アルミニュームの短剣 The Aluminium Dagger リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)鉄筆《スタイロ》で [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)おだやかな声で[#「おだやかな声で」は底本では「おだやなか声で」] -------------------------------------------------------  急用で呼ばれるようなことは――つまり、自分の義務として、どうしても駈けつけなければならぬというようなことは、医者に比べると法律家はよほどすくないのである。だから、私たちは、開業医から法医学のほうへ鞍がえした時は、もう食事中に電話でよばれることもなければ、夜中にベルが鳴るようなこともあるまいと安心したのであった。ところが、じっさいはそうでなかった。  元来が法医学者というものは、二つの職業の中間にあるもので、両方へむけて顔をださねばならず、火急の用事はすこぶる多く、私がこれから話そうとする事件も、じつはその一つなのである。  わが友ソーンダイク博士が、神聖な朝の行事の一つたる入浴をすまして、服をきかけると、おりから慌ただしげに階段をかけあがる音がして、助手ポールトンが浴室のまえで叫んだ。 「先生、誰か訪ねてきましたよ。急用らしくひどく慌てて――」  だが、彼の説明が終らぬうち、第二の足音がかけつけて、 「ソーンダイクさん、すぐきてください。大変です。人殺しです。私といっしょに来てもらいたいんですが」 「承知しました。もう死んでしまったのですか?」ソーンダイクはそうきいた。 「死にました。冷たくなって硬直しているんです。警官の説によると――」 「警官は知っているんですか、あなたがここへ来たことを?」 「知っています。現場はそのまま、手をつけないであります」 「分った。すぐ行きます」  助手ポールトンは、そばからたくみに取りなして、「階下へおりて待っていてください。用意はすぐできますから」と、訪問者をおろして、客間にいれ、つぎに、「腹がへっていては、仕事ができん」と冗談いいながら、急いでソーンダイクと私の部屋へ、朝食の盆をはこぶのだった。  医者と役者のみがもつ迅速さで、そのあいだに私たちは服を着て用意をし、いっしょに階下へおりて、実験室でいつも死体検案の時にもって行く諸道具をまとめた。  そして、私たちが客間にはいると、今まで焦れったげに部屋の中を歩きまわっていた訪問者は、 「もうようござんすか。外に馬車を待たしてあります」と、いそいそ先に立って部屋をとびだし、石段をかけおりた。  私たち三人が、門前に待つ大型の四輪馬車にのると、馭者はすぐ馬車のドアをしめて、ぴしりと馬に一鞭いれた。  興奮した訪問者は、馬車のなかで説明する。 「私はこの名刺の通りのカーティスという者なんですが、それよりこの名刺を先にごらんになってください。これは私の弁護士でもあれば、私とともに場所にかけつけた人でもあるマルチモンド氏の名刺です。あなたがたがおいでになるまで、この人が現場で番をしているのです」 「なかなか注意が行きとどいていますな。で、事件というのは?」ソーンダイクはそうきいた。 「殺されたのは私の義兄ハートリッジ、死人の悪口は感心できませんが、この男は、ちょっと、その、たちのよくない男なんです。本当のことを話しましょうか?」 「どうぞ」 「じつは、この男と私との間に、ごたくさした、小面倒なことがありまして、そのいきさつは弁護士マルチモンドが話すでしょうが、私は手紙をだして、今日正午ロンドンを立たねばならんから、今朝八時会ってくれといってやったのです。すると彼から返事がきて、では八時に待つというので、私はきっちり八時に弁護士といっしょに、彼の部屋へでかけたのです。けれどベルをおしてもドアを叩いても返事がない。で、階下へおりて、管理人にたずねてみると、彼も昨夜一晩中ハートリッジさんの部屋に灯がついていたといって不思議がっていました。私たちは三人でまた階段をかけあがり、管理人のもっている合鍵でドアをあけようとしたのですが、中から掛金をかけてあるので、どうしてもあきません。 「そこで管理人が巡査をよんできて、金てこでドアをこじあけたのです。 「そして、部屋のなかにはいってみますと、なんと、ソーンダイクさん、驚いたことに、私の義兄は短刀で背を突き刺されて、床のうえに倒れているんです。しかもその短刀は、突き刺さったままになっているのです」  額の汗をふきながら、カーティスが話の先をつづけかけると、馬車は新しい煉瓦造の、高い建物の立ち並ぶ小路へおれてとまった。馬車がとまると、その音をききつけて、いそいで管理人がドアをあけてくれた。 「義兄の部屋は三階なんです。エレヴェーターにのりましょう」カーティスはそういった。  私たちは管理人のうごかすエレヴェーターにのって三階でおり、長い廊下のいちばんはしの、こわれかかって半分あいたドアの前まできたが、そのドアの上には、白字で「ハートリッジ」と記してある。