アネズリーの受難 リチャード・オースティン・フリーマン Richard Austin Freeman 妹尾韶夫訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改見開き] ------------------------------------------------------- 「犯罪捜査という仕事は、気持のわるいことばかり取りあつかうので、時々いやになることがあるよ。」  ソーンダイクがそういったのは、私たち二人が坐って、弁護士メイフィールドの来訪を待っている時のことだった。 「そうだね。法医学に関係したことには、ちょっと気味のわるいこともあるが、それがぼくらの仕事なんだから、いやだなんていわずにぶつかることだよ。」私はいった。 「哲学的な結論だね。さすがジャーヴィス君だけのことはある。法律と医学が、一つにつながるのは、人身にたいする暴行の場合にかぎられているのだから、法医学者はどうしてもそんな種類の犯罪を手掛けねばならぬ。いやなことだけれど、君のいうとおり、それにぶつかるんだね。」 「でも、ブランドの事件には、法医学の問題はないようだ。女が殺されたのは明らかな事実で、ただ犯人が分らないだけなんだ。しかもその犯人もほとんど分っているようなものなんだ。」 「それはそうだ。」ソーンダイクはいった。「しかし、弁護士の話をきいたうえで判断しておそくはなかろう。階段をあがってくる音がする。」  私は立って来訪者のためにドアをあけ、部屋にはいる彼を珍らしげにみた。メイフィールドはまだ若い弁護士で、ごくていねいで、神経質らしいその物腰をみても、まだあまり弁護士の仕事に慣れていないことは分った。  彼はソーンダイクがすすめた安楽椅子にこしをおろすと、 「お邪魔にあがるのがおそくなってしまいました。検屍審問のためにも、警察の取調べのためにも、もっと早くおうかがいするとよかったのですが。」 「あなたが弁護をお引き受けになったのでしたね?」ソーンダイクはいった。 「そうなんです。」弁護士は苦笑した。「やむなく引き受けたものの、いうべきことがないので困っているのです。ですから、無罪とだけいっておいて、これから材料をさがすつもりなんです。でも困りましたよ。まったく絶望的な事件のように思われますのでね。あなたはどうお考えです?」 「私は新聞にでたことしか知らないんですよ。あれだけでは絶望的とも考えられますが、まあ、そう早まったものでもないでしょう。とにかく、あなたから詳しい話をきかしてもらいましょう。そのうえで、私がもっと知りたいと思うことがあったらききますよ。」 「承知しました、」と、弁護士メイフィールドはいう。「まず、五月十八日ごろ、ルーシー・メイ夫人が行方不明になったのです。当時夫人は良人と別居して、ウィンブルドンの家具つきの部屋をかりて暮していたのですが、十八日の昼食後、晩にならないと帰らないといって外出したのです。そして、その日の午後三時頃、夫人がウィンブルドン駅の下りのフォームに立っているのを、ある知人が見た。それからまた、その日のことかどうか分りませんが、たぶんその日と思われる午後六時すぎ、ローワー・ディットンの郵便局で、夫人が切手を買ったらしいのです。局長の細君は夫人の顔を知っているので、六時すぎに切手を買いに来たのは覚えているが、それがはたして十八日だったかどうかは分らんというのです。とにかく、夫人はその日、晩になっても下宿に帰らなかった。そしてそれっきりになったのです。それで下宿のおかみはかの女の良人に知らせ、良人が警察に知らせたという順序なんですが、警察で心当りを探しても手答えはなかった。全然手答えがなかったのです。 「夫人が死体となって発見されたのは、それから四カ月たった九月十六日のことでした。その日、数人の工夫がローワー・ディットンの郊外の河沿いの、『唐松荘』という古い小さい家の電線を調べにいったのです。その家は空家になっていたのですが、最近ひどく電気を食いだしたので、漏電しているのではないかという疑いで調べにいったわけなのです。 「ところが、本線を調べるため、食堂の床板を一枚はがしてみたら、そこから女の足が二本見えたので、彼らは仰天してもよりの警察へ訴えでたのです。そして、警察と警部補が行って、残りの床板をあげてみたら、床の根太と根太のあいだに女の死体が棄ててあったのですが、それがルーシー・ブランド夫人だったのです。その死体はまだ新しく、ごく最近に死んだとしか思われなかった。だが、よく検屍してみたら、三、四カ月前に死んだ死体に、フォルムアルデヒードを注射して、防腐してあることが分りました。そして検屍審問の時に、死因は無理にクロロフォルムを嗅がしたあとで、窒息させたのだろうということにきまったのです。」 「それで、その家の持主が嫌疑をうけたんでしたね?」ソーンダイクはいった。 「そうなんです。持主はミス・フィリス・アネズリーという若い女で、ごく最近まで住んでいたのですが、去年の秋、旅行にでるといって、家の中の大部分の家具を物置にしまいこみ、二つの寝室だけには家具をそのままにして、台所と食堂はいつでも使えるようにしときました。そして旅行中、時々帰って一日か二日泊ったのですが、泊る時には一人の時もあれば、女中をつれていたこともあるそうです。」 「ミス・アネズリーと殺された女はどんな関係だったのです?」 「ミス・アネズリーは数年前から、ブランドの夫婦と親密だったのです。ことに良人のレナド・ブランドと親密でしたが、二人の間に不義な関係はなかった。けれども良人のブランドは、かの女がその家に住んでいた頃、よく遊びにきては、二人でその家のボートに乗って河へ行ったりした。ブランド夫人も時々は遊びにきました。これも仲はよかったのです。むろん、夫人は良人がアネズリーを愛していることは知っていました。けれども、はげしい嫉妬を感ずるようなことはなかったのです。」 「夫婦のあいだはどうだったのでしょう?」ソーンダイクはきいた。 「それがちょっと妙なんです。二人は気が合わないので別々の道を歩いていたのです。といって、仲がわるかったかというにそうでもない。ブランドは妻のことには金を惜しまなかった。惜しまなかったばかりでなく、貯金までしてやった。それについて、私が感心したこんな話があるのです。 「良人の昔からの友人にロスアンゼルスの映画会社で働いていたウィックスというのがあったのですが、この男が帰ってきて、ブランドと二人で一つ二つの映画劇場を作ろうといいだした。つまり、ブランドが資金を出し、ウィックスが技術的な知識を提供して、劇場の支配人になろうというのです。ブランドはすぐそれに賛成して、利得の三分の二を彼がとり、三分の一をウィックスがとり、もしブランドが死んだら、夫人が三分の二をとるということになった。」 「そんなら、ウィックスが死んだ場合はどうなるんです?」 「ウィックスはある映画女優と婚約はしているが、まだ結婚していないのです。だから、彼が死んだら配当は全部ブランドのものとなる。