ある一つの時代 近松秋江 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)關《せき》の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)無論|單《ひと》り [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)居※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]はり /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)いよ/\ /″\濁点付きのくの字点(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ところ/″\の -------------------------------------------------------  日露戰爭が漸く干戈をおさめて、ポウツマウスに於ける媾和談判が、公平なる、内外の識者から見たら、どうであつたか知らぬが、一般國民の慾深い期待に反して、結局日本にとりては失敗の媾和條約に終つたといふことが、新聞紙に書き立てられて全國に知れ渡ると、國内到るところに不平不滿の聲が囂々として、所謂鼎の沸き立つやうな有樣であつた。  樺太を全部割讓するなどは愚かなこと、シベリアの沿海洲を日本に領有し、尚ほその上に賠償金を十億圓くらゐ出さすことは無論のことゝ、大抵の國民は、もう、取らぬ先から狸の皮算用をしてゐたところへ、賠償金は十億圓は愚か、鐚一文だつて取れない、沿海洲など嘘にも割讓しようとはいはぬ。やうやく樺太の南半部を分割し、南滿洲鐵道の權利を讓渡すといふくらゐのところが、やつと關《せき》の山で談判は調つたのであつた。日本國民の中でも最も偉大なる、蟲の好い空想家には沿海洲分割はおろか、サイベリアはバイカル以東を日本の領土に塗り變へなければならぬと力んでゐた者も大分あつた。又、意外の安値に、それだけの大戰爭のけり[#「けり」に傍点]を附けたことを最も憤慨した者の中には、最愛の自分の子弟や、大事の働き人の良人の碧血を空しく異域の荒野に流して置きながら、慘敗者たる敵對國から、それだけしかの戰利賠償を得ることが出來なかつたといふは、何といふ當局者の無能であらうかといつて、悲憤の涙を溢して齒噛みをする遺族が多かつた。それは實に無理もないことであつた。  しかしながら、當局者といへども、どうかして國民に十分なる滿足を與へ、全國を舉げて戰勝を祝したいといふ腹は山山であつたのであらうが、内外の事情は途に、日本の本懷とするところの百分の一をも滿足せしめなかつたのであつた。  とにかくその爲に國民の不平不滿の聲は上下に充ちて喧しかつた。  丁度その、國民が何となく一般に不穩の氣に充ちてゐる最中であつた。誰れも彼れも長い暑氣に疲勞し、困憊し切つてゐるやうな心地のしてゐる三十八年の九月の初めのこと。私はその頃、一ヶ月ほど前、夏の盛りに、その前まで、そこからは、廣い往來の坂下の處に在つた假住から今のところへ移轉して來たのであつたが、先の時分の住居とちがつて、そこは高台で、居※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]はりに、樹木が欝蒼としてゐた。――それは、それから四五ヶ月住んでゐる間に段々分つて來たことであつたが、その家はもう前から賣り物になつてゐるのであつた。そして、最後に、いよ/\翌日牛込の方へ又移轉することになつた晩に近いところの湯屋にいつてゐて、入浴してゐる者同志が噂話にしてゐるのを、偶然に聞いてゐると、その家は、今は何處か遠方にいつてゐる持主が自分の住居に建てたものであつたらしい。 「××さんの家も今度たうどう話が定まつたさうだな。」 「どうやら、そんな話だ。」 「隨分長い間のことだつたから。」 「あの人の病氣はこの頃どうなんだかな。」 「さあ、格別さう惡くもならないらしい話だが、何しろあの病氣だからな。」 「捗々しくも行くまいて。」 「でも、あつちの方は、氣候の好い處だといふから。」 