そして半分あいたドアのあいだから、いぶかしげに顔をのぞけたのはバジャー警部で、彼はソーンダイクをみると、 「よくきてくださいました。さっきから弁護士さんが部屋にがんばっていた、私がちょっとでも部屋を歩くと、ぶつぶつ文句をいうので困っているんです」  そういうバジャー警部の声には、不平らしい響きがないではないが、彼が捜索の手掛りを失って、途方にくれていることは、そのいかにも嬉しげに私たちを迎えた態度にも読まれるのであった。  私たちはまず狭い控室へはいり、それから居間へはいったのであるが、なるほどそこには弁護士マルチモンドが見張りをしていて、ほかに一人の巡査、それから制服の刑事がいるだけだった。  彼らは私たちをみると、静かに椅子をはなれて立ちあがり、低い声で挨拶した。そして一同は無言のまま部屋の片隅をみた。  気味のわるい、物凄い、なんともいえぬ気分が部屋にただよっていた。ごく平凡な、日常的な物のなかに、底のしれぬ悲劇が宿り、見なれた親しい人々の顔に、妙な秘密がつつまれているように思われた。なかでもいちばん印象深いのは、静かな平和な生活から、ほんの一瞬のまに、この悲劇がおこったということだった。それは夏の明るい朝日が窓からさしこんでいるのに、ゆうべからの電灯が、そのまま黄色くともっているところにも、半分飲みほしたグラスや、開かれた書物や、またいかにも怖しげに小声で囁きあう一同の態度、それにもまして、僅か数時間前まで息をしていた人間が、今は冷たく床にうつぶせになっているところにも読まれた。  しばらくすると、バジャーが沈黙をやぶって、 「じつに不思議だ。もっとも死体をみると、他殺であることはすぐ分るんですが」  私たちはそばへよって死体をみた。かなりの年輩の男で煖炉のまえに両腕をひろげて下むきに倒れ、左肩の下のあたりを、背中から刺されたらしく、小さな柄がのぞいている。この男の死んでいることを示すのは、その短刀の柄と、唇ににじんだ少量の血だけであった。死体からすこしはなれたところに、時計の鍵がおちている。よくみるとマントルピースの上の時計の、ガラスの蓋があいている。警部は私の視線を追って時計をみながら、 「ごらんの通り、この男は時計のねじをまわしている時やられたらしいんですよ。ねじを巻く音に消されて、後から忍びよる男の足音が聞えなかったのでしょう。それからこの短刀が左肺を刺しているところから判断すると、この犯人は左利きらしいですな。そこまで分るんですが、私に分らないのは、犯人がどこから侵入し、どこから逃げたかという問題なんです」 「動かしましたか、死体を?」ソーンダイクはきいた。 「いや、ちっとも。さっき警察から医者がきて、この男が死んでいるということだけは確認しましたが、もう一度あなたといっしょに検案したいといっていましたから、もうやってくるでしょう」 「じゃその医者がくるまで、死体はこのままにしときますかな。ただちょっと体温をしらべて、短刀の柄の塵をみときたい――」  ソーンダイクはそんなことをいって、鞄から長い検温器と、粉を吹きかける道具をとりだし、検温器は死人の服の下の下腹部にさしこみ、短刀の柄に粉を吹きかけた。  みていたバジャー警部は、失望したような顔になり、 「指紋が出ませんね、手袋をはめていたんでしょうか?」短刀の柄を指さし、「これはなんです。奇妙な字でTRADITOREとかいてあるが、これはイタリア語で裏切者ということです。これについて面白い話を管理人からききましたから、あとで管理人を呼びましょう」 「死体の位置なぞ、いまのうちに調べとくんですな。私は写真をとったり、尺度をはかったりしましょう。室内の物は動かさなかったでしょう? 窓は誰があけたんです?」 「私たちがきた時からあいていたんです」弁護士マルチモンドがいった。「ご承知のように、昨夜ひどい暑さでしたからね。家具は動かさなかったです」  ソーンダイクは、手提鞄から、小型カメラ、三脚、巻尺、つげ尺、画用紙なぞをとりだした。  そしてまず片隅から部屋全体の様子をうつすと、つぎに戸口のところから第二の写真をとった。  つぎに彼は、「ジャーヴィス君」と、私を呼び、「ちょっと時計の前にたって、ねじを巻くような姿勢で手をあげとってくれ。そうそういま写真をとるから、そのままで」  その写真をとってしまうと、彼は私の両足の位置を、床上に白墨でしるしをつけ、そこに三脚をたてて二つの写真をとり、最後に死体の写真をとった。  写真機をしまうと、彼は一フートを一インチの四分の一にちじめた割合で、部屋ぜんたいの略図をかいた。  そばでそれをみたり、時計をみたりしていたバジャーは、「ずいぶんご念をおいれになりますな」と、皮肉に笑った。  ソーンダイクは書きあげた図面をしまいながら、 「できるだけの材料を集めませんとね。それがやくにたつか、たたないか、それはまた別問題です。医者がこられたようだ」  警察医はいんぎんにソーンダイクに会釈した。二人はすぐ検案にとりかかり、ソーンダイクは検温器をひきぬいて、警察医にみせた。 「死後十時間!」と、警察医がつぶやいた。  ソーンダイクが短刀に触れてみろというので、私が柄を握ってみたら、かすかに骨のきしる音がした。 