そのかわり、ブランドが自分の妻の後で死んだら、配当が全部ウィックスのところへいくというのです。」 「ブランドはなかなか抜け目がないですな。」私がいった。 「そうですとも。」弁護士メイフィールドはいった。「これは彼に都合にいい契約です。でも出資者だから無理もないのです。ただ私が感心したのは、自分の妻の利益を考えている点なんです。これをみても、彼が妻を嫌がっていなかったことは分りましょう。」 「それが事実とすれば、そこに殺人動機がなかったことは認めなければなりませんね。離婚の話なんか、なかったのでしょうね?」ソーンダイクはきいた。 「そんな話はなかったはずです。どちらの方からも、そんな話はもちだす理由がない。でも、ブランドが自由の身だったら、それはむろん、アネズリーと結婚するでしょう。それはみんなの認めていることなんです。二人が愛しあっていることは事実なんですから。」 「すると、それがしっかりした殺人動機のように思われますが。」私はいった。 「そう思われるかも知れませんが、しかし、私はいぜんから彼らを知っていて、どちらも相当の人物とみているせいか、あの人たちがそんな血なまぐさい罪をおかすとは思わんです。その問題はあとにして、先をつづけましょう。 「女の死体が『唐松荘』からでてきてからまもなく、警察はローワー・ディットンに、かなり前から妙な噂がひろまっていることを知ったのです。それはブロディー、スタントンの二人の労働者が、『唐松荘』の床に死体を埋めているのを、実際に見たというのです。この噂をきいた警察は、すぐ二人の労働者を呼びよせて、一人ずつ別々にとりしらべたのですが、二人のいうことは一致していました。それはこうなのです―― 「五月中ごろのある日――どちらも何日だったか正確に覚えていないのですが――夜の九時か十時ごろ、『唐松荘』のあたりの小道を歩いていたら、そこの門から出てきた一人の男が呼びとめて、『おい、この家じゃへんなことをやっているぜ』というのです。 「『なんだい?』とブロディーがききかえしました。 「『いまおれは窓のシャッターの隙間から見たんだが、なんだか床の下に隠しているんだ。嘘だと思うなら、こっちへ来てみい。』 「そこで、二人の労働者は、その男の後について庭を通って家の裏手にまわりました。その男は地階の窓のシャッターの二つの穴を指さして、 『ここから覗いてみろ』といいます。 「二人がぴったり穴に顔をすりつけてなかを覗いてみたら、アーチ型に大きくくりぬいた壁をへだてて二つの部屋があって、その第二の部屋、すなわちアーチの向うの部屋に、一人の男と一人の女の姿がみえるのです。二人とも四つばいになってかがんで、床の上でなにかしているみたいな恰好でした。まもなく、ペンキ屋のような白いブラウスを着た男の方が体を起し、床板をはがして、そばの壁に立てかけ、またしゃがんで、そばの床の上にあった大きな包みのようなもの、ちょっと敷物を巻いたように見えるもの、そんな物の方に手を伸しかけました。ところが、ちょうどその時、シャッターの穴のすぐ前に、部屋のなかの第三の人間が現れたらしく、視界をさえぎられてしまった。そして、しばらくしてその人間が立ちのいて、向うが見えだした時には、男はしゃがんで床の上の包みを見、女はアーチのそばに立って、手にペンチを持っていました。その女は水玉模様のエプロンをかけ、水兵のような白いカラーをしていましたが、二人の労働者が二人とも、それがミス・アネズリーだったというのです。」 「そんなら顔を知っていたんですか?」ソーンダイクはきいた。 「そうなんです。二人とも土地の男なんです。田舎のことですから誰でもミス・アネズリーやブランドの顔を知っているのです。二人の労働者は、アーチのそばに立つ女をはっきりと見たのですが、二人ともそれがミス・アネズリーであることに間違いないといっています。それから三十秒ほどたつと、また第三の人物が穴の前を動いて、視界をさえぎってしまった。 「つぎにその人物が穴の前を立ちのいて、向うが見えだすと、女はまた向うの部屋へかえって、しゃがんで下を見、包みはどこにも見えず、男は壁に立てかけた板をとって、床にはめこみました。その後はその第三の人物が、しょっちゅう穴の前を動きまわるので、時時ちらっと部屋が見えるだけで、はっきりとは分らないのですが、男は金槌で床に釘を打ちつけ、その音もかすかながら、外まで響いてきた。またある時は、これはほとんど仕事が終った時のことですが、男がアーチのところまで歩いてきて、手に持っている何かを見た。それが何であるかは分らないが、とにかく、その時男がブランドであることが分った。するとまた視界がさえぎられた。そしてそのつぎに見えだした時には、ブランドはミス・アネズリーとともにむこうの部屋にたって、床を見おろし、その時にはブラウスもすでに脱いでいた。男と女は仕事を終った様子で、いつ外にでてくるか分からなかったので、そこまで見た二人の労働者は、逃げるように穴のそばをのいて、外に出たというのです。外にでて小道を歩きながら、二人はいま見た不思議な光景の意味を話しあったのですが、男と女が果してなにをしていたのか、それは二人ともはっきりとは分らなかった。二人を案内した男は、たぶんあの女は旅行に出る留守中、誰かに盗まれるかもしれないと思って、大切な銀食器のようなものを、床下に隠したんだろう、だからあすこの床をはがせば、金がもうかるなぞといいました。だが、ブロディーもスタントンも正直者だったので、その説には賛成しませんでした。他人のことには立入らぬがいいと思ったので、二人とも誰にも喋らぬことにきめたのです。しかし、喋らぬとは約束したものの、その噂がいつの間にか拡まったところをみると、ある程度は喋ったのでしょう。ことに、死体が出てきてからは、その噂はいっそうやかましくなって、ついに警察の耳にまでたっしたのです。」 「二人の労働者を案内した男は証言しなかったのですか?」ソーンダイクはきいた。 「どこの男か分らないのです。よそから流れてきて、一時農家で働いた労働者らしいのです。とにかく、この男はその後見つからない。まるで雲をつかむような話なんですよ。被告の人柄はよく分っています。しかしいくら人柄は分っていても、ちゃんとした動機があるんだし、そのうえ現場を見た証人が二人もいるのですから、どうにもならない。どうです、ソーンダイクさん、被告がわに立って調べてくださいますか? ちょっと骨の折れる仕事にはちがいありませんが。」 「よく考えてみましょう。そして準備のために調べてみたいんですが、なにかこの事件の参考資料になるような、書いたものがあったら見せてください。」 「警察や検屍審問の調書がありますから、おいて帰りましょう。引受けてくださるかどうか、はっきりしたご返事はいつおうかがいできます?」 「おそくも明後日までにはきめます。」  若い弁護士は鞄から一束の書類をだし、テーブルの上において挨拶すると、部屋を出ていった。 「どうだ?」弁護士がいなくなると、私はソーンダイクにいった。「なんだか不思議な話だが、君のことだから、ただ形式的に被告がわに立つのじゃなかろう。