キューピー投手 橋爪健 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)向陵《こうりょう》小学校 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)母子三人|喰《た》べる [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#4字下げ]一[#「一」は中見出し] -------------------------------------------------------  キューピー投手!  そう云えば、少し野球の好きな人なら誰でもすぐ、「ああ、あの向陵《こうりょう》小学校の左利き投手か」とうなずくくらい、それほど名のひびいている竹下悦二。 東都少年野球界の麒麟児《きりんじ》!  小粒ながら末怖ろしい怪腕投手!  そういう称讃の声は、彼が今年の全日本少年野球大会にも見事優勝の栄冠を奪いつづけた事によって、ますます高くなったのである。  彼は今、尋常六年、やがてはどこかの中学か商業に進んで、二三年後には天晴《あっぱれ》甲子園の花形たるべき洋々たる前途が輝いている。そのため、××中学とか、○○実業とかいう、野球の強い学校では、ぜひとも竹下少年を吾校に引張りこんで、甲子園の覇権を握ろうと、躍起の争奪戦を演じているということだ。  が、このような天才選手にも、これまでに鍛えあげるには、人知れぬ苦しい悲しい道があったのである。 「キューピー投手!」  この可愛らしい綽名《あだな》は、知らない人が聞くと、クリクリと大きな目をした愛らしい竹下少年の姿から呼ばれていると思うかもしれない。が、それどころではない。この可愛らしい綽名の謂《いわ》れには、彼の血の出るような苦闘の物語が秘められているのである。 [#4字下げ]一[#「一」は中見出し]  去年の夏。  第×回全日本少年野球大会の日が刻々に近づいてくる頃であった。三四日うちには、その関東予選大会が始まるというので、悦二は毎日おそくまで猛練習をやっていた。  夕方、疲れ切って帰ってくると、母親のやさしい顔と、おいしい夕御飯が待っている。 「どうだったえ? 今日の模様は……」  母が、御飯をよそいながら心配げに訊くのは、きまって野球の事だった。 「うん、お母さん、僕、とても肩の工合が良くってね、今日もコーチャーの銭岡《ぜにおか》さんに褒《ほ》められましたよ。その分なら、予選大会なんか屁《へ》でもないって……」  悦二は左手《ゆんで》のお茶碗をふり廻しながら、元気よく云った。 「まア、そうかい。予選にだけでも勝っておくれだと、ほんとに嬉しい……」  そう云って、母親は楽しそうに吾子の逞ましい腕に見惚《みと》れるのである。  母親は、野球が大好きである。規則も何も知らないけれど、ただ好きなのである。なぜって、可愛い可愛い唯一人の男の子の悦二が、御飯よりも好きなのは野球なのだから、その野球まで好きで可愛くてたまらないのである。  ことに、去年父親が僅かなお金を残してなくなってからは、女手一つで一家を支え、悦二とその妹の九つになる娘を養っている勝気な母親にとって、学問によらず運動によらず吾子をほかの子に敗けさせては置けなかった。 「片親無いと云って、人に敗けたり馬鹿《ばか》にされたりしてはいけないよ。学校の勉強さえしっかりやってくれたら、お前の好きな運動をなんでも自由にやるがいい」  そう云って、悦二を励ますのだった。  悦二も、その母親の負けん気をうけついで、学校の成績も五六番と下ったことはないばかりか、野球では、早くも稀代の天才を現わすようになったのである。  ある時など、「前途有望なる少年投手」という題で、ある新聞の運動欄の片隅に小さく、悦二の事が出た折などは、母親は涙を流して喜んだ。 「あり難いあり難い。お蔭であたしも亡くなったお父さんへの申訳がたつよ。お父さんの名前なんか一度だって新聞に出たことがないのにねえ、お前は……」  そのような母親の慈愛と激励とに包まれて、悦二はグングン育ってきたのである。 [#4字下げ]二[#「二」は中見出し]  ところが、そんな元気に悦二を育てて来た母親が、このごろ急に弱ってきたのである。  もう五十の坂を越した年のせいもあろうが、それよりも、女手一つの家の暮しが、母親を疲らしたのであろう。亡き夫の残してくれた千円足らずの退職慰労金は、この一年あまりの暮しで残り少なになってきた。もう二三ヶ月もすれば、子供を学校へやることはおろか、母子三人|喰《た》べることもできなくなる。  それを心配した母親は、このごろ、本職の針仕事のほかに、内職の夜業《よなべ》を始めていた。  それは、セルロイドのキューピー人形の色つけである、これは火が危いので大てい工場へ通ってやる内職であるが、工場へ通えない母親は、無理に頼んで、吾家へ持って来させて貰った。  まだ目鼻も何も描いてない裸のキューピーさんを山のように積んでおいて、一つずつ顔を彩色してゆくのである。それが、十個かいても一銭五厘にしかならない。百個かいてやっと十五銭。一晩に二百個も描くのは、老いた母親にとっては、なかなかつらい仕事である。  それに、昼間のうちは、二人の子供の事や家の事をやる暇をみては、注文の着物を仕立てなければならない。だから、夜なべにかかるころには、母親のからだはすっかり疲れ切ってしまうのである。 「お母さんはこの頃なんだかすっかり弱くなってしもうたようだ。こんな楽な仕事でも、二時間つづけてやるのに骨が折れるよ」  そう云い云いしながらも、精出して働く母親であった。 「どうも近ごろ目がわるくなったらしい。夜、電気の光で色を睨《にら》んでいるせいか……。まだそんなお婆《ばあ》さんでもないのに、このごろは針のメドも通らないことがあるよ」  ある晩、母親がさびしそうに云うのを聞いて、悦二はもう我慢できなくなった。 「ね、お母さん。これから僕にやらしてみてくださいな。あんな色つけぐらい僕にだって出来るかも知れないもの」  そう云って母親の膝《ひざ》に手をかけた。母親は、その手をとって眺めながら、 「いいえ、悦二や。おまえにはこんなに立派な手があるんだもの。こんなつまらない仕事なぞしないで、一生懸命に自分の事をやらなければいけないよ。お前のやさしい心は有難いけれど、それよりもお前が勉強や野球に精出して一日も早く立派な男になってくれた方が、お母さんはどんなに嬉しいか判らないんだよ。お母さんのことは、一寸《ちょっと》も心配おしでないよ」  そう云われると、親思いの悦二は、なおさらたまらなくなった。毎日野球の練習をすまして疲れきって家に帰る悦二は、夕飯後二時間ばかりの予習復習がやっとである。九時の時計が鳴ると、もう眠くて眠くて、がまんにも起きていられない。悦二を寝かせてしまうと、ようやく母親の内職が始まるので、悦二はまだ一度もそれを見た事がなかった。唯、奥の狭い納戸《なんど》に、大きな籠《かご》に入ったキューピー人形の山があるのを見て知っているだけである。  その晩、悦二は決心して床へはいった。すぐにもウトウトとしてくる瞼《まぶた》を両手でしっかり開けながら、じっと納戸の様子に耳を済ませていた。  時々、カサリ、カサリ、という音が聞えてくる。色つけをしたキューピーが籠の中へ投げこまれる音であろう。それを、一つ、二つ、三つ……と数えているうちに、いつのまにか怺《こら》えきれずにウトウトッとする。そのたびに、腿《もも》をつねったり、深呼吸をしたりして眼をさましていようとしたが、十一時の時計を夢うつつに聞いてからは、とうとう眠りに落ちてしまった。  やがて、カタッという物音がしたので、愕《おどろ》いて目をあけると、丁度母親が床に就こうとしている。すっかり疲れはてたように、力なく寝倒れると、すぐにかすかな鼾声《いびきごえ》が洩れてきた。  その姿を一目見るや、悦二は睡気もなにも忘れて胸をふるわせた。 (ああ、お母さん! 済みません。済みません。僕のために、そんなにしてまで働いて下さるなんて……。ああ、僕は今までなんにも知らなかった。よし! これからは僕もソッと働いてあげよう)  悦二はソッと起きて納戸へ行ってみた。スイッチをひねると、うす暗い十燭の電灯に照らされた部屋の中には、キューピー人形が山のように積まれてある。絵の具や絵筆も使ったままになっている。