暗号錠 リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから横組み] -------------------------------------------------------  どんないきさつから、私はその晩、ジャンボリーニ料理店でソーンダイクといっしょに食事をしたのか、はっきり覚えていないが、たぶん、ちょっとしたなにかの仕事がかたづいたので、その骨休めだったのではないかと思う。とにかく、私たちは六月すえの明りのさしこむ大窓を背にして、ソーンダイクのえらんだ、おくまったテーブルに坐ったのだった。そして、バルサク酒を一壜注文したあとで、口にいれられるものが半分しかないようなオルドーヴルをながめていたら、そこに、一人の男がつかつかはいってきて、私たちの隣りのテーブルに坐ったのである。それは予約してある座席らしく、一つだけ斜めに椅子をテーブルに立てかけてあった。  私は、その紳士の、まじめな、秩序ある動作を、好奇心をもってみた。一つだけ座席を準備してあったことや、給仕のもののいいぶりで、その男が常連であることは、すぐにわかった。だが、私が好奇心をおこしたのは、そんなことでなく、その人物そのものに、興味を抱いたからで、彼はどことなく特異の性格の持主らしく、風采にもどこか変ったところがあった。年のころは六十ぐらいらしく、細っそりとした小柄で、しわのよった顔はきびきびとして、むら気らしく、頭の白髪はぴんと逆立っていた。チョッキのポケットからは、万年筆や、鉛筆や、外科医が使うような細長い懐中電灯がのぞき、時計の鎖には銀ぶちの拡大レンズがぶらさがり、左手の中指には、私が見たこともないような、大きな認印つきの指輪がきらめいていた。 「あれ、どんな人だと思う?」  私の視線を追って、その男をみると、ソーンダイクはきいた。 「分らんね。レンズをぶらさげているところからみると、動植物の学者か、なにかの科学者のようにも思われるが、それにしては、指輪が大きいのはおかしいね。骨董品や古銭を集めている人か、でなければ古切手蒐集家かもしれないよ。とにかく、なにか小さいものを取扱っている人だよ。」  そのうち、一人の男がその男のそばに歩みよって、手を差し出した。その男は大儀そうにその手をとって握手した。新来の男は椅子をもってきてそのテーブルに坐り、メニューを取りあげて見だした。前からいる男は、不機嫌らしい顔でそれを見まもっていた。彼は一人で食事したいのだ。そわそわとした、出しゃばる新来の男を、あまり好いていないらしい。  私はその二人から視線をそらして、入口に立って誰かをさがすように見まわしている、背の高い男をみた。その男は、空いているテーブルを見つけると、そこへ行って坐って、給仕の持ってきたメニューを熱心に見だした。いやな男だと私は思った。若い男ならおしゃれも許せるだろう。が、中年の男が油でてかてか光る髪をまんなかから分けて、黒々とした口髭にまで油をつけ、そのうえ下唇の下に尖ったちょび髭をはやして、片眼鏡までかけているのを見ては、胸くそが悪くならざるをえないのである。だが、人のことはどうでもよい。私はいま食事をしているのだ。そう考えて、しばらく脇目をしないでいたら、ふと耳もとにソーンダイクの忍笑いがきこえた。 「うまい。」  彼はそういってグラスを下においた。 「ほんとだ。料理屋の酒にしてはいける。」私もそういった。 「酒がうまいんじゃないよ。バジャー君がうまいといっているんだ。」 「え! 警部のバジャー君が来ているの? どこにいるんだ? 見えないじゃないか。」 「見えんときいて安心した。僕が思っていたよりうまくやっている。しかし、顔につけている物に、もっと気をつけんとだめだ。さっきから二度も眼鏡をスープの中に落したからね。」  ソーンダイクの見ているほうに目をむけると、てかてか光る口髭の男が、こっそり眼鏡をふいていた。眼鏡をはずしたしかめ面には、なるほどバジャー警部の面影がみえる。 「そういわれてみると、なるほどバジャーにちがいないが、君が黙っていたら、ぼくには分らないよ。」 「ぼくだって、うっかりしていたら、見すごしたかもしれないが、バジャー君のいつもの癖に気がついたのだ。後頭をなでたり、ぽかんと口をあけて顎を掻いたりするのは、あの男の癖なんだが、見ていたらいまそれをやったよ。下唇の下のちょび髭を忘れていたとみえて、あれに指が触れるとびっくりして手をひっこめた。つけ髭を忘れるようじゃ、満点はつけられんわい。」 「なにが目的で、のこのここんなところへはいりこんだのかな。変装しているところをみると、相手に覚られぬよう、誰かを見張るつもりなんだろうが、まだそんな人間はここへ来ていないらしい。とにかく、誰かを見張るために来たことはたしかだ。」 「そうじゃない。もう相手はきているんだ。バジャーがわざと見ないふりをしている人間があるのに、君、気がつかないのか? この隣りの二人の男だよ。二人はバジャーの正面でありながら、バジャーは坐る前にちょっと見たきりで、その後はすこしも見ようとしない。それより問題は、バジャーがぼくらに気づいたかどうかということなんだが、ここは窓の逆光線で顔が見にくいだろうし、それに他のことばかり注意しているので、まだぼくらには気がつかずにいるらしい。」  私は二人の男を見、それから探偵を見た。なるほどソーンダイクのいう通りだと思った。探偵のテーブルには、大きなしだの鉢がおいてあったが、見ていると、彼はその鉢の位置を動かして、二人のほうから顔を見られないようにし、それからメニューを取りあげて、そのはしから時々二人を覗く様子である。そして二人が食事をすますと、彼もそれに調子をあわせて、給仕をよんで勘定をすませた。 「バジャーがどうするか見ていよう。」金をはらったソーンダイクはいった。「あの男は面白いことを思いつきながら、時々とんだしくじりをやるからな。」  長く待つ必要はなかった。二人の男はテーブルを離れて、ドアのところまで歩いていって、そこで立ちどまって葉巻に火をつけた。バジャーは姿見に映る二人の影を見ながら立ちあがり、二人がドアを開けて外にでると、彼も帽子とステッキをとって跡をつけた。  たずねるような目つきで、ソーンダイクは私をふりかえり、 「どうする、ぼくらも跡をつけるか?」という。  私は肯定的な返事をした。