アイヌ民族に就いて ジョン・バチヱラー ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)きづ[#「きづ」に傍点] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)にこ/\と -------------------------------------------------------  私が初めて北海道函館へまゐりましたのは明治十年、丁度西南戦争のあつた時で、今から六十二年前の事です。  函館へ来てから、日本人の友達が、此奥にアイヌといつて犬と日本娘のアイノ子が居ます。彼等は身体いつぱいに毛がはえてゐて、乱暴で教育もなく、宗教もなく、真に恐ろしい民族ですと申しました。私は好奇心と同情心を以つて必らず其アイヌ民族の中に入つて研究し、又助けたいと決心致しました。  さてアイヌ民族の中に入つて見ますと、尻尾のある人は一人も見えません。又心も優しく正直で、低い迷信的ではありますが宗教さへ持つてゐました。アイヌ部落にはいつて第一に驚いた事は、婦人の入墨でした。口の廻り、手、腕、と模様をつけて紺色に染めて、丁度日本人のお歯黒の様でしたのが、あまり美しいとは思ひませんでした。其入墨の意味はよくわかりませんが多分「トライブ」を知らせるためと思はれました。女の子が五歳位になると、ナイフで少しづつきづ[#「きづ」に傍点]をつけて入墨をするのですが、随分痛い様でした。性質は前に述べた様におとなしく親切でしたが、仲に一人のお婆さんがゐて、此人は髪も櫛けづらず蓬々として顔も恐ろしく、私が泊る事をいやがつて、私が行くと常に背を向けてゐました。それで私はある時町へ行つて少しの砂糖と煙草を買つて来て与へましたら、お婆さんは急ににこ/\としていやがらなくなりましたので、アイヌ語の勉強も伝道への道も仕やすくなりました。其時或日本人が私に申しますに、バチヱラーさん、貴君はアイヌ人を餅を持つてなづけ、私達は鞭を持つて進みますと申しました。おもしろい思出です。  さて此時分、私の這入つてゐたアイヌ部落には、大和民族は一人も居りませず、食物はアイヌの畑に作る、粟とか、いもの外何もありませんでした。鶏もをりません、玉子もありません、時たま熊の肉、兎や鹿の肉を少々たべるばかりで私の身体は弱つてしまつて、函館まで馬で運ばれて養生した事もあります。  アイヌの習慣として、朝起きるとまづ第一に「炉」の火を神として拝します。常に使ふ火は「あベ」と申しますが、拝む時は其火の中の霊を神として「ふじ」と申して拝むのです。「ふじ」とは「先祖の神お祖母様」といふ意味で、「炉」の火ばかりでなく噴火山の火も神「ふじ」として拝むのです。故に日本国のふじは、昔アイヌ人が蝦夷と云はれた時分あの美くしい山を見て「あゝ之こそ我等の最も尊敬する御先祖お祖母様なるふじである」と拝んだものと思ひます。其他アイヌ民族が大和民族の先住民族であると云はれる節々は、日本国のいたる処、本島、九州、北海道、カラフトまでに及んで、其地名をアイヌ語に解して、はじめて意味のわかるものが沢山あります。  即ち九州の「阿蘇山」をアイヌ語に訳すと「燃える炉」の謂となり、信州の浅間山を訳すと「底なき山」となります。昔から今に至るまでの長い間、度々噴火して灰を出してもなほつきない底なしの事を云ふのです。北海道の「うす」といふ所は多くの入海のある場所の謂で、カラフトの「ノツトオロ」は「崎」の意味、カムチヤツカの「アワチン山」は「兄弟」の意味で此の山は二つ並んで立つてゐます。又札幌より三里隔てた「パラト」と云ふ処は「広い幅のある沼」、シベリヤのギリヤークのをつた所は「パラトオンカ」といつて札幌のパラトの複数で、川の処々に沢山沼があるの意、之は丁度利根川と同じ意味になります。