しかし、あれでは被告に有利な証拠をつかもうにも、つかむことができない。検察側はただ証人を呼んで証言させさえすれば、『有罪』の判決をくだすことができるのだ。」 「ぼくもそんな気がする。」ソーンダイクはいった。「だから、書類をしらべ、予備的な調査をしたうえで、まだそんな気がするようだったら、お断りするつもりだ。しかし外見にまどわされてはならない。」  彼は書類と手帳をテーブルに拡げた。手帳にはすでに弁護士の話の、要所々々を書きこんであった。二つを見比べながら彼は余念なくそれを読みふけり、ところどころ手帳に覚え書きした。それがすむと書類を私にわたし、手帳をポケットにいれて時計をみた。 「ぼくはこれから一、二カ所、訪問するところがあるから出てくる。そのあいだによくこれを読んで、意味を考えといてくれたまえ。一時間もたたぬうちに帰ってくるから、帰ったら君の意見をきかしてもらおう。」  彼の留守のあいだに、私は一心不乱に書類に目を通した。ソーンダイクの言葉の調子に、どこか検察がわの論告に不備な点があるように思われた。だが、書類を読んだ私は、ブランドとアネズリーが有罪であることは動かせないと思った。書類に書いてあることは、ほとんど弁護士が話したことと同じだったが、弁護士がいわなかったことで、そこに書いてあることですら、二人の労働者の証言を、いっそう確実にしているにすぎなかった。ただ形式的だけの抗弁の根拠になるようなものさえないもののようだった。  小一時間たつと、ソーンダイクが戻ってきて、私が調書に関する意見をのべるよりも先にこういった。 「まだ早いけれど、いっしょに出て昼食をたべよう。午後はローワー・ディットンへ家を見に行くんだ。弁護士が向うの警部補へ紹介状を書いてくれた。その警部補が、家の鍵を持っているんだ。」 「家を見たって仕方がないとぼくは思うんだが。」私はいった。 「ぼくもそう思う。しかし、どんな場合だって、まず犯罪の現場をみて、証言と照しあわせてみないことにはね。」 「そんなことをしたって、なににもならんだろう。書類をよく読んでみたが、被告人はもう有罪を宣告されたとおなじだ。弁護の余地はないよ。君はそれでも希望をもっているのか?」 「いまは希望をもっていないよ。しかし、弁護を引き受けるかどうかきめるまえに、二つ三つ調べてみたいことがある。自分の目で現場をみるのがいちばんよく分ると思うのだ。」  いつものフリート街の料理店で簡単な食事をすると、私たちはタクシーでウォータールー駅へ行き、そこからさらにローワー・ディットン行きの汽車にのった。私はポケットに調書をいれていたので、車中それを出して、くりかえして読みながら、犯罪の行われた家へ行ったら、どんな点を注意して見たらいいだろうなぞと考えた。  というのは、ソーンダイクが口に出していう実地検証の目的は、すこぶる曖昧なものだったが、彼のいつもの癖をよく知る私には、なにか彼が確乎とした目的を抱いているように思われたからだった。だが、車中二人はあまり話さなかった。この事件のことにも触れなかった。触れようにも触れることがないように私には思われた。  ローワー・ディットンの警察では、私たちを親切に迎えてくれた。警部補は一目ソーンダイクを見ると、下へもおかぬ態度になったが、この警部補は、かねてから彼を崇拝しているもののようだった。そして弁護士の紹介を読むと、すぐヘルメットをかぶり、鍵をポケットに入れ、 「私は法廷であなたの弁論をきいたことがあるんですから、紹介状なぞいりませんよ。これからご案内いたします。」  そんな言葉をきいても、ソーンダイクは得意になりもせず、丁寧な態度で彼のあとについた。私たちは、村をぬけ、小道を歩いて、不吉な犯罪の行われた家へむかった。警部補は途中、警官らしくない打解けた言葉つきで話した―― 「被告人の弁護をなさるのは、時間をつぶすだけだと思いますが、でも、まあやってごらんなさい。私はいぜんから、あのアネズリーという女を知っているんですが、私だけでなく、村の者は誰でも知っているんですが、あんなやさしい、おとなしい、感じのいい女はいませんよ。あんな女が、こんな野蛮な、冷酷な人殺しに関係しようとは思わなかった。私にはさっぱり分らんですよ。しかし二人の男の証言が本当なら、やはり事実ということになるんですが――」 「二人は嘘をつくような男なんですか?」私はきいた。 「いや、二人ともまじめで正直な男です。あれが嘘なら、じつに残酷な嘘ということになりますが、二人ともアネズリーをよく知っていて、好意をもっているんですから、嘘じゃないでしょう。ブランドとアネズリーの仲が公正なものでないのに、みんながこの二人に好意をもっていたのです。ですから、あの労働者たちも二人に不利な証言をしなければならなくなったことを、ひどく気に病んでいる様子です。これがその家なんですがね――」  門をあけて庭にはいると、昔風の小さい家がみえ、地階の窓にはシャッターをしめてあった。裏へまわると、そこに花壇と芝生があって、芝生の小道を通れば河岸へ出られるようになっている。 「あれ、ボート小屋ですか?」ソーンダイクはリラの繁みの上にみえる、小さい三角の屋根を指さした。 「そうです。」警部補はこたえた。「あすこにボートが一つはいっています。きれいにペンキを塗ったボートで、二人がいつも乗りまわしていたのです。労働者が覗いたのはこの穴なんですが、いま部屋が暗いですから、なにも見えませんよ。」  芝生に面した二つのフランス窓を見ながら、私はそこに覗く二人の労働者の姿を想像した。どちらの窓にも、内がわから掛金をかけられるようになった観音開きのシャッターがあり、どのシャッターにも下から五フィートばかりのところに、直径一インチよりちょっと大きいかと思われる穴が一つずつあいていた。私は死体を床下に隠す男女が、誰か盗み見するかもしれぬこの四つの穴を、ふさがなかったのを不審に思った。  警部補に案内されて、部屋にはいった私は、その不審の念をいっそう深くした。というのは、その二つの窓にはちゃんとカーテンがあるのである。向うの部屋にも重いカーテンが見えた。カーテンがあるのに、なぜそれを引かなかったのだ? 「そうなんです、」と、警部補は私の質問に答えて、「人間というものは、大事な時に大変な手抜かりをするものです。食堂のカーテンだけは引いたが、かんじんのこの窓のカーテンをするのを忘れていたんですからね。まだほかにごらんになりたい物がありますか?」 「死体を隠した場所を見たいんですが、それより部屋のなかを、もっとよく見せてもらいましょう。」  そういいながら、ソーンダイクはその二つの部屋を、記憶のなかに焼きこもうとでもするかのように、じろじろ見ながら歩きまわったが、でも、その二つの部屋に沢山の品物がおいてあるわけではなかった。二つの部屋はどちらも同じぐらいの大きさで、まんなかのアーチ型の仕切りには、もとカーテンが取りつけてあったのであろう、真鍮の棒が残っていた。