警部の跡をおって、料理屋を私たちはでた。  相当の距離をおいて、私たちは警部の跡をおったのだったが、それでも時々二人の男が見えたので、彼らの動作に警部が手こずっているのがよく分った。というのは、しばしば二人は立ちどまって、しきりになにか相談をするのだが、舗道に通行人が多いので、二人を見失わぬためには、警部はどうしても危険と思われるほどの距離まで、接近せねばならなかった。  さて、そのうち二人が立ちどまって、またなにか話をはじめたと思うと、年寄りのほうが冗談をいいながら、街の反対がわの何物かを指さしたのである。彼らは二人ともそのほうに顔をむけた。いや、二人だけではない。そばを通っていた者も、そのほうをふりむいたぐらいだった。むろん、バジャー警部もそのほうを見た。そのすきに、二人はそばにあった大きな建物にはいった。そして、警部がふたたび彼らのほうへ顔をむけた時には、もはやそこに二人の姿はなかった。  二人の姿を見失った警部は、ほとんど走るような勢で、彼らの立っていたシレスチャル・バンク・チェンバーズの、大きな建物の入口へ行き、そこから中を覗いてみた。すると、二人を認めたのであろう、彼もまたそのなかにとびこんだ。私たちも歩度を早めてそこへ行き、建物のなかをのぞいた。すると、長い廊下の途中に立って、慌ててエレヴェーターのボタンを押している警部の姿がみえた。 「お気の毒ながら、またバジャー君はへまをやったらしい。こんな大きな建物じゃ探すのにちょっと骨がおれる。ジャーヴィス君、ぼくらは廊下をぬけて、ブレナイム街へ出よう。」  その建物の折れ曲った廊下を通って、私たちが反対のがわへ出かけたら、先刻の二人が、階段をおりてくるのがみえた。 「あっ! あすこにいるじゃないか! ひきかえしてバジャー君に知らせようか?」  私はそういったが、ソーンダイクはためらった。すでに私たちは時機を失っていた。一台のタクシーが入口の外にとまって、一人の客をおろした。二人のうちの若い方が、運転手の視線をとらえてタクシーに走りより、ドアをあけて待つと、年寄りのほうがなかにはいって腰をおろした。若いほうもすばやくはいってドアをしめた。  タクシーが立ちさると、ソーンダイクは手帳と鉛筆をだして、その番号をかきとめた。私たちは廊下を引きかえした。エレヴェーターのそばへ行ってみたが、警部の姿は見えなかった。エレヴェーターであがったあとらしかった。 「もうあきらめよう、ジャーヴィス君、」と、ソーンダイクはいう。「ぼくらのことは知らせないで、タクシーの番号だけ、バジャー君に知らせてやろう。気の毒だがしかたがない。」  その後、このことは忘れていた。すくなくも私が忘れていたことは事実だった。そして、もうこの二人に会うことはなかろうと考えていた。まして、厄介な事件で、そのごまもなくこの二人にお目に掛ろうなぞとは、夢想だもしていなかった。  さて、捜査課の古いなじみの、ミラー警視の訪問をうけたのは、それから一週間ほどたったある日のことだった。長いあいだのつきあいで、私たちは双方で尊敬しあい、信用しあって、腕ききでもあれば、正直者でもある彼が来れば、いつでも私たちは喜んでむかえた。 「不思議な事件がおきたので、それでちょっと寄ってみました。ソーンダイクさんは不思議な事件がお好きだから。」  そんなことをいって、彼はいつも手放さぬ、葉巻の端をきった。  おだやかにソーンダイクは笑った。こんな前置きはなんども聞いた。こんなことをいう時のミラーは、多くの場合、浅瀬にのりあげた船みたいに、にっちもさっちもいかなくなっているのである。ミラーは話をつづける―― 「これはたちの変った悪党らしいのです。相手は団体らしいが、私が目をつけているのは、そのなかの主導者らしい男なんです。」 「そんなら、常習的に悪いことをやっているんですか?」 「それがね、まだはっきりしたことはいえないんですよ。まだ、その男に会ったわけじゃないんですから。」  ソーンダイクは苦笑した。 「分りました。始終さがしてはいても、まだお目にかかれないというところなんでしょう?」 「まあ、現在のところ、そういうよりほかないでしょうね。いま探しているんですが、どこにいるのか分らない。しかし近いうち見つかると思っているんです。その男と、こぶんのいどころは、どうしても探さなくちゃならん。案外少人数のギャングかもしれないが、油断できぬ連中ですから、野放しにしとくわけにはいかん。それに主導者が、普通の犯罪者とちがって、頭のあるやつらしいですから、棄てとくとなにかやらかしそうなんです。」 「いま、どんなことをしています?」私はきいた。 「窃盗ですよ。宝石や銀器、おもに宝石類ですな。やつらの手口の特色は、盗まれた品物がいつまでたっても売物にでないことなんです。盗まれたらそれっきり、いつまでたっても店に影をみせない。それがやつらのいつもの手なんです。窃盗があるごとに、盗品の出そうなところを、一々洗って歩くのですが、どこにもそんな物が出たことがない。煙になって消えたようなものです。だから手がつけられない。泥棒の姿も見えなければ、盗まれた品物も出てこないじゃ、どうにもなりますまい?」 「でも、なにか手掛りはあるのでしょう?」私はきいた。 「まんざらないこともないが、大したことはないんです。しかし、今のところ、それでも手掛りにするよりほかはない。じつは、私とこの巡査が、コルチェスターへ行く途中、汽車のなかである男といっしょになった、そして二日たってロンドンへ帰ろうとしたら、またその男がコルチェスターから乗って、リヴァプール・ストリート駅でおりたのですが、その二日のあいだに、コルチェスターで宝石の窃盗事件があったのです。次に、サザンプトンで窃盗事件があったので、私たちはウォータールー駅に張りこんで、下車する人間を一人々々見ていたところが、その、コルチェスターへ行った男ですな、そいつが見張りをしてから二日目に、ウォータールーへ下車したのです。それで、こりゃ怪しいと思って、タクシーを待たしてあったので、それに乗って尾行したら、すこしばかりのことを知ることができた。その男はシェモンズという名で、ブローカーの店に勤めているんですよ。しかし、その男の素性をよく知った者はいないし、店へもあまり顔はださんらしい。 「そこで、バジャーがこの男を二三日尾行してみたんですが、面白いことがつかめそうになった時、取り逃してしまった。