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モーリス・ルブラン著「アルセーヌ・ルパンの逮捕」

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アルセーヌ・ルパンの逮捕

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とても不思議な旅行だった! あんなにいい感じで始まったのにな! あれより良い状況で始まった旅行はなかったよ。アルスター号はスピードが速くて快適な大西洋横断定期船だったし、船員も愛想が良かった。船には特に選ばれた人たちだけが乗っていた。新たな交友関係ができたし、楽しい遊びも計画された。ぼくたちは、ぼくたちだけの世界にいるみたいな心地よい感覚を共有していた。まるで未知の島に取り残されたみたいな感覚があって、それ故に互いに親しくならなければいけないように感じたんだ。だから、みんなすごく親しくなってしまったんだ…。

君はこういうふうに考えないかい? 驚くべき風変わりなことがここにはあるんだ。今言ったように、それまで互いに知らなかった人たちが、何日間も、無限に続く空と果てしない海との間にある船という閉じた空間で一緒に過ごす運命になって、海の猛威に挑み、波が絶え間なく襲いかかってきたり、転覆するような風や眠っているように不気味に凪いでいる海面の驚異に警告を発したりするんだよ!

そういった生活にはね、嵐も、偉大さも、単調さも複雑さもあるのだからして、一種の悲劇的な主題になりうるんだ。たぶん、それだからこそ、終わりが見える短期間の船旅を、むりやりにでも非常に熱心に楽しむんだろうね。

だけど、近年になって事情が変わった。船旅の興奮に新たな要因が加わったんだ。かっての孤島は、もうぼくたちが思っているような「世界から切り離された空間」ではないんだよ。大海原の真ん中ではときどき切れるんだけど、たまに一本の糸がやってくるんだ。無線電信だよ! まるで別世界から召喚を受けるように、今言った不思議な空間にニュースを持ってくるんだ。もうメッセージを伝える線を想像することはできない。神秘は前よりわかりにくくなり、いっそう詩的になってきた。ぼくたちは、その新しい奇跡を解くのに、風の力を借りなければいけないんだよ。

そもそもの始まりから、なにかにあとをつけられているように感じていたし、もうそいつに追いつかれているかも、とか、遠くからささやいてきたかも、という感じさえしていた。ときどき、ぼくたちが後にした大陸から、誰かが乗客のひとりになにかささやいているみたいだったよ。友だちが二人、ぼくに話しかけてきた。ほかに十人から二十人くらいが、良い悪いにかかわらず、ぼくたちに声を送ってきていた。そんなある日のこと、航海の二日目に嵐にあったんだ。フランスの海岸から五百マイルくらいの地点だった。無線電信がぼくたちにこんなメッセージを送ってきたんだ。

アルセーヌルパンキセンチュウニアリ イットウ キンパツ ミギウデニキズ ヒトリタビ ナマエヲR…

ここまでメッセージが来たときに、暗い空に激しい雷鳴が響き渡った。電信はここで終わってしまったんだ。残りはついに届かなかった。ぼくたちには、アルセーヌ・ルパンが身を隠すためにつかう偽名のイニシャルだけしか分からなかったんだ。

ほかの種類のニュースだったら、電信を受けた船員と船長とで、良心的に秘密を守ることができただろう。だけど、今あげたニュースは間違いなく、どんなに慎重に隠そうとしても広まってしまうものだったんだね。どこから広まったのかは分からないんだけれども、あまり日がたたないうちに、アルセーヌ・ルパンが船にひそんでいることが明らかになってしまった。乗客の中にルパンがいるんだ! もう何ヶ月も、あらゆる新聞にその名が挙がっている、あの不思議な怪盗が! フランスの誇る名探偵であるガニマールが、その詳細が絵巻になるような命がけの闘いを挑んだ、あのルパンが! アルセーヌ・ルパンは、自らの好みに従って、田舎の邸宅と上流社会の客間でしか仕事をしない紳士なんだ。ある夜など、ショルマン男爵家に忍びこんだ後、何もとらずに自分の名刺を置いていったんだよ。

アルセーヌ・ルパン 怪盗紳士

そこには鉛筆でこう書いてあった。「あなたの持ち物が本物になったときに、また参上いたします。」

アルセーヌ・ルパンは、千の顔を持つ男なんだ。運転手・オペラ歌手・賭元・金持ちの子息・青年・老人・マルセイユの外交官・ロシアの医者・スペインの闘牛士と、なんにでも変装できるんだ!