お母さんはきっと片づける力もなく寝てしまうのだろう……。  悦二は絵筆をとった。そして、一生懸命に母親の描きかたを真似《まね》て、一つ一つ丹念に彩色しだした。  やってみると面白い。木乃伊《ミイラ》のようなセルロイドの人形が、次から次へ生々《いきいき》とした可愛らしい福の神になってゆく。  十、十五、二十……と心に算《かぞ》えながらやっているうちに、柱時計がチーンと鳴った。 「おや、もう一時だ……」  悦二は思わず呟《つぶや》いた。こんな真夜中に起きていた事は初めてだ。あたりはシインと寝静まって、電車の音もきこえなくなった。悦二は、云い知れぬ淋しさと嬉しさとを同時に感じながら、なおも十ばかり描いた。みんなで五十描き終った時には、さすがの悦二も、再び襲ってきた睡魔にいたたまれなくなって、ソッと寝床へ帰った。  母親は何もしらずにグッスリ寝こんでいるらしかった。 [#4字下げ]三[#「三」は中見出し]  「悦二や! 悦二や!」  呼び起されたが、眠くてたまらない。二度も三度も呼ばれて、やっと目をさますと、夜はもうすっかり明けはなれている。 「悦二や。どうしたの? 今日はなんだかひどく眠そうだね。ゆうべ眠れなかったのかい?」 「いいえ、よオく眠れたんだけれど……」 ハッと思いながら、母親の顔を見守ったが、母親は別に何も気がついていないらしい。それどころか、今朝の母親はなんとなく元気がいい。母親は毎晩機械的に手を動かしてキューピーを塗りながら、ほかの事を考えているので、ただ仕上げの人形が籠の中にたまるのを楽しみにして、やがて寝てしまう。そして、朝になってゆうべの仕上げを数えるのであった。  その日の夕方、悦二が帰ってくると、母親は嬉しそうにこう云った。 「悦二や。よろこんでおくれ。お母さんは、思ったより達者なんだよ。ゆうべは、二時間あまりのうちに、いつもの三分の一も余計に仕事をしましたよ。まだまだお母さんは老ぼれたくないものね」  悦二は黙っていた。が、嬉しさが咽喉《のど》までこみあげた。 「なんていたわしいお母さんだろう! もっと精出して楽をさせてあげなければ……」  おなかの中で、そう考えた。  その晩も、時計が十一時を打ってから間もなく母親が寝てしまうのを見すまして、ソッと抜けだして仕事を始めた。  こうして、二日、三日と経つうちに、さすが健康な悦二もたまらなくなってきた。一時に寝て遅くとも六時に起こされるのだから、いつもより三四時間も眠りが足りないのだ。朝起ると、からだは心《しん》まで疲れ切って、頭がなんとなく重い。目がかすんでいる。  それでも、まけん気の彼は、元気に登校して、放課後は欠さずグラウンドへ出る。  その頃はもう野球大会の予選がボツボツ始まっていた。尋常五年で向陵小学の正投手にされた悦二は、疲れた身躯《からだ》をふるい立てて、一回戦、二回戦と、むらがる敵を征服して行った。 「今日も勝ったよ、お母さん!」  そう元気に叫びながら家に帰ってくる悦二を、母親は嬉しげに迎えるのだった。  が、ある日、母親は見かねたように云った。 「悦二や。お前このごろ何だか顔いろが悪いようだね。どこか工合が悪いんじゃないかい?」  悦二はハッとした。が、すぐ何げないふうに笑いながら、 「いいえ、お母さん、どこも悪かないんですよ。毎日の連投で疲れてるんだから、一日休めばすぐ直っちゃいますよ」  そう云って、わざと元気を装っていたが、さすがの悦二も、自分ながら烈しい疲れを感じていたのである。  そして、とうとう悪い日が来た。  それは、予選大会の決勝戦の日だった。  母親が吾子の勝利を仏壇に祈っていたとき、急に外から泣声がきこえてきた。 「あッ!」  母親は玄関にとびだした。見ると、シクシク泣いている悦二を、一人の友だちが慰めている。 「悦二! どうしたの? 敗《ま》けたのかい?」  オロオロ声で叫ぶ母の顔をみると、悦二はワッと声をあげて泣き伏した。 「おばさん。敗けたんじゃないんですよ。勝ったんです。やっと勝ったんです。でも……」  と、それも野球選手らしい友だちが、とりなし顔に口を切ったが、ふと云いにくそうに黙ってしまった。 「でも……どうしたんです? 