「どこだつけなあ。」 「さう、神戸とか和歌山とか聞いたやうに思ふ。」  話の對手の一人は、その邊で見る帳場の車夫であつた。私も時々乘つてゐた。しかし風呂場で挨拶をするほどの馴染みでもなかつた。  私は、彼等の話の樣子から、どうも、自分の今借家してゐる家の、その持主といふのが、肺病に違ひないとはじめて知つた。翌日はもう他へ引越すことになつてゐるのだが、八月の初から今まで住んでゐる間に、その家に巣喰つてゐた肺病のバチルスが、きつと自分に傳染しているにちがひないやうな氣がして、私は快い心地で風呂に入つてゐたのが、その話を聞くと、悚然としてしまつて、顏色がひとりで變つたのを、自分で感じてゐた。  なるほどさういへば、あの家を初めて見附けた時に、これは目つけ物だと思つたのであつたが、門を入つて玄關までも隨分廣いし、南向きの座敷の方にある庭もその二三倍の廣さがあつたが、かなり長く空家にしてあつたらしくいかにも、その前後の庭が荒廢してゐた。家もなかなか注意して出來てゐて、玄關が三疊、その右手に六疊の茶の室があつて、玄關から八疊の座敷になり、その又左手に三疊か四疊半かの小座敷があつたり、玄關の三疊のすぐ右にも隱れたやうな二疊があつたりして、便所は八疊の縁側からも行かれるし、その二疊から、一枚の唐紙を開けても入られるやうになつてゐた。木口も無論、その頃の普請であるから、米材などはなく、好ましい小家《こいへ》であつた。しかし私は、何よりも前庭と後庭の廣いのが氣に入つて、こゝには、出來るだけ長く腰を据えて居りたいと思つてゐた。庭樹が少し多過ぎるほど入れてあつた。鉢前の十大功勞《ひいらぎなんてん》など、猪でも住むかと思ふほど繁茂してゐた。その木が庭に二三株もあつた。私はこの十大功勞の樹をあんまり好まない。それで、少し、何かするのに飽いてくると、庭に下りていつて、その樹の枝を伐り省いたりしてゐた。庭中が、何處へ足を踏み込れても、まるで藪のやうであつた。しかし、その庭の樹は見たところ悉く後で植ゑたものであつたが、その頃まだその邊――小石川の高田老松町の今ほど開けない時分で、到る處に高い木森《きももり》の蔭に蔽はれた草葺きの百姓家が這ひ伏さつてゐた。それで、その家の庭から、簡單な四つ目垣一つで仕切つた、すぐ南隣りの古い藁屋根の上に、天を摩するやうな老いた銀杏樹や欅の樹が二三本立つてゐて、私の住んでゐる家の縁から仰ぎ見るに丁度いゝくらゐの眺めであつたが、廣い庭の奧まで行くと、もう陰氣過ぎるほどの木蔭が暗淡としてゐて、何時からか、もう長く掃除の手入れの屆かぬ庭の隅には朽葉が溜まり放題堆く積つて、その腐つた臭氣がぷんと鼻に來た。そこらは眞夏の盛りでも、入つて行くと、しんとするやうであつた。何だか廢園といふ感じが深かつた。が、私には却つてそれが趣きがあつていいと思つてゐた。  後に別れた、その時同棲してゐた妻も、私と同じやうに疳性であつたから、疊なども越して來た時、二度も三度も拭いたり、敷き合はせだの閾際に溜つてゐる塵埃を、一々火箸の尖でほじり出して取つたりしたのであつたが、――これも後に、肺病の人間が住居に建てゝ住んでゐたのであつたと分ると、認か河豚を食つた後のやうで、いくら翌日は他へ行つてしまふのでも、何ともいへない不安を私は感じた。  それで、そこに移り住んでからやがて一と月ほどして九月になつた。  忘れもせぬ、五日の朝であつた。毎朝三四種の新聞を何よりも樂みにして讀んでみるので、その朝も、毎時投げ入れておく、玄關に並んだ六疊の茶の室の、出※[#「窗/心」、第3水準 1-89-54]の格子のところを見たが新聞が一枚も入つてゐない。はて、どうしたのであらうといつてゐる間に時間は立つたが、何時になつても新聞配達は來なかつた。  やがてその日の十一時頃になつて萬朝報の配達が一人暇さうにして來た。 「どうしたんだい、今日は一體?」 と、いきなり此方から聲をかけると、配達は茶の室の格子のところに凭りかゝつて、 「下町の方は昨夜から大變です。」といふ。 「どうしたんだ?」 「日比谷に昨日の晝間國民大會があつて、それから燒討ちがはじまつたんです。昨夜は銀座や日本橋の大通はまるで戰爭のやうな大騷ぎでした。國民新聞社の前など斬り合ひがはじまりました。」 