六十年の結核菌と鬪ふ ――盞に縁を断たれた生活―― 佐藤垢石 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)鮠《はや》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「嗽」の「口」に代えて「女」、第4水準 2-5-78]葉 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)なか/\ ------------------------------------------------------- [#3字下げ]轉地もまた愉し[#「轉地もまた愉し」は中見出し]  鹽原の山地へきてから、もう半歳以上の月日が過ぎたであらう。このごろ、自分にもはつきりするほどの元氣が出た。  南會津に近いこの溪谷は、吾が健康に叶つてゐると見える。最初は、十三貫足らずの體重であつたのに、最近では十五貫近くになつた。やはり、爲すこともなくたゞぼんやりと、たゞあたりの風景を眺めながら、なんの想ひに煩はされることもなく、明け暮れを送つてゐるためであらうと思ふ。  六月はじめにこゝへきたときは、箒川の流れを掩ふ樹々の新緑が、初夏の陽に燦々としてかゞやいてゐた。平地では、五月はじめに※[#「嗽」の「口」に代えて「女」、第4水準 2-5-78]葉が繙くといふのに、南會津に近いこゝでは氣候が一ヶ月遲れてゐると見える。この景色に接してから、心に清新の彩が蘇るのを覺えたのである。  溪流の湍底には山女魚と、鱒の麗容が泳いでゐた。素晴らしい立派な味である。七月に入ると、鮎と鮠《はや》が釣れた。澄明な水に激する岩に着いた苔を食べてゐるこの川の鮎は、鮮やかな香氣を放つて、人の嗜慾を誘つてやまない。  やがて、秋がきた。たのしいのは、礫の間に小さな眼を光らせてゐる黝黒の衣をつけた鰍《かじか》と、小判形の斑點を染めだした薄紫の袍を纒ふ木の葉山女魚のおしやれ。これ等は、皮を去つたそぎ身の鮮冷と、味噌田樂とが珍味であつた。  山々は、淡紅に黄紅に眞紅の色に掩はれてきた。名にし負ふ鹽原の、もみぢである。樹樹に、朝暾が遍いて眼にまばゆい。  晩秋から、初冬への遷り變りは早やかつた。會津境の高い頂きの方から、西風が吹きはじめると、樹々の葉は毎日々々瀬の面にはらはらと降り續いたのである。昨日まで、あかね色に浮き出してゐた山肌は、俄かに寒山落木の姿に變つた。淵に渦く白泡の間に岩の頭が突つ立つて、それに川鳥の夫婦が呼び合つた。  もう、魚に代つて獸と鳥の季節である。十一月のはじめには、高原山の中腹で撃ちとられた黒熊が、毛皮を着けたまゝ中鹽原へ到着した。熊肉の羹と、味噌漬は素晴らしく珍味である。山鳥の土臭を含んだ肉も、燒いてたべた。向う山の日かげに茂る蒼黒い杉と檜の、こんもりとした林には夕方になると、いつも山鳩の群が里山の方から皈つてきた。  かうして、朝な夕なに時の過ぎて行くのを眺めてゐるのが、私の毎日の日課である。 [#3字下げ]炭中毒で人事不省[#「炭中毒で人事不省」は中見出し]  だが、くる日もくる日も、爲すこともなく考へることもなく、たゞ茫然と暮らしてゐるのが、私の明け暮れであるけれど、これは私にとつて、まことに切ない話であるのである。と、いふのは今年の春、思ひがけなくもこの老躰でありながら、胸を患ひはじめたのを發見し、餘儀なく茲へ轉地してきたゝめであつた。  若いときから、私は滅法界頑丈の方であつた。入院とか、轉地などゝいふことは思ひもよらなかつたのである。  ところが、この二三年來どうしたわけか、醫者に縁が深くなつてきた。やはり、歳を取ると體の組立てに、どこかゆるみが出來てくるものであると思ふ。  先づ、第一囘は一昨年の二月下旬、東大病院物療内科へ入院した。病名は、一酸化炭素中毒といふのである。この中毒の據つてきたるところは、甚だお耻しい。  拙著出版のことについて用事があり、雪晴れのその朝十時ごろ、本郷駒込曙町にさる書肆を訪問したのである。寒氣は、なか/\ひどかつた。用事といふのは、特に私が出かけて參らないでもよろしいのであるが、この出版社の女社長は歳のころ三十五六歳、有名なる美人であることを聞いてゐる。  