漸く耳にはいると、彼は頭《かぶり》を振った。 「そりゃ貴婦人が一杯いる応接間に御招待できないのは判っているさ」ピータは癪に障っていった。  トムは店の扉のハンドルをひねって、はいって行った。自分がお高くとまって、旧友とつき合わない、と見られるほど、今の彼の気持を苛立たせる事はないのであった。彼は自分の濡れた膝に嬉しそうにまつわりつく九人の悪童を押しわけようとした揚句、銅貨を撒き、相手が拾おうと四散した隙に、やっと階段を上った。ピータは階段の上で出むかえ、嬉しそうに惚れぼれと握手して、クラウル夫人の寝室に案内した。 「私のいった事を気にし給うなよ、トム。私はただの凡人だから、何でも口の表面に出た事をそのまま喋ってしまうのだ! だが、意趣があっていった訳じゃねえんだよ、トム、意趣があった訳じゃねえんだ」ピータは下らない事を弱々しくいいながら、血色の悪い顔に笑みを無理に作った。「キャンタコット君を御存知だね? 詩人の」 「ああ、勿論。しばらく、トム」詩人が大きな声でいった。「近頃『ニュー・ポーク・ヘラルド』を読む? 昔も相当楽しかったねえ?」 「全くね」トムがいった。「昔がなつかしいよ」 「馬鹿をいえ、馬鹿を」ピータがひどく気にしていった。「今君が労働階級に尽している功績を見給え。君が下らぬ流行物《はやりもの》をどんなに追払っているか見給え。ああ、才《さい》を持って生まれたというのは素晴らしい事だよ、トム。植字室で君の才能を空費させるなど、考えても馬鹿々々しいではないか。肉体労働というものは、私のような凡人にはよろしかろう。才能に恵まれず、物事の現実を見るだけの頭しかなく――人間が霊魂を持たず、霊魂の不滅などといった事もない、という事などだけは判るが――根が利己主義だから到底他人の楽などの面倒は見れず、ただ自分と母さんと餓鬼どもの世話しか出来ん、という手合いには、ね。しかし、君やキャンタコットのような人々は――詰らない物質的の物事のためにアクセク働いていてはいけないんだ。それは私がキャンタコットの福音が大衆に何か価値を与えると認めたからいうんじゃないんだが。『美』は、ほかに何も考えることのない人たちには結構でしょうさ。だが、私は『真実』をとるね。君には私はつぎ込みたくなるよ、モートレーク。資金の事はいうのはよそう、トム、私は本当に碌々出してはいないのだから。だが、立場[#「立場」に白丸傍点]によっては物事が判らない事もあろうというものだからな。君はわれわれに『有用』なものをくれるよ、トム。それこそ世界が『美』よりも欲するところなんだ」 「『有用』こそ『美』だ、とソークラテースがいっている」デンジルがいった。 「それはそうかも知れん」ピータがいった。「でも『美』は『有用』ではないぜ」 「馬鹿な事を!」デンジルがいった。「ジェシを見給え――いや、ダイモンド嬢だ。彼女こそ立派に兼有しているではないか。彼女を見るたびに私はグレース・ダーリングを思い出す。彼女は近頃[#「近頃」に白丸傍点]どうだね、トム?」 「死んだぜ!」トムが応酬した。 「何?」デンジルはクリスマスの幽霊のように蒼白くなった。([#割り注]グレース・ダーリングはファーン群島の燈台守の娘、一八三八年に難破船の水夫九人の命を救った――訳者[#割り注終わり]) 「新聞に出ていたぜ」トムがいった。「彼女と救命艇の話が色々と」 「ああ、君はグレース・ダーリングの事をいっているのか」デンジルは見るみる安心の色を見せていった。「私はダイモンド嬢の事をいっていたんだ」 「彼女にそう興味を持たなくてもいいんだぜ」トムは不機嫌な声を出した。「彼女は喜びはしないんだ。ああ、雨がやんだ。もう行かなくっちゃ」 「駄目だよ、もう少しいてくれ給え、トム」ピータが懇願した。「新聞では君の事を色々と読むが、近頃では君の懐しい顔を見るのは久々だもの。君の演説をききに行く暇が作れないんだぜ。だが、今度はぜひ、耳の保養をしなくちゃ、次の演説はいつ?」 「ああ、僕はいつだって喋っているぜ」トムは少し顔を綻ばせた。「だが、次の大きい演説は一月の二十一日に、あの気の毒なコンスタントの肖像画の除幕式が『ボウ町暁天クラブ』で行われる時なんです。グラッドストンやそういった大物たちにも来るように案内状を出したそうだが。あの老体が来てくれると嬉しいんですよ。こういう政治抜きの会合でないと、お互いに話し合えないし、僕はグラッドストンと同じ演壇に立った事は一度もないし」  前途を考えると、彼は憂欝も不機嫌も忘れ、話し振りに活気さえ出て来た。 「私は嬉しくないね、トム」ピータがいった。「聖書が不滅の岩だとか、王制が正しい国家組織だとかいうような下らん流行物《はやりもの》に取り憑かれている男だから、急進派の指導者にするにはごく危険な男なんだ。彼は物事の根本に斧を入れようとはしない――槲《オーク》の木は別だが」 「キャンタコットさん!」弾劾演説の腰をおったのはクラウル夫人の声であった。「お客様[#「お客様」に白丸傍点]がおいでですよ」クラウル夫人が『お客様』という言葉にこめた驚きの感情は、嬉しい驚きであった。これだけの嬉しさは、一週間分の間代を払って貰ったらとて、彼女が発するであろうか。議論好きな御両人は、トムがはいって来た時に窓際を離れたので、この来訪者の近づくのに気がつかなかった。だから、客は来訪の推定目的物に会いたいといい出すまでに、クラウル夫人の長話に相当有効に時間を潰したらしい。 「君の友達だったら、ここに上って来て貰い給えよ、キャンタコット」ピータがいった。それはウィンプであった。友達といっていいかどうか、デンジルは心もとなかったが、彼は何となくウィンプと二人きりになりたくなかった。「モートレークが二階に来ていますよ」彼はいった。「上にあがって、彼に会いませんか?」  ウィンプは二人きりの対談をする気で来たのであったが、別に異論も唱えなかった。それで彼も九人の悪童に躓きながら、クラウル夫人の寝室へとやって来た。四人は異様な取り合わせであった。クリスマスの翌日の事とて、ウィンプは家には誰もいないだろうと思っていたのだったが、一日を無駄にするのが不本意だったのである。グロドマンも彼を追いかけているのではないか? デンジルの方から最初に訪ねて来たというのは何たる幸運だったろう。だから特に怪しまれないで彼に近づく事が出来る。  モートレークは探偵を見て苦い顔をした。彼は警察に反対であった――主義の上から。だが、クラウルは来訪者が何者なのか見当もつかず、名前をいわれても全然判らなかった。彼はデンジルの知人のうちで高級な一人に会うのだと思って、よろこんで歓迎した。或いは誰か有名な編集者かも知れない。そういえば、どこかで聴いたような名前である。彼は一番上の悪童を呼んでビールを取りにやって(人は詰らぬ流行物を追うものだから)、別に声さえ震わさないで、上から『母さん』に声をかけてグラスを持って来させた。『母さん』はその夜(その同じ部屋で)、あんなビールを買わなかったら、子供の一週間分の授業料が半分は払えたのに、とくやんだ。 「私達は今しがた、例の気の毒なコンスタント氏の肖像画の話をしていたんです、ウィンプさん」何も知らないクラウルがいった。「モートレーク君の話だと、来月の二十一日にボウ町暁天クラブで除幕式があるそうで」 「そうですか」ウィンプは話をそこに持って行く手数がはぶけたので気が楽になった。「あれは不思議な話ですな、クラウルさん」 「いいえ、当然の話ですよ」ピータがいった。「彼が働き、彼の死んだ地域ですもの、何か記念になる物を作らなくちゃ。全く気の毒な事をしました」靴直しは涙を押し拭った。 「ええ、まさに当然です」といったモートレークの口調は少し熱心すぎた。「彼は立派な人物でした。本当の博愛主義者でした。あんな全く利己心のない労働運動家は始めてです」 「本当にそうだ」ピータがいった。「利己心のない珍らしい模範的人物でしたよ。気の毒に、気の毒に。彼は物事の『有用』の大切な事も説きましたっけ。あんな人は他にはいません。ああ、彼のような人が行くために、天国があったらいいのに!」彼は赤い飾りハンケチでひどく鼻をかんだ。 「もしあれば[#「あれば」に白丸傍点]必ず彼は行っているぜ」トムがいった。 「行っている事でしょう」ウィンプが熱心につけ加えた。「ですが、私は彼のような行き方で行きたくはないですな」 「彼に最後に会ったのは君だったんだろ、トム?」デンジルがいった。 「いや、違うよ」トムは急いで答えた。「僕が帰った後で彼が外出したのを覚えているだろう。少なくとも、ドラブダンプ夫人は検屍の時にそういったぜ」 「君が最後に彼と話をした時の件だが、トム」デンジルはいった。「その時に彼のいった事のうち、後から考えてみて――」 「いや、勿論ないですよ!」モートレークが辛抱しきれずに遮った。 「彼は殺されたのだと本当に君は思っている?」デンジルがいった。 「その点については、ウィンプさんの御意見の方が僕のより値打ちがあるぜ」トムは疳を立てて答えた。「自殺だったかも知れない。人間はよく人生が厭になるからね――特に悩みでもあるなら」彼は意味ありげに附け加えた。 「ああ、でも彼と一緒にいたのが知れている内では、君が最後の人間だったぜ」デンジルがいった。  クラウルが笑った。「一本参ったね、トム」  だがトムは長く参ってはいなかった。彼は帰ってしまったのだが、来た時よりももっと不機嫌な顔つきをしていた。ウィンプもその後すぐ帰ったので、残ったクラウルとデンジルは『有用』と『美』に関する果てしのない論争を心ゆくまで続けた。  ウィンプは西へ行った。彼は目的がいくつもあったが、結局ケンザル・グリーン墓地に行ってみた。墓地に着くと、彼は墓と墓との間の通路を曲りくねって、ある墓の前に行って、死亡日を書きとろうとした。死んだ者の方が羨ましいような日であった。暗澹たる雨もよいの空、そぼ濡れた葉の落ちた木々、濡れてふやけたような土、悪臭を放つ草――こういう物が結合すると、人は重苦しい人生の倦怠をのがれ、暖い、居心地のいい墓の中で静かに眠りたくなる。俄かに、探偵の鋭い眼が一つの人影をみつめた。彼の心臓は急な興奮に高なり始めた。灰色のショールをかけ、鳶色の帽子を冠った女が、区劃された一基の墓の前に立っている。彼女は傘を持っていない。雨は痛ましく彼女の上に落ちかかるが、すでに濡れた女の服には雨の跡さえつかない。ウィンプは背後に忍び寄ったが、女は気にも留めない。その眼は下の墓を見つめている。まるで何か不思議な不吉な魅力で、墓が両眼を吸いつけているかのようである。彼の眼は彼女の視線を追った。飾りのない石塔にはこう読まれた。「アーサ・コンスタント」  ウィンプは急に女の肩を叩いた。 「今日は、ドラブダンプ夫人」  ドラブダンプ夫人は俄かに蒼白になった。彼女はふりかえり、ウィンプを見詰めたが、相手が誰なのか判らない。 「私をお忘れじゃありますまいね」彼はいった。「この気の毒な方《かた》の書類の事で一二度お宅に伺いましたよ」彼は墓に眼くばせした。 「まあ! やっと思い出しましたわ」ドラブダンプ夫人がいった。 「傘の中におはいんなさい。ズブ濡れになったでしょう」 「構いませんのです。もう身体にも障りますまい。この二十年もリューマチは持病なんですから」  ドラブダンプ夫人はウィンプの親切を受けようとはせず、ただひたすら身をすくめたが、これは彼が男であるから厭だというのではなく、相手が紳士だからというので遠慮したのでもあろう。ドラブダンプ夫人は上流の人々は身分を守るべきで、下層社会と接触してスカートをよごすべきではない、と信じている。「本降りですわ。新年までずっと降り続きましょう」彼女が宣言した。「おまけに、始め悪《あ》しければ終りも悪《わ》るし、と申しますし」ドラブダンプ夫人は、気圧計に生まれなかったのが残念なのではないかと思わせるような一人であった。 「でも、貴女はこんな惨めな所に何のために来たのですか? お宅から遠いのに」探偵が質問した。 「休日ですもの」ドラブダンプ夫人はひどく驚いたような調子で教えた。「休日には、私はいつも散策に出るんですのよ」 [#5字下げ]8[#「8」は中見出し]  年があけると、ドラブダンプ夫人の所に新しい下宿人が来た。それは長い白い顎ひげを生やした老紳士であった。彼は故コンスタント氏の元いた二部屋を借り、人目につかない隠居生活を始めた。幽霊の出る部屋――乃至は、殺された人の亡霊がいくらかでも自尊心があるなら当然出てもいい筈の部屋――は普通は部屋代が下る筈である。もし『バルフォーア氏の犠牲者たち』([#割り注]一八八七―九一年までアイルランド大臣をつとめた後の英国首相――訳者[#割り注終わり])の霊魂が、あの地所の価値を農業を営む人口の支持する率にさげてくれたなら、アイルランドの全難問は解決されるかも知れないのだ。だが、ドラブダンプ夫人の新しい下宿人は平気で高値の間代を払ったから、何か特別に幽霊に興味でもあるのではないかという嫌疑までうけてしまった。或いは心霊協会の会員かも知れない。近隣の人々は彼もまた気ちがい染みた博愛主義者だろうと想像したが、彼が誰にも何の親切もしてくれないので、さては正気なのかと、寛大に見る事になった。廊下で時々モートレークは彼に出くわしたが、別に相手の素性などを気にしなかった。彼は心を悩ましたり考えたりする事が他に沢山あったのである。彼は前より一層よく働いたが何となく元気が抜けたように見えた。時には、彼は雄弁の歓喜にわれを忘れた。――不正に対する神神しい怒りや、同胞の悩みに対する熱烈の同情などに燃え上ったが――しかし、大旨《おおむね》は鋭い機械的な調子でコツコツやるだけであった。相変らず、短かい地方旅行は続けていて、一日はここに、一日はあすこにという風な活躍をしたが、行く先きざきで彼の賞讃者たちは彼がひどく疲れ切った様子をしているのに注目した。彼を休養のため大陸にやるために拠金の募集を始めようという話も出た――一週に貰う手当は数ポンドなのだから、自分でこの贅沢をしようというのは到底無理である。新しい下宿人は喜んで応募したに違いない。なぜならモートレークの留守の晩に彼はその部屋に何度もはいったし、はいるのが嬉しそうに見えたからである。もっとも、彼は人のいない筈の部屋で音を立てたりして、隣室にいる仕事で疲れ切ったお内儀の眼をさますようなことはしなかった。ウィンプはいつも物静かな人間だった。  かくするうち、二十一日は迫って、イースト・サイドは興奮し始めた。グラッドストン氏は、ボウ町暁天クラブに匿名の人物によって寄贈されたアーサ・コンスタントの肖像画の除幕式に参列するのを承知した。それでこの式は大きな会合になる筈なのだ。すべては政党政治の線の外にあったので、保守党や社会党まで平気で委員会に入場券をせびった。婦人方はいうまでもない。委員会の面々は、自分たちが出席したいから、申し込みの九割はこうした催しの常として、断ることになった。委員会はグラッドストンそこのけの長演説をする女連を、除外する唯一の方法として、女性は一切断ることに自分たちで決議した。委員は、自分の姉妹や、従姉妹や、伯叔母たちに、他の委員連がどうしても無風流な会にするといって聴かないのだといった。何といっても、反対が自分一人という少数では、手も足も出ないではないか?  暁天クラブの会員ではないクラウルは、自分の軽蔑する大雄弁家の演説が特にききたくて堪らなかった。運のいい事に、モートレークは靴直しが自分の演説をききたいといっていたのを思い出して、会のその当日入場券[#「入場券」は底本では「入場料」]を一枚届けて来た。クラウルが得意満面でいる所へ、デンジル・キャンタコットが飄然と帰って来た。突然、何の断りもなしに、丸三日家を空けた揚句なのである。彼の服は泥だらけで、鉤裂きだらけであった。縁を立てた帽子は型が崩れ、無雑作を装っていた顎ひげは蓬のように乱れ、眼は無残にも血走っている。靴直しは彼の姿を見て、あやうく手の入場券を取り落す所であった。「おや、キャンタコット!」彼は息《いき》をはずませた。「一体、何日もどうしていたんだね?」 「とても多忙だったんだ!」デンジルがいった。「さあ、水を一杯くれないか。僕はサハラ砂漠のようにカラカラなんだ」  クラウルは家の中に走り入って、水を注いだが、出来るだけクラウル夫人に下宿人の帰って来たのを知らせまいと努めた。「母さん」は詩人の不在中、彼の事を思う存分に喋ったのであるし、それも詩人のやかましい文学的感覚とは縁の遠いいい廻しだったのである。実際、彼女は彼の事を居候と呼んだし、下等な詐欺師とも呼んだし、散々飲み食いした揚句、払うのが厭なので逃げてしまったのだ、ともいった。見ていらっしゃい、貴方みたいな馬鹿がいくら待っていようと、二度とあの悪漢が姿を現わすもんですか。だが、クラウル夫人は間違っていたのである。デンジルはまた戻って来た。しかし、クラウルは少しも勝利感がしなかった。彼は伴侶に向かって、昂然と、「見ろ! 私がいったではないか」といってやる気持になれなかった。これは大部分の世の不幸に際して、宗教以上に大きい慰安なのであるが、不幸にして、水を酌むためには、クラウルは台所に行かなければならなかった。そして平素は全然酒など飲まない人たちであったから、昼日中に水を飲みたくなったりすれば、既成観念に憑かれたかの婦人の注意を惹かざるを得ない。クラウルは仕方なく事情を説明した。クラウル夫人は好機逸すべからずと店の間に走り出た。クラウル氏は弱ってそのあとを追ったが、その通ったあとは水が点々と線をなしてこぼれていたものである。 「貴方っていう碌でなしは、何だって、こんなに――」 「およし、母さん。