状況はこうだ。アルセーヌ・ルパンが、大西洋横断定期船という比較的限定された範囲内で動きまわっていて――一等船客という集団の中、と言い換えてもいいね――いつ何時、サロンや客間や喫煙室といった場所ですれ違うかもしれないんだ! アルセーヌ・ルパンはあそこにいる紳士かも……いや、すぐ近くのこの紳士かも……テーブルでとなりにいるあの人か……大広間にいるあの人かもしれない……。

「考えてもみて、こんな状態があと五日間続くのよ!」次の日にはネリー・アンダーダウン嬢に泣きつかれたよ。「何てひどいことでしょう! 彼にはぜひ捕まっていただきたいですわ。」そして、ぼくに向かってこう言ったのさ。「ねえ教えて、ダンドレジーさん。あなたは船長と仲がよろしかったですわね。なにかお聞きになりまして?」

ネリー・アンダーダウン嬢を喜ばせるために、なにか言ってあげたかったね。だって、彼女はとてもすばらしくて、どこにいても注目の的になる人だったからね。その美しさは宝石のように輝いていた。熱心な崇拝者の列が彼女の後ろにあったよ。

ネリーはフランス人の母親によってパリで育てられた。そのときは、彼女の父で、アメリカの大富豪であるアンダーダウン氏の元へ行くためにシカゴへ向かう途中だった。ジェラード嬢という友だちが彼女に付き添っていたよ。

ぼくは航海のはじめから彼女に興味がなくはなかった。だけどね、航海中に急速に仲が進展して、彼女の魅力にぼくはまいってしまった。ネリーの、大きく見開いた黒い目に見つめられると、いつもぼくは単なる気まぐれというには小さすぎる高ぶりを覚えたものだ。彼女の方でも、ぼくの献身に特別な好意を抱いてくれたんだ。ぼくの話には笑ってくれるし、興味を持ってぼくの話を聞いてくれた。ぼくが時折見せる献身に対して、ばくぜんと同情を示してくれたりもしたんだ。

ひとりライバルがいてね、そいつが心配の種だった。確かにそいつは美男子だったし、上品な身なりをしていて、マナーも完璧だった。そいつが静かに話をしだすと、このぼくが示す「あけすけな」パリジャン気質よりも彼女の気をひくらしかった。

彼もまたアンダーダウン嬢を取り囲む崇拝者のひとりだった。彼女がぼくに話しかけてくれたときにもその中にいたよ。ぼくたちはデッキにいて、そこの椅子に気持ちよく座っていた。前の日の嵐で、空はすっかり晴れわたっていた。楽しい午後だったねえ。

「確かなことは何も聞いていません。」ぼくはそう答えた。「しかし、ぼくたち自身で調査ができないか、そう思っています。ちょうど、ルパンの個人的な敵だった老ガニマールがやったみたいにうまくできないものでしょうか。」

「まあ、気が早いこと。」

「なぜでしょう? 難しいとお考えなのですか?」

「とても難しいですわ。」

「あなたはひとつ忘れておられます。ぼくたちはすでに解答へ至る道しるべを持っているのです。」

「どういうことですの?」

「第一に、ルパンはRで始まる名前で旅行している。」

「それはかなりあいまいですわね。」

「第二に、彼はひとりで旅行している。」

「そんなことがなんになるのでしょう!」

「第三に、彼は金髪である。」

「そうですわね。それで?」

「以上から、ぼくたちは乗船名簿を調べて、あてはまらない人をチェックすればいいのです。」

ぼくはポケットに名簿を持っていた。それを取り出して、目を通していった。

「まず始めに、名前がRで始まる人が十三人しかいないことがすでに分かっています。」

「たった十三人ですか?」

「一等船室にはそれだけです。このことについては、あなたご自身で確かめることができます。うち九人は妻とか子ども、従者を連れています。そのため、四人だけが残ります。ド・ラベルタン侯爵―。」