勝ったのなら泣くことなんか無いじゃないの?」  母親は吾子を抱きあげながら云った。涙に濡れた顔は、どこか窶《やつ》れたように見える。 「お母さん……僕、僕、駄目になっちゃったんです。ああ、ああ……」  悦二は、切なげに泣きつづける。 「駄目に? え? どうしたの? ね、あなた話して下さいな」  心配げな母親の催促に、友人の少年は思い切ったように話しだした。 「あのね、おばさん。こうなんですよ。今日の決勝戦にも悦二君が第一投手で出たんだけれどね、身体《からだ》の工合がわるいせいか、とても出来が悪くてね、とうとうノックアウトされちゃったんですよ。そいで、もう少しで敗けるところを、第二投手の時田君が出て救ってくれたんです。そいでね、試合のあとでね、コーチャーの銭岡さんが悦二君を呼んで『君はすっかり駄目になった。球速《スピード》もないし、制球力《コントロール》もなくなった。気の毒だけれど、全国優勝戦には君は休んで貰う。時田君を第一投手にするから』ッて、そう云ったんです。だから……駄目になったってわけじゃないと僕ア思うけど、きっとからだの工合がわるいんでしょうよ」  気の毒そうに云う戦友の話をきいているうちに、母親の両眼からも大粒の涙がポロッとこぼれた。  友だちが帰ってしまうと、母親は悦二を仏壇の前に坐らせて云った。―― 「悦二! お前はまアどうしたッて云うんだね。お母さんがこんなに一生懸命にお前のためを思ってるのに、お前はとうとうお母さんの期待を裏切ってしまったんだね。わたしは悲しいよ。なくなったお父さんに、なんとお詫びしていいかわからない。お前はきっと、誰か悪い友だちとでも悪いものをたべて、からだを壊したのにちがいない。そして、練習も怠っているために、こんな事になってしまったんだ。ああ、お母さんはもうがっかりしてしもうた。……」  母親がこんなに悲しみ怒ったことは、今までに一度だってなかった。  悦二は、じっと唇を噛《か》みしめていた。あとからあとから止めどなく溢《あふ》れでる涙が、ポトポトと畳を鳴らした。 (ああ、お母さん……かんにんして下さい。僕の腕は決して駄目になったんじゃないんです。もっともっとほかの原因があるんです。でも、それを云ってしまうと、お母さんは、きっと僕を止めるでしょう。ああ、僕は……お母さんが衰弱してゆくのを、黙って見てはいられないんですもの……)  心の中でそう云って歯を喰いしばった。  母親はすっかりしおれかえっているらしかった。が、その晩の食膳には、珍らしく鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》が飾られた。  悦二の大好物の鰻飯! が、もう一年近くたべた事がないのだ。悦二の訝《いぶ》かしげな様子を見て、母親はさびしげに笑いながら云った。 「さ、お上り。お前の大好きなものだよ。今まで食べさせてあげることができなかったために、お前の精根を弱らせたのかも知れない。さ、これを食べて、もう一度元気になっておくれ。今月はね、先月にくらべるとキューピーが五円も余計に儲かったんだよ。お母さんも案外|働《はたらき》が鈍らないので、それだけは嬉しいよ」  それを聞くと、悦二はサッと胸が熱くなった。思い切って、自分の秘密をうち明けてしまおうかと思ったが、ふたたびキッと唇を噛みながら、腹の底で叫んだ。 (お母さん! 僕は第一投手をやめさせられて悲しいけれど、お母さんのそういう笑顔を見ると、こんなに嬉しいんです。僕はやっぱりもっと内密《ないしょ》で働きつづけましょう。そして、健康にも注意して、またきっと優勝戦に出られるように練習します!) [#4字下げ]四[#「四」は中見出し]  その晩、床にはいった悦二は、声を噛み殺して啜《すす》り泣いていたが、極度の昂奮《こうふん》と疲労とのために、いつか泣寝入りに眠ってしまった。が、そのうち、ハッと目がさめた。時計が十二時を打っていた。半月ばかりでも、習慣の力は怖ろしい。こんなに疲れていながらも、夜中になると、ふと目がさめるのだ。  彼は、よろめきながら起き上って、納戸へ行った。明日月が変るので、新しいキューピーの山が置かれてあった。  