美人畫 石井柏亭 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)容姿《きりよう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)屡※[#二の字点、1-2-22] -------------------------------------------------------  和畫(私は所謂日本畫のことを斯う呼んで居る)で婦人の姿を寫せば大抵それを美しく書くことになつて居り、婦人畫即美人畫となるのであつて、これは浮世繪派以來の傳統になつて居る。然るに油畫で婦人を寫したものは多くの場合萬人の頭腦にある美人そのものと一致しないので、展覽會の觀衆は油畫かきはどうしてあゝすべたばかりを書くのかと不思議がる。一つには一方和畫の美人畫を見慣れて居る其癖がついて居るためもあらうが、近代の油畫が美人を描かうと、努めないからでもある。  フォーヴ乃至抽象畫は論外であるが、西洋では文藝復興の盛期以來十七、八世紀から十九世紀へかけて相當に美人畫の數が出來て居り、油畫技法が美人畫を描くに適しないと云ふやうなことは毛頭ない。日本人でも相當に描寫技術を凌駕した者ならば、美人畫が描けない筈はない。否寧ろ其姿態や顏面の美を實らし寫し得ることに於て和畫の比ではないのである。私も一度義憤を起して新橋の若い藝者をモデルに頼み、其の半身像を油畫に描いて一水會の會員展に出したことがある。美人を描いて見せるぞと云ふ意氣組であつたが、それはまだ萬人を承服させるには至らなかつた。併し其畫が後に滿洲へ運ばれた時、新橋の花柳界に通じた某氏の眼にとまり、これはたしかにTだと其モデルの名を當てゝそれを購入したと云ふ話があり、當時名うての美人であつた其女に似て居たと云ふ證據にはなる。滿洲があゝ云ふ風になつて其畫が日本へ戻らないとすると、今頃彼女はソ聯に抑留されて居ないとも限らない。  其後も濱町の某所で柳橋の若い美人を描いたこともあるが、これは少しふけ過ぎたと云ふ一般の評であつた。ルノアルの描く女が子供つぽくなるのと反對に、私のはどうも兎角ふけて出來る傾きがある。これは全身座像で或畫廊の展觀のあと參考の爲めとして或アマトゥールの購ふところとなつた。  西洋では美人を寫す機會を得なかつたが、曾て朝鮮では平壤で紅蓮と云ふ妓生を寫して二科會に出した。其後聞くところによると畫に寫されたことが評判になつて、彼女は間もなくいゝ旦那に身受けされたと云ふ。  日展のやうな大衆の最も多く集まる展覽會には、人を魅するやうな妖艶若しくは清楚な美人畫が出てもいゝ筈だと思ふが、案外さう云ふ類が出ない。西洋では容姿に自信のあるやうな若い婦人が進んで畫家に肖像を描いて貰ふ習慣が昔からあつて、其ために十八世紀英國のレイノルヅやゲインスボロー、ロムニーなどの大家達は隨分注文に追はれたものである。殊に後者はネルソンとの關係をうたはれたハミルトン夫人を屡※[#二の字点、1-2-22]畫にしたことに於て著名である。  十九世紀になつては英國のサージェントやラヴェリーに屡※[#二の字点、1-2-22]美人畫の作があり、佛蘭西ではルブラン夫人の自分と娘とを寫したもの又其晩年にマネーの畫室を訪れたメリーローランの横顏(日本のブリヂストン美術館にある)なども美人畫として擧げられよう。  日本の婦人達にも容姿《きりよう》自慢が居ないわけではないだらうから、精精其若く美しいところを後代に傳へるべく進んで畫家のモデルとなるやうな習慣を作りたいものである。  美人畫でも藝者を寫したものゝ如きはどうかすると問題を惹起すことがないでもない。故人片多徳郎の書いたものに斜めに見られた日本髷の半身美人像があり、或人が氣に入ってそれを購ひ家に持歸つたところ、夫人がそれを夫と關係のあるものゝやうに邪推して家庭爭議となり、やがてそれを手放したと云ふ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話がある。日本の蒐集家にはたゞ畫さへ氣に入れば何でも室内に掲げると云ふ直截なところがなく、從つて肖像以外の人物畫の需要は甚だ少い。例へば私の平壤の妓生の畫なども、さう云ふものを室内へ置くと特に其主人が妓生に興味を持つて居るやうに他から思はれるのを恐れるらしい。斯う云ふことは西洋の蒐集家にはあまりないのではないか。  最近私は京都に滯在して居る間に、久しぶりで祇園の舞子を寫した。昔木屋町の宿へ招んでさう云ふものを畫いたことも幾度かあつたが、實に數十年ぶりのことであつた。御茶屋の主婦に就て聞くと此頃は舞子の數も大分減って居り、其中の優れたのは數人しか居ないと云ふ、その一人を約束して二時から五時までの三時間をポーズして貰つた。夏のことで衣裳はさつぱりした、銀鼠地の裾へ菖蒲の模樣を染めたもの、だらりの帶は淡紅に銀の粗い縞のあるもので、帶あげの朱が京紅の唇と相映じた、眼のさめるやうな美しさであつたが、化粧をしない手首の肉色は厚化粧の顏と首とにそぐはないから、私はそれを膝に重ねた袂の下に隱させた。[#地付き](洋畫家) 底本:「文藝春秋 昭和二十七年八月號」文藝春秋新社    1952(昭和27)年8月1日 ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。