裏の部屋、すなわち労働者の立ったほうの部屋には、家具はなにもなく、ただカーテンがあるだけだったが、表の部屋は、壁と床の飾りだけは取りはずしてあるが、壁ぎわに、左右に高い電燈台のついた食器棚や、同じく左右に電燈台のあるマントルピースなぞがあり、そのた壁ぎわに、食堂用の椅子が三つと、大型のたたみテーブルが一つ引きよせてあった。 「まだ床板は釘でとめてないようですな?」ソーンダイクはいった。 「釘を打ってないですから、死体のあった場所や電線がよく見えます。電燈工夫は初め、位置をまちがえて床板をはがしたので、それで死体を見つけたんですよ。工夫の話によると、電線の上の床板を最近にはがした形跡があったそうです。ですから、犯人はそこに死体を隠すつもりで床板をはがしたが、下に電線があったので、また位置をかえたものらしいのです。」  彼がかがんで釘で止めてない板を起して、マントルピースに立てかけると、床の根太や一フートほど下の土が見えだした。すぐ下の片方に電線がみえ、片方に今は止めてあるらしいガス管がみえた。 「ブランド夫人の死体は、ここに投げこんであったのです。」警部補は、なにもない隙間を指さした。「恐かったですよ。見た時にはひやっとしました。根太と根太のあいだに、横向きに伏さって、鼻が柱にくっついているんです。鬼みたいなやつらですよ――アネズリーがあんなことをするとは思わんのですが。」 「ずいぶん窮屈な場所ですね。」私はいった。 「根太と根太のあいだが十六インチだ。」尺で寸法をはかりながら、ソーンダイクはいった。「根太の厚さは二インチ半。材木が大きいともっと広くなるんだが。」  彼は体を起して、隣りの部屋の窓をみた。彼の視線を追って左の窓の二つの穴を見た私は、それが暗い部屋を覗く二つの目さながらだったので、思わずぎょっとした。もっとも、いま私が左の窓といったのは、外から見ると右の窓のことなのである。そして、左の窓の穴がよく見えるのに、右の窓の穴がみえないのを最初不審に思ったが、その理由はすぐに分った。片方の窓には内がわのガラス戸に大きいガラスをはめてあるが、片方の窓のガラスは小さく、棧が太いので、穴をふさぐような形になっているのだった。  私はソーンダイクの考えていることが、大抵想像できたので、「あの時は外は暗くて、部屋のなかに灯がついていたんだよ。」といった。 「五月の夜はそんなに暗くない。」ソーンダイクはいった。「家具つきの部屋もあるんでしょう?」 「二つあります。」警部補はドアをあけ、私たちを案内して廊下へでて、階段をあがった。 「これがアネズリーの寝室です。」  その寝室にはいって、私たちは好奇的な目であたりを見まわしたが、家具のすくないわりあいに、住む人の個人的な好みのあらわれた贅沢な部屋で、四つの柱のある小型のベッドや、軽い安楽椅子、きゃしゃな女物らしいデスクがみえた。 「これがブランド、こちらがアネズリーです。」  警部補は、そういって二枚の写真のはいるようになった、デスクの上に立てかけてある写真はさみを指さした。  私は二つの写真を手にとってみた。どちらも殺人者とは思われぬ顔つきである。ブランドは三十五ぐらいの風采のいい中産階級のイギリス人らしいタイプの男、アネズリーは考えぶかそうな、優雅でしとやかな顔の、すこぶる美しい女だった。 「この女は頭の高いところに髪を結って、大きな象牙のヘヤピンでとめて、まるで日本の女のような顔をしているじゃないか。」  私はそういいながら、写真をソーンダイクにわたした。しばらくそれを見ていた彼は、写真を二枚とも額から取りはずして、裏をみたり表をみたり、くわしく調べたあとで、また元通り額にはめた。  彼がそれをデスクにおくと、 「もひとつの寝室は、予備室のようなもので、べつに見るべきものはないのですが、」と、警部補は私たちを隣りの部屋につれていった。彼の言葉通り、そこにはなにもないので、すぐ私たちは階段をおりた。 「ちょっとこの穴から、外を覗いてみようか。」  ソーンダイクがそういって、穴から覗きかけたら、すぐ後を歩いていた警部補が床に足を滑らせてよろめいた。 「あっ!」しゃがんで小さい物をひろった。「こんな物が落ちているから危いんだ。こりゃなんです。石筆でしょうか?」  警部補はそれをソーンダイクにわたした。ソーンダイクはそれを見たあとで、 「こんな丸い物が落ちていると、転んで骨を折ることもある。気をつけることです。公判の時、この石筆について私がきくかもしれませんから、よく覚えていてください。」  小道が二つに分れたところで、私たちはこの警部補と分れた。停車場へ歩きながら私はきいた。 「弁護士から聞いたことよりほかに、べつに新発見はなかったわけだ。新発見といえば、石筆ぐらいのものだが、どうして警部補にあの石筆を大切にしまっておけといったの?」 「大切なものだろうが、大切でないものだろうが、見つかった物はなんでもしまっておくのが、ぼくの主義なんだ。しかしあれは石筆じゃないよ。炭素棒のこわれたものだ。」 「すると、電気工夫が落したんかな――この事件の見当がついたか?」 「もう分ったよ。弁護をひきうけるつもりだ。」 「そうか。どんな弁論をするつもり? 二人の労働者の証人がないとしても、アネズリーは濃厚な嫌疑の的になっているんだ。そのうえ二人の証人が、犯罪の現場を見ているんだから厄介だと思うんだが。」 「それはそうだ。ぼくだって容易なこととは思わん。しかしぼくはその二人の証言をもとにして弁護しようと思っている。反対尋問の時には、ぜひ二人に来てもらわねばならん。」  翌日一日、私はこのソーンダイクの言葉の意味を考えつづけた。しかし事件の秘密が分らないのだから、言葉の意味も分ろうはずはなかった。むろん、二人の目撃者の証言が嘘であることを証明しうるなら、アネズリーとブランドは釈放ということになろう。だが彼らが嘘をついているものとは思われない。どちらも正直者で、嘘なぞいう男ではないのである。  ソーンダイクのその後の行動を注意して見ていても、この事件の真相がうなずけはしなかった。私たちはいっしょに二人の囚人を訪ねた。が、ブランドもアネズリーも新しい事実を提供してはくれなかった。  どちらも、誰でも信用してくれるようなアリバイはもっていなかった。二人の目撃者の証言を、反駁しうるような事実はなにもなかった。ただ二人ともその時刻にあの家にいなかった、したがって床板をあげた覚えもないというだけだった。  だが、二人の囚人はどちらも私に好い印象をあたえた。ブリクストンで会ったブランドは、快活な男らしい人間で、目から鼻に抜けるような実業家らしいところはあったが、正直で、裏表のない男だったし、ホロウェイで会ったミス・アネズリーは、品があって、しとやかで、美しくて、感じのよい女だった。ただ私が失望したのは、写真で見たように頭の上で髪を結わないで、いつのまにか髪を短かく切ってしまっていたことだが、ソーンダイクもそれに気づいたのか、その理由をたずねた。 「ええ、切りましたの、」と、かの女はいった。「こんなのは似合わないので嫌なんですけれど、仕方がありませんの。この春、パリで髪を洗ってもらっていましたら、どうしたはずみかベンジンに火がついて、大変なことになりかけたのです。