こうして彼は、次の夜も、その次の夜も、一生懸命にその秘密の仕事をつづけて行った。  が、どんなに元気をだしても、からだは益々弱るばかりだった。教室では居眠りばかり出る。いつもあんなにハッキリした頭の悦二が、この頃急にボンヤリしてきたので、先生たちも不審に思っていた。  そのうちにも、神宮球場の全国優勝戦はだんだん迫ってきた。いよいよ、明日、明後日の二日が、その光栄《はえ》ある戦いの日となった晩の事である。  その晩も、悦二は秘密の仕事を欠かさなかった。が、さすがの悦二も、もうすっかりしおれ返っていた。 (ああ、いよいよ明日! 待ちこがれていた明日! だのに俺はとうとう出場できないんだ。ああ、どうしよう……)  そう思いながら、無意識に絵筆を動かしていると、涙があふれてきて、小さなキューピー人形が二つにも三つにもみえる。思わずポタリと零《こぼ》した一雫《ひとしずく》に、絵具がぼやけて、キュービー人形も泣顔だ。  とうとう彼は堪《こら》えられなくなって、絵筆も人形も投出しざま、ワッと泣き倒れた。  そのセンベイ蒲団の上には、つい先刻《さっき》まで坐っていた母親の暖《ぬく》もりが残っている。その匂いに、悦二はなおさら悲しくなった。母親の乳房をさがして泣いた幼い頃から今までの記憶が、一度に胸へ浮びあがった。  彼は、しばらく肩をせきあげて泣いていた。が、まもなく頭がボーッとしてきて、いつかコクリコクリ居眠り出した。  その時、母親の姿が、うしろに立っていた。母親は、真夜中のすすり泣きにふと目をさましたのだ。見ると、そばの悦二の寝床は藻抜《もぬ》けの殻だ。不審に思って、ソッと起きて来てみると! 「おお、悦二!」  けたたましく叫んだ母親の顔は、愕《おどろ》きと喜びとで狂気のようだった。叫び声と一緒に、悦二の身体を抱きあげた。  悦二も、思わず、「あッ」と叫んで眼をみひらいた。涙に濡れたその頬ぺたに、嬰児《あかご》の時のような接吻《くちづけ》が続けざまに投げられた。しばらくは、声も出ない母親。  抱かれた母親の懐で悦二が叫んだ。 「お母さん! 堪忍して! 堪忍して!」 「ああ、悦二や! 堪忍して貰いたいのは、このお母さんだよ。許しておくれ! みんな、みんな解りました。お母さんが悪かった! 許しておくれ!」  滝のような涙が、吾子の頬にふりかかった。 「いいえ、いいえ、僕が悪かったんですよ。お母さん」 「ああ、わたしは嬉しいよ。おまえはそれほどまでにお母さんのことを思ってくれてたんだね。ああ済まないねえ……いじらしいことをしておくれだねえ……ほら、おまえの頬は、こんなに瘠《や》せてしもうた」  そうして、吾子の頻をしみじみと撫でながら―― 「さ……もういいよ。泣かないでね。今夜はもういいから、すぐお寝《やす》み。そして、一晩ぐっすりと眠っておくれ。お母さんはお前の腕を信じているんだよ。よオく眠れば、またきっと立派な球を投げられるようになるに違いない。明日の朝は起さないから、いつまでもゆっくりお寝み! さ……」  母親は悦二を抱きかかえて連れて行った。そして、蒲団や枕の具合を直して、床に入れてやった。  悦二は眠った。半月ぶりで、ぐっすりと眠った。今は、悲しみも心配もなく、円《まど》かな夢に微笑《ほほえ》みながら、のうのうと眠った。  翌朝、目がさめると、もう太陽は明々《あかあか》と輝いていた。久しぶりの十分な睡眠《ねむり》のために、頭はハッキリと冴《さ》え、健康を恢復した総身には、水々しい力があふれていた。 「お母さん! 僕、こうしてはいられない。今日の神宮球場の優勝戦は十時っから始まるんですもの……すぐに……」  悦二の叫びに、待ってましたとばかりの母親―― 「おお、そうとも、そうとも。お母さんも一緒に連れて行って貰おうと思って、ちゃんと仕度して待ってたんだよ。お母さんからも、ぜひ先生にお話して………」  やがて、母子《おやこ》はいそいそと家をとびだした。 [#4字下げ]五[#「五」は中見出し]  神宮球場では、すでに光栄の争覇戦が火蓋を切って落されていた。  抽籤《ちゅうせん》で不戦一勝者組になった向陵小学は、その時ちょうど、東海の雄××小学チームと戟《ほこ》を交えていた。  