「公使の秘書ですわ。」アンダーダウン嬢がさえぎった。「私、あの人を存じ上げてます。」

「ローソン中佐……。」

「私のおじです。」誰かが言った。

「リボルタさん……。」

「私だ。」ぼくたちの中から声があがった。その人はイタリア人で、顔はふさふさした黒いあごひげにおおわれていた。

アンダーダウン嬢は長いこと笑っていたよ。「その人は金髪ではないですわね!」

ぼくは続けた。「これによって、ぼくたちはリストの最後に載っている人物こそが犯人であると結論できます。」

「それは誰ですの?」

「ロゼーヌさんです。誰か、ロゼーヌさんを知っている人はいますか?」

誰も答えなかった。そのとき、アンダーダウン嬢は、そばで静かにしていた(ぼくはそのことにいらだっていた)青年の方を向いてこう言ったのだ。「ねえ、ロゼーヌさん、あなたなにか意見がございまして?」

全員が彼を注目した。彼はみごとな金髪だった!

ぼくは少なからずショックを受けたことを認めるよ。ぼくたちを襲った沈黙は、無言のうちに、みなが同じようにショックを受けていることを示していたんだ。ばかばかしいことだけども、そのときは彼の立ち居振る舞いの中に、疑わしいところはなかったんだ。

「私に何を言えといわれるのですか?」彼は返事をした。「あなたが言ったとおり、私の名前、髪の色、ひとり旅であること、以上の事実が明らかです。私はすでに、同じことをして、同じ結論に達しました。従って、私の意見は、私は逮捕されるべきであると言うことです。」

こう告げたときのロゼーヌはとても妙だった。唇が前よりも薄く、青白くなっていたし、普段は青白いはずの目が血走っていたんだ。

ロゼーヌが冗談を言っていることは明らかだったけど、ぼくたちにはその表情や態度が気になった。アンダーダウン嬢は、なにげなくこう尋ねたんだ。

「ですが、傷は持っていらっしゃるのですか?」

「ありがたいことに、傷は持っていません。」

ロゼーヌ氏は神経質な感じで袖口をまくり上げて、腕をぼくたちに見せた。しかし、そのときある考えがぼくの心に浮かんだ。ぼくの目がアンダーダウン嬢の目と合った。ロゼーヌは左の腕を見せたのだ。

ぼくはすぐに、そのことを指摘しようとした。だがそのとき、ある出来事が起きたんで、みんなの注意がそっちに行ってしまったんだ。

ジェラード嬢(アンダーダウン嬢の友人だよ)が走ってやってきた。彼女はひどく動揺していた。みんながその周りを囲んだ。大変な努力の末に、どもりながらも彼女はこう言ったんだ。

「私の宝石……私の真珠……全部盗まれたんです!」

その後ぼくたちが捜索したところによれば、全部が盗まれたわけではなかった。だけど、もっと不思議なことがあったんだ。泥棒はね、盗むものを選んでいたんだ。

ダイヤモンドの勲章や、ルビーのペンダント(それ自体は無事だった)や、ネックレスやブレスレット(それらは壊されていた)から、泥棒は、もっとも大きくて、美しくて、価値がある宝石だけを盗んでいったんだ。それだけ持っていくんなら、値段は高いし、同時に、容積も小さくてすむからね。台座は机の上に荒っぽく置かれていた。ぼくはそれを見た。みんなも見ていたよ。美しい色とりどりの花びらをちぎられた花みたいに、宝石が座金から抜き取られていたんだよ。

この仕事を実行するためには、泥棒は、真っ昼間、ジェラード嬢がお茶を取りに行っている間に、よく人が通る廊下で個室のドアを壊して、バンドボックス[#注一]の底に隠された小さな宝石箱を見つけて、それを開けて、宝石を選び出す、そういったことをすべてこなさなきゃいけなかったんだ。

ぼくも含め、みんなが同じ言葉を叫んだ。この泥棒行為が分かったとき、みんな同じことを考えたんだ。これはアルセーヌ・ルパンの仕業だ。確かに、窃盗行為は彼自身の手で複雑にされ、奇妙で不可解な事件になっていた……。けれど一方では、論理的なやり口だとぼくなんかは思ったね。扱いにくい飾り物を全部隠すのは難しいけれど、真珠やエメラルドやサファイアみたいな、小さいものだけ隠すんなら、そんなに難しくないんだ。