それで、美容院の女が、すぐ濡れたタオルで頭を巻いてくれたので、焼け死ぬことだけはまぬがれましたが、お蔭で髪はすっかり焼けてしまいましたの。ですから、こんなふうにしてしまったのですけれど、初めは見ていられないほど不恰好でした。イギリスへ帰ると、記念に写真をとったのですが、まるで慈善学校の生徒のようにうつりましたわ。」 「いつイギリスへ帰ったのです?」ソーンダイクはきいた。 「四月なかばです。すぐパディントンの下宿へ落着いて、それからずっとそこに住んでいました。」 「五月十八日にどこにいたか、覚えていないですか?」 「下宿にいたんですけれど、その日なにをしたかということまでは、覚えていませんの。日記でもつけていれば、分るのですけれど、そんなものをつけていませんので。」  手のほどこしようがないと私は思った。刑務所を出た私は、このしとやかで美しくて品のいい女は、恐ろしい犯罪に全然関係がないと確信すると同時に、蜘蛛の網のようにとりまく災難から、この女を救い出す道もないと思った。  ソーンダイクの口からはなにも聞くことができなかった。なにもいわずに、彼は着々と調査の歩を進めていった。遠まわしに捜りをいれると、彼はいつもこたえた。「ジャーヴィス君、君は調書も読んだし、家も見たし、あらゆる事実を知っているわけなのだ。だから反対尋問できくべきことを、よく考えておいてもらいたい。」ただそういうだけで、ほかになにもいわなかった。  彼は忙しそうだった。見ている私はしだいに分らなくなってきた。有名な建築技師を送って、その家や周囲の平面図をつくらせた。ポールトンを行かせて、あらゆる角度からその部屋の写真をとらせた。ポールトンは喜び勇んでその仕事に専念したが、私にたいしては牡蠣のようにおし黙っていた。いかにも自信ありげに、嬉しそうに仕事をしているポールトンを見ると、私は頭をこずいてやりたくなるほど憎らしかった。てみじかにいえば、私はこの事件のはじまりからその進転をみていながら、いよいよ裁判がはじまって、法廷にすわる時まで、なにも知ることができなかったのである。  公判の日のことは、私はいまでも忘れられない。わけてもよく覚えているのは、ブランドと並んですわる女らしいしとやかさと気高さの権化のようなアネズリーの姿で、髪を短かく切っているために、あらわに見えるその恰好のよい頸に、数日ののちに、死刑執行人の繩がまきつくのかと思うと、私はさむざむとした気持におそわれた。一組の男女がはいってきたので、私の憂欝な瞑想はやぶれた。彼らは二人とも被告席に目をやって、二人の囚人と顔を合せると黙って会釈したから、事件に関係のある人にちがいなかった。 「メイフィールドさん、いまはいってきたのは誰です?」と私は弁護士にきいた。 「ブランドといっしょに仕事をしているウィックスです。女をつれているでしょう、あれがいいなずけのミス・クロップという映画女優です。」  私はその二人も証言するために来たのかとききたかったが、この時公判開始の手続が終って、検事ジョン・ターンヴィル卿が立って、冒頭陳述をはじめた。  彼の弁説はさわやかで、いうことに筋道がたっていて、おだやかな言葉のなかに、骨を刺すようなものがあった。まず事実の輪郭をのべたが、それはメイフィールドの話とおなじで、それから重要な証人の証言をかいつまんで話した。 「さて、」と、ターンヴィルは最後にいった。「いままで話したことを要約すると、こんなことになるのです。九月十六日、ある家の床下から、ある女の他殺死体が発見されたが、その女はある男の妻で、そしてその男はこの妻をすて、ほかの女を愛して結婚しようとし、その女のほうでもその男と結婚する意志をもっていたのです。だから一口にいえば、この殺された女は、これから結婚しようとする二人にとっては邪魔者だったのです。そして死体が発見された家は、この二人のうちの一人の家で、この二人はその家の中にはいることができたが、他の者ははいれないようになっていたのです。ですから、そこに非常に疑わしい事情があるといえましょう。 「しかしここにまだ意味ふかいことがあるのです。被告人ブランドからすてられようとしていたその不幸な女は、五月十八日に行方不明になったのですが、ちょうどその日の前後に、彼らがその死体を床下に隠しているのを見たという証人がいるのです。正直で、信用のできる二人の証人が、その五月十八日前後に、その同じ家、同じ部屋、同じ床下に、ここにいる二人の被告人が、なんだか大きな物を隠しているのを見たといっているのです。では、その二人の証人が見たものはなんでしょうか? その床をあげてみたら、不幸な女の死体よりほかには何物もでてこなかった。してみると、二人の被告人はその時、その場所で、死体を隠していたという結論になるのです。 「ですから、一口にいって、この二人の被告人が殺人を犯したと信ずべき理由は三つあります。彼らは女を殺すべき、動かすことのできぬ、明らかな動機をもっていた。また彼らは女を殺すべき機会をもっていた。そしてまた、殺した女の死体を彼らが隠しているところを、じっさいに目撃した二人の証人があるのです。」  ターンヴィル卿が坐ると、私は第一の証人が宣誓するまえに、心配げにソーンダイクにきいた。 「あれにたいして、君はどう弁論するつもり?」 「反対尋問のときの証人の答えにもとづいて弁論するつもりだ。」  第一の証人は、死体を発見した電気工夫だった。この男は発見当時の模様を証言したが、ソーンダイクは反対尋問をしなかった。つぎに警部補が発見当時の模様を、いっそう詳細に説明した。ターンウィル卿が坐ると、ソーンダイクが立ったので、私は耳をすました。 「あなたは、その部屋で見たり発見したりしたものを、全部話しましたか?」彼はそうきいた。 「はい、あの日のことを全部話しましたが、十月二日に行った時には、隣りの部屋の窓のそばで、小さい炭素棒を発見しました。」  ポケットから封筒をだし、そのなかから石筆のようなものをだして、ソーンダイクにわたした。ソーンダイクは証拠品にしてくれといって、それを裁判官にわたした。裁判官は時々いぶかしげにソーンダイクを見ていたが、それを受けとって調べると、またいぶかしそうに彼をみた。裁判官が好奇的な目でみるのは、ソーンダイクが弁護人として、法廷に立つようなことは珍らしい出来事だったからであろう。  つぎに何人かの証人が立ったが、ソーンダイクは熱心に耳を傾けるだけで、反対尋問をしようとはしなかった。裁判官はしきりにソーンダイクの顔をみる。ソーンダイクは重要な証人が立つ時尋問しようと思って、わざとひかえているものらしかった。やがてジェームズ・ブロディーという、まじめな顔の、年配の労働者が発言台に立って、あまり乗気ではないらしかったが、それでも自信ありげに、自分の見た恐ろしい光景を証言したが、それは陪審員に深い印象をあたえたらしかった。一通りの尋問がすむと、ソーンダイクが立ちあがったので、裁判官は興味ふかげに彼の顔をみた。 「あなたは『唐松荘』のなかにはいったことがありますか?」