ことの序といふこともあるから、一見して置かうと考へついた。そこで、寒雪を踏んで訪ねて行つたのである。應接間へ通された。少女の社員が出てきて、社長はまだ出社前であるといふのである。應接間は十疊ほど、暖爐はなく大きな瀬戸火鉢に黒炭を山と盛り、その山の中央に火種が少し載せてある。外の冷たい空氣を遮るために、高窓の硝戸まで固く閉めてあつた。  間もなく、女社長到着。卓子を隔てゝ對面。なるほど、聽きしに優る美人である。而かも、良人に死別後十年いまなほ獨身に處してゐるといふ御述懷に、私の胸は萬感交々である。  茶が出る。晝食には少し早いがといひながら、先刻の少女が天丼を運んでくる。實は、その朝私は少し朝めしが早かつたので、不躾ながら遠慮なくその丼の蓋を取つてみた。種は芝蝦に烏賊らしく、上等の天丼とはいひ難いなどゝ、ひそかに胸で批評いたす。  火鉢の炭は、次第に赤くなつてきたらしい。私の頬は、ほてる。頬のほてるのは、炭火の影響だけではないらしいと反省しても見たが、これは吾が老體の、若さを示すところと、自らに諭しながらイカテンを口にする。美人社長は、わたくし少し持病がありまして、と説明しながら天ぷらを、丼の片隅に箸でつまんで片寄せた。  そこまでは、記憶してゐる。  吾に皈つて、枕元を見ると和服を着た老醫が、あぐらを掻いてある。その老醫が説明するに、あなたは一酸化炭素つまり木炭の火が燃んになりはじめに發するところの毒瓦斯を吸ひ込んで、それに中毒して人事不省に陷つたのであるが、こゝで眼が覺めれば一命には別状ない。と、いふ。  私は直ぐ近所の東大病院物療内科へ運び込まれた。そのときの血壓が、二百廿二。これが、第一囘の入院である。 [#3字下げ]林檎を食ふのも命賭け[#「林檎を食ふのも命賭け」は中見出し]  第二囘の入院は、やはり物療内科であるが、これはその年の十月下旬、林檎の食ひ過ぎと、飮酒の量が身を誤つたためらしい。  彼の女と共に、多摩川上水へ投じて果てた太宰治の兄で青森縣知事をやつてゐる津島文治さんから、關東地方ではまだ紅葉に早いころ、道の奧の秋を探りにこないか、といふ誇ひがあつた。その前年、釣友井伏鱒二がやはり津島知事の案内で陸奧國を一巡した樂しい旅の話をきいてゐるので、私も旅を想ひたつた。  先づ、青森へ着いて直ぐ八甲田山と、そのまはりの勝地へ杖を曳いた。十數年前の初夏、このあたりへ畫家の福田豐四郎等と遊んだことはあるが、秋の景色を眺めるのは、これがはじめてゞある。滿山、錦繍の彩といふのは、このことであらうと驚きの眸を輝やかせた。それから蔦湯へ一泊して奧入瀬溪谷を過ぎ、十和田へ着いて靜かな湖の面に臨む旅宿に着いたころから、いささか風邪の氣味となつた。微熱が出た。しかし、それでも好きな瓶盞は離なさい[#「離なさい」はママ]のである。陸奧國の醇酒は、まことに温良なりと感じながら舌皷を打つ。  下山して、青森から北津輕の牛島の突端へ行つた。蒼い海を隔てゝ對岸は、蝦夷の松前である。素晴らしい眺めだ。しかし、この頃から風邪は次第に重くなつてきた。とはいえ、なか/\盞は離さない。  一旦青森へ歸つて、淺蟲温泉へ泊つた。翌日は、弘前から南津輕の大鰐温泉へ行つた。このあたりは、有名な津輕美人の産地である。風邪にも拘らず温泉に入つては瓶盞に親しみ、また温泉から出ては美女の姿に眺め入つたのである。  最後に案内されたところは、中津輕の涯もなく續く林檎畠の眞ん中であつた。水菓子屋の店頭を飾る林檎とは違ひ、枝を曲げて垂れ下る風景は、たゞ素晴らしいといふほかに言葉がない。私は日ごろ林檎の酸味を好物としてゐないのであるけれど、このときばかりは食つた。淡紅、黄、素青、眞紅。十幾種のそれぞれの種類の異つた大小の果を、數へきれぬほど食つた。それに加ふるに、弘前の銘酒を冷やで味つた。  その夜は、林檎の中心地である黒石の宿で過ごしたが、宵の頃から腹が不平を呟いた。林檎食ひ過ぎの腹痛であることは分つてゐる。しかし、この腹痛を押へて下北半島の恐山へ登り、硫氣孔を覗いたのである。  急いで歸京、直ぐ東大病院へ駈けつけた。そのときは、もう風邪も下痢の方も快方に向つてゐたけれど、血壓計で計つてみると、百九十を超えて二百近かつた。