夕食時に変化が起こった。ロゼーヌの両隣の席は空席になっていた。そして夜になって、ぼくたちはロゼーヌが船長に呼ばれたことを知った。彼の逮捕(この頃にはみんな、彼がルパンだと信じていた)は、ぼくたちを安心させた。ついにぼくたちも呼吸ができるのだ。サロンでシャレード[#注二]を楽しんだ。ダンスもした。アンダーダウン嬢は特に、ぼくに対して無理にでも明るく振る舞った。ロゼーヌの心遣いは、最初は彼女の気をひいたんだろうが、もうそのことは頭になかった。ぼくは彼女の魅力にまいってしまった。真夜中になって、まだ月の光が残るなか、ぼくはアンダーダウン嬢に真摯な愛を告白した。それに対して怒った様子はみせなかったよ。

だが翌日、誰もが仰天することが起こった。ロゼーヌに対する告訴がまだ不完全だったんだ。彼が釈放されたんだ。

ロゼーヌは、自分はボルドーに住む大商人の息子だと言明した。そして、疑問の余地がない正規の書類を提出したんだ。それに、腕には両方とも傷の跡がなかったんだ。

「書類は本物なんだろう。」ロゼーヌの敵はこう言っていた。「出生証明書! フン! アルセーヌ・ルパンはそれくらい何ダースも提出できるさ! 傷のことか……傷がないのを見せたにすぎんね。あるいは、傷跡を消したんだろうよ!」

それに対して、盗みが行われた時間にロゼーヌはデッキを歩いていたんだ(このことは証明されていた)というものもいた。それに対しては、こんな反論がなされた。ロゼーヌのような男なら、自分自身が働く盗みに立ち会う必要はないだろう。それにね、ほかのことはさておき、ロゼーヌを弁護する人たちが決して口にしないことがひとつあった。ロゼーヌ以外に、一人旅で、金髪で、Rで始まる名前の人がいるのか? ロゼーヌ以外に、無線電信の内容と一致する人がいるのか?

昼食前に、ロゼーヌが大胆にもぼくたちのグループに近づいてきた。すると、ジェラード嬢とアンダーダウン嬢はすぐにグループを離れていったんだ。

明らかに疑っていたんだ。

一時間後、手書きの告知が出て、船のスタッフ、船員、乗客全員にまわされた。M・ルイス・ロゼーヌがこう提案したんだ。アルセーヌ・ルパンの仮面をはがすか、盗まれた宝石の所有者を発見した人に、一万フランの報酬を出す。

「もし、悪漢を見つけだす試みに賛成する人がいなければ、私が自分でやって見せます。」とまで船長に言ったそうだ。

ロゼーヌ対アルセーヌ・ルパン。興味が尽きない闘いだったよ。人々はこう噂していた。アルセーヌ・ルパン対アルセーヌ・ルパンだってね。

闘いは二日間続いた。ロゼーヌは至る所を見てまわり、船員に混じって、誰彼となく質問していた。夜になると、あたりをうろつく彼の影が見えていた。

あとに付き従う船長が一番張り切っていたね。アルスター号は舳先から船尾まで、あらゆるところが捜索された。すべての客室が対象になった。盗まれた宝石は、泥棒自身の客室を除いてどこかに隠されていなければならない、というもっともな口実があったからね。

「これなら、なにか見つかるでしょうね?」アンダーダウン嬢があるときこう言ってきた。「どんな魔法使いだって、真珠やダイヤを見えなくすることはできませんものね。」

「もちろん見つけるでしょう。」ぼくは言った。「もしそうならなければ、あの人たちはぼくたちの帽子や服の裏地とか、所持品をも捜索する必要がありますね。」そういっておいて、五×四型のコダック製カメラを彼女に見せた。彼女の姿勢や表情をいっぱい撮影しようと、飽くなき努力を費やしていたんだ。

「たとえばこのカメラですが、ジェラード嬢の宝石をすべて隠すためにはこれで十分なくらいですよ。あなたは写真を撮るふりをします。そして、すべてが終わるのです。」

「でも、泥棒はみんな現場に証拠を残すものだと聞いたことがありますわ。」

「決してそうしない人が一人だけいます。それがアルセーヌ・ルパンなのです。」

「なぜでしょう?」

「『なぜでしょう?』と言われますか? 理由は、アルセーヌ・ルパンはこれから実行する盗みのことを考えるだけでなく、自分に不利な条件もすべて数え上げているからです。」