水を飲ませておやり。キャンタコットさんは咽喉が乾いているんだ」 「私の子供が餓死しかけても心配する人ですか?」  デンジルは殆んど一息に水をゴクゴクと飲みほした。まるでブランデーを煽《あふ》るようである。 「奥さん」舌なめずりしながら、彼はいった。「しますよ。深く心配しますよ。子供が、可愛いい子供が――殻の中にはいっている『美』が――飢えに悩むときけば、世の中の大抵の事にもまして、僕は心を悩ましますよ。貴女は僕を誤解しておられる」彼の声は傷つけられた感情に震えていた。眼には涙があふれている。 「貴方を誤解したって? 貴方なんかを誤解[#「誤解」に白丸傍点]したかありませんよ」クラウル夫人がいった。「死刑[#「死刑」に白丸傍点]にしたい所なんですよ」 「そんな厭な事をいうもんじゃないですよ」デンジルは神経質に咽喉を押さえながらいった。 「とにかく、ずっと何をしていたんです?」 「何って、僕が何をすると思うんです?」 「貴方がどうなろうと私の知った事ですか。また人殺しがあったのかと思った」 「何?」デンジルのグラスが床の上で微塵になった。「どういう意味なんです?」  だが、クラウル夫人は、意地悪くクラウル氏を睨みつけている最中だったので、返事ができなかった。亭主は彼女のいおうとする事を、印刷してあるかのように、理解した。それは、こうだ。「私の一番上等なグラスを割ったわね。三ペンス無駄にした。家中の子供の半分の一週間分の授業料じゃないの」ピータは彼女が電光をデンジルに向けてくればいいのにと思った。彼なら導体だから、電気は無難に通過してしまう。彼は身体をかがめて、一つ一つ破片を、まるでそれがコーイヌールをカットしたものであるかのように、十分に気をつけて拾いあつめた。([#割り注]「コーイヌール」は一八四九年にヴィクトリヤ女王に献上された一〇九カラットあるインド産ダイヤ――訳者[#割り注終わり])頭をさげたから、電光は、無事に彼の上を通過して、キャンタコットの方へ飛んで行った。 「私のいう意味ですか?」まるで、その間に休憩がなかったかのように、クラウル夫人は鸚鵡がえしにいった。「私のいう意味は、貴方が殺されてしまった[#「しまった」に白丸傍点]ら大層結構だったろうというんですよ」 「全く、貴女は何という美的でない考えを持つんだろうな!」デンジルが呟いた。 「どうせそうですよ。でも、有用な考えですからね」とクラウル夫人がいいかえしたのは、流石はピータと長年つれ添ったお蔭げであろう。「そして、貴方が殺されなかったのなら、一体貴方は今まで[#「今まで」に白丸傍点]何をしていたんです?」 「およし、およし」悲しんでいる犬のようなよつん這いの姿勢のまま、上を見上げながら、クラウルが反対した。「お前さんはキャンタコットの保護者じゃないんだから」 「あら、違うの?」伴侶が色をなした。「私が保護しているのでなかったら、一体誰がしているのか、ききたいわね」  ピータはコーイヌールの破片を拾い続けた。 「僕はクラウル夫人には何も隠しはしないぜ」デンジルは丁寧に説明した。「僕は新しい新聞を出すので昼も夜も仕事をしていたんだ。これで三晩というもの一睡もしないんだ」  ピータは彼の血走った眼を尊敬の興味をもって見上げた。 「資本家と偶然往来で会ってね――古い友人なのだが――話し合って見た所、とても調子がいいんで、僕が何カ月も考えていた計画を話した所、金の心配はみんなしてくれると約束したんだ」 「どんな新聞だね?」ピータがいった。 「これは御挨拶だね。僕が日夜なんのために腐心していると思うんだ。『美』の養成の外はないではないか」 「それに専念する新聞なのかね?」 「そう。『美』に対してね」 「判っていますよ」クラウル夫人が軽蔑的な声を出した。「女優なんかの写真を載せるんでしょう」 「写真? いいえ、違います!」デンジルがいった。「そうすれば『真実』となる。『美』にはならんのです」 「そして、新聞の名は何というんだね?」クラウルが尋ねた。 「ああ、それは秘密だよ、ピータ。スコットのように、僕は名を明かさないでおく方を選ぶね」 「君らしい下らん流行だ。僕はただの凡人だから、知りたいのだが、匿名にしてどこが面白いんだね? もし僕に何か才能があったら、その名誉はこっちに貰いたいね。当然かつ自然の感情だね、僕の考え方で行けば」 「不自然だよ、ピータ、不自然だ。僕たちはみんな名を持たずに生れているし、僕は出来るだけ自然のままでいる主義なんだ。『美』の宣伝をするだけで、僕は満足だな。留守中に何か手紙が来ましたか、クラウル夫人?」 「いいえ」彼女は不機嫌だから言葉も短かい。「でもグロドマンという名の旦那が訪ねて来たわよ。暫く貴方が会いに来ない、といっていたわ。貴方が行方不明だといってやったら、弱っていましたよ。あの人からどのくらい借りた[#「借りた」に白丸傍点]の?」 「僕の方から貸し[#「貸し」に白丸傍点]てるんですよ」デンジルは苛々した様子でいった。「僕が彼の本を書いてやったのに、彼は評判を皆一人じめしたんです、あの悪漢めは! 僕の名前は序文にすら出ていないんだ。何だかひどく嬉しそうに眺めているが、それは何の切符だね、ピータ?」 「今夜の入場券だぜ――コンスタントの肖像画の除幕式さ。グラッドストンが演説するんだぜ。座席の奪い合いが凄いとさ」 「グラッドストンか!」デンジルが鼻であしらった。「グラッドストンなんか誰がききたいものか! あんな、教会と国家の柱石をひき倒すのに全生涯を捧げたような男なんか」 「崩れかかっている宗教と王制という下らん流行物《はやりもの》に突支棒《つっかいぼう》をするのに一生をつかった男だ。だが、それにしても、あの男は才能がある。僕はぜひとも演説をきかなくちゃ」 「あんな男の演説をきくためになんか、僕は一歩たりとも廻り道はしないね」デンジルがいった。そして、彼は自分の部屋に上って行ったが、やがて茶の時間になって、クラウル夫人が上手に濃く入れた茶を持たせてやってみると、運んで行った悪童のみつけたのは、美しくない鼾声高々と、服を着たまま寝台に横になっている彼の姿なのであった。  やがて夜になった。よく晴れた霜屋であった。ホワイトチャペル・ロードは、まるで土曜の晩のように、雑踏をきわめた。星は天上の行商人の燈のように空に輝いた。誰も彼も、グラッドストン氏の出現を見ようと眼を見はっていた。西ボウ寄りからロードを通ってやって来るに相違ない。だが、会館の近くにいた者しか、彼の姿も馬車も見られなかった。多分、途中ずっと電車で来たのだろう。幌馬車なら風邪をひいてしまったろうし、箱型でも、始終顔を出さなければならないから、同じ事だ。 「彼がもしドイツの皇族だとか、食人種の王なのだったら」クラウルはクラブの方へノロノロと足を運びながら苦々しげにいった。「このマイル・エンドに旗を出したり青い火をつけたりして飾った方がいいんだが。だが、これは敬意を払っている積りなのかな。彼はロンドンをよく知っているのだから、事実を隠して見せまいとしても何の役にも立たないのだがな。彼等は都会という物に対して、奇妙な観念を持っているに違いないね、王なんていう連中は。きっと、誰でも毎日旗の波に埋まり、凱旋門をくぐって方々に行くと思っているんだろうな。たとえば、この僕が晴着を着て靴を縫っている、という風に」年代表を無視して、クラウルは丁度今日は晴着をきていたので、この直喩《シミリ》がいかにも効いた。 「だが、人生が、もっと『美』で充満していてはどうして悪いね?」デンジルがいった。詩人は服についた嫌がる泥を、納得するだけやっと掃い落して、顔だけ洗って来たのだったが、眼はまだ『美』の養成の結果で血走ったままであった。デンジルは友人の誼《よし》みでクラブの入口までクラウルについて来てやっているのであった。そのデンジル自身には、それほど押しつけがましくないが、グロドマンがついて来ているのであった。更に、もっと離れた所には、ウィンプの部下の、例の警視庁の尾行が何人かついている。クラブの附近には様々な連中の群《むれ》がひしめいていたので、警官も、受付係も、守衛も、入場券を持っていない人々を押しかえすのに大童であった。その隙間を狙って、特権を持った人々が、同じく大童になって浸透しようとしている。附近の往来はグラッドストンの姿を一寸でも見たいという群衆で一杯であった。モートレークが二人乗りの馬車で乗りつけ、(彼の頭は人気を自覚した振り子のようで、あっちへ向き、こっちへ向き、あちらこちらと辞儀ばかりして)そして、グラッドストンに喝采しようとして果されなかった欝積した歓呼を全部うけた。 「じゃ失敬するぜ、キャンタコット」クラウルがいった。 「いや、扉まで送ろう、ピータ」  二人は互いに協力して群集を押しわけた。  一度デンジルを発見したからには、グロドマンは二度と逃がす量見は毛頭ない。彼の発見したのはホンの偶然からで、実は彼自身も除幕式に行く所だったのである。あの「事件」の解決に努力しているのが知られているので、彼は正式に招待されたのだった。彼は近所にいた警官の一人に話をした。相手は「かしこまりました」といった。で、彼は必要とあらばデンジルを尾行する決心をした。グラッドストンも聴きたいが、こっちのスリルの方がずっと大きい。逮捕はもうこれ以上延期は出来ない。  だが、デンジルはクラウルにくっついたまま中にはいりそうに見えた。この方がグロドマンにはなお都合がよかった。そうなれば二つの喜びを得られる。しかし、デンジルは入口を半分ほど行った所で停められた。 「入場券を!」  デンジルは精一杯に背のびをした。 「新聞社」彼は威厳をつくっていった。言論界の光輝と威光はその横柄な一語に集中された。天国にすら聖ペトロスを威圧したジャーナリストが沢山いる。だが、受付は真正真銘の龍であった。 「何新聞で?」 「ニュー・ポーク・ヘラルド」デンジルは声鋭くいった。彼は自分のいった言葉を信用されないので腹が立ったのである。 「ニュー・ヨーク・ヘラルドだ」傍にいた守衛の一人が、よく聴きとれなかった癖に、いった。「入れてあげるといい」  素早くデンジルはこの機を利用して中に滑りこんだ。  だが、この短かい口論の間に、ウィンプが追いついた。流石の彼も顔を冷静には保ち得ないで、眼は制御しているものの鋭く光り、口許は微かに震えていた。彼はデンジルに続いて中にはいったが、グロドマンと二人並んだので戸口を塞いでしまった。二人とも、これからの大成功に気持を奪われていたので、並んだまま物の六七秒も押し合いへし合う間は、お互いに相手に気がつかなかった。気がついて、二人は仲好さそうに握手した。 「今し方はいって行ったのは、キャンタコットでしたな、グロドマン?」ウィンプがいった。 「気がつかなかったですな」グロドマンは全然関心のないような調子でいった。  心中ではウィンプはひどく興奮していた。彼は極めてセンセーショナルな環境のもとに大成功を収めることになるのだ、という気持で一杯であった。あらゆる要素が組合わされるから、全国の注目は――否、全世界の注目は彼の上に集まる筈だ。なぜなら、すでに『ボウ町の怪事件』は、太陽のもとありとあらゆる国語で論議されているのではないか。現代のような電気時代には、犯罪者は世界的の評判を得る。僅かの数の芸術家に等しい特権が得られる訳である。今度は、ウィンプがその僅かな芸術家の一人になるのだ。そして彼は、自分が確かにそれだけの値打ちがある、と感じた。もし犯罪者があの殺人の計画に当って、天才的といっていいほど狡猾だったのなら、それを探偵した自分は神に近いまで鋭かったのだ。彼は今までに、これほど滅茶々々に途切れている証拠を一つにまとめあげた事はなかった。彼はこうした劇的な計画《たくらみ》を、劇的な構成の中に立てる、千載一遇の機会を、どうあっても逃がす気にはなれなかったのである。彼は芝居的本能の強い男であった。力強いメロドラマ的な筋をまとめ上げた途端に、ドルーリ・レーン劇場([#割り注]十七世紀以来のロンドンの大劇場、沙翁劇などの上演で知られている――訳者[#割り注終わり])から突然に上演の申し込みがあった戯曲家のような気持になった。こうした贅沢を否定するのは、世にも愚かな話である。尤もグラッドストン氏が来賓である点や、式の性質からいったなら、或いは彼は遠慮すべきであったかも知れない。だが、他方、そういう点こそ誘惑のそもそもの要素なのであった。ウィンプははいって行って、デンジルの後ろの席に坐った。各席とも番号つきだったので、各人は他人の席を占領するという満足が得られたらしかった。デンジルは中央の通路を少し外れた第一列目の特別予約席に坐った。クラウルは押されて、ホールの後部の柱の影になる隅っこに入れられてしまった。グロドマンは壇の上に席を与えられる名誉を受けた。壇は右側と左側の階段から昇るようになっていたが、彼はデンジルから眼を離さなかった。気の毒な理想主義者の肖像画はグロドマンの頭の後ろの壁にかかっていて、褐色のオランダ更紗の幕がかぶせてあった。ホール全体に、おさえられた興奮のざわめきがきこえており、有名人やボウ町に名の知れた連中が壇に登るたびに、それは喝采の声に化した。壇の上には、この地区から選出された各政党の議員たち、労働運動家が三四人、博愛主義を看板にしている貴族が一人二人、トインビーやオクスフォード大学隣保館関係の人々が少々、会長やその他の役員たち、故人の一族や友人などが、図々しいという以外にそこに坐る資格の全くないよくある手合いと一緒に、席をとっていた。グラッドストンは遅かった――早く来たモートレークの方は、着くと早々、割れるような喝采を博した。まるで政治運動の集会のように、誰かが「彼は愉快な善い男」を歌い始めた。グラッドストンは丁度その途端にはいって来たので、自分が歓迎されたのだと思って、手を振った。鉄のような肺の輪唱する歌の噪音に、老人の到着を知らせる激励の声は消された。この陽気な合唱は、シャンパンでも飲んだ揚句のように、モートレークの頭に来た。涙がにじみ、眼が曇った。熱意の波に乗って、理想の実現に泳ぎつく自分の姿を彼は見た。ああ、自分をかくまで信頼する働く同胞に、どれだけ尽したらいいものだろう!  平素の礼儀と思いやりから、グラッドストンはアーサ・コンスタントの肖像画の実際の除幕を行うことを断った。「それは」彼は葉書に書いてよこした。「当然モートレーク氏の手で施工されるべきと存候。氏は、拙生の存候処にては、故コンスタント氏とも親交あり、共に熟練工及び非熟練工の組織化に関する様々なる計画に当り、ボウの労働階級間に、よりよき理想――自己教養と自制――の普及を実行致され候人物に御座候。疑うべからざる有能廉直なる両氏を、指導者として持ちたる点――よしその一人は一時的なりしとはいえ――拙生の看取し得候限り、ボウの労働者の倖せは限りなきものに御座候。労働階級の多岐なる意図を収欖し、一つの道に進ましめたるは、両氏の功績と存候。この道の迂余曲折の細部に到るまで拙生の全面的に賛同致す所には御座なく候も、わが偉大なる帝国の労働階級の、適当なる時期に、しかも不必要なる遅延なしに、到達を許され得ると、ごく少数を除きわれら悉く確信致候究極の目的に、労働階級をば、些かにても近づける手段として、不適当ならざるものに御座候」  グラッドストン氏の演説はこの葉書の文面をひきのばし、所々に喝采の句読点をうったものであった。唯一の新しい点は、それまで秘密にされていた事――この肖像画を描いてボウ町暁天クラブに寄贈したのが、機さえ熟せばアーサ・コンスタントの妻となった筈の人、すなわちルーシ・ブレントであった事――を発表する時の奥床しい、真実のこもった態度なのであった。この肖像画は、彼が生前みずからモデルとして坐ったものであり、彼女は彼の死後、悲みを抑えながらも、故人の面影を偲びつつ熱心に完成につとめたのである。この事実はこの会合に最後の哀愁をつけ加えた。クラウルの顔は例の赤いハンケチの後ろに隠された。ウィンプの眼の興奮の火も、しばしはウィンプ夫人とウィルフレッドを思う間、一滴の涙に消された。グロドマンに到っては、咽喉がつまる思いをしたものである。部屋中の人間で、感動しなかったのはデンジル・キャンタコットただ一人であった。彼はこの挿話をまことに『美』であると思って、早くも詩の形にまとめようと努力しているのであった。  演説を終えて、グラッドストン氏は、肖像画の幕をひくように頼んだ。トムは立ち上った。顔は青く、興奮している。紐を掴もうとして、手がそれた。彼は感動に圧倒されたように見えた。彼をこれまで動かしたのは、ルーシ・ブレントの名前が出たからであろうか?  褐色の更紗の布は落ち――死者は生前そのままの姿で現われた。『愛』の手で描かれたその顔は、生気にあふれていた。上品な、真摯な顔、悲しげな親切な眼、秀でた額は未だに『人類』を思う心でピリピリしているように見える。部屋中を戦慄が走った――低い、何といっていいか判らない囁きが起った。ああ、何たる哀切、何たる悲劇! 各人の眼は、感傷にぬれて、画の中の死者と、立っている生きた人の上に固定された。後者は、キャンヴァスの傍に立ったまま、顔色蒼白、興奮のあまり口を開こうとして開き得ないのが見てとれた。突然、この労働運動家の肩に手がおかれ、ホール全体に、ウィンプの澄んだ決断力のある調子で、次の言葉がひびき渡った。「トム・モートレーク、アーサ・コンスタント殺害の咎で貴方を逮捕する!」 [#5字下げ]9[#「9」は中見出し]  一瞬間、鋭い物凄い沈黙があった。モートレークの顔は死体の顔のようであった。傍の死者の顔は生気の色に溢れていた。