「ほう、そいつは大變だな。」  日比谷で昨日今度の媾和條約に不滿を抱く同志の者が會合して國民大會を開催し、いやが上にも、國民の一般心理を挑發して、一層不平の氣分を募らしめようとしてゐたことは分つてゐたことであつたが、たうどうその不平の欝積は洪水の堤を決した如く爆發したのであつた。 「ふむ、さうかねえ、そいつは痛快だつたなあ。全く國民一般にとつては無理もないことだよ。國民の胸中を察すると實に涙が出るよ。ねえ、さうぢやないか、此の戰爭の爲めには稼ぎ人の良人《をつと》に出征せられて、死なれた者もある。親として大事な息子に戰死された者もある。良人や息子が戰爭にいつてゐる留守の間には、女房や子供はその日の口過ぎにも困つてゐた者が、ついそこらにもあつた。伜が働いてくれるので、もう何年にも老人《としより》は何にもせずにゐて濟んだものが、又自分で骨を折らなければならぬ。無論、それが擧國一致の義務と思へば諦めもつくが、その息子に戰死されたんでは、老先《おいさ》きの途《みち》が暗くなる。それだけは諦めようたつて、どうしたつて諦められるものぢやない。國民が、あれほど一所懸命に總がゝりで拵へた品物を、まるで二束三文の安値に棄て賣りしたやうな、まづい媾和條件でけりを附けられたと知つては腹を立てるのも無理はない。」  私は、この間中から自分でも腹の膨《ふく》れる思ひでゐたことを、そこで新聞の若い配達夫をつかまへて、滔々と[#「つかまへて、滔々と」は底本では「つかまへて 滔々と」]感慨を洩らした。  若い配達夫も、それに[#「配達夫も、それに」は底本では「配達夫も それに」]大いに同意して 「まつたくです。あんな條件でどうするんです。誰だつてさう云つてゐますよ。あれだけの戰爭をして、しかも全勝してゐながら、たつた樺太半分だけぢや仕樣がありません。昨夕なんぞは皆な同じやうにいつてゐましたよ。もつと戰爭を續けろつて怒鳴つてゐました。償金を出さなけりや、それでも可いからシベリヤをみんな日本の物にしてしまはなけりや戰爭を止めないんて。」 「はゝゝゝ、景氣が好いなあ、さうだ/\。」  私は、涙のにじむやうな慷慨の氣分が、むらむらと[#「氣分が、むらむらと」は底本では「氣分が むらむらと」]胸の底から湧いて來るのを感じた。  私はそれにつれて、それから又丁度十年前の明治二十八年の日清戰爭の媾話談判の當時のことを想い浮べた。下の關春帆樓に於ける、日支兩國の全權大使李鴻章と伊藤伯との交渉談判、平和條件として二億テールの償金、臺灣全島の割讓、その他に尚ほ遼東半島の割讓。あゝ何といふ大いなる戰勝の獲物であらう。私はそれを號外によつて始めて知つた時に、私自身がそれだけの物を貰つたやうに悦び禁ぜなかつた。私共がまだ十四五歳の小學生徒の頃から、世界の地圖を見て最も先づ感することは、いかに、吾々日本人が世界に處して肩身の狹い思ひをしなければならぬ小國であるかといふことであつた。わづかにアジヤ大陸の太平洋沿岸に沿ふて※[#「くさかんむり/最」、第4水準 2-86-82]※[#「くさかんむり/爾」、U+85BE、24-上-18]たる一小群島國を成してゐるに過ぎないではないか。いくら日本人が自分ひとりで意張つてゐたところが、世界の地圖の上からいつたら、高の知れた島國に外ならぬ。ジヤワとか、スマトラとか、又はニユージーランドのやうな大洋の中の一孤島である。それを思ふと、實に日本國の前途の運命は先天的にもう制限されてゐるものと思はれるのであつた。日清戰爭のあるまで、日本は支那の屬國とばかり思つてゐた外國人が、イギリスあたりにはめづらしくなかつたといふことを聞いても、それは無理でないと思へた。一國特得の文明とか精神力とかいつたところが、やつばり領土が廣大でないとその國は富強とはいへない、世界に處して幅が利かない。  ところで、日清平和條約の結果として、台灣を得たといふことも決して滿足でないことはない、又二億テールの償金を得たといふことも惡いことではないが、金は、何だか、自分で貰ふのでないだけに、直接にさまで難有いとも思へぬ。なるほど台灣は、四國の二倍か三倍あるかも知れぬが九州の半分くらゐのものであらう。どちらにしても高の知れた太平洋上の哀れな孤島である。