「肋骨をすこしばかり斬ったようだね」私はいった。 「そう。すごい力だ。それから、この上着が疵口のところでねじれているところをみると、短刀を廻転させながら刺したものらしいが、それでいてこれだけの力があるんだから大したもんだよ」 「どうも不思議だ」警察医がいった。「死体を動かすまえに、短刀をぬいてみますか?」 「そうですね。疵が大きくなっては大変だから――しかしちょっと!」  ソーンダイクはそういいながら、ポケットから糸きれをとりだし、それを一インチばかり抜いた短刀の刄の方向に並行させて両端を私に持たせ、それから静かに短刀をひきぬいた。短刀をひきぬくと、上着のねじれたところがもとにかえった。 「みたまえ」彼はいった。「この糸は疵口と並行しているのだが、上着の疵あととはずいぶん角度がちがってきた。この角度だけ、短刀が廻転したことになるんだ」  私たちは死体を寝室へはこんで検案したが、べつに新しい発見はなかった。検案をおわると、死体を白布でおおって、また一同、居間へかえった。 「みなさん」と警部はいう。「私たちは検案をすまし、部屋の尺度から写真までとったが、なんらうるところがなかった。分っているのは、この部屋で一人の男が殺されたということだけ。入口は一つあるが、内側から掛金がかかっていた。窓は地上四十フィート、といでもなければ、蠅がとまれるほどの足場もない。煖炉も近代式だから、煙突からはとてもはいれませんね。いったい殺人者はどこから侵入し、どこから逃げたんですかね」 「でも、どこからかはいったことははいったのです」そういったのは弁護士だった。「そしてはいったところから出ていったのでしょう。それは確かでさ。ですから、それを発見するのは、不可能じゃないと思うんです」  警部はちょっと笑ったが、なにもいわなかった。  ソーンダイクはいう。「部屋の情況からみて、昨夜この部屋には、被害者が一人しかいなかった。それは半分空になったグラスが一つしかないのをみても分る。そしてこの人が本を読んでいたら、十二時に十分前に、不意に時計がとまったので、今まで読んでいた本を下向きにふせたまま立ちあがり、時計のねじをかけようとしたら、その時やられたんでしょうね」 「後から左利きの男が忍びよって、一息に刺し殺したんだ」警部がつけくわえた。  ソーンダイクはうなずいて、 「そうかも知れませんね。管理人がどういうか、きいてみましょう」  まもなく管理人が呼ばれてくると、ソーンダイクがきいた。 「ゆうべどんな人が来たんです、覚えていないですか?」 「そうですな、なにしろ沢山の人がこのビルディングを出入りしましたから、誰がここへ来たか分りませんな。もっとも、カーティス嬢がビルディングにはいったのは見たのですが」 「へえ、うちの娘が? そりゃ知らなかった」とカーティスがいった。 「けれど、九時半ごろおかえりでした」 「何用できたんです?」バジャー警部がきいた。 「それにはわけがあるんです」カーティスがこたえた。 「わけはいわなくてもいいです。質問には答えないで、黙っていらっしゃい」弁護士がそう注意した。 「そりゃ困る、弁護士さん」バジャーがいった。「いくら犯人が分らなくても、まさかお嬢さんを疑いはしませんから、安心なさい。お嬢さんが左利きかなんてききませんよ」  そういって警部はカーティスを見た。私も彼を見たが、その顔色はまっ蒼になっていた。  バジャー警部は管理人にむかって、 「もういちど、イタリア人の話をしてみてくれませんか」 「はい。一週間ほどまえ、一人のアコーディオン弾きらしい、ごくありふれたなりのイタリア人がきて、『ハートリッジ様』とかいたきたない手紙をだして、これを渡してくれといって立ち去ったのです。私はそれを郵便差入口からこの部屋に投げこんどきました。すると、そのあくる日、占者のようなみすぼらしいイタリアの婆さんが小鳥をいれた籠をもってきて、ビルディングの入口に店をひらいて、なんど追っ払ってもやってきて困ったのです。その次の日にビルディングの入口に店をはったのはアイスクリーム売りでした。こいつも何度追っぱらっても戻ってきました。そのつぎにきたのは、きたならしい猿をつれてアコーディオンをもった猿使いです」 「その男が最後だったの?」 「はい」 「イタリア人が持ってきた手紙、いまみても分りますか?」 「はい」  バジャー警部はちょっと部屋をでたが、すぐまた忙しげに数通の手紙をもってはいってきた。 「これは三つとも死人のポケットから出てきたんだが、イタリア人が持ってきたのはこれだろう」  バジャー警部は結んであった紐をとき、そのなかの一通をしめした。しばらく管理人は『ハートリッジ様』とかいた下手な字をみていたが、 「これこれ、これですよ」  バジャーは中身をとりだし、ひととおり読むと眉をつりあげ、 「どうです、ソーンダイクさん!」と、それを博士にわたした。  ソーンダイクは黙ってそれを読むと、窓ぎわへもっていって、度の弱いレンズで紙面のあちこちをみ、次に度の強いレンズで調べ、最後にそれを弁護士にわたした。  