直ぐ、物療内科へ入院。  飮酒を、醫者から固く禁じられた。それでも、私は意志薄弱といふのかグズといふのか、夜八時最後の囘診が終ると、冷やでキュ※※[#判読不可、291-上-9]二三杯一合洋盃で呷つた。 [#3字下げ]結核の宣告下る![#「結核の宣告下る!」は中見出し]  昨年、つまり昭和二十八年一杯は、からだに大した異變はなかつた。  だが、第二囘目の物療内科へ入院中、やはり東大の眼科へ行つて診て貰ふと、既に眼底に出血してゐるといふのである。言ひ替へれば、網膜に輕い腦溢血の症状が、はつきり現れてゐるといふ説明である。けれど、視力やそのほかに自覺症状がないのであるから、そのまゝ手當もしないで家へ歸つたのであるが、釣に行くと左脚に少し歩行困難を感じた。崖や石垣の登り坂は何ともないが、降り坂はいけない。  然るに、今年の三月下旬から四月上旬ころ、聊か風邪の氣味で日ごろ、あれほど大好物の酒を見ても、大して魅力を覺えぬやうになつたのである。友人に會うのも、氣持が進まぬ。漫畫の麻生豐邸へ出入してゐるところの、近所の町醫を招いて診て貰つたところ、これは大したことはない、だが風邪のために咽喉を少し惡くしてゐるから、オーレオマイシンを呑めば直ぐ癒る。と、診斷である。  近時、オーレオマイシンという新藥が輸入されたといふのは、聞いて知つてゐるが、飮むのは今囘がはじめてだ。ところが、その高價なるにはびつくりした。一日四囘服用、二日分で三千圓也。  しかし、藥價のことは兎も角も、速く治ればよろしいと考へて、先づ二日分。神妙な氣持で飮んだが、豫期した効果を示さない。そこで、さらに二日分といふことにして高價な代金を拂つて服用したけれども、さらに驗が現れないので、これはいかんと思つた。合計四日分にして十六囘、首を縊る想ひでこの高價藥を飮んだけれど、さらに効き目を現はさないのは、結局するところ數君の誤診ぢやあるまいか。  また/\、東大物療内科へ駈けつけた。佐佐木博士が痰を檢たところ、怪しいといふのである。先づ、レントゲン室へ入つた。映し出されたところを見ると驚くべし、右胸の乳下に昔の一圓銀貨ほどの空洞ができてゐる。まさしく結核菌に蝕まれた跡である。そして菌は、目下猛威を揮ひ領域を擴張中であることを、はつきりと示してゐる。  博士がいふに、一昨年秋胸部のレントゲン寫眞を撮つたときは、なんの陰影を認めなかつた。立派な健康躰であつた。して見ると、その後いつか菌の侵入を受け、それが繁殖したものらしい。  それについて何か思ひ當るところがあるか、と問ふのであるが、私としては、結核菌に取り憑かれたなどゝは夢のやうな話であると答へた。なにしろ私にとつては、仰天喫怖の診斷であつた。 [#3字下げ]老妻の看視の下に[#「老妻の看視の下に」は中見出し]  いつ何處で、菌の侵入を受けたのであらう、といふ博士の質問であるが、私の素人判斷によれば、結核菌などゝいふものは、無數に空氣中に浮遊してゐるのであらうから、いつどこでそれを呼吸しないとも知れぬ。  それが、躰内で繁殖した場合は、それはその人の運に在るのであらうと考へてゐたから、平素、醉ふと相手の醉人と、まことに不衛生な、いま想へば微笑以上の交驩を敢てしたことがある。それは、轉杯獻酬などと、比べものにならぬ愚かな振舞。  なには兎もあれ、五月三日に入院といふことになつた。これで、物療内科の病室へ御厄介になること、第三囘目である。折柄、廣い東大の構内は新緑に初夏の陽が遍く照り耀いて、病室の窓を爽風が通り抜けた。  今までの、一酸化炭素の中毒や高血壓のときの病院生活と異つて、このたびの覺悟は甚だ嚴肅を必要としたのである。  起臥常住を安靜にして、今までのやうに出鱈目の動作を許さない。萬事規則正しく、酒類を隱れ飮むなどとは飛んでもないこと。病院の言ひつけを守らなければ、自殺にも等しいといふ申し渡しである。私は、それをもつとものことであらうと感じた。  日ごろ、家人や友人の忠告など馬耳東風に聞き流し、不規則な日常を送つてきた私としては、今囘の病院生活は辛かつた。それは、やはり命が惜しいからであるだらう。  ストレプトマイシンを、一週に三囘注射。パラアミノサルチル酸(パスナール)を一日に四囘服用。