極度に緊張した観衆の神経には、考えこんでいる画中の眼が脅迫するように陰気に厳しく、しかも運命の稲妻を放射するように見えた。  それは怖ろしい対照であった。ウィンプだけは、画の顔がもっと大きい悲劇的な意味を持っているように見えた。聴衆は石と化したようであった。或いは坐ったまま、或いは立ったまま――様々な姿勢で――凍ったように固くなっていた。アーサ・コンスタントの肖像画のみが、死のホール中ただ一つの生きた物のように、この場面を支配していた。  だが、ほんの一瞬間だけであった。モートレークが探偵の手を掃いのけた。 「諸君!」彼は無限の憤怒をこめた口調で叫んだ。「これは警察の陰謀だ!」  彼の言葉が緊張をゆるめた。石のような像が動揺し始めた。鈍い、興奮したどよめき[#「どよめき」に傍点]が彼に答えた。小柄な靴直しが柱の後ろから突進して出て、長椅子の上に跳び上った。彼の額は興奮に血管が怒張している。彼はホール全体を影で覆う一大巨人のように見えた。 「諸君!」彼は得意のヴィクトリヤ公園で鍛えた声をはりあげた。「聴き給え。この告発は不正な真赤な嘘なのだ」 「万歳!」「謹聴、謹聴!」「しっかりやれ!」「その通りだ!」部屋の各部分から、そういう大声の呼応があがった。一人残らず立ち上り、緊張しきった人々は、次の動作に移る前の仮の姿勢をとっていた。 「諸君!」ピータは咆哮を続けた。「諸君は僕を御存知だ。僕は凡人だから知りたい。彼は自分の親友を殺すような男だろうか」 「そうじゃない」力強い声が一斉に起った。  ウィンプはモートレークの人気を殆んど勘定に入れていなかった。彼は演壇の上に立ちすくんだまま、自分の捕えた男と同じく、顔を蒼くして心配に震えていた。 「しかも、もし彼が殺したのなら、なぜ最初の時に証明しなかったのだ!」 「謹聴、謹聴!」 「もし逮捕したいのなら、なぜこの式の終るまで待たなかったのだ! トム・モートレークは逃げるような男ではない!」 「トム・モートレーク! トム・モートレーク! トム・モートレークに喝采を三度おくろう! ヒップ、ヒップ、ヒップ、フレー!」 「警察に軽蔑の声を三度おくろう!」「フー! ウー! ウー!」  ウィンプのメロドラマは巧く運ばない。彼は平土間から「やめろ!」という不吉な声のあがるのを耳にした戯曲家のような気がした。彼は、自作の力強いドラマを、こんな下らない前狂言の後にすぐ出さなければよかった、とすら思いかけた。方々に散在していた警官は、無意識のうちに、一所にかたまった。壇上の人人はどうしていいか判らなかった。皆は立ち上り、密集した一団に固まった。グラッドストン氏の演説力もこういう異常な環境のもとでは手も足も出なかった。警察に浴びせる軽蔑の叫びは衰えた。モートレークに送る喝采の声が立ちのぼり、高潮に達し、低くなり、また高揚した。杖や傘が音を立て、ハンケチが振られ、雷鳴は深くなった。まだホールの廻りにざわめいていた雑多な群集がこの喝采に応じ、周囲数百ヤード[#「数百ヤード」は底本では「教百ヤード」]のあたり、人々はただ無責任な熱意に燃えて、物凄い顔で右往左往した。ついにトムが手を振った――雷鳴は次第に弱まり、消えた。捕えられた者がこの場の主人であった。  グロドマンは壇の上で、椅子の背をしっかと掴んで立っていた。奇妙な、メフィストフェレスのような嘲りの光が双眼にきらめき、唇は薄笑いを呈している。デンジル・キャンタコットを逮捕させるのは急がなくてもいい。ウィンプは飛んでもない大失錯をやらかした。グロドマンの胸には、ひどく努力した揚句に大試合に勝って、審判の宣告をきいた者のような、嬉しい平静さがあった。彼はデンジルに対して、殆んど親切な気持になった。  トム・モートレークが喋り始めた。彼の顔は緊張していて、固かった。彼の長身は傲然と精一杯に高く聳えた。例の癖になっている身振りで、彼は黒い鬣を額から後ろに押しあげた。熱に浮かされた聴衆は、彼の唇を見つめた――後ろの席にいた人々は熱心に前に乗り出した――新聞記者たちは一語もきき落すまいと息をとめた。この偉大な労働運動家は、この至高の瞬間に、何をいおうとするのであろうか? 「議長及び満場の諸君。本夕、このボウ町の偉大な恩恵者かつ労働階級の真の友の、この肖像画の除幕をする任務を与えられる名誉を受けましたのは、私にとって、憂欝な悦びであります。彼が生前、私に友人として交際してくれた事と、私の人生の念願が、私のは小さな制限されたものでありますが、彼のそれと同じものであった事以外に、この名誉ある任務が私に与えられる理由は、殆んどなかったのであります。諸君、私は、日々故人の面影に接することによって、われわれが強い鼓舞を受けることを信じて疑いません。故人は未だにわれわれの心の中と――グラッドストン氏が只今述べられたように、彼を愛する人の手になった、この立派な芸術作品の中に生きているのであります」一瞬間、彼は演説をやめた。彼の低い震える声は、一寸怯むと見るや、途端に沈黙した。「もし、われわれボウの詰らぬ労働者が個人々々として、アーサ・コンスタントの及ぼした有難い影響の十分の一も行えないとしても、われわれは、まだ、彼がわれわれの真只中に点じた光明の――自己犠牲と同胞愛の久遠の燈火の中を歩く事ができるのであります」  それで終った。部屋は、喝采で鳴りひびいた。トム・モートレークは自席についた。ウィンプに取って、この男の不敵な行為は正しく『壮大』に近かった。デンジルには『美』に近かった。再び、呼吸のつまるような静けさが来た。グラッドストン氏の表情の多い顔は、興奮によく動いていた。彼の多岐多難であった経験のうちでも、こんな異常な事件の起ったことは一度もなかった。彼は、立ちあがろうとするように見えた。喝采が静まると、息づまるような静けさが来た。ウィンプは再びトムの肩に手を置いて、局面を打開した。 「おとなしく一緒に来給え」彼はいった。この言葉は殆んど囁く程度にいったのであったが、当たりが寂として静かだったため、声はホールの隅々までよく透った。 「行くんじゃないぞ、トム」喇叭のような大声を挙げたのはピータであった。この呼びかけは、各人の胸の反抗の琴線に共鳴をよび起し、低い不吉な囁きがホール全体に行き渡った。  トムは立ちあがった。すると再び沈黙が来た。「諸君」彼はいった。「僕を行かせて下さい。その事で騒がないで下さい。僕はまた明日、諸君にお目にかかります」  だが、暁天クラブの会員の血は熱病のように燃え立っていた。いきり立った群集は混乱状態で椅子から立ち上った。一瞬のうちに、すべては混乱状態になった。トムは動かなかった。ピータが先登で、六人ほどの一団が演壇に登った。ウィンプは片隅に押しやられ、侵入者たちがトムの椅子の廻りに輪を作った。壇上の人々は鼠のように中心から四散した。片隅に押し合うものもあれば、後ろの方に難を避けるものもある。委員たちは自分たちが克己心を発揮して女性たちを締め出したのを喜んだ。グラッドストン氏の衛星どもは慌てて老体を壇からおろし、馬車に連れこんだ。尤もこの戦闘はどっち道、大時代なものにしかならないのは判っていたのだが。ひそかに益々面白がりながら、グロドマンは壇の脇に立って見ていたが、もうデンジル・キャンタコットの事は念頭にない。デンジルはもう二階の酒場で英気を養っているのであった。ホールの近辺にいた警官が呼子を吹いたので、外側や近所に屯《たむろ》していた警官隊が急いで中に駆けこんだ。壇の上で、一人のアイルランド選出の議員が興奮のあまり自分の新たに得た身分を忘れ、故郷のドニブルック定期市《いち》([#割り注]騒ぎや喧嘩で有名――訳者[#割り注終わり])にでもいる気になって、安傘を棒のように振り廻していた。それを、仕事熱心な警官が警棒で殴り倒した。すると拳骨の雨が熱心居士の顔に降って、彼は血みどろになって倒れた。それがキッカケになって、嵐は大荒れに荒れた。中空《なかぞら》は椅子の脚や、杖や、傘で黒く見え、それに青い雹のような節くれ立った拳までが降った。叫び声、唸り声、罵る声、それに鬨声《ときのこえ》が混って、無気味な合唱を呈するさまは、ドヴォルザークの気味の悪い悪魔的な楽章にも似ていた。モートレークは腕ぐみをしたまま、何もせず、落ちついて立っていたが、水が不動の岩の周囲に渦巻くように、彼の廻りで猛烈な戦闘が行われた。後ろから来た警官の一隊は、着々と囲みを破って彼の身辺に近づき、演壇の階段を上に突進したが、指導者が部下共の上に叩きつけられたので、破城槌となって、一同は階段を転げ落ちて後退した。一団の真上に彼等は落ち、警官の層の上に冠さった。だが、他の連中は彼等の倒れた上を越えて進み、演壇によじ登った。もう一寸すれば、モートレークは捕まってしまいそうに見えた。そこに一つの奇蹟が起ったのであった。  昔々、誉の高い女神は、空中から、贔負の英雄が進退|谷《きわ》まるのを見ると、いきなりゼウスの天の倉庫から一塊の雲をひき出して、自分の慈しむ人間を包んで、あたりを真暗にしてしまう。それで、彼の敵は徒に闇と戦う訳なのだが、狡智に長けた勇敢な靴直しのクラウルは、友人の安全を計るために、同じ手を用いた。彼はガスの元栓をひねったのである。  北極の夜――前ぶれの黄昏《たそがれ》どきもなく――が帳りをおろし、悪魔の酒宴の時が来た。その闇は触れれば手ごたえがあった。手ごたえと共に、血が流れ、打撲傷が残った。再びガス燈が点じられた時、モートレークの姿はもう見えなかった。だが、騒動を働いた数名は意気揚々と逮捕されていた。  そして、終始、一同を見おろす高みで、地に平和を齎そうと努めた死者の顔は、憂欝そうに見おろしていた。      *     *     *  クラウルは頭を繃帯して、パンとチーズの夕飯をおとなしく食べていた。そして、デンジル・キャンタコットはトム・モートレークを救い出した次第を彼に話してきかせていた。デンジルは壇によじ登った最初の一団の中にいて、終始トムの傍から離れず、戦闘の第一線に立っていたが、ついに巧く外に案内して横町に入れてしまったのであった。 「君が彼を安全に逃がしてくれたとはありがたい。巧く逃げられるか心もとなかったんだ」 「だが、誰だか知らないが、臆病な馬鹿者がガスをひねらなければもっと面白かったんだ。殴られる所が見え[#「見え」に白丸傍点]なくては詰らんもの」 「でも、あの方が――楽のようだったが」クラウルが口ごもった。 「楽《らく》だって?」デンジルはビールをガブガブ飲んでから、鸚鵡がえしにいった。「全くの話だが、ピータ、君がいつもそんな低級な観方をするのは残念な話だよ。その方が楽かも知れんが、根性がさもしいよ。『美』のセンスを持つ者には堪えられない」  クラウルはパンとチーズを恥しそうに食べた。 「でも、いくらあの人を救うためでも、頭を割られる『用』があって?」クラウル夫人は無意識に駄洒落をいった。「どっち道あの人はつかまるんじゃないの」 「ああ、こんな場合に『有用』など※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]しはさむ筋合い[#「筋合い」に白丸傍点]かどうかは知らないが」ピータが考えながらいった。「だが、あの時にはそれは考えなかったんだよ」  彼は急いで水を飲んだが、水は違った方にはいってしまって、ますます彼の混乱を強めた。また、彼はこの件で呼ばれるかも知れない事が頭に浮かんで来た。即座に、そんな所には行っていなかったといおうか。彼は余りにも目立つ役を演じてしまった。  その頃、ウィンプ夫人はウィンプ氏の眼を洗って、全身にアーニカをつけて揉んでやっていた。ウィンプのメロドラマは、全くの所、大向うに名をなさしめた事になった。ただ、善が破れ、悪が栄えたのであった。悪漢は逃げてしまった。しかも、何の抵抗もしないで。 [#改ページ] [#5字下げ]10[#「10」は中見出し]  翌日の新聞には書く材料がありすぎた。印象的な儀式――グラッドストン氏の演説――劇的な逮捕――こうしたものだけでも、記事にも論説にも立派な主題になった訳であった。だが、逮捕された当の人間の人柄や、それから『ボウ町の大怪事件』――と呼ばれる事になった――は、記事やポスターを一層刺激的なものにした。モートレークの行為は状況の面白さに更に最後の仕上げをした。燈が消えた時、彼はホールを出て、附近にスバル星団のように無数にいた警官の間を、気づかれず、邪魔もされないで、最寄りの警察署まで歩いて行ったのであったが、そこの署長は余り興奮してしまったので、彼が逮捕してくれと要求したのを危く無視してしまう所であった。尤も、折角の頼みであったので、署長は事情を了解するとすぐ、折れる事にした。そうするのに当って、彼が何か官僚式の繁雑な手続きの違反をしなかったというのは、殆んど考えられない事である。或る者は、こうして自首して出たのは彼の無罪の明快な証明だといった。また或る者は、逃げおおせないと知って自棄《やけ》になった結果だと思った。  朝刊を読んでグロドマンは愉快であった。朝飯の卵をたべながらも、まるで自分がそれを産みでもしたかのように、クツクツいって喜んでいた。平素、主人の気むずかしいのを知っているジェーンは、彼が気でも狂ったかと気が気ではなかった。彼女の亭主なら言う所だが、グロドマンの笑いには『美』が無かった。けれど、彼は笑いを抑制しようとは努めなかった。ウィンプが醜悪な失敗を犯しただけではなく、新聞記者たちが一人残らず彼の劇的構成を責めているのである。尤もその非難が劇界欄に出たというのではない。自由党系の新聞は、彼がグラッドストン氏の生命を危殆に瀕せしめたと書いた。保守党系のは、彼がボウ町の住民共の兇暴性を解き放ち、容易に暴動に発展して財物を大いに毀損したかも知れない暴力を誘発せしめた、と書いた。だが、要するに「トム・モートレーク」が、一行おきに記事のスペースを占めている思想なのであった。それは、一つの意味で、彼の勝利であった。  だが、ウィンプの浮かびあがる番も来た。抗弁を保留していたモートレークが治安判事の前に召喚され、新しい証拠によって、アーサ・コンスタント殺害の嫌疑で正式裁判に附せられる事になったのである。こうなると、人々の頭は再び例の『怪事件』に集中され、あの不可解な問題の解決は中国からペルーまでの人類を騒がせた。  二月の半ば、この一大裁判が行われた。これも大蔵大臣が等閑視した機会の一つであった。これだけ派手な劇なのだから、楽に経費の元は取れたに違いない――出演者は大勢であり、スター連の給料は多額にのぼり、裁判所の家賃もかさむ話だが――その位は、前売りだけで優に片づいた筈だ。なぜなら、この劇は(大憲章の定める権利により)再演の出来ないものなのだ。よし、劇の主役が女でなくとも、流行を追う女性たちは耳飾りを売りはらってすら観たがる劇なのだ。おまけに、予審法廷の取調べから洩れた些細な点から判断しても、またジェシ・ダイモンド嬢なる女性に関する報道に関して懸賞つきのビラが全国的に撒かれた事実から見ても、現に[#「現に」に白丸傍点]女が関係しているのは判っていたものである。モートレークの弁護に当るのは、勅選弁護士チャールズ・ブラウン=ハーランド卿で、費用を出すのはモートランド弁護援護会(この援護資金には濠州や大陸からも応募があった)であり、こうきめたのは卿が或るイースト・エンドの選挙区から労働派の候補として出馬を勧められていたからなのである。ヴィクトリヤ女王陛下と法律陛下側の代表は、勅選弁護士ロバート・スピゴット氏ときまった。  勅選弁護士スピゴット氏は訴状の朗読の際、こういった――「私は、被告が友人であり同宿人であるアーサ・コンスタント氏をば、計画的に、最も周到な準備をもって殺害したものである事を説明します。その準備たるや、極めて深く研究し、死の状況をば数週間全世界の前に全く不可解にしたものなのですが、幸にも、スコットランド・ヤード探偵部のエドワード・ウィンプ氏の、殆んど超人的な洞察力をまどわせる程ではなかったのであります。まず、被告の動機は嫉妬と復讐でありました。その嫉妬は、自分が指導しようと熱望する労働者に対する彼の友人の持つ、より高い勢力に対するものだけではなく、その二人の双方に関係を有する婦人の存在によって生じた、もっとありふれた敵意に基くものなのです。もし、この事件の進行中に、かの殺害された人物が、世間が公認しているような聖者ではない事を私が示さなければならない辛い事態に立ちいたったとしたなら、諺に『死者に鞭つ勿れ』とありますが、私は正義のため、あくまで真実を述べる決意なのであります。この殺人は、十二月四日の午前六時半少し以前に、被告の手で行われたものであり、被告は、その前後に示した驚くべき精妙さで、リヴァプール行の一番[#「一番」に白丸傍点]列車によってロンドンを離れたかの如く装って、現場不在証明を用意せんとし、一旦とって返し、自分の鍵を使用して表口の扉から中にはいり、扉には掛金をかけておき、兼ねて所持していた鍵を使用して被害者の寝室の扉をあけ、眠っている男の咽喉を切り、使用した剃刀を懐中に納め、再び扉に鍵をかけ、掛金のかかっている態《てい》にみせかけ、階下に降り、錠前の掛金を外し、外に出て後に扉をしめ、そしてリヴァプールに向う二番[#「二番」に白丸傍点]列車に間に合うように、ユーストンに赴いた事を、私は立証しようとするものなのであります。霧が彼の行動を終始助けたのです」検察側の仮説は大要こういうものであった。被告席の、色こそ蒼ざめたれ、少しも怯んだ所を出すまいとしている人物は、以上の論告の所々で目に見えて苦痛らしかった。  ドラブダンプ夫人が検察側の呼び出した最初の証人であった。