私も弁護士の肩ごしに覗いてみると、なるほどそれは不思議な手紙で、粗末な用紙に赤インキの下手な字で、 [#ドクロの図(fig56156_01.png、80×110)入る]「六日間の猶予をあたえる。それまでに承知しなければ、上記の印と覚悟すべし」  手紙の上のほうに、不器用ではあるが、ていねいな手つきで、頭蓋骨とななめに組合わせた腕の骨がかいてある。  弁護士は手紙をカーティスにわたしながら、 「ははあ、これでハートリッジが昨夜かいた手紙の意味がわかった。カーティスさん、あの手紙、あなたが持っておいででしょう?」 「ええ、これです」  カーティスが、ポケットから出した紙片には、 「来るなら来い。いつでもよい。滑稽なおどし文句だね。腹をかかえて笑ったよ」 「ハートリッジはイタリアへ行ったことがあるんですか?」バジャー警部がきいた。 「去年はほとんどカプリで過ごしました」カーティスがこたえた。 「それで分った。この二つの消印は、どちらも中央東区だが、アコーディオン弾きの多いサフロンビルが中央東区なんです。この手紙をみてください」  バジャーがひろげた手紙には、頭蓋骨の下に、「覚えていろ! カプリを忘れるな!」とかいてあるだけだった。 「ソーンダイクさん、わたし、これからサフロンビルの方面を洗ってみます。四人のイタリア人の顔は、管理人をつれて行けば分ると思うんです」 「そのまえに、あなたがポケットにおしまいになった短刀をちょっと見せてください」  バジャー警部はしぶしぶ短刀をソーンダイクにわたした。  彼はその各部を調べながら、 「これは珍しい短刀だ。形も妙だし、使ってある物もおかしい。製本屋が使うモロッコ革やアルミニュームの柄は初めてだ」 「軽くするためにアルミニュームを使ったんですよ。服の袖のようなところに隠していたんです」バジャーがいった。 「そうかも知れませんね」ソーンダイクはまたレンズで短刀の各部を調べはじめた。 「ソーンダイクさんは、なんでもレンズでお調べになるんですね」警部が冷かした。  ソーンダイクは画用紙に短刀をスケッチし、測径器や定規をだして各部の寸法をはかり、ところどころに説明をかきこんだ。それがすむと短刀を警部にかえし、窓際によって、 「今度は向うの家を調べてみよう」  窓のむこうには、およそ三十ヤード離れたところに、今私たちのいる建物とおなじ高さの建物が並んで、下に小石を敷いた小道のある、木の繁った庭がみえた。 「もし向うの家から誰か見ていたとしたら、その人はこの部屋で行われた昨夜の犯罪を見ているんですよ。窓はあいていたし、カーテンはなかったし、明るい灯がうつっていたんです。だからそれを調べてみる必要がありますよ」 「それはそうですが」警部はいう。「しかし、その時こっちを見ていた者はなかったんですよ。あったとすれば、その人は新聞でこの事件を見ているはずだから、警察へ報告するはずです。私はもう帰りましょう。部屋に鍵をかけますからみなさん廊下にでてください」  階段をおりながら弁護士のマルチモンドは、私たちにむいて、他に用事がないなら、今朝はこれで別れて、また夕刻おたずねするといった。 「いや、まだおたずねしたいことがあるのです」と、ソーンダイクはいった。「ハートリッジの死を願っていたような人間はいなかったのですか? あなた心当りはないですか?」 「複雑な問題があって、一口にはいえないんです。いま三階からみた庭へ行きましょう。あすこなら、誰も立ち聞きする者がない」  弁護士はカーティスに目くばせし、警部と巡査がかえっていくと、私たちをともなって庭へでた。 「ハートリッジの死によって利益をえる人物は、彼の遺産相続人のウルフぐらいのものでしょう。ウルフは親族でなく、ただの友人なんですが、被害者の全財産――約二万ポンドを受け取ることになっているのです。そのわけをお話しますと、ハートリッジの弟は父が死ぬまえに未亡人と三人の子をのこして死んでしまい、それから十三年後、父が死ぬ時に、弟の家族を養い子を相続者とせよという条件で、全財産をハートリッジにあたえたのです」 「遺言状は?」ソーンダイクがきいた。 「父が死ぬまえ、未亡人の友人たちが集って、しいて書かしたのですけれど、その後ハートリッジが父の遺言は意識不明の時に書いたのだといって、無効にしてしまったのです。そしてその後は未亡人と遺子とにたいして、一文の補助もしなかったので、カーティスさんが世話をしなければならなかったのです。ところが、最近死んだ弟の長男エドマンドが成長して、ある事業に手をだしたいので、ハートリッジにいくらかの金を要求したのですが、出してくれません。じつはそのことでカーティスさんと私が、今朝ハートリッジを訪問したわけなんです。それからまた、話はべつですが、これはあまり香ばしい話ではないのですが、故人ハートリッジの親友にウルフという男があり、またヘスター・グリーンという女がいるのです。そしてハートリッジは、もしウルフがこの女と結婚するなら、自分が死んだ時、全部の遺産をお前にやると約束しているのです。