ところが遼東半島となるとさうではない。半島とはいいながら、アジア大陸の一角である。しかも巨大なる支那老帝國の咽喉を扼する最も緊要の地點であるのだ。日本は即ちこの遼東半島を領有することによつて、とにかくアジア大陸に脚を踏み掛けたことになつた。世界地圖に於ける日本の地圖の色は、開闢以來太平洋岸の一孤島一つに制限されてゐたものが、これからはアジア大陸の一角にも同色を塗ることになつたのである。  かゝることは、小學校時代の少年の頭には非常な力で何物か知ら強い影響を與へるものである。例へば自分の住んでゐる家が借家であることを知つた時に、子供が肩身の狹い思ひをするやうなものである。ところが、父が自分の家をこしらへたとしたら、子供はきつと肩幅の廣くなつた氣がするであらう。私は小學校時代から常に世界の地圖を見て肩身の狹ひ思いをしてゐたのが、その時になつて始めて俄に肩幅が廣くなつた思いがした。日本の前途は決して先天的に限られて居りはせぬぞ。否な、自然《ナチユラル》地理《ゼオグラフイ》からいつたならば、さうでもあらうが、日本國民は、彼等の、世界に稀有なる能力によつて、先天的なる自然の制限を踏破して國家を繁榮せしむることを、よくなし得るのだ。遼東半島! 遼東半島! 遼東半島を領有したことは、それを足場にして、將來更にそれ以上に、彼の、吾々が吾が祖先中の最も偉大なる英雄として敬愛するところの豐臣大閣が晩年に空想してゐたやうな前途の運命を開拓しないとも限らぬといふことを豫約しているものである。  さう思つて、その時二十歳であつた私は、まるで自分のことのやうに思つて欣喜雀躍してみると、それから二三日して、新聞の號外は、盛、獨、佛三國の干渉の爲に日本は折角支那から得た遼東半島を還附しなければならぬことになつたといふことを報じた。  私はその時、――それは明治二十八年の、忘れもせぬ四月の、たしか十日頃であつた。が、その號外を、自分の眼を疑つているやうに少時視詰めてゐた。けれども還附といふ文字に間違ひはなかつた。私は、丁度大きな魚を、水の上まで釣り上げて手に捉らうとしたところで又水の中に取り落した時のやうな、悔しい思ひに胸が塞がつてしまつた。それは、私のまだ東京に來ない時分で、郷里方の岡山に住んでゐる時分のことであつた。實際その日は私は飯を食つて胸が痞《つか》えて咽喉に通らなかつたことを記憶してゐる。日本は結局、遂に又、やつと足を踏み掛けた大陸からそれ等の三國の爲に大平洋の水の中に突き落されたのである。水に溺れた者が、やつと浮び上つて岸に取り附かうとして※[#「足へん+宛」、第3水準 1-92-36]いてゐるところを、その手を取つて、ふたゝび水の中に押し落されたやうなものであつた。  しかし、その墳恨の思ひは、無論|單《ひと》り、私ばかりではなかつた。國民一般、上下に通じて所謂臥薪甞膽といふ、國民的報復の合言葉がその時新に造られたくらゐであつた。爾來十年、臥薪甞膽の功空しからず、愈々國民的抂屈を伸べる時運が際會したのであつた。所謂帝國大學の七博士などゝいふ慷慨家中にはバイカル以東を斷じて日本の版圖に塗り變へねば承知出來ないなどゝいふ人達も出て來た。  私は、萬朝報の配達夫を對手に慨然としてゐた。  配達夫も同感の色を面に表はしながら、 「まつたく普通の兵隊にいつている人は氣の毒です。ですから昨夜なども群衆は巡査に向つては抵抗するが、そこへ兵隊が來ると、すぐ靜まるんです。そして萬歳を唱へてゐる。兵隊の方でも群衆の心はよく分つてゐるから、巡査には劍を拔いて、群衆を斬つたのも大分あつたやうですが、兵隊は決してそんなことしません。」 「うゝさうだらう。國民は一般兵隊に對して同情するところから不平を爆發したんだから。……さうかねえ、大分斬られた者があるか。」 「隨分死んでゐませう。××の配達で一人銀座裏でやられた者がありました。私も片腕を一本斬り落されたのを見ました。」 「大變な事になつてしまつたねえ。これで、兵隊と國民とが和合してゐるんだから濟むやうなものゝもし警官と國民と一所になつて、兵隊を向うに※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]はして爭ふやうなことがあると、いよ/\内亂だからな。」 