彼女はもうこの頃には、法律家の穿さく好きにはよく馴れていたが、余り上機嫌らしくはなかった。 「十二月三日の晩、貴女は被告に一通の手紙を渡しましたか?」 「はい、渡しました」 「読んでから、どんな様子でしたか?」 「まっ青になって、興奮なさいました。あのお気の毒なお方のお部屋に上っていらっして、どうやらあの方と喧嘩をなさったようでした。最後の何時間と判ったら、静かにさせてあげたでしょうに」(満場興味をそそられる) 「それから、どうなりましたか?」 「モートレークさんは興奮したまま外にお出になって、一時間ほどたってからまた帰っておいででした」 「翌朝ごく早くリヴァプールに行くと貴女にいいましたか?」 「いいえ、デヴォンポートに行くとおっしゃいました」(一同驚く) 「次の朝、貴女は何時に起きましたか?」 「六時半です」 「いつもの時間ではないのですね?」 「はい、いつもは六時に起きます」 「余分に寝ていたのはどういう訳なのですか?」 「運の悪い時は仕方のないものでして」 「霧が深くて欝陶しかったからではなかったのですか?」 「いいえ、そうでしたら、いつだって早起きは出来ませんもの」(笑声) 「おやすみになる前に何か飲みますか?」 「お茶を頂きます。濃く入れまして、お砂糖なしで頂きます。神経を落ちつけますので」 「全くですな。被告がデヴォンポートに行くつもりだと貴女に話した時、貴女はどこにおいででしたか?」 「台所でお茶を飲んでいました」 「もし被告が、貴女を遅くまで寝かせて置こうと思って、その中に何か入れたとしたら、貴女は何とおっしゃいますか?」  証人(ギョッとして)「射ち殺すのが当然だ、と」 「貴女の気がつかない間に入れたかも知れませんな?」 「あのお気の毒な方を殺すほど頭がよかったのなら、そんな風にして私に毒を盛る事も出来たでしょうね」  裁判長――「証人は返事をする時には、証言だけをいって下さい」  勅選弁護士スピゴット氏――「裁判長に申しあげますが、只今のは極めて論理的な答えだと思います。蓋然性の相互依存を正しく説明しています。さて、ドラブダンプ夫人、次の朝の六時半に貴女が起きてから何事があったのかきかせて下さい」  そこで、ドラブダンプ夫人は検屍審問の時に彼女の陳述した事を(新しく余計な言葉はつけ加えたが、殆んど変りなく)再び述べた。彼女が怖くなった次第――表口の錠がおりているのを発見した次第――グロドマンを叩き起こし、扉を押しあけて貰った次第――二人が死体を発見した次第――一般公衆がもう知り尽しているこうした事柄が、新たに彼女からきき糺されたのである。 「この鍵を御覧なさい。(鍵が証人に手渡される)何の鍵かお判りですか?」 「はい。どこから手にお入れになりまして? 二階の表のお部屋の鍵ですわ。扉にさしたままにしておいた積りでしたが」 「貴女はダイモンド嬢という人を御存知でしたか?」 「はい、モートレークさんの恋人ですわ。でも、あの方は彼女と決して結婚はなさる積りはなかったんですわ。可哀想に」(一同驚く) 「なぜです?」 「あの方は、偉くなっておいででしたから」(一同、興味をおぼえる) 「それ以上の意味でおっしゃったのではないのですか?」 「よく判りません。彼女は私の所へは一度か二度しか見えませんでしたので。最後に私が見かけたのは十月だったでしょうか」 「どんな様子でしたか?」 「大変に哀れな様子でしたが、人にはそう見せませんでした」(笑声) 「殺人以後、被告の態度はどうでした?」 「ひどく塞《ふさ》ぎこんでいて、気の毒がっておいででした」  反対訊問となる。「被告は前にコンスタント氏の寝室を使っていて、コンスタント氏が同じ階の二部屋が使えるようにと、それを彼にあけ渡したのではありませんでしたか?」 「はい。でも、あの人のお部屋代は安かったので」 「それで、この表の寝室を使っている間に、被告は一度鍵をなくして、新たに作って貰ったのではありませんか?」 「そうです。ひどく不注意な方《かた》でして」 「十二月三日の晩、被告とコンスタント氏が何の話をしていたか御存知ですか?」 「いいえ。きこえませんでした」 「では、どうして喧嘩をしていたと判りましたか?」 「とても大きな声で話しておいででしたので」  勅選弁護士チャールズ・ブラウン=ハーランド。(鋭く)――「でも、今私は大きな声で貴女にお話をしています。貴女は私が喧嘩をしているとおっしゃいますか?」 「二人でなければ喧嘩にはなりませんわ」(笑声) 「被告は、貴方の御意見では、殺人を犯しそうな人間ですか?」 「いいえ、あの人が犯人だとは私は思わないんです」 「彼を立派な紳士だと、以前からお感じでしたか?」 「いいえ。あの人はたかが植字工ですもの」 「被告はあの殺人事件以来、憂欝そうだった、と貴女はおっしゃる。それは彼の恋人の失踪によるものではなかったでしょうか?」 「いいえ、肩の荷がおりて嬉しいと感じたでしょう。」 「では、もしコンスタント氏が彼の手から彼女を取ったとしても、彼は嫉妬を起さなかっただろう、とおっしゃるのですね?」(満場、驚く) 「男の人は自分に入用がなくても人の邪魔するのが好きですからね」 「世間の男はどうでもいいのです、ドラブダンプ夫人。被告はダイモンド嬢を愛さなくなっていたのですか?」 「彼女の事を全然考えもしない様子でしたのです。ほかの郵便と一緒に、彼女の手の手紙を受取れば、いつも脇にほおり出して、ほかの方から先きに読むんでしたからね」  勅選弁護士ブラウン=ハーランド。(勝ち誇った響きをこめて)――「ありがとうございました、ドラブダンプ夫人。お坐りになって結構です」  勅選弁護士スピゴット。「一寸お待ち下さい、ドラブダンプ夫人。被告はダイモンド嬢をもう愛さなくなっていた、とおっしゃいました。それは、彼女がコンスタント氏と関係があると、暫く前から彼が思っていたから、そういう結果になったのではなかったのですか?」  裁判長。「それは公正な質問ではありません」  勅選弁護士スピゴット。「それまでです。ありがとう、ドラブダンプ夫人」  勅選弁護士ブラウン=ハーランド。「いいえ、もう一つ伺いたいのです、ドラブダンプ夫人。貴女はもしや、何か御覧になった事でもありませんか――つまり、ダイモンド嬢がお宅に来た時――コンスタント氏と被告の恋人との間に何かあると思わせるような事柄を」 「彼女は一度、モートレークさんの外出中に彼と会った事がありました」(一同驚く) 「どこで会ったのですか?」 「廊下です。彼が外出しようという時に、彼女が表を叩いたので、彼が戸をあけました」(一同興味を感じる) 「二人が何を話していたか、貴方はおききにならなかったのですか?」 「私は立ち聴きなんかしません。仲よく話し合いながら、御一緒に出ておいででした」  ジョージ・グロドマン氏が呼び出され、検屍審問の時の証言を繰りかえした。反対訊問で、彼はコンスタント氏と被告との間の温い友情について証言した。ほとんど見た事もなかったので、彼はダイモンド嬢については碌に知ってはいなかった。彼の意見では、彼女はあまり被告の念頭になかったらしい。被告は素より親友の死によって気が塞いでいた。おまけに、彼は過労であった。証人はモートレークを立派な人物だといって賞めた。コンスタントが親友の未来の妻と、いかなる種類のものであろうと、不正の関係を持ったなどとは信じられない。グロドマンの証言は陪審席に極めて有利な印象を与えた。被告は感謝しているように見えた。それで、検察側はこの証人を喚問しなければならなかったのを残念に思った。  ハウレット警部とラニミード巡査部長も前と同じ証言を繰りかえした。警察医のロビンソン博士も、創傷の性質に関する彼の証言を繰りかえし、死の大体の時間を述べた。しかし、今度は彼は前よりずっと厳しく訊問された。彼はその時刻を一二時間の間とは誓わなかった。生命の絶えたのは、彼の到着した二時間か三時間前だと思う、と彼は述べた。だから、殺人の行われたのは、七時から八時の間であろう。検察側の柔かな圧迫にかかって、彼は六時から七時の間であったかも知れない事を認めた。反対訊問で、彼は後で述べた方の時間の方が或いは正鴻なのであろう、と繰りかえした。  医学の専門家たちの補足的証言も同じように曖昧かつ不確かであったので、折角こうして法廷に新しい証人を呼び出しても何の甲斐もなかったかのように見えた。何人によらず、死の時刻を決定する資料は極めて複雑かつ変化が多く、非常に正確な時間をきめるのは不可能という事に衆論が一致したらしかった。死後硬直などの徴候はごく広い範囲の制限があって、個人個人によって大いに違うらしい。ただ全員の一致したのは、こうした創傷による死は殆んど即時であったに違いない事で、自殺説は全員によって斥けられた。全体からいって、医学的証拠は、死の時刻をば六時から八時半の間という、高い蓋然性を持った時間に限定したわけである。検察側は、死の時刻をば出来るだけ早くしたいと努力したのであった。出来たら五時半頃にしたかったのである。被告側の弁護団は全力をあげて、医師たちに死は七時以前には起らなかった筈だといわせたかったのである。明らかに、検察側は、リヴァプール行の一番列車と二番列車との間の時間にモートレークが殺人を犯したのだという仮説を勝たせたいと戦おうというのであった。一方、被告側は現場不在証明に全力を注ぎ、被告は二番列車に乗ったが、その汽車はユーストン駅を七時十五分に出発したのだから、その間にボウとユーストン間を往復する時間は無かったといわなければならない点を証明しようというのであった。それは興奮にみちた争闘であった。現在の所では、まだ両軍の力はほぼ伯仲と見えた。証拠は今の所は被告側に有利な点もあれば不利な点もある。だが、誰しも最悪はまだずっと先に来るのだ、という事を知っていた。 「エドワード・ウィンプを呼んで下さい」  エドワード・ウィンプの物語はまず誰でも知りぬいている事実の陳述から穏やかに始まった。だが、やがて新しい事実が陳《の》べられ始めた。 「不審と感じた結果、貴方は変装をして、故コンスタント氏の部屋に引越したのですね?」 「そうです。今年の始めです。私の不審は次第々々に、グラヴァ通り十一番地の住人たちの上に集まって行ったので、ついに意を決して、一思いにこの不審が不当か尤もか調べ抜こうとしたのでした」 「何が発見されたか、陪審の方々に説明して下さい」 「被告が一夜あけるたびに、私は彼の部屋を捜索しました。コンスタント氏の寝室の鍵が被告の革張りのソファの脇に深く埋もれているのを私は発見しました。彼が十二月三日に受取ったと覚しい手紙が、その同じソファの下にあった『全英鉄道案内』の頁の間に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]んであるのを発見したのでした。傍に剃刀が二挺ありました。  勅選弁護士スピゴット氏――その鍵はすでにドラブダンプ夫人によって鑑定がすんでいます。その手紙を、これから私は読みあげたく思います。  それには日附はなく、こういう文であった。 [#ここから1字下げ] 「愛しいトム――お別れに筆をとります。別れるのが私達みんなにとって一番いい方法です。私は遠い所へ行きます。探そうとしないで下さい。無益でしょうから。波にでも呑まれてしまったとお考えになって下さい。それから、私が貴方のおそばを離れ、人生の楽しみをすべて捨てるのは、将来貴方に恥や外聞の悪い思いをさせたくないからだ、という事は信じて下さい。ほかに方法はないのですもの、貴方。今となっては、貴方は私なんぞと結婚なされない、という気がします。もう何カ月もそれを感じていました。愛しいトム、私のいう意味が判って下さいますね。私達は事実はまともに見なければなりませんわ。コンスタントさんとはいつまでも仲よくなさって下さい。さよなら、御機嫌よろしう! いつまでも御倖せに、それから私より立派な奥様をおみつけなさいますように。貴方が偉くおなりになって、お金持におなりになって、有名におなりになった時――必ずそうおなりです――或いは、時々は、愚かで到らない私ですが、不愍に思ってやって下さい。私は少なくとも最後まで、貴方を愛しています。 [#ここで字下げ終わり] [#地から7字上げ] 死ぬまで貴方を愛す女、 [#地から3字上げ] ジェシ」 [#ここで字上げ終わり]  この手紙の朗読が終った頃、法服を着たと着ないの区別なく、大勢の老紳士が眼鏡を拭いているのが見うけられた。ウィンプ氏の訊問が再開された。 「そういう発見の後で、貴方はどうなさったのですか?」 「私はダイモンド嬢について捜査をしまして、コンスタント氏が彼女を一度か二度、夜分に訪問した事を発見したのでした。何か金銭上の関係の手掛りでもありはしないかと、私は想像しました。私は家族の方々の許可を頂いて、コンスタント氏の小切手帳を調べさせて貰いました所、ダイモンド嬢宛の二十五ポンドの小切手が切ってあるのを発見しました。銀行で問合せますと、それは昨年の十一月十二日に現金にされているのが判りました。そこで私は被告に対する逮捕状を申請しました」  反対訊問「貴方は被告が貴方の発見した鍵で、コンスタント氏の寝室をあけた、と暗示なさるのですか?」 「そうです」  勅選弁護士ブラウン=ハーランド。(皮肉たっぷりに)「そして、帰りがけに、それを使って内側から鍵をおろしたというのですな?」 「そうです」 「どうすればそんなトリックが出来たのか説明して下さいますか?」 「そんな事はしなかったのです。(笑声)被告は恐らく扉を外側からかけたのでしたろう。押し破って開けた人々は、当然の事ですが、室内に鍵のあるのを見た途端に、鍵は内部からかかっていたと想像してしまったのです。この仮説で行きますと、鍵は床《ゆか》の上にある筈です。鍵穴にさしてあったなら、外側から錠を廻す事は出来なかった筈ですから。部屋に第一番にはいった人は、当然、扉を押し破る勢いで外れて落ちたのだと思ったのでしょう。さもなければ、外側から鍵を廻す邪魔にならない程度にソッとはめてあったのでしょうし、この場合もおそらく下に落ちていた筈なのです」 「なる程。大変に精妙です。それから、被告が外側に出ながら内側から掛金をかけたやり方も説明できますか?」 「出来ます。(再び一同は驚く)それが可能なのは、一つの方法しかありません――そして、それは、勿論、手品師の使う錯覚応用なのですが、鍵をかけた扉に、更に掛金までかけてあるように見せる為には、内側からまず、さし[#「さし」に傍点]金のはいる釘壺を木の部分から捩ぎとっておくのです。コンスタント氏の寝室の掛金は上下に動く式でした。釘壺をもぎ取っておけば、それは掛金のさし金[#「さし金」に傍点]を支えたり、締めておいたりするのではなく、その上にただ乗ったままになっているでしょう。誰かがその扉を押し破り、釘壺がさし[#「さし」に傍点]金の上に乗ったまま枠の横木から捩じ取られているのを見れば、勿論、今の自分の一撃で捩じ取られたのだと想像し、前もって捩じ取られていたとは、夢にも思わないでしょう」(法廷に拍手が起こり、廷丁が大急ぎで制止した)被告側の弁護士は、この恐るべき探偵に皮肉をいおうとして、却って陥穽におちたのを感じた。グロドマンは嫉妬に燃えた。今のは彼も考えつかなかったのだ。  ドラブダンプ夫人、グロドマン、ハウレット警部、それからラニミード巡査部長が、錠前と掛金とそれから鍵のあり場などに関して、狼狽したチャールズ・ブラウン=ハーランド卿に再び呼び出され、再び訊問を受けた。その結果、ウィンプの暗示した通りになった。証人たちは、最初から、扉には内側から錠がかけてあり掛金がかかっていた、と思いこんでいたので、正確な細かい所になると、些か朦朧になる。こわれた所は、もう修理してしまったから、すべては過去の正確な観察の問題なのであった。警部と巡査部長は、自分たちの見た時には、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]穴と掛金はこわれていたが、鍵は錠にささっていたと証言した。彼等はウィンプの仮説が不可能であるというだけの用意はなかった。掛金の釘壺があらかじめ捩ぎとってあったというのも、まことに可能な話であると認める気持さえあった。ドラブダンプ夫人は死体の物凄い光景に直ぐ心を奪われてしまったので、そんな細かな点を詳しく話す訳には行かなかった。グロドマンだけは、彼が扉を押し破ってあけた時に、鍵は扉にささっていた点に間違いはないと述べた。いや、彼は床《ゆか》に落ちているのを拾ってさした覚えはなかった。それから、掛金の釘壺がこわれていなかった[#「いなかった」に白丸傍点]のは確信があった。扉の上の方の鏡板を揺ってみた時に、抵抗があった点からでも確実である。  検察側がいった――「貴方がぶつかった時の比較的手易く開いた所から見て、掛金の舌は、しっかり留まっている釘壺にささっているのではなく、横木の木の部分からすでに捩じ取られたのにささっていたというのが、大いに事実だったとは思いませんか?」 「扉はそう手易く開かなかったのです」 「でも、貴方は非常に力がおありなのでしょう?」 「それほどでもないのです。掛金は古くて、木の部分は朽ちていました。錠は新しいが安物でした。しかし私は昔から力持ちではありました」 「結構です、グロドマンさん。貴方が寄席などにお出にならない事を祈ります」(笑声)  ジェシ・ダイモンドの下宿の内儀さんが、次に検察側の呼んだ証人であった。彼女は、コンスタントが時として訪ねて来たという点でウィンプの陳述を確認し、また彼女が死んだ博愛主義者に頼まれて、仕事のある物を手伝っていた次第も語った。