これらのことで、カーティスさんの令嬢が、――この令嬢は弟の長男エドマンズと婚約しているのですが――昨夜被害者の部屋を訪問したので、令嬢のためには、少々不利なことになっているのです」  うつむいてソーンダイクはそんな話をきいていたが、心はどこにあるのか、たえず小石を敷いた小道のあちこちや、左右の木立や繁みに顔をむけていた。 「ウルフというのはどんな男です。悪い男であることは分りますが、性質はどんなのです。間の抜けた男ですか?」 「いえ」と、カーティスが受けた。「もと技師だったのですが、近頃はどこからかはいってくる金で、賭博をしたり、放蕩をしているらしいです。このごろひどく困っている様子です」 「風采は?」 「ちょっと見ただけなんですが、背のひくい、やせた、金髪の、きれいに鬚をそった男で、左手の中指がないんです」カーティスはいった。 「どこに住んでいるんです?」 「ケント州のエルサムのモルトン館です」弁護士マルチモンドがこたえた。「ほかにおたずねになりたいことがないのなら、私はこれで失礼したいですが」  弁護士とカーティスは、私たちと握手して、いそいでそこを立ち去った。  まもなく管理人が笑いながら姿をみせた。 「このビルディングの表は、なんという街ですか?」  ソーンダイクは裏の建物をしめした。 「コトマン街です。みな事務所ばかりです」 「番地は? あの三階のあいている窓の?」 「ハートリッジさんの部屋と向合った部屋は八番でございます」 「ありがとう」  ソーンダイクは庭をでかけて、またあとがえりし、 「いま私は三階の窓から、こんな形をした鉄でできたものをこの庭に落したんですがね……」  いいながら、ソーンダイクは器用な手つきで、六角の穴のある丸い鉄片の絵を、名刺裏にかいて管理人にわたし、 「どこへ落ちたか分らないんです。もし庭師でも見つけたら、私のところへとどけさせてください。とどけてくれたら一ポンド出します。つまらん物だけれど、私にとっては大切な品物なんです」  管理人は帽子をとって会釈し、庭を出る時ふりかえると、繁みや木立のなかを、探しまわっている様子だった。  私はソーンダイクが曽て物を紛失したのを見たことがないし、また大切な物を粗末に取り扱うような男でもないので、その理由をききたかったが、彼は私に口をひらかせず、逃げるように庭をでると、急に角を曲ってコトマン街にでて、裏の建物の入口に立った。 「なるほど、四階にいるのはブローカーのトーマス・バーローか。ではこの人に会ってみよう」  私は彼のあとについて階段をのぼり、烈しい息使いをしながら四階にのぼった。  ブローカーの部屋の前までくると、中から妙に乱れた足音がするので、二人はしばらくそれに耳をすました。やがて彼は静かにハンドルをとってドアをあけ、しばらく中をのぞいて、にやりと私をふりかえり、ドアを大きくあけた。  部屋の中には十四才ぐらいの痩せた少年が一人、熱心にディアボロをもてあそんでいた。あまり遊びに熱中しているので、私たち二人が中にはいって、ドアをしめるのを知らずにいた。  やがて独楽が糸から落ちて、そばにあった紙屑籠の中にはいったので、ふとこちらに顔をむけてびっくりした様子だった。ソーンダイクは独楽を籠からだして返してやり、 「バーローさんはまだお帰りにならないの?」 「今日は帰らない。ぼくがこないうち、出てしまったの。ぼくのくるのがおそかったから」 「じゃ、どうして今日帰らないことが分かる?」 「手紙があった、これ」  少年は赤インキできれいに書いた紙片をみせた。しばらくそれをみていたソーンダイクは、 「君は昨日インキ壺をこわしたね?」  少年は驚いたように、 「そう。どうして分ったの?」 「いや、分らんからきいたんだよ。しかしこの字は自分の鉄筆《スタイロ》でかいたんだ。じつはバーローさんは私の知った人じゃないかと思って来たんだがどんな人? 背の高い、やせた、髪の黒い人じゃない?」 「ちがう。やせてはいるが、髪は黒くなくて、高くもないよ。薄い髭をはやして、眼鏡をかけ、かつらをつけているの」ちょっとずるい目をして、「ぼくかつらをつけた人は一目で分るんだ。お父さんがかつらをつけているので、そして時々釘にひっかけて、櫛をあてる時笑ってやると怒るんだもの」 「左手の指が一本ないの?」 「知らない。あの人いつも手袋をはめているんだ」 「そう、じゃ手紙をかいておいて帰るから、紙とインキをかしてくれない?」  少年は戸棚から、安っぽい手紙の紙と封筒のはいった箱を出し、自分でインキをふくませたペンを、ソーンダイクにわたした。ソーンダイクは二、三行かいて封筒にいれ、宛名をかきかけて急に思い直して書くのをやめ、 「いや、まあ手紙はよそう」といって、それをポケットにしまい、「帰ってこられたら、ホレス・バッジという者が訪ねてきたといってくれ。また二、三日中にくるってね」  私たちが部屋をでて、階段をおりかけると、少年は不思議そうに手摺から覗いてみていた。  だが、不思議に感じたのは少年ばかりではなく、私も先刻からの彼の態度が、不審でならなかったが、彼が階段の途中に立ちどまって、今しがたポケットにいれた手紙の紙を、レンズで覗いているのをみるにおよんで、私の好奇心はいやがうえにも煽られた。 「運がよかった! 