之等の事の外アイヌ民族が大和民族の先住民であつたといふ事は、神武天皇様の御時蝦夷征伐をなされた歴史によつても明かであります。然して此アイヌ民族はどこから来たかといふ事は其言葉によつて見て、寒い場所からであると信じられます。即ちアイヌ人が互にいとまごひをする時に「サラパホツケノ、オカイヤン」と申します。之は「暖かにいらつしやいませ」と云ふ事で、もう一つ言葉をくわへて「イゝヤイコイルシヤレ」と申します。之は「自分の毛衣をよくまとつて下さい」の意味です。両方とも寒い国に居て用ふる言葉で、印度の様に暑い国に用ふる言葉ではありません。  只今ではアイヌ民族は僅かに一万五千人を数へ、中にも大和民族と混血して純粋のアイヌ民族はほんとに僅になつてしまひました。大和民族がだん/\に進出して来て、学問もなく文字さへないアイヌ民族は衛生思想も無く、病気に罹つても迷信的なまじなひの様なものしかないので、だん/\へつていくばかりでなく、昔の大和民族で北海道に渡つて来る様な人は仲々悪い人がゐて、酒一升で何反という土地をアイヌから取上げたために、物質的にもアイヌはだんだん苦しまなければならない事になりました。只今では幸ひ日本政府の暖い手に守られて、小学校も大和民族と共に学ぶ事の出来る様になつた事は喜ぶべき事と思ひます。  さて又アイヌ民族の宗教に就いて申しますなら、前にも述べた通り火をふじとして拝む事は其「炉の火」の霊なる神は常に自分たちを見守つて、日々の行と言葉を聞いて、死んで後に其人々の裁判人となると思つてゐます。故にアイヌの小屋に入つてはまづ炉の前にうや/\しくして居なければなりません。又此火の女神の外に夫たる神「ヱナシ」といふ「イナホ」を作つて小屋の北東の隅に立てて拝みます。「ヱナシ」と云ふのは「男の先祖」の意味です。其外狩に行く時は、必ずまづ第一に其の山の大きい木を一本選んでその霊をうやうやしく拝んでそれを狩の間中の守神と致します。此の神は、狩人の狩の間中共に歩いて怪我の無い様に、又よく狩のある様に見て下さる神と思つてゐます。漁の時も漁師はまず初めに大きい魚を拝んで此霊に漁の事を守つてもらふのです。又誰れでも知つてゐるアイヌの熊祭りは熊は動物の中で一番強いものと思つてゐますから、之を育て其血をのみ、肉を食ふ事は、大いなる神と交る喜ばしい事と信じ、其強い力を自分たちに与へられると信じてゐるのです。アイヌの女は男ほど常に信仰を持ちません。只時々小屋の東の窓の外に祭つてある「ヌサ」の前に粟酒や食物を供へて拝むだけです。  其外いろ/\と面白い思出は沢山ありますが、之で筆をとめます。たゞ私の今迄した仕事について申し上げてみますと、明治十年に来て十三年までは、独立に自分の勝手にアイヌの研究と伝道を致しましたが、十三年の末ロンドンのCMS会に入つて、北海道に聖公会が出来た時、長老となり、明治二十六年に札幌に住居し、明治三十一年にアイヌ女子学校を作り、明治四十四年にはウスに婦人会を家内が作りました。  大正二年に大洪水があつた時、十六人のムカワのアイヌの娘をひきとつて裁縫を教へ、大正十三年に札幌でアイヌ男子学園を作り、昭和元年にはじめて今のバチヱラー学園を作る事が出来たのです。  只今は六十二年間の研究の結果得た、アイヌ語日本語英語の字典の校正のため東京へまゐりました次第であります。  私の今迄長い間日本に居た中で第一に心に感じた事は明治四十三年四月二十五日 [#天付き]明治天皇陛下に拝謁を得た時の事で、真に喜ばしい日でありました。 [#地付き](十三、五、五) [#地付き]『文芸春秋』十三年六月号 底本:「《復録》日本大雑誌 昭和戦中編」流動出版    1979(昭和54)年12月10日改装初版 入力:sogo 校正: ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。