しかし彼女の陳述のうちの一番手ごたえのあった部分は、十二月三日の晩おそく、被告が彼女を訪ねて来て、言葉荒く恋人の行方を尋ねたくだりであった。彼はつい今し方、ダイモンド嬢から、当地を引きあげるという、奇怪な手紙を受取った、といった。彼女(お内儀)は、それなら何週間も前から教える事が出来たのだ、といった。あの恩知らずの下宿人は何一ついい残さないで出て行ってから、もう三週間になるのだったから。彼があまりにも非紳士的に怒って無茶な事をいったので、彼女は彼の扱いが不親切で長い間かえりみないからこんな事になったので、すべて彼の身から出た錆だ、と答えてやった。別に男ひでりの世の中ではないのだから、ジェシくらいのいい女なら、捨てられたからといって悩む必要はない(どうもそれで悩んでいたらしいので)のだ、と彼に思い出させてやった。すると彼はお内儀を嘘つき呼ばわりをして帰って行ったので、もう二度と顔を見たくないと思っていた所なのだが、被告席にいるような破目になるのも当然の酬いであろう。  フィッツジェームズ・モンゴメリ氏という銀行員は、提出された小切手を現金に換えたのを覚えていた。金を払う時に、相手の娘が大層綺麗だったので、特に覚えていたのである。彼女は全額金貨で受取った。ここまで進んだ時、公判は休廷となった。  デンジル・キャンタコットが再会された公判廷に、検察側から第一に呼び出した証人であった。被告がコンスタント氏の誹謗をするのを聴いていたとウィンプ氏に語ったか否かを問いつめられ、彼は返事が出来なかった。彼は実際には被告の誹謗を自分で耳にしたのではなかった。彼はウィンプ氏に誤まった印象を与えたかも知れないが、しかしそれにしてもウィンプ氏は実に散文的に文字通り取ったものだ。(笑声)クラウル氏が彼にそうしたような事を話したのだった。反対訊問となって、彼はジェシ・ダイモンドは珍らしい気象の女性で、いつも見るたびにジャンヌ・ダルクを思い出した、といった。  クラウル氏は、呼び出されて、極めて動揺していた。彼は宣誓を拒んで、聖書は下らない流行物であると全裁判官に告げた。そんな矛盾した物などに対して誓う事が出来るものか。確言の方ならする。被告が始めはコンスタント氏に対してかなり信用していなかったのを、彼は否定できなかった――否定したかったように見えた――が、そうした感情は急速に消えてしまったのであった。然り、彼は被告の大親友であったか、なぜそうだからといって彼の証言が無効にされるべきか彼には判らない。おまけに宣誓もしていないのではないか。確かに、被告は休日に彼と会った時にはかなり気が滅入っているように見えた。だが、それは彼が公衆のため、また下らぬ流行物を絶滅するために過労したためであった。  被告の友人がこのほかに何人か、彼が素人の癖に労働運動に首をつっこんで来た競争相手に対し、或る時期に偏見を抱いていた事について、多少とも不承々々な口うらで証言した。彼は自分の好まない物事に対し、強く、刺すような表現をしたものであった。検察側は、このほかに、被告が十二月四日の事務員大会の議長をつとめる事になっているのを伝えている一枚のポスターを提出した。彼はこの集会に出席もしなければ、何の説明も提出しなかったのであった。最後に、はじめ彼を行動不審のかどでリヴァプールの埠頭で逮捕した探偵たちの証言があった。これで検察側の訊問は終った。  勅選弁護士チャールズ・ブラウン=ハーランド卿は、厳然たる絹の法服の音を快く立てながら立ちあがり、被告側の理論を展示し始めた。彼は多勢の証人を喚問する意向のない事を語った。検察側の仮定はまず兒戯に類する非論理的なもので、相互連絡のない蓋然性の集りに全く依存するものであるから、いわば指一本ふれても忽ち崩れてしまう。被告の性格は汚れのない高潔そのものであり、最後に公衆の面前に出たのはグラッドストン氏と一緒に演壇にのぼった時であり、彼の正直と高潔さは最高級の諸政治家のひとしく認める所である。彼の行動はいつからいつまででも完全に説明がつく――検察側が彼におわせた行動の曖昧さというのは、全然何の触知すべき証拠もない事なのである。彼はまた超人的な精妙さと悪魔的狡猾さを発揮したと称されたが、これらはそれ以前には全く徴候のなかったものである。仮説が仮説の上に立てられた所は、昔の東洋の伝説そのままで、世界は象の上に乗り、その象がまた亀の上に乗っているという空想に等しい。しかしながらコンスタント氏の死が少なくとも七時以前に起ったのではなさそうな事を指摘するのは骨折り甲斐のある事かも知れない。そして被告はリヴァプールに向かって午前七時十五分にユーストン駅を出たのであるから、ボウからそんな時刻に出発したのでは間に合わない筈である。また、被告は午前五時二十五分にユーストン駅にいた事が証明できるのであるから、彼が二時間足らずの間にグラヴァ通りに帰って犯罪をすませてまた戻ったというのは殆んど可能ではない。チャールズ卿は印象的にいった。「真相は、極めて簡単なのであります。被告は、一つには仕事に追われていたため、また一つには、(彼はこれを隠そうとはしなかった)世間的の野心のために、結婚の約束をしていたダイモンド嬢を次第々々に等閑に附すようになって来ていました。彼とても要するに人間であるし、出世するにつれ彼の頭も少し変って来ていたのです。しかしながら、心の底では彼は相変らず深くダイモンド嬢に惹かれていた。けれど、彼女の方はもう彼が愛さなくなったのだと一途に思いつめたらしいのです。つまり、彼女は彼に相応しくない。教育もないから、彼が今や登りつつある新しい社会的地位についた時、伴侶として彼と並ぶには不適当である――約言すれば、一生の重荷になってしまう、と思ったらしいのです。あらゆる点からいって、性格の強い娘であったので、自分がロンドンから立ちのいてこの難問題を解決してしまおうと決心しました。さもないと、婚約者が良心的な気持から、自分のために犠牲を甘んじる結果になるといけないから。それから、自分自身の弱さも心配になったのでありましょうか、彼女はこの別離を絶対のものにして、自分の行先をあくまで秘したのです。名誉ある名前を辱めるような一つの仮説が提議されました――あまりにも皮相なものであるから、私は軽く触れるだけに致しましょう。アーサ・コンスタントが彼の親友の婚約者を誘惑したかも知れないとか、何か不正な関係を結んだかも知れない、という仮説は、この二人の人間を誣いるも甚だしいものです。ロンドンを――乃至はイングランドを――離れる前に、ダイモンド嬢はデヴォンポートにすむ伯母――この国にいる彼女の唯一の生きている親類ですが――に手紙を出し、被告の宛名の書いてある一通の手紙をば、受取って二週間たってから投凾してくれるように頼んだのです。その伯母なる人はいわれた通りにしました。これが十二月三日の夜、雷《いかずち》のように被告の上に落ちた手紙なのでした。すべての古い愛情が帰って来ました。――彼は自責の念と、哀れな娘に対する憐愍に堪えられなかったのです。手紙の文言は不気味でした。或いは彼女は自殺するのではなかろうか。彼の最初の考えは、親友のコンスタントの所へ駆けつけ、彼の忠告を仰ぐことでした。或いは、コンスタントがこの件で何か知っているかも知れない。被告は二人が疎遠な関係でないのを知っていました。裁判長閣下ならびに陪審の紳士諸君、私は検察側の方法を真似て、仮説を出して事実を混乱させるのを好みませんから、こういう事が可能である、とのみ申しますが――コンスタント氏が彼女に二十五ポンド与えたのは、国を出るための費用であった、という事があり得るのです。彼は彼女に兄のような気持で接していた。であるから、訪ねて行くような無遠慮な振舞いもしたが、双方とも悪気は毛頭なかったのです。彼女の自己放棄や利他主義的の考えを起させたのが、彼であった事も可能なのであります。或いはそのために何が起るかは彼も気がつかなかったのでもありましょう。なぜならば、彼は生前最後にしたためた手紙に、彼の会っている立派な性格を持った女性の事を記し、個人々々の精神に善い影響を与えている事を述べていたではありませんか? しかし、今となっては、これはわれわれは、知る事が出来ないのです。死者が語るか、乃至は行方不明の人が帰って来るかしない限り。また、ダイモンド嬢がこの二十五ポンドの金子を、何か慈善事業のために託された、ということもあり得ない事ではないのであります。しかし確実な諸点に戻る事に致しましょう。被告はその手紙についてコンスタント氏に相談したのでした。彼はそれからステプニ・グリーンにあるダイモンド嬢の下宿先に走りました。行って見ても無駄なのはよく判っていたのです。手紙にはデヴォンポートの消印がついていたのです。彼はそこに彼女の伯母が住んでいるのを知っていた。彼女の所へでも行ったのであろう。電報を打とうにも、住所を知らない。『鉄道案内』を繰ってみて、パディントン駅を午前五時三十分に出るので立とうときめ、そして彼は下宿の主婦にそう告げました。彼はその手紙を『鉄道案内』の中に入れたままにしましたので、しまいには他の書類の山の中につっこまれてしまって、彼はもう一冊また買わなければならなくなったのでした。彼は不注意で、不整頓なので、ウィンプ氏がソファの中に発見した鍵も、ウィンプ氏は愚かにも殺人後にここに隠したのだと推測したのですが、実は、後にコンスタント氏の借りたあの寝室に彼の住んでいた頃紛失し、そこに何年も転がっていたに違いないのです。なぜなら、それは彼の所有しているソファで、あの部屋からおろして来たのですし、ソファが色色のものを吸いこんでしまうのは人のよく知る所なのですから。汽車に遅れるといけないと思って、彼はその悩み多い夜、服を脱ぎませんでした。そうしている間に、ジェシはそんな手易い手掛りを残すような頭の悪い娘ではない事が彼の頭に浮びましたので、彼女がアメリカに家族を持っている兄の所へ行こうとしているのであり、デヴォンポートに行ったのは単に伯母に別れを告げるだけなのだ、という結論に彼はとびついたのでした。そこで、彼はデヴォンポートなどに行って時間を空費するより、リヴァプールに行って問い合せてみる事にきめたのでした。手紙が配達される迄に日の経っているのは知る由もないので、まだ引きとめられる時間がある、一番悪くても、波止場か艀の上でつかまえられる、と彼は思ったのです。不幸にして、乗った辻馬車が濃霧のためにゆっくり走ったので始発に遅れ、彼は二番列車まで、霧の中をやるせない心を抱きながら彷徨したのでした。リヴァプールで、彼の人目をひく興奮した振舞いは一時的の逮捕をもたらせました。それ以後、失踪した娘の事が彼の頭を離れず、彼の心身をさいなんでいるのです。これが率直に語った、全部の、欠ける所のない真相なのであります」  被告側の有効な証人は、実際に、数が少なかった。否定的な事を証明するのは極めて困難なことである。ジェシの伯母は、被告側弁護人の陳述を確証した。ユーストン駅をリヴァプール行の七時十五分の列車で彼の立つのを見た赤帽たちがいた。五時十五分のに一寸おくれて来たのも彼等は見て知っていた。彼を乗せてユーストンに行った辻馬車(二一三八号)の馭者は、彼(証人)は午前五時十五分に丁度間に合うつもりであったと述べた。反対訊問になって、この馭者は少々混乱した。彼は、もし本当に被告を四時三十分ごろボウ停車場で拾ったのだったら、ユーストンで始発に間に合う筈がないではないか、と問いつめられたのであった。霧のために、ややゆっくり走らせた、と彼はいったが、あの霧は全速力を出せる程度の見透しのきく霧であったと答えた。また彼は自分が強硬な組合論者である事も認めたが、それは勅選弁護士スピゴットが、まるでそれに最大の意義があるかのようにして、巧みにそう承認させてしまったのであった。最後に様々な――色々な職業や階級の――証人が現われ、被告の高い人格とか、コンスタントの一点の曇りもない道徳生活とかについて証言した。  公判の三日目、最終弁論で、チャールズ卿は検察側の主張の薄弱な点、含まれている仮定の多すぎること、それからその相互間の依存性について、徹底的かつ適切極まる指摘をした。ドラブダンプ夫人のような証人の陳述は極めて慎重に考えてから採択されなければならない。陪審員は、彼女が観察と推測とを分離できない点を記憶しなければならない。だから彼女は被告とコンスタント氏とが単に動揺していたからというので喧嘩をしていたと考えてしまったのである。彼は彼女の証言を分解し、それが被告側の述べる所を全く確証しているのを示した。彼は陪審員に向って、十二月四日の午前五時二十五分から午前七時十五分の間における被告の行ったとされている様々の複雑な動きについては、何等の確定的な証言(馭者のも他の人々のも)も出されていない点を頭に入れておいて貰いたいと頼み、また検察側の説に対する一番重要な証人――勿論、彼はダイモンド嬢を意味した――が喚問されていない点に留意をたのんだ。よし彼女が死んでいて、死体が発見されたにせよ、検察側の説に何等の支持を与えない事。なぜならば、恋人が捨てたと信じただけで、彼女の自殺は十分に説明されるから。あの意味の曖昧な手紙のほかには、彼女の不名誉――その上にこそ被告に対する訴因の大部分が依存している――の確証は何一つ例証されていない。政治的嫉妬による動機は単なる一時的の雲にすぎない。二人の男はその後親友になっていたのだ。いわゆる犯行の状況についていえば、医学的証言は全体として死の時刻が遅かったと見る方に傾いている。そして、被告はロンドンを七時十五分に出発しているのだ。催眠剤云々は愚かしい説で、あまりにも手のこんだ掛金と錠の仮説の方は経験豊富な科学的観察者であるグロドマン氏が一笑に附している。彼は陪審員各位に心から勧告する。もし彼等が被告を有罪なりとするならば、それは無辜の人間に最も薄弱な情況証拠に基いて不名誉な死を与える事になるのみならず、この国の労働階級から、最も誠心誠意の友の一人であり、また最も有能な指導者を奪うことになるのであることを、ぜひとも念頭に置かれるように、と。  チャールズ卿の大演説の結びは、制し切れない喝采で迎えられた。  勅選弁護人スピゴット氏は、検察側の訴因の結語として、被告に対して、いかなる文明国の年代記にもないほどの兇悪かつ計画的な犯罪として判決を下すようにと陪審員に頼んだ。被告は怜悧さと教育を持ちながら、ただそれをこの悪魔的目的にのみ利用し、自分の名声を人目を欺く外套として使ったのである。あらゆる物事は強く被告の有罪を指示している。彼女の恥とまた(恐らくは)自殺の意向を告げる手紙を受取ると、彼は急いで二階にあがって、コンスタントを責めた。それから女の下宿先に走って行って、そこで自分の最大の恐れが確認されると、彼はすぐさま悪魔のような精妙な復讐計画を立てた。彼は自分の下宿の主婦にデヴォンポートへ行くと告げた。これは万一失敗した時に、警察に一時的にも彼の足どりをさぐり損じさせようとするためなのである。彼の本当の目的はリヴァプールであった。なぜなら、彼は国外へ脱出する積りだったのである。だが、万一ここでも彼の計画が挫折すると拙いので、彼はユーストンを出るリヴァプール行の五時十五分に乗ると称して馬車に乗って、精妙なアリバイの手配をした。馭者は彼がそれに乗る意図を持たず、実はグラヴァ通り十一番に戻って、そこで罪行を遂行する積りであり、しかも邪魔をされないために、主婦には麻薬をのませてあったなどは夢にも知らなかったのである。彼がリヴァプールに(そこに彼は二番列車で行った)にいた事は、馭者の陳述を確証する。あの晩、彼は服も脱がず、寝床にも寝なかった。彼は悪魔的な計画を煉りに煉って遂に完璧なものにした。濃霧は思いがけない同盟者となり、彼の動きを隠すのに役に立った。嫉妬、傷つけられた愛情、復讐慾、政治的権力に対する慾望――こうしたものは人間的である。陪審員各位は被告を愍れむかも知れないが、彼がこの罪を犯さなかったと考えはしないであろう。  裁判長グロギは双方の申立てを略説するに当って、被告を非難し始めた。証言を再吟味しながら、彼は成程と思わせる仮説が手ぎわよく接合している場合には、必ずしも相互を弱めるものではない、と説いた。全体としてよく適合している場合には、むしろ各部分の信憑性を強めるものである。その上、検察側の主張は、被告側が仮説を全く排除しようとするのでない如く、必ずしも全部仮説のみにたよっているのではない。鍵、手紙、その手紙を提出するのが不承々々であった点、コンスタントと激論した件、目的地を被告が偽っていった件、リヴァプールに遁走した点、探している人物を偽って「彼」と称した点、コンスタントを誹謗していた点、こういうのはすべて事実にほかならない。一方、被告側の主張には様々の、隙間や仮説がある。被告がユーストンに午前五時二十五分にいた事に基く、何となく曖昧なアリバイは暫く譲歩するとしても、それから午前七時十五分までの彼の動きを説明するものが何一つない。彼がユーストン附近を徘徊していたのも可能であれば、ボウ町に帰った事も可能なのである。医学的証拠の中には彼の有罪を不可能にするものは一つもなかった。またコンスタントが美しい少女の誘惑に負けなかった事を証明する物事も何一つないし、自分が捨てられたと思っている勤労婦人が一人の紳士の魅力に屈し、その後ひどく後悔したという事をあり得べからざるものとする証拠も全くない。彼女がどうなったかという点は不可解である。河岸の粘土質の上に打ちあげられた無名の屍の一つに化していないものとも限らない。また、陪審員はぜひおぼえて置いて貰わなければならないのだが、二人の関係は守るべき垣を或いは越えていなかったのかも知れないし、ただこの女の良心に呵責を起させ、ああした行動をとらしめたのかも知れない。