努力の結果ではあるが、ジャーヴィス君、捜査は好調子だ」  階段をおりて、管理人の部屋へ行くと、 「いまバーローさんの事務所へ行ってみたんだが、今朝早くおでかけだったそうですな?」 「ええ、八時半ごろお出になりました」 「でも、事務所へはそれより早く来たでしょう?」 「それはそうでしょうが、私はバーローさんがお出かけになるちょっと前に来たんですから、よく分りません」 「なにか荷物をもっていた?」 「四角な荷物と、細長い五フィートもある荷物をもっていらっしゃいましたよ。重いので私が馬車にのっけてあげたのです」 「大型の四輪馬車?」 「はい」 「バーローさんは、昔からここにいたんじゃないでしょう?」 「六週間ほどまえから、あすこを事務所としてお使いになっているんです」 「そう。またきます。さようなら」  ソーンダイクは[#「ソーンダイクは」は底本では「ソーンーダイクは」]そのビルを出ると、すぐ近くの馬車屋へ行き、そこの四輪馬車の馭者としばらく話しこんでいたが、やがて私たちは、その馬車の人となり、ニューオクスフォード街の、とある店の前にとまった。  ソーンダイクは、馭者が目を丸くするほどの大金を握らせて馬車をかえすと、私一人を出口に待たせ、自分だけ店にはいったと思うと、しばらくして何やら小さい包みを小脇に抱えて出てきた。 「助手ポールトンに調べさせるため、ちょっとした金具を買っただけだ」  だが、その次に彼が買った物をみて、私はあいた口がふさがらなかった。私たちがホルボーン街を歩いていたら、とある家具店の飾窓におそらくは室内装飾用として売っている、一八七〇年のフランス大悲劇の遺物らしい、いろんな武器が並べてあるのだが、彼は何を思いついたのか、そこでシャスポー式の小銃と、銃の先につける長い剣を買ったのである。 「そんな物凄いものを、なににするの?」  しばらくして街を歩きながら、私はそうきいた。 「むろん、護身用さ。銃剣をつけて、弾丸をこめたら、どんな恐しい泥棒でも逃げだすからね」  銃剣で泥棒を脅すおかしな幻を胸に描いて、私はちょっと笑いはしたが、心の中では、これもなにかこんどの事件に関係があるのだろうと思った。  おそい昼食をすますと、私は自分の用事で外にでた。ソーンダイクはその間に、製図用のテーブルの上で、尺やコンパスを使って、今朝のスケッチから精密な図面を作っているらしかった。  夕方、マイターコートのそばを通っていたら、ちょうどソーンダイクを訪ねる弁護士マルチモンドに出会ったので、二人いっしょに歩いてかえった。 「ソーンダイクさんが、ある人の筆跡をみたいといわれるので、それを持って行くところなんです」彼はそういった。  部屋へはいると、ソーンダイクは助手ポールトンと、熱心になにやら話しあっていたが、驚いたことに、そこのテーブルの上に、ハートリッジを殺した短剣がおいてある。 「筆跡の見本をもってきました」弁護士がいった。「苦心して捜したら、カーティスさんが一通だけ持っていました」  彼は一通の手紙をポケットからだして、ソーンダイクにわたした。彼は熱心にそれをみた。  弁護士はテーブルの上の短剣をとりあげ、 「これ、警部さんが持って行ったのじゃなかったのですか?」 「本物は持って行きましたよ。これは製図をもとにして、ポールトンに作らせたのです」  弁護士マルチモンドは、感心したようにポールトンをみて、 「これは立派だ。本物とちっともちがわない。それにしても早く出来上りましたな」 「そんな物ばかりつついているので、わけなしに出来るのです」  おりから表のほうで二輪馬車のとまる音がし、まもなく慌てて石段をかけあがる足音がきこえて、はげしくドアを叩いた。  助手ポールトンがドアをあけると、カーティスである。 「大変なことになった。娘が――娘が殺人容疑で逮捕されたのです。バジャー警部がやってきて、つれて行きました。困ったことになった!」  ソーンダイクは興奮したカーティスの肩に手をかけ、 「心配せんでもいい。かならず無罪になります。しかしお嬢さんは左利きなんでしょう?」 「そうなんですよ。困ったことに、そうに違いないんですが、ソーンダイクさん、どうしたらいいでしょう? あの子が刑務所にはいったら――」 「なに、すぐ釈放です。あっ! 誰かきた!」  ドアをノックする音。私がドアをあけてみたら、訪問者は噂のバジャー警部だった。  ちょっと間の悪い沈黙があって、カーティスと警部は、両方で遠慮して、しりぞこうとした。 「バジャー君、おはいりなさい」と、ソーンダイクはいった。「話があるんです。カーティスさん、あなたは一時間後、ここへきてください。それまでに吉報を用意しときます」  カーティスは、この人のいつもの癖で、慌てたような急ぎ足で、どたどた部屋をでていった。  カーティスがいなくなると、ソーンダイクは警部にむかい、 「相変らず忙しそうですな?」 「休む暇なしです。時にカーティス嬢が殺人者だという、動かすことのできぬ証拠があがりましたよ。第一かの女は現場を昨夜最後に訪問した。第二に、かの女は被害者に恨みをいだいていた。そのうえ、被害者は左利きに刺されたが、かの女がその左利きなのです」 「ただそれだけ?」 