バジャーがみていると、その男はある料理店へはいったのです。そして年を取った男のテーブルへ行って、握手してむきあって坐った。そこでバジャーもその料理店にはいると、まもなくその二人は料理店をでた。バジャーもあとからでた。ところが、その二人はシレスチャル・バンク・チェンバーズの建物にはいって、エレヴェーターで上へあがったので、それきり見えなくなってしまった。しかし、そのごこの二人は、タクシーで建物をでて、グレートタンスタイルへいったことが分ったのです。」 「それはよかったです。タクシーを尾行したのは上出来です。」  ソーンダイクはいった。 「それはそのくらいのことは出来ますよ。だが、それから先が困ったことになった。この二人はグレートタンスタイルで下車したきり、それからは誰も姿をみたものがない。空中で消えたようなものなんです。」 「料理店で会ったという、年を取った男は誰です?」私はきいた。 「料理店の支配人にきいてみたら、ラトレルという男だったのです。ラトレルなら、私たちのほうでも分っている。この老人は莫大な盗難の損害の保険をかけていて、旅行する時には、いちいち保険会社に知らせるので、会社が警視庁に連絡して、留守宅を見張らせるのです。」 「ラトレルといって、なにをする男なんです?」私はきいた。 「とにかく、ラトレルのやりくちを見ていると、あまり利口な男じゃない。宝石や骨董品の売買をしているんですが、気にいったら家具だろうが、絵だろうが、食器だろうがなんでも買うんです。だから、本当の商売人は、あの男は道楽に商売をやっているんだと悪口をいう。競売に立ちあったりするのが好きなんですが、馴れあいで競売にでるような連中は、ラトレルがくるのをいやがります。というのは、どんな手を打つか分らないからですよ。金を出す割合に、あまり儲けていないから、たぶん資産があるのでしょう。本当の商売人じゃない。ただ気にいったものを買うのが好きなんでしょう。とにかく一風ある変り者ですよ。サヴィーズ・インのあの男の家は、大英博物館のなかにある物を撒き散らしたようになっていて、各室のドアから寝室まで、警報の電気が通じているそうです。そして、部屋全体が金庫のようになっている金庫室の錠は、鍵でなしに、暗号の文字合せで開けるようになっているんだそうです。」 「それはかえって危険じゃないでしょうか。」私はいった。 「そうなんです。」ミラーはいった。「でも、アルファベットの種類が十五あって、それで四百億もの文字合せができるそうです。その老人が警戒しているのも、この金庫室でしょうが、私たちが警戒しているのもやはりそこなんです。そのなかには、どんな貴重なものがあるか分らない。シェモンズがうまく老人を丸めこんで、その金庫をあける機会を狙っているんではないかと、それを私たちは恐れているのです。」 「ラトレルは時々家をあけるとかいう話でしたね?」私はきいた。 「そうなんです。そんな時には、保険会社に通知したうえに、金庫室のドアのハンドルからドアの柱にかけてテイプを張り、柱のところに封印をしておくのです。ところが、今度は会社に知らせもしなければ、ドアにテイプを張りもしなかった。ドアの柱に封印はしてあるが、それは前の旅行の時のものらしく、ただテープの端のほうが少ししか残っていない。私は今朝管理人にそこを見せてもらったのです。この頃では私もあなたの真似をして、いつも蜜蝋とチャコを持ちまわっているのです。使ってみると、なかなか便利ですね。今朝はそれで封印の型を取ってきました。ごらんにいれましょう。」  そういいながら、彼はブリキの小箱をポケットからとりだし、そのなかから、柔らかい紙で包んだものをつまみだした。紙をとりのぞくと、それは、一方がたいらになって、そこに刻んだような模様のついた蜜蝋だった。  彼はそれをソーンダイクにわたし、 「どうです、よくできたでしょう? 蝋がくっつくと困るので、はじめ封印にチャコの粉をつけといたんです。」  ソーンダイクは、封印の型をレンズで覗きこんだあとで、私に型とレンズをわたし、 「これは、ミラーさん、もう写真にとったのですか?」ときいた。 「いや、まだなんですが、こわれると大変ですから、やはり写しといたほうがいいでしょうね?」 「大切なものは、写真にとっとかんといかんです。うちのポールトンに写させましょうか?」  感謝しながら、ミラーはその申しでをうけた。ソーンダイクは、すぐそれをもって階段をあがり、実験室のポールトンにわたした。  彼が帰ってくると、ミラーがいった。 「これはなかなか手の焼ける事件なんです。かんじんのシェモンズが姿を見せないので、どうすることもできない。ただ何事か起るまで、たとえば、つぎの窃盗が起るとか、あるいは金庫室を破ろうとしたというような、知らせがあるまで、待っていなくちゃならんのです。」 「まだ金庫室を誰もあけていないというのは、確実なんですか?」ソーンダイクはきいた。 「それが分らないんです。だから厄介なのです。ラトレルが姿を消したのは、殺されたためかもしれません。殺されたとすれば、シェモンズが死体のポケットをさぐったでしょう。さがしても金庫室の鍵だけは出てくる心配がない。これは文字合せの有難いところなんです。けれども、ラトレルは文字合せのメモのようなものを持っていたかもしれない。記憶のみにたよるのは危険ですからね。それから自分の部屋の鍵も持っていたでしょう。そんな物を手にいれれば、まっ昼間だってらくらくと忍びこめるわけなんです。ラトレルの部屋に人がいなくても、ほかの事務所には、しょっちゅう、人が出入りしています。誰だって一々そんな人を注意しちゃいられない。どうです、ソーンダイクさん、なにかいい方法はないでしょうか?」 「そんなことをいったって、まだ具体的な事実はなにもないんでしょう?」ソーンダイクはいった。「シェモンズが怪しいといったって、証拠はなにもないんです。行方不明になったといったって、ただあなたがたの目につかなくなったというだけなんです。ラトレルだって同じことですよ。ただ様子が変だというだけです。今までに分っている事柄だけじゃ、家宅捜索の許可をえるのは困難でしょう。」 「そうですとも。私も金庫室にはいる許可はえられないと思うんです。そして、金庫室にはいられなければ、結局なにも分らないんです。」  