彼女の手紙が被告の嫉妬心を駆り立てただけで十分なのである。彼が陪審員の印象を深くしたがっている点で、検察側の主張の不十分な点が、もう一つあった。それは、このボウ町の怪異事件に関して提起された幾多の解決案のうち、被告が犯人だと見るのが唯一の妥当な案だ、という点であった。コンスタント氏が自殺を遂げたのでないのは、医学的証言で一致している。だから、誰かが彼を殺害したのに相違ない。彼を殺す理由か機会のあった人間の数は極めて少ない。被告は理由も機会も両方あった。論理学者のいう消失法を使えば、ほんの僅かでも証拠があれば、嫌疑は彼の上にふりかかるのである。実際上の証拠は強く、妥当性を持っている上、今のウィンプ氏の精妙な仮説によって、扉が一見内側から閉されていたかのように見せられる方法が判ったのであるから、最後の困難と、自殺説の最後の論拠はここに除かれたのである。被告の罪は、状況証拠としてはこの上もなく明瞭である。もし彼を放免してしまうならば、ボウ町の怪事件は未解決の殺人事件の古書録の中につけ加えられるより他に仕方ない。こういう風に、被告を殆んど全く死刑にきめてしまった後で、裁判長は被告側の主張にも強い確率のある事を強調し、もっともこれも、重要な要点は被告が弁護人に話した私的の陳述に依存しているのだが、と述べて論告を終った。陪審は、この頃までには彼の公平な態度ですっかり混乱させられていたが、正しい評決をきめる上には、あらゆる事実と確率に至当な考慮を払うように、という勧告を与えられた揚句に、別室にやられた。  何分か経ち、それが更に何時間にもなったが、陪審員たちは帰って来なかった。夜の影が、異臭の漂う熱っぽい法廷に落ちた頃、ようやく彼等は評決を下した―― 「有罪」  裁判長は黒ビロードの帽子を冠った。([#割り注]英国では判決を下す時これを冠る――訳者[#割り注終わり])  外で準備されていた大歓迎会は滅茶々々になってしまった。晩餐会は無期延期になった。ウィンプが勝った。グロドマンは鞭でうちのめされた野良犬のような気持になった。 [#5字下げ]11[#「11」は中見出し] 「矢張り貴方のいった通りだったんですな」一週間後グロドマンに会った時、デンジルはこういわざるを得なかった。「貴方がボウの殺人犯をどう発見したか書くまで私は生きていられなさそうだ」 「坐り給え」グロドマンが唸った。「だが、或いは君は生きているかも知れないよ」彼の両眼には危険な閃きがあった。デンジルは喋ったのを後悔した。 「君を呼びにやったのは」グロドマンがいった。「ウィンプがモートレークを逮捕した晩、私は君を逮捕する準備をしていたのを話すためなんだ」  デンジルは息がとまりかけた。「何のためにです?」 「デンジル、わが国には詩人を困らすために発明された小さい法律があるんだ。『美』の最大の代表者にも、八百屋に許されているのと同数の女房しか持てない事になっている。君がジェーンに満足していないのを責める気はない――女中としては役に立つが、色女としては拙いからな――だが、ジェーンが君に対して先取権のある事を話さなかったのはキティに残酷だし、キティとの関係を教えなかったのはジェーンに対して不実だぜ」 「今ではもう二人ともよく知っていますよ、あの女郎《めろう》どもは」詩人がいった。 「そうだ。君の秘密は君の仕事と同じだ――長くは保てない。わが哀れな詩人よ、僕は君を哀れむ――前門の虎と後門の狼に挟まれてね」 「二人は揃いも揃って人面夜叉《ハルピユイヤ》ですよ。重婚の咎で訴えるといって、それぞれダモクレースの剣を私の上にかざすんですからな。二人とも私を愛してやせんのです」 「定めし二人は君の役に立つことだろうね。一人を君は僕の家に住みこませて、僕の秘密をウィンプに喋り、もう一人をウィンプの家に入れて、ウィンプの秘密を僕に伝える積りだったんだろう。そうなら、何か少しは喋り給え」 「誓っていいますが、それは誤解ですよ。ジェーンが私をここに連れて来たんで、僕がジェーンを連れて来たんじゃありませんよ。キティの件では、彼女がウィンプの家に住みこんでいると知った時ぐらい私は驚いたことはなかったんです」 「探偵の傍にいれば君を逮捕させるのに便利だと思ったんだ。その上、彼女もジェーンと同様な地位にいたいと願ったのかも知れないしね。彼女だって暮して行く上には何かしなければならない。君は一寸も見てやらんし。だから、君はどこに行っても細君と鉢合せだ。ハハハ! 身から出た錆だよ、重婚詩人君」 「でも、なぜ僕を[#「僕を」に白丸傍点]逮捕しようとしたんです?」 「復讐だよ、デンジル。僕はこの冷たい散文的な世界で君の持ち得た最上の味方だったのだ。君は僕のパンを食い、僕の葡萄酒を飲み、僕の本を書き、僕の葉巻を吸い、僕の金を貰った。そのくせ、僕が日夜頭をくだいている殺人事件について大切な情報を手に入れると、君は平気で出かけて行ってウィンプに売るんだ」 「そ、それは違います」デンジルがどもった。 「嘘つけ! キティが僕に黙っていると思うのか? 僕は君の重婚を発見すると途端に、君を逮捕させる事にきめたのだ――君の裏切り行為を罰するために。だが、僕の考えていた通り、君がウィンプに誤まった手がかりをやったのが判った時、モートレークを逮捕して彼が生来の愚かさに輪をかけた醜態を世にさらすに違いないのが判った時、僕は君を勘弁する事にきめたんだ。僕は君を自由に地上を歩かせてやる事にした――飲んだくれさせてやる事にした。今は、ウィンプが勝ち誇っている――誰でも彼の背中を叩いて賞めそやしている――人々は彼をスコットランド・ヤード族中の白眉と呼んでいる。哀れトム・モートレークは死刑になる。それもみんな君がウィンプにジェシ・ダイモンドの事を喋ったからなんだ!」 「あれは貴方自身じゃないですか」デンジルが不機嫌な声を出した。「誰も彼もあの事件を投げていたんです。だが、貴方はいった。『アーサ・コンスタントの死ぬ前の二三カ月の行状をすっかり調べよう』と。ウィンプは放っておいても早晩ジェシの存在に行き当った筈ですよ。コンスタントが彼女に手を出したと知ったら、私は彼奴を絞め殺してやったでしょう」彼は見当違いの立腹を見せながら言葉を切った。  グロドマンはウィンプに今日の光栄を与えたのが自分自身の行為かと思うと癪にさわった。だが、ウィンプ夫人もクリスマスの晩餐の時に、同じ事をいっていたではないか。 「過ぎた事は過ぎた事さ」彼は嗄れた声でいった。「だが、もしモートレークが死刑になると決まったら、君はポートランド行だぞ」([#割り注]ポートランドには有名な監獄がある――訳者[#割り注終わり]) 「僕が何かすればトムが助かるんですか?」 「出来るだけ反対運動に手をかすんだ。いろんな名前を使って、あらゆる新聞に投書するんだ。知っている人間に一人残らず死刑反対嘆願書に署名して貰うんだ。ジェシ・ダイモンドの行方を探すんだ――彼女こそモートレークの無罪の証拠を握っているんだから」 「本当に彼が無罪と信じているんですか?」 「皮肉はよせ、デンジル。僕は集会という集会にみんな出ているじゃないか。僕ほど頻繁に新聞に投書している人間がいるか」 「あれはただウィンプを厭がらせるだけかと思っていましたよ」 「馬鹿をいえ。気の毒なトムを救うためなんだ。彼は絶対にアーサ・コンスタントを殺しはしなかった――君じゃないと同じだ!」彼は気味の悪い声をあげて笑った。  デンジルは別れを告げたが、恐怖に身もすくむ思いだった。  グロドマンの所には手紙や電報が山のように舞いこんだ。何となく彼は救助運動の総指揮格になって――様々な提案や運動費があらゆる方面から届けられた。提案は焼きすてられたが、寄附金は新聞に発表し、かの行方不明の娘の捜索費にあてられた。ルーシ・ブレントは真先に百ポンド寄附した。これは死んだ恋人の名誉に対する彼女の信用の立派な証明であった。  陪審員の解散と一緒に、それを批評する『大々陪審』([#割り注]民衆の声をさす――訳者[#割り注終わり])が自《おの》ずと生まれた。「英国人の自由の保護」の価値を無効にするあらゆる手段がとられた。陪審長や陪審員に面会が申しこまれ、裁判長は批判をうけた。そういう事をした人々はみんな裁判官ではない連中なのである。内務大臣は(就任以来何一つやっていない点で)猛烈な非難を受け、様々な田夫野人が女王宛に親展手紙を書いた。アーサ・コンスタントの暴落を知った人々の多くは、世間も自分達と同じように悪人ばかりであると自分達に思いこませ、大喜びした。それから裕福な熟練工たちはモートレークの邪悪を社会主義の結果だと見た。新しい解釈が十二通りも浮かんで来た。コンスタントは密教の摩訶不思議の法を使って自殺したのだ。証拠はブラヴァツキ夫人に凝っていたではないか。或る者は説いた。彼を殺したのは密教の聖者だ。或る者は、いや催眠術だ、メスマ式奪魂術だ、離魂病だ、その他いろいろの気味の悪い抽象的なものの犠牲になったのだ、と論じた。グロドマンの強調したのは、ジェシ・ダイモンドをぜひとも探し出さなければならない、という点であった――生死は問わずに、電波の流れは彼女の行方を求めて文明世界を馳けめぐった。この不屈の探偵が最後の希望を彼女の有罪に向けているのだろうと推測した頭のいい連中がいたのも不思議あるまい。もしジェシが不当な扱いを受けていたとしたのだったら、彼女が自分の手で復讐を遂げたとしても何の不思議があろう。かの詩人は、彼女を見るたびにジャンヌ・ダルクを思い出した、といってはいなかったか?  更に一週間がたった。絞首台の影は次第に濃くなった。影は容赦なく近づき、かくて希望の最後の光明は地平線の彼方に没した。内務大臣は折れようとしなかった。助命嘆願書に署名した無数の名前も、彼には効果がなかった。彼は保守党員で、無類の物堅い男であった。彼の頑固が死刑囚の政治的見解に基くのだという論が出た途端に、寛容な態度を示せば安価な人気が取れるという誘惑に対してなおさら硬化してしまった。ジェシ・ダイモンドを発見する機会が増す訳なのだが、彼は刑の執行の延期すら認めなかった。三週目に、最後の大々的な反対デモ大会が行われた。グロドマンは今回も議長席についた。有名な人気のある流行っ児連が数多く顔を見せたが、社会の名誉ある面々も数限りなく出席した。内務大臣は大会の決議文を受取った事を承認した。労働組合の態度は、賛否こもごもであった。或るものは信念と希望を囁いた。また或るものは組合費をこういう事に使うのは不当支出だと隠口《かげぐち》をきいた。賛同派は刑の執行が火曜日ときまったので、前々日の日曜日に一大デモ行進と蹶起国民大会を開こうと力説したが、自白したという噂が出て、お流れになった。日曜日の新聞には、証拠の薄弱さを暴露するグロドマンの堂々たる主張が掲載されたが、自白については何の記事も出ていなかった。被告は無口で尊大で、愛を失い、自責の念のみ残る生命には殆んど執着のないような態度であった。彼は牧師の面会を断った。看守の監視の下で、ブレント嬢に面会を許された。彼は彼女の今はない恋人の霊に敬意を払うことを厳粛に断言した。月曜日は蜂の巣をつついたように様様な噂が喧伝された。夕刊はその一つ一つを刻々記録した。誰もかれも激しい疑懼の念にうたれていた。かの娘が発見されるかも知れない。奇蹟が起るかも知れない。執行が延期されるかも知れない。判決が一等軽減されるかも知れない。だが、短い日は次第に暮れて夜となり、モートレークの短い余命の影は益々暗くなった。絞首台の影は次第々々に濃くなって、黄昏の空に姿を没し始めた。  クラウルは仕事も手につかず、店先きの戸口に立っていた。大きな灰色の双眼は流れ出ない涙に重かった。煤けた寒むざむとした道路は一つの広い墓地のように見えた。街燈の火は人魂のように吐息をついた。往来の雑音も彼の耳には別世界から響くとしか感じられなかった。冷たい侘しい夜の帳の垂れそめる中を、急ぎ足に去来する人々の姿も眼にはいらない。一つの怖ろしい幻影が、黄昏を背景にして、忽然と閃き、また消え、また閃いた。  そばにデンジルが莨を吸いながら黙って立っていた。冷たい恐怖が彼の胸をおびやかしていた。あのひどいグロドマンの奴! 刑吏の手で紐がモートレークの頸の周囲をしめているように、彼は囚人の鎖が自分の身体のまわりに締まって行くのを感じた。だがしかし、往来の向うに明滅する黄色い街燈の火のように弱かったけれど、一縷の希望はまだあった。グロドマンはこの日の午後遅く、死刑囚と面会を許された。その別離は辛いものであったが、続いてこの元探偵長と会見した夕刊は、ポスターに麗々しく書いた。 [#ここから3字下げ] 「グロドマン依然望を捨てず」[#「グロドマン依然望を捨てず」は1段階大きな文字] [#ここで字下げ終わり]  それで、この敏腕の士にまだ希望をつないでいた数千の人々は、最後の希望の火花を消すことを肯じないのであった。デンジルはその新聞を買って、むさぼるように読んだが、そこにはただ、不撓不屈のグロドマンが依然として、哀れに感じられるほどの念で奇蹟の到来を期待している、という曖昧な保証しか書いてはなかった。デンジルはその期待が信用できなかった。彼は逃亡の策を考えた。 「ピータ」彼はついにいった。「残念だが、もう駄目だね」  クラウルは頷いた。胸は裂けんばかりである。「もう駄目だ!」彼は鸚鵡がえしにいった。「そして、彼が死んでしまえば――もう――全部駄目なんだ!」  彼は絶望的な眼で、空虚な冬空を見上げた。鉛のような雲がたれこめて、星影一つみえない。「気の毒に。まだ年も若いのに! 今夜は生きていて、考えている。明日の晩は、一片の革のように、感覚もなく運動もしない一つの肉塊になってしまう! あの若盛りに精力盛りに、罪なく殺されても、何の償いも与えられないのだ! 日夜、『有用』を説き、苦労して仲間のために働いた男なのに。正に不当ではないか! 実に不当な話ではないか!」彼は凄じい勢で喚いた。またもや彼の濡れた双の眼は天上を見上げた。地球の反対側から昇った死せる聖者の霊魂の、無限の空間を疾行しつつあるあの天である。 「だが、アーサ・コンスタントも何も悪い事をしていなかったとしたら、彼の場合だって不当だったのじゃないか」デンジルがいった。「全くの話、ピータ、なぜ君がそうトムだけがひどく不当な扱いを受けたのだと決めてしまうのか、僕には判らんね。君の賞める、手の荒れた労働運動家は、要するに、審美学的な洗煉の士ではなく、『美』に対する感覚も欠いているのだ。そういう連中が粗野な形式の犯罪を全くやる筈がないと断定するのは無理だぜ。人類は別の種類の指導者を求めなければならない――予言者を、詩人を!」 「キャンタコット、君がトムを有罪だというなら、殴り倒すぞ」小柄な靴直しは、狩立てられた獅子のような勢いで、背の高い友人に向き直った。それから、こう附け加えた。「すまない、キャンタコット、今のは本気ではないんだ。結局、僕のいう事にも根拠はない。あの裁判長は廉正な男で、僕などの持ちあわせていない才能もある。だが、僕は心の底からトムを信じているのだ。そして、もしトムが本当に殺したのだったとしても、僕は依然として全幅の信頼を『人民の大義』によせるものなのだ。詰らん流行物は死の運命を持っている。命はのびるかも知れないが、結局は死ななければならないのだ」  彼は深く息を吸い込んで、荒涼たる大通りを見渡した。もう相当暗くなっていたが、街燈や店々の飾窓のガス燈の光に、単調な|大通り《ロード》は見馴れた穢苦《きたなら》しい全貌を見せて横たわっていた。限りなくのびる冷たい舗道、いかつい建築物、それから散文的な流れをなして引きもきらぬ歩行者の列がみえる。  自分の存在の全く無益な自覚が、突然、この小柄な靴直しを凍った風のように刺し通した。彼自身の生命、それと同じような数千億万の生命が、薄黒い太洋の水泡のように、誰一人顧みることなく、かつ生じ、かつ消え去って行くのを見たのである。  新聞売子が、「ボウ町殺人犯、死刑執行の準備なる!」と喚きながら通りすぎた。  靴直しの五体は怖ろしい戦慄にふるえた。双眼は売子の姿を追ったが、姿は見えなかった。ありがたや、ついに涙は両眼に一杯になったのである。 「『人民の大義』」彼は咽ぶようにいった。「僕は『人民の大義』を信奉する。ほかには何一つないんだ」 「ピータ、お茶だから中におはいり。風邪を引きますよ」クラウル夫人がいった。  デンジルが茶を飲みに中にはいったので、ピータもそれに続いた。      *     *     *  その頃、内務大臣は丁度在宅であったが、執行延期の第一声をきこうものと邸のまわりに集まった群集は益々数をふやしていった。  邸は厳重な警官の垣で守られていた。群集がいつ暴動化しないものとも限らなかったからである。時々、群集の一部が唸ったり罵ったりした。一度などは、窓をめがけて投石の一斉射撃が行われた。新聞売子は特報を売るのにいそがしく、記者連は群集の間をわけながら鉛筆をひっきりなしに動かしていたが、いつ何時《なんどき》でも「超特報」的ニューズの突発し次第、電信局さして駆け出せるような態勢をとっている。その間に電報配達人が、或いは威嚇、声明、請願、勧告と、性質こそ違え、全国から発せられた電報を運んで来る。当の内務大臣は気の毒にも、痛む頭を冷静に保とうと努めながら、嵩張った証拠文書に最後の眼を通し、また問題を一層不明にするためかのように「大々陪審」から送られたもっと重大な手紙を読んでは沈思黙考していたのであった。グロドマンが朝刊に出した投書が一番彼をぐらつかせた。