「毎日ビルの前にきたイタリア人を調べたんです。そしたら彼らは未亡人の服をきて、ヴェールをかぶった女に買収されていたのです。管理人にわたした手紙の主もその女ですよ。そしてかの女が、カーティス嬢と背の高さがおなじなんです」 「そんなら、カーティス嬢は、中から掛金をかけてあるのに、どうしてあの部屋から外にでたんです!」 「それなんです! そこが分らんので、ご相談にきたんですよ」 「すぐ分るじゃありませんか。死体をみた瞬間、すぐ私はそれに気がついた。部屋に出口はないし、私たちがはいった時、誰も部屋に隠れていなかったとしたら、説明は唯一つしかない。殺人者は初めから部屋にはいらなかったのです[#「殺人者は初めから部屋にはいらなかったのです」に傍点]!」 「どうも、ソーンダイクさんのいわれることは分らん」バジャー警部は小首をかしげた。 「調べは終りましたから、これから順を追って、説明してあげましょうか。まず被害者はマントルピースの時計にねじを掛けている時刺されたんですが、その短刀の線を延長すれば、あなたも多分お気づきでしょうが、ちょうど開け放した窓の方向になるのです」 「そう。窓です。でもその窓は地上四十フィートです」 「つぎに、犯罪につかった奇妙な武器について考えてみましょう」  いいながら、ソーンダイクがひきだしを開けると、外からドアをノックする音がした。  私が立ちあがってドアをあけると、犯罪のあったビルの管理人がおずおず一同を見まわしながらはいってきて、なにやら紙に包んだ物をソーンダイクにわたすのである。 「おたずねの物が出てきました。なかなか見えませんでした、繁みの枝にひっかかっていたので」  ソーンダイクは、紙包みをとき、中をあらためて、 「ごくろうさま」金貨をひとつ握らせ、「バジャー警部さんは、君の名を知っているんでしょう?」 「はい」簡単にこたえて、管理人は嬉しげに部屋をでていった。  ソーンダイクはひきだしから、ポールトンの作った短刀を出し、 「これは犯人の使った短刀の複製ですが、ばかに細長くて、奇抜な材料で作ってあります。これは普通の刄物屋が作ったものでないばかりか、イタリア語が刻んでありながら、材料はすべてイギリス製です。刄は四分の一インチの鋼鉄、柄はアルミニュームの棒、旋盤で作れないようなところはどこにもない。柄の端の盛り上りでさえ、普通の六角ナットの形をしている。明らかに素人細工です。つぎにこの図面の剣身のAとBの寸法をはかってごらんなさい。不思議にも直径がすこしもちがっていない。あらゆる部分が、一〇・九ミリの直径を有する円にふくまれていて、その円が、ロンドンの二、三の店に売っている、旧式のシャスポー銃の口径とおなじなのです。ほら、ここにシャスポー銃が一つあります」  ソーンダイクが、部屋の片隅に立てかけてある銃をもってきて、短刀の柄をその銃口にさしこむと、するりとすべって銃口のなかにはいってしまった。 「なるほど。しかし鉄砲でこんな物を射ったとおっしゃるんじゃないでしょう?」弁護士がきいた。 「ところがそうなんです。アルミニュームで柄を作った理由が分りますか? 重量を軽くするためなんです。それから、柄の端に六角のナットのような物がついている理由が分りますか? 短刀の尖端を、一番先に目的物に到着させるには、弾丸とおなじように、螺旋状に廻転させなければなりません。この六角形のナットは、廻転させる役目をするのです。また実際、死人の上着の疵口がねじれているところをみても、短刀が廻転しながら飛んだことは分るのです。つぎに、銃腔の中で短刀を廻転さすには、アルミニュームの柄では駄目です。なにかそれに適当な物をつけねばならぬ。それには柔らかい座鉄をこの六角ナットにあてて、それを銃口の溝にはめて発射して、短刀が銃口を離れると同時に、その座鉄だけ下に落ちるようにするといいのです。ここにあるのがポールトンの作った座鉄の複製です」  そういってソーンダイクは、六角の穴のあいた小さい鉄片をみせた。 「どうも、理屈にはあっているが、少々突飛な思いつきですな」バジャーはいった。 「実験してごらんにいれましょう。ここにおなじ口径の銃に合う無煙火薬をつめた薬筒があります。これはポールトンが間に合せにつくったのです」  彼は銃口に短刀をさしこみ、弾丸をこめるところから、その短刀の六角形ナットに座鉄をはめ、それをちょっと前に押して薬筒をいれた。  つぎに彼はドアをあけて、隣りの部屋が見えるようにし、向うの壁ぎわの藁の標的をしめした。 「二つの部屋をぶっ通しです。だからあの標的まで三十二フィートはあります。ジャーヴィス君、窓をしめてくれ」  私が窓をしめると、ソーンダイクは銃で標的を狙った。ズドンと音はしたが、それは私が期待したより、はるかに小さい音だった。向うの標的に短刀が刺さって、柄だけがこちらからみえた。  ソーンダイクは銃をおきながら、 「どんなもんです? 不可能じゃないでしょう? さてつぎに実際の証拠ですが、殺人者の使った短刀には、ところどころ線上の疵がのこっていますが、あれは銃腔の溝にふれてできた疵です。