秋祭としての侫武多 秋田雨雀 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)東日流《ツガル》由來記 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)騷ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて ------------------------------------------------------- [#3字下げ]一[#「一」は中見出し]  私は今、八甲田山脈を水源地とする淺瀬石川の沿岸の板留といふ小さな温泉浴場の友達の家にゐる。こゝは原始的浴場制度の一部を保存してゐるところで、私達が殆んど三十年間一年も欠かさずに訪ねるなつかしい安息所の一つである。私のこゝへ來たのは八月の八日で、舊暦七月朔日に當り、この日から七日間はこの地方の秋の一般的な喜びの一つである侫武多祭の行はれる時である。侫武多、「ネプタ」は丁度七夕の季節に行はれるのであるが、他の地方の七夕祭とは可なり趣を異にして、特にネプタといふ呼名を有してゐるばかりでなく、ネプタといふ山車に類した人形を製作し、それを持運ぶに特有な囃子や音樂を用ゐるのである。  私はこゝへ來た晩などは、侫武多祭の大鼓や懸聲で殆んど讀書することさへ出來なかつた位ゐだつた。この騷音がこの地方の都會地、即ち青森、弘前の兩市や私の生地の黒石町ばかりでなく、河地「カツチ」といはれてゐるこの暗緑色の溪谷の中にまでも響いて來るほどこの地方の侫武多祭は一般的なものである。溪音と共鳴し、山に響き、ドンードコードンードコと打たれる太鼓の音に送られて、明く蝋燭を燈された原始的な色に彩色された倭武多人形の練歩く樣は、私達の心をも跳らせないでは置かない。季節祭の土地の人々に與へる喜びは、殆んど他から想像し難いものである。私は甞つてエロシエンコ君とロシアの季節祭に關する民謠を讀んだことがあるが、それらの季節祭や民謠によつて、荒野に住む農民達が何んなに大きな喜びを感じたことであらうと想像した。津輕地方の侫武多祭はこれほど地方的に一般的でもあり、特殊な興味を持つてゐながら、中央には殆んど知られてゐないのが不思議な位である。私の知つてゐる範圍では、岡本綺堂氏の「貞任宗任」によつて僅かに侫武多の存在が知られてゐるに過ぎないのである。 [#3字下げ]二[#「二」は中見出し]  私は「秋祭」としての侫武多と言つたが、嚴密にいへば、この地方のやうに遲く夏の季節になる土地にとつては、「夏祭」といつた方が適切のやうである。長い間の雪の中から顏を出す土地の喜び、暖い期節をむさぼる樂しみ、稻作や畑作のみのりを持つ喜び、そこから季節の祭が生れて來る。侫武多祭、盆踊、岩木詣(御山參詣)の年中行事がかくして行はれるのである。一個のインテレゲンツイアとしての私に、年毎にこの季節祭の意味が解つて來るやうな氣がする。騷ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる農民や子供達のすることをじつとして見てゐると、私は涙ぐましい氣持さへされる、然しその氣持がよく解る頃には私はその人達と一緒に騷げない不幸な人間になつてゐた。 「侫武多」に關する古い記録が三四あるのを私は記憶してゐる、然し今日まで「侫武多」の沿革に就いて私達に正確な智識を與へるものは一つもないといつていゝ。第一「ネプタ」といふ言葉の語原からして不明である。アイヌ語説が一番有力であるが、それも正確なものではないらしい。漢字の侫武多は弘前地方でつけた當字に過ぎない。秋田地方で「ねむの木」を「ネプタ」と言つてゐるが、このねむの木と津輕地方のネプタ祭と關係があるとも思はれない。然も秋田地方の七夕祭は青竹の上に細い紙片を垂れる單純な七夕祭の形式に過ぎない。但し侫武多祭の七日目、即ち人形を河へ流す日にねむの木を用ゐたといふ傳説でもありはしないかといふのは、僅かばかりの考證の興味をつないでゐる。侫武多を流す時唄ふ歌――  ネプタ流れろ、豆の葉さととつぱれ(止れの意)  の意味に就いても、昔から臆説が澤山にあつて、例のアイヌ族征服の時の合言葉であるといふのなぞは、全く信じ難いものであるが、侫武多祭の起原が、大和民族がアイヌ族征服の一方便に使はれたといふ説だけはあらゆる記録に共通した傳説のやうである。  