彼の科学的な分析[#「分析」は底本では「分折」]のもとに、状況の鎖は彩られたボール紙細工のように見えた。それから、この哀れな男は裁判長の要約を読んだが、そうすると、鎖は錬えぬいた鋼で出来ているように見えた。外の群集の喧騒が、遠い海の潮騒のように、書斎の彼の耳朶をうった。野次馬が騒げば騒ぐほど、彼は生と死の天秤を用心深く捧げ持とうと努めた。また群集は益々その数を増した。一日の勤務を終った連中が合流したのである。死の顎《あぎと》の間に横たわっている男を愛している者が多かった。そして彼等の胸には狂ったような反抗心が波立っていた。それから、空は灰色で、荒涼たる夜は更け、絞首台の影は益々濃くなって行った。  突然、何やら判らない不思議なざわめき[#「ざわめき」に傍点]が群集の間にひろがって行った。誰も何だか知らない曖昧な囁きであった。何か起ったのだ。誰かがやって来るのだった。やがて、群集の外側の一角が動揺し始め、痙攣するような歓声がそこから湧き上がったと見ると、たちまちそれは往来全体に伝わった。群集が道をあけた――辻馬車がその真中を走り抜けた。「グロドマンだ! グロドマンだ!」乗っていた男の姿を認めた連中が叫んだ。「グロドマン! 万歳!」グロドマンは平静な顔つきで、頬は蒼ざめていたが、眼は爛々と輝いていた。辻馬車が、まるで水を切る独木舟のように群集の騒ぐなかを乗切って入口に着くと、彼は鼓舞するように手を振った。グロドマンは飛び降りた。玄関にいた警官達は敬意をこめた態度で通り道をあけた。彼は命令するかのように扉を叩いた。扉は用心深く開かれた。配達人が駆けつけて、一通の電報を配達した。グロドマンは、押入るように中にはいり、自分の名をつげ、生死の問題でぜひ内務大臣に会いたいと告げた。入口附近にいた人々は、彼の言葉がきこえたので喝采を送った。それで群集は善い前兆なのだと推測して、あたりの空気をゆるがす歓喜の声が、次々にとあがった。グロドマンが中にはいって、扉が閉ったが、歓声はなおも彼の耳をうった。新聞記者連が正面入口に殺到した。興奮した一団の労働者が、今や動きもとれないでいる辻馬車をかこみ、馬を離して外に曳き出した。十二三名の熱心な連中が、轅《ながえ》の間にはいる名誉を得ようと争った。そして、群集はグロドマンを待ったのである。 [#5字下げ]12[#「12」は中見出し]  グロドマンは小心翼々たる大臣の書斎に通された。余人なら別だろうが、反対運動の大立物であっては追いかえす訳にも行かなかったのであろう。彼が書斎にはいって行くと、内務大臣の顔には安堵の色が湧いたようであった。大臣が合図したので、今しがた電報を持って来た書記は、それを再び受取って、自分がいつも事務をとっている外側の部屋へ帰って行った。いうまでも無い事だが、大臣宛の手紙は普段は全部の十分の一も直接彼の眼にはふれないのである。 「わざわざ見えたのは、何か相当の理由がおありなのでしょうな。グロドマン君」内務大臣は殆んど陽気といっていい位の調子でいった。「無論、モートレークの件ですな?」 「そうです。そして私は最上の理由を持っているのです」 「お掛け下さい。承りましょう」 「無礼をお咎め下さらないように願っておきますが、貴方は証拠の科学に対して十分お考えになった事がありますか?」 「どういう意味なのですか」内務大臣は大いに当惑した[#「大いに当惑した」は底本では「大い当惑した」]面持で尋ねたが、憂欝そうな微笑と共につけ加えた。「最近は大いにそれを考えさせられたです。勿論、私は前任者の或る人々のように刑事訴訟にたずさわった経験はないのです。しかし、私はあれを科学とは呼びたくないと考えているのです。私は常識の問題だと考えているので」 「失礼ですが、あれは科学のうちでも、最も微妙かつ困難なものなのです。全くの所、これは科学中の科学といわれて然るべきなのです。帰納的論理学、つまりベーコンやミルの築きあげたこの論理学を、大づかみにいえば何でしょうか。証拠の価値を評価しようという試みではございませんか。創造主の残した痕はいわば証拠でしょうから。創造主は――あえて私は尊敬の念をもって申すのですが――われわれの注意をそらす無数の偽りの手がかりを描いたのですが、真の科学者は、自然界の秘密を探る上に、外観に迷わされるような事はしないのであります。愚昧な大衆は表面に見える大きい事実にとびつきますが、洞察力のある人物は偽りの表面の底に何が横たわるかを知っているのであります」 「大変興味あるお話ですが、グロドマン君、実は――」 「もう少し御辛抱願います。証拠の科学はこういう風に、極めて微妙であり、事実の観察に対する最も鋭い訓練と人間の心理に対する最も深い理解とを要求しますが、当然の事ながら、その取扱いは『物事は外見通りではない』という事に全く気のついていない、また万事は外観とは全く違う、という事を知らない教授連に委ねられるのです。そういう教授連の大部分は、店の帳場や机に長年かじりついていた結果として、物事や人性の無限の色合いや複雑さのすべてに対して親密なる関係を体得しているとされているのです。こういう教授連が十二名、一つの桝に入れられると、これは陪審員と呼ばれます。こうした教授の一人が単独で一つの桝に入れられると証人と呼ばれるのです。証拠の小売り――事実の観察――が、全く事実に対して眼のない大衆に与えられるのです。証拠の評価――こうした事実の判断――は、砂糖の目方でも計るのには精通していそうな人々の手に渡されます。観察すること、或いは判断を下すこと――この両方の機能を果すことが全く出来ない点とは別な話ですが――彼等の観察と判断は共に、あらゆる種類の見当違いの偏見にみちているのです」 「陪審裁判制度を攻撃なさるのですな」 「必ずしもそうではないのです。私はこの制度をば、科学的な意味で容認する用意があるのです。その根拠は、通例、評決は間違っているか正しいか二つの内の一つなのですし、正しい評決の与えられる確率の方が些少ではあれ多い様子なのですから。それに反し、私自身のような熟練した者が証拠を取りあげた場合には、陪審をして訓練を受けた眼を通して物を見せしめることが出来るのです」  内務大臣はもどかしそうに片足で床を軽く叩いた。 「抽象論を伺っている暇はないのです」彼はいった。「何か新しい確実な証拠をお持ちなのですか」 「万事はまず物事の根本をつく事に依存しているのです。証拠にも色々ありますが、そのうちで、完璧な、明白な、純粋な、ありのままな事実、すなわち『真実、全くの真実、すべて真実』は、全体の何パーセントぐらいあるとお思いですか?」 「半分ぐらいですか?」大臣は少し機嫌を直していった。 「五パーセントもないのです。私は記憶の喪失とか、生来の観察力の欠陥とかは勘定に入れていないのです――重要な公判で、普通の証人が述べる時、何年も以前に起った事柄に関する日附や出来事を、彼等が怪しいまでに正確に記憶しているのは、近代の司法界の怪奇のうちでも最大の驚くべきものの一つではないでしょうか。失礼ながら伺います。前の月曜の正餐に何を上ったか、前の火曜日の午後五時に貴方が何をおっしゃり何をなさっていたか私にお話しになれますか。機械的な生活をしている者でない限り、そういう事は出来ません。無論、そうした事実が極めて印象的であった場合は別です。しかし、これは余談です。正直な観察に対する大きな障害は、視覚における先入感なのです。貴方は、われわれが人間を一度以上は決して見ない[#「見ない」に白丸傍点]、という事にお思い当りになった事がありますか? 最初に人に会う時には、おそらくわれわれは、ありのままにその人を見るのでしょう。二度目には、われわれの視覚は最初の時の記憶で彩色されまた修飾されているのです。われわれの友人は、果して他人の眼にうつるのと同じ姿でわれわれの眼にうつっているのでしょうか。自分の部屋、家具、パイプなどは、それを始めて見る外部の人の眼にうつるのと同じにわれわれの眼にうつるのでしょうか。母親には自分の赤児の醜さが見えるでしょうか。恋する男には、よし面と向かい合っていても、女の欠点が見えるでしょうか。自分自身を、他人が見るのと同じ眼で、見る事が出来るでしょうか。出来ません。習慣や先入感がすべてを変えてしまうのです。心はいわゆる外的事実の大きな要素なのです。眼は、時として正しく見ますが、それも特に正しく見ようとする場合に限るのであって、大部分の場合には、あらかじめ期待している通りにしか物をうつさないのです。私の論理がお判りでございますか?」  内務大臣は前ほどじれない態度で頷いた。彼は興味を感じ始めていたのである。外の騒音が時々微かに二人の耳を打った。 「動かない実例を申しあげましょう。ウィンプ君はいいます。私が十二月四日の朝、コンスタント氏の部屋の扉を押しあけた時、掛金の釘壺がさし金に押されて木の部分から外れているのを見て、私が掛金をこわしたのだという結論にとびついた、と。これがそうであるのを、只今私は認めます。ただ、こういう場合、人は結論[#「結論」に白丸傍点]などを求めるのではなく、途端にそれを見る[#「見る」に白丸傍点]か、見たつもりになるものなのです。一方、火のついた棒を振り廻して作り出す動かない火の輪を見ている場合、われわれは、その火の輪が継続的に存在しているとは信じない[#「信じない」に白丸傍点]のです。手品師の演技を見ている場合にも同じです。諺とは違って、見ることは信じることにはならないのです。けれど、信じることは往々にして見ることになります。ウィンプは以前から事毎に、惨めな救うべからざる錯誤を犯しているのですが、この扉に関する小さな事柄でも、同じなのです。あの扉にはしっかりと掛金がかけてありました[#「ありました」に白丸傍点]。しかしながら、私は白状いたしますが、あらかじめそれがこわしてあったとしても、私は自分が押し破った時にこわしたのだと思ったに相違なかったのです。ウィンプがこういう巧妙なこじつけ[#「こじつけ」に傍点]を持ち出すまでは、十二月四日以後一度たりといえども、こうした事の可能性は私の頭に浮んでは来なかったのです。もしも、観察することに訓練を積み、さらに人の心の払拭し得ないこの傾向について十分に自覚した者にして、この通りであるとするならば、訓練を受けた事のない者が見た場合には、どうであった筈でしょうか?」 「要点をいい給え。要点をいい給え」内務大臣は、卓上のベルを押したくてたまらないかのように手を伸ばしながら、いった。 「たとえば」グロドマンは冷静な調子で続けた。「たとえば――ドラブダンプ夫人です。あの立派な女は、何度扉を叩いても、起してくれるように頼んだ下宿人を起す事が出来なかったのでした。彼女は狼狽して、往来を駆けて渡り、私の所に助力を求めに来ました。私は扉を押し破ったのですが――あの善良な女性は何を見るのを期待していたとお思いですか?」 「コンスタント氏の殺された姿、なのでしょうな」内務大臣は不審そうにいった。 「その通りです。そして、彼女はその通りを見たのでした。それから、私の乱暴な努力に扉がついに押し破られて開いた時、アーサ・コンスタントはどんな状態にあった、とお思いになりますか?」 「だって、死んでいたのでしょう?」内務大臣は喘ぎながらいった。胸は激しく鼓動し始めた。 「死んで? あんな若い、健康な男が、ですか! 扉が押し開かれた時、アーサ・コンスタントは安らかに眠っていたのです。それは、勿論、ごくごく深い眠りでした。さもなければ、あれだけ叩いたのですから、ずっと前に眼をさましていた筈なのです。しかし、ドラブダンプ夫人が彼女の下宿人の冷たく硬直した姿を描いていた、その間《かん》、あの気の毒な青年は寝台に横たわって、心地よく温々《ぬくぬく》と眠っていたのでした」 「というと、君の発見した時、アーサ・コンスタントは生きていたのですな」 「貴方が昨夜そうであったように」  大臣は、口を開かないまま、その状態を理解しようと、混乱した頭を絞った。外では群集は再び歓声をあげていた。待ちあぐんだ揚句の暇潰しなのであろう。 「では、彼はいつ殺されたのです?」 「その直後です」 「誰の手で?」 「それは、失礼ながら、あまり頭のいい御質問ではありませんな。科学と常識は始めてここに一致を見せています。消去法を使って御覧なさい。それはドラブダンプ夫人か私か、どっちか以外ではない筈です」 「では、ドラブダンプ夫人が――!」 「お気の毒ですな、ドラブダンプ夫人、自分の国の内務大臣からこんな事をいわれる筋はないのに! あの善良な女性に、気の毒な!」 「君[#「君」に白丸傍点]だったのか!」 「落ついて下さい、親愛なる内務大臣。何も狼狽なさる事はありません。あれはただ一つだけの実験だったのですし、私も再び繰かえす意図は持っていないのです」外の雑音は一層やかましくなって来た。「グロドマンに万歳を三度おくろう! ヒップ、ヒップ、ヒップ、フーレー!」という声が微かに二人の耳をうった。  だが、顔色蒼ざめ深く感動した内務大臣は、ベルを押した。内務大臣の秘書が現われた。彼は顔には出さなかったが、親方の動揺した顔つきを見て、内心驚いていた。 「書記を呼んで頂いてありがとう存じますな」グロドマンがいった。「丁度、ここに呼んで頂こうと思っていた所なのです。速記がお出来と思いますが」  大臣は頷いた。言葉一つ発し得ない。 「結構です。私はこの陳述をば、私の著書の『私の捕えた犯罪者たち』の第二十五版――いわば銀婚式ですな――の附録の草稿としたい積りなのです。デンジル・キャンタコット氏を私は今日作った遺言中に私の文筆上の執行者に任命したのですが、彼は私の著書の他の章と同じ筆法で、文学的また劇的な手法を使って、これを書き直す任務を課される訳です。彼が、文学的見地からいって、貴方が法律的なそれから見て疑いもなくなさって下さるのと同様、立派にこれを仕上げてくれるであろう点、私は全く信頼している次第なのです。必ずや彼は他の章と等しい完璧な文で書いてくれる事と私は信じているのです」 「テンプルトン」内務大臣が囁いた。「この男は気が狂っているのかも知れん。ボウ町の大怪奇事件を解こうと努力した結果、頭が混乱してしまったのだろう。だが」彼はここで声を大きくした。「彼の陳述を速記で取っておいた方がいいだろう」 「ありがとう存じます」グロドマンは心から嬉しそうであった。「用意はいいですか、テンプルトンさん? では始めます。私がスコットランド・ヤードの探偵部を辞めるまでの経歴は、広く世界の知る所です。これでは早すぎますか、テンプルトンさん? 少し? では、もっとゆっくり喋ります。また早くなりすぎたら、注意して下さい。辞任して見ると、私は自分がまだ独身である事を発見しました。しかし、結婚するにはもう遅すぎました。時間が余って、退屈千万です。私の著書『私の捕えた犯罪者たち』の準備で何カ月か、私は時間を潰すことが出来ました。それが出版されてしまうと、もうあとは考える以外、何一つ用事のない身となってしまったのです。私は金は沢山あり、それは安全に投資されていました。投機などの誘惑は私は感じませんでした。未来は私にとって無意義なものと化しました。私は死ぬまで公務についていなかったのを残念に感じました。身を持ち扱いかねる老人の常として、私も過去に生きました。私は昔の手柄を繰返し繰返し思い出しました。自分の本を何度か読み返しました。こうして、実際の犯人追跡から離れて、考え抜いていますと、事実も以前より正しい釣合で見られるようになり、そのうちに、犯罪者というものはただの悪漢よりも余程愚かなものであるということが、日ましに明らかに判って来たのでした。私の捜査に当った犯罪は、どんなに巧妙に企んだものといえ、一つ残らず、発覚し得るという観点から見れば、実に弱い失敗の計画なのでした。痕跡も手がかりも、四方八方に残されています――或る物は仕上げが拙く、また或る物は磨きが足りないのでした。約言すれば、手際が悪く、芸術的な完璧さに欠けているのです。一般の世俗には、私の功績は世にも目覚ましい物であったでしょう――普通の人は簡単な暗号文の中から、e《イー》の字を探し出す方法などでも途端に感心してしまうのですが――私にとっては、そんな事はそうした犯罪と同じく極めて平々凡々たるものに過ぎないのでした。こうして証拠の科学の研究に一生を捧げて見ると、私は全く発見し得られる気遣いのない犯罪をば、一つどころではなく実に一千でも実行できるようになったのです。それなのに、犯罪者どもは旧態依然たる手法で罪を犯しては、自分から発覚の道を辿っているのです。独創性もなければ、思いつきも鈍く、独特の洞察力もなく、目新しい案もないのです! 世間では四万の肱かけ椅子を具えた犯罪大学でもあることと想像するでしょう。かくて、次第々々に、私はこういう事を考えているうちに、全く探偵し得ない犯罪をば一つ自分の手で実行してみたい欲望が湧いて来たのでした。私はそうした犯罪方法なら何百でも考案でき、それを遂行する所を想像してはみずから慰めていたのでした。だが、実際にやって見て果して巧く行くであろうか。とにかく、私の実験を演じる者は私ただ一人でなければいけない。主題は――誰にしようか、何にしようか? それは時のはずみ[#「はずみ」に傍点]が決めてくれるだろう。私は殺人を手始めにやってみたくて堪らなくなったのです――どうせやるなら一番難かしい仕事と取りくんで、そして全世界を驚かし、かつ欺いてやりたくなったのです――なかんずく、もう私の属していない世界をば。外見は、私は冷静を保ち、自分に関しては従来通りの有様で人に語っていました。内心では、私は科学的熱情に駆られていたのです。