この時、ポールトンが蜜蝋の型を、宝石箱のようなこぎれいな小箱にいれてはいってきた。 「拡大したネガティヴを二つつくりました。はっきりとれたようです。ミラーさん、何枚いりますか?」 「一枚で結構。もっとほしくなったら、またあとで知らせますよ。」小箱のままポケットにいれて立ちあがった。「いくらかでも進捗したら、お知らせしますから、あなたのほうでも、そのあいだに、考えておいてください。なにかあなたのことだから、適当な手段を考えてくださると思うんです。」  ソーンダイクは考えとくと約束した。ミラーがでていくと、ポールトンといっしょに、私たちは階上の実験室に行って、ネガティヴを明りにすかしてみた。すでにこの時、私はその封印が、両端の尖った卵形の、ちょっと船の形であるのをみて、それがラトレルが指にはめていた指輪の印鑑であることに気がついていた。写真は三倍に引き伸してあるので、こまかいところがよく分った。デザインには特徴があって、垢抜けがしているというより、むしろ風変りであった。両方の尖ったところには、それぞれ頭蓋骨と翼のある砂時計をえがき、その中間の部分に、ローマ字の頭字ばかりで、なにやらこまごまと書いてあるのだが、はじめのほどは、それがなんだかさっぱり分らなかった。 「これは暗号だろうか?」私はきいた。 「そうじゃあるまい。ただ余白をうめるためにこんな文字を入れたのだろう。どんなことが書いてあるか、写してみようか。」  そういいながら、ソーンダイクはネガティヴを左手にもち、右手に鉛筆をもって、手元にあった紙片にこんな狂詩をかいた―― [#ここから横組み] [#ここから3字下げ] “Eheu alas how fast the dam fugaces Labuntur anni especially in the cases Of poor old blokes like you and me Posthumus Who only wait for vermes to consume us.” [#ここで字下げ終わり] [#ここで横組み終わり] 「これはあの老ぼれのラトレルの駄法螺の一つだ。こんな意味のわからん、間のぬけた冗談を封印にしたってつまらんだろう。」私はいった。 「ばかげた冗談にはちがいないが、しかし案外これに意味があるのかもしれないよ。」  そんなことをいって、彼は一二度それをくりかえして読み、それからネガティヴを乾かすために棚の上におき、紙片を手帳にはさんだ。 「こんな話をミラーが持ちこんで、考えておいてくれといった真意が分らない。こんなのは事件とはいわれないだろう。」私はいった。 「曖昧な事件であることは確かだね。」ソーンダイクはいう。「ミラー君やバジャー君が、想像をたくましくしても、結局なにごともなかったというようなこともあるだろう。でも、やはりぼくは考えてみるだけの価値があるように思う。」 「たとえば、どんなこと――?」 「とにかく君は両方の人物を見ているのだ。彼らがどんなに行動したかも見ているのだ。そのうえミラー君の話をきき、ラトレルの封印の写しを手にいれたのだ。そんな材料をつなぎあわせて考えてみると、すくなくも面白い推察ができるのじゃなかろうか。あるいは推察以上のものができあがるかもしれないよ。」  そんな言葉をきいても、私は突っこんで彼の意見をききただす気になれなかった。というのは、彼が「推察」という言葉を使う時には、いくらきいても自分の意見をはかないことをよく知っていたからだった。  だが、それからしばらくたって、私はソーンダイクが老人の小学生みたいな詩文に、特別の注意をはらっていたことを思いだし、なにかそれに意味があるのではないかと考えて、ネガティヴのばかげた文をつくづくとながめた。しかし、たといそれに隠れた意味があるとしても――意味があると考える理由はないが――その意味はどう頭をひねっても了解できなかった。そして、ラトレルぐらいの年齢の男なら、こんなつまらんナンセンスを書かなくても、もっと気のきいた文句があるだろうにと考えるのだった。  ミラーは長くは私たちを待たせなかった。それから三日たって、またやってきて、弁解がましい口つきでこんなことをいった。 「どうもなんどもお邪魔にあがってすみませんが、私はこの問題を棄てとく気になれない、なにかの手を打ってみたいと思うんです。そして、べつに意味はないのかもしれませんが、あの封印の文句を写して、いろいろ考えてみたんです。いったい fugaces といったら、なんのことです? vermes は蟲のことだと思うのですが、なんでこんなに綴るのでしょう?」 「これはラテン語の詩を、しゃれてもじったのですよ。ホーレスの詩に、こんな文句ではじまるのがあるのです―― [#ここから横組み] [#ここから3字下げ] “Eheu ! fugaces, Postume, Postume, Labuntur anni,” [#ここで字下げ終わり] [#ここで横組み終わり] 「これは、『ああ! ポスツーメ、歳月は休みなく過ぎゆく、』という意味なんですよ。」ソーンダイクはいった。 「そうですか、」ミラーはいう。「しかし歳月が過ぎるぐらいのことは、中年になった男なら、誰でも知っていまさあ。ラテン語で書く必要はありますまい。まあ、そんなことはどうでもいい。それより、ソーンダイクさん、私はラトレルのうちを、べつに目的があって捜索するというんじゃありませんが、ただちょっと見るだけの許可をえたのです。ここへくる途中、あのうちの管理人に会って、のちほど行くといっときました。どうです、あなたもいっしょにおいでになっては? ぜひいっしょにいらっしゃい。あなたは他の者が見ても分らんようなことが分るんですから。」  ミラーはそういって、思案顔のソーンダイクを、しばらく見つめたあとで、 「その管理人からきいたのですが、おかしなことがあるのです。電気のメートルに気をつけていたら、ラトレルの部屋で漏電しているらしいというのです。大した漏電じゃない。一時間三十ワットぐらい。しかしその原因が分らない。各部屋を見てまわったが、つけっぱなしの電燈はどこにもなかった。どこのスイッチも切ってあったし、漏電の箇所もなかったというのです。おかしいじゃありませんか?」  おかしい話にはちがいなかった。しかし、それを聞いたソーンダイクの顔に、急に興味の色が浮んだ理由は、私には分らなかった。