「あなた、最初はもっと自身がおありでしたわ。」

「それは、ルパンの仕事を見たことがなかったからです。」

「それで、今は……。」

「ぼくたちは、時間を無駄にしていると思いますね。」

実際、調査の結果何も発見できなかった。いや、少なくとも、あれだけ徹底した調査にはみあっていなかった。船長の時計がなくなっていたんだ。

船長は怒っていたね。さらに力を入れるようになった。以前よりロゼーヌを厳重に監視していたし、何回か会見を持ったりもした。だがその翌日、皮肉にも、時計は二等航海士のカラー入れから発見されたんだ。

すべては非常にすばらしく、泥棒のユーモラスな仕事ぶりを明瞭に示していた。芸術家以外にはこんなふうにはしないだろうね。アルセーヌ・ルパンにとって、泥棒という仕事は職業としてやるものだったけど、趣味としての側面もそこにはあったんだ。劇のような感じを、自分の仕事に与えていた。自分の脚本を楽しげに演じ、そでに控えて自分で演出した喜劇に笑い転げ、自分でつくり出した状況から目を背けさせるんだ。

ルパンはまさに、個性豊かな芸術家だった。

ぼくは、頑固にふさぎ込んでいるロゼーヌを見ていると、この奇妙な男が間違いなく持っているはずの二面性の影響を受けてしまって、ある種の賞賛なしには彼の話をすることができなかった……。

さて、アメリカに到着する一日前の夜、当直の船員が、デッキの一番暗いところでうなり声を聞いたそうだ。船員がうなり声の主に近寄っていくと、そこには頭を厚手の灰色マフラーで巻かれ、両腕を細いひもで縛られて倒れている男がいたんだ。

船員は結び目をほどき、彼を助け起こして気付け薬を与えた。

男はロゼーヌだった。

そう、ロゼーヌは捜索中に攻撃され、殴り倒されて、縛られていたのだ。服に名刺が取り付けられていて、そこにはこう書いてあった。

アルセーヌ・ルパンは謹んでロゼーヌ氏の一万フランを頂戴いたします。

実際に財布が盗まれていた。財布には二万フラン入っていたそうだ。

もちろん、この不運な男は自分自身への襲撃をねつ造したという告発も受けた。だけどね、発見されたときみたいにきつく自分で自分を縛ることは不可能だったし、それとは別に、名刺の筆跡はロゼーヌのそれとはまったく違っていて、むしろアルセーヌ・ルパンの筆跡(船上で見つかった古新聞に載っていたんだ)と一致していることが証明されたんだ。

つまり、ロゼーヌはアルセーヌ・ルパンではなかったんだ! ロゼーヌはロゼーヌで、ボルドーの商人の息子だったのだ! そして、このような恐ろしい行為によって、アルセーヌ・ルパンの存在が再びよみがえってきたのだ!

船中は恐怖に包まれた。乗客は、もう客室に一人でいたり、船の離れに単独でとどまっていたりはしなかった。互いに大丈夫と確信した人同士で用心深く固まっていた。それでも、本能的に不信感を覚えて、もっとも仲のよかった人同士で仲違いしたりしていた。単独の個人に襲われるという危険ならば、そいつを監視することで、危険でなくすることができただろう。アルセーヌ・ルパンは、今では誰ででもあるという状態だった……。興奮のあまり、ルパンは神秘的で果てしない力の持ち主だとさえ思われていた。一番ありえない種類の変装さえも、彼ならできるだろうってね。つまり、尊敬すべきローソン中佐や、高貴なるド・ラベルタン侯爵に変装しているかもしれないのだし、挙げ句の果てに――もう誰もイニシャルのことは考えなくなってたね――知名度の高い人や、妻や子どもや使用人を連れている人でさえも交代で疑われたよ。