そのほか、健康囘復を補けるといふ名も知らぬ藥の注射を、一日に一、二囘。そして、榮養物は豐富に攝れといふ達しである。けれども、どんなにおいしい品が膳の上に載つてゐても、なにか寂しい。  それはなにを隱さう、數十年の親友たる瓶盞が、傍らに姿を見せないのであるのを、沁沁と感ずる。  だが、私としては醫者の言葉を、よく守り通した。その結果、經過は甚だよろしい。一ヶ月ばかりで、染色して僅かに菌を認めるといふ状態にまで漕ぎつけた。  もう轉地してもよからうと、佐々木博士はいつた。東大病院に在ること四十三日目で、この公立鹽原病院へやつてきたのである。看護竝に監視、監視といふのは日常我儘放題であつた私に、我儘をさせない使命を持つて老妻が附き添つてきた。迷惑にも感ずるが、ありがたくも感ずるのである。 [#3字下げ]金の切れ目が命の切れ目[#「金の切れ目が命の切れ目」は中見出し]  轉地の許しが出たときに、先づ頭に浮んだのは、信州と甲州の國境に在る標高千三百米の富士見高原療養所である。  もう二十年近くも前、この療養所に今は棋聖となつた少年呉清源が、病と鬪つてゐた。それを私は、秋の半ばと冬の初めに見舞つたことがある。冬の初めに訪問したとき、この病室の窓から眺めた高原の風景は、まことに素晴らしかつた。  この高原の初冬の寒氣は、酷しかつた。にも拘らず、呉清源は袷一校の薄着で日夜窓を開け放し、窓から通ふ寒風に膚を錬へてゐたのである。  そのために、近ごろは病氣の經過が日に増しよろしいと、呉はいふのである。この窓を開け放しにして置くのが、この病院の流儀であるといふ。  しかしながら、當時は頑健な私から考へると、筒抜けの寒風に膚を露すのは、やりきれまいと思つたのである。窓外の庭には、深い霜柱が立つてゐた。  ところが、こゝの院長である正木不如丘博士と私は親友である。飮み仲間であり、釣仲間である。そんな次第であるから、若し富士見高原療養所へ厄介になつたところで、院長に對して我儘をいひ、勝手に振舞つて規律を無視し、鬪病生活を怠る心配があるので、その病の權威者である不如丘には、默つて鹽原へきたのである。  きて見ると、鹽原の山地は富士見高原に劣らぬ健康地であるらしい。先づ細島院長は、東京で映した胸部の段階寫眞を眺めて、なるほどといつて唸つた。若い者は、病氣の進みも早いが、治療も速い。しかし、老人の結核は病の進みが遲々としてゐるけれど、快方に向ふのも遲い。  さて、この寫眞を見ると貴公の病氣は、大分進んでゐる。右の胸の病巣の穴は、なかなか大きい。いつの頃から菌の侵入を受けたか知れないが、早くて一ヶ年、經過によると三四年は鬪病生活を送ると覺悟する必要があるだらう。  病氣の状況、または年齡によつて胸廓整形術、つまり肋骨を截り取つて肺葉の患部を切り除いたり、氣胸療法を行つたりする場合があるのであるけれど、貴公のやうな老人には肋骨を截り取るなどゝいふ荒療治はやれないから、先づ氣永に靜養するのが唯一の救命策であるといふ論告である。  この論告には、ひどくびつくりした。どんなにひどい肺病にしたところが、三四ヶ月か重くて半年も辛抱してゐれば、退院して吾が家へ歸れることゝ思つてゐたからである。それなのに、短かくて一年、重ければ三四年は病院生活を覺悟する必要があるといふのであるから、これは大事件であると思つた。  どこの病院でも、たゞでは面倒みてくれない。莫大なる費用が掛るのは、當り前である。それが一年以上、三四年も入院生活を送らねばならぬといふのに、それに堪へられるだけの資力が、自分にあるだらうか。あゝ、心細い。昔から、肺癆は金の終るときが、生命の終るときだ。と、聽いてゐるが、まさに俺はその運命にめぐり合せた。  二三日考へ込んだ。熱が出た。けれども、四五日過ぎると、諦めも出た。越し方を振り返ると、自分はこの老年になるまで、飮み度い放題、仕度い放題のことをやつてきた。それなのに、いまなほ命が惜しいは未練がましい。男らしくもない。金がなくなつたときは、冥土へ行く日がきたわけだ。  かう、思ふことができると、だいぶ氣持が樂になつた。熱も下つた。 [#3字下げ]日本に充滿する結核患者[#「日本に充滿する結核患者」は中見出し]  病院生活をはじめてから、もう七ヶ月半ばかりになる。