ソーンダイクはきいた。 「ありません。もう何年も前から、あの家の前を一日に二度通っているのですが。」 「シャッターの穴から覗いた時、部屋のなかは明るかったですか?」 「いや、薄暗かったです。ですから、なにをしているかということが分っただけです。」 「それでも、ミス・アネズリーということが、はっきり分ったのですか?」 「はじめは分らなかったです。あとでアーチのところへ来た時に分ったのです。そこは明るかったもんですから。」 「表の部屋から、ミス・アネズリーがアーチのところへ歩いてくるのが見えましたか?」 「はじめ表の部屋にいたと思ったら、だれか穴のそばへ来たらしく、急に暗くなったのです。それからそのつぎに明るくなった時には、はやアーチのところへきていたのです。でも、ほんのちょっと見たきりで、また穴のそばへ誰かきたのです。こんど明るくなった時には、また表の部屋へかえっていました。」 「表の部屋にいる女が、ミス・アネズリーであるということは、どうして分ったのです? 薄暗い光でそれが分りますか?」 「それは、服装で分ります。水玉模様のエプロンをかけて、白い水兵のような襟のある服をきていましたし、それに、ほかに誰もいなかったのです。」 「つぎはブランドさんのことですが、この人が表の部屋から、アーチのところへ歩いてくるのを見ましたか?」 「いや、ミス・アネズリーの場合とおなじように、時時誰かが穴のそばを通るので、よく見えなかったのです。はじめ表の部屋にいるところを見、つぎにアーチのところで見、それからまた表の部屋にもどっているのを見たのです。」 「二人がアーチのそばに立っている時に、二人は動いていたのですか、じっとしていたのですか?」 「じっとしているように見えました。」 「その時、ミス・アネズリーは、まっすぐにあなたのほうを見ていましたか?」 「いや、すこしばかり横に向いていたようでした。」 「では、どのくらいの程度に横をむいていたか、ここに写真がたくさんありますから、このなかから同じ程度に横をむいているのを、選んでみてください。」  ソーンダイクから数枚の写真をうけとった証人は、それを一枚々々見たあとで、そのなかの一つをとり、 「これがよく似ています。この通りの姿勢で立っていました。」  ソーンダイクはその写真を受けとると、写真に書いてある番号をみ、裁判官にわたした。裁判官も番号をみたあとでデスクの上においた。  ソーンダイクは尋問をつづけて、 「表の部屋は薄暗かったといいましたが、すると、電燈はついていなかったんでしょうか?」 「私に見えた電燈には、灯がついていなかったようです。」 「電燈がいくつ見えました?」 「そうですな――天井から三つぶらさがって、それから、マントルピースに二つ、食器戸棚の上に一つ――そのどれにも灯がついていなかったです。」 「食器戸棚には、電燈が一つしかなかったの?」 「まだあったのでしょうが、私のところからは、戸棚の角しか見えなかったのです。」 「マントルピースは全部見えましたか?」 「はい。両がわに一つずつ電燈が立っていました。」 「マントルピースのこちらに、なにか見えましたか?」 「テーブルが見えました。ねじ曲げた脚のある、折りたたみ式のテーブルです。でも、アーチの端に隠れて、そのテーブルは半分しか見えなかったのです。」 「ミス・アネズリーがはっきり見えて、どんな服装をしているかということも分ったそうですが、そんなら、頭の髪はどんなだったのです?」 「頭の高いところに束ねて、それに櫛を一本つきさしていました。」  証人のこの言葉をきくと私はほっとした。でも、それだけで安心するのはまだ早いと思った。ソーンダイクは確信をもって尋問しているらしかった。ちらと被告席に目をやると、彼らも顔を明るくしていた。 「あなたは部屋のなかに、床板をあげた穴のようなものができていたといいましたが、その穴は食器戸棚に近かったですか、マントルピースに近かったですか?」 「どっちかというと、マントルピースに近かったです。」  ソーンダイクが坐ると、証人も発言台からしりぞいた。裁判官も検事も、意外なような顔でノートを調べていた。  つぎに発言台に立ったのは、アルバート・スタントンだったが、この証人の陳述は、前の証人の言葉をくりかえしたものにすぎなかった。反対尋問になると、ソーンダイクが前の証人にきいたとおなじ質問をしたが、それにたいする答えもおなじだった。女の立った姿勢としてえらんだ写真の番号も、前の証人とおなじだった。また場内に明りが漂った。ほんのかすかな明りではあったが。  このスタントンは検事がわの最後の証人だったので、ターンヴィルがこの証人を再尋問すると、検事の論告は事実上終ったようなものだった。  それがすむと、ソーンダイクが立ちあがって、被告人がわの証人、建築家協会の会員ストークス氏を呼んだ。彼はローワー・ディットンの『唐松荘』へいって、一フートを半インチに縮めた平面図を作ったといって、その平面図や、それを複写した石版ずりの図をたくさん出した。ソーンダイクは原図を証拠品にしてくれといって裁判官にわたし、複写のほうを陪審員にわたした。  つぎの証人はケンシントンの写真屋バートンで、ミス・アネズリーの写真を私は何枚もとった。最後にとったのは四月二十三日だったといって、日づけを書いた何枚かの写真をだし、写真に書いてある日づけに間違いはないといった。裁判官はそれを受けとって、一枚々々目を通していたが、最後の一枚、すなわち髪を短かく切ったのを見ると、驚いたような顔をして、自分のノートを調べた。  写真屋のつぎに発言台に立ったのは、ソーンダイクの実験室の助手のポールトンで、彼はにやにや笑いながら、裁判官や陪審席を見わたしたあとで宣誓し、自分は十月十五日に、ローワー・ディットンの『唐松荘』へ行って、階下の写真を三つとったとのべた。第一の写真は図面のAとしるしてある窓の、右の穴からとったものだった。第二はその左がわの穴からとったもの、そして第三は部屋のなかの二つの窓と窓との中間の、どちらかといえば、Bとしるしてある窓にちかい壁ぎわからとったものだった。三枚の写真にはどれにも詳しい説明がかいてあった。ポールトンはまたブロディーとスタントンがいった通りの服装をした、二人の被告の、複合写真もとっていた。それから、体はミス・ウィニフレッド・ブレイクと勅選弁護士ロバート・エンスティー氏で、その胴体のうえに、二人の被告の顔をつないだ写真ももっていた。ポールトンはそんな写真の製法を説明したが、彼がそんな写真を作った目的は、写真の顔だけ変えるのは、たやすいことだという事実を説明するためだった。彼はアネズリーの寝室に飾ってあった、二人別々の二枚の写真も裁判官にわたした。ポールトンの証言はそれだけだった。  つぎにソーンダイクは、被告ブランドを発言台に立たせたが、ブランドは宣誓して自分は無罪だとのべたあと、ソーンダイクの質問にこたえて、二つの映画館からあがる収入は、一年六千ポンド以上だといった。 「あなたの死後、それは誰の収入になるのです?」 