彼はその話になにか特別の意味をかんじたのか、 「いつそこへ行くんです?」と、熱心にきいた。 「いますぐです。どうです? いっしょに行きませんか?」  ソーンダイクは立ちあがった。 「よろしい。行きましょう。ジャーヴィス君、君もきたまえ。一時間ぐらい、どうにでもなるだろう。」  私はすぐ同意した。わが友が急に興味をもちだしたのには、なにかそこに理由があるにちがいないと思ったからだった。そして、私たちは、マイター・コート、フェッター・レーンを通って、サヴィーズ・インの端にある、行方不明になった老人の、古めかしい住いをおとずれたのだった。 「私は一度ここを見たことがあるんです、」と、ミラーがいったのは、管理人が鍵をもって現れた時のことだった。「まず事務室をみて、それからあとで物置や居間を調べることにしましょう。」  表の事務室は、待合室のような簡単な部屋だったので、私たちはすぐそのおくの、広い事務室にはいった。  そこはこのやの主人が、居間としても使い、書斎としても使っていたものらしく、安楽椅子が一つ、壁ぎわに本棚、箱形の立派な本箱もみえ、一方の壁に大きな金庫室の鉄戸があった。私たちが吸いつけられるように、その鉄戸の前に立つと、管理人はこういった―― 「この金庫室はよくできています。錠はあっても鍵穴がないんです。もっとも、金庫の錠には鍵穴があっても、外から見えないのが普通ですけれどね。鍵をつかわんから、鍵をなくする心配がないというわけです。この金庫の『開け胡麻』がどんなものか、考えてごらんになったらいかがです。一生知恵をしぼったって、この文字合せが分る心配はないんですから。」  文字合せの金庫の錠は、鉄の戸柱にとりつけてあって、列をつくって立ち並ぶAという字が、細長い隙間から、金庫破りの泥棒に挑戦するかのようにみえる。試しに一つ二つの文字の円盤のぎざぎざのあるふちに、指を当ててまわしてみた私は、それがどんなに易易と、滑らかにまわるものかを知ることができた。 「こんなものをつついていたって仕方はない。」ミラーはいう。「それより、帳簿でもだして、どんな連中と取引きしているか調べてみることにしよう。私は一度あけてみたんだが、帳簿の戸棚には鍵が掛っていない。これは元通りにしといたほうがいい。」  彼は私の動かした金庫の錠の文字を元通りにし、本箱のほうへ歩いていった。  私は謎のような錠を、いつまでにらんでいても詰らんと思ったので、彼のあとにしたがって本箱へむかったが、ソーンダイクは無意味な文字の行列に目をすえて、動こうとしなかった。  ミラーは彼をふりかえって笑い、 「ソーンダイクさんは、文字合せをお解きになるつもりですか? 何億という数ですから、一生かかったって開く心配はないですよ。」  そんなことをいって、本箱のガラス戸をあけ、帳簿を抜きとって、デスクのように斜面になった本棚の上に拡げた。  ミラーは帳簿の索引をみながら、 「こんなものを調べたって、十中八九は無駄でしょうが、この人たちの一人ぐらいは、どこにラトレルがいるか知っているかもしれないし、また彼がどんな商売をしているか、そんなことを知る参考になると思うんです。」  名前のリストを、指を走らせながら一通り見おわって、ミラーがある一人の勘定を調べかけたら、だしぬけに金庫のほうから、鋭い物音が響いてきた。私たちがそのほうに顔をむけると、意外にも、ソーンダイクが手をふれているその金庫のドアが、すこしばかりあいているのである。 「あっ!」と、叫んで彼は帳簿をとじ、「開きましたか!」金庫のそばへ走りより、錠を見ながら声をだして笑って、「これは気がつかなかった! 最初からこのドアは開くようになっていたんですな。警視庁の連中はみな間抜けだった。誰もハンドルを引っぱってみる者がなかったんですからね。しかし、ラトレルのおやじもずるいな、こんな手で人を瞞すんだから。」  私がインディケイターを見ると、Aが十五字並んでいたが、こんな簡単な文字の行列が、暗号の鍵文字なのだろうかと、いぶかしがらずにいられなかった。ラトレルの冗談ともとれないことはないが、それではあまり不確実である。ソーンダイクは、半インチほどあいたドアのハンドルを握ったまま、底の知れぬ目で私たちを見ながら、 「内がわから、なんだかこのドアを押しているらしいよ。開けてみようか?」 「とにかく開けてごらんなさい。」ミラーがいった。  ソーンダイクは握っていたハンドルを話し、身をひるがえして立ちのいた。静かに重いドアがあいて、それにもたれかかっていた一人の男の死体が、ころりとあおむけに部屋の床に倒れた。 「ひやっ!」ミラーはびっくりしたように飛びのいて死体を見ながら、「これはラトレルじゃない!」といったが、すぐまた近よって死体の顔をのぞき、「なんだ、こりゃシェモンズじゃないか! こんなところにいたのか。ラトレルはどうしたんだろう?」 「まだこの中には、誰かいるらしい。」ソーンダイクはいった。  私が金庫室をのぞくと、奥の片方から微かな明りがさして、そこから人間の足が二本のぞいていた。すぐミラーは金庫室にはいっていった。私もあとにつづいた。  金庫室はL字形で、つきあたりが鍵の手にまがっていた。そのまがったいちばんおくについている弱い電燈の光で、そこに倒れている老人の死体や、その死体の額に、ひどい傷があるのがよく見えた。 「まず、この死体をかつぎだしましょう。」恐ろしい光景に慌てていたうえに、肉体的に不愉快を感じていたので、ミラーの声はいつもと変って、妙におどおどしていた。「そのあとでここを調べることです。これは単なる窃盗じゃない。よく調べてみる必要があります。」  私はミラーと二人で、ラトレルの死体を金庫から抱えだし、部屋のいちばん遠いはしの床の上に横たえた。シェモンズの死体もそこへ持っていって並べた。  ひととおり、二つの死体を見たあとで、私はいった。 「たいてい様子は分りますな。シェモンズが老人のすぐ後から、ピストルで頭をうったんですよ。弾丸のはいった後頭部の髪が焦げて、額に弾丸のぬけた穴がある。」 「そう。」ミラーも同じ意見だった。「それは分っているんですが、分らないのは、どうしてシェモンズが同じように金庫にとじこめられたかという問題なんです。ドアに鍵が掛っていないことは分っていたにちがいない。だのに、ハンドルを廻して開けようとしないで、ばかみたいに両手でドアを叩いたのはどうしてでしょうか? 