無線電信は何も言ってこなかった。少なくとも、船長はぼくたちに、そのことについては何も言わなくなった。そのことは、不安を解消する役には立たなかった。

航海の最終日は永遠に続くように思われた。乗客たちは、悲劇的な予想の中に沈み込んでいた。なにかが起こるだろう、単なる盗みとか、襲撃とかではなくて、犯罪らしい犯罪、つまり殺人が起こるだろうってね。アルセーヌ・ルパンがたった二つの盗みで仕事を終わりにすると信じている人はいなかった。アルセーヌ・ルパンこそが船を支配していた。航海士はそれに対して無力だった。ルパンは自由に希望を叶えてきた。まさにやりたい放題だった。その手にみんなの生命と財産を握っていた。

ぼくにとっては楽しいときでもあったと告白しておこう。なぜなら、ぼくはついにネリー・アンダーダウンの信頼を獲得したんだ。今までにあげた出来事によって、まったく自然な恐怖に襲われて、ネリーはぼくの保護を求めてきた。喜んで受け入れたよ。

心のなかで、アルセーヌ・ルパンに感謝した。ルパンの存在によって、ぼくとネリーの仲がまとまったのではないのか? ぼくが甘い夢に浸ることができるのも、ルパンのおかげではなかったか? それが恋の夢であり、またそれが実現不可能な夢ではないことを、どうして告白しないでいられようか? ダンドレジー家はポチバンの名家だったが、その名声は少しばかり落ち込んでいた。一家の名誉を旧に復することを考える気持ちがぼくの中になかったといえばうそになるだろうね。

ぼくの中では、こういった夢想はネリーを怒らせてはいないという確信があった。ネリーの目は微笑んでいた。ぼくはそれをおおいに楽しんだ。柔らかい声に、ぼくは希望がもてた。

アメリカの海岸が見えてくるころには、ぼくとネリーは、デッキを取り巻く欄干にもたれて、寄り添っていられるようになった。

犯人の捜索は断念された。すべては想像の中にあった。一等船客から三等船客(その中には移民する人たちもたくさんいた)まで、すべての乗客が、未解決の謎が説明される最期の一瞬を待っていた。誰がアルセーヌ・ルパンだったんだろう? アルセーヌ・ルパンは、どんな名前で、どんな変装をしてひそんでいたんだろう?

いよいよ最後の瞬間がやってきた。もし今後百年生きたとしても、細部に至るまでいちいち忘れないだろうね。

「青白い顔をしているね、ネリー。」寄り添っている彼女にそう言った。ぼくの腕の中で、ネリーは失神しそうになっていた。

「あら、あなたもですわ。まるで変わってしまっているわ。」彼女が返事をした。

「考えてもごらん。とてもわくわくする瞬間ですよ。ぼくはあなたのそばにいられて、本当に幸せですよ。ネリー、あなたの記憶の中に、ときどきにでも思いだしてくださると思うと……。」

ネリーの息が詰まり、熱気を帯びてきた。ぼくの言葉が耳に入らないらしかった。タラップが下げられた。しかし、ぼくたちがそこを通れるようになるまでにいろんな人たちが甲板にやってきた。税関吏や制服の男たち、郵便配達員といった人たちだよ。

ネリーがつぶやいた。

「もしもアルセーヌ・ルパンが船から逃げだしていたとしても、私は驚きませんわ。」

「彼は逮捕される不名誉よりは死を選ぶでしょうから、大西洋に飛び込んだのかもしれませんね。」

「冗談はおよしになって。」彼女は悩ましげに言った。

突然ぼくは身震いした。理由を聞かれて、こう返事をした。

「タラップのそばにいる、小柄な老人が見えますか?」

「傘を差して、緑のブロックコートを着た人のこと?」

「あれがガニマールです。」

「ガニマール?」

「そうです。必ず自分の手でアルセーヌ・ルパンを逮捕すると誓った、有名な探偵です。ああ、ぼくは今やっと、大西洋のこちら側からニュースが来なかった理由が理解できました。ガニマールがここにいたんですね。彼は自分の仕事を誰かに邪魔されるのがお嫌いなんだそうです。」

「では、ルパンの逮捕は確実ですわね?」

「誰にそう言えますか? ガニマールは変装をしたルパンにしか会ったことがないということですよ。この旅行で使っている偽名を知っているなら話は別ですがね。」

「ああ、逮捕される瞬間を見たいですわ。」その声には、女性特有の残酷な好奇心がこもっていた。

「待ってみましょう。アルセーヌ・ルパンもすでに敵の存在に気づいているはずです。きっと、老人の目が疲れたころになって降りていくつもりでしょう。」

乗客がタラップを降り始めた。ガニマールは、無関心といった感じで、傘にもたれかかっていた。両側の手すりの間にひしめく人たちになんの注意も払っていないように見えた。ガニマールのそばに船員が立っていて、ときどきなにかささやいているようだった。