「まつたくです。まあ今のところ、その心配はないのです。しかし、昨夜の日比谷から銀座邊の騷ぎは、まるで戰爭のやうでした。」 「さうだらうなあ。」私は、それを見なかつたのが、さも殘念のやうにいつた。 「國民新聞社に押寄せた時なんか物凄かつたです、どちらも皆な拔刀ですから。そこでも三四人死んでゐるでせう。」 「ふう………」 「あれから上野に行く本通りの交番は皆な燒かれてしまつたでせう。」 「おう、交番を燒いたのか。」 「えゝ、……交番を片つ端から燒いて行くのが、とても早いんださうです。どんな者がやつてゐるんだか、どうしても捉らないんださうです。今こゝが燒け出したと思ふと、もう向うの方が燒けてゐるといふ具合に。警官の方では狼狽へてしまふ。」 「飛んだ奴が又出て來たものだねえ。やつてゐる奴は面白くつて堪らないんだらう。」 「えゝ、さうなんです。何でも二三人非常に素早い者がゐて、石油の函のやうなものを持つて、さつと屋根に飛び上つて、それへ火を附けて置いては、先きの交番々々と驅け出して行くさうです。」 「交番や警官に、今度の媾和談判が少しの責任はありはしまいし、いゝ迷惑だな。しかし、國民の愛國心の飛沫とおもへば、それも勘辨出來ないこともない。なんしろ面白い。……今晩も又やるだらう。」 「えゝきつとやるでせう。日比谷公園の中には、昨夜野宿をして、何かしようとしてゐる群集がまだ大勢居りました。」 「ふむ、ぢや、やる/\。」  今から二十一年も前のことであるから、私は丁度三十であつた。かなり元氣も盛であつた。隨分貧乏に苦んでゐたが、それも、さまで苦にならなかつた。今に何とかするだらうくらゐに考へてゐたから、いろ/\に焦心しつゝも割合にのんきでもあつた。  その日午飯を濟ますと早速に日比谷の方に出ていつてみた。九月の初旬の日はきら/\と眩しく照り輝いて、殘暑はまだなか/\酷しかつた。電車はその頃どういふ處まで通じてゐたか、はつきり記憶にないが、何でも飯田の方まではまだ歩いていつたやうに思ふ。それから日比谷附近にいつてみると、公園の鐵柵のあたりの木蔭などに、何をしてゐるのかたゞ休息してゐるのか、得體の知れない勞働者風のものなどが、あちらにも此方にも寄り集つてゐる。内務大臣の官邸の前あたりには、嚴めしい騎馬巡査が往來の方を睨んで警固してみる。昨夜は、公園附近のこの芳川内務大臣の官邸にも一團の群衆が押寄せてガラス窓など散々に叩き壞したのであつた。  私はそれから公園の中に入つていつて、廣場の方に歩いて行くと、そこには今日も又何か集會があるらしく、熱血男子の血を沸かすやうな旌旗が幾流となく立てゝある。  一劍依天寒とか、忠肝義膽とか、赤心報國とか、可屠國賊とか、いつたやうな、今でいふなら、支那人の革命騷ぎにでも掲げさうな漢文思想の文字を墨黒々と書き流してゐた。しかし私は、可なり共鳴的な氣分でそれ等をぢつと見てゐた。考へてみるのに、私には、やゝ善い意味で靖獻遺言などにあるやうな忠魂思想、又もつと低級な意味で浪花節思想が少なからずあるのだ。私が少年時代からもつと體質が健康であつたならば、必ずさういふ、所謂志士的方面に轉ついたであらうといふことはたしかに考へられる。それはしかし、私の中の、決して惡い部分ではなかつた。ところが、青年時代の終頃から、段々極端な軟文學の方に入り込んでしまつた。そして、今日のところ、それで生涯を卒らうとしてゐる。けれども、何だか私には、此の、煎じつめた軟文學の最尖端に立つてゐることが、決して私の中の善い部分ではないやうな氣がしてならない。私には、やつぱり靖獻遺言や日本外史や浪花節思想が自身の根底をなしてゐるやうにもおもへるのである。  それから日比谷公園の中を、私は、うつかりして誤つて警官に咎められないやうに、何か用事でもありさうに、さつさつと歩いてみた。が、自々と照り渡る殘暑の太陽の光に、昨夜の魔物は影を沒してしまつたやうに、結局公園の中はしんとして、ところ/″\の木蔭には、疲れたやうな人夫姿の者が横になつてゐぎたなく眠つてゐたり、蹲んでゐたりするのを見受けた。