悦二に代って第一投手になった時田選手は、平凡な右投手であるが、唯一の武器である緩球《スローボール》で三回まで敵の打撃を封じていた。  が、第四回目、敵のベンチ・コーチャーは時田投手の投球ぶりを観破して、俄然、打撃の策戦を変えた。と見るまに、長打短打続出して、たちまち三点を奪ってしまった。五回目に、向陵がやっと二点返したかと思うと、敵はまた楽々と二点入れた。  五対二。  味方の危機は迫った。時田は遂にノックアウトされて、救助投手の島本という新選手が出た。が、それも忽ち乱打されて、一点二点と入れられてゆく。 「いかん! いかん! なんという態《ざま》だ!」  ベンチ・コーチャーの銭岡氏は、まっ青になって地団駄ふんだ。このままでは、どうしたって勝てっこない。……  その時である。突然女の声がして、不意に、選手控席に馳《か》けこんで来た者がある。見ると、五十すぎた老婦人に連れられた竹下悦二だ。 「おお、君は竹下!」  銭岡氏が不審げに立ちあがると、悦二は母親をひっぱりながら云った。 「お母さん、この方が僕らの先生です。……先生……これは僕のお母さん……」  母親はころぶように前へ走りでた。 「あ、先生でございますか。私はこの子の母でございますが……失礼も省みずお邪魔に出ましたわけは……実は……」  そう云って、母親はキューピー人形の事など、手短かに事情を話した。 「そういう次第で、昨夜は充分睡眠をとらせて参りましたから、きっと元通り立派にやってくれる事と存じます。どうぞ、くれぐれもよろしくお願い致します」  声はオロオロとふるえ、目には涙が光っていた。聞いていた銭岡氏は、心の底から感動したように、ツカツカと歩みよって、いきなり老母の手と悦二の肩とを両手にかかえた。 「ああ、そんな事情があったんですか。僕は感激しました。竹下君。そんな事とは知らず、君にも済まなかったね。よろしい! すぐに|肩ならし《ウォーミング》をやってみ給え。良かったら、すぐにも出て貰いたいんだ」  そう云って、自分からミットをとってスタンドの横へ出た。悦二の球は、この四五日前とは見違えるようだった。 「よし! 有難い! すぐに代ってくれたまえ!」  その時、試合は六回の裏がすんで、得点は七対三。ずっと開きが大きくなっていた。  いよいよ七回目。 「よしッ! ラッキイ・セブンだ!」  悦二は心に叫びながらプレートに馳けて行った。敗色にしょげかえっていた味方の選手たちは、日頃力にしていた竹下投手の復活によって、見違えるように奮いたった。  悦二は鬼神のように荒れ廻った。緩急自在、もの凄いインドロップは、たちまちのうちに三者三振に葬ってしまった。  七回以後、敵には一人の一塁《ファースト》を踏む者もなく、それに反して、味方は七回に二点、八回に一点、九回には悦二の三塁打で一挙四点を奪い、遂に十対七の勝利に終った。 「竹下! 有難う! 有難う!」  銭岡氏は悦二の手をとって、男泣きに泣いた。先刻《さっき》の話をきいていた人たちも、みんな目に涙をためながら手を振った。  その時、スタンドの一隅には、涙だらけの母親の顔が、二コニコ微笑んでいた。  こうして、劇的な勝利をかちえた向陵小学は、二勝戦にも、準決勝にも楽々と勝ちつづけ、決勝戦には関西一の強豪○○小学チームを撃破して、遂に月桂冠《げっけいかん》を奪った。それも、みんな唯一人、竹下悦二投手の熱球のたまものであったのは云うまでもない。  キューピー投手!  その可愛らしい綽名は、やがて、その哀《かな》しい物語を知る者にも知らない者にもひとしく呼び讃《たた》えられて、その輝かしい前途を祝福されているのである。 底本:「少年小説大系第27巻 少年短編小説・少年詩集」株式会社三一書房    1996(平成8)年9月30日 第一版第一刷 初出:「少年倶楽部」講談社    1930(昭和5)年3月号 ※「身躯《からだ》」と「身体《からだ》」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正: YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。