ド・ラベルタン侯爵、ローソン中佐、イタリア人のリボルタと、乗客が次々に下船していった。その最後尾に、ロゼーヌが近づいていくのが見えた。

かわいそうなロゼーヌ! 彼は自分の身にふりかかった出来事から回復していなかった。

「やっぱり彼なのかもしれませんね。」ネリーが言った。「どう思われます?」

「一枚の写真にガニマールとロゼーヌをおさめるのもとても面白いですね。カメラを持っていただけませんか? 手がふさがっているので。」

ぼくはカメラをネリーに手渡した。しかしそれを使うには遅すぎた。ロゼーヌが手すりを通っていった。船員がガニマールに何かささやいていた。ガニマールは肩をすくめた。ロゼーヌは通りすぎた。

だが、そうなると、アルセーヌ・ルパンとは誰なんだろうか?

「そうだわ、いったい誰なんでしょう。」ネリーがそれを声に出していた。

船には二十人だけ乗客が残っていた。ネリーは彼らを代わる代わる見渡した。アルセーヌ・ルパンが、その中の一人ではありませんようにという、当惑気味な表情を見せながら。

ぼくは彼女に言った。「ぼくたちも、もう待てませんよ。」

ネリーが動いた。ぼくもあとに続いた。しかし、十歩も行かないうちに、ガニマールがぼくたちの前に立ちふさがった。

「これはどういうことですか?」ぼくは叫んだ。

「しばらくお待ちいただきます。何を急いでいるのですか?」

「ぼくは、この方に付き添っているのです。」

「お待ちいただきます。」最初のより奇妙な声でガニマールが繰り返した。

ガニマールは熱心にぼくを見つめた。それから、ぼくをまっすぐに見つめ、こう言ったんだ。

「アルセーヌ・ルパンだろう。」

ぼくは笑った。

「違います。ただのベルナルド・ダンドレジーですよ。」

「ベルナルド・ダンドレジーなら、三年前にマケドニアで死んでいる。」

「ベルナルド・ダンドレジーが死んでいるんなら、今ここにいるはずがないでしょう。そんなことありえませんよ。ここに身分証明もあります。」

「それは確かに彼の書類だ。君がどうやってそれを手にいれたか、喜んで君に話してやるよ。」

「ですが、間違ってますよ!アルセーヌ・ルパンは、Rで始まる名前で旅行しているのですよ。」

「そうだ、それもお前のやり方だ。向こうの大陸ではだましおおせたんだろう、ほんとに君は頭がいいよ!だが、今度はつきに見放されたな。来いルパン。最後は立派に飾るんだ。」

ぼくは二の足を踏んだ。ガニマールがぼくの右腕に傘をふりおろした。ぼくは「痛い!」と叫んだ。電報で言ってただろ、右腕のまだ治ってない傷に当たったんだよ。

降参するしかなかった。ぼくはアンダーダウン嬢の方を見た。ぼくたちの会話を聞いて、顔面蒼白になり、よろめいていた。

ネリーはぼくを見た。その目は次に、ぼくか渡したカメラに注がれた。突然体を震わせた。間違いなく、彼女も察したんだ。そう、盗品はカメラの中にあったんだ。小さいカメラの中に、黒いモロッコ皮でおおわれた空間があってね、その中に、ロゼーヌの二万フランとジェラード嬢の真珠とかダイヤとかを隠していたんだ。だから、ガニマールに逮捕される前に、万が一のことを考えて、ネリーに渡しておいたのさ。

神に誓って言おう。この厳粛な、ガニマールと二人の部下に囲まれた一瞬において、ぼくの逮捕や人たちの敵意といったようなものにはなんの意味もなかった。ただ一つ、ネリー・アンダーダウンがこのぼくの裏切り行為に対してどう行動するのか、それだけが問題だった。そのときネリーは、ぼくに対する重要かつ決定的に不利な証拠を握っていた。ぼくがそのことを気にかけていたかだって? そうじゃないよ、ネリーがその証拠を警察に提出するかどうかだけが重要だったのさ。