交叉點のあたりは二十年後の今日ほどには未だ雜沓してゐなかつたやうであるが、でもそこらには多くの通交者が、通りすがりに、物々しい騎馬巡査の警護の有樣や、何となく日比谷の邊に立ち澱んでゐる不穩な形勢をじろ/\見ながらいつた。  私はそれから數寄屋橋を渡つて銀座から日本橋の方をずつと見て來た。しかしながら昨夜そんな騷擾があつたとは思へないほど、大なる東京の市街は、いづれも平和な生活に急がしさうであつた。  私は一旦、小石川目白臺の家に戻つて來た。が、私の中にある活力は、今とちがつて、郊外から市中へ出て來ると、ぐつたり疲れてしまふやうなことはなかつた。 「晝ちやつまらない、日が暮れたら又始めるだらう。」私は、妻に向つてそんなことを話してゐたが、やがて夕飯を濟すと、そのまゝ家に靜つとしてゐることは出來なかつた。  それから又家を出て、江戸川から矢來の通りの方に出て行くと、もう牛込の郵便局の手前あたりから、兩側の店舖では、どこの家でも表の戸を締めてしまつて、不斷の繁華にも似す、寂然としてしまつて、内から灯影一つ洩れてこない。たゞ、私と同じやうな、好奇心に驅られた彌次馬らしいのが、まるで足音を盜むやうな形をして、一歩々々神樂坂の方に歩いてるばかりである。そして、時々先きの方の暗がりから、「そらツ」といふ聲がして、前の方に進んでゐる者から足並を亂して後へ崩《なだ》れかゝつて遁げ返へして來る。私もそれに慴えて一緒にどつと後へ驅け戻る。と、また何でもなかつたので、皆な恐る/\前へ進んでゆく。通寺町から肴町の方まで來ると、街路に人の出集つてゐるものが次第に多くなつたが、さて格別のこともなさゝうで、私はずん/\大胆に前へ進んでいつた。やがて毘沙門前あたりには、確かに本當の彌次馬らしいのが多勢ゐて、何となく、そこらが、ざはめいてゐる。 「今夜は牛込の警察を燒くんだ。」  たれかゞ暗の中で、きまり切つたことのやうにいふのが聞えた。  それから神樂坂の處は、眞暗の中にもう道に群集が填つてゐて、とても人を分けては通れない。私は、軒先の立て看板の下をくぐり/\下へおりていつた。と、行つて見れば何事もなしに坂下のところまでも下りて行かれた。あそこの外堀電車の通りにも無論群衆は立錐の餘地もないくらゐで人で埋つてゐて、電車はもとより、通交も出來ない暗の中をよく透して見ると、牛込警察の周圍には、ずらりと柿色の軍隊が人垣を築いてゐて、その前には嚴めしい劍附銃を五六挺づゝ組み合はして、じつと控えている。すると、眞暗の中から何者の爲業か、警察の※[#「窗/心」、第3水準 1-89-54]硝子に礫を投げつける者があつて、時々がらがらといふ凄じい物音がする。それでも柿色の軍隊は林の如く靜かで、身じろぎもしない。群衆と軍隊とは、わづかに三、四尺の餘地を殘して、兩側に長く人垣を造つてゐるが、群衆は、軍隊に對しては、極度の敬愛と、同情と、信頼を抱いてゐるので、兩者の間には、たゞ暗の中に顏を見くらべてゐるばかりで何事も起らない。そこで、時々、その暗夜の單調を打破るやうに、警察の※[#「窗/心」、第3水準 1-89-54]に向つて逃くから礫を投げつける音が、ばら/\と聞えるばかりであつた。  私は少時それを見てゐたが、牛込の警察は警衞堅固にして、とても暴徒に襲はれる氣づかひもなさゝうなので、又もとの道を、群衆の間を縫ふやうにして戻つて來た。そこで、江戸川を渡つて、目白臺の上まで來かゝると、小石川の高台の上の方に、どこか神田か下谷あたりでもあらうか、三四ヶ處に遠く火の手が、暗の空を焦してゐるのが見えた。又こちらを振顧ると、四谷あたりの見當にも二三ヶ處明るく火の手の上つてゐるのが見えた。あゝやつてゐるなと思つた。が、何となくその火の色は思ひなしにか景氣が好かつた。  日本は確かにあの時分は、ナシヨナル、ロマンチシズムの一つの時代であつたのだ。(九月三日) 底本:「文藝春秋 十月號」文藝春秋社    1926(大正15)年10月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「臺灣」と「台灣」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: 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