両方の手をごらんなさい。」  ソーンダイクは一人でドアの錠を内がわからみたり、外がわからみたり、小頸をかしげていたが、 「まだ不思議なのは、このドアがどうしてしまったかということで、これは厄介な問題ですな。」 「そう。」ミラーも同感だった。「それはあとにして、もっと奇怪なのは、この金庫にコルチェスター窃盗事件の盗品が、ほとんど全部しまってあることですよ。ラトレルのおやじも一味なのかな。」  ミラーがそんなことをいいながら、恐るおそる金庫のなかにはいるので、ソーンダイクと私もあとにしたがったが、曲り角のところで、先頭のミラーは自動ピストルと革表紙の帳簿をひろいあげた。電燈の光でその帳簿をみていた彼は、ぱちんとそれを閉じてふりあげ、私たちをかえりみて、 「なんだか分りますか? 一味の住所氏名や、やった仕事が書いてある。こりゃ大変なものを見つけた。私たちが血眼で探していた一味の親分は、ラトレルだったんですよ。この棚をごらんなさい。これはみな盗んだ品物ですよ。私の持っているリストと比べてみれば分る。」  棚いっぱいに並べてある宝石箱や、銀食器、そのたの物を、じろじろ立って見まわしていたミラーは、ふと電燈のしたの鉄のひきだしに目をとめた。  それには不似合いに大きなハンドルがついて、「未加工宝石類」と大きく書いてあった。 「未加工の宝石ってどんなのがあるんだ?」  いいながら、ミラーはその前にしゃがんで、力をこめてひきだしを引っぱった。 「おかしいね。鍵はかかっていないが、なにか詰っていてあかない。」  片足を壁にかけてまた引っぱった。 「待った、待った、ミラー君!」ソーンダイクがいった。  だが、それと同時に、ひきだしが勢よく二フィートも飛びだして、がたんと大きな音がして、金庫室の鉄の戸がしまった。 「あ! あれはなんです?」  ミラーがそういって手を放すと、すぐまた音がして、ひきだしがしまった。 「金庫のドアがしまったんですよ。」ソーンダイクはいった。「なかなかよく出来ている。時打ち懐中時計のような仕掛けなんだな。ひきだしをあけると、スプリングが巻いて、ドアがしまるんですよ。よい思いつきだ。」  ミラーは蒼くなってソーンダイクをふりむき、 「でも、もう出られない!」 「心配ないですよ、錠の文字合せは元のままなんですから。」  私はそういったが、さすがに声は震えていた。  ミラーはヒステリーのように笑って、 「ああ、そうだったな。私もシェモンズと同じような馬鹿なのかな――でも、いちおう――」  手捜りに彼はドアのほうへ歩いていったが、まもなくハンドルをまわす音が聞えた。  だしぬけに、墓場のような深い沈黙を破って、恐怖の叫声がした―― 「ドアが動かん! 錠がおりている!」  胸をしめつけられるような恐怖を感じながら、私はドアに駈けよった。駈けよりながら、ドアを開けた時に転がりでた死体を幻に見た。私たちの運命もああなるのだろうか? あんなふうに、私たちの死体が発見されるのは、いつになってからであろうか?  鉄のドアのあたりに漂う薄明りで、狂人のようにハンドルにしがみついて、ドアを揺すぶるミラーの姿がみえた。彼は我れを忘れていた。  その点では、だが、私も彼とおなじで、もしや錠がおりていないのではないかと思った私は、全身の重みでドアにぶつかった。だが、石のようなドアは微動だもしなかった。私が二度目にぶっつかろうとした時、うしろにソーンダイクの声がした。 「ジャーヴィス君、だめだよ。錠がおりているんだもの。しかし、なにも心配することはない。」  ふいに私の目の前に、明るい光線の輪ができたのは、彼がいつもポケットに携帯する、懐中電燈をとりだしたからであった。その光芒が、第二のインディケイターともいうべき内側の文字合せを照すのを見た私は、落着きはらったソーンダイクの言葉つきと思いあわせて、なぜとも理由のない安心を感じた。ミラーも同じように安心したものか、いつもと変らぬ声の調子で、 「でも、錠はおりていないんでしょう? 私たちが入った時と同じように、[#横組み]AAAAAA[#横組み終わり]となっているんだから。」  その通りだった。  細長い隙間から見える文字合せの文字は、ドアがあいた時と同じように、Aが十五並んでいるに違いなかった。  してみると、この錠はごまかしで、ドアを開閉するからくりは、他にあるのだろうか? 私がそれを口にだして、きいてみようとしかけたら、ソーンダイクは静かに私に懐中電燈をわたし、私を押しのけて、インディケイターの前に立った。 「ジャーヴィス君、その電燈でここがよく見えるようにしてくれ。」  ソーンダイクは、端にぎざぎざのある文字盤を、逆に右のはしから順々に動かしはじめた。焦げつくような好奇心で、ミラーと私は、細長い隙間に動く文字を見つめた。だが、意外にも、彼の指がその隙間に浮きあがらせた文字は、Aの連続でなくて、Mの連続、それからLが一つ、つぎにXがいくつかくっついているのであった。  ずらりと並んだ十五の文字は、大洪水前の、太古の年のローマ数字のようにも見える。 「ミラー君、ハンドルを廻してみてください、」と、ソーンダイクはいった。  一口いうだけで充分だった。すぐミラーはハンドルをとって廻し、力をこめてドアを押した。それと同時に、ドアの隙間に細長い明りがさし、かたんと鋭い音を立ててドアがあいた。  すぐ私たちは金庫から外に飛びだした――すくなくともミラーと私が飛びだしたのは事実だった――そして生きて[#「そして生きて」は底本では「そし生きて」]出られてよかったと思った。  だが、金庫からでた私たちは、すぐその部屋に一人の男が立っているのをみた。部屋のむこうがわに、蒼くなった男が身をかがめて、恐わごわ二人の死体を見ているのである。  鉄のドアが厚くて、物音が部屋に漏れなかったのだろう、その男は、私たちが金庫からでると、びっくりしたように口をあけてふりかえった。すぐその男はドアをあけて、外にとんで逃げた。すかさずミラーが追っかけた。  その男はまもなく捕えられた。私があとからでてみると、舗道に立っていた背の高い男がその男にしがみつき、ミラーが手錠をはめて、タクシーを探すのだった。 「いまのやつ、きっと一味の一人ですよ。」事務室へかえると、ミラーはそういってハンケチで額の汗をふき、金庫室のドアをみて、「私はこのドアをみるとぞっとする。