ネリーはぼくを裏切るだろうか? ぼくを破滅させるだろうか? ネリーはぼくの敵となる行動をとるのか、はたまたぼくとの想い出を胸に残し、このぼくに少しばかり同情と寛大さを見せてもらえるだろうか、それだけが気になっていた。

ネリーがぼくの前を通りすぎた。ぼくは黙って深々と頭を下げた。ほかの乗客に混じって、ネリーはタラップの方へ進んでいった。手にはコダックカメラを持ったままだった。

「当然だろう。」ぼくは考えた。「人が大勢いる中ではそんな勇気はないはずだ。ここを通り抜けて一時間もしたら、当局に提出するつもりなんだろう。」

ところが、タラップの真ん中あたりに来たとき、ぎこちない動きで、ネリーが船と桟橋の間に見える海にコダックカメラを落としたんだ。

そしてぼくはネリーが去っていくのを見た。

ぼくを魅了した横顔が群衆の中に消えた。また現れて、見えなくなった。これで終わりだった―永遠に終わりだった。

しばらくはデッキで動けなかった。悲しかったけれど、心の奥ではあの甘美な感情に支配されていたんだ。ガニマールも非常にびっくりしてたけどね、ぼくはため息をついてこんなことを言っていたんだ。

「この身が恨めしい……すべて、ぼくが悪かったんだ……。」

以上が、ある冬の日に、アルセーヌ・ルパンが、自分が逮捕された瞬間について話してくれたことです。いずれ書くつもりですが、ふとしたことから、私たちの間には友情(あえてこう書きましょう)が成立していたのです。私はアルセーヌ・ルパンと光栄にも確かな友情を結んでいる、とさえ考えています。私の不意をついて時折尋ねてくるのも、この友情のおかげなのでしょう。アルセーヌ・ルパンは、私の静かな書斎に、若々しい陽気さ、真剣なる人生の輝き、気高い精神を持ち込んでくれます。ただ微笑と好意とでしか報われない運命にある人間だけが持つあの精神のことです。

彼の風貌ですか? なぜ私に言えましょうか? 私はもう二十回もルパンを見ましたが、いつも違った顔で私の前に現れるのです。というか、同じ一人の人間でありながら、多くの鏡みたいに二十の異なったイメージを残していくのです。おのおのが違った目を持ち、それぞれ違う輪郭、ふるまい、生い立ち、個性を持っているのです。

かつて彼が私に言ったことがあります。「ぼく自身、本当の顔を忘れてしまったんだ。鏡の中にさえ、ぼく自身を認められないんだよ。」

もちろん、これは逆説的な警句でしょう。でも、彼とのつきあいを持ち、その無限の能力や忍耐力、並ぶものがないメーキャップ技術、自分の特徴さえも自由にある顔から別の顔へと変えてしまう恐るべき能力に気づかない人にとっては、間違いなく真実なのです。

ルパンは私にこう言いました。「なぜぼくがいつも同じ顔を持つんだい? 常に同じ個性でいるなんて、危険じゃないかね? ぼくの行動だけで十分独創的なのにさ。」

そして、やや誇らしげにこうつけ加えました。

「だれにだって『アルセーヌ・ルパンがここにいるぞ。』と確信を持って言えないならなおけっこう。大切なことは、『これこそアルセーヌ・ルパンがやったことだ。』と間違いなしに言わせることなんだよ。」

これから彼の功績を、ほんの一部ではありますが、お目にかけようと思っています。あんな冬の日に、わざわざ私の静かな書斎にやってきて、私に対する好意から、打ち明け話をしてくれたルパンには、本当に感謝しています……。

原作:The arrest of Arsene Lupin
原作者:Maurice Leblanc(モーリス・ルブラン)(1864-1941)。Translated by Alexander Teixeira de Mattos (1865-1921)

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翻訳履歴:2002年5月27日、原作者の著作権保護期間が過ぎたことを受けてとりあえず公開。
2002年9月6日、html版を公開。
2002年9月18日、枯葉さんのご指摘により訂正。
2002年9月19日、枯葉さんのご指摘により訂正。
2002年10月6日、訳文一部手直し、使用条件を明確化。