短刀が銃腔の螺旋とおなじように、左から右へ廻転しながら飛んだことは、死体の背中をみても分ります。そればかりでなく、いまあなたがたもごらんになったように、管理人があすこの庭からこんな物をひろって持ってきてくれたのです」  彼が紙包をひろげると、なかから六角の穴のある、小さい鉄片がでてきた。彼は隣りの部屋へ行き、床の上に落ちている座鉄をひろって、ポールトンの作った鉄片と比べてみたが、二つはすこしの違ったところもなかった。警部は黙って二つを見比べていたが、 「なるほど。これは私の負けだ。しかし、そんなら誰が殺人者なんです。またなぜ銃の音をきいた者がないんでしょう?」 「音響をひくくし、また短刀に火薬のあとを残さないため、おおかた圧搾空気を使ったんだと思うんです。殺人者の名は分っているが、それはあとで話すとして、私は被害者が時計をつつく時に立った位置にジャーヴィス君を立たして、白墨でそこにしるしをつけときましたが、あすこから窓の外をみると、向うのビルディングの窓が二つみえるんです。それはコトマン街の六番の三階と四階です。三階が建築家で、四階がバーローと名乗るブローカー。私はこのバーローを訪ねていったのですが、そのまえに、ちょっとおたずねしますが、あなたは例の脅迫状をいまもっていますか?」 「ありますよ」警部は胸のポケットから革の入物をだした。 「ほら、これが第一の手紙だ。ごらんの通り、粗末な紙に下手な字だが、インキだけはちがっている。貧乏人は安物の小さい壜しか買わないが、この封筒の宛名のインキは、事務所なぞで使う大壜の、ドレイパーの二色性インキです。それから、中の文句をかいたこの赤インキは、これも普通のでなく、技師が図をひく時につかうインキで、鉄筆を使っている。つぎに興味のあるのは、この頭蓋骨の絵です。解剖学からみると拙い絵だが、左右の均斉がとれていて、いかにも器用な線でかいてある。ところが、それには理由がある。レンズでみると、定規をあてて、鉛筆で十文字に線を引いたあとがよくみえるのです。そればかりでなく、レンズでみると、技師なぞが製図でつかう柔らかい赤い消ゴムのあとも残っている。これらの事実は、この手紙が、製図になれた男によって書かれたものであることを証明しているのです。つぎに、話はまたもとのブローカー、バーローのことに戻るのですが、私が彼の事務所へいってみたら、棚のうえに技師用の定規や、柔らかい赤い消ゴムや、この手紙をかくに用いたドレーパーの二色性インキの陶製の大壜があったので、うまくだまして、そのインキと紙の見本をもってかえったのです。それは後で試験してごらんにいれるとして、とにかく私は、バーローなる人物が、背が低く、眼鏡とかつらをつけ、いつも左手に手袋をはめていることを確めました。そしてけさ彼が事務所から外出したのは、八時三十分ですが、彼がそれ以前に事務所にはいるのをみた者はいないのです。八時三十分に外出する時には、四角な箱と、五フィートもある細長い箱をもっていた。そして、彼はヴィクトーリア駅まで馬車を走らせ、そこから八時五十一分の、チャタム行きの汽車にのったのです」 「ほう」バジャー警部がいった。 「さあ、これからこの三つの手紙を調べてみましょう。ごらんの通り紙はどれもおなじですが、それは決定的な証拠にはならん。証拠になるのは、これらの紙の下のほうの隅の二つの小さいくぼみです。これは誰かが数枚かさねた上から、ピンを立てるか、あるいはコンパスで押すかしたのでしょう。紙の端からくぼみまでの距離が、三つともおなじです」  コンパスで距離をはかって、ソーンダイクは一同にみせた。 「つぎに、この私が、バーローの事務所からもってかえった手紙をかく紙をごらんなさい。これにもごくかすかではあるが、下のほうに二つの小さいくぼみがある。そして紙の端からそのくぼみまでの距離をはかってみると、他の三つの距離とおなじなのです。これをみても、これらの紙が、同一人によって使われたことは分るのです」  警部は椅子から立って、ソーンダイクの顔をみながら、 「バーローというのは、どんな男です?」 「故人ハートリッジの死によりて、利益をうる人物は、ウルフという男が一人なのです。ウルフは二万ポンドの遺産を受けとることになっている。彼の本職は技師ですが、賭博に身をもちくずした悪漢で、背が低く、左手の中指を失っている。ところが、このバーローと名乗る男も、ウルフとおなじように、背が低く、いつも左手に手袋をはめているんです。この二人の筆跡を比べてみて、私は二人が同一人であることを確かめたのです」 「好いお話でした。ではその男の住所を知らせてください。カーティス嬢はすぐ釈放します」警部はそういった。     *        *        *  殺人者ウルフは、それからまもなく、エルサムの自邸で、精巧な空気銃を庭に埋めているところを発見された。が、逮捕されるのを待たず、彼は隠しもつピストルで自決してしまった。 底本:「別冊宝石 第十一巻第七号」宝石社    1958(昭和33)年9月15日 ※底本は、「っ」「ゃ」「ょ」を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。