ひでえめにあわしやがった! あんなめにあったのは生れて初めてですよ。ドアがしまった時には、私たちもシェモンズのようになるのかと思った――ひやぁ!」また汗をふいて、金庫室のドアに近づき、「一体、文字合わせの符牒はなんですか?」インディケイターをちょっとみると、慌てて私をふりかえり、「ありゃ! さっきソーンダイクさんが文字を変えたのに、また[#横組み]AAAA[#横組み終わり]になっている!」  この時、今まで金庫のなかを調べていたソーンダイクが出てきたので、ミラーはその説明をきいた。 「なかなかよく出来ている。」ソーンダイクはいう。「金庫全体が、知恵のかたまりみたいなもんですよ。しかし、シェモンズが死んだのを見ても分るが、惜しむらくは、知恵のいれどころが悪かった。暗号の符牒は、ローマ数字なんですが、この錠は、ドアが開くとすぐ元へ戻るようにできているんです。だからシェモンズが袋の鼠となったのでしょう。彼はラトレルが錠をつつくところを、わざと見ないでいたか、あるいは、ラトレルが見せないようにしたのです。そして、殺そうと思っているラトレルといっしょに、おくへはいる前にインディケイターを見ると、Aばかり並んでいた。だから、それを暗号の符牒と考えたのです。ところが、いよいよ逃げだすだんになってみるとドアがあかなかった。」 「しかし、どうしてシェモンズは、ほかの文字を出してみなかったのだろう?」私はきいた。 「それはいろいろつついてみたんだろうが、どうやっても開かないので、結局、はいる時に見たAに返したんだと思う。こうやるんだ。」  彼はドアをしめ、それからミラーと私の見ている前で、たくさんの文字盤のぎざぎざのあるふちを廻して、隙間にあらわれる数字を、[#横組み]MMMMMMMCCCLXXXV[#横組み終わり]とした。それから彼がハンドルを握って、そっとひっぱると、ドアが動きだした。  だが、ドアが敷居を離れると同時に、がちゃんと大きな音がして、インディケイターの文字が、みないっときにAになってしまった。 「なるほどね、」ミラーはいった。「これじゃシェモンズがいっぱい食わされたのも無理はない。私だって瞞されたぐらいだ。Aが並んでドアが開いたようだったから、それでドアが開くのかと思っていた、しかし、私に分らんのは、どうしてソーンダイクさんなら、それが開くかという問題です。どうしてです、差支えがなかったら、わけを話してもらいたいですな。」 「それはあとで話します。いまはこの二つの死体の処置や手続きが急務です。私たちは帰ることにしましょう。金庫室を開ける必要もあるでしょうから、暗号の符牒を書いてあげましょう。取調べが進捗したら知らせてください。」  紙片に符牒をかいてミラーに渡した。  それから私たちは帰途についた。 「ぼくも分らないことは、ミラー君とおなじなんだ。」歩いて帰りながら私はいった。「どうして君には分ったのだ? たぶん封印の文句が手掛りになったのだろうとは思うが、どうしてあれから符牒が分り、またラトレルが一味の頭目であることが分ったのだ?」 「なんでもないごく簡単なことなんだよ、ジャーヴィス君、今までに見てきたことを考えてみれば、そのなかに必要な鍵は全部ふくまれているんだ。ただそれを適当に配列して、その意味を考えさえすればいい。まずラトレルのことから考えてみよう。あの男が親密そうな男といっしょだったところはぼくらも見た。二人は刑事に尾行されたが、尾行されたことに彼らが気づいたことは、巧みに刑事をふりまいた手際からも想像できる。あとでミラー君からきくと、若いほうの男は、ある窃盗常習の団体の一員であり、また老人のほうは金持で、風変りで、雑多な品物を取引きして、家に暗号錠の金庫室があることも分った。ぼくに合点のいかないのは、いつもは明敏なミラー君が、窃盗団の頭目を探していながら、このラトレルがその頭目の条件にぴったりあうのに、すこしも気づかなかったことだ。この老人は今までいろんな貴重品を買ったり売ったりし、また宝石や金銀を処分する手腕ももち、誰も開けることのできない大きな金庫を持っているのだ。ところで、暗号符牒でのみ、開けうるような金庫は、いったいどんな男が使うものだろうか? 安心して鍵を使いうるような人は、そんな金庫は持たない。けれどギャングの親分のような男にとっては、そんな金庫が役にたつわけだ。というのは、そんな男はいつ鍵を盗まれるか分らないからだ。だが、秘密の符牒は盗まれもしないし、またそれを知っているからといって殺されもしない。それだけ考えてみても、ラトレルが彼らの親分であることはうなずけるのだ。 「つぎに、金庫の戸じまりの問題を考えてみよう。はじめ、ぼくらはラトレルが左手の指に邪魔になるほどの大きな指輪をはめ、時計の鎖にレンズをぶらさげ、ポケットに小型の懐中電燈をつっこんでいるのを見たが、これだけではなんのことだかわけが分らぬ。けれどもその後、ミラー君が暗号符牒の文字合せで開く金庫のことを話してくれ、こまかい文字のある封印の写しを見せてくれたので、ここに初めて、その二つに連関性ができたわけなんだ。人間は誰でも、ことにそれが老人である場合には、暗号符牒をどわすれするぐらいのことは、ちょいちょいあるものだ。だから、忘れた時に思い出すものを持っていなければならぬ。それかといって、他の者が見てすぐ分るようなものだったら、金庫の安全性が失なわれる。他の者がちょっと見ただけでは分らぬ、暗号でなければならぬ。だから、あの封印の文字を見、それをレンズや懐中電燈とつなぎ合せて考えると、あの文句のなかに、暗号符牒がふくまれていることは、容易に想像できるのだ。そして、その文句が意味をなさぬ詩文であるという事実は、この想像をいっそう確実なものとしてくれる。あの詩に意味がなければ、なにかに目的のあることはすぐ分るだろう。そこで、ぼくはあの詩をいっしょうけんめいに解剖してみたのだ。 「ところで、ミラー君の話によると、金庫の文字合せは十五字あるということだった。してみると、その鍵文字は、superlativeness というような、一語か、でなければ短かい語をつなぎ合せたものか、でなければ、化学式か、その他の文句ということになる。あるいは、クロノグラム([#割り注]訳註――文章や文句のなかのローマ数字を特別に大きくかいて、その数字を加えると、年号がでる文章や文句を、クロノグラムという。