「家内が生きていれば、むろんそれは家内のところへ行きますが、ごらんの通り死にましたから、共同経営者のウィックスのものとなります。」 「ミス・アネズリーがフランスへ行っていた間、ローワー・ディットンの家は、誰が管理していたのです?」 「鍵は私があずかりましたから、私が管理していたようなものです。」 「鍵を手離したことがありますか?」 「一度だけあります。共同経営者のウィックスが、一日あすこのボートを借りたい、昼食もあそこで食べたいといったので、鍵を貸してやったのですが、その鍵は翌日私に返しました。」  簡単な反対尋問のあとで、ブランドは被告席へかえった。  彼のつぎに発言台に立ったのはミス・アネズリーだった。かの女は宣誓して自分は無罪であるといったあとで、犯罪の行われた頃の、かの女のフランスとロンドンにおける行動をのべた。それから、質問にこたえて、頭の髪を焼いた理由も説明した。 「髪を焼いた日をおぼえていますか?」ソーンダイクはきいた。 「三月三十日でした。髪が伸びるまでにどのくらいかかるか、それを知りたかったので、焼けた時の日を書いておいたのです。」  ソーンダイクが坐ると、検事が立って、いろいろ突 [#改見開き] [#図1(fig55459_01.png、横860×縦1464)入る] [#改見開き] [#図2(fig55459_02.png、横847×縦1446)入る] [#改見開き] っこんだ反対尋問をしたが、かの女のいまのべた証言をゆるがすことはできなかった。反対尋問がおわって、アネズリーが被告席にかえると、ソーンダイクが弁護のために立ちあがった。 「私は時間を節約するため、今までの証言をいちいち検討したり、それからまた犯罪動機についてのべることはさしひかえます。被告人が有罪であるか、無罪であるか、それはブロディーならびにスタントンの、二人の証言が正確であるか、正確でないかによってきまるわけですから、私はその証言の正確さを調べてみようと思います。 「皆さんもお気づきだったでしょうが、この二人の証言の言葉には、大変な不合理な点がある。その第一は二人が同じものを見ていることです。二人は同じ角度から同じものを見ている。ところが、これは物理学上不可能なことでありまして、実際は二人の覗いた穴は、二フィート六インチも離れているのであります。まだ不合理なことがある。それは二人とも実際には見えないものを、はっきりと見たといったり、また全部見えるものを、端のほうしか見えなかったといっていることです。たとえば、二人の証人は二人とも、両端に電燈のつくようになったマントルピースが全部と、そのこちらの、ねじ曲った脚のあるテーブルが少し見え、左ての食器戸棚は、端のほうしか見えなかったといっていますが、しかし、いまの建築技師のつくった図面に物差しをあててはかってみると、マントルピースもテーブルも、見えるはずがない。そんなもののあるほうの壁は、全部、アーチの出っぱりに隠されてしまうべきものなのです。そしてまた、ブロディーは燭台が両がわにある食器戸棚の全部、スタントンは食器戸棚のいちばんこっちの端をのぞく全部を見ているはずなのです。ところが、いまかりに、C点を中心としてそこからアーチの両がわに当てて線を引っぱってみると、いま二人の証人が述べたと同じ物がその線のなかにはいるのです。いま皆さんに鉛筆で線を引っぱった図をごらんにいれますが、その図を見てもお分りにならん方のために、ポールトンに写真をとらせておきました。第一の写真はブロディーが覗いた穴から写したのですが、これには図面に線を引いた通りの物が写っています。第二の写真は、スタントンの穴から写したのです。そして第三の写真はC点から写したのですが、これには二人の証人が述べたと同じものが写っていて、そして、それは二人が覗いた穴からは、決して見えないものなのです。 「では、どうして証人のいうことに、こんな途方もない食いちがいができたんでしょう? 二人の証人が嘘をいっていると思う者はない。私もそうは思いません。二人の証人は自分では正直なつもりでいるのです。それにもかかわらず、物理学的に、見えるはずがないものを、見たといっている。では、どうしてこんな驚くべき食いちがいができたのであるか?」  そこまでいって彼が言葉をきると、裁判長は息がつまるような沈黙のなかで、じっと期待にみちた顔で彼をみつめ、陪審員その他の者も、おなじように彼をみつめた。 「さて、皆さん、」彼はつづける。「この食いちがいを解くには、一つの解釈しかなく、そしてこの解釈を当てはめて考えてみると、今までのあらゆるむじゅん、あらゆる不合理がうなずけるのです。この二人の証人は窓の穴からアーチの向うの部屋を見たように思っているのですが、もし、アーチのそばにスクリーンを張って、それに映った映画を見たのだと解釈すれば、すべての不合理が一時に消えて、なにもかにもうなずけるようになるのです。 「たとえば、二人は違った穴から覗いたのですから多少見える物の視野が違っていなければならぬのに、おなじ物を見ているのですが、これも映画だとすれば当然なことです。また、二人はAの穴から覗きながら、Cから見える物を見ていますが、これもCから写した映画を見ているのだと解釈すれば当然なことで、スクリーンに映った映画というものは、どの角度から見ても、おなじようなものが見えるものなのです。スクリーンに映った映像でなければ、そんな不合理なことが起りうるはずがない。 「そういうと皆さんは、いくら二人の証人だって、映画だったらそれに気づくはずだといわれるかもしれません。ところが、もし両方の目で見たのなら、それは薄暗い光線で見ても、あるいは映画と実物の区別がついたかもしれませんが、二人の証人は二人とも、穴が小さいので片方の目だけで見ているのです。立体的な物体と平面的な絵とを区別するのには、どうしても両眼が必要です。片方の目だけではその区別がつかない。だから片目の人は製図がうまい。片目の人は最初から周囲の物を平面としてみるが、両眼の人は、立体として見たものを平面に直さなければならぬ。  おなじ理由で、私たちが片目を閉じて絵を見れば、その絵の額ぶちや周囲の立体的な物が平面に見えるので、絵のなかの物が立体感をもってせまってくる。だから、それに色でもついていたら、もう本物とすこしもちがわないのです。 「これが映画だと分れば、そのほかの齟齬する点もうなずける。五月十八日にアネズリーは髪を結っていたと証人はいっていますが、じつはその頃のアネズリーは、髪を短かく切っていたのです。あなたがたはいま証人の証言をきき、また四月二十三日に写した、男のように髪を短かく切った写真をごらんになったことと[#「ごらんになったことと」は底本では「ごらんなったことと」]思います。もし証人が見たのが、髪を伸していた一年も前のアネズリーの写真だと解釈すれば、この不合理はすぐに解けるのです。 「この仮定で考えると、すべてがぴったりと符合します。アネズリーと分った時のその女の顔の向きは、写真とおなじだったと証人はいいました。その写真というのはアネズリーの寝室に飾ってあったもので、家にはいった者は、誰でもそれを利用できたのです。