この温泉場に滯在してゐる老教師工藤競氏(弘前の人で長い以前私の生地の黒石に教師をしてゐた人)の所持してゐる「東日流《ツガル》由來記」といふ本では、侫武多の由來を田村麿將軍が夷(アイヌ)の主領である大丈丸《オホタケマル》を征伐する時に敵をおびき出す方便に使用したのがその起原であるとしてある。面白いことには田村將軍が侫武多人形の中に大勢の伏兵を入れて置いたといふことはトロイの木馬を思出させるやうな物語である。一體この大丈丸という人間は何んな人間であるかゞ私には興味がある。由來記では大勢のアイヌを引率してゐる和人のやうに記されてあるが、記述の模樣では、安倍、藤原族のやうに、大和民族とアイヌ族との接觸面に生れた混血兒らしく思はれる。他の記録ではこの人物は武勇に秀でたアイヌの酋長とされてゐるのでもこの人物が何者であるかゞぼゞ想像することが出來る。  この偉丈夫は殆んど山嶽だけを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて鈴ヶ山、日光山等を經て、津輕地方の阿舍羅山(大鰐温泉の近く)に隱れてアイヌ族を手下として盛んに略奪をしてゐたのであつた。そこで征服民族の使節である田村將軍がこの敵を追ふて津輕の地へ來たのである。田村將軍の軍勢に攻めたてられた大丈丸は阿舍羅山の根據地をすてゝ平内山(今の淺虫温泉の傍)に立籠ることになつた。こゝは三方は山に圍まれ前は海に面してゐるので田村將軍の軍勢が何うしても近寄ることが出來なかつた。その時一人の家來が大きな侫武多人形を造つて敵をおびき出すことを獻策した。即ち幾艘もの船に侫武多人形を乘せ、その中に兵士を入れ、笛太鼓で囃し立てたのである。大丈丸はその音にさそはれて大勢の家來をつれて海邊へ出て來たのを、侫武多人形の中に隱れてゐた兵士が一勢に上陸してアイヌ族の兵士を、刺殺したので、大丈丸は單身逃れて猿賀の土地(私の生地の近く)で殺されてしまつたといふのである。由來記では、侫武多流しの囃子歌は、 [#ここから2字下げ] ネプタ流れよ、その間に切り出せ。 [#ここで字下げ終わり] といふのだと説明してある。  これ等の傳説は何處からまた何時頃から行はれて來たか不明であるが傳説として見て可なり面白いものだと思ふ。 [#3字下げ]三[#「三」は中見出し]  侫武多人形の製作は年々拙劣になつて來ると、私は言つたが、この人形の製作は私の十五六歳位ゐの頃までは隨分精巧なものがあつた。今から考へると立派な民衆藝術といつていゝやうな性質さへ持つてゐたやうである。前に一寸記したやうにこの人形は大體の形は山車に類したものであるが、骨組は竹で編まれて、その上に紙を張り單色の赤青、紫なぞで彩色が施され、その上を蝋で塗りつぶしたもので、夜になると中に無數の蝋燭が燈されるので、その美しさは一寸形容することがむづかしい。僅かに、東京の萬燈によつてその性質が想像される位ゐである。  三つの都會、即ち青森、弘前、黒石によつて、侫武多人形の製作の特質が別れてゐる。最も早く發達したものは藩の所在地である弘前で、この町では殆ど專門の侫武多製作家があつた位ゐである。然し弘前の侫武多は、誤つた尚武思想皷吹の結果、これを單純な民衆娯樂乃至は民衆藝術と見ないで、下町と上町の爭鬪の道具にされたために、人形製作の技術が黒石、青森地方よりも劣るやうな結果を産んだ。青森は比較的近代に發達した商業都市だけに侫武多人形の取材は全く近代的で、多くは歌舞伎芝居を材料にしてゐる。その中間に位ゐしてゐる黒石は弘前ほど殺伐ではなく、青森ほど近代的でもなく、僅かに侫武多人形の本質を保存してゐるけれども、近來は次第にその製作の欲望を失つて來てゐる、經濟的に微力であるのもその一つの理由かも知れない。侫武多人形の材料が三國誌的武勇傳から、修羅八荒や、呑氣な父さんや、正ちやん物語なぞに變つて來た時に、この古い東北の季節祭の一つの姿が次第に失はれかけてゐるのを感ぜさせられる――然し何も考へずにあゝして太皷を叩いたり、鐘をたたいたりして面白さうに練り歩く人々の姿を見てゐると、私はたゞ涙ぐましくなる。(一九二六、八、一七) 底本:「文藝春秋 十月號」文藝春秋社    1926(大正15)年10月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「太鼓」と「太皷」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。