たとえば ChrIstVsDVX; ergo trIVMphVs, というラテン語のなかの、大文字のローマ数字を加えると、MDCXVVVVII(1632)という年号になる[#割り注終わり])のようなものかもしれぬ。秘密の記録や手紙に、クロノグラムを使ったという話はまだきかぬが、それが大変都合がいいということは、何度も考えたことがあるし、ことにこんな場合では都合がいいのだ。」 「クロノグラムといったら、メダルなんかによく使う書き方だろう?」私はきいた。 「そう。メダルによく使うね。文章のなかのある文字が、その文章に書いてある事柄に関係した年を現すのだ。多くのばあい、年を現す文字は分り易いように大文字で書くが、これは必ずしも必須条件ではない。必須条件はなんであるかといえば、ローマ字のアルファベットに二つの種類があって、一つはただの文字、一つは文字であると同時に数字である。その数字はMが千、Dが五百、Cが百、Lが五十、Xが十、Vが五、Iが一。そして、クロノグラムを判読する時には、文章のなかからこの数字のみを抜きだして、順序を無視してその数字を加えてみて、その合計を年の数字ということにする。 「さて、いまいったように、ぼくは封印の文章が、クロノグラムではないかと考えたのだ。けれども錠の文字合せには、文字はあるが数字はない。だから、もし数字があるとすれば、それはローマ数字で、合計が十五字になるような数字でなければならぬ。ぼくのこの予想は、実験してみるのには手数がかからないので、すぐあの詩をクロノグラムとして判読してみた。ところが出てきた! 十五の文字が出てきた! まだ実際に金庫の錠で試してはみないが、ぼくはこの十五字にちがいないと確信した。」 「どうして君が判読したか、それをもっと詳しく話してもらいたいな。」  私がそうきいたのは、二人が部屋にはいって、ドアをしめてからのことだった。  私はテーブルの上に大きなメモ帳と鉛筆をおき、彼とむきあって椅子に腰かけた。 「さあ、説明してくれ。」 「よし、ではまずクロノグラムの法則にしたがって、UをV、WをVを二つ続けたものとし、数字だけ大きくしてあの詩文を書いてみよう。」  彼はそういって、詩文をつぎのように、大文字で書いた―― [#ここから横組み] “EHEV[#「V」は2段階大きな文字] AL[#「L」は2段階大きな文字]AS HOVV[#「VV」は2段階大きな文字] FAST THE D[#「D」は2段階大きな文字]AM[#「M」は2段階大きな文字] FV[#「V」は2段階大きな文字]GAC[#「C」は2段階大きな文字]ES L[#「L」は2段階大きな文字]ABV[#「V」は2段階大きな文字]NTV[#「V」は2段階大きな文字]R ANNI[#「I」は2段階大きな文字] ESPECI[#「CI」は2段階大きな文字]ALL[#「LL」は2段階大きな文字]Y I[#「I」は2段階大きな文字]N THE C[#「C」は2段階大きな文字]ASES OF POOR OLD[#「LD」は2段階大きな文字] BL[#「L」は2段階大きな文字]OKES LI[#「LI」は2段階大きな文字]KE YOV[#「V」は2段階大きな文字] AND[#「D」は2段階大きな文字] M[#「M」は2段階大きな文字]E POSTHVMV[#「VMV」は2段階大きな文字]S VV[#「VV」は2段階大きな文字]HO ONL[#「L」は2段階大きな文字]Y VV[#「VV」は2段階大きな文字]AI[#「I」は2段階大きな文字]T FOR V[#「V」は2段階大きな文字]ERM[#「M」は2段階大きな文字]ES TO C[#「C」は2段階大きな文字]ONSVM[#「VM」は2段階大きな文字]EV[#「V」は2段階大きな文字]S.” [#ここで横組み終わり] 「これを各行別に書いて、計算してみよう――」 [#表1(fig55454_01.png、横337×縦388)入る] 「この四つの行の合計は――」 [#表2(fig55454_02.png、横69×縦118)入る] 「すなわち、合計は七千三百八十五、これをローマ数字でかくと、[#横組み]MMMMMMMCCCLXXXV[#横組み終わり]で、ちょうど文字合せのインディケイターの、十五字を埋め合せることになる。そして、またくりかえしていうが、この意外な発見を、そのたの状況と思い合せて考えてみると、この文字こそ金庫の鍵文字にちがいないと思われるようになった。だから、ぼくとしては、ただじっさいに金庫室のまえに立って、実験してみさえすればいいまでの段取りになっていたのだ。」 「話はちがうが、君はミラー君から、電気のメートルの話をきくと、急に元気づいてきたようだったね?」 「あたりまえだよ。あの家のなかのどこかに、灯がついているとすれば、まだ捜索しない金庫室のなかにきまっている。金庫室に灯がついているとすれば、そこに、誰かいるにちがいないわけだが、金庫室にはいりうる唯一人の男が行方不明なんだから、そこにいるのはその男ということになる。そしてその男は恐らく死んでいるにちがいない。彼と同時に行方不明になった男も、同じ運命になっているかもしれない。ただ、ぼくが予想しなかったのは、あのスプリングつきのひきだしだった。あれにはミラー君が手をかけるまで気がつかなかった。ラトレルは老獪な男だ。あの知恵を、ほかの方面につかったら、あんな運命にはならなかったろうに。だが、あの男が死んでくれたお蔭で、警察は一味のものを全部逮捕できるようになったわけだ。」  その後の事態は、ソーンダイクがいった通りになった。ラトレルの残した手帳と、あの場で逮捕された一人の男の自供により、まだなにも知らずにいる一味のものを、ひとり残らず捕えることができた。そして、彼らは、文字合せの錠のある金庫室ほど巧妙なものでないにせよ、とにかく同じように丈夫な、ちがった種類の金庫室へいれられたのである。 底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社    1957(昭和32)年 1月10日初版 「※大文字で書いた詩文は、底本では、ページ下側に、横に組まれています。」 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。