私は気に入った策を立てては、会う人ごとにそれを心の中で当てはめ、悦に入ったものでした。友人であろうと知人であろうと、会って雑談を交す相手があれば、必ず私は何の痕跡も残さずに殺害する方法をたくらんだものなのでした。心の中で殺してしまわなかった友人や知人は一人もないのでした。官公吏の大物で――御心配なさらんで下さい、内務大臣閣下――私が秘かに、誰にも判らないように、悟られないように、発覚しないように、暗殺する案を立てなかったのは一人もいなかったのです。私がやれば、陳腐な犯罪者どもよりどんなに優れた手際が見せられた事でしょう――あんな、古くさい動機や、ありふれた手口や、在来のやり方を使う、例の芸術的感情や自制力もない連中と較べて」  群集はまたもや喝采し始めた。見物人たちは焦《じ》れてはいたが、便りのないのはいい便り、なのだ、と感じていた。内務大臣が助命委員会の議長に許す会見の時間が長ければ長いだけ、彼の頑固さは融けて行く筈だ。民衆の人気者は救われるに相違ない。「グロドマン」と呼ぶ声と「トム・モートレーク」と呼ぶ声は、歓呼の声の中に相半ばして混った。 「故アーサ・コンスタント氏が」偉大な犯罪学者は続けた。「殆んど私の家の真向いに越して来ました。私は伝手《つて》を求めて彼と知りあいになりました――彼は愛すべき若者で、実験台には持って来いだったのです。彼ほど私の心を捕えた人物は一人もありませんでした。最初に彼と対面した瞬間から、私達二人の間には特異な共感が交流し始めたのでした。私達は互いに惹かれました。私は本能的に、この男に限ると感じたのです。私は彼が熱心に人類愛を説くのを聴くのを楽しみにしました。私は人類の愛は、猿に、蛇に、虎に対してのみある事を知っていたのでしたが――彼は自分自身に課した任務に多忙な時間を僅かでも裂いては私と語るのを喜びとしているもののようだったのです。人類がこんな貴重な生命を奪われたのは残念でした。が、如何ともなし得なかったのです。十二月三日の夜の十時十五分前、彼は私の所へ来ました。もとより、私はこの訪問については、検屍審問の時にも公判の時にも、何もいいませんでした。彼の訪ねて来た目的は、或る一女性の事について不思議な相談をすることなのでした。彼は竊《ひそ》かにその女に金を貸したのです――都合のつく時に返金すればいい約束で。その金の使いみちは彼は知らなかったのですが、何がなしに彼の勧めた克己心の発揮と関係のありそうな事を彼は察していたのでした。その娘はそれ以来姿を消し、彼は彼女の身の上を案じているのでした。彼はその女が何者であるか語りませんでした――勿論、今では貴方も私同様に、それがジェシ・ダイモンドであったのがお判りでしょう――が、どういう風にして捜せばいいのか方針を授けてくれと頼むのでした。彼はモートレークが翌朝の始発でデヴォンポートへ立つといいました。昔の私ならば、この二つの事実を結合して、糸口をつかんだ筈です。が今や、彼の語るのをきいている内、私の考えは赤く染められて行ったのでした。彼が歯痛に悩んでいるのが目に見えて判りましたので、私が同情の言葉を与えた所、彼はそのために殆んど夜も眠れないのだと答えたのでした。あらゆる点で、私の気に入った仮定の一つの実験にお誂え向きでした。私は親身な口調で話しながら、その女に関してはかなり漠然とした忠告を与えながら、(明朝は電車従業員大会に出て働かなければならないのだから)今夜は眠り薬をのんで、ゆっくり一晩ねむるように説きふせたのでした。私は小瓶に入れたスルフォンメタンの適量を彼にやりました。それは消化を害せず、長時間に亘って睡眠をもたらす新薬で、私自身も使っているのでした。彼はこの薬を間違いなくのむ約束をしました。そして私はその他に、隙間から寒い冬の夜風が部屋にはいるといけないからといって、扉や窓には鍵も掛金もキチンとかけておくようにと、真面目な顔で勧めたのでした。私は彼が自分の身体を粗末に扱う点を諫めたのでしたが、彼はいつもの上機嫌な優しい調子で笑い、万事私の忠告通りにすると約束したのです。そして彼はそうしました。彼を起しても起きなければ、ドラブダンプ夫人が「人殺し!」と騒ぎ立てるに相違ない点、私は確信がありました。彼女はそういう質《たち》なのでした。チャールズ・ブラウン=ハーランド卿までがいわれた通り、彼女は自分の抱いている先入観をばしばしば事実であると考えてしまい、自分の推論をば観察だと信じてしまうのでした。彼女は、何でも未来は暗澹たるものだと予測するのです。ドラブダンプ夫人の階級の女は大部分、彼女と同じ行為をしたに違いないのです。彼女はまた、「暗示」の素晴らしくよく効く特殊の標本なのでしたが、一般に婦人ならば誰でも私は同じ効果がだせたろうと信じています。ボウ町の大怪奇事件の鍵は女性心理なのです。鎖の中で唯一の不確実な環は、果してドラブダンプ夫人が私の所に駆けつけて扉を開けてくれと頼むだろうか、という点なのでした。女はいつでも男の力を借りに駆けつけます。私はまず殆んど一番手近かにいる男でしたし、あの通りでは絶対に一番権威のある男でしたから、まず間違いなく来るものときめていたのです」 「でも、もし彼女が来なかったらば?」内務大臣はこう質問せざるを得なかった。 「その場合は、殺人を行わないまでの事なのでした。そのうちにアーサ・コンスタントは自分で目を覚ましたであろうし、或いは誰かほかの男が扉を叩き破って、彼の眠っているのを発見した筈です。何の害もなく、誰も真相を知る由もないのです。私はあの晩、自分もよく眠れなかったのでした。これから実行する非凡な犯罪――ウィンプが果して犯罪方法を探知できるか否かという燃え上る好奇心――一生涯を通じて接触を続けながらも、彼等の心中の激しい喜びを親しく味う事のなかった殺人者の感情を頒ち合う見込み――深く眠りすぎてしまってドラブダンプ夫人のノックを聴きはぐりはしないかという恐怖――こうした事が私を興奮させ、休息を妨げたのでした。私は哀れなコンスタントの最期に関する細かい点を計画立てながら、輾転反側したものでした。時間は仲々経過せず、私が様々に悩むうちに、漸く霧の深い暁がやって来たのでした。私は気が気ではないのでした。結局、私は失望に終るのではないか? やっとの事で、待ちに待ったノックがきこえました――殺人のノックの音です。あのノックの音の木魂は今でも私の耳に残っています。『さあ来て彼を殺せ!』私はナイトキャップを冠った頭を窓から出し、行くまで待つように彼女に告げました。大急ぎで服をきると、私は剃刀を懐中して、筋向かいのグラヴァ通り十一番地へと行ったのでした。アーサ・コンスタントが頭を両手の上にのせて眠っている寝室の扉を押し破る途端、私は、何か怖ろしい光景でも見たかのように、『何と!』と叫んだのでした。ドラブダンプ夫人の眼の前に、血のような、霧のような物が立ち登ったものです、彼女は一瞬間怯み(この動きは私は実際に見たのではなく推測なのですが)怖ろしい光景を見まいとして手で顔を覆いました。その瞬間、私は切ったのです――正確に、科学的に。切り方が十分に深く、兇器を抜く速度も十分に早かったので、剃刀には殆んど一滴の血もつきませんでした。それから咽喉から血がほとばしり出たのですが、ドラブダンプ夫人は、怖ろしい創口ばかりに気を奪われていたので、血の出ている方は眼には留まっても心には留まらなかったのでした。私は痙攣的な歪みでも起るといけないと思って、急いでハンケチで彼の顔を覆いました。しかし、医者の証言にもあった通り、死は即座に来たのでした。私は剃刀と空の睡眠薬の瓶を懐中にしまいました。ドラブダンプ夫人のような女しか見ている者はないのでしたから、私は好き放題な事が出来ました。私は窓が二つとも掛金で閉ざされている事を彼女が私の注意を惹くように仕向けました。時に、ある愚か者は、警官が来て見ると窓は一方にしか掛金がかかっていなかったから、証言に矛盾があるなどと思ったのでしたが、それは私が応援を求めるために開けた後で、何気ないさまを装うために、故意に掛金をかけないでおいたのを忘れたからなのでした。当然の事ですが、私はかなりの時間が経つまで応援を求めませんでした。まずドラブダンプ夫人を落ちつかせなければならず、ノートを取るふり[#「ふり」に傍点]をしなければならず――昔とった杵柄ですからな。私の目的は時を稼ぐ事でした。私は死体が相当冷たくなり硬直してから発見して貰いたかったのですが、尤もこの方には余り危険はないのでした。なぜなら、医学的証拠でお判りだったように、死の時刻は一二時間の差は判らないものなのです。私がはっきりと死の時刻はつい最近であったろうと述べたため、すべての嫌疑は私をそれてしまい、ロビンソン医師ですらも無意識のうちに私の言葉に左右されて、死の時刻を判断する時に、私が現場に現われる前に起ったという知識(ここに?をつけて下さいよ、テンプルトンさん)に基いてしまったのでした。 「ドラブダンプ夫人の件《くだり》を終る前に、一こと触れておきたい点があるのです。今までこうして辛抱強く、科学中の科学に関する私の講演をおきき下すった以上、最後までおきき願える事と存じますが、ドラブダンプ夫人が三十分寝すごした事に、相当の重要性があるように論じられています。それは、(これも大いに責任を負わされている罪もない霧と同様)これは純粋に偶然かつ見当違いの話なのでした。帰納的論理の場合には、一つの現象のうちの状況の一部の或る物のみがその本質なのであって、偶然に関連し合っているのだ、という事は十分に承認されています。常に、現象とは何の直接関係のない異分子的な附随物の部分があるのです。しかしながら、証拠の科学の認識がまだ極めて粗雑なため、検査をしている一つの現象のうちのあらゆる[#「あらゆる」に白丸傍点]景相は同じ重要性を帯びる物とされてしまい、証拠の鎖に結びつけて考えられてしまうのです。あらゆる物を説明しようとするのは科学者の常なのです。霧とドラブダンプ夫人の寝忘れた事は、単なる偶然なのでした。いつの場合にもこうした筋違いの附随物があるので、真の科学者は、こうした(いわば)化学的に不関連な細部の要素を、常に考慮に入れているのです。私にしてさえ、モートレークが嫌疑の網にかかってしまうような不幸な一連の偶発的諸現象は勘定に入れていなかったのでした。他方、私の召使のジェーンが、いつもは十時に帰って行くのに、十二月二日の晩に限って数分早く帰ったため、コンスタントの来訪を知らなかったというのは、これは事件と関係のある偶発事件なのでした。事実、芸術家や編集者の技術は主として何を除くかを知るにあるように、科学的探偵の技術はどの細部を無視するかを知る点にあるのです。約言すれば、あらゆる事を説明するのは行き過ぎです。そして、行き過ぎは不足より悪結果をもたらすのです。 「私の実験に戻りましょう。私はかくまで見事に成功するとは夢想もしていなかったのでした。誰一人として、真相の一端もつかむ者はなかったのです。ボウ町の大怪奇事件の不可解な性質は、全ヨーロッパと文明世界の最も鋭い頭脳の持主を悩ませました。全く侵入を許さない部屋で人間が殺害されたという点、魔法時代の味がしたのでした。私の後継者として謳われ、人に恐れられていたウィンプは自殺説に屈したのでした。事件は私の死後まで未解決のまま残った筈なのですが――残念ながら――私の精妙さが許しませんでした。私は自分を離れて、この犯罪をば第三者乃至は昔の自分の眼で眺めてみようとしました。そうして私の見た所では、この芸術品は完全至極で、ただ一つの壮大なまでに簡単な解決方法しか残っていないのです。問題の条件というのが余りにも信じられない程よく出来ているので、もし私が当の殺人者でなかったなら、必ず元探偵としての私は、私自身に嫌疑をかけたに違いなかったのです。勿論、共犯はドラブダンプ夫人です。最初にあの部屋にはいった者が犯人に違いない、と私なら睨んだ筈です。すぐさま、私は(筆蹟も変え、『自分の眼鏡で物を見る者』という変名を使って)、ペル・メル・プレスに、この事を暗示した手紙を寄せたのでした。こういう風に、私をドラブダンプ夫人と関連せしめれば、世間は一緒に部屋にはいった二人を切り離して考えられなくなるのです。生半可の真理を世界の眼に注ぐのは、それを全く盲目にしてしまう最も確実な方法なのです。この私の出した変名の投書を、翌日私は(本名を使って)反馭し、ついに私が誘惑に負けて書いたその長文の手紙の中に、自殺説の矛盾をつく新しい証拠を提示してしまったのでした。私は存疑評決が気に入らなかったので、人々が蹶起して私を発見するように努力して欲しかったのでした。私は探偵された方が余程楽しかったのです。 「不幸にして、再び私自身の手紙から捜査に乗り出したウィンプは、執拗に失敗を繰りかえした揚句――私が全く予測も夢想もしなかった途方もない偶発事件のお蔭げで――変な筋に迷いこみ、それを全世界が真実だと信じるようになってしまったのです。モートレークが逮捕され死刑の宣告を受けました。ウィンプは明らかに名声がいやます事になりました。これは堪えられません。私は大骨を折って、結局はウィンプに名をなさしめる事になったのです。実は彼の名声を落してやるのが目的であったのに。無辜の人が悩むだけで、もう十分に拙いのです。所が、ウィンプが不当な名声を受け、大間違いを犯した結果として、彼の前任者の誰よりも偉く見られてしまったのでは、全く我慢できません。私はあの判決を覆して被告を救おうと、懸命の努力をしました。私は証拠の弱点を暴露しました。私は行方不明の娘の捜索に、全世界を駆り立てました。私は請願をし、反対運動を起しました。効果はないのです。私の努力は失敗しました。ここで私は最後の切札を使います。この無残な事件の解決者として、あの自惚れたウィンプの名を後世に残してはならないから、彼について暴露するついでに、刑の宣告を受けた先生の方も得をさせてやろう、と私は決心したのです。私が今夜、モートレークの命が断たれてしまわない内にこの暴露をしたのは、そういう訳なのです」 「では、理由はそれだったのか」内務大臣はいささか嘲りの色のこもった声でいった。 「唯一の理由です」  と彼がいい終りもしないうちに、従来のよりも強い歓声が書斎にまで浸透し来た。「刑の執行延期だ! 万歳! 万歳!」町内は地震でも始まったかのような騒ぎで、グロドマンとモートレークの名前は、火箭のように天にうち揚げられるかのようであった。「延期だ! 延期だ!」書斎の窓すらこの歓声に揺れた。そして、この歓呼の声よりも高く、新聞売子の甲高い声が響いた。「モートレークの死刑延期となる! モートレークの死刑延期となる!」  グロドマンは不審げに往来に面した方を見た。「新聞がどうして知ったのだろう?」彼は呟いた。 「夕刊新聞には驚かされますよ」大臣は冷やかにいった。「だが、こういう事もあろうかと、活字を組んで用意をととのえてでも[#「用意をととのえてでも」は底本では「用意をとのえてでも」]置いたのでしょうな」彼は秘書の方に向き直った。「テンプルトン、グロドマン氏の告白は一語残らず書取ったかね?」 「はい」 「ではグロドマン氏がここにはいって来られた時に君に渡した電報を持って来給え」  テンプルトンは外の部屋に帰って行って、グロドマンがはいって来た時に大臣の机の上に置いてあった海外電報を持って来た。内務大臣は黙ったままそれを来訪者に渡した。それはメルバン([#割り注]濠州のウィクトリヤ州の首府。どういう訳か、わが国では大新聞までこれをメルボルンと発音するのは愚劣である――訳者[#割り注終わり])の警察部長から来た電報で、ジェシ・ダイモンドは帆船に乗っていた為に、今日までの出来事を何一つ知らないまま本日同市に到着、被告側の主張と全く符合する陳述をしたので、直ちに英国に送りかえした、と述べてあった。 「この事件の再審が終るまで、とりあえず」内務大臣はグロドマンの土色と化した頬を見やりながら、事態の厳粛な皮肉に多少の感慨なきにしも非ず、といった表情で、いった。「私は刑の執行を延期させたのです。貴方が丁度この部屋にはいって来られた時、テンプルトン君はニューゲートの典獄に特使を出そうと出て行ったのでした。ウィンプ君の建てた不安定な城は、貴方の助力なしでも木端微塵になる所だったのです。貴方のまだ発見し得ない犯罪は、御希望通りに彼の名声を崩した筈だったのでした」  突如、一発の爆音が部屋を揺り、大衆の歓呼の声と混ざった。グロドマンが――ごく科学的に――みずから心臓を射ったのであった。彼は即死を遂げ、内務大臣の足もとに倒れた。  彼が現われたならその功績をたたえるために町中を曳いて廻ろうと、辻馬車の轅の側で待機していた労働者のうちの何人かは、担架をかつぐのを手つだった。 [#ここから5字下げ] ―――――――――― [#ここで字下げ終わり] [#ここから1段階小さな文字]  以上は従来「ビッグ・ボウの殺人事件」と呼ばれていた“Big Bow Mystery”の、正しい意味での本邦最初の全訳である。題の「ビッグ」が「ミステリ」にかかり、ボウにかからないのは、「六大学野球」の「大」が「大学」なる言葉の一部であるのに、日本の英字新聞の往々にしてこれを Six Big U Baseball と訳すのと似た錯覚から生まれた誤読であろう。「ボウ町の大怪異」という意味なのだが、本の題として不適当なので「ボウ町の怪事件」となった次第である――訳者 [#ここで小さな文字終わり] 底本:「世界推理小説全集1 ボウ町の怪事件他」東京創元社    1956(昭和31)年7月26日初版 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。