そして、その時のかの女は、じっと立ったまま動かなかったのです。ただ、だしぬけにアーチのそばに立っているのが見えただけで、そこへ歩いてきたり、またもとの部屋へ歩いて帰るところは見えなかった。証人は時時穴の前を誰かが動くように目先が暗くなったり、明るくなったりしたといいましたが、映画と考えればその理由はうなずけましょう。それからまた、部屋は薄暗かったが、アーチのところは明るかったといっていますが、これも理由のあることで、部屋で動いている時には、人物の顔を見せたくなかったが、アーチのところでは、顔を見せる必要があったので、明るくしたのです。 「つぎに服装の問題ですが、女は水玉模様の服に、水兵のような大きな白い襟をつけ、男はペンキ屋のようなブラウスを着ていたそうですが、これにも理由があるのです。これはどちらも目につきやすい服装です。どうしてこんな服装をさせたかといえば[#「させたかといえば」は底本では「させたかいえば」]、部屋のむこうで動いた人物とアーチで顔を見せる時の人物が、同一人物だということを知らせるためだったのです。顔だけ取りかえることができることは、すでにポールトンがこの写真で実験してごらんにいれた通りです。 「つぎは部屋の照明です。皆さんはあすこにどんな照明がしてあったと思います? 電燈は一つもついていなかったのです。そのかわりC点に、アーク燈につかう炭素棒が落ちていましたから、C点から撮影もし、映写もしたものと考えられるのです。その当時、電気のメートルがあがったのは、アーク燈をつかっていたためなのです。 「それからまた、証人のいう床の穴は、すこし実際とは位置がちがっています。あすこにはガスや電気の線があるので、あんな場所に死体を隠すはずはない。その位置は図面に印をつけときました。では、なぜあんな場所をえらんだでしょう? 理由は簡単です。あの映画は殺人が行われるよりも前にとったのです。ことによると映したのも、実際の殺人よりも前だったかもしれない。犯人はそこに死体を埋めるつもりだったが、実際に床をはずしてみたら、電線やガス管が出てきたので、その時になってはじめて位置を変えたのです。 「最後に第三の見物人――すなわち、毎晩おなじ時刻にあの家の前を通る二人の証人を呼びとめて、あの窓の穴をみせた奇怪な人物は、いまどうしているでしょうか? この男は誰でしょう? どこにいるのでしょう? なんという名の男でしょう? その男がいまこの法廷に傍聴人として坐っていて、自分がおとしいれた二人の被告のための弁護、私のこの弁論を平気できいているとはいえないでしょうか? ところが、皆さん、事実はその通りなのです。そして、それ以上のことは、私の口からはもうしあげられないのです。」  そういって彼が口をつぐむと、場内が不思議な沈黙につつまれ、傍聴人はひそかにあたりを見まわし、陪審員はじろじろと裁判官を見、裁判官もノートから顔をおこして、さぐるような目つきで傍聴人のほうをみた。ふと、私の視線は、ウィックスとそのいいなずけの女におちた。男はまっ蒼になった顔からしたたる汗をふき、女は両手で顔をおって、寒むけに襲われたようにぶるぶる震えている。  この二人に視線をむけたのは私一人ではなかった。傍聴人、廷吏、陪審員、検事、弁護人、裁判官――みな恐れおののくこの二人に目をむけ、法廷そのものが二人に目をそそいでいる感じだった。それでいて法廷は、墓場のような深い沈黙につつまれていた。  それは劇的な瞬間だった。空気に電気がみなぎって、人々が息を殺しているように思われた。そして、おごそかで、無感覚な顔のソーンダイクは、運命と正義の化身のように厳然と立ったまま、しばらくは身動きもせず、ものもいわず、一同が落着くのを待っているもののようだった。しばらくするとまた言葉をつづけた。 「最後に私はこの犯罪の動機について一口もうしあげます。博識な検事は、被告人の犯罪動機は、結婚の邪魔者をとりのぞくためだったといわれましたが、じつはルーシー・ブランドを亡きものにする、もっと強い、もっと決定的な動機をもつ人間がいるのです。皆さんもお聞きになったと思いますが、ブランドの妻が先に死に、ブランドが後で死んだ場合には、その共同経営者のウィックスは、年六千ポンドの収入にありつける。ところがそのルーシー・ブランドはすでに亡きものとなりました。そのつぎに被告人ブランドが死刑になれば、完全にその条件は充たされて、全部の財産がウィックスのものとなるのです。それは犯罪の動機ですが、技術的に考えてみても、ウィックスは映画の専門家で、映写機の取扱いにもなれており、またローワー・ディットンの家を借りたこともあり、かつまたその婚約者は映画女優なのです。 「結論として、私はブロディーならびにスタントンの証言は、彼らが映画を見ていた証拠であって、その他の証言もみなその事実を証明しているということをもうしあげます。そして、その映画を見せたのは、被告に罪を負わせるのが目的でした。この陰謀には犯人があるにちがいなく、そしてその犯人こそルーシー・ブランドを殺した犯人なのです。もしそうであるなら、私はそうであることを間違いないと思うのですが、二人の被告人はなんの罪も犯していないのですから、当然『無罪』の判決をくだすべきものだと思います。」  ソーンダイクが着席すると、かすかなざわめきが聞えたが、まだ場内の目はウィックスとそのつれの女に注がれていた。やがて二人は立ちあがって、不確かな足どりで、ドアのほうへ出ようとした。だが不意にそのドアから制服の巡査をつれたミラー警視が現れ、彼らの前に立ちふさがって、頭を横にふった。命令を受けているのか、受けていないのか、とにかく彼らは二人が法廷を出るのをこばんだのだ。急に格闘がはじまって、声高い叫声、ピストルが轟いて、ガラスのこわれる音がした。次の瞬間男はミラーに手頸をつかまれて壁に押しつけられ、女は悲鳴をあげながら、巡査を振り放そうとしているのを私は見た。  彼らが二人ともつれ去られると、すぐ公判がつづけられ、検事の答えは簡単で生気をかき、事実上、起訴を放棄したも同様だった。裁判長の口からもれる言葉は、ソーンダイクの弁論を要約したものにすぎず、しだいにその論旨を被告人釈放のほうへもっていった。でも、その必要はなかった。さきほどから成り行きを見ていた陪審員が、『無罪』の評決をくだしてしまったのである。場内の賞賛の声がしずまって、裁判長が被告人にむかってお目出とうというと、ブランドとアネズリーは被告席をはなれ、目をうるませて微笑し、ソーンダイクの手を握りしめて感謝した。 「じつにすばらしい弁論でしたね。分ってしまえば、なんでもないことのように思われるけれど。」メイフィールドはそういって、そっと目をふいた。 底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社    1957(昭和32)年 1月10日初版 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。