ところで、このごろでは入院當時に心痛したとは違ひ、病氣の進行は停止し、快方に向つてゐるらしい。  醫師の話では、貴老の躰内に結核菌が忍び込んだのは、近年のことではないかも知れない。  この東大内科で映したエックス線寫眞を見ると、右胸の下部に極めて小さな白點が現れてゐる。これは、老が未だ七八歳の少年のころ結核菌が侵入して、こゝに巣くつた痕跡を示すものであるだらう。それが、その後躰力の盛んなために壓迫されて、今日まで勢威を伸ばす機會にめぐり會はないでゐたところ、近年老の躰力が衰へたのにつけ込み、繁殖してきたものであらうと思はれる。かういふ説明であつた。  してみると、吾が菌は吾が躰内に潛むこと六七十年に及んだらしいのである。實に、辛抱強い菌ではあるわい。  さらに醫師がいふに、この病氣には壯年型と、老人型とがある。壯年型は病氣の進行が速やかな代りに、菌の減滅も早い。結局、患部が硬化して元の健康に皈り、世に出て働けることになる。ところが、老人性の病は菌の繁殖が遲々としてゐるけれど、菌の減滅と患部の硬化はゆつくりとしてゐる。つまり、丈夫になるのに永い年月を要するといふわけである。  ところで、老の病氣は急激に進行して、速やかに減滅するところの壯年性に屬する。老人性は都會人に多く、壯年性は田舍者に多いのを普通とするから、差し向き老の病氣は田舍型といへるであらう。  右のやうな話である。だが、都會型でも田舍でも、どちらでも構はない。一日も速やかに全快する方が、ありがたい次第である。ああ、安心した。遠からず、また一獻を腑中の蟲に奉ることができると思つて喜んだ。  既に、ストレプトマイシンを注射すること、六十本に及んだ。そこで最近、醫師の方から一旦この邊でストマイを休み、その代りにイソニコチン酸ヒドラヂドと、パスナールを當分の間併用する方針を申し渡された。  先づこの邊で、吾が胸の患ひも先が見えたと喜んだ。人參を買つたために、首を縊らないでも濟むらしい。  ところが、ちかごろ一難去つて一難きたるの現象が襲つてきた。それは、夏以來血壓を計つてみると、百六十から百九十の間を上下してゐる。  酒を盛んに呷つてゐるならば兎も角も、盞に縁を斷つてもう七八ヶ月になる。それなのに、相も變らず血壓が高い。醫師は笑ひながら、胸の方は先づ安心と思つてもよろしいが、血壓の方は油斷ならぬ。  或ひは胸の兎が後になり、腦の龜が先となつて冥土のゴールへ突つ込まないともいひきれん。  これをきいて、酒を斷つてゐるのに、生ま身に溢血が襲つてくるのは辛いと思つた。しかし考へて見ると、吾が母親は一滴の酒も嗜まぬのに、五十二歳の若さにも拘らず、腦卒中に襲はれ發病僅かに四十分で他界してゐる。續いて、伯母も吾が姉も腦溢血で最後を遂げた。  してみると、俺が半年や一年、酒に縁を絶つたところで、グイとくる不思議ではあるまい。これは、なんともいたし方がないと觀念してみると、氣持が大いに樂になつた。卒中なら、一と思ひに昇天の卷だ。  氣持が樂になると、今度は世間のことが惱みの種となつた。それは、醫局の先生方の説や、入院患者諸君の話をきいてみると、いま日本は大へんなことになつてゐるらしい。  最近、日本には三百萬人ほどの結核患者がゐる。ところが近年化學藥品の新發見と、肺葉切除術の進歩のために、今までなら落命に及ぶべき患者がそのため助かつてゐる。けれど、悉くの病人の患部が治癒したわけではない。たゞ、落命しないで生きてゐるだけである。  だから、この分で行くと、なまじ良藥が出現し、醫術が進歩したために、半死半生の病人が國土に充滿する虞れがある。往き會ふ人が、どれもこれも結核患者か。  いつまでたつても、心配ちうものは絶えない、のう。[#地から1字上げ](随筆家) 底本:「文藝春秋 昭和三十年二月号」文藝春秋新社    1